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2024-06-14

官僚の働き方とそれに対する想い

NHKクローズアップ現代官僚の働き方に関する特集がなされ、はてブでも多数のブコメがついた。([B! 労働] “ブラック霞が関”の働き方は変わるのか?現役官僚たちの本音を聞きました - クローズアップ現代 取材ノート - NHK みんなでプラス

[B! 労働] NHKのクローズアップ現代、国家総合職の面接前日に「悲鳴をあげる"官僚”たち」の実態を放送するところから本気度が伺える

だが、ここでの人気ブコメ私自当事者として経験してきたことが大きく乖離しているので、あくまでn=1としての感想を記しておきたい。

自己紹介

本題に入る前に自身の経歴を書いておく。

国家1種(現総合職採用後、複数の本省庁で係長級を3回、課長補佐級を4回、地方機関課長級を2回、都道府県庁課長級を1回経験

本省庁では法案作成予算要求国会対応いずれも経験あり(霞が関残業の大きな要因がこの3つ)。

今は役所から離れたので好き勝手書く。

政治家の答弁を書くのやめれば?

多くのブコメで指摘されていたのがこれだ。確かに国会答弁を作るのは深夜早朝に及ぶことが多く、疲弊する。だが、それが必要なこともまた確かだ。

答弁書作成必要性について

大臣しろ役人しろただの人でスーパーマンではない。そして各省庁の業務はどれも多岐にわたっている。事前に準備して置かなければ、「御指摘の事実について、報道されたことは承知しているものの、事実関係の詳細は承知しておりませんので、調べた上で述べさせていただきます。」とのような答弁が並ぶことになり、国会がまともに運営できなくなる。

なら政治家の答弁は政治家が準備すればいいのでは?

国会での質問は、政治家個人にではなく「○◯省を所管する大臣」に対して行われる。当然、大臣としては◯◯省の組織を使って答弁の準備をするのが職責に適うと思われる。

ちなみに、答弁は政務三役大臣副大臣政務官)だけでなく、役人(おおよそ審議官局長)が行うこともあるが、当然その答弁も担当部局作成する。

なお、政務三役に対する質問で、それが政務三役としてではなく、政治家個人として問われているものについては答弁書作成しないことが一般的だ。例えば政治信条スキャンダルに関するもので、質問票に「政治案件」とかわかるように追記されている。(こういうのって誰が答弁書いてるんだろうね?秘書官を中心にかな?知らんけど)

でも大臣は部下に答弁作らせて自分は帰って寝てるんでしょ?

これは大臣によるが、多くの場合役人の作った答弁書がすべてそのままOKとはならない。

私の経験していた代表的な答弁作成スケジュールと答弁の作り方を示しておく。

(答弁作成スケジュール

委員会2日前

ポツポツ議員から質問案が届くので質問一覧(質問票や問表と呼ばれたりする)とそれに対する答弁案を作り始める。

委員会前日

18時ころになってもまだ質問内容が判明しない議員や、判明したとしてもあまり範囲が広すぎて準備ができないもの代表的なのが質問内容を「内政について」「外交について」とFAXしてきた民主党の某議員うろ覚えだがたしか日曜日の22時だったような))についてバタバタし始める。

遅いとき24時をまわってからの答弁作成になるので、深夜労働は避けられない。

また、22時点までにできあがっている答弁書について、大臣説明する。多くの場合大臣から修正指示が入る。

委員会当日

朝6時頃から大臣説明する。

丸一日委員会(午前3時間午後3時間)が行われる場合各部局が用意する答弁は100問を超える。委員会は朝9時から始まるため、150分ほどで100問分の説明を終わらせる。午後の答弁については昼休みに回すこともある。

ちなみにここでも大臣から修正指示が入ることがある。

正直言って、単純な業務量だけからしても個別の答弁を作っているよりも大臣の方がかなりキツイと思う。あの人達過労死しないのは謎だ。

(答弁作成の流れ)

例えば、「○県△市で□が起こっていると聞いた。住民科は打数の苦情が出ているそうだが、国としても対応するつもりはあるのか」という問いだったとしよう。

まず行われるのは、どの省局課係がその答弁を書くのかという綱引きだ。その答弁なら当然うちが、というものもあれば、そんなの書きたくないよという押し付け合い(消極的権限争いともいう)もあるが、概ね1時間程度で決定される。

次に事実関係確認だ。質問の前提となる事実が正確かどうか確認をする。

質問者がかなり角度をつけて事実を述べていることがあるので、国の出先機関都道府県市町村にお願いして情報を出してもらう。ここの数字が少しでもズレると「隠蔽だ」などと言われるので慎重かつ迅速に行う。データベース化されていればいいのだが、すべてのことのデータベース化など不可能だ。

事実関係確認が終われば答弁の作成に入る。ぶっちゃけここは大して時間はかからない。長くても1時間もあれば終わる。

そして、上司了解を取る。局長答弁であれば、課長補佐課長局長了解さえ取れば良い。ここは常日頃から意思疎通もできているので簡単だ。大臣答弁であれば、局内だけでなく、大臣官房(会社組織で言うところの総務部とかの中枢部門)の了解がいる。ここは局としての答弁ではなく、省全隊の答弁として適切かどうかという観点からチェックするので割と修正が入ることが多い。

それと並行して、他省庁に関係が及ぶ答弁になると関係省庁の同意(合議(あいぎ))を取っておく。国会答弁は政府としての約束になるので、ここで大臣が「やります」と答えて、実施のために予算必要になった場合財務省承知していないと困るわけだ。

この、関係各者への了解を取り付ける作業が極めて長い。全体としての整合性を問われなきゃ楽なんだろうけどそういうわけにもいかないだろう。

官僚が辞めるのは政治人事権を取られたか

一番疑問に感じているところはここだ。正直言ってこれで役人待遇が下がったとは思えない。

何故か。そもそも内閣人事局ができる前も、幹部公務員の人事は政治家意向が反映されていたからだ

内閣人事局ができる前から、各省庁の公務員人事権は各大臣が握っているので当然だ。だから内閣人事局ができて変わったことと言えば、人事に各省大臣だけでなく総理大臣意向が反映されるようになったことくらいだろうか。そして、それはとき政治家によって積極的行使される場合もあれば、「よきにはからえ」とされることもあるだけだ。

私の目の前で局長大臣反論してすぐ飛ばされたのを見たときは戦慄した。

もともと、役人の間では、「真ん中以上でいれば指定職(審議官局次長クラス。このクラスまでなると退職金が跳ね上がるので一つの目標)まではなれる。それ以上は政治が絡む」ってのは共通認識だったと思う。

ただ、内閣人事局ができたせいで官僚自律性が落ちた、や政治家の言いなりになるようになった、などと大々的に報道されることによって学生の方々にそのような認識が植え付けられ、志願者減につながっている可能性は否定しないが。

じゃあ辞める理由って何だよ

役所に入る時点で政治家コンサル等に転じる予定だった人はともかく、入ってから宮仕えにネガティブな印象を持って去っていくのは、概ね①激務に耐えかねて、②ワークライフバランス確保のため、③より高い報酬を求めて、の3通りだ。割合からすると20%、30%、50%くらいだろうか。

①激務

人を増やすことで一定程度の解消は可能だが、この施策賃金出世の下方圧力になる。

今なおあえて霞が関に残っている人からすると、賃金はともかく出世競争相手が増えるというのはモチベーションに響きそうだ。

ちなみに、20年ほど前に活発にブログを書かれていた官僚bewaadさんは概ね以下のようなことを述べていた気がする。

役人として入ってくる人は激務には耐えられる人が多い。薄給もまぁそう。ただ、いわれのないバッシングは堪える。

○今後、全ての面で官僚待遇が上がることはないだろうから官僚の質の低下は受け入れるべき。

霞が関マニュアルを嫌うが、霞が関仕事の仕方もマニュアル仕事にするべきではないか

ワークライフバランス

①と似ているが、こちらは育児介護などライフイベントで去らざるを得なくなるケースだ。この場合、概ね地方公務員なんかが受け皿になることが多い。また、本人が降格願いを出して、ほぼ転勤がない強度の低い仕事に移ることも多い。

あと、省庁にもよるが頻繁に転勤がつきもののところもある。役人同士なら転勤先を配慮してくれたりもする(配偶者留学に同行するための休職なんてのもある)が、そうでもなければ別居や単身赴任となる。このご時世それで人を引き留めたりは難しいだろう。

報酬

私の周りの場合ほとんどがこれだった。特に外資コンサルへの転職典型的だ。

特に結婚したり子供ができたりして、これからどれくらい必要真剣に考え始めると、その誘惑は抗いがたい。

必ずしも悪いことではなく、正当に評価されるところにいくのは当然だと思われる。

(ちなみに学歴的にも経歴的にも決してキラキラしてないフツーの役人給料倍以上でオファーがある。景気良いね

結論

引き止めるためにはとにかく金。

金を出せばガツガツとした役人候補は群がる。

あとはできればちょっとした敬意。一応叙勲対象にはなるけど、今どき70歳を超えてからなのはねぇ。旧軍みたいに感状でも出すか?

もう一つ、別の視点からだと、労働時間の上限を決めて必ず守らせ、それにより発生するミスは受け入れること。役人の中にはいろんな意味仕事が大好きな人も多い。無給だろうがどんどん働く人達だ。また、この人たちはえてして極めて有能であり、役所仕事の大きな部分が担われているのも間違いないのだが、この人たちの働き方が標準になってしまっていて、皆それに合わせざるを得なくなっているのもまた否めないところだ。

なら、労働法と同じように上限も決めてしまって、彼らに一切働かせないとしてはどうだろうか。(というか今でも一応上限はあるんだけどね、有名無実になってるだけで)

最後の案は仕事クオリティは間違いなく下がるけど、持続可能性という意味ではアリではないかな?

余談

ちなみに、少なくとも2年前の時点では霞が関の勤務環境20年前と比べたらずいぶんと改善されている。財務省説明に行ったら怒鳴られて灰皿を投げつけられたなんて噂が残ってたような時代だが。

ただ、民間側の改善スピードに多く追いついていないのが現実だ。

2024-06-13

弱者男性よ、今日から人生を止めるんだ!

弱者男性人生ってただただ無駄じゃん。

それでさ、おまえら人生に一日24時間を費やすとするじゃん?

そうなると、一年で、24時間x365日=8760時間無駄になっているんだ。

睡眠を除いた一日の活動時間を16時間計算すると、約547日分だ。


おまえら人生に励むことによって、年間、常人の547日分を無駄にしてるんだ。

とっとと死んだら、どれほどの有益か。

弱者男性よ、今日から人生を止めるんだ。

仕事が忙しくて家帰るのが22時で24時には寝るんだけど兄嫁(自称専業主婦)がちょうどその時間に1時間上長風呂するからいい加減ブチギレて扉ブチ開けて無理やりシャワー浴びた

あとから冷静になって訴訟でもされかねんなと思ってたらなんかまんざらでもない顔してた

なんなんこいつ頭イカれとる

出ていってくれ

anond:20240613130016

間に食事とったり水分補給いれたりしながら1日10はいけるよ

ガチ24時間でだけど

[]ファン感謝祭ツアーリフレッシュ 野河田監督ファンと素晴らしい交流ができた」

 オレオレFCは3日からファン感謝祭ツアーが始まり、3日には横浜オレオレホール、9日には静岡オレオレホールファン感謝祭を開催した。選手監督ビンゴ大会地元グルメクイズリフティング対決などの企画に挑戦した。野河田監督は「ファンと素晴らしい交流ができた。ファン応援を力に変えて今後の試合でも良い結果を残せるようにサポートしていきたい」とコメントした。

 今日12日には天皇杯2回戦・クズ大戦が開催される。明日13日には仙台オレオレホール20日には京都オレオレホール24日には東京オレオレホールファン感謝祭ツアーが開催される。

彼女の喘ぎ声がVTECみたいで別れたい

2024/06/13(木) 00:29:22.571 ID:HbDECteHI

切り替わる

2024/06/13(木) 00:31:00.166 ID:UDANEcNTt

モナコの喘ぎ声の動画思い出した

2024/06/13(木) 00:32:10.073 ID:5YozteQUf

ナニワトモアレシルビアちゃん

2024/06/13(木) 00:35:42.215 ID:YSatJPzlC

EGsex

2024/06/13(木) 00:38:48.232 ID:BAcVmzNfT

ヒロさんかな

2024/06/13(木) 00:39:23.433 ID:k/.vePdka

うるさいですね

2024/06/13(木) 00:43:24.531 ID:Df11rPdLT

ンバァアアアアアア

anond:20240612202143

ライトノベルという名称が生まれた時点でコバルト系の小説ははっきりと含まれてたってことはもう少し知られてもいいとは思う

ライトノベル少女向けレーベルは含まれるのかの議論になると明らかにこのへんを事実誤認のまま語られることが多いか

ライトノベル - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB

ライトノベル」の命名は、1990年初めにパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジーフォーラム」において、それまでのSFファンタジーから独立した会議室を、会議室シスオペであった“神北恵太”[注 1]が「ソノラマ・コバルト」などのレーベルから出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まりであるとされる[23][24]。

2024-06-12

JTCさん、本格的に日本破壊している模様

悲報日本人貧乏なのはJTC製造業が原因だった

日本実質賃金低下は労働分配率の低下が原因

IT産業への転換失敗、労働生産性の低さが日本人給料低下の原因と言われているが

実際は企業利益労働者に配る比率(労働分配率)が低下しただけの模様

https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=78664?site=nli

なお労働分配率については大企業が一番下がっている

中でも製造業生産性が上がっても従業員還元しない文化がある

https://i.imgur.com/D6txsPg.png

https://i.imgur.com/2cO3mOX.png

付加価値額(売上高ー原価)の推移も大企業一人勝ち

日本中小製造業大企業製造業部品供給しているメーカー構成されているが、大企業に安く買いたたかれている

直近30年分の利益増加はすべて大企業に取られている上に、中小企業にも従業員にも分配しないという構造になっている

https://i.imgur.com/4fZYcQq.png

https://i.imgur.com/W9cPr4E.png

前代未聞の物価高の状況下、下請けに"強制値下げ"させたクソ日産

https://news.yahoo.co.jp/articles/ea77fbda25f39bc1ae6b00cd578107a8260f0258

23年度に比べ24年度利益3兆円のトヨタ下請けへの還元はたった3000億円

https://txbiz.tv-tokyo.co.jp/txn/news_txn/post_296048

JTCさん、本格的に日本破壊している模様

悲報日本人貧乏なのはJTC製造業が原因だった

日本実質賃金低下は労働分配率の低下が原因

IT産業への転換失敗、労働生産性の低さが日本人給料低下の原因と言われているが

実際は企業利益労働者に配る比率(労働分配率)が低下しただけの模様

https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=78664?site=nli

なお労働分配率については大企業が一番下がっている

中でも製造業生産性が上がっても従業員還元しない文化がある

https://i.imgur.com/D6txsPg.png

https://i.imgur.com/2cO3mOX.png

付加価値額(売上高ー原価)の推移も大企業一人勝ち

日本中小製造業大企業製造業部品供給しているメーカー構成されているが、大企業に安く買いたたかれている

直近30年分の利益増加はすべて大企業に取られている上に、中小企業にも従業員にも分配しないという構造になっている

https://i.imgur.com/4fZYcQq.png

https://i.imgur.com/W9cPr4E.png

前代未聞の物価高の状況下、下請けに"強制値下げ"させたクソ日産

https://news.yahoo.co.jp/articles/ea77fbda25f39bc1ae6b00cd578107a8260f0258

23年度に比べ24年度利益3兆円のトヨタ下請けへの還元はたった3000億円

https://txbiz.tv-tokyo.co.jp/txn/news_txn/post_296048

一体型のSwitchをだしてほしい

モニターと一体型のAll in Oneパソコンってあるけど、ああいうの。

24インチくらいのモニターで。

モニターにつないで遊んでるけどコードがゴチャっとなっていやだわ。

一体型なら電源コード一本ですっきりするのに。

anond:20240611223050

婚活的に「すごく難しい条件」で相手を見つけようとしている

ささやか幸せを共有したい、という方向性共感してくれて、上に書いた洗濯とか料理とかをメリットだと感じてくれる人

これは、一見するとスペックにこだわりがない簡単な条件のように見えるけど、こういった「人柄」を第一条件にするのはマチアプのような婚活では実は一番難しい。なぜなら「人柄」を条件に検索はできないので、会ってみるまで分からいから。

年収学歴身長・見た目(写真)のような婚活プロフィールですぐわかるスペックを明確に条件に設定した方が、会う前にプロフィールの段階で絞り込めるので婚活を進めやすい。

結婚相談所の話だけどこの動画が参考になるかな

人間性重視で目に見える数字条件にほとんどこだわりのない人が婚活長期化しやす理由対策について

https://youtu.be/DhMCPSjnrnA?si=ApwWs0PtMgcjA6qa

ではどうすればいいか

求める人柄を数値的なスペックに置き換える

元増田を読んで思ったのは、求めている人がいる階層と実際に会っている人の階層がずれているのでは?ということ。

自分が求める人柄の人がどんな階層集団に多いのか(年収学歴職業など)を考えて、その階層集団の人に会うようにしていく。

自分からアプローチする(いいねをつける)

婚活出会えるいい人っていうのは、新規登録して最初の頃にマッチングした人と結婚していく人なので、新規登録の人で良さそうな人にいいねして会った方が、いい人に会える確率は上がる。

元増田がいい人に会えていないのは、「いいね」待ちの姿勢いるから「長期間婚活をしているのに結婚できない人」にばかり会ってしまっているからのような気がする。

新規の人に会った方がいいという理論こちらをみて → https://anond.hatelabo.jp/20240228190945

たくさんの人に会う

人柄はプロフィールだけでは分からないので、どんどん会って、合わないと思ったらさっさと切っていく。

自分アプリで4人会ったけど、会うまで手間がかかりすぎると感じて結婚相談所に入って24人と会ってその中の1人と結婚したので、結婚相談所に入った方がいいんじゃないの?と思う、、、

追記しました】時々幽霊になっていた

朝、いつもよりゆっくりめに出勤する。定時数分前にデスクに着き、私、今日幽霊なので!と宣言する。

幽霊なので電話は取らなくていいし、追加で仕事を頼まれることもない。

自分仕事にだけ取り組めば良いのだ。

疲れた職場を出てコンビニコーヒーを買いに行って気分転換してもいい。携帯をいじってリフレッシュも出来る。

いつもの様に時間に追われて次から次へと来る仕事を何が何だかからないままこなして、頭がオーバーヒートしてることは理解してるけどとにかくやらないといけない毎日と違って、私は「幽霊の日」が結構好きだった。

この幽霊の日が私にとっての有給日だった。

ほんとにね、今思うと何言ってるの馬鹿じゃないの???って話だけど、その時は大真面目にやってたんだよね。

幽霊の日、私はいない、ということにする。そして仕事をするのだ。幽霊の日=有給とりつつ仕事をする日、だった。

働き始めの頃は理解できなかったけど、増え続ける仕事に追われるうちになんて効率的なんだろう!!って思っちゃってた。取らないといけない有給も消化できるし仕事も進む!!お昼もゆっくり食べれる!!朝から夜まで本来見てはいけない携帯も、幽霊の日なら自由に見られる!休憩という時間がある!

一緒に働いているみんなもそんな感じ。有給とってもやることないしね〜笑って言ってみんな毎日働いてた。

平日勤務の仕事だったけど、土日もだいたいどっちかきてた。電話かかってこないし仕事が進むわ〜!ってキャッキャしてた。

もちろん残業代はない。カウントすらしてない。

ブラックなのは分かってたけど、なんかチームというか連帯感?が生まれしまって

「こんなしんどい環境で頑張り続ける私たち、かっこいいよね!」

って認識だった。ほんとあたまおかしいよね。

まぁそんな感じだったか普通に心と体を壊して辞めた。辞めざるを得なかった。

最後の頃は本当に頭がおかしくなってて、歩き方が分からなくなったり(右足と左足が上手く交互にだせなくなる)、車がどっちの車線を走るのかわからなくなって運転できなくなった。何度も確認して、ほくろがある左手が私が走って良い車線だ、左、左、左手?左ってどっちだ?ってなったりしてた。

倒れて精神科に行って、仕事に行くな!って先生に止められたけど、私にしかからないんです!私しか!!って言ってベッドの中でひたすら業務メールを返してた。職場にいる人に指示を出してやってもらってた。やってもらうことに対してすごく罪悪感があって、毎日謝ってた。傷病休暇中だったのにね。

しばらく治療を続けて異常性に気がついた。というか、実家に住んでたんだけど上司が毎週家に励ましにきてたんだよね。もちろん罪悪感でいっぱいだから会う時は目を合わせず土下座したまま、ごめんなさい、ごめんなさい、ってだけ言った。

それをみた両親がただ事ではないことに気がついてくれて、無理やり引き剥がしてくれた。しばらくは職場からの鬼連絡があったけどなんとかなくなった。ありがとう

その後はしばらく休んで、バイト契約社員派遣社員…とどんどん社会復帰できてきている。

派遣来年で満期だから、次は正社員に戻ろうと思ってる。

でもやっぱり時々思い出してどうしようもない状態になる。

.

追記

夜中眠れなくてなんとなく書いたものが思ったよりも伸びててびっくりした。

なんで辞めないんだ!とかおかしい事に気が付かないなんて!とか言われてるだろうな、って思ってたのに心配してくれたり労ってくれたりする人が多くてまたまたびっくりした。みんな優しいなぁ。ありがとう

そして幽霊制度意外と使われてるんだね。良くないけど仕事が進むのは事実なんだよね、ダメだけど。

私の職場はみーんな同じ感じだったよ。みんな幽霊。そういう制度、当たり前にあるって認識だった。

そしてせっかくなので頭おかしかった時のエピソードを追加する。↓

.

パジャマを着ずに次の日の服を着て寝ていた。パジャマを着てしまうと仕事に行きたくなくなってしまい準備の時間が足りなくなるため。画期的アイデアだと思っていた。

24時間落とさなくても良いコスメを使っていた。疲れて寝落ちしてしまうため。肌は荒れた。美容医療に頼っても未だ治らず。

仕事が終わっても、なかなか家にたどり着けなかった。退勤経路で動けなくなってしまうため。コンビニコーヒーを飲んで1時間程度ぼーっとしていた。セブンホットカフェラテいちばん美味しい。アイスコーヒーファミマ

・歩くと目の前が真っ暗になりクラクラして動悸がとまらないことがあった。でもそういう時はしばらく座ってれば治るから大丈夫!いつものこと!だった。

文字にしてみると異常としか思えないけど、その時は普通だったんだー。

今は毎日心穏やかに過ごせている。生きるか死ぬかだったから本当に良かった。

最後に、これで手取り14万だった。そのあと適当に始めたバイトの方が稼げて笑った。

転職活動がんばるぞ!良い企業出会ますように。

2024-06-11

はてな 従業員数 193名

今期 経常利益予想 4800万

1人当たりの年間利益 24万8千円

月にすると2万円720円

1日あたり690円

今期は以上の予定

とのこと

anond:20240611173101

東京小選挙区蓮舫と戦えそうな自民議員

萩生田(24区)→まあなんだかんだいっても強いので蓮舫相手でもたぶん勝つ

木原20区)→弱くはないが、殺人スキャンダルはさすがにヤバそう。蓮舫相手だと負けてもおかしくない

平沢17区)→強いけどもう80だからなあ、さすがに蓮舫勝ちそう

・平(4区)→強いけどなんか地味だから蓮舫勝ちそう

下村11区)→いろいろあったし蓮舫勝つだろなあ

井上(25区)→萩生田の次に勝てそうなのはこいつかな?というか萩生田より勝ち目ありそうな気がしてきた

上記以外は100%蓮舫が勝つ

Betsy and Solomon lived happily through that winter and spring, and before summer came we had made up our minds to return to the East. What should we do with the owls? They would be a great deal of trouble to some one. They required an immense amount of petting, and a frequent supply of perfectly fresh meat. No matter how busy we were, one of us had to go to the butcher every other day.

We began to inquire among our friends who would like a nice, affectionate pair of owls? There seemed no great eagerness on the part of any one to(23) take the pets we so much valued. Plans for their future worried me so much that at last I said to my sister, “We will take them East with us.”

The owls, who were to take so long a journey, became objects of interest to our friends, and at a farewell tea given to us, a smartly dressed young man vowed that he must take leave of Solomon and Betsy. Calling for a broom, he slowly passed it to and fro over the carpet before them, while they sat looking at him with lifted ear tufts that betrayed great interest in his movements.

We trembled a little in view of our past moving experiences, but we were devoted to the little creatures and, when the time came, we cheerfully boarded the overland train at Oakland.

We had with us Betsy and Solomon in their large cage, and in a little cage a pair of strawberry finches, so called because their breasts are dotted like a strawberry. A friend had requested us to bring them East for her. We had also a dog—not Teddy, that had only been lent to us; but our own Irish setter Nita, one of the most lovable and interesting animals that I have ever owned.

The chipmunk was no longer with us. He had not seemed happy in the aviary—indeed, he lay down in it and threw me a cunning look, as if to say, “I will die if you don’t let me out of this.” So I gave him the freedom of the house. That pleased him, and for a few days he was very diligent in assisting us with our housekeeping by picking(24) all the crumbs off the floors and eating them. Then he disappeared, and I hope was happy ever after among the superb oak trees of the university grounds close to us.

When we started for the East, the pets, of course, had to go into the baggage car, and I must say here for the benefit of those persons who wish to travel with animals and birds, that there is good accommodation for them on overland trains. Sometimes we bought tickets for them, sometimes they had to go in an express car, sometimes we tipped the baggagemasters, but the sums spent were not exorbitant, and we found everywhere provision made for pets. You cannot take them in your rooms in hotels, but there is a place for them somewhere, and they will be brought to you whenever you wish to see them, or to give them exercise. We were on several different railway lines, and visited eight different cities, and the dog and birds, upon arriving in eastern Canada, seemed none the worse for their trip.

However, I would not by any means encourage the transportation of animals. Indeed, my feelings on the subject, since I understand the horrors animals and birds endure while being whirled from one place to another, are rather too strong for utterance. I would only say that in a case like mine, where separation between an owner and pets would mean unhappiness, it is better for both to endure a few days or weeks of travel. Then the case of animals(25) and birds traveling with some one who sees and encourages them every day is different from the case of unfortunate creatures sent off alone.

Our Nita was taken out of the car at every station where it was possible to exercise her, and one of us would run into restaurants along the route to obtain fresh meat for the owls. Their cage was closely covered, but whenever they heard us coming they hooted, and as no one seemed to guess what they were, they created a great deal of interest. My sister and I were amused one evening in Salt Lake City to see a man bending over the cage with an air of perplexity.

“They must be pollies,” he said at last, and yet his face showed that he did not think those were parrot noises issuing from within.

I remember one evening on arriving in Albany, New York, causing slight consternation in the hotel by a demand for raw meat. We hastened to explain that we did not want it for ourselves, and finally obtained what we wished.

As soon as we arrived home in Halifax, Nova Scotia, the owls were put downstairs in a nice, dry basement. They soon found their way upstairs, where the whole family was prepared to welcome them on account of their pretty ways and their love for caresses.

Strange to say, they took a liking to my father, who did not notice them particularly, and a mischievous dislike to my mother, who was disposed to(26) pet them. They used to fly on her head whenever they saw her. Their little claws were sharp and unpleasant to her scalp. We could not imagine why they selected her head unless it was that her gray hair attracted them. However, we had a French Acadian maid called Lizzie, whose hair was jet black, and they disliked her even more than they did my mother.

Lizzie, to get to her storeroom, had to cross the furnace-room where the owls usually were, and she soon began to complain bitterly of them.

“Dey watch me,” she said indignantly, “dey fly on my head, dey scratch me, an’ pull out my hairpins, an’ make my head sore.”

Why don’t you push them off, Lizzie?” I asked, “they are only tiny things.”

“Dey won’t go—dey hold on an’ beat me,” she replied, and soon the poor girl had to arm herself with a switch when she went near them.

Lizzie was a descendant of the veritable Acadians mentioned in Longfellow’s “Evangeline,” of whom there are several thousand in Nova Scotia. My mother was attached to her, and at last she said, “I will not have Lizzie worried. Bring the owls up in my bathroom.”

There they seemed perfectly happy, sitting watching the sparrows from the window and teasing my long-suffering mother, who was obliged to give up using gas in this bathroom, for very often the owls put it out by flying at it.

(27)

One never heard them coming. I did not before this realize how noiseless the flight of an owl is. One did not dream they were near till there was a breath of air fanning one’s cheek. After we gave up the gas, for fear they would burn themselves, we decided to use a candle. It was absolutely necessary to have an unshaded light, for they would perch on any globe shading a flame, and would burn their feet.

The candle was more fun for them than the gas, for it had a smaller flame, and was more easily extinguished, and usually on entering the room, away would go the light, and we would hear in the corner a laughing voice, saying “Too, who, who, who, who!”

The best joke of all for the owls was to put out the candle when one was taking a bath, and I must say I heard considerable grumbling from the family on the subject. It seemed impossible to shade the light from them, and to find one’s self in the dark in the midst of a good splash, to have to emerge from the tub, dripping and cross, and search for matches, was certainly not calculated to add to one’s affection for Solomon and Betsy. However, they were members of the family, and as George Eliot says, “The members of your family are like the nose on your face—you have got to put up with it, seeing you can’t get rid of it.”

Alas! the time soon came when we had to lament the death of one of our troublesome but beloved pets.

Betsy one day partook heartily of a raw fish head,(28) and in spite of remedies applied, sickened rapidly and sank into a dying condition.

I was surprised to find what a hold the little thing had taken on my affection. When her soft, gray body became cold, I held her in my hand close to the fire and, with tears in my eyes, wished for a miracle to restore her to health.

She lay quietly until just before she died. Then she opened her eyes and I called to the other members of the family to come and see their strange expression. They became luminous and beautiful, and dilated in a peculiar way. We hear of the eyes of dying persons lighting up wonderfully, and this strange illumination of little Betsy’s eyes reminded me of such cases.

Even after death she lay with those wide-open eyes, and feeling that I had lost a friend, I put down her little dead body. It was impossible for me to conceal my emotion, and my mother, who had quite forgotten Betsy’s hostility to her, generously took the little feathered creature to a taxidermist.

I may say that Betsy was the first and last bird I shall ever have stuffed. I dare say the man did the work as well as it could be done, but I gazed in dismay at my Betsy when she came home. That stiff little creature sitting on a stick, with glazed eyes and motionless body, could not be the pretty little bird whose every motion was grace. Ever since the day of Betsy’s death, I can feel no admiration for a dead bird. Indeed, I turn sometimes with a shudder(29) from the agonized postures, the horrible eyes of birds in my sister women’s hats—and yet I used to wear them myself. My present conviction shows what education will do. If you like and study live birds, you won’t want to wear dead ones.

After Betsy’s death Solomon seemed so lonely that I resolved to buy him a companion. I chose a robin, and bought him for two dollars from a woman who kept a small shop. A naturalist friend warned me that I would have trouble, but I said remonstratingly, “My owl is not like other owls. He has been brought up like a baby. He does not know that his ancestors killed little birds.”

Alas! When my robin had got beautifully tame, when he would hop about after me, and put his pretty head on one side while I dug in the earth for worms for him, when he was apparently on the best of terms with Sollie, I came home one day to a dreadful discovery. Sollie was flying about with the robin’s body firmly clutched in one claw. He had killed and partly eaten him. I caught him, took the robin away from him, and upbraided him severely.

“Too, who, who, who who,” he said—apologetically, it seemed to me, “instinct was too strong for me. I got tired of playing with him, and thought I would see what he tasted like.”

I could not say too much to him. What about the innocent lambs and calves, of which Sollie’s owners had partaken?

(30)

I had a fine large place in the basement for keeping pets, with an earth floor, and a number of windows, and I did not propose to have Sollie murder all the birds I might acquire. So, one end of this room was wired off for him. He had a window in this cage overlooking the garden, and it was large enough for me to go in and walk about, while talking to him. He seemed happy enough there, and while gazing into the garden or watching the rabbits, guineapigs, and other pets in the large part of the room, often indulged in long, contented spells of cooing—not hooting.

In 1902 I was obliged to leave him for a six months’ trip to Europe. He was much petted by my sister, and I think spent most of his time upstairs with the family. When I returned home I brought, among other birds, a handsome Brazil cardinal. I stood admiring him as he stepped out of his traveling cage and flew around the aviary. Unfortunately, instead of choosing a perch, he flattened himself against the wire netting in Sollie’s corner.

I was looking right at him and the owl, and I never saw anything but lightning equal the celerity of Sollie’s flight, as he precipitated himself against the netting and caught at my cardinal’s showy red crest. The cardinal screamed like a baby, and I ran to release him, marveling that the owl could so insinuate his little claws through the fine mesh of the wire. However, he could do it, and he gripped the struggling cardinal by the long, hair-like(31) topknot, until I uncurled the wicked little claws. A bunch of red feathers fell to the ground, and the dismayed cardinal flew into a corner.

“Sollie,” I said, going into his cage and taking him in my hand, “how could you be so cruel to that new bird?”

“Oh, coo, coo, coo, coo,” he replied in a delightfully soft little voice, and gently resting his naughty little beak against my face. “You had better come upstairs,” I said, “I am afraid to leave you down here with that poor cardinal. You will be catching him again.”

He cooed once more. This just suited him, and he spent the rest of his life in regions above. I knew that he would probably not live as long in captivity as he would have done if his lot had been cast in the California foothills. His life was too unnatural. In their native state, owls eat their prey whole, and after a time disgorge pellets of bones, feathers, hairs, and scales, the remnants of food that cannot be digested.

My owls, on account of their upbringing, wanted their food cleaned for them. Betsy, one day, after much persuasion, swallowed a mouse to oblige me, but she was such a dismal picture as she sat for a long time with the tail hanging out of her beak that I never offered her another.

I tried to keep Solomon in condition by giving him, or forcing him to take, foreign substances, but my plan only worked for a time.

(32)

I always dreaded the inevitable, and one winter day in 1903 I looked sharply at him, as he called to me when I entered the house after being away for a few hours. “That bird is ill!” I said.

No other member of the family saw any change in him, but when one keeps birds and becomes familiar with the appearance of each one, they all have different facial and bodily expressions, and one becomes extremely susceptible to the slightest change. As I examined Sollie, my heart sank within me, and I began to inquire what he had been eating. He had partaken freely of boiled egg, meat, and charcoal. I gave him a dose of olive oil, and I must say that the best bird or beast to take medicine is an owl. Neither he nor Betsy ever objected in the l

2024-06-10

anond:20240610211205

直近だとロマサガソシャゲ24時間超えをやってたはず。

それなりに売れてるゲームなのにこの体たらく…これがスクエニ現実…。

ニコニコ怒りの48時間超えメンテ突入

24時間以上メンテしてたサービスって最近なんかあったっけ

自分の印象だとFGOあんスタがクソ長メンテしてた記憶

クルド人不法滞在ってこういうことなんじゃないか

知らんだろうけど、あいつ等って不法滞在しに来てるぞ?

日本に住む為ってよりも不法滞在目的なんだよ

何でこんなことが起きるのかって言うと、日本に来て難民申請すると保護費が支給される

その保護費が以下のような例になる

「5人家族場合保護費(ひと月あたり)

生活費: 約18万円

大人2人:約14.4万円

子供3人:約3.6万円

住居費: 6万円

医療費: 30,000円(上限)

合計: 約24.6万円」

から難民申請を繰り返し繰り返し行って日本不法滞在するんだよ

難民申請が通りにくく何回でも申請できるから日本福祉文字通りフリーライドすることが目的

毎回、難民申請通らないでくれって思いながら難民申請してんのよ

はてな民って福祉へのフリーライドとか大嫌いなはずなのに、何でクルド人のことは許してるんだ?

2024-06-09

anond:20240609233342

データセンター24/365だし、運用チームだけでなく、

インフラ(ネットワークサーバー構築)チームもその上に乗っかってるアプリ開発者も、

それらの上長にも緊急連絡取れるよ。このレベルならな

だって億以上の金が飛びます

キュアリリアン

2024/6/9、わんだふるぷりきゅあ!で猫屋敷まゆさんがキュアリリアンに変身されました。溢れる想いのままにこの文章を書いています

私は2007年プリキュア5出会い作品のダークながらも引き込まれストーリー、そして何より春日野うららさんとキュアレモネードの可愛さに魅了されてプリキュアファンになりました。プリキュア5が始まった当時私は小学1年生でまだたったの7歳でした。

それからは熱心になったり少し気持ちが離れたりした時期もありつつも、ずっとプリキュアと共に歩んできた人生だったと言っても過言ではありません。

Go!プリンセスプリキュアで何度泣いたか分かりません。キュアフローラはずっと私の1番のヒーローです。

そんな私もいつの間にか中学後半~高校生にかけて深夜アニメを見るようになり、そして声優オタクになりました。

声優オタクは移り気ですが、一貫して私が持っていた思いは「好きな女性声優さんにプリキュアになって欲しい」でした。接近イベに行ってはプリキュア声優になって欲しい話をし、プリキュアの思い出話を聞き出し、毎年12月1月にかけてプリキュア声優予想をし、発表されては肩を落とす、そんな日々の繰り返しです。

2020年、当時私が熱心に応援していた方がプリキュアへのご出演が決まったのですが、絶対追加戦士だと思っていたのに結局マスコットで終わってしまい酷く落ち込んだのを今でも鮮明に覚えています

そんな中で忘れもしない2024年1月28日、わんだふるぷりきゅあ!の追加キャストが発表されました。

キュアリリアン上田麗奈

あれはまさに上田麗奈さんのラジオイベントに行った日でした。オタクと別れて電車に乗ってTwitterを見た瞬間に時間が止まりました。100回ツイートを見返して、本当だとわかった時の感動は言葉に表せないほどでした。電車の中で人目も気にせず24の男が泣きました。涙が止まりませんでした。ついに10年の願いが叶うんだと。

私が上田麗奈さんに出会ったのは2014年ハナヤマタでした。ハナヤマタは本当にいいアニメで大好きだったんですが、当時は私も駆け出しオタクだったので、主人公役が上田麗奈さんって人なんだってくらいの認識でした。ただ好きな作品主人公として間違いなく好きな声優さんの1人になりました。

今でも上田麗奈さんの一番好きなキャラハナヤマタ主人公、関谷なるさんです。

そもそもオタクでない時代に、デビューであるイナズマイレブンGOを知らぬままリアルタイムで見ていた人間だったのである種運命だったのかもしれません。

その後ミリオンライブにも触れたり、17から始まった高橋李依さんとのラジオを聞いたりして高校オタク声優談義をしたりしていたのですが、決定的になったのは恐らく多くの人がそうでしょう、私も例に漏れ2018年のSSSS.GRIDMANでした。当時24歳でまだキャリア的にも若手だった上田麗奈さんがあの掴みどころがなく狂気的でありながらも愛おしい新条アカネ役をこの人しかいないという素晴らしい演技で演じきったのを見て、その演技に、才能に完全に大ファンになりました。

2018年はもう売れ出した頃だったのですが、以降の上田麗奈さんはもうまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していきました。私の大好きなフルーツバスケットにもご出演されてたり、今熱心にプレイしてるプロジェクトセカイでも主要キャラを務められていたり、本当に感謝してもしきれないような存在になっていきました。

極めつけはこれも忘れもしない2023/11/20です。この日は私が以前から人生で一番と言っても過言ではないくらいに夢中で、熱心に愛読している漫画、アオのハコのアニメ化が発表された日でした。そしてヒロイン鹿野千夏さんの声優上田麗奈さんであることも同時に発表され、この日も深夜に大号泣しました。これで私の気持ちは完全に振り切りました。

そんな中で2ヶ月後、また17年間追ってきたシリーズ、大好きなシリーズへの出演が発表されたのです。それはいくら言葉を尽くしても陳腐になってしまうようなレベルで、感謝、感動、とにかくたくさんの感情が溢れて止まりませんでした。

それからは4ヶ月半、とにかく今日この日を待って待って待ってずっと待っていました。キュアリリアンのことを考えない日も無かったし上田麗奈さんのことを考えない日もありませんでした。Twitterでは変身の遅さが嘆かれていましたが、10年間待ち続けた私としてはもはや誤差でした。

そして6/2、次回予告でキュアリリアンの登場が予告されました。

この一週間は本当にずっとソワソワしていました。仕事も手につかず、一週間がとにかく早く過ぎ去ってくれることを願うばかりで今日この日のために生きているような状態でした。

昨日は本当に眠れなかったし、今朝はアラームなんて関係なしに5時には目が覚めてしまう始末。

そして朝8時半。もう詳細な言葉はいらないでしょう。本当に、本当に素晴らしい回でした。

涙が止まりませんでした。もう上田麗奈さんに関係なく、猫屋敷ゆの強さと成長と想いに涙してしまうような回。

この作品に出演してくれて、この作品プリキュアになってくれて、猫屋敷まゆ役になってくれて、キュアリリアン役になってくれて、本当に良かった。心からそう思える回でした。

変身バンクもまゆの強さが想いが背景がこれでもかと表現されていて見る度に泣いてしまいそうです。

わんだふるぷりきゅあ!、声優が好きとか関係なく、ここ数年のプリキュアの中でも1番と言っていいレベルストーリーの出来です。本当にいろんな人に見てほしい。

そして上田麗奈さん、本当にいつもありがとうございます。私の人生あなたのおかげで間違いなく豊かになっています。これからも素晴らしい演技をたくさん届けてもらえるのが楽しみでなりません。アオのハコも本当に本当に心待ちにしております

新潟駅に感じる違和感

新潟駅リニューアルおめでとうございます

どうしてこうなった!思ってたのと違う!こんな感想を得た人も多いのではないか。かく言うところの筆者もそう思いました。新潟駅不思議ポイント確認していってみましょう。

2階までの階段が50段?!

新潟駅に関する違和感というか、歩いていて苦痛に感じるポイントはまずここです。階段の段数が約50段と多いです。通常の建物の3階相当の高さを2階としています。これは上越新幹線開業から新幹線コンコースの高さです。在来線跨線橋はこの高さよりも低く、跨線橋から新幹線コンコースまではスロープで接続されていました。通常の駅の階段は30段くらいです。

4階建ての新潟駅の旧駅舎ビルの高さと上越新幹線ホームの高さが同じくらいなので、上越新幹線ホームの高さは5階相当の高さになります新幹線毎日乗るものではないので、苦ではなかったのですが、新幹線に乗るときエスカレーター階段が長いと感じていました。

在来線ホームの高さを新幹線ホームに合わせてしまったため、5階相当高さにホームが上がってしましました。富山駅金沢駅福井駅新幹線の高架はもっと低く、アンダーパスする道路ギリギリの高さの設計になっていると思います。2階がそれほど高くないのです。オープン当初の新幹線高架下の新潟駅の2階に出店していたヨドバシカメラは、店内に階段があり、上の階がありました。やはり新潟駅新幹線ホームは4階建ての建物屋上相当の高さにあるのです。この高さが高い高架橋は総工費が大幅に高くなることを意味します。

バス乗り場の怪?!

横断禁止の個所を渡る人が絶えないとニュースになる新バス乗り場。駅ビルCoCoLoの1階部分が高架下を貫くバス乗り場によって分断されています。50段の階段で2階へまわれとか、150m先のなかなか青にならない信号渡れとロック設計になっています設計コンペの勝者のイラスト比較すると大幅に規模が小さくなっています。コンペのイラストバス乗り場は、高架下の道路の両側ではなく、道路の車線の間に島式ホームのようにバス乗り場が集約されています電車と違ってバスは、両側に扉がないので、バスは島式ホームのローターリー侵入するとき右側通行に入れ替わって侵入することが想定されます。島式ロータリーから道路の両側にバス乗り場に変更することで、高架下のバス占有する面積を大幅に縮小しています。この変更によって、バス乗り場が行き先によって分断されたため、とりあえずバス乗り場に行ってから目的バスを探すことができる構造からバスの行き先を判断してから道路のどちら側に行くかをあらかじめきめなくてはならないスタイル改悪されてしまいました。

古町市役所方面からきたバスは、高架下に入る前の降車場で乗客を降し、高架下をくぐって、南口側に出てUターンして、高架下バス停に出発を待ちます南口方面から到着したバス南口側の降車場で乗客を降し、高架下をくぐって、万代口側に出て、Uターンして、高架下のバス停で出発を待ちます。高架下を直通するバス路線はわずかです。

イメージイラストは、「設計コンペのプランからなくなったもの?!」の項を参照してください。

乗用車お断り?!

多くの市民が感じた違和感市街地南北が分断された状態解決するというお題目ほとんど解消されていないことです。この目的解決するには、万代口の東大通と南口弁天線がつながらなければなりません。駅の高架下はバス専用となったため、南北をつなぐ道路で増えたところは、八千代から続く道路線路の反対側につながったところくらいです。以前の踏切個所の米山踏切天神尾踏切は、高架をくぐる道路として残っています。一部の市民は、市長の家の近所のガードだけが開通したので、このルート篠田さんの功績を称えて篠田ガードと呼んでいます

篠田新潟市長名義のアパート新築である

https://www.zaikainiigata.com/?p=8248

計画では駅西線と駅東線という2本の道路が開通する予定でしたが完成に至らず、大幅に計画が縮小されています。駅東線は歩行者自転車道路格下げされて計画されています。駅西線は、代ゼミのところから南下し、高架下をくぐりLEXNビルに至る道路です。

駅西線の予定地では、新幹線利用者向けのパークアンドライドサービス新潟駅西駐車場(215台)を貫いています。このパークアンドライド用の駐車場は、高速バスターミナルタワーマンションでなくなる予定です。もうひとつパークアンドライド駐車場CoCoLo駐車場(826台)は、この春のCoCoLoリニューアルオープンに伴って、3000円のお買い物で1時間無料新幹線割引き廃止24時まで3000円というレートになりました。梅田駅秋葉原駅のほうが安いです。セレブな駅駐車場になりました。この変更で新幹線出張族が大打撃。電車バスで駅に行けない利用者が多いのが新潟現実です。新潟駅西駐車場(215台)は、朝8時前に満車です。ちなみに上越新幹線で使われているE7系の定員は924人です。

敵の侵入に強い駅構内?!

駅に中に城下町のような見通しの悪い丁字路が多い印象がです。電車新潟駅の高架在来線ホームに到着すると電車は、ホームの中ほどに停車します。階段エスカレーターは、ホームの両端にあるため、階段エスカレーター電車の間のホームの狭いところを歩くことになります。降りた乗客は進路を絞られて譲り合いながら進みます階段エスカレーターは隙間と通った後にUターンする導線になります。先が見えません。約50段の階段を降りると反対側のエスカレーターが正面にあり、方向を変えて、出口もしくは、乗り換え先のホームを探すことになります。この高架橋の柱は5階の高さを支え、耐震考慮していてとても柱が太いです。見通しがよくないのです。乗り換えのときは、新潟駅の発着ホームランダム設定のため、何番線からどこ行きが発車するのか確認必要です。ホームから改札口へ向かう人、改札口からホームへ向かう人、乗り換えの人が改札内の一か所に集められて混沌となります。その人波をかき分けて階段の上に表示されている行き先を確認する必要があります新幹線特急いなほの対面乗り換えの5番線が後付けの設計のため、階段位置違和感があります。これも改札内コンコースを複雑にしている理由の一つです。改札を出る場合は、東、西、新幹線の3つの出口を判断して、東か西からます階段を降りて進むと正面が新幹線乗り換え改札で出口どこってなります。太い柱が邪魔で先が見えないです。改札を出ると共有の通路ではなく、エキナカ店舗が両脇にある通路を進みますが、外へは店舗を抜けないと駅を出られません。この店舗との駅外への導線の区別ないところがよりわかりにくくしています。グレーと黒を基調とした色調なので、黒い服を着るといい感じで風景に溶け込みます

敵襲があったときには、敵の判断を鈍らせることできる設計になっています。なかなかの軍司がかかわっていたものと思います

土地の所有者は誰?!

土地が誰の持ち物なのかを調べてみるとこの駅のちぐはぐな点が浮き彫りになってきます

高架下は東日本旅客鉄道さんの土地なのです。駅前広場新潟市。新たに広場になる部分は、東日本旅客鉄道さんから新潟市が買ったのではないかと思います。市の玄関口なので、きれいな広場を整備しましょうということなんでしょう。南口広場国鉄清算事業団から買いました。旧国鉄側は上手に土地を売り抜けているように見えます。大幅に規模が縮小されたなんちゃってペデストリアンデッキは、新潟市土地建設されます。高架下の建物東日本旅客鉄道さんのものなので、そこにお願いして接続させてもらっている体になりますバス乗り場部分が東日本旅客鉄道さんの所有地だとすると駅下の一等地提供したくなかったのかと妄想が捗りますバス乗り場で分断されても店舗面積を稼ぎたいその気持ちエキナカ運営者の立場としては当然かもしれません。高架下の駅舎の中は持ち主の東日本旅客鉄道さんの気持ちがあふれた設計になっています

設計コンペのプランからなくなったもの?!

2002年設計コンペは、堀越英嗣氏のグループが選ばれました。次のxに上げられた画像を見ると堀越氏の想いはいずこへ。

新潟都市再生 @ryuto_niigata 10:50 PM · Mar 11, 2020

https://x.com/ryuto_niigata/status/1237737592889544704

ペデストリアンデッキ

万代口のマルタビルブラザービル前まで横断歩道を渡らずに行ける予定でした。メンテナンスが難しそうな雲形のデザイン歩道屋根に置き換わっています。このペデストリアンデッキは、斜めに走っている補助路があり、人間の近道をしたい心理をうまくついていました。

・島式のバスロータリー

先ほどふれましたが、バス乗り場の面積が縮小されていますバスを一覧しやすい乗り場という設計者の配慮は無になりました。

・高架ホーム屋根上のテクスチャ

木造風でした。

他の設計者のアイデア?!

高架下の道路として予定されていた駅西線や駅東線に車寄せやバスのりばの入り口を設けたものアイデアとしてよかったです。このアイデアを実現しようとすると東日本旅客鉄道さんのエキナカ店舗面積が減ってしまます

駅前広場が丘になっていて、丘の上も丘の中も歩けるというのもよかったです。雨風に強いプランは天候がよくない新潟向きです。

新潟都市再生 @ryuto_niigata 2:35 PM · Mar 12, 2020

https://x.com/ryuto_niigata/status/1237975437415874560

都市交通ターミナル設計

https://www.kochi-tech.ac.jp/library/ron/2002/g5/M/1035010.pdf

この高知工大の澤田さんが作った資料は今となっては当時のコンペの条件を伝える貴重な資料です。

高架化したのに残る跨線橋?!

新潟駅から西に1.4㎞に西跨線橋、東に0.4㎞に東跨線橋があります。この2つの跨線橋は高架化後も残存しています。西跨線橋付近そもそも90年代計画時点で高架化の範囲から外れており、駅から西跨線橋に向けて下り坂になっています越後線が西跨線橋をくぐると白山駅手前の信濃川を渡河する橋梁があるため、登り坂になっています???

跨線橋の下は在来線が通り、この跨線橋の上を新幹線の高架が通っていました。在来線の高架化で在来線新幹線と同じ高さまで高度をかせぐようになりました。この東跨線橋は、予算不足のため跨線橋が残ったままです。数年後壊すことになっています

実際のところ、街のお年寄り新潟踏切がない街だからといっていました。ここで指す新潟新潟島+アルファの狭義の新潟です。狭義の新潟には、米山踏切天神尾踏切くらいしか踏切がなかったと思います。現新潟駅が街はずれの田んぼの中に作られたこと、現新潟駅への移転に合わせて白山までが作られたためかと考えられます

結局のところ、取り除かれた踏切米山踏切天神尾踏切で、それ以外の個所は線路道路オーバーパスしていたところが多かった状態でした。降雪時に凍結しやす跨線橋が残ってしまったのはとても残念です。

新幹線は、在来線道路上下が入れ替わる状態無視して、それらの上を行く高架で郊外の田園地帯まで抜けています

せっかくなので、線路は高架、道路は平面というポリシー街づくりをしていただきたかった。まことに残念です。いっそのこと新潟駅の上を高架道路で結んだほうがよかったかもしれないです。

駅と一体化できなかった再開発ビル?!

昭和57年上越新幹線開業時、新潟駅には、駅構内ステーションデパートのセゾン・ド・ニイガタと駅裏にあった気動車車両基地の向こう側に長大な連絡通路を挟んだ再開発ビルプラーカが3棟建てられました。セゾン・ド・ニイガタは、その後、CoCoLo名前を変え、新潟駅リニューアルの核店舗となった。開業当時は西堀ローサとならんで、おしゃれスポットでした。プラーカは、プラーカ1、プラーカ2,プラーカ3と地下から地上5階までのショッピングモールが出現。セゾンよりも大規模で店舗数も多いスポットでした。東急ハンズ山下家具フランチャイジーとして運営したハンソンアニメイトゲームセンター、多数の衣料品店などでにぎわっていました。プラーカ4?として西友進出計画までありました。しかし、バブル崩壊後の景気低迷でセゾンはせんべいとか鮭の瓶詰を買う新潟土産屋になり、郊外の大規模モールの台頭でプラーカは集客力が落ち、テナントが歯抜けとなって破綻したのでした。無印Francfrancもいなくなり、今は中央に吹き抜けがあるオフィスビルになっています。このビル第三セクターだったため、新潟市は大きな打撃を受けることになりました。

気動車車両基地は、数年後に新津駅移転し、国鉄清算事業団所有の空き地が残りました。この空き地新潟市が買い取ることになり、新潟市のひとり負けです。

市民参加のまちづくり?!

2000年ごろから市民参加のまちづくりという錦の御旗の下、駅の設計市民が参加するムーブメントを当時の市長が始めた。この動きが2003年新潟駅設計コンペに影響があり、プランが大胆に変更されるのかと思いきや、新潟駅設計コンペは、新潟駅周辺整備基本構想にしたがって、設計コンペが実施されたのでした。

都市みらい通信

https://www.toshimirai.jp/ifudletterpdf/200111.pdf

新潟駅周辺整備基本構想では、駅を貫く道路バス専用で、道路交通は駅西線と駅東線が担うことが決められていました。プランの肝心なところは、市民が参加しても変えることはできず、まだ詳細設計がされていなかった広場で、機能関係がない見た目のデザインがとかバリアフリーがとか枝葉の部分の議論に終始したのでした。車いす駐車場から広場への歩道の導線がよくないと直したら、車寄せと駐車場の面積が半減してしまいました。完成後の混雑が必死なのか閑古鳥がなくのか興味深いポイントです。そんなことよりも在来線ホームが5階の高さの時点でめっちゃバリアです。

この市民参加の部分は学術論文が書かれています

新潟駅駅舎・駅前広場計画提案競技を事例として

https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/record/31114/files/ZH_2005_963-964.pdf

新潟市周辺整備計画

http://opac.niigatacitylib.jp/shisei/koho/shiho/2005/050710/pdf/2002_08.pdf

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