はてなキーワード: クリアとは
18歳
19歳
ネトゲ。受かるところが無い+朝起きれると思えないのでセンター利用で有力な大学の夜間学部へ進学。
23歳
4留。理転だったため無理があった。ネトゲしかしていない通算5年だった。
毎日5キロを走り、ベンチプレス80キロをクリアできる頃には、教室で90分座ることが可能な状態に復帰。リハビリ完了。
27歳
ちゃんと勉強するようになってみると、数学の面白さに気付いたため数学教師を目指すことに。
31歳
大した成果は残せなかったが、結構本気で研究に打ち込めたと思う。
博論が通る見込みは無いので見切りをつけて、私立高校の常勤講師としてデビュー。
結局1年契約の常勤講師なので戦いはこれからなのだが、とりあえず今普通に生活出来ている。
・マッチングアプリで女遊びができる!(教師は食いつきがいい、と同僚も言っていた)
困った点としては
・奨学金を約10年分、月12万ずつ借りていたため返済額が凄まじい。
・結婚が遠そう
といった感じ。まあ元ニート、元フリーターで20代半ばからきちんとした生活を初めてするようになって、
30歳過ぎてやっと1年雇用の正規職員になったことの無い人間からすると贅沢は言えない。というか望外だろって思ってる。
なんだかんだ社会復帰ってできるもんだよ。
去年の今頃祖母が亡くなった。
友人達と都内の居酒屋チェーンで行けもしない旅行の計画話をのんべりしていると母から「祖母が病院に運ばれた。すぐ帰ってきてほしい。」との連絡があった。
電話があった時点でもうだいぶ飲んでいたし、店から運ばれた病院まで結構な距離があったのでちょっと気の抜けた返事をしたら、めったに声を荒げない母親から恐ろしい勢いで怒られたので、本当にただ事ではないなのだと分かった。
酔いもどこかへ行ってしまった。私の腎臓はこんな時だけまともに働く。
祖母は痴呆がかなり進んでおり、「痴呆症」で検索すると出てくる症状の7.8割をクリアしていた。そして同棲している我々家族はみな疲弊していた。
病院へ向かうタクシーの中で「これはもう前と同じ祖母に会うことはできないのかもな」と痴呆の初期症状が出てきた時と同じことを考えていた。薄情な孫だった。
祖母と私はどうにも性分が似ているようで、祖母本来の性格も痴呆からくる性格も一切合切馬が合わず、喧嘩ばかりしていた。
常に祖母にイライラしてレス&ラップバトルをし続ける日々だった。無論泥仕合である。
(しかし“猛者”である祖母は、数分経つと喧嘩もその原因も何もかも忘れて「財布がない、誰かに盗まれたのかもしれない。」と深刻そうな顔で、3分前にしてきたのと同じ内容の相談を私に持ち掛けてきていた。)
だとしても祖母危篤にこんなに心動かされない自分に、祖母の危篤そのものと同じくらいショックを受けた。小4の時に飼っていたチビ(ジャンガリアンハムスター)の死の方が悲しく喪失感が大きかった。
あと15分ほどで病院につく、というところで母から「たった今亡くなりました。穏やかな顔です。」と短いメールが届いた。
毎日の仕事や家事に加え、祖母の介護で疲弊しギスギスしていた家族は心の余裕を取り戻し、家族の会話は祖母以外の話題が増えて家は昔のような居心地のいい空間となった。
特に祖母に一番心を砕いていた母は、かなり肩の荷が下りたようで、もともと多忙だった仕事の合間に楽しんでいた唯一の趣味にもかけられる時間が増え、比例して笑顔も増えた。
姉も在宅業務の合間に祖母の昼食や身の回りの世話をする必要がなくなり仕事に専念し始め、父も祖母の通院の足のために気を遣いながら会社を休まなくてもよくなった。
末子の私も祖母の遊び相手・話し相手という名の喧嘩稼業の看板を下ろし、平日の夜と土日の時間を完全に自分のために使えるようになった。(あと関係あるのか分からないが慢性鼻炎も治った。なんで?)
今年の夏には私の持ち込み企画として家族全員(4人と一匹)で那須高原へ旅行にも行けた。
家に残してきた祖母とその面倒を見る家族のことを考えて申し訳ない気持ちになることも、連れてきた祖母がどこかへ言ってしまわないか気を張ってみている必要も無いというのは、こんなに楽で楽しいものだったのかと悲しくなった。
夏の那須高原は猛暑や我々の苦労など素知らぬ顔で気持ちの良い風が吹いて、地面に木漏れ日が落ちていた。その中を走る我が家の犬も必要以上におやつを与える人間がいなくなり、3kg以上やせて草原が似合うボディになった。お前元はそんな感じだったのか。
昨年急に自由になってしまった私は来年、海外留学を控えている。
皮肉にも社会人になった後も、祖母の介護で実家住まいだったので、お金を使う暇も機会もなかったのが幸いした。
今までできなかった分、勉強してスキルを身につけてバンバン稼いで旅行に行きまくってやるわい!と意気込み荷物を整理している私に「やっぱりおばあちゃんに似てるね」と母が古いアルバムを見せてきた。
中には祖母が友人や亡き祖父と共に国内外、様々な場所を旅してきた古い写真が大量に挟まっていた。
最後のページにヨーロッパの古城の前でほほ笑む若い祖母の写真があった。
痴呆が始まる前の祖母も、私も、外へ出て新しいものを見聞きするのが好きだった。
もうじき一周忌なので気持ちの整理をつけるために書き出したら結構な量になったので、ここに載せて祖母(と私の精神の)供養とさせていただきます。
あぁ、すごくわかる。
「◎◎は矢が飛んできて死んだ。
××がこういった。△がどうなった。」みたいな説明をして
「それで?」とか。
だが、何度やっても上手く出来ない。原因は何となく分かるし、毎回気をつけているはずなのに
ゲームをどのようにクリアするのかわかってないようだ。本当にバカなんだろう。
与えられたルールと設定において、デートの食事代を出せば高感度があがるのだからそれをすればいいだけの話なのである。
そうして数日後、セミナーがまた開かれる時がきた。
「前は話をマトモに聞いていなかったから、今日はちゃんと聞いてみようと思う」
もはや弟は本を返品するかどうかという段階ではなく、なんならサインでも書いてもらおうって勢いだ。
「それにしても、兄貴までセミナーに来るとは思わなかったよ。あんまり良く思ってなかったのに」
「まあ、目につく部分だけで決め打ちするのもどうかと思ってな。実際にちゃんと咀嚼してから批判することにした」
「批判前提かよ」
そうは言ってみたものの、自分がどう立ち回るかは決めかねたままだった。
弟が何を拠り所にして物事を考え、生きていけばいいのかなんて俺が決められることじゃない。
そう頭では理解しつつも、今の弟に対する不安感は漠然と胸に残り続けていた。
しかし、この感覚を公正に言語化できない内は、俺が弟に忠告できることはないに等しい。
この場に来ていない両親も口には出さないが、たぶん似た感じだろう。
弟に何かを言おうとして、結局は何も言わないという仕草を数回ほど見たことがある。
自分の子供が、たまたま遭遇した自己啓発にのめり込んでいるんだ。
それでも理性と親心の狭間で揺れ動き、自分の子供に下手な忠告が言えない、といったところか。
セミナーを確認しに来なかったのも、場合によっては耐えられる自信がなかったからかもしれない。
会場に来てから10分ほど経ったとき、壇上に一人の男が現れた。
「みなさん、こんにちは。はじめましての方は、はじめまして。セイコウです」
あれがあの本の筆者か。
俺のクラスメートにはタイナイっていう意識の高い奴がいるが、それの進化系みたいな物腰だ。
格好は無地の服を着ているだけでシンプルだが、色合いが強くて、しかも上下を揃えているから逆に目立つ。
「今回も様々な話をしていきたいと思いますが、その前にまず思考をクリアにするため、みんなで頭の体操をしましょう」
書いている奴が同じだから当たり前だろうに、なぜか弟はそのことが嬉しそうだ。
「目を瞑って、呼吸を整えましょう。リラックスして、精神統一」
弟含め、会場にいる人間たちは言われたとおりに実行した。
俺は気乗りしなかったが、一人だけ目を開けたままじゃ目立ってしまう。
仕方なく細目にして、こっそり周りを観察することにした。
「さあ、自分自身をイメージして、喋らせてみましょう。そして耳を傾けて」
男の言ってることは、意味が分かるようで、イマイチ分からない。
だが周りの反応を見る限り、そう思っているのは俺だけらしい。
「自分を変えるために必要なのは、まず今の自分を知ることです。そして今の自分が何を求め、何が不満なのか洗い出していきましょう」
自問自答しろって言いたいのだろうか。
「それが自分にとってどれほど負担であるかを、ひとつひとつ数値化してみましょう。それで高いと思ったのならば、それはあなた方にとって必要のないものです」
そんな調子で、男はゆったりとした口調で色々と語っていく。
「お腹が空けば食べ物が必要ですよね。その食べ物は、できれば美味しいもののほうがいいでしょう? そして美味しいものとは、あなたにとって好物でもあるはず」
だが、その内実はシンプルだ。
「どこから過度に性的かわかりませーん。そもそも何が性的なのかもわらないし、性的なのがいけないんですか?」みたいなのがかなり賛同されてるけどバカなの?
例の広告に関しては「そうか、過度に性的じゃなければR18作品の広告もOKしてたけど、わからないのか。じゃあR18作品の広告は全面NGね」となりかねないんだよ?
私自身はレーティングにはあまり手放しに賛同はしないが、漫画やアニメにもレーティングが導入されて、少年少女向けの漫画雑誌はレーティングをクリアするために今以上に暴力性的描写がおさえられ、R12やR15もかなり大変だろうけど、そういうのがオタクくん達の理想の社会なんでしょ?
ああ、馬鹿らしい
なんか研究開発してるって話すら聞かないし。ノンアルコールビールのような感じで、なんか有害成分なしで匂いクリア、見た目はそこそこそっくりな、ココアシガレット的な、煙がでるやつ作ればいいのに。
興味関心を示すとあからさまに警戒するくせに、まったく示さない(または度合いが弱すぎる)とそれはそれで不機嫌になるのは「あるある」だが、見た目等の「第一印象」をクリアしているのにこうなるのは、近付き方(テクニック)の問題なのか何なのか。
まずは良い問いかけをありがとうございます。
投稿のおかげで自分がどうしてゲームが好きなのかをちゃんと考える機会を得ました。
その過程で「ハマる理由(=ゲームの魅力)」についての自分なりの結論が出ましたので、
私が思う「ハマる理由」をお伝えしたあと、(1)~(4)への私見を述べます。
大切なことは世の中のゲームはそのプレイ目的から大きく2つに分けられる
(もちろん白黒の2色なのではなくグラデーションがある)ということです。
その2つとは
1.スポーツ型
2.ロールプレイ型
です。このように分類することでより正確に「ハマる理由」を考えることができます。
1.スポーツ型:
プレイ目的:対戦で相手を負かしたり、練習によってうまくなったりすること
最近e-sportsと呼ばれたりするのはこのタイプのゲームです。
練習するほどにゲームがうまくなり、ときに他者と、ときに自分自身と競い合う。
なのでこのタイプは本当にスポーツで、プレイヤーのモチベーションはアスリートたちと
本質的には一緒です。
つまりスポーツ型に「ハマる理由」はざっくりといえば「研鑽の先にある達成感」だと言えます。
次に説明が難しい2の方へ。
2.ロールプレイ型:
代表例:ドラクエ、FF、スーパーマリオブラザーズ(以下マリオ)など
ドラクエやFFは例としてはわかりやすいですね。ではなぜマリオもロールプレイ型でしょうか?
それに答えを出すためにプレイ目的である疑似体験について考えます。
ここで言う疑似体験とはプレイヤーが主体となって話を進める事です。
例えば、
右に進みますか?
左に進みますか?』
というテキストに対し、
右に進むと選択した場合には『DEAD』というテキストが表示され、
(もちろん左右の選択後にどうなるかをプレイヤーは知らされていない)。
このときゲームの結末を変えるのは確かにプレイヤーの選択であり、
よってマリオの場合で考えるならば、与えられた選択肢はステージをクリアするかどうかであり、
用意された結末はゲームオーバー or ピーチ姫の救出なのです。
ドラクエやFFの場合も同様で、プレイヤーの選択によってエンディング(にたどり着けるかどうか)が
変わります。
なにせ自分の選択によって世界を救えたり、ヒロインの女の子を救い出せたりするのです。
つまりロールプレイ型に「ハマる理由」は「貴重で刺激的な(疑似)体験を通じた深い感動」でしょう
(ただしマリオは選択肢が非常にシンプルなので感動というより達成感でありスポーツ型に近い)。
でした。
これを踏まえて(1)~(2)に答えて行きたいと思います。
(1)について
値段については私も(懐具合的に)高いと感じることはありますが、
贔屓にしているブランドがあるから多少高くてもそのブランドの新作を買うことと同じですね。
一方、映画のレンタル価格とゲームの新作価格を比べるのはフェアではないですね。
ゲームにも中古や過去作を安価にオンライン配信するサービスがありますから値段は理由にならないと思います。
(2)について
(1)から続く映画との対比が意味をなさないことを主張します。
先にふれたように、ゲームにはスポーツ型とロールプレイ型があります。
ここで投稿者様が想定されているのは、「プレイ時間が長い」という観点てんからも、
このロールプレイ型ゲームと映画には決定的な差があります。それこそ先に述べた「疑似体験」の有無です。
映画の結末に対し観客は本質的に無力なのであって、感情移入の大きさによらず、真に主体となることはできません。
結局は出歯亀です。一方ロールプレイ型ゲームではプレイヤーこそが主体なのであり結末もプレイヤーに委ねられています。
プレイヤーにとっての「20時間」は傍観者としての「20時間」なのではなく、主体としての「20時間」なのであり、
なので、私は映画も好きでよく映画館に足を運びますが、その2時間でゲームをすればいいということにもなりません。
(3)について
これについては少し同意ができます。感動したものは他者と分かち合えると何倍にも感動が大きくなりますよね。
今の時代ネットがあると言っても気の知れた友達と語り合えない寂しさは拭えませんよね。。。。
まあ、だからといって私がゲームをやめることにはなりませんが。
ちらほら文章から伺えるのですが投稿者様は社交的で人付き合いがお好きなんですね。羨ましい限りです。
(4)について
最後に、私はこの投稿で投稿主様の考え方を変えてやろうとか、人格を否定しようとかは全く思ってません。
この文を書いた(めっちゃ時間かかった)のは単にゲームにはハマるだけの理由がちゃんとあるということが伝えたかったのです。
乱文長文失礼しました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
最近、口コミで人気が出てきて品薄状態になっているリングフィットアドベンチャー。発売日に手に入れて、頑張ってやってます。
このゲームを買った目的は、もちろん運動不足の解消とダイエット。
なんだけど、もうひとつの目的は、奥さんと一緒にゲームできたらいいなと思ったのもある。
うちは夫婦仲はいいんだけど趣味が全然合わなくて、自分はゲーム好きでインドア派、奥さんは外でジム通いという感じ。
普段はそれぞれ好きなことをやっていて、休みの日は一緒に出掛けたりするんだけど、たまには平日の家でも何かできたらいいなと思い、
このゲームはうってつけだと思って購入。
ゲームは予想通りとても面白く、楽しみながら体を動かせるようにとてもよく考えられていて、さすが任天堂という感じ。
ところが、奥さんにやらせてみるとあんまり楽しそうじゃない。特にアドベンチャーが楽しくなさそう。
え~、それ一番メインのとこでしょ!と思うのだけど、ステージ1の最初のドラゴ戦でゲームオーバーになると、もうあんまりやる気なさそうな感じ。
このゲーム、負荷設定をミスって体力不足でクリアできないというのはあるけど、ステージ1なんてほぼチュートリアルだし普通は死なないと思う。
最初の負荷設定はちょっと高めではあったが、奥さんは体を動かすのが好きで自分より体力もあるし。
どうもプレイ中の様子を見ていると、画面上の情報をほとんど意識していないようにも見える。技を出す時は画面の指示通りにやってるんだけど、
上げ下げのタイミングとか、画面上で親切なぐらい指示が出てるけどその通りにやってない感じだし、敵へのダメージが弱くてもお構いなし。
どうやらゲーム下手の原因はテクニックや体力以前のところにあるようだ。
普段の奥さんは多少天然ボケではあるけど、会社では仕事もできるようだし、コミュ力も高く、人のことをよく見ていて空気を読むのもうまいと思う。
それが子供でもできるようなゲームをうまくできないというのは、ゲームに対しての感受性というか、感覚自体が不足しているのではないか。
奥さんは子供の頃TVゲームを全くやったことがなく、まずゲームのお約束というものが理解できていない。
普通にゲームを少しでもやっていたらターン制バトルとか、ハートが自キャラのライフを表してるとか、敵キャラの上に出てる数字がダメージだとか、
そういうのは説明書を見なくても理解できるはずなんだけど、そのあたりから全然だめ。
それでも子供だったらゲーム自体が初めてでもすぐに覚えてできるんだけど、大人になるとその辺の感覚も鈍くなって、興味もないから覚えようとしない。
言わば、非ゲーム脳になってしまっているのではないか。そう考えると、TVゲームが身近にあった世代と、そうでない親世代で断絶があるのも当然ではある。
最近は親もゲーム世代なのでそういったことは少ないだろうと思うけど、そのようなジェネレーションギャップに近い感覚を同世代のパートナーに感じるのは、
世界的にヒットしだしたリングフィットアドベンチャー(以下RFA)がこの界隈でも流行ってきてるが、Vtuberと相性がいい話を適当に
Vtuberを4種類に分割した話でいえば「なりきり型VTuber」が対象だ
・擬似的に3D配信っぽくなる
全身のモーションキャプチャしての配信は界隈でもそこそこ需要があり、人気Vtuberであれば3Dモデル用意してスタジオに行って配信したりするが手間がかかるので頻度は低め。そもそも大抵のVtuberは二次元キャラのみで実現不可だ。
RFAではゲーム画面内に主人公がトレーニングの状況を取得して動いてる様子が描写される
モーションを取得してアバターの動きが変化する → 3D配信でやりかった中の人の動きの簡易的な再現
アバターを使ってるVtuberが別のアバターで動きを再現する形だが、普段からゲーム配信で別キャラクターを自分のように扱うので違和感はない
・確実にキツイ
よっぽど普段から体を鍛えてる場合でもないとキツイRFAだが大体がライブ配信で行われている。すると2つのキツイ要素が生まれる。
1.ある程度継続してやる
ライブ配信なので昨今のVtuberのライブ配信の風潮からそれなりの時間やる必要が出てくる。視聴者も見てるのでそう簡単に投げ出せないのでキツい
2.休憩しにくい
ライブ配信なので画面の前から長時間離れて休憩しにくい。息切れしてる様子は伝わるが顔色までは伺えないので息を整えて小休止くらいが限界。キツい
3 ゲーマー
普段からロクに運動すらしないような人がやったりする。当然キツい
そして今はブーム真っ最中なので可能な限り視聴者受けする間にやりたいので限界まで体を動かす。キツい
・Vtuberが苦しむ
ゲーム配信全般の話にもなるが、視聴者の盛り上がりとしてはゲームが上手くいく、ゲームが失敗する、ゲームで苦戦するなど山と谷があると撮れ高とか言われたり視聴者にウケがいい。
上記の通りキツいトレーニングを実施するのでゲームに苦戦する様子が楽しめる。
キツイのでずっと苦戦し続けることになるがRFAはゲーム要素バッチリなのでステージクリアがある。苦戦した上での勝利という山と谷の撮れ高があるような形が達成でき、視聴した上での満足度がある。
ライブ配信なら大体似たような成果はある気がするが普段は見えないリアルの肉体の情報を想像して楽しませるところも含んでいるRFA配信と一番相性がいいのはVtuberな気がしないでもない
また、心を盗まれた。
言うまでもなく、ペルソナ5THE ROYALのことだ。
発売日が決定してすぐに有給を取得し、万全の体制で臨み、5連休が終わる直前にクリアした。(クリアできたのは八十稲羽の大神の力による所が大きかった)
あまりにも、あまりにも素晴らしかったので、2周目に突入する前に、作中の「怪盗信者」である三島のように、テキストエディタを立ち上げ、「僕らの光」を何度も流しながら、支離滅裂でキモいテキストを書き散らしている
ペルソナシリーズの存在を名前だけは知っていたが、普段ゲームなぞ殆どしない自分は、2016年の秋、8年ぶりに同シリーズの最新ナンバリングタイトルが出るという素晴らしいニュースがあったことすら露知らず、どうしてもやりたかったうたわれるもの二人の白皇の為に、PS4を購入して(こちらも言うまでもないほどのADVの大傑作だ)プレイし、Suaraが歌う、ボーカル付のシーンで涙を流していた。
それ以外やりたいソフトも無く、当時大学生で暇を持て余していた自分は、近場の家電量販店に行き、たまたま見つけた赤と黒のソフトを手に取っていた。
それがペルソナ5との、ひいてはペルソナシリーズの出会いだった。その世界にあまりにハマってしまったせいで、ペルソナ5を通算500時間ほどプレイした。そしてペルソナ3で命の答えにたどり着き、ペルソナ4ザ・ゴールデンで霧を晴らし真実を見つけ出した。それでも飽き足らず(無印と2はまだやっていないにわかにではあるが)アニメを見て映画を見て、アリーナで闘い、ダンスを踊った。
ペルソナ5は現実世界と認知世界(というもう一つの現実との)と東京という「現実」にある世界の3要素が絶妙にリンクしていて、ある意味残酷とすら思えるほどの没入感を与えることに成功している。
教室で自分の目の前に座っている杏、竜司とともに食べた荻窪のラーメン、真と共に闘ったパレス、双葉と共に食べたカレー、春と飲んだコーヒー…一緒に眠ったモルガナ…「痛み」を共有した仲間たちとの楽しくどこかくすぐったいような日々だけではない。無気力な大衆、どこにでもいそうなパレスの主たちまで、確かに存在する。
そして、プレイを終えたあと、自分は確かに怪盗団であったこと、しかしこの世界には怪盗団がいないということを実感せずにはいられない。
ペルソナ5の物語は、当事者になってしまった鴨志田事件から、真加入の前半は勧善懲悪的な物語であり、中盤は、大衆の期待に煽られていき、「人一倍許せないこと」があり、それを貫いていく、という怪盗団のポリシーがブレはじめ、絶頂と凋落を味わう。
終盤はその大衆の集合的無意識を切り口として、人々の世界のどこにでもありふれている閉塞と怠惰の中で、それでも人間には前進していく・立ち向かっていく意志と希望があり、(矛盾しているが)それらを自ら選択していくエンドである。
「人間の希望を集めて作られた」モルガナが「人間には、世界を変える力がある。今はそれをほんの少し忘れてしまっているだけ」という台詞であらわされるように、作中には「意志と選択」がありふれている。
その最たるものとして、主人公は獅童の事件の証言者として、警察に出頭し、少年院に入ってしまうことになるわけだが、「痛み」を共有した仲間たちが主人公の冤罪を証明する。
作品の答えが、そして作品のテーマであった「真なる更生」が果たされる。彼らの「意志」はわれわれの現実にも還元され、ありふれた怠惰と閉塞の世界で、「ほんの少し」忘れていた希望と意思を思い出す。
さて、ペルソナ5 THE ROYALでは、そんな「意志と選択」の物語であったペルソナ5から、今回の「ROYAL」な3学期では、異なるシチュエーションで「意志と選択」の物語が繰り広げられることになる
パーフェクトであった物語に、一学期から当然のように追加される新しい登場人物たち。
言うまでもなく、芳澤すみれと丸喜拓人のことだ。ネタバレになってしまうが、二人には共通点がある、「大切な人」を失ったという「痛み」を持っている点だ。丸喜拓人は恋人を、芳澤すみれは、姉であった「芳澤かすみ」と自分自身「芳澤すみれ」である。丸喜は恋人であった留美の家族が殺されたショックで、留美が廃人になる。
芳澤すみれは、世界を獲ると共に誓った姉を、自らの不注意で事故に遭わせてしまい、失う。
丸喜は「彼女を救いたい」という「願い」をもって、ペルソナを覚醒させ、留美を救った代償に、留美は丸喜のことを忘れる。
すみれは「かすみになりたい」という「願い」を持ち、それを丸喜が認知を「曲解」させることで、すみれは自身を「かすみ」と認識して生きていく。その代償にすみれはすみれ自身を失う。
3学期に解禁されるすみれコープにおいて、芳澤すみれは「かすみ」のように凛々とした少女ではなく、いつも姉の背中を追いかけている内気な少女として描かれる。
かすみの影から自ら脱却し自分の意志で歩み始める。彼女のコープで、下していた髪を再度括るシーンは、かすみの持っていた強い目が、すみれの中に宿っていた。
すみれの強さと脆さ、そして主人公や丸喜にすがってしまう点は「怪盗団」の女性にはない、どこかギャルゲーチックなトラウマの向き合い方で大変好みだっただけに、もう少し長く仲間として使いたかったという本音もある。
話しを怪盗団に戻そう。怪盗団が無意識にも願っていた願いが叶えられた世界。「幸福な幻想」の中にいる怪盗団は、自分たちが「現実にいない」ということにすら気が付かない。彼らが無意識にも願っていた願いが変えられた世界。モルガナは人間になり、竜司は陸上を続け、杏は志穂と共に過ごす。真や春には父がいて、双葉には母もいる。かすみはかすみとして、凛々とそこにいる。ただ、主人公だけであるジョーカーは違うかのように描かれる。現実が、現実ではない感覚。彼は同じようにここが現実ではないと気がついていた明智、そしてパレスを見つけていた芳澤と協力して、元の世界へ戻ろうと調査を始める。
パレスを発見したのち、戦力を増やすためにもまず、ジョーカーは一人一人一味を説得していくわけだが、改めてジョーカーの精神的な意志の強さには驚嘆する。彼は問いかける「これで本当に幸せか?」自ら痛みを乗り越え、選ばなければ意味がなかったんじゃないのか?
仲間たちは気がつく。竜司の言葉でいうなら「あいつの言葉が正しいと思ったからなのかも」
その瞬間、幻想は打ち砕かれる。
丸喜は「みんなが幸せに暮らす」世界を作りだすことによって全てを救おうとする。そのことに気がついた時、怪盗団は今まで考えていなかった、改心することの是非を問われる。という問いにぶつかる。しかし!目を覚ました怪盗団の答えは自明である。「幸福」よりも「意志と選択」を尊ぶのだ。例え、その現実が幸福なものでなかったとしても。
丸喜は叫ぶ「僕は君たちも救いたいんだ」そして、共闘している明智という存在が「ジョーカーがもう一度闘いたい」という願いに丸喜が応えたことによって生まれた存在だということを明す。そして、明智は自らの存在のことを知りながらも、主人公に、自らの「意志」を貫くよう勧める。明智らしい、突き放すような言い方で。
その時、私はそうか、と少し嬉しくと思う。ジョーカーにも、きちんと願いがあり、後悔があったのかと。あまりにも強靭な精神を持っているので忘れていた。私ははじめてジョーカーが真なる意味で「我々の仮面」になったような実感を得た。
そこから先はもう言うまでもなく、「歪んだ善意」と「まっすぐな意志」との対決である。本来怪盗団に改心することの是非や葛藤など必要ではない。大義名分を気にしてるようでは怪盗団なんかやってないからだ。確かに今回の丸喜は根っからの悪人ではないし、どこか衛宮士郎を彷彿とさせるような一種の正義の味方だと思う。それでも、怪盗団にとっては悪人なのだ、自分の力でまだ見ぬ未来を切り開いていく障害になるものは。
ラストバトルで、ジョーカーは仮面を外し、丸喜といかにも陰キャな殴り合いを行う。少し狙いすぎるきらいはあるが、その青臭さと眩しさを再度確認できただけでも、ペルソナ5THE ROYALは最高の物語であったと私は言える。
エンディングムービにおいて、丸喜はタクシー運転手として主人公を駅まで載せていくシーンがあり「大人になってから失敗しても、もう一度やり直せる。それが僕の復讐かな」(大意)丸喜も見事に未来をつかむことが出来たのだと思い、うれしくなる。
見送りの際にかすみが現れないのも、怪盗団の見送りがやけにあっさりしている所も、自らの「意志」によって、自分だけの道を歩みはじめたことの証左だろう。新幹線のホームで、「前を向いて歩けよ」という声がする。前を向くと、強い目をした「すみれ」がいる。「それでは」という挨拶だけを交わして、二人はすれ違っていく。前を向いて進む、だが、二人は同じ方向を向いていない。なんと素晴らしい別れ方だろうか。
かすみと、怪盗団と、もう一度会いたいと思わずにいられない。もう一度、ありふれた閉塞と怠惰から、未来を切り開くために。そして別れをする為に。その為に何度もペルソナ5THE ROYALを周回し、そのたびに、自分自身の心の中に怪盗団があることを確認するだろう。
なんか、新作のポケモンがらしくないってのでデザイナーがぶっ叩かれてるんだけど、しゃーないと思うのよな。
ポケモンそんな詳しくないし、DSあたりの作品は育成のために持ってて作業的にしかクリアしてないけど、言いたいことは分かる。
昔からポケモンはアートディレクションに関して難がある作品だと思っていた。GBのころは表現力の低さから分からない&田尻氏が関与していたからまともだったのだけど、
GBAあたりから徐々に顕在化していて、DS世代では完全に終わってる印象。
それはポケモン全体でデザインに一貫性が無かったり、ゲームのUIの統一感が全然無かったり(BW、XYは完全に壊れてる)あたりによく出ていて。
ただ、アローラでは「アローラのすがた」に代表されるポケモンのデザインへの取り組みもあり、よくなっていたと思う。
身辺整理。気づかないうちにものに囲まれてたから、とにかく私物を捨てまくった。捨ての途中から掃除にもハマって、2ch(当時)の掃除板の名言スレとかアホほど読んでた。管理しなければならないものが減ると、脳が疲弊しなくなって考え方がクリアになる、気がする。あれから時間が経って、また持ち物増えてきちゃったけどね。
反論してみてくれとか言ってたので書いてみる。
・値段が高い
レンタル映画20本分の価格を上げているが、最近のゲームは20時間でクリア出来ないゲームも多くむしろ60時間100時間とやるゲームもたくさん。つまり、時間単価で言うなら、1時間あたりの金額は映画よりもはるかに安い。
しかも、やり直したくなった時に新たなお金をかける必要が無いので更に安くなる。
ビデオを買う(3000~5000円)と比べれば、4時間~10時間やるだけで満足する(人もいる)STGや格ゲーでもビデオよりも安いと言える。
物によるが、大抵の物は30分~1時間で区切りが付く。ドラマやアニメが好きならば「明日はどんな展開なんだろう」と楽しみにしながらゲームを追える事で、2クール~4クール位楽しめる作品と考えれば良いかと
ネットは広いので、これはゲームだろうが仕事の話だろうが映画だろうが、ジャンルを問うのはお門違いだろう。
リアルにいないからと言ってあなたはネットを上手く使えてるみたいなので問題有ると思えないのだが……
ゲームを通してリアルのストレスを解消出来る、ストーリーのある物を通じて心や考え方を豊かに出来るぞっ!
(キャラクターの綺麗ごとを、綺麗ごとで済まさず実行して行くと、とても気持ちがいいよっ)
すなわち、フィードバックが無いのではなく、フィードバックを考えないだけ。これではゲームも映画も創作物全てがそうなる。
あら探ししてみたともいうかもしれない。
少し長くなるが議論を聞く余地がありそうな書きぶりだったのでよかったら読んでほしい。
私は高校生までこの方と同じような状況と考えだった。
何時間もやる連中の気が知れない。
映画が好き。
私の兄は子供の頃からゲームが大好きな人だった。兄弟のお年玉を共有財産として使ってしまう人で、私が無欲だったのをいいことに私のお年玉を自分のお年玉と合算してゲームを買ってしまう人だった。
(いま思えば兄への不信感はこの時から始まり以後数十年続いているのだけどそれはまた別の話)
自分はそれこそゲームなんてまるでなんの興味も関心もなかったし、シューティングゲームだのRPGだの、そういったゲームを兄が夢中になってやるのを、冷めた目で見ていた。
ためしにやってみなよと言われていくつかやってみたものの、ぷよぷよはどうしても半魚人に勝てないし、星のカービィはかわいいキャラクターの動きを見るのは楽しいが見てるとボタンがうまく押せないし、
ファイナルファンタジーはお話があったので兄がプレイしているのを後ろで読むのは好きだったが戦闘やレベル上げが始まるとくそ面白くなくて見なくなり、そうなるといつの間にかシナリオが進んでいて結局話についていけなかった。やるにはやるが面白いと思ったことがなく、ゲームをクリアする達成感なんて得られたことはなかった。
とにかく、ゲームは男の子が好きなもの。女子によさはわからない。そういう割りきりをしていた。
初めて自主的にゲームを買ったのは高校生の頃だった。新聞の一面広告。
クーロンズゲートというゲームだった。主人公らしきサラリーマンの実写の顔部分がライターかなにかであぶってあり、焼けて穴が開いている。
1997年2月27日の新聞。クーロンズゲートが明日発売されるという全面広告がある pic.twitter.com/hDwVHpxADp— ぴざろぼ (@pizarobot) June 2, 2013
写真の背景になっている香港、特に九龍城塞のこともこのとき初めて知った。
それまで自分は新しくてきれいな場所やモノが好きだった。おさがりのカバンや勉強机は嫌いだったし小汚い祖母の家は嫌いだった。
建物も街も新しいほうがいい。
だけどそのゲームのデザインは「臭くて異臭を放つグロテスクで暗く汚い街」を全面に見せていた。いわゆるデカダンスとかそういう美学と初めて会ったのがこのゲームだった。
汚い街でもゲームなら歩ける。
今思えば、サラリーマンの顔が焼け落ちていたのも主人公はあくまでプレイヤーといいたくてそう言ったデザインだったんだろう。実際ゲームは主人公の姿かたちの明言は一切なく、始終一人称視点で進むものだった。
ぞわぞわした気持ちで、気が付いたら予約購入していた。よくわからないものに高校生が一万円弱の出費(初回特装版)。どんな話なんだろう、これはどこだろう、とにかくこれが何なのか知りたかった。
どうやらこのゲームをするのにプレイステーションが必要らしかった。
当時は人気商品でなかなか入荷しなかった。
ゲームソフトはその後たしかすぐ手元に届いた気がするが、プレステ本体を手に入れるのにはそれから半年前後かかった気がする。
この値段ですといわれたものを言い値で買うのは初めての経験だった。
本は中古屋で買っていたし、映画はなるべく安くなる日を選んでいた、バイトもしていない高校生が万単位のものをポンポンと。今思えばケチの私が、異常だった。あれはなんだったんだろう?
今思えば妙な突き動かされ方だった。
実際初めてプレイしたゲームにはいろいろ苦労したが、私はそのゲームを何とか一年半かけてクリアした。
世の中ではこのゲームを香港返還前にプレイし終わるのが目標みたいに騒がれていたが、コントローラーを握るのがほとんど始めてみたいな私には無理な相談だ。とにかく自分のペースでやった。
なぜこんなに時間がかかったのかというと、それは主に敵の出るダンジョンが怖かったからだ。
よくyoutubeにホラーゲーム実況チャンネルが軒を連ねているが、見るのとやるのでは怖さが違う。自分でやりたくない人が実況動画を見るのだなと思った。
ひたすら人気のないダンジョンをたった一人だけで、進む怖さ。
私はその時はゲームをプレイしているわけではなく、そこに、本当に、自分が風水師として香港を歩き回っていたように感じた。
クエストをこなすと人に感謝された。たまには、「余計なことを」と感謝されなかった。
高校生が実感したことのない大義と任務と達成感がそこにあった。中毒になった。
新しい街に踏み込むと、探索にわくわくした。
やり始めて数時間は町並みに圧倒されつづけ、その後数時間は不気味なキャラクターたちのセリフに魅了され、シナリオが半分も進んだころには再びぞわぞわした得体の知れなさに震えた。
これはもしかしてマスターピースともいえるとんでもない名作を手にしたのではないか?という興奮だった。
実際には、世間の評価は厳しく、「一部のマニアックなものが好きな人にカルト的人気を誇った」作品という扱いだったが。
あとから調べれば調べるほど、台詞や要素がすべてオカルト的、文学的、歴史的な裏打ちがあり、ゲームの攻略本には荒俣宏が何ページもコメンタリーを載せていた。
今のゲーム業界で当たり前になっているオープンワールド(自分で自由に散策できる世界)がはやるのはこういうことなんだろうと思う。
画面の向こうの世界へは肉体の隔たりがあるはずなのだが、脳は単純で勘違いをする、ここにいると。
ゲームをクリアした後も、あの世界、あの自分の立場や仲間たちが恋しくて「香港に帰りたい」と何度か思った。
実際、啓徳空港が閉鎖するとニュースで聞いて、いてもたってもいられなくなり、初めてバイトをして、一人で旅行会社を見つけて香港へ行った。
写真を、フィルムで15本とって帰った。現像に出すと全部で三万はした。
これでしばらくはホームシックにならずに済むかも、とすら思った。
高校生活は退屈で何にも覚えていないが、香港で孤独に活躍し世界を守ったことは覚えている。
少なくとも、私は、ゲームは疑似体験そのものの楽しさだと思っている。
ゲームメイカーが作った世界でもう一つの自分の可能性を体験する。
風水師の自分、どこかの国の王族である自分、アンドロイドの自分、人間以外の何かである自分……。
PS4のCMのコピーが「できないことができるって最高だ」だったんだけど、これを見たときニヤリとしてしまった。
わかるわかる。そういうゲームをやった後って、夢の中でも飛び始めるんだよね。自分がね。
「デトロイト」をすると、何度も人の命を自分が預かるシチュエーションに陥る。
選択肢を求められると、自分がどんな人間なのかを考えさせられる。そしてその結果を見ることができる……。
不思議なのはゲームと分かっていても、人を犠牲にしたり殺す選択肢を選ぶときは心が痛むことだ。
「ファイナルファンタジー15」をしたときは突然できた「昔からの友達」と、一緒にキャンプして初めて訪れる街を散策して、楽しかった。
「CALL of DUTY4:MODERN WARFARE」でうまく敵を倒したとき上官から「beautiful!」と褒められて本気で照れてしまった。
誰かの選択を客観視して、共感したり、理解しようとしたりする。
ゲームが映画と違うとすれば、映画は途中で寝落ちしたとき、しょせん他人の人生だから目が覚めた時にすでに登場人物は決断し、エンドロールが流れているが
ゲームは起きたときまだ問題は目の前にあり、「さあどうする」と選択を迫ってくることだ。
自分が一体どんな決断をしてどんな装備を選んで進んだかを、ほかの人と話したり、ほかの人のプレイ実況動画を見ることで比較して楽しむ遊びも残されている。
「デトロイト」や今度発売される「デス・ストランディング」はCG技術の向上でほとんど実写と見まがうばかりだ。
一本の映画を見ている気分になるし、プレイするとうっかり自己体験と混同しかけるほどだ。
デトロイトをプレイしたときは私はしばらく現実に戻ってくるのに苦労した。
登場人物に実際の俳優がモデルにされることもあるし、シナリオを映画の脚本家が手掛けることも今では珍しくもない。
俳優にとっても映画とゲームの内容は変わらなくなってきているのかもしれない。
『DEATH STRANDING』TGS2019 ノーカット プレイ映像 (9月14日のステージイベントより) https://youtu.be/D10J89jgZHc
シューティングやRPG、アクションその他のジャンルに関しては省かせてもらったが、
そちらが好きな方の意見も読みたいのでぜひ誰か書いてほしい。
モンスターハンターなどヒット作だと、会社で別部署の初対面の人と突然ゲーム仲間になれたこともある。
就業終わり応接室や居酒屋で同じゲームをプレイする共有体験は本や映画以外ではスポーツ位しか思い浮かばない。
eスポーツというくらいだから、スポーツに近いのかもしれない。
https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0187779
70歳を超えた父が最近どうも物忘れが激しいのでマインクラフトをプレゼントした。
モノ作りが好きな父には、モンハン(狩り)より、木を切って家を作るようなゲームが好きだろうと踏んだからだ。
予測は大当たりで、父は寝食を忘れてはまってしまい、母が食事で読んでもなかなか来ないといって、ゲームを与えた私が変わりに怒られてしまった。
半年後に実家に戻ったら、父はゲームの中でそれはそれはでかい光輝くピラミッドを作っていて肝が冷えた。
自分の墓かよ。
(1)値段はクソ安い
小売店で買ったら店のマージンが入って値段が高騰するけど、Steamならネットからゲームをダウンロードするだけなので安いし、年に数回セールして40~50%オフなんてザラ。80~90%オフも珍しくない。
更にジャンル・品揃えも豊富。海外の無名作品から15年ぐらい前の作品もある。
Steam(だけとは限らないが)のゲームの鍵だけ売ってるサイトの総称。ここはもっと安くてSteamの更に30~40%オフが普通ってレベルの安さw
さっき、とあるところでリメイク版バイオ2の値段チェックしたら3000円ちょっとだったわ。今日はちょっと高かったなw
今の時代のゲームはオンライン対戦ゲーム主流。オンライン対戦ゲームなんてやや乱暴な言い方をすればストーリーなんて無い。
単にオンライン上のプレイヤーと集まって1マッチやるのを繰り返すだけ。1マッチに掛かる時間はPUBGなら20~30分ぐらいか、Dead by Daylightなら10~20分か。1マッチが長めのDota2でも1時間程度か。
こういう対戦ゲームに廃人の如くハマった奴らが何千時間とプレイしてるだけ。
前述のSteamには同じゲームをプレイする人とフレンドになる機能や、当該ゲームに関する掲示板コミュニティ(主に英語)もある。
今の時代、対戦ゲームなら賞金が掛かった大会もあるし、日本人が出場してるのもある。こういうのはゲームサイトでも話題になる。
ある程度知名度あるゲームなら当然5チャンネルでもスレが伸びる。
たしかに殆どのゲームについてはいくらやり込んだところで実生活への利益はないが、あることはある。
1:ゲーム内でレアアイテムを集めて、それをオークションに出して、誰かに買って貰って、お小遣い稼ぎが出来る。
2:e-スポーツのゲーマーなら大会に出場したり好成績を残して金をゲットできる。つい数ヶ月前に14,5歳の子供が大会で優勝して数億獲得したニュース見たか?