はてなキーワード: bgmとは
先月のシルバーウィークに有給含めて1週間のデジタル断ち旅行をしてみた。
旅行といっても、とある僻地にあるグランピング施設に泊まるってだけなんだが、
とにかくスマホとPCなど一切のデジタルガジェットに触れない、という企画旅行だった。
ちょっとググれば出てくるので、ステマと思われるのはイヤなので具体名は明かさないでおく。
そこは当然ながらWifiも飛んでいないし、スマホの電波すら怪しいレベル。
スマホとPCは受付で預けていて、どうしても連絡する必要があるときは受付にある電話かPCを借りるしかない。
(ちなみに、外部からも受付に電話をかけることが出来、その電話番号は告知されているので、緊急連絡は可能)
最初の1日目は地獄だった。具体的に言うと、退屈地獄だった。何をしたらいいかわからない。
普段いかにスマホに依存しているかよく分かる。ヒマになるとすぐにスマホを覗いていたわけだ。
ただ、ヒマになると面白いもので、周囲の色々なものに関心が出てくる。普段なら興味も持たないことだ。
例えば、周囲の自然や空の青さ、風の匂い、鳥の鳴き声、夕焼けの切なさ、月の明るさ、夜の静寂。
自分を取り囲むすべてのものがとてつもなく魅力的に感じられる。
古代の人たちが自然を歌に詠んだのは、こういう感性があってのことなんだな、と気付けた。
ただ、それらの写真を撮りたい衝動に何度も襲われたのには苦笑させられた。
2日目になると早くもスマホへの依存は薄まり、朝はしばらくぶりに快適な目覚めだった。
その日は雨だったが、雨音は読書中のBGMとしては申し分なく、ハードカバーの小説を一気読みしてしまった。
3日目以降になると、もはや驚異の体験。思考が驚くほどクリアなのだ!
次々と新しいアイデアが湧いてくる。仕事のことはもちろん、これからの人生の進路についても色々と有意義な思索を巡らせた。
今まで答えが出てこなかったものにも、「これだ!」と言える答えが次々と湧いてきて、知能指数が上がったような錯覚すら覚えた。
一日のうち、午前中は外でアウトドア活動を満喫し、昼下がりから思索をノートに書き連ねる日々を過ごした。
いつも寝る直前には適度に疲れを覚え、ベッドの中で無駄な考えをすることもなく、スッと寝入ることができた。
普段は睡眠薬に頼り切りだったので、これは驚くべき効果だった。
最終日、自分はもはやスマホの存在を半分忘れていた。そういえばそんなものもあったな、という気分。
受付で手続きを済まし、預けていたスマホとPCを受け取るが、電源を入れてみる気も起きず、そのまま帰途についた。
自宅に戻ると一気に現実感に引き戻されるような気がした。
スマホに電源を入れると、LINEとメールに大量の着信があり、それを見て思わず苦笑した。
ああ、またリアルに戻ってきたな、という実感。もはやネットもリアルの一部なんだな。
旅行から1週間くらいは普段よりも身体も思考も快調な状態が続いたけど、やはりしばらくすると元の状態に戻ってしまった。
でも、デジタル断ちすることにより、いかに人間が本来の能力を回復できるのか知っただけでも収穫があったと思う。
館名から敬遠していましたけれど、大きなお友達陶器博物館に改名するべきでした。
博物館を運営するメーカーが1968年(記念すべき1号は巨人の星)から
生産しているキャラクター茶碗がたくさん展示されていて間接的にアニメの歴史を概観できました。
「空想科学世界ガリバーボーイ」の茶碗には完全にやられてしまいましたわ。
そして「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」「魔法少女ちゅうかなぱねま!」のタイトルが意味不明で引っかかります。
およげ!たいやきくんってアニメだったのですね。およげ!さばやきくんも制作するべきですわ。
簡単に年代で作品を見比べられるので明らかに先進的であったことが分かりました。
最近のお茶碗はプリキュアとレンジャーの無双状態になっていて寂しかったですわ。
深夜アニメ茶碗も作ってほしいですわ。
またアナの女王茶碗では陶器への転写技術がどれだけ進歩したかがよく分かりました。
冷静に考えるとパン派への酷い裏切りに思えてなりませんでした。
ショクパンマンのお茶碗で食べるまっしろごはんはどんな味かしら?
B1の特別展示では、やなせたかし先生がじきじきに絵付けをした
アンパンマン・バイキンマン・ドキンちゃんのお皿もありました。
ポルノのポルノたる所以は,女性の複雑な主体性を無視して,その劇中での人格を観客である男性の性的興奮を刺激することにのみ隷属させることにある。
で,24時間テレビ〜バリバラ近辺で知られるようになった感動ポルノもまた同様に,障害者の複雑な主体性を無視して,その番組中の人格を観客である健常者の感動を呼び起こすことにのみ隷属させることを指している。
食欲ポルノというのもあるらしいが,それもまた,料理本来の複雑なありようを無視して,その映されかたを視聴者の食欲を刺激することにのみ隷属させることを言う。つまり,本来は不要なクリームなりチーズなりが,本来は不要なほどに熱せられて溶けしたたっていた方が美味しそうなのであればそう見せる,ということだ。
だからポルノか否かの違いは,岡田斗司夫が言うように安直であるかどうかにあると言ってもいいのだが,同時に彼が言っている「感動させようとしているかどうか」にはない。
そんなの,誰だって感動させようとはしている。
ただ,感動させようとするときに,時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか,気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ,ポルノか否かの分かれ目はある。
クライマックスでいかにもなBGMを流すのは安直だと,岡田は安直に否定するが,話はそう単純ではない。
例えば対位法はいかにも安直ではない雰囲気を可能にする手法だと言えるが,何故そうなのかといえば,例えば残酷なシーンであればそれが持つ複雑さの中にある悲しさや可笑しさをBGMに担わせれば対象の複雑さの一端が担保されるからである。
しかし,本当の現実に寄り添えば,そもそもBGMなんて流れないわけで,何かしら音楽を流した時点で対象の複雑さを毀損してるとも言える。BGMが流れていなければ如何ようにも解釈できたはずの対象に,一定の方向付けをしてしまうからだ。
それでも,繰り返しになるが何かしらの芸術的作品を作るからには誰だって受け手に感動してほしいと思っている。ただ世界の複雑なありようが描かれていればそれが正義だというわけでもない。
もう一度言う。
感動させようとするときに,時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか,気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ,ポルノか否かの分かれ目はある。
つまり,例えば目の前の女性に対して,自らの性欲に隷属させようとして彼女の主体性を踏みにじるような,そんな行動様式で何かを伝えようとすることこそがポルノを作るという行為なのだ。
女性の,障害者の,料理(を丹精込めて作った料理人の心)の,その尊厳を一顧だにせず自分勝手な目的の手段にすることがポルノを生むのであれば,それはもはやレイプと言えよう。
感動ポルノに感動するということは,レイプの映像を見て性的興奮を覚えるのと同じくらい,道徳的には救い難く,精神分析学的には,まあしょうがないのかもね。
よーやく見た
40分しかないはずなのに妙に長く感じた
あらすじ
雨の日に公園で学校をサボる靴職人を夢見る男子高校生が、自分と同じように仕事さぼってるおねーさんに出会って、それから雨の日に示し合わせたように公園で会って話をするようになる
という感じ
あと電車も
そのせいでやけに間延びして感じたんだと思う
BGMに合わせたフレーム単位の描写切り替えね タタタンって一枚絵?が変わる感じの
さすがにマンネリだなあと
あとラスト登場人物が走るのもこないだ君の名はみたばっかだからちょっと胸焼けがした
新宿住んでたのに一度も新宿御苑いかなかったな、いっとけばよかったな
君の名はでも同じパークタワー?エンパイアステートビルっぽい建物でてたきがするなあ
しっかし君の名はに比べるとまだまだ童貞くささが残ってて見ててイライラした
おっかけてそれで抱き合ってハッピーエンドでいいのに逆張りの長台詞ダラダラ言わせたりしてうざかった
でも君の名はと違うよかったところもあった
歌とセリフをかぶせなかったところ
(でもEDの入りとかぶってたとはいえ、ラストの一番いいところで安っぽいJPOPのイントロが劇伴っぽく入ってたのは残念だった)
ポルノのポルノたる所以は、女性の複雑な主体性を無視して、その劇中での人格を観客である男性の性的興奮を刺激することのみに隷属させることにある。
で、24時間テレビ〜バラバラ近辺で知られるようになった感動ポルノもまた同様に、障害者の複雑な主体性を無視して、その番組中の人格を観客である健常者の感動を呼び起こすことにのみ隷属させることを指している。
食欲ポルノ(?)もまた、料理本来の複雑なありようを無視して、その映されかたを視聴者の食欲を刺激することにのみ隷属させることを言う。つまり、本来は不要なクリームなりチーズなりが、本来は不要なほどに熱せられて溶けしたたっていた方が美味しそうなのであればそう見せる、ということだ。
だからポルノか否かの違いは、岡田斗司夫が言うように安直であるかどうかと言ってもいいのだが、同時に彼が言っている「感動させようとしているかどうか」にはない。
そんなの、誰だって感動させようとはしている。
ただ、感動させようとするときに、時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか、気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ、ポルノか否かの分かれ目はある。
クライマックスでいかにもなBGMを流すことを岡田は安直に否定するが、話はそう単純ではない、
例えば対位法はいかにもハイドラマな雰囲気を出す手法と言えるが、何故そうかといえば、例えば残酷なシーンであればそれが持つ複雑さの中にある悲しさや可笑しさをBGMに担わせれば対象の複雑さの一端が担保されるからである。
しかし、本当の現実に寄り添えば、そもそもBGMなんて流れないわけで、何かしら音楽を流した時点で対象の複雑さを毀損してるとも言える。
それでも、繰り返しになるが何かしらの芸術的作品を作るからには誰だって受け手に感動してほしいと思っている。ただ世界の複雑なありようが描かれていればそれが正義だ、と言うことでもない。
なるべく複雑さを保ったまま、感動に向けて受け手を誘導したいというのがすべての作り手の想いだ。
だからポルノか否かの分かれ目は作り手の意図にあると同時に受け手の読解力にもある。
複雑さが捨象されていることに鈍感であれば何でも(ターミネーターでも)ハイドラマに思えるだろう。
あるいは逆に、一般にはベタでも、敢えてそこに身を委ねる可笑しさや悲しさや、果ては残酷さなどをそこに込めることで、ベタなハイドラマを超える感動を生むことができる。逆か。感動を得ることができる。
ノリや感情みたいなのをむき出しで刺激する
オラサイトとか、https://www.youtube.com/watch?v=oLFMdMYWUxM
トゥートゥートゥマシェリとか、https://www.youtube.com/watch?v=MCBS8-kh3e0
マイヤヒーとか、https://www.youtube.com/watch?v=GeeUSDW3tcA
しぃのうたとか、https://www.youtube.com/watch?v=VurT6jZnZks
でそのなかで、2ちゃんねらーのなかでも
https://www.youtube.com/watch?v=GKqGN3EQUIs
エモくて俺は苦手だったんだけど
とにかく当時のニヒリズムな2ちゃんねらーでもバンプは人気だったのを覚えてる
おまえらこういうの好きなのかよってね
これ以降、ネットは動画サイト時代になったりして、ニコニコ動画的なものが生み出されていくから
最初FLASHのこと忘れてて、君の名はってのはニコニコ動画的なものだなって思ってたんだけど
新海さんの年齢から考えて、おそらくFLASH動画のエモくて歌ものBGMでの演出に影響されていったんじゃないかなって思う
RADWIMPSを指名したのは新海さんだっていうんだけど、歌い方がみょうにBUMPっぽくなってて驚いた。
あのせだいに訴えかけるなにかがあるんじゃないだろうか
ただしズバリこの曲が聞きたい!という大ヒットスタンダードはけっこう入ってなかったりする。
BGMでいろんな曲を聞き流したい人にはけっこう良いと思う。
データはAndroidでSD移動が可能。契約切れると利用できなくなるけど、再契約でそのまま利用可能らしい。
Amazon kindle unlimited
unlimitedの本ばかり集めたページが見つからない。
無料ということであれこれ試し読みする、という使い方ができない。
ストレージもメインメモリ限定でAndroid端末利用者・自宅WiFi環境非保持者には優しくない。
けど1冊を聞き終えるにはすごく時間がかかる。
本屋で10分で流し読みするような本を聞くのに6時間のデータ。
紙の書籍なら流し読みしつつ前後に戻って内容確認もできるけど、音声データだと一度聞き外すと戻るのが億劫、意識が外れる一方になる。
書籍の実物を持ちつつ聞くならいいのかも。
聞き放題で聞いて元を取れるほどではない気がした。
Audible自体、大好きな書籍を繰り返しリピートで聞く以外には自分にはめぼしい利用方法が思いつかなかった。
聞く、というコンテンツ自体は期待をしているジャンルなので、今後に期待。
来月はApple Music?を試す予定。
福岡のスマートホステルというところでIoTが無駄だと思えるほど導入されている
その内容としては、
・カギを開けるのはスマホ
・壁掛けモニターでリラックス動画を流してる・スマホで選択可能
・おやすみモードにポチっとするだけで、照明が暗くなってドアの鍵がロックされて、アロマとリラクゼーションBGMが流れて、エアコンが美肌モードになる
今判明している問題点としては、wifiの接続が不安定になることがあって部屋に入れなくなる場合があるってのがあるらしい
その後IoTのベンチャー起業がインタビューに答えてて、来年にかけて爆発的にIoTは流行るだろうって言ってた
んで小さいデータ量をちいさな電池消費量で長期間(5年!)通信できるような基盤が紹介されてた
そうなんだよね
新宿メトロプロムナードにて実施されていたデレステ広告ジャック企画にて、「最終日の最後に流されたMVにコールが入ったり、終了後に『アイマス最高!』をやっている人がいた」としてTwitterで話題になり、批判ツイートも相当な数になった。
それ自体は当然の流れだと理解できるが、いろいろ見ていると中には「拍手も迷惑行為だ」「MVが終わるごとにスタッフが拍手を促しているのを見て冷や冷やしてた」という意見も散見された。正直言うと、私にはその「拍手も迷惑行為」というのが理解できなかった。もう少し正確に言うと、拍手に言及して良識派を気取ってる人々の考え方が理解できなかった。
そこでこうして私見を書き殴っている次第である。
まず言いたいのは「スタッフがOKとしているのであれば、それは許可された行為なのでは?」ということである。
先程も述べたが、MVで1曲終わる度に拍手をするのはスタッフ側から促された行為である。つまり、イベント運営側としては拍手は「問題ない行為」と認知されていることになる。その運営側から容認されている行為を批判するのは的外れなのでは?というのが、私の意見である。
そういうことを言うと「スタッフだって間違うこともある。下手な運営だって有り得る」と言われるのが目に見えているが、今回に限って言えばそれは無いと私は思っている。と言うのも、今回のイベントに関しては運営側(スタッフ)は「イベントに関係ない一般の方に可能な限り迷惑をかけない」という一点に関しては物凄く気を配っているからだ。
実際に現地に行った人ならばわかると思うが、今回の現地では、展示物の前以外の場所で少しでも立ち止まると、即座にスタッフから移動するように注意されていた。特に両サイドの柱の間、中央の通行スペースは、一瞬でも立ち止まるとすぐにスタッフが飛んできた。また、展示物の周辺でも柱の内側をほんの少しでもはみ出すとすぐに注意された。一般の通行人の邪魔になることを極力回避しようとしているのが伺える。
また、展示物と反対側の壁、常設の店舗が並んでいる辺りの間にちょっとしたスペースがあり、初日・2日目ぐらいの頃にはたくさんのイベント参加者がそこで休憩していた。ところが最後の方になると、そのスペースはいつの間にかロープが張られ封鎖されていた。恐らくそのスペースの両側の店舗から苦情が入って対応したのだと思われる。
今挙げたのはほんの一例だが、このように今回の運営は相当気を配っているというのがわかる。話を戻して拍手についてだが、もしそれが最初に一部のスタッフが勘違いして始めたのであれば、そのスタッフは注意されて随時修正されるはずだ。それが為されず最終日の最後までずっと続いたということは、運営が拍手は問題ないと判断していると思って間違いない。先述の通りここまで神経質になっている運営の判断であれば、それに従えば迷惑行為にはならないと私は考えている。
MV終わりに拍手をしていたのは、初日からずっと繰り返されてきたことである。それを6日目までは何も言及してなかったのに、最終日になって急に槍玉に上げ始めた人が本当に多い。あたかも「今まで言ってなかったけど、実は自分もそう思っていた」とでも言わんばかりである。
ずっと思っていたのなら最初からそう言えばいい。何なら、現場でスタッフに直接言えばいい。それをせずに最後だけ周りの空気に便乗して好き勝手言うのは、いささか無責任ではなかろうか。もっと 有り体に言えば、「本当に自分で考えてそう思ってる?周りがそう言うから合わせただけじゃないの?」という印象を受けた。
付け加えるなら、オープンスペースでのイベントで言うなら、デレマス2周年記念イベントが新宿アルタ前で行われた時のことを思い出して欲しい。あの時はミニライブがあったとはいえ、ライトも振るしコールも全力という有様だった。当然一般人がすぐ傍を通るし、新宿駅のホームまでコールが聞こえたという報告もある。だが、それをネタにして笑う空気はあったが、真面目に批判する人がどれだけいただろうか?
アレをネタで済ませる人と同一人物が、たかだか拍手程度を批判している。この状況に違和感しか無い。
上記のような状況を踏まえてなお、拍手を問題視する人たちは、一体何を根拠にしてその判断をしているのか、私にはわからない。これだけ神経質になり、また場所を提供しているメトロからの苦情情報等も直接聞ける運営と、そういった批判する人々の素人判断と、どっちが信用に足るかという話である。
「公共の場で騒いではいけない」というのは一般常識であり、それ自体を否定する気は毛頭ない。だが、あの場は果たして拍手を封じた程度でどうにかなるような場なのだろうか?
そもそもあの場は、過去に実施された広告企画とは根本的に違う。MVで音楽は流すし、ぷちデレラのムービーでもBGMが流れているし、時折ぴにゃこら太も鳴く。アクリルパネル展示のエリアも音楽が流れてる。
そんな中で拍手だけを禁止した所で、一般の通行人の印象が変わるだろうか?ハッキリ言ってしまえば、拍手があろうが無かろうが「五月蝿い、邪魔」という印象は変わらないだろう。拍手が無くても音楽がガンガン鳴っているのだから。
無論、「音楽があるのだから」と言っても、騒音を倍増するような行為はしてはいけない。コールがそれに該当する。だが、スタンディングオベーションで拍手喝采という程の物ではなく、音量としても音楽と大差ない程度のささやかな拍手まで禁止して、騒がしさが変わるだろうか?要するに「運営が想定している騒音レベルを超えるか否か」という話であり、あの程度の拍手はそれを超えないというだけのことである。
以上を踏まえた上で「公共の場で騒いではいけない」という一点のみを強調して拍手を批判する人たちは、今回の特殊な状況を考慮に加えず杓子定規に判断しているとしか思えない。敢えて大袈裟な言い方をすれば、一種の思考停止である。
それでも拍手を批難できる理由があるのであれば、是非教えて欲しい。
ミリオン3rdライブの際に一部の広告が撤去された件を引き合いに出して「あれを繰り返すのか」という話も見受けられたが、私の知る限りではエスカレーター逆走等が原因だったはずなので、今回と同列で語る話題とは少しズレる気がする。
2日目の「柱に蹴りを入れた」という件や、最終日の「アイマス最高」の件等、明らかに逸脱した行為を批判するのは理解できるが、ここまで述べた通り拍手のような大事でもないことを手放しに批判できるほど、自分に傷が無いと、やましいことが一切無いと断言できるだろうか?
話題がコールや拍手等の「音声」の問題にばかり傾倒しているが、迷惑行為と呼ぼれる物はそれだけに限らない。先程の蹴りの件はその際たる例だ。
柱の話になったのでそちらで例を挙げると、百歩譲って柱のアイドルの写真を撮る行為はまだわからなくもない(それでも一般の通行人から見たら奇異に見えるだろう)が、柱に抱きついたりしてるのが果たして一般人に良い印象を与えていると言えるだろうか?Twitterでは柱に眼鏡をあてがった写真やメジャーで高さを測った写真が随分とRTされたようだが、それらの行為が一般人の理解を得られると胸を張って言えるだろうか?
ここで言いたいのは「そう言う貴方達も叩かれて然るべき事由がある」ということではない。
「批判する前に一度よく考えてから発言しよう」ということである。
深く考えずに短絡的に叩いていたら、思いもよらない反撃を受けても文句は言えない。そうならない為に、発言内容には常に気を配る必要がある。
よーーーく熟考した上で、それでも批判せずにはいられない時だけ、叩き返されるリスクを認識した上で叩くべきである。人を呪わば穴二つ。アニメ「コードギアス」のルルーシュの言葉を借りるなら「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだ」ということである。
念の為に繰り返す。「叩くな」と言っているのではない、「よく考えろ」と言っているのだ。
私が今回こんな長文を書いているのは、今回の件をTwitter上で批判している人たちが、上記のような特殊な状況について考察すること無く、実際の状況についてきちんと情報を確認もせず、ただ断片的な話だけを元に脊髄反射の如く闇雲に、盲目的に拍手をした人や拍手を促す運営を批判する姿勢があまりにも無責任で、それで良識派を気取っているのがあまりにも目に付いたからである。
私は「アイマス最高」はやらなかったが、あの場には確かにいた。だからと言って、あの「アイマス最高」を擁護するつもりは欠片ほども無い。
ただ、それと一緒くたに他のことまで叩かれている状況が我慢ならなかったのである。
何も考えていないくせに「自分はちゃんとしている良識派です」みたいな態度なのが我慢ならないのである。
最後に。
イベント終了時、閉まりかけたシャッターの向こうでスタッフが「ありがとうございました!」と深々と頭を下げた。
多分、私はそれなんだと思う。
人が話していることがBGMのように聞こえて人と会話をするのが難しい。何回も聞き直して相手を不機嫌にさせてしまうのではないかと思うと楽しく会話もできない。バイト先では指示を聞き取ることができず何回も聞き直し結果耳元で叫ばれる。母に相談すると「またお前は面倒な体質に」とか「なんでそんなに将来働けないような人間になったのか」と言われる。まるでこんな体質になったのはお前自身の責任と言わんばかりの対応。
私は貴方の気持ちわかってる風に話してくる子がいるけどその子は普通に声が聞こえてるし会話もできてるし私の気持ちなんて分かるわけない。どうせかわいそうな人を慰めている自分に酔っているだけでしょって思っちゃう自分が嫌だ。
瞑想って。
運動、瞑想、野菜摂取の人がいるし、怪しいイメージしかなかったんだけど。
そして、その後にニコニコ動画とかでも色々と瞑想向けのBGMが公開されていたり。
色々なんだな。
プログラマー・エンジニアの人達って知識の公開や整理のやり方が、最先端かよ、と思った。
あのオライリーから出ていた「エンジニアのための時間管理」という本にも、著者がヨガに偏見があったために
なかなか、始めることが出来なかったということだったが、
なんか、長続きしないし。
色んな瞑想法もあるし、2chのまとめで、頭がおかしくなった人の告白とか、新興宗教とかもみたので。
やってみようか。瞑想。
中3だった
当時よくあるCDDAによるBGM再生でCD持ってなかったらBGMがでなかった
それでも面白かった
Kanonは大人になったら絶対やる!って思ってたけど、高校在学中に友達が持ってたから借りてプレイした
タイトル画面から一気に心をぎゅーっと持ってかれる朝影好きだった
大学ではAIRの完全版が出たから買って初めて音楽付きでやった
音がなかったからこその感動・若い時の体験の鮮烈さのほうが大きかったんだろう
だいたいは楽しめたけど、長すぎてちょっとしんどかったのと、最後のグランドエンディングっていうんかね、あれで子どものともやが父親と手を繋いでる一枚絵の感動がやばい!!!ってのが世の感想の大半を占めてたけど、自分はまったく感動できなかった
ちゃんと感情移入してプレイしてればそうはならなかったのかもだけど
そこからだ
その後リトバス買ってプレイしたけど、徹頭徹尾まったく合わなかった
薄ら寒いギャグ、だーまえの野球ネタおしつけ、友達グループの馴れ合い・・・
少しセルフ擁護するなら、リトバスは普通の恋愛ゲー、ハーレムゲーというよりかは同性の友達多数がいるってのもでかかった気がする
kanonnairクラなどはなんだかんだで同性ほとんどいなかったし、東鳩から始まる親友一人だけ、もしくは同性ゼロとかもザラだったし
こんなゲームをやる人間にとってリトバスはまぶしすぎただけなのかもしれない
そんでリトバスの頃には、それを楽しむオタクもライト化・リア充化してて、教室の隅っこで固まってるオタクグループしかプレイしないものではなくなっていたのかもしれない
まあそんなのはどうでもいい
年をとったせいか、他にもいろんなえろげーしたせいか、ラノベ、深夜アニメをよく見るようになったせいか、とにかくだーまえの感性に合わなくなってしまった
AB!のアニメも一応全部みたけど、最初から最後までいまいちだった
おふざけとかギャグのレベルがことごとく低く感じられてしまった
あ、智代アフターは一応やった
ラストのラストでトンデモな終わり方する以外は空気な作品だった
でもこれをきっかけにマルマルアフターってのが一時期増えてた気がする
ああ語れば語るほど思いがあふれてくる
自分にとって大きな影響を与えてくれたのは確かだった
ただ世間ずれしてしまった自分はあまりも無邪気すぎる世界は受け付けなくなってしまった
oneも同棲もMOONも、大学のときに買ったけど結局プレイしないまま終わってしまった
普通の恋愛エロゲーと深夜アニメ、ラノベ、マンガの境界もほとんど無いに等しくなってしまった今では、
多くの著名なライターが一般に行ってしまい、エロゲーというフォーマット以外で彼らの作品に触れることができるようになってしまった今では、
陵辱とか一部のジャンルのためにしか、わざわざエロゲーをやる意味がなくなってしまった
そして自分は陵辱とかはそんなに興味がない
30で独身なのにこんなこと書いてる場合じゃないのに俺何やってるんだろう
今はマンガばかり読んでる
あんまりにも絶賛以外の初期批評がボコボコにされるのを見て恐れをなし増田に投下する所存
現実派の赤坂と理想家の矢口という対立描写がされていたが、矢口が非常にできる人オーラを出しているのであまり対比が感じられない。
冒頭で矢口が巨大生物云々という空気の読めない発言をするが、観客からすれば「真実」を指摘しているわけで、この時点での矢口の未熟さを感じる人はあまりいないと思われる。
赤坂が「空気を乱すな」とたしなめるが、この時点で赤坂は矢口に感情移入する観客からすれば嫌な人でしかない。
その後も矢口は周囲のフォローを受けながら巨災対を回していくわけだが、失敗描写が殆どないのでやはり矢口は有能に見えてしまう(よく見ると矢口1人では全く回ってないのだけれど)
よりわかりやすく示しても良いと思った。決定的な失敗をするとか、巨災対に陰口言われるけど成長して信頼されるとか。
とはいえ、現状の構成にも利点はある。矢口に感情移入すれば(そしてそれは容易である)ヒーローとして楽しめるし、深読みすれば矢口の成長物語としても楽しめるので。
実際この2人と、矢口-松尾コンビのやり取りは楽しく見ることができた。
■カヨコ
さんざん言われているけれど、やはり浮いている。怪獣映画であるとしても浮いている。たまにゴジラが一番リアリティないだとか、ヤシオリに向けたリアリティラインの降下要因だとか言われるが納得できない。
対人物と比較したときにカヨコが浮いているのは紛れもない事実である。
人とゴジラが対話してチームでも組むならカヨコの存在は違和感ないかもしれないが、そんな荒唐無稽なことは起こらない。
ゴジラがリアリティがないからカヨコにリアリティがなくても良いという主張は、実質映画の全てを免罪し映画自体の評価を下げてしまうのであまりよろしくないと思う。
カヨコがいたからリアリティが感じられなくなりヤシオリを素直に楽しめたか?NO。
あのテンプレアメリカンキャラ付けとルー語は勘弁して欲しかった。
個人的には老獪な紳士とかだと良いなぁと思います。萌えるので。
■ゴジラの生態
これはこの映画最大の魅力ではなかろうか?
前段で書いたこと、これから後段で書くことはあくまで映画をそれっぽくするためのオマケ。
ゴジラの設定は最高だった。あのぶるぶるするちょっと残念なサンショウウオが画面に現れたときですら大興奮だった。その後のそれっぽい科学的説明(科学的に正しいかは問わない)もそれに拍車をかける。
絶望感を盛り上げるWho will know (24_bigslow)/悲劇(熱線の時のBGM)もいいが、 Persecution of the masses (1172)/上陸も不気味さと不安感を煽る絶妙な音楽だと思う。
日本の武力の総力を投入しても基本的にはただ平然と前進し続けるゴジラ。お決まりの「やったか!?」。この古典的な台詞ですら場面を盛り上げる。
そして熱線。かっこいいの一言に尽きる。まずガスをはき出してそれに引火し、炎が収束していくあの描写はオタク心を存分にくすぐってくれた。ギャレス・エドワーズの熱線描写で大興奮していた自分にとって、あのシーンだけでもこの映画の価値がある。
ガメラ2ラストのような火の海の中で暴れ続けるゴジラを遠くから描いたカットも最高。そして全てが終わった後、エネルギー切れのロボットのように眠りにつくゴジラ。1連の流れは”美しい”の一言に尽きる。この場面だからこそWho will knowも生きる。いきなりIf I died~で始まる歌詞も無駄に示唆的でよい。
その後東京にたたずむゴジラを見たときは少々ギャグっぽいなと思ったが、熱線を掃き終え眠りにつく描写のかっこよさはそれを上回る。
熱線描写までは積極的な破壊をしないところも評価したい。サンショウオゴジラはただ進んでいるだけだが、それだけで甚大な被害をもたらすという絶望感は心地よかった。それは見慣れたゴジラの姿になっても変わらない。
従来策のように、なんでビルに戦いを挑むのかと思わせられる部分はなかった。
■前半と後半の乖離
前半部分の完成度の高さに比べて、映画後半はどうしても見劣りする。
ゴジラという強大な存在感に支えられていた映画が、外国という相手(しかも顔も言葉も見えない!)にその対象を変えたことで一気に魅力が薄れてしまった。
この映画に出てくる外国人は、漫画的テンプレか、顔の見えないよくわからない相手である。正しく世相を反映しているのかもしれないが、ずいぶんと内向的な描き方だと感じる。
さて、後半魅力が薄れた理由は核攻撃とそれに対する主人公達の反応に説得力がなかったからだと思う。露悪的な見方かもしれないが、突然嫌悪感を前面に押し出す主人公達の反応があまりにも唐突に感じられる。
核攻撃の有効性は巨災対の中でも認められている。勿論自分も絶対にノーだが、この映画は前半で日本にとって東京がいかに大切かを延々としゃべらせているので、地方在住の自分としては「地方だったらここまで抵抗するか?」と穿った見方をしてしまう。
理想化の矢口の反応はわかるが、ここで赤坂が感情的になるのも解せない。日本人皆の共通認識と言えばそれまでだが、もっと説得力のある反対理由が欲しかった。ぶっちゃけ核がゴジラにきかないのでは...?という手応えが欲しかった。
ヤシオリ作戦もカタルシスに欠ける。絵のシュールさも勿論、電車爆弾程度でゴジラが転ぶのか?と思ってしまう。脚本の都合上仕方ないかと思うが、観客に仕方ないと思わせている時点で失敗といえる。
地面を爆破してバランスを崩すとか、そういう描写の方が説得力があったかもしれない。
口に散水車で液体を流し込む絵もあまりにもシュール。ヤシオリというかヤケクソ。
前半は素晴らしく没入感のある映画だっただけに、後半冷めてしまったのは本当に残念。とはいえ前半があったが故に後半もまあ許せるかぐらいの気分にはなれるし、この映画を良作たらしめている。
■政治云々
初代ゴジラには議会でゴジラの情報を統制したい与党っぽいおじさんと、事実を公表しろと迫るおばさんのやり取りがあったりする。
一方シンゴジラでは政治の描写は殆どない。基本的には現内閣とその下部の各省庁から集められたチームが職務をこなす様であって、あれは行政と呼ぶべきだろう。
ゴジラが海に帰った後、国会でのやり取りがあっても良かったかも知れない。それこそ初代のようなやり取りを。民主主義云々言うのなら国会と野党を欠くのは片手落ちである。
科学者へ無邪気な信頼を置いているのも気に掛かる。今作はわかりやすいほどに震災モチーフと言われているが、であればあのとき科学がどういう状況だったかを考えるとこの映画は無邪気すぎる。
あのとき間違えたものも正解したものもいた。にも関わらず今作の巨災対の科学への絶対的信頼は怖い。
彼ら・彼女らは行政の人間ではあるが同時に科学知識を持つ専門家としても描かれている。そのギーク達が超人のごとき活躍。本当に福島を扱いたいならあまりに呑気ではないか?
これは穿った見方をすればギークが有能な指導者に見いだされ日本を救う物語とも取れる。この設定は映画の魅力を損ねるわけではないが、高める訳ではない。
また日米の主役である矢口とカヨコは両者とも世襲政治家で若くして高い地位についている。きっと矢口は支持率も高いのだろう。親の七光りも存分に使っている。
これが皮肉なのかどうなのかはわからないが、その上矢口は(危機とはいえ)小休止時にシャワーもせずに働きづめで有り、皆もそうであることを賞賛する。
■総評
って思いついた話。
夏コミも無事に終了したため「シン・ゴジラ」を鑑賞してきました。
ゴジラ氏をはじめとする個性の見える怪獣達に親しみを持っていました。
(当時はモスラが可愛くて好きでした)
更に同時期、我が家でフル稼働していたSSソフト「ゴジラ 列島震撼」をプレイしていたことにより、
私の中のゴジラ氏はすっかり愛着のあるキャラクターと化していました。
※「ゴジラ 列島震撼」…SS向けに1995年に発売されたRTSであり、自軍であるGフォースの兵器を用いて都市部に現れる怪獣を殲滅していくゲーム。
ちなみに難易度が糞高い。基本、複数の怪獣が出てくるステージは怪獣を同士討ちさせることに全力を注ぐプレイが必須。
世間では蒲田くんだなんだと呼ばれて人気の第二形態、あれ普通に恐ろしかったからね!
(しかし早くも二次創作にキャラクター化して落とし込まれる様に日本のオタクのたくましさを垣間見ました)
恐竜とも水生生物ともつかない見た目にエラから露出する赤い中身。
そんな得体のしれない生き物が血を流し、更に大きく進化していく。
最終形態を見たときには絶望しかありませんでした。勝ち目ないじゃん!私アイドル辞める!
今回のゴジラ氏は今までよりも身近な、より現実的な脅威として私達の前に立ちはだかったのです。
さておき、私エヴァも好きなんですね、腐女子的な要素を抜きにしてもすごく。
リアルタイムでは見ていなかったんですが、やはりそこは社会現象。
深夜の再放送などで目にする機会が多く、旧劇場版(区別のため、あえてこう表現します)の
TV版放送のときから新劇場版が上映される今の間にネットなどの情報網も発達し、
隠されていたメッセージや設定など、語り尽くされている感こそありますが
それを置いてなお今も人々の心を捉えて離さない作品だと感じています。
私自身漫画を描く人間なんですが、エヴァのカット割りや間のとり方などの作品に流れるリズムは
今でも参考にしています。
今回の「シン・ゴジラ」、ネットでも様々な方が仰っていますが、
シーン一つ一つの割り方やBGM、果てはヤシオリ作戦への流れ方など
ちゃんとゴジラという枠組みなんですけど、庵野監督の作品に落とし込まれている。
見方を変えれば公式の超金のかかった二次創作との解釈もできてしまうんですが、
多くの人を巻き込んだ一流のエンターテインメントであることは間違いありません。
日本映画の到達した「点」を目の当たりにできたことを幸せに思います。
ゴジラとは綾波レイなのではないか、という妄想、もとい仮説です。
無口で感情に乏しいという日本美少女界のテンプレートを不動のものにしたレジェンド。
彼女は劇中で主人公のシンジと触れ合うことで人間らしさを見せ、
かと思えば新旧劇場版では世界をヤバイ状態に落としこむお茶目さんです。
ミクロな部分で語ると旧劇場版の人がLCLへと変わっていく描写が有名でしょうか。
あの刹那の彼女は、人類それぞれの一番想っている相手へと姿を変えました。
そのキャラクターはシンジはじめ劇中の登場人物、そして庵野監督、
果ては我々観客の望みによって変化し、確立されているように感じるのです。
ゴジラは私が生まれる前から恐怖の象徴として、人類に対峙するものとして、
あるいは正義のヒーローとして、そのかたちを様々に変え今も愛され続けています。
その我々の望みを吸って息をする、ある種世相を反映するあり方に
私は綾波レイと同じ血が流れていると感じたのです。
恐らく今回のゴジラ氏もそうで、あれはきっと我々が望んだ姿なのです。
そしてこれからもゴジラ氏は我々の望みによってその姿を変えていく、
そういう生き物なのかなと。
どんな結末であっても受け止めるのはもちろんなんですが
なかなか希望の持てない現代社会で揉まれる腐女子は思うんです。
考えが浮かんだときはやばい!天才だ!と思ったんですが文章にまとめるとそうでもありませんでした。
お付き合いいただきありがとうございます。熱量を吐き出す場所がほしかったんです。
最後に、多大な熱量でこの作品を生み出してくれた庵野監督には本当に感謝です。
新作のヱヴァンゲリヲン、ご健在のうちに世に出していただければ嬉しいです。
どれだけでも待たせていただきます。