2019-11-11

祖母が亡くなって一年経った。

去年の今頃祖母が亡くなった。

人達都内居酒屋チェーンで行けもしない旅行計画話をのんべりしていると母から祖母病院に運ばれた。すぐ帰ってきてほしい。」との連絡があった。

電話があった時点でもうだいぶ飲んでいたし、店から運ばれた病院まで結構距離があったのでちょっと気の抜けた返事をしたら、めったに声を荒げない母親から恐ろしい勢いで怒られたので、本当にただ事ではないなのだと分かった。

酔いもどこかへ行ってしまった。私の腎臓はこんな時だけまともに働く。


祖母痴呆がかなり進んでおり、「痴呆症」で検索すると出てくる症状の7.8割をクリアしていた。そして同棲している我々家族はみな疲弊していた。

病院へ向かうタクシーの中で「これはもう前と同じ祖母に会うことはできないのかもな」と痴呆の初期症状が出てきた時と同じことを考えていた。薄情な孫だった。

祖母と私はどうにも性分が似ているようで、祖母本来性格痴呆からくる性格一切合切馬が合わず喧嘩ばかりしていた。

常に祖母イライラしてレスラップバトルをし続ける日々だった。無論泥仕合である

しかし“猛者”である祖母は、数分経つと喧嘩もその原因も何もかも忘れて「財布がない、誰かにまれたのかもしれない。」と深刻そうな顔で、3分前にしてきたのと同じ内容の相談を私に持ち掛けてきていた。)

だとしても祖母危篤にこんなに心動かされない自分に、祖母危篤のものと同じくらいショックを受けた。小4の時に飼っていたチビジャンガリアンハムスター)の死の方が悲しく喪失感が大きかった。



あと15分ほどで病院につく、というところで母から「たった今亡くなりました。穏やかな顔です。」と短いメールが届いた。



祖母が亡くなった後の我々家族残酷なくらい平和になった。

毎日仕事家事に加え、祖母介護疲弊しギスギスしていた家族は心の余裕を取り戻し、家族の会話は祖母以外の話題が増えて家は昔のような居心地のいい空間となった。

特に祖母に一番心を砕いていた母は、かなり肩の荷が下りたようで、もともと多忙だった仕事の合間に楽しんでいた唯一の趣味にもかけられる時間が増え、比例して笑顔も増えた。

姉も在宅業務の合間に祖母の昼食や身の回りの世話をする必要がなくなり仕事に専念し始め、父も祖母の通院の足のために気を遣いながら会社を休まなくてもよくなった。

末子の私も祖母の遊び相手・話し相手という名の喧嘩稼業の看板を下ろし、平日の夜と土日の時間を完全に自分のために使えるようになった。(あと関係あるのか分からないが慢性鼻炎も治った。なんで?)


今年の夏には私の持ち込み企画として家族全員(4人と一匹)で那須高原旅行にも行けた。

家に残してきた祖母とその面倒を見る家族のことを考えて申し訳ない気持ちになることも、連れてきた祖母がどこかへ言ってしまわないか気を張ってみている必要も無いというのは、こんなに楽で楽しいものだったのかと悲しくなった。

夏の那須高原猛暑や我々の苦労など素知らぬ顔で気持ちの良い風が吹いて、地面に木漏れ日が落ちていた。その中を走る我が家の犬も必要以上におやつを与える人間がいなくなり、3kg以上やせて草原が似合うボディになった。お前元はそんな感じだったのか。


昨年急に自由になってしまった私は来年海外留学を控えている。

皮肉にも社会人になった後も、祖母介護実家住まいだったので、お金を使う暇も機会もなかったのが幸いした。

今までできなかった分、勉強してスキルを身につけてバンバン稼いで旅行に行きまくってやるわい!と意気込み荷物を整理している私に「やっぱりおばあちゃんに似てるね」と母が古いアルバムを見せてきた。

中には祖母が友人や亡き祖父と共に国内外、様々な場所を旅してきた古い写真が大量に挟まっていた。

最後のページにヨーロッパの古城の前でほほ笑む若い祖母写真があった。

痴呆が始まる前の祖母も、私も、外へ出て新しいものを見聞きするのが好きだった。







もうじき一周忌なので気持ちの整理をつけるために書き出したら結構な量になったので、ここに載せて祖母(と私の精神の)供養とさせていただきます

一年経っても祖母が亡くなって悲しいのか嬉しいのかのかからない。自分のことばかりで申し訳ない。

  • あなたが祖母に対して経験されたことは、単なる良し悪し両あり、されど身近な親族としての想いがあり、他人にははかれない感覚なのでしょうが、根底はあなたがご家族に対し家族で...

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