はてなキーワード: 少年犯罪とは
いまや日本の若者の大半がネットに接続してSNSのアカウントを持っている時代。つまり、SNSをしている若者が必ずあなたの近くにはあるわけだ。だから犯罪のツールにネットがあるというのは、その意味では当然だ。
もちろんそれが非行と直接関係しているわけではない。全国に張り巡らされたインターネット網とIT、それに伴う社会の膨大化によって、今までの日本の地域社会の流動化と不安定化が進み、非行を誘発しているのだ。かつ若者の高知能・所得のばらつき・欧米化により、市民が日常的に目の届かない地域で非行が拡大し、それにより初動が遅れる。
おそらく、暴走族の活動範囲も、昔であれば地方の幹線道路沿いに限られていたのが、都会のインナーシティや住宅街などにまで分散しているはずである。田舎だけを見回ればすむ時代ではなくなった。しかも暴走族そのもののゲリラ化が進んでいるために警察の対処がますます困難になる。こうした理由から、近年都市部を中心に暴走族が異常発生しているのであろう。
さらに、IT技術の高度化により、物的証拠などによる捜査が困難になっているという。特殊詐欺なんて昔から多いじゃないかと思うかも知れないが、インターネットを用いた詐欺事件の続発という状況は、この5年ほどに起きた現象だ。2017年に社会問題になったランサムウィルスも、手口が巧妙で何の手がかりにもならない。日本中の人間が、アメリカやヨーロッパなどと同じ環境に生きるようになったので、事件の手口がつかみにくくなったのである。
かつ、日本社会のテクノロジー化は、日本国内のコミュニケーションとコミュニティを消滅させた、あるいは衰弱させた。振込みでも銀行のATMを使わなくなるようになり、スマホやワンタイムパスワードの機械が重要になった。書店の仕事量は減り、定額で本読み放題という価値観が広がった。そうなると、メディアのビジネスも益々やりにくくなる。まして読書やメディアチェックすらパソコンやスマホで済ませる人がほとんどすべてになれば、新聞やテレビの収益も減る。休日の移動で満員電車を使わなくなれば、鉄道会社の収益が減る。都会の税収が減って益々不景気になるのだ。
YouTubeで立て続けに犯罪が多発したというのは、どういうことなのか?犯人の顔を知っている人が隣近所にもいなかったのか?まったく不思議だ。コミュニティが衰弱しているのは地方だけの問題ではなく日本全体の問題であると考えなければ理解できないであろう。
こうした日本全土の極端なファスト社会化の大きなメルクマールがアマゾンだ。ネット化が進めばアマゾンが台頭するし、アマゾンが便利になればますます個人化が進む。テクノロジー化による個人化が進んで、コミュニティが崩壊し、流動化した地域社会は犯罪を抑制する機能が低下している。あらぬところから道路や鉄道に乗って、どんな犯罪者が来るかも知れない。犯罪者も腹が減るから、たまには仮想通貨支払いで食事をするであろう。しかし周りに知る人はいない。そして駐車場で、たくさんあるアカウント情報のなかから気に入ったアカウントを盗めばよい。
最近のネットやテレビのニュースを見るとゲリラ化したヤンキーによる事件が毎日のように発生している。後から出てきたニュースもどれの関連ニュースなのかわからない。業務妨害事件といってもどの事件なのか、毎日のように起きているから分からない。しかもほとんどの事件が貧困層やマイルドヤンキーがうようよいるような地方ではなく、景気のいい大都市部で起きている。
ゲリラ暴走族が発生した道路を見ても、都心かと思えるような立派な地区も多い。だから地域的には申し分ない所なのに何故醜悪な事件が多発するのだろう。特に暴走族事案が目立つのは何故だろう。子供が荒廃しているとか家庭が荒廃しているとかは前から言われていたことだが、それ以外にも国民のコミュニティーが崩壊していることも原因の一つだろう。
もちろんネット社会が悪いわけではない。経済の合理化や近代化は時代の流れで避けて通る事が出来ない。ネットが便利なところは活性化するしネットそのものが雇用も創出する。外出せずに食品から生活用品まで全て買い揃える事が出来る。自宅から車で買いものに出かけて大量に物を買って車に積んで帰ってくるような生活が車無しでできる。まったくアメリカの田舎のような生活が日本社会に定着した。
私の若いころには便利なネット環境や高度なネット文化はない。用事のときは必ず外出していた。ところが現在ではネットが一人一台の時代が来て、買いものはネットショップで買いものするのが普通になっている。貧乏人がクレジットカードを持っていないのは過去の話だ。クレジットカードの審査はより甘くなり、手数料の無料かも進んでいる。
その結果、東京の都心で小銭やお札をお店で目にする機会は少なくなった。持っているのは地方からの観光客か未成年者ぐらいだ。だから日本でも現金を持ち歩く事がなく生活できる。もちろん地方都市は今でも現金が手放せないが、大都市部のチェーン店や富裕層が訪れる地域ではカードの普及が進んでいる。
このようにテクノロジー化した社会ではたとえば事件が起きても犯人の捜査もままならず、犯人もあらゆる手口を使って広範囲に移動するから警察も適応できない。今までは免許を持たずに生活していた階層が免許を取るようになった。オートバイを乗り回す高校生は現実になり、それに対する不満も生まれない。近所づきあいも薄くなったから事件の芽があっても近所も気がつかない。
このような環境が学生たちにも悪い影響を与えて、学生の非行の増加にもつながっているのだろう。戦後のアメリカで起きた青少年犯罪の多発が日本でも起きているのだ。一見歴史ある町並みの地域で青少年犯罪が発生するのはなぜか。そのような環境では家庭も個人も孤立してしまうからだろう。
小説や漫画やテレビドラマのような社会が現実に出現している。SNSを用いたゲリラ暴走族もアメリカ型少年犯罪の象徴だ。日本もテクノロジー社会がやってきたからそのようなライフスタイルが実現した。つまり日本も欧米のような犯罪多発社会になってもしかたがないのだろうか。チーマーやマフィアや極○も衰退し大人が子供を狙う犯罪も激減した。多くの人が未知の人間と寄せ合って生活している。日本にあったコミュニティーは崩壊した。
日本では欧米のような社会が理想であると教え込まれてきた。だからこそ誰もがネットに接続しそれで買いものや昔ではATMでしていたことをする。しかしその理想が実現したとたん青少年の非行化と犯罪が昔のように多発するようになった。凶悪な詐欺事件も増えた。日本はこれでいいのだろうか。コミュニティーを再建するにも社会そのものの流動化で無理だろう。
「神話の崩壊」が喧伝され、あらゆる種類の「変わり者」たちが警戒の対象となり、単なる迷惑化はおろか法的な意味での予防検束を可能にするさまざまの改「善」がおこなわれる。欧米では男尊や女卑が主な警戒対象となっているが、もともと同調圧力の強い日本社会では、21世紀以降、ほとんどありとあらゆる「変わり者」たちが狩られ始めた。
「○○ハラスメント」や「○害」といった造語が急速に浸透して“犬も食わぬ”ものであったはずの体罰や子供の大声や騒ぎ声に行政が容易に介入できるようになり、喫煙者や飲酒者や公務員は迫害され、某国の工作員や左翼や右翼の存在がクローズアップされ、裏社会は合法活動の領域からも締め出され、成人犯罪はおろか少年犯罪にも厳罰が要求され、昔であれば迷惑に過ぎなかった行為が軽犯罪扱いされ、中流はすでに貧乏に等しいような貧困予備軍の扱いを受け、もちろん鉄道や学校に対しては「空港や基地にだけ例外的に適用」されているはずだった「迷惑施設対策」だの「誘致地域への経済的優遇」だのといったバッシングや炎上事態が恒例化した。「アニメや漫画の青年趣味を卒業しない」とか「車やバイクを成人後も敬遠する」とかのちょっとした「小さな変わり者」すら断固とした批判の対象となった。監視カメラyや精神科が街じゅうに設置され、「コンプライアンス」「モラル」「マナー」が叫ばれ、小心者に何か用事があるとは思えない中小企業にも「脱ブラック企業」の標語が掲げられるようになった。
それらのすべてが字義どおり「戦乱行為」として展開されているのだが、「反戦」の文脈でそれらに異議を唱えている者はたぶん今なお日本では少数である。「戦争したくなくて震え」たりすることもあるらしいリベラル派は、全体主義やエコロジーや反自由主義運動と親和的で、「その意味での戦乱政策」のいくつかに関しては積極的な推進勢力であったりさえする。むろんリベラル派どものみならず、国民の多くが「戦乱政策」の数々に諸手を挙げて賛成していよう。
好戦的な国民感情に迎合し、戦意高揚を煽り、それに煽られてますます好戦的になる国民感情に迎合する、2001年の9.11以来の新聞やテレビの報道は、私の目には「戦時報道」にしか見えないのである。そういうものに私は感化されたくないし、もちろん感化されない自信もあるけれども、とにかくちょっと接するだけでも不愉快になって、心の健康に悪いので意識的に遠ざけるようになってしまった。
毎日新聞・岡山版のコラム「きび談語」では、ゲームやインターネットの進歩と少年犯罪の件数に負の相関があることを指摘しており、ゲーム脳は脳神経科学的な観点だけでなく犯罪統計的にも説明できない学説であるとしている[25]。
作家の川端裕人が森の講演会に聴衆として参加し、質疑応答でこの疑問を投げかけたところ、「日本の子供が笑わなくなり、キレるようになり、おかしくなっているのを見て、日本のためにやっている。そういうのを問題にするあなたの方が日本人として非常に恥ずかしい。」と返答し、疑問に対する回答を示していない。
アマゾンプライムで平成ライダーの原点にして頂点と賞賛されるクウガを一気見したのだが、よく出来ているのだが、なんだか素直に受け入れがたい作風だった。
仮面ライダークウガを大雑把に説明すると、古代のベルトの力でクウガに変身する主人公がグロンギという怪人たちを倒す物語である。
このグロンギというのがゲームで人を殺す極悪非道の怪人なのだが、どうもモチーフは放映当時問題になっていた少年犯罪をモチーフにしていると感じられる。
ゲーム感覚で人を殺すのもそうだし、現代の若者をモデルにしたような服装や喋り方のキャラクターもいるし、ラスボスは少年の姿をしている。
しかし彼らを「何を考えてるかわからない怪人」「ゲーム感覚で人殺しをする化物」として毎回クウガに爆殺させる描写は、少年犯罪をテーマにするには短絡的すぎないか?と思ってしまう。
現実には少年法によって裁かれない少年たちがいる。そんな彼らに鉄槌を下す存在としての仮面ライダー。死刑が出来ないなら私刑にすればいいと言う思想なのだろうか?
とはいえ、劇中では「グロンギを倒す主人公も、そのことに苦悩を抱いている」という描写がされるが、
これでは「体罰をする方も苦しいんだから体罰を受け入れろ」という理不尽な理屈と一緒ではないか。
それに加え、いかにも製作者の「最近の若者は」という思想をキャラに代弁させたような箇所も見受けられ、正直現代の感性では受け入れられないだろうなという事もあった。
イスラム教徒を全員国外追放して入国させなければイスラム教徒によるテロなんて起こらない。精神病患者を片っ端から逮捕して僻地の収容所に放り込めば精神病患者による凶悪事件なんて起こらない。粗暴な子供を早めに「処分」しておけば少年犯罪も防げるかもしれないし、ロリペドを殺して回れば少なくともガチのロリペドによる犯罪なんて起きないかもしれない。
でも、そんな社会は間違っている。この社会では、実際にその人が何をしたかが問題にされるべきだ。テロをしてないイスラム教徒の入国が拒否されるのはおかしい。人を傷つけてない精神病患者が予防拘禁されるのはおかしい。それと同様に、子供に手を出さない小児性愛者がまるで犯罪者であるかのように扱われるのはおかしい。これはそういう話でしょ。
性犯罪者は、性癖ではなく、手を出したことによって処分されるべきだ。被害者は本当に気の毒だと思うし、その立場からは、こいつをもっと早く捕まえておいてくれたら、と願うのも当然だろうけれど、それでも究極的には、私たちは自由主義という原則を捨てるべきじゃないと思う。
そういう暴力的な劣情を普段から非難してないと、「性癖は人それぞれ」と認められているからこれは行ってもいいことだ、と勘違いされかねない。
まあ、そういう意味で、「実際にこの漫画に描かれていることをやったら犯罪なので絶対に真似しないでください」という注意書きは必要だろうと思うよ。こういうのがちゃんとガイドラインで徹底されるようになるといいね。
2時間ぐらい殴って蹴った。人生で初めて自分が殴ったり蹴ったりしたから気分が変な感じになった。
結婚して5年だけど言い争いになったことすらなかった。
動機というほどの立派なものはないし喧嘩というほどのものもない。ただやってみたかった少年犯罪みたいな感じ。
小中高ずっといじめられて育ってきてきたから性根が曲がってるんだろうな。
逆に妻はかなり友達も多くてキラキラした人生送ってるな~と他人事みたいに思ってた。劣等感が爆発したんだろうか。
そういうキラキラした人間って苦手なはずだったんだけど何故こんな下らん結婚したんだと自分に対して言いたくなった。
途中、もしかして息子も娘も自分の子供じゃないなと思って、蹴りながら何度も問い詰めた。
「違う」としか言わないわけ。何が違うんだよと思って蹴りまくっては訊いてやったら「誰の子供か分からない」だって。
マジですげーアバズレだったんだな。何人とヤッてりゃ誰の子供かわからないとかいう答えになるんだか。
殴ってみないと分からないことって色々ある。今週は家に他人と他人の子供がいないってだけで超落ち着くね。
pixivR18小説を学習データに使った論文が炎上という形で話題になっているが、
大学時代に全く同様の研究に携わったことのある立場からチラ裏したい。
まず
"ドメインにより意味が変化する単語に着目した猥褻な表現のフィルタリング"
https://kaigi.org/jsai/webprogram/2017/paper-15.html
この手の論文に関してだが、R18サイトと健全なサイトを見分ける分類器を作成するのが目的となる。
子供のさわるPCやスマートデバイスなどに導入するフィルタリングソフトが主な利用箇所だ。
(この辺勘違いしている人もいるようだが、決してpixiv民が研究対象ではない。
そんなものに研究価値はないので自意識過剰もいいところである。)
研究内容や論文自体が法的に問題ないのは既に指摘されまくっているので割愛。
「有害」という言葉に過剰反応している人がいるが、この言葉は論文を書く上での通例、決まり文句のようなものだ。
単純に「フィルタリング対象」くらいの意味しかないのであまり気にしない方が良い。
で、フィルタリング対象は当然研究者が勝手に定義して良いし、その価値を判断するのは研究の利用者だ。
例えば同じR18小説でもBLだけ弾きたい、ってニーズがあればそれにも使えるではないか。
(そうでないとしてもR18指定しておいて「無害」を主張するのってどうなの?自分の子供に見せられるの?)
引用(決して転載ではない)のプライバシー侵害という主張、恥ずかしいのは分からないでもないが、
大衆の目に触れる覚悟もなく公開するってインターネットを何だと思っているのか。ネットリテラシー低すぎて呆れる。
サンプリングについてもランキング上位で悪意のある選抜とも言えない。
サンプル数が少なすぎるのは確かに気になるが、仮に学習データが少なくて同精度の結果が得られるなら優秀な手法と言える。
こういう研究だと利用サイトを記載しても、個別のコンテンツ名や作者を記載することは少ない。
理由としては作者不明とか、数が多すぎて現実的じゃない場合が殆どで、今回はそれらに当たらない。
もちろんちゃんと許可を取って根回しするのが理想的だが、必須ではない。
スパムメールフィルタリングの研究者はスパムメールの作者全てに許可を取っているか?言うまでもない。
完全に私の推測だが、今回のケースはサイトや作者に対するリスペクトもあったのではないかと思う。
そうでないとクソ面倒な論文執筆で余計な情報を書こうとは思わない。あくまでも良心からの記載だと私は信じる。
確信を持って、私は味方だと主張したい。
まず情報系学生なんて9割オタクだし(要出典)、業界自主規制のような安全装置としての役目がある。
フィルタリングで子供の触れるコンテンツをコントロールするのは重要で、
いかに「私は18歳以上です」のようなゾーニングを施しても、そんなものに正直に答える子供はいない。
また、子供に有害だからコンテンツ削除しろってモンペは本当に存在する。
実際問題、研究を叩いているうちにコンテンツ自体をネット上に載せられなくなる時代が来るかもしれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1980%E5%B9%B4%E4%BB%A3
パレスチナ・ゲリラによるローマ・ウィーン両空港同時テロで20人が死亡。
ファミリーコンピュータ用ソフト「ドラゴンクエスト」発売。
1980年代後半
暴力団山口組の竹中正久組長・中山勝正若頭が射殺される。(山一抗争)
NTT、最初のハンディタイプ携帯電話機「ショルダーホン」発売。
スペースシャトル コロンビアが初のスペースシャトルミッションで打ち上げ。
あ、これか!って思った。
なにかの概念をちょうどよく一言で言い表すコトバができて普及すると、いろいろ捗るという現象があるよね。
たとえば「セクハラ」というコトバが一般に普及する前には、スケベな上司などからお尻触られたり、やらしい言葉を囁かれたり、あるいはエロい雑誌などをこれ見よがしに置かれたり、などなどのことがあっても、それを身内に相談したり公的機関などに訴えたりするのに、個々の事象が自分にとってどう感じられるのか、精神的にどんだけダメージがあるかといったことをこまかく説明しなきゃいけなかったり、面倒くさいしそれだけでさらに精神的苦痛だったりしたわけだが、今では「セクハラ!」って言うだけで話が通じるし、相手を罵倒することもできる。
印象論や感情論だけでいろんな制度政策に反対したり妙な主張を繰り広げたりして、客観的な統計データとか科学的な証拠に基づいた論理的な思考ができない(もしくは意図的に拒否してる)人たちがたくさんいるんだけど、そういうダメな人たちを一括りにちょうどよく言い表せて、お手軽に罵倒し論破することができるのが「反知性主義」なんじゃないかと。
...あと何があるかな〜
ドラマ好きにはたまらない名作・佳作が、あそこからたくさん生まれてるのだ。
東京文脈じゃないキャストやリアル感でドラマ作ってると言うのが大きな違いだ。
有名どころだと「牡丹と薔薇」だろうが、
いじめ・児童虐待(児童性的虐待)・犯罪(少年犯罪)というテーマで、
元増田が言ってるよろめきドラマの要素は皆無。登場人物はほぼ子ども。
「花嫁のれん」は直近シリーズだと陳腐化しているものの、野際洋子の姑演技が光る。
「ほっとけない魔女たち」はキャストが浅野ゆう子、三宅健、釈由美子、松本明子、室井滋となかなかの演技上手が揃い、脚本のユニークさと相まって見どころいっぱいであった。
まあそういう感じで、ドラマ好きにとっては非常に注目な枠ではあるのだ。
最近はなかなか不作ではあるが……。
1
6月11日に、「絶歌」は発売された。その直後、この本の刊行を報道で知った遺族のうちの一人が、遺憾であるとコメントを発表した。
以来、今日に至るまで、様々な人々が—— 専門家、知識人、芸能人、ライター、クリエイター、etc——、この本についてコメントをしたり、記事を発表している。
少しだけ、どこかで見たような光景だな、と俺は思った。
原発だ。
震災以来、原発というのは、賛成だろうと反対だろうと、何かしらの意見を持たなければならないような問題になった。「どうでもいい」「どっちでもいい」というような態度は許されない。誰しもが原発に対して、真剣に考えなければならない(あるいは、そのフリをしなくてはならない)、そんな風潮が蔓延している。
そんな光景に、どこか似ている、と俺は思った。この本の出版に関して、肯定的だろうと否定的だろうと、有名人(というかライターやクリエイター、芸能人)は、何かしらコメントをしなくてはならない。そんな雰囲気が漂っているような気がした。
また、ネットでもあちこちで、この本のことが言及されている。その内容(というか質)も、原発に関するもの似ている。有意義なものあるけれど、ほとんどが似たり寄ったりな退屈な意見で、特にAmazonのレビューに関しては、まぁ、平均的な人間の平均的な意見が読める、という以上の価値はない。
なんというかまさに「脱法ハーブ、握手会、風営法、放射能、ダサい、ダンス、ダウンロードって言ったら負け」状態だ。
2
俺がこの本を読んだ理由は、端的に言えば好奇心だ。この本が発売されると知ったとき、純粋に読みたいと思った。ただの好奇心。
この際だから、書いてしまおう。俺は小説を書いている。ほとんどの人は知らないと思うが、Amazonで販売出できるKDP(Kindle Direct Publishing)で発表もしている。つまり、創作をする人間として、この本に興味を持った。
この本の元になった事件は、説明するまでもなく、後のフィクションに多大な影響を与えている。俺が知っている範囲だけでも、舞城王太郎や佐藤友哉あたりは確実に影響を受けているだろうし(舞城の『阿修羅ガール』に出てくる鬼畜殺人鬼グルグル魔人を知っているか?)、奥浩哉『GANTZ』に出てくる西なんかは、もうまんまだ。他にも探せばたくさん出てくるだろう。
創作をする人間として、そんな風に後のフィクションに、作家たちに影響を与えた事件の当事者が書いた手記に興味を持つことは、そんなに不思議ではない、と思う。だから手に取った。ただ、これは弁解だ、言い訳だ。下世話な好奇心で読んだ、と言われても反論は出来ない。
(これは余談だが、先述したとおり、この本は6月11日に発売された。ニュースになったのも、その二三日前だったと思う。しかし、振り返って見ると、五月の終わりに、この事件をモデルにした窪美澄「さよなら、ニルヴァーナ」が出ているし、そのちょっと前には、34歳になったとある小説家が事件現場を巡礼(?)するという内容の佐藤友哉「ドグマ34」がすばる4月号に掲載されいてる。偶然か? さらに余談だが去年放映されていた、金城一紀脚本のドラマ「ボーダー」の第三話は、殺人を犯した元少年が手記を出版しようとして遺族に殺されてしまう、といった内容だった。まぁ、偶然だろう)
3
事件当時、俺はまだ小学生だった。けれど、この事件のことは、やはり印象に残っている。
俺は子供のころ、モデルガンが好きで、アクション映画などの銃撃戦のシーンを見てはひとり興奮していた。シュワルツェネッガーがバンバン人間を撃ち殺しているのを観ながら熱狂している俺を見て、母親も心配していた。俺も子供心に「自分は人が死ぬことになにも思わないのか」などと普通のことを普通に思っていた。平均的だ。
そしてこの事件以降、子供によるセンセーショナルな事件は、たびたび起こる。「キレる17歳」などいうキャッチコピーがつき、まるで急に少年犯罪が増えたかのように報道された。
フィクションも影響を受ける。バスジャック事件を題材にした青山真治の映画「ユリイカ」などだ。
開き直るわけではないが、俺は上記の作品たちが好きだ。だから作者に興味があるし、その作者に影響を与えた題材、事件にも興味がある。センセーショナルな事件は、良くも悪くも、フィクションに影響を与えているのだ。
ただ、報道のされ方、ニュースの選ばれ方のせいなのか、はたまた「事実は小説より奇なり」なのか、現実では悲惨なニュースが相次ぐ。自然災害は仕方がないにしても、凡人には理解できない理由で、または理解できないほど身勝手な理由で、色々な事件が起こる。無差別殺人、闇サイト、児童虐待。世紀末を過ぎても、この手のニュースには事欠かない。
「近頃はありきたりのリアリズムに追いつかれそうにも見える」
これは、とある賞の選評の一部だ。とある一作品に向けられた言葉ではあるが、なんだかフィクションがひどくしらけてしまうときに、この言葉がふと思い浮かぶ。
我ながらバカなことを書いているな、とは思う。でも、俺は嫌なのだ。俺はフィクションが好きで、物語が好きで、小説が好きなのだ。だから、読むし、書いている。書いては直して、また書いている。
この本が出たときも、似たようなことを思った。批判が溢れ出ているのに、蓋を開ければベストセラーだ。売れているからって、優れたものじゃないってことは判っている。それは音楽も映画も本も同じだ。
4
そして、この本を読んでみた。内心ドキドキしていた。偉そうな事を言っておきながら、日本の犯罪史上稀に見る(仰々しい枕詞だ)事件を起こした、当事者の手記。正直、影響を受けてしまったらどうしようか、とも思った。俺は本を読む以上、どんな本でも最大限影響を受けるつもりで読んでいる(そうでなければ読む意味なんてない)。ただ、この本だけは、少し怖かった。
しかし、どうだろう。前半はネットで揶揄されている通り、自己陶酔しきった糞ポエムだった。ガラガラのライブハウスで演奏しているクソみたいなバンドの歌詞でも、これよりはほんの少しマシだろう。ただ、文章自体は上手いな、とも思った。読ませる文章だ。特に、後半の面会に来た弟のやり取りの場面では、ちょっとぐっと来た。少しだけ泣きそうにもなった。
でもこれは(ここまで書いておいてなんだが)、所謂ただのお涙頂戴話だ。当たり前の反応というか、けして面白かったというわけではない。
そう、端的に言って「つまらなかった」というのが、この本を読んでの感想だ。
一部で神格化、カリスマと化している「殺人鬼」だが、彼はつまらない、ただの普通の人だったのだ。多くのフィクションに影響を与え、ひとたび本を出版すれば大いに話題になる「あの人」は、普通の人間だった。
前半のあの糞ポエムが、それを象徴している気がした。あの稚拙で過剰な修飾表現は恐らくわざとで、そうやって過剰に飾らなければならないほど、内容は、実は普通なのだ。
これについてはロマンポルシェのロマン優光さんが書いた記事に頷ける箇所があった。
“この本には特にそういうところがないのだ。(性的偏向については代入される対象がおかしいだけで数式は同じなので、対象がいくら理解できなくても根本的に理解できないというわけではない。) 普通の人が普通に想像したような話が続くだけである。 ”
http://bucchinews.com/subcul/5203.html
5
少し前になるが、日曜の午前にやっている「ワイドナショー」という番組で、店の商品に爪楊枝を刺す場面をYouTubeに投稿した少年のニュースをやっていた。
それを観た松本人志が、「全然おもしろくない。声も張ってないし」とコメントしていた。他の出演者は「そこですか?w」といった感じだったが、俺は、松ちゃんはこういうコメントをどんどんしていったほうが良い、と思った。
つまり、つまらないものは、つまらないというべきなのだ。そして、松本人志のようなおもしろい人は、こういうくだらないことをする人間に向かって「全然笑えない。おもしろくない」ともっというべきなのだ。
同じ番組で、松ちゃんは、この本は読まない、といっていた。遺族の方がここまで言うのなら、と。立派な態度だと思う。下世話な好奇心で読むヤツに比べたら、遥かにマシな態度だ。
でも、俺は松ちゃんに読んでほしい。この本を読んで、おもしろくない、と言ってほしい。
「俺に影響受けてるのかもしれへんけど、お前の本、つまんなかったで」と言ってほしいのだ。
舞城でもユヤタンでも乙一でも、こんな本より、俺の小説のほうがおもしろいぜって言ってほしい。なにがベストセラーだ!っていってほしい。
だから、俺は敢えて言う。
自分に取っての本当のことを書いたのかもしれないが、ハッキリ言ってフィクションのほうがおもしろいぜ。普通の理由で普通の狂い方をした普通の人間なんかより、グルグル魔人のほうが狂ってるぜ。なんせウンコパン三世〜♫ デレッデレ〜♫ なのだ。
だから俺は、この本を批判するならおもしろい人たちに、「つまらない!」って言葉こそ、声高に叫んで欲しい。
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“結局のところ、人生で起こるすべての本当のことは、陳腐で薄っぺらで通俗的なのだ。そうじゃないことは小説の中にしかない。だから小説の中で、つまんないなあと思うとき、わりとそれが人生の本当のことを書いているってのがあって、だから小説って難しい”(舞城王太郎/パッキャラ魔道)
まったくその通りだ。
そんで、つまんない本のことで、
いちいち騒ぐのはやめようぜ。
おわり。