はてなキーワード: 心理学者とは
誰しもがそういう感覚をある程度は経験しているので、敗北者ではないと思います。
心理学者エリクソンによると、青年期は「自分がどんな人間かということを確立すること(自己同一性の確立)」が課題になります。
なので青年期の恋愛では、男は女の子に対して「自分ってすごいでしょ」ということを誇示することが多々あるそうです。
相手を通して、自分の「自己同一性」を確かめようとしているわけです。
『自分が世間に支持されている』という言葉にあるとおり、『世間』という非常に大きい世界からの評価を欲しているように見えますが、
日本での児童ポルノ規制法改正、アメリカでは児童ポルノ規制はどのように論じられているのでしょうか?
著名なシカゴ学派の経済学者であるミルトン・フリードマンの息子、
経済学者デイビッド・フリードマンのブログ、「Ideas」から、
2012年7月1日の記事、Are Child Sex and Child Porn Substitutes? を紹介します。
↓原文URL
http://daviddfriedman.blogspot.jp/2012/07/are-child-sex-and-child-porn.html
本文を読んでみると作者の提案に日本との一致もあったり.....。
個人的には、アメリカでのポルノ法規制の地域によっての違いや、
チェコでポルノ法が緩和されており、実際に性犯罪発生率が大幅に下がっているということがコメント欄からわかり、
ポルノと性犯罪の関係性の真実より、私たちはポルノを認めないというシグナルを出すほうが大切。”
というコメントがしっくりと来ました。
日本はわざわざ通らなくてもいい道を通ることになるのか・・・。
また、一度児童ポルノを法規制してしまうと、緩和を唱える政治家は現れないであろうということも問題ですね。
※抄訳です。
本文もコメント欄も面白いので原文で是非両方とも読んでください。
本文要旨
”私は最近ニュースで、児童性愛は(おそらく生物学に基づいた、そしてまたおそらく変更できないであろう)
子供を守りたければ、人々に児童性愛を持たせないようにするのではなく、
児童性愛の行動を起こさせないようにするのが明かな結論だろう。
一つの方法としては子供との性交を罰する、ほかの方法としては、
簡単に手に入る代わりの物を作ることだろう。
この世には、かわいい女の子とセックスできない若い男がたくさんいて、
インターネットからのポルノ視聴が増え、レイプの数が減っている証拠もある。
児童性愛者も児童ポルノを見ると、実際の行為に及ばなくなるのではないだろうか?
もしそうならば、今の厳しい児童ポルノ規制は、実際には子供の危険を減らすというよりはむしろ増やしているのではないか?
そのような法律の言い分としてはは児童ポルノの商品そのものが児童への性的虐待であるというものだ。
―だが必ずしもそうではない。
児童ポルノは実際の年よりものすごく若く見える女優をパソコンの技術の助けも使って作ればよい。
間違いなく、そういうポルノを合法化すると児童性愛好者(好みとしての)は増えるだろうがね。
まあ、私の見る限り、法案を提出する真剣な政治家は一人もいないようだけどね。
少なくとも、もしまた立候補するのを予定している政治家なら。”
むしろ、漫画やアニメで児童ポルノを見ている分、より先進的ですね。
また、児童性愛が先天的な特徴であるというのは十分に論理的であると思います。
児童性愛が先天的な特徴であると論じている人は僕は日本のニュースでは見たことはないですが。
これに対してのコメント(16件)は様々で、
いいアイデアだと思えないと言っている人が、
大麻の議論ととても似ているという風に感じてしまう自分の自由主義者の資格が危険だと言っていたり、
私は特に日本では普通だと思いますが、アメリカでこういった発言をブログでするのでさえ思い切ったことなのですね。
清教徒による性への規制にはうんざりだという意見もありました。
反対派の人は
児童性愛が普通と言うならば、あなたの子供を性的虐待で苦しませることに同意するのだろうな
という過激な意見もありました。
”博士の学位をとるために検閲とインターネットについての論文も出した身で言うと、
”児童ポルノ”の定義は州で違うし、町が違うだけでさえ異なる。
いくつかの地域では年齢表示のない写真は合法の年齢の人であっても児童ポルノとして検閲されるし、
ハリーポッターとドラコ・マルフォイのBL(文章のみ)が、子供の性交を描写しているからとして
検閲される。またほかのいくつかの地域では棒人形を書いて”5歳のヌード”とラベルを張ると逮捕される。
君の言うように、再選したい政治家はそういう法案を提出しないだろうね。”
また実際にアメリカではないですが、オーストラリアでは棒人形で逮捕されています。 ←誤り、追記にて訂正しています。
http://www.slate.com/blogs/humannature/2008/12/16/is_this_child_pornography.html
また、他のコメントでのチェコにおける性犯罪とポルノについての論文の引用では日本も挙げられています。
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21116701 ←論文
”児童ポルノが手に入ることと、児童への性的虐待の発生率の低下が関連付けられている論文が少なくとも一つある。
「特筆すべきは(チェコのポルノ法規制緩和後)、デンマークや日本のように児童ポルノの所持が
違法ではない国と同じく児童への性的虐待の発生が大幅な減少が見られたことだ。」”
ポルノと性犯罪の関係性の真実より、私たちはポルノを認めないというシグナルを出すほうが大切。”
また、オハイオ州最高裁のCGによる児童ポルノ合法であるとする2007年の判決が引用されているコメントもあります。
http://www.dispatch.com/content/stories/local/2007/07/26/CHILDPORN.ART_ART_07-26-07_A1_SF7CML1.html
しかし、2008年には連邦の最高裁判所が2003年にできた法律、 ”Protect Act”を維持すると宣言しています。
http://www.nytimes.com/2008/05/20/washington/20scotus.html?_r=0
※Protect Actでは児童ポルノがパソコンで作られたCG、あるいは、人の写真をデジタル加工したものであると判明した場合でも違法となる。
実際には存在しない児童ポルノを嘘をついて提供とするといったときでさえ違法とする法律です。
――初はてな初増田ですので、読みにくい個所、変なところがあればご指摘お願いします。
この駄訳がこんなにも読まれているとは。少し戸惑っています。
日本での児童ポルノ規制法改正、アメリカでは児童ポルノ規制はどのように論じられているのでしょうか?
著名なシカゴ学派の経済学者であるミルトン・フリードマンの息子、
経済学者デイビッド・フリードマンのブログ、「Ideas」から、
2012年7月1日の記事、Are Child Sex and Child Porn Substitutes? の要旨、コメントを抄訳しました。
↓原文URL
http://daviddfriedman.blogspot.jp/2012/07/are-child-sex-and-child-porn.html
本文を読んでみると作者の提案に日本との一致もあったり.....。
個人的には、アメリカでのポルノ法規制の地域によっての違いや、
チェコでポルノ法が緩和されており、実際に性犯罪発生率が大幅に下がっているということがコメント欄からわかり、
ポルノと性犯罪の関係性の真実より、私たちはポルノを認めないというシグナルを出すほうが大切。”
というコメントがしっくりと来ました。
日本はわざわざ通らなくてもいい道を通ることになるのか・・・。
また、一度児童ポルノを法規制してしまうと、緩和を唱える政治家は現れないであろうということも問題ですね。
※抄訳です。
本文もコメント欄も面白いので原文で是非両方とも読んでください。
本文要旨
”私は最近ニュースで、児童性愛は(おそらく生物学に基づいた、そしてまたおそらく変更できないであろう)
子供を守りたければ、人々に児童性愛を持たせないようにするのではなく、
児童性愛の行動を起こさせないようにするのが明かな結論だろう。
一つの方法としては子供との性交を罰する、ほかの方法としては、
簡単に手に入る代わりの物を作ることだろう。
この世には、かわいい女の子とセックスできない若い男がたくさんいて、
インターネットからのポルノ視聴が増え、レイプの数が減っている?証拠※もある。
児童性愛者も児童ポルノを見ると、実際の行為に及ばなくなるのではないだろうか?
もしそうならば、今の厳しい児童ポルノ規制は、実際には子供の危険を減らすというよりはむしろ増やしているのではないか?
そのような法律の言い分としてはは児童ポルノの商品そのものが児童への性的虐待であるというものだ。
―だが必ずしもそうではない。
児童ポルノは実際の年よりものすごく若く見える女優をパソコンの技術の助けも使って作ればよい。
間違いなく、そういうポルノを合法化すると児童性愛好者(好みとしての)は増えるだろうがね。
まあ、私の見る限り、法案を提出する真剣な政治家は一人もいないようだけどね。
少なくとも、もしまた立候補するのを予定している政治家なら。”
むしろ、漫画やアニメで児童ポルノを見ている分、より先進的ですね。
また、児童性愛が先天的な特徴であるというのは十分に論理的であると思います。
児童性愛が先天的な特徴であると論じている人は僕は日本のニュースでは見たことはないですが。
これに対してのコメント(16件)は様々で、
いいアイデアだと思えないと言っている人が、
大麻の議論ととても似ているという風に感じてしまう自分の自由主義者の資格が危険だと言っていたり、
私は特に日本では普通だと思いますが、アメリカでこういった発言をブログでするのでさえ思い切ったことなのですね。
清教徒による性への規制にはうんざりだという意見もありました。
反対派の人は
児童性愛が普通と言うならば、あなたの子供を性的虐待で苦しませることに同意するのだろうな
という過激な意見もありました。
博士の学位をとるために検閲とインターネットについての論文も出した身で言うと、
”児童ポルノ”の定義は州で違うし、町が違うだけでさえ異なる。
いくつかの地域では年齢表示のない写真は合法の年齢の人であっても児童ポルノとして検閲されるし、
ハリーポッターとドラコ・マルフォイのBL(文章のみ)が、子供の性交を描写しているからとして
検閲される。またほかのいくつかの地域では棒人形を書いて”5歳のヌード”とラベルを張ると逮捕される。
君の言うように、再選したい政治家はそういう法案を提出しないだろうね。”
また実際にアメリカではないですが、オーストラリアでは棒人形で逮捕されています。
http://www.slate.com/blogs/humannature/2008/12/16/is_this_child_pornography.html
また、他のコメントでのチェコにおける性犯罪とポルノについての論文の引用では日本も挙げられています。
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21116701
”児童ポルノが手に入ることと、児童への性的虐待の発生率の低下が関連付けられている論文が少なくとも一つある。
「特筆すべきは(チェコのポルノ法規制緩和後)、デンマークや日本のように児童ポルノの所持が
違法ではない国と同じく児童への性的虐待の発生が大幅な減少が見られたことだ。」”
ポルノと性犯罪の関係性の真実より、私たちはポルノを認めないというシグナルを出すほうが大切。”
また、オハイオ州最高裁のCGによる児童ポルノ合法であるとする2007年の判決が引用されているコメントもあります。
http://www.dispatch.com/content/stories/local/2007/07/26/CHILDPORN.ART_ART_07-26-07_A1_SF7CML1.html
しかし、2008年には連邦の最高裁判所が2003年にできた法律、 ”Protect Act”を維持すると宣言しています。
http://www.nytimes.com/2008/05/20/washington/20scotus.html?_r=0
AKB48のことは、もともと別に好きでも嫌いでもなく、しかしそれなりに好奇の視線を向けてはいた。
ところがだんだん気持ち悪さを感じることが多くなってきた。
彼女らに対してというよりはそのシステムやファンの存り方や、そのファンの言動をいちいち取り上げてバカにする声に対して。
それでもまあ、そんなものは2ちゃんまとめブログを読まなくなったことでだいぶ避けることができるようになっていた。
しかしどうしてもスルーできない事件が起きてしまった。あの丸刈り事件だ。
その話題を聞いて、ネットにアップされた丸刈りの女性が泣いて謝る姿を見たとき、とにかく不快な気分や怒りを禁じえない状態に陥った。
ひととおり怒って気持ちが落ち着いてから、今後しばらくは極力AKBの話題をネットなどで見ないように、発言もしないように気をつけようと心に決めた。精神衛生上よくないから。
ところがそうは問屋がおろさないのが現実というもので、翌日には、丸刈り状態で仲間と微笑む彼女の画像とそれを見た誰かの「全然反省してないじゃんw」というコメントが目に飛び込んできて、やっぱりイライラしてしまった。
どうしても情報を避けきれないのだ。それくらい衝撃的な事件だった。
本当に嫌なら見なきゃいいし、ネットに接続しなければいいんだけども。結局私が自らの好奇心に負けてしまっているのだろう。
丸刈り事件のとき、何を不快に思い、何に対して怒りを感じたか説明しようと思ったけど、いろんな負の感情が押し寄せてきて頭が混乱するのでやめておく。
まあ、あの動画を見て楽しい気分になる人はあんまりいないだろう。いるとすれば特殊な性癖の持ち主とか?
さて、あの事件の前にも、AKBメンバーが恋愛禁止ルールをやぶったことで騒ぎになったケースはあった。
この頃すでに、恋愛禁止ルールってなんだよ気持ち悪い、くらいの気分は私の中に存在した。
それと、人間同士を競わせて戦わせ、それを見物して楽しむという構造は、古代ローマ帝国時代のコロッセウムを彷彿とさせる(さすがに殺し合いさせるのとはわけが違うけれど)。まったくもって気分が悪い。
こんなことを言うと、「彼女らは自ら望んでやっているんだ。だから奴隷とは違う」と反論されそうだし、確かにそうだなとも思う。
でもどうして、彼女らはあんな厳しい環境下で競い合う道を選んだのか。
以前テレビで有名な脳科学者だったか心理学者だったかが、「人間はもともと競争するのが好きなのだ」と言っていた。つまり本能的に競争したいから、と言うことはできそうだ。少々乱暴かもしれないが。
見渡せば、世の中競争だらけだ。受験、就職は言わずもがな。メシを食うためモテるため、人々は競争し続けている。
現在私は結婚し、専業主婦(というかほとんどニートに近い。子どもはいない)生活を送っているので、競争からはほとんど降りている。しかし競争から完全に切り離されているわけではない。
まず、夫は世に出て働いている。働くことと競争はほとんどイコールだ(競争とは無縁と思われがちなかつての私の職場でさえ、そうだった)。働いて疲れて帰ってくる夫を支える必要がある(現実にはほとんどそれができていないというのがヘタレな私の現状なのだけれど)。
私が日々享受しているエンターテイメント(マンガ、小説、アニメ、ゲームetc.)は大抵、競争の中で勝ち残ってから私の元へやってくる。
エンターテイメントに限らず、日々消費しているモノにはやはり何らかの競争が関わっている。「どこよりも安い」「売り上げNO.1」といったキャッチフレーズを添えられて。まあそういったキャッチフレーズがついてなくても、モノを売る人間の競争力が関わっていることは間違いない。
そういうわけで、生きている限り、競争とは無縁でいられない。
自給自足の生活でもできれば話は変わってくるけれど、脆弱な私にそんなハードな生活はできそうもない。ていうかできない。
何やら我々が「伝統的子育て」という言葉に踊らされている感があるので
はしょりながら返答するよ。
各人が微妙にイメージの異なる言葉についてごちゃごちゃ言うのも不毛だしさ。
でも、この条例はそういうの認めないだろなー。だって親の愛情(=注意関心手間のかけかた)だけで子どもの問題行動減らそうとか思ってんだもんなー。しねばいいのになー。と、思うのですよ。
基本的なことだけど「愛着形成」ってのがとっても重要だよーとボウルヴィって心理学者が示した。
臨床心理学分野で、愛着が人格形成に多大な影響が云々って事例研究が腐るほどある。
親の愛情だけで問題行動が減るか?という問いに対して、多分減ると答えても構わないレベル。
アプローチする箇所としては、いい線いってると思うのよ。
条例見ると、結構あいまいな支援方法が書いてて(道徳教育がどうとか)、そこも批判点になりそうだ。抽象的でわけわかんねーよと。
でも、俺はむしろあいまいで問題ないと思うのだよ。
何故か。
ほぼ全員の見解が一致してる部分として「子育ては千差万別」ってのがあると思うけど
まさにその通りで、マニュアルが適用できる部分ではあるまい。100人子供がいりゃ、100個の育て方があるだろうさ。
「愛着形成にはこんな意味がある」「親の愛情って超重要です!」というのを学ぶだけでも
むしろそこが狙いだろう。
マニュアルという言葉が悪いのかもしれん。「子曰く…」みたいな、道しるべ的なイメージといえば想像つくだろうか?
で、問題の条例は何というか、マニュアルどおりちゃんとやればはみ出るはずはないみたいなのが大前提になってる感がするのよ。
くどいようだけど、「愛着形成しっかりしようね!基礎基本はこうだから、各人で応用頼む!」的な敢えてあいまいなマニュアルを守れば
少なくとも「小さいころに愛着形成できずに、非行(引きこもり)になっちゃった」ケースは減るんでないかい?
欲を言えば分厚い文書マニュアル渡して「ハイ読んでおいてね」ってんじゃなくて、「こうやったけど上手く行かない」「こうやれって言われてるけど加減が分からない」っていう相談を受け止めて「じゃあこれ試してみて」「加減はね、こんな感じ」みたいなアドバイス渡して、「お子さん元気に育ってますね、いい子ですね。お父さんお母さんの頑張りがあってこそですね」みたいなフォローまでくれるくらい欲しい。
ここには超同意。教えっぱなしで、「出来なかったら親が悪い」とか言い出たらアウトですな。
宗教的経験
カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実的であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。
オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教的経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教的経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。
このように、宗教的経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教的経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。
以下、宗教的経験の検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います。
前述のように、高校三年生のときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想を指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイトに忙殺されていたのです。
そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱。悟りが気になりました。
最終的な解脱・悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己が存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。
不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在が事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。
また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子を指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教やインドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。
前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。
しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体「オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムはほとんど無名の団体でした。)
私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生のときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。
この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書の解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。
このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。
ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。
「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。
突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。
オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル(修行と指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であると確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニーが自然に覚醒したのは、前世のグルの著書を読んだために、修行者だった私の前世の記憶が甦ったからだと思いました。
このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています。
突然の回心は、被験者そのものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。
漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである。
すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。
二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。
この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。
漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。
私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。
このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています。
私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。
オウムの宗教的世界観が現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニーが覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑を広瀬君から感じた。」と法廷証言しています。
こうして、オウム真理教の在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践、ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。
オウムの教義と修行の目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。
教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。
[なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人の日常的な行為はほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死に修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]
また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。
回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますます深まりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。
なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)
なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観が現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです。
現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教的経験」のほうがリアリティがあるのです。
このような宗教的経験の作用について、文献には次のように述べられています。
アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システムを概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋の伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存の宗教を粉飾する。
超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズとフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者と精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。
宗教的経験のコンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神的プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。
(A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験が西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。
(西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九)
(プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間の情報処理を一定の方向に誘導すること)
瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身の感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニーの覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想の伝統によれば、非常に深刻になるものだ。
※「輸血拒否事件」1985年6月に神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。
オウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年に大学生へ向けて書いた手紙(忠告)をまとめました。
Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET
上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして
が挙げられていましたね。同様に
若者の宗教的志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。
と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教を比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしまう人間側の“信仰生成過程の不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまいます。
では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者の宗教的志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?
この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。
ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和~平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年(1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉がTVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災のTVニュースの方が記憶に残っています。しかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体と出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネットで検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分がカルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教や人間の信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています。
この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年に執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学の学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウムが無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教のナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教的経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近、オセロの中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳やマインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルトの存在、洗脳や信仰に対する認知を深めてもらいたいです。
そしてできるなら、FacebookやTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルトの存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)
最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています。
学生の皆様へ
「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。
この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。
オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方から「カルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。
私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います。
カルトに係わる契機
前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトのメンバーとしては、私はオウム真理教の信徒の経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります。
カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱、悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。
しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当な仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。
ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウムの世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実的であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族や学校、会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。
このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。
私自身は、高校三年生のとき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。
このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。
スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています。
一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。
トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観の崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています。
何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。
この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。
「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供を自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆に幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。
自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。
以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います。特に「自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。
その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教の実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学の付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。
哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。
こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。
結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想的なのは、半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。
このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教的経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。
次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。
思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない
人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動は自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”
また、心理学者のウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教や哲学に向かうことを指摘しています(ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫)
「生きる意味」に対する問いが純粋に知的なものならば、それは当人に健全な精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家に相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。
それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。
ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います。
初対面の第一印象を決める情報の割合は、目からの情報が55%、耳からの情報が38%
目からの情報というのは主に身だしなみと表情。耳からの情報は声の質、大きさ、話すテンポ
重要な「話の内容」は、たった7%の割合しか占めていないのです。
しかも、人が「見た目」で第一印象を決定するまでにどのくらいの時間がかかるかというと
たった6秒。声の高低や早口かどうかといった「耳」から情報を足すのがその後10秒くらい。
どうですか?怖くないですか?(笑)
もし、あなたが婚活中や恋人がほしいと思っていて、「自分の外見でなく中身を選んでくれる人を探そう」と
頑なに思っているなら、その考えは変えたほうが賢明です。
あなたの第一印象の93%は、外見と声の調子により、出会って何秒かで決められてしまっています。
そこでハネられてしまっては、自信のある中身を見てもらうチャンスが訪れないのです。
お見合いパーティなどでも、見た目の良い人からカップルが成立していきます。
「見た目ばかりで選んで、あの中には自分にふさわしい相手はいなかった」
と負け惜しむのではなく、まず「中身を見てみようか」と思ってもらえる外見に整えましょう。
いくら「内面重視」とはいえ、わざわざ見てくれの悪い人の中から相手を選ぼうという人はいない、と
自覚することが必要ですね。
回答が見つかってしまったwww (おかしい何度やっても入らない。字数制限?) (的傾向に訂正しておいた)
http://anond.hatelabo.jp/20111008211730
http://logsoku.com/thread/pc11.2ch.net/net/1239615317/ ここのスレにも出てみんな信じてしまってるけど
この文章という情報だけでは、一般読者もドクターも、同じ条件なのに、最後が驚いたという感想がブクマに多いのに驚いた。http://b.hatena.ne.jp/entry/kokoro.squares.net/psyqa1087.html
サトラレは物理的にありえないが、この場合は何とも言えないと思う。
権威主義的な科学者っぽいことを言う人が、ニセ科学リスト作ったら群がる人が多いはずだ
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/DocSeri/20071128/1196234450
この中で>このリストは、機械的にニセ科学を見分けるためのものではない。「リストに載ってないから本物」などという判断は、それ自体科学的ではない。 2010/11/28
と言う人こそ科学的だと思うが、見える範囲では一人しか居ない。これについてはブログに本人も補足してた。この意見を載せていた。( これは、エセ科学を科学的に検証したのではなく、権威はこういうものを嫌ってますよという空気感を綴ったものではなかろうか?とあとで思った )
ドクター林の相談は、小説や読み物としてなら、最後の謎解きとかどんでん返しのようで、面白いのだろうけど、そういう受けを狙った怪しいラベリングでしかないと思う。
文章を見た時点で持ってる情報は、ドクターも読者も同じはずなのに、読者は、ドクターなら文を見ただけで判断できる情報を持っていると錯覚しているし、本人もそれを狙ってやっているのではないか?
それこそ、エセ心理学みたいw 小説なんかでは、目がどっちに流れたらウソを話している可能性が高いだの、顔に手をやったらどうのこうとか、心理学者が分析まがいの事をやるシーンも出てくるが、あれは小説だから!フィクションだから! 多少はそういうものを調査したり統計取ったり実験したりして、それに基づいてるものもあっても、統計には例外があるし決め付けられるものではない。 民間で資料としてマーケッティングのようなものに生かすのに、調べたりというのはあると思う。 そういうものの流用とか、面白おかしく話したりとかはあるかもしれないが、マトモな心理学者はどこに手をやったらどうのこうのなんて、そんな占いや当てものみたいな事は言わない。
通りがかった精神科医と言う人は、精神分析もエセだと言っていた。ここ→http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20110922173823 ツリーに繋がると長くなるからブクマで
まさかとは思いますが、に繋がるのはむしろ、矛盾に満ち満ちた精神医療に根を張った既得権益者の不当利得を守るための権威付けや一般の人の洗脳、ではないですよね?ではなかろうかw
だって、これ↓
http://ameblo.jp/momo-kako/ とか さっきも貼った被害者相談サイトの掲示板 http://seishiniryohigai.bbs.fc2.com/
ここは政治家に陳情もし、国会で質問させてるhttp://seishiniryohigai.web.fc2.com/seishiniryo/renrakukai/jisseki.html 精神病院ではなく、向精神薬のだけど
うつ病の新しい薬ではようつべでも、こんな動画もあるくらい、前から製薬会社の薬売り営業とか言われてたのは知ってた
http://www.youtube.com/watch?v=v9-rcwiZuOA 抗うつ薬SSRI・攻撃性の副作用を隠蔽して宣伝する製薬会社 >抗うつ薬SSRIの説明が製薬会社の宣伝ビデオとNHKの報道番組で全然違ってるんだけど患者を馬鹿にしてるの?
http://www.youtube.com/watch?v=LiPX4g3REqU 【犬を撲殺】抗うつ薬SSRIによる攻撃性の副作用が怖すぎる件【Dr.林】
これの元の林氏のサイトのが中々見つからなかった。その動画にはいつもある先生の回答がなかったから、探してたら、これだったw やっぱり・・・
http://kokoro.squares.net/psyqa1709.html >林: 抗うつ薬(SSRIとは限りません)による自分や他人に対する攻撃性の副作用については、これまでの回答をまずご参照ください。
これは、6ブクマしか付いてない http://b.hatena.ne.jp/entry/kokoro.squares.net/psyqa1709.html おいおい言ってる人はいるけど
SSRIに対する認識がコレだよwww
そりゃエスパーになるわけだwww
SSRIについては、犬じゃなくて、隣の主婦に襲い掛かったという動画も・・・
http://www.youtube.com/watch?v=JwQMzrfYFXI SSRIの副作用・攻撃性で発狂して刃物を振り回して逮捕された姉
関係ないがこういうのを見て、チバレイはなんと言うのだろう? あの人は何をのんでたんだろう? うつ病の精神科来訪キャンペーンに出てたけどw
薬は、一時的に安定剤を使用するのが効く場合もあると思うが、怖いんだなぁ
知らなかったけど、うつ病の薬以外でも、断薬サイトやブログや本があるくらい、大変らしい。
薬と言うのは、西洋薬はとくにそうらしいけど、基本的に毒なんだけど、それを少量取り込んだり、少しの期間使い事によって、良い効果を得ようとする、というものとして考えられるらしい。 それは言い過ぎとしても、副作用と言うのはあるからそれも考えないと。
つけたし
よく読んでみたら、副作用否定ではなく副作用指摘とも見える事も言っている。でも、やっぱりよく読むと・・・、責任の所在を曖昧にしたり、まどろっこしい言い方で(いつもの断定的口調はどうなったのだw)言葉に厚みを付けていつもと比べ物にならないくらい冗長に説明してる。
6ブクマの中の1コメントの人が、おいおい言ってるのは、副作用のせいにするという事かもしれないような気もしてきた
林氏は、一見SSRIの批判もしてるようにも見えることを書いているし、・・・
しかし、いつもの調子とえらく違う。 製薬会社は私企業なので仕方なくて、医者と患者が問題なように書いてある。
でも、一番それで儲けたのは、それを出した製薬会社じゃないの?
やっぱり製薬会社批判は言いたくない事なのではなかろうか?
まさかと思いますが、一番に利得を得ていて、不当なのは知っているけど、力ありそうなので遠慮しているが、徐々にばれつつあるので、その知識も入れとかないといけないけど、自分が睨まれるのは困る、という色んな利害の兼ね合いを考えた結果の煮え切らなさ、いつもにはない慎重さ、ではないですよね? 無いと思いますが・・・・
みたいなw
最近熱い、宮坂博志氏の関連する情報を気ままに登録して以降と思います。
勝手な趣味ですので、立ち寄った方は気軽に見ていってください。
株式会社 富士トレーディングは宮坂博志が代表取締役の米国トランスパシフィックキャピタルインク100%の子会社です。
平成17年10月15日より前オーナーから株式の譲渡を受け、投資顧問業として新たにスタートした会社です。
宮坂博志 プロフィール - あのひと検索 SPYSEE [スパイシー]
http://spysee.jp/%E5%AE%AE%E5%9D%82%E5%8D%9A%E5%BF%97/1614757/
「宮坂博志」出演番組で紹介されたアイテム (新着10件) 「宮坂博志」が出演した番組で紹介されたアイテムをもっと見る
宮坂博志が出演したテレビ番組一覧 | TVais テレビ番組情報サイト
http://www.tvais.jp/appear/87529/episode/
テレビに出演した宮坂博志の情報が探せるテレビ番組情報サイトTVaisです。
http://howkssukiyanen.seesaa.net/
新着で出ていましたが、この方はまた違う方でしょうか。日々のニュースをお届けするブログのようですね。
宮坂博志と言えば、冒険家でもあり、心理学者でもあり、活動的な部分と繊細な分とを両面持ち合わせているように思います。
テレビ出演はあまりなく、知る人ぞ知る人ではありますが、見えないところでしっかりと社会にメッセージを投げかけている稀有な存在なのかもしれません。
自分はたまに増田で書かせてもらうと、ありがたいことに、ホッテントリ入りしたり、ブクマコメントをたくさん頂くことが多いのですが、 せいぜい1000字程度のテキストから、なぜか必ず「こういうこと言う人って○○なんだぜ。」って、したり顔(たぶん)で人間像を当てっこする人がいて、今まで「性格悪い」 くらいしか当たった試しがないんですけど、そういう人って心理学者とかカウンセラーだったりするんですかね?もうちょっとがんばって深読みしてほしいとこです。
で、こういうコメント書く人たちって文章の内容自体にまったく触れずに、いきなりそれを書いた人間の人間性を疑うところから入るんですよ。「さあ、議論しようか」とテーブルについたところでいきなり「いや、その前におまえ頭おかしいから。」とジャーマン・スープレックスかますわけです。で、言い放った本人は自分の意見も言わずに「一本とってやったぞコラー」みたいな態度だと思うんですけど、いや、すげぇな、と。
いや、確かに増田に変なの湧いてることも多いので、うわぁー・・・みたいな感情も理解できるんですが、ちょっと自分に理解できない感覚が読み取れると、匿名の人間に対して「こういうことを書く人間はこういう人間です。」という推察は、「違うよ」と否定したところで議論にならない上に、アウトプットしたところで何も生み出すものがない。2chでよく見る「おまえ友達いないだろ?」っていう無意味な喧嘩ふっかけてる輩と同レベルなんですが、本人は「俺、すげー分析してやった。」みたいな態度でいるのがなんかヤバいな、と。しかも間違ってるし。まだ「こういうこという人キラーイ」という意見の方がその人の役に立つわけですよ。
すでにレスにもあるけど、それはあなたが「あなたのことを好きじゃない」から。
たまに、「あなたのことを好き」な人がいても、あなた自身が「あなたのことを好きじゃない」ので、その人とは、気が合わない。「あなたのことを好き」なんて、おかしい、趣味が悪い、と思う。
だから、「あなたのことを好き」と言ってくれる人がいても、その人のことを気持ち悪くなってしまう。
また、あなた自身が「あなたのことを好きじゃない」から、「あなたのことを好きじゃない」人とは気があう。憧れる。好きになる。
あなたが好きになる人は、必ず「あなたのことを好きじゃない」。常に片思い。
解決法としては、あなたが「あなたのことを好き」になるしかない。好きになれるような理由がなくても、無根拠に「あなたのことを好き」になるしかない。
もしかして、あなたは親に「ダメな子」と言われて育ったのかもしれない。そのため、自分はダメだなあ、こんな自分は嫌だなあ、と思うようになったのかもしれない。
それでも、少しずつ、「あなたのことを好き」になるように努力すること。そうすれば、「あなたのことを好き」な人と気が合うようになります。
訳文の意訳による訂正。
人間にさまざまな種類の認知テストを行うと、その解答能力と相関を示すひとつの統計学上の因子(「一般的知性」と呼ばれる)が計算によってでてくることを心理学者は繰り返し示してきた。しかし、人間のグループについても同じように「集団知性」とでもいうべき因子が存在するかどうかについて、体系だった検証が行われたことはこれまでなかった。今回、699名の人々を2~5名ずつのグループに分けて行った2つの研究から、我々はグループのさまざまな種類の認知テストの成果と相関する「一般的集団知性」の一貫的証拠を発見した。この「c因子」はグループに所属する個人がもつ知性の平均にも最大値にも相関を示さない一方で、個人のsocial sensitivityの平均、会話におけるターン・テイキングの均等度、およびグループに占める女性の割合に相関を示した。
つまり、個人については、認知テストの成果が高いほど大きくなるような因子を統計的に計算してやると、毎回、けっこう相関性の高い(30~50%)因子が1個だけでてくるらしい(統計学上の因子だから「これ!」って言えるもんじゃないけど、いつも飛び抜けて1個だけ高い何かがあるってこと)。こいつが高い人は他のいろんな認知テストやらせてもやっぱり成果が高いことが多い。
じゃあ、集団についてはどうなのか、というのでやってみたら、やっぱり1個だけの因子(30%強)がでてきたよー(2個の別々の実験したけど両方そうだったよー)という話。
こいつが何であるにせよ、つまりこの因子を高くするように(social sensitivityの平均あげて、均等に話すようにして……)グループを作れば成果でるんちゃいまっか、みたいなのが(先駆者であることとあわせて)Scienceに載るだけの意義ですな。
※1「女性の割合に相関がある」ってことは、「女性だけのほうがパフォーマンス高い」ってことだからね。
ただ、social sensitivityのスコアが男性より女性のほうが高いのでそれに引きずられてるのでしょう、ということだけど。
※2 social sensitivityってのは、目だけの写真を見て感情をあてるテストで測る値。確かに女性のほうが得意そう。
みんな同じくらい熱心に参加して、お互いに感情を察しながら議論を進め(られ)るのが吉、ってこと。
Evidence for a Collective Intelligence Factor in the Performance of Human Groups
http://www.sciencemag.org/content/330/6004/686.abstract
Psychologists have repeatedly shown that a single statistical factor—often called “general intelligence”—emerges from the correlations among people’s performance on a wide variety of cognitive tasks. But no one has systematically examined whether a similar kind of “collective intelligence” exists for groups of people. In two studies with 699 people, working in groups of two to five, we find converging evidence of a general collective intelligence factor that explains a group’s performance on a wide variety of tasks. This “c factor” is not strongly correlated with the average or maximum individual intelligence of group members but is correlated with the average social sensitivity of group members, the equality in distribution of conversational turn-taking, and the proportion of females in the group.
【適当訳(要つっこみ)】
しばしば「一般的知性」と呼ばれるものの創発が,広範な認知タスクにおける人々のパフォーマンスと相関関係にあると,心理学者たちは繰り返し示してきた.しかし,グループに存在する「集団的知性」と呼ばれるものについて,システマティックに調査したものはいない.699人が2~5人のグループに分かれてタスクを行った二つの実験から,我々はグループのパフォーマンスを説明する一般的な集団的知性の因子の証拠となるものを見つけた.この「c因子」は,グループメンバーの知性の平均や最大とは強い相関はなく,グループメンバーのsocial sensitivity,会話におけるターンテイキングの分布の平等さ,そしてグループ内の女性の割合と相関関係があった.
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日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
それ(文脈ではポルノグラフ)を論ずる論者の思想的立場によって、ポルノグラフィーの定義たるや、まことに千差万別であり、たとえばアメリカの心理学者クロンハウゼンのごときは、情状酌量の余地のない猥雑としてのポルノグラフィ―と、人間の本性である性的な側面を示す文学としてのエロティック・リアリズムとを、二つに区分しているようだが、私には、こういう二分法はすべて、芸術論としても道徳論としても中途半端であるとともに、何ともわずらわしいような気がしてならない。
むしろ私には、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの画像』の序言に見られる、作者の歯切れのよい言葉のほうが、はるかに事態を正確に言い当てているように思われる。すなわち、
「道徳的な書物とか、反道徳的な書物とかそういうものは存在しない。書物はよく書けているか、それともよく書けていないかそのどちらかである。ただそれだけのことだ。」
ポルノグラフィーもまた、私たちには、よく書けているか、それともよく書けていないか、そのどちらかでしかあり得ないように思われる。よく書けたポルノグラフィーは、場合によっては芸術作品と等価なものになるだろうし、等価なものにならないまでも、少なくとも私たちを何らかの人性上の発見にみちびいてくれるものにはなるだろう。ただそれだけのことである。
しかしながらひるがえって考えてみると、オスカーワイルドの言葉は明らかに両刃の剣であろう。おそらく検察官ならば、このワイルドの言葉を次のように言い変えるであろう。すなわち、
「よく書けている書物とか、よく書けていない書物とかそういうものは存在しない。書物は道徳的か、それとも反道徳的かそのどちらかである。ただそれだけのことだ。」
偶然手に取り発見したが、他の人にも知ってほしく、感じてほしく、ここに記した。
言いたいことは、たくさんある。
しかし私は、彼らまで届く声がない。
ただ、考えてくれる人が一人でも増えるように、私は私なりに行動する。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2011/01/post-1907.php
しかし心理学者であるタークルにとって最大の懸念は、こうした表面的なつながりが人間の発達面にどんな影響を及ぼすかだ。
「遠くにいる人に携帯メールを送る。無機物を経由して、1人の時も誰かと一緒にいると感じる。
「みんなと居るのに携帯をいじること」を、
でも、当の本人がその状況に孤独感を感じていないのに、赤の他人がそんな風に言うのっておかしくないか?
俺はどっちかと言うと古い方だから、
誰かといる時に「あ、ごめーんメール」といって抜ける行為はノーマナーだと思う。
でも職場の内線や、居間の置き電話だってそうだろう。電話が来たらとるだろう?
若者にとって、携帯メールがせいぜい留守番電話と同じくらいの扱いだと思えば、
そして何より、
多少のノーマナー行為でも、背景や立場を汲んで認めてくれる仲間が傍にいて、なんで孤独か?
俺のような老人たちに理解しにくい感覚がある。
ツイッターをしている瞬間、みんなというコミュニティから外れて、
しかし彼らの繋がりは、そういうON・OFFでは出来ていないのだ。
「みんなと居ながら、ツイッターにも居る」のだ。
コミュニティのながら作業が当たり前なのだ。これの何が孤独か?
だいたい、彼らを「無機物を経由して、1人の時も誰かと一緒にいると感じる」世代だと理解していながら
なぜ、「その代わり、自分が実際に誰かといる時も、無機物を経由して、1人の誰かと一緒にいる」という
「お返しをしている」姿が理解できないのだろう。
よっぽど「人間関係で何が重要なのかがわからなくなる『破滅的な事態』」じゃないのか?
我々老人は、対面できる関係を人間関係だと思っており、それ以外は代替品だと思っている。
若者は、どちらも掛け替えがないと思っている。
何が重要なのか解らなくなってるんじゃあなくて、大事な友達が僕らよりも多いだけなんだ。
今から・・・100年後位の話になるかもしれん
上手くいけば、心理学は教育機関で教育する基本的な科目の一つになるかもしれない
1879年にドイツのヴィルヘルム・ヴントがライプツィヒ大学に心理学の実験室を作ったのがその始めだというのが定説だ
それからというもの、心理学者は日々人間の振る舞いを定義し、記述(=解釈)してきた
一部は応用され、教育や臨床の場に応用がされてきた
しかし、まだ伸びきっていないように感じる
例えば、物理学や化学が自然界の振る舞いを記述し、それを応用して多大な成果を挙げたように
学問とは本来、記述したものを応用していく方向へ進んでいくのが流れだ
教育や臨床の場へと応用はしつつあるが、十分なのか?
会議の進行をよりスムーズにする様な技法が欲しいと願ったとしよう
従来なら経験則に頼らざるを得なかったかもしれない
しかし今なら、今まで積み重ねてきた成果を応用できるかもしれない
より確実に、有用な技法が編み出せるはずだ
もちろん、日常生活にも応用ができるはずだ
自己のやる気を高めたり、他人へ効果的なアドバイスを行ったり、効率よく情報交換を行ったり、友好的な関係を結ぶ事
心理学が進歩し、あらゆる振る舞いが記述され、具体的な技術が確立されるだろう
そして、教育機関ではそういった技法を子供に教えるようになるかも知れない
これまで体験する事でしか学習できなかった心理的な技術は、教育によって代替可能になる
そうなった時、世界はどうなるんだろうか
「ありのままのあなたで愛される」「そのままで大丈夫」という理屈はよく分かるよ。でも、私はありのままでいても恋人ができない。それって「ありのままでいても愛されてない」し、「そのままでも大丈夫になってない」。私の今の生き方が「ありのまま」でないのかとも疑ってみたけど、どう考えてもそうじゃない。ああいう本書いてるエセ心理学者をぶん殴りたい。
誘っても誘っても断られる。そうなったら何か原因があると思うのが健全な人間だし、それを直そうとするのが普通じゃない? 「縁がない」「見る目がない」なんて他人のせいにしてないからこそ、自分がよりよくなるためにどうすればいいかを考えたいからハウツー本だって読むし、髪型だっていじるし、ファッションだっていろいろ変えてみるし、サークルだって増やすし、方言も直すし、毎朝ランニングするようにしたし、バイト頑張って整形のためにだってお金を貯めるよ。それだけやるって結構大変なことだよ! アイデンティティを大切にとかありのままとか抽象的な理想論語ってないで、愛されない状況がどれだけ辛いのかを分かってほしい。うまく行かないからこそ悩んでるのに、人がいろいろ考えて取ってる方策を否定するな。
あなたは普通にしてれば愛されるしモテるけど、私は普通にしててもそうならないんだよ!
あなたがいくら可愛いとか愛嬌があるとか(心にもない言葉を)吐いてくれても、男の人たちにそう思ってもらえなきゃ何も意味ないんだよ馬鹿!
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/hikky/1272556637/
450 名前:(-_-)さん[sage] 投稿日:2010/06/07(月) 16:03:18 [夕方] ID:???0 (PC)
>>439
>強迫性障害とか患っててヒキってるやつに言えるような話じゃないな
と言ったのはお前さんじゃないの?そうだと思って話を進めていたのだが
違ってたならすまない
違わないなら、これは「社会と関わりたいのであれば神経症は言い訳にならない」というのに反しているだろう?
そもそも俺は初めから、お前さんが>>439で挙げているような人に言っていたんだが
そうでなくとも、飽和状態にある心理分野にどういったレベルの学生が集まってるのか、知っているはずだ
念のため言っておくが、>>439が馬鹿だとか言ってるわけじゃないぞ
そういう言い方をしてると、馬鹿にされるってことだ
こんなことは昔から言われてるし今だって言われている
一般的な科学者が精神科医をどのように見ているか、知っているだろう?
今時マトモな心理学者は脳を弄ってる。なにせ、まだ分からないことだらけだから
現行の対症療法が的を得ているのであれば、どうしてあんなに改善率が悪いんだ
とはいえ、俺は薬学だから、選考している人より知識が薄いかもしれないな
第一、精神疾患を否定したりなんてしていないよ
事故性のある重度のものでないならば、気の持ちようで直るような類のものなんじゃないか
と述べているだけだ。何せ、脳の病だからな
俺のコミュ力を疑うのは構わないが
自分の読解力も疑った方がいい
東大がオカシイのかも知れないが、これでも普通にやっていけてるしな
この文にカッとなるようだったら、まだまだお子様だよ
451 名前:(-_-)さん[sage] 投稿日:2010/06/07(月) 16:05:18 [夕方] ID:???0 (PC)
>>440
さて、精神疾患を患っているのであればこそ、神経症は言い訳にならないということは理解しているはずだ
そのデメリットを抱えた上で判断していかなければならないのは自明であり、言い訳にはならない
故に、>>412のように述べた
また、>>440は「分かってても出来ない」というスタンスだと思うが
俺はそれに対し「なぜ分かっているのに出来ないのか」と既に述べており
従って、>>440が「当たり前に分かっている」と認識していることが分かっていないからこそ
つまり、>>412のようなことを分かった気になって、その実ぜんぜん分かっていないからこそ
いつまでも脱することが出来ないんじゃないかと思っている
これを何故だか優劣で判断しているが、気付いているかいないか、それだけだ
分かっているのであれば、思いつくことを一つ一つ紙にでも書いて、試行錯誤していけばいいだけのはずだ
その上で>>428のように述べた
極めて現実的に考えていけばいいだけだからな
出来そうか、出来なさそうかの判断など、必要条件、十分条件を書き出した後だ。「当たり前のこと」だよな?
そして、そういったことが出来ないのであれば、大人しく諦めて世捨て人になった方が気楽でいいだろう?
452 名前:(-_-)さん[sage] 投稿日:2010/06/07(月) 16:06:01 [夕方] ID:???0 (PC)
蛇足だが、お前さんは曲解する癖があるようだ
自分の価値観や認識が絶対だと思わない方がいいと、少し前にも述べた
決め付けはやめた方がいい。無用な対立を招くし、幼稚だと思われる
極端に捉えているのは>>440自身だよ
>>440がどれだけ自分のことを優れていると思っているのか知らないが
思い上がるのもいい加減にしなさい
あなたより優れている人などこの世には腐るほどいるんだよ
大学に入ってからそれを痛感するのもいいけれど
それを分かっていると言うのであれば、ちっぽけなプライドはさっさと捨てて、そのお子様みたいな話の仕方をやめなさい
それと、仮にそういった話し方を続けるにしても、大学に入るなり結果を示してからにしなさい
じゃないと友達できないぞ!(受け売りだけどな
・・・さて、勉強がんばれよ!
学部選び、間違えるなよ!!
453 名前:(-_-)さん[sage] 投稿日:2010/06/07(月) 16:07:20 [夕方] ID:???0 (PC)
>>444
卒後に少しずつ返してくタイプのやつ
俺もそうしてるし
他大だとしても、とかく奨学金について調べてみるといいよ
荒治療かもしれないけど
>>446
あえて言っておくが、「遺伝的要因がある=遺伝子に異常がある」というわけではない
遺伝がどうたらといったことが書いてある文章では、可能性があると書いてあるだけで、断言はしていないはずだ
断言できるはずがない。そんな合ってるか間違ってるかも分からないようなものを信頼するな
第一、そんなものは、ミームと置き換えても通じる
ところで>>440よ
>>446がお前の擁護するような人種に見えるか?
454 名前:(-_-)さん[sage] 投稿日:2010/06/07(月) 16:08:00 [夕方] ID:???0 (PC)
>>447
脳の機能は未だほとんど分かっていないのだから
「脳に障害がある」の一言で済ますのは、臭いものに蓋をしているだけではないのかね
先天性の障害があったり、交通事故にあったりしたわけでもないだろう
第一、精神病自体を甘えなどとは言っていない
精神病だからといって、それを言い訳には出来ないと言っているだけだ
>>449
脱ヒキすれば何も言われなくて済むよ^^