それ(文脈ではポルノグラフ)を論ずる論者の思想的立場によって、ポルノグラフィーの定義たるや、まことに千差万別であり、たとえばアメリカの心理学者クロンハウゼンのごときは、情状酌量の余地のない猥雑としてのポルノグラフィ―と、人間の本性である性的な側面を示す文学としてのエロティック・リアリズムとを、二つに区分しているようだが、私には、こういう二分法はすべて、芸術論としても道徳論としても中途半端であるとともに、何ともわずらわしいような気がしてならない。
むしろ私には、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの画像』の序言に見られる、作者の歯切れのよい言葉のほうが、はるかに事態を正確に言い当てているように思われる。すなわち、
「道徳的な書物とか、反道徳的な書物とかそういうものは存在しない。書物はよく書けているか、それともよく書けていないかそのどちらかである。ただそれだけのことだ。」
ポルノグラフィーもまた、私たちには、よく書けているか、それともよく書けていないか、そのどちらかでしかあり得ないように思われる。よく書けたポルノグラフィーは、場合によっては芸術作品と等価なものになるだろうし、等価なものにならないまでも、少なくとも私たちを何らかの人性上の発見にみちびいてくれるものにはなるだろう。ただそれだけのことである。
しかしながらひるがえって考えてみると、オスカーワイルドの言葉は明らかに両刃の剣であろう。おそらく検察官ならば、このワイルドの言葉を次のように言い変えるであろう。すなわち、
「よく書けている書物とか、よく書けていない書物とかそういうものは存在しない。書物は道徳的か、それとも反道徳的かそのどちらかである。ただそれだけのことだ。」
偶然手に取り発見したが、他の人にも知ってほしく、感じてほしく、ここに記した。
言いたいことは、たくさんある。
しかし私は、彼らまで届く声がない。
ただ、考えてくれる人が一人でも増えるように、私は私なりに行動する。
そんな、周回遅れの思想をいまどき持ち出されても・・・。 ポール・ド・マンならこう言うよ。 「世界には誤読しかない」