http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2011/01/post-1907.php
しかし心理学者であるタークルにとって最大の懸念は、こうした表面的なつながりが人間の発達面にどんな影響を及ぼすかだ。
「遠くにいる人に携帯メールを送る。無機物を経由して、1人の時も誰かと一緒にいると感じる。
「みんなと居るのに携帯をいじること」を、
でも、当の本人がその状況に孤独感を感じていないのに、赤の他人がそんな風に言うのっておかしくないか?
俺はどっちかと言うと古い方だから、
誰かといる時に「あ、ごめーんメール」といって抜ける行為はノーマナーだと思う。
でも職場の内線や、居間の置き電話だってそうだろう。電話が来たらとるだろう?
若者にとって、携帯メールがせいぜい留守番電話と同じくらいの扱いだと思えば、
そして何より、
多少のノーマナー行為でも、背景や立場を汲んで認めてくれる仲間が傍にいて、なんで孤独か?
俺のような老人たちに理解しにくい感覚がある。
ツイッターをしている瞬間、みんなというコミュニティから外れて、
しかし彼らの繋がりは、そういうON・OFFでは出来ていないのだ。
「みんなと居ながら、ツイッターにも居る」のだ。
コミュニティのながら作業が当たり前なのだ。これの何が孤独か?
だいたい、彼らを「無機物を経由して、1人の時も誰かと一緒にいると感じる」世代だと理解していながら
なぜ、「その代わり、自分が実際に誰かといる時も、無機物を経由して、1人の誰かと一緒にいる」という
「お返しをしている」姿が理解できないのだろう。
よっぽど「人間関係で何が重要なのかがわからなくなる『破滅的な事態』」じゃないのか?
我々老人は、対面できる関係を人間関係だと思っており、それ以外は代替品だと思っている。
若者は、どちらも掛け替えがないと思っている。
何が重要なのか解らなくなってるんじゃあなくて、大事な友達が僕らよりも多いだけなんだ。