はてなキーワード: はにわとは
先日、ネットの匿名で書き込めるある場所で、自分が古代祐三さんを知らなかったことを
「にわか」
と馬鹿にされました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%A5%90%E4%B8%89
日本を代表するゲーム音楽作曲家であり、代表作は『イース』『アクトレイザー』『世界樹の迷宮』など。
ゲーム音楽の黎明期を支えたゲーム音楽作曲家であり、現在も第一線で活躍している。
そのことを踏まえれば、ゲーム音楽好きを名乗りながら古代さんを知らない人間が「にわか」と呼ばれることについては全く異論がないように思えます。
例えるなら…
(人物のたとえが適切かどうかは別として…)というような人が「にわか」と呼ばれてしまうのは仕方ないと容易に想像できます。
ゲーム音楽好きだけど古代祐三を知らないというのはそういうことなのでしょう。
ですが私はにわか叩きに苦言を呈したいのです。
世の中の一部にはゲーム音楽を好み、その音楽を頻繁に聴く層(=ゲーム音楽好き)が存在するわけですが、ただ、ゲームをプレイせずにその音楽を好きになることは稀です。
つまり、「ゲーム音楽好き」とは、あくまで「自分のプレイしたゲームのゲーム音楽好き」なわけです。
私も、ゲーム音楽好きを名乗っておりますが、過去の名作ゲームはあまりプレイしたことなく、あるゲームの音楽を頻繁に聴いています。
人に好きな音楽を聴かれて、わざわざ、「○○と○○のゲームの音楽が好き」というのはめんどくさいです。
ゲーム音楽好きを名乗らなければ叩かれなかったかもしれませんが、じゃぁどうしたらいいのでしょうか。
ゲーム音楽作曲家は基本的に裏方であり、ゲームのファンであってもその名前を知らないこともあると思います。
だから、稀にインタビューが組まれたりしますが、基本的に表にはあまり出てきません。
私はプレイしていい音楽だなと思ったら、その時初めて作曲家の名前を覚えます。
だからいくら作曲家が有名でも、ゲームをプレイしてないと名前を知らないということもあるのではないでしょうか?
もう一つ。
世の中には名作と呼ばれるゲームがたくさんあります、『イース』や『アクトレイザー』や『世界樹の迷宮』などもそのうちのひとつに数えられるでしょう。
しかし、毎年のように繰り返し生み出される名作ゲームは年々増えていきます。
ゲーム業界でも、「いよいよ、あのゲームをプレイしたことがない世代が入ってきたか…」というような経験をすることがあるそうです。
後の世代になればなるほど予習しなくてはならない名作ゲームはどんどん増えていきます。
ただの、業界人でもない一般人が、ゲーム音楽好きを名乗るだけに、それだけの学習が必要なのでしょうか…。
注)もちろん、あくまでここで必要とされているのは、「作曲家の名前を知ってるか知らないか」ということ……ですが、上記の通り、音楽を知らずに人物だけを知るのは難しいような気がします。彼らの気持ちの裏には、「名前を知っているだけではなく音楽を聴いたことがあるかどうか」という気持ちも隠されてるような気がします。
彼らには「ゲーム音楽はこうあるべき」という気持ちがおありなのだと思います。
ゲーム音楽好きは昔の名作ゲームをすべてプレイして作曲家を覚えるべき、そうでなくてもプレイしてないゲームの作曲家まで網羅すべき、と。
そもそも、ゲーム音楽は音楽の中では圧倒的にマイナーな存在です。
世間一般で音楽といえば歌のことであって、BGMを聴くという発想はあまりないようです。実際に、ある人にゲーム音楽を聴くと言ったらすごく驚かれたことがあります。
とはいってもゲーム音楽にもすごいファン層がいるので「ゲーム音楽は相対的にマイナーである」というのが正しいかと思います。
マイナージャンル同士仲良くしたらいいと思うのですが……いきなりにわか叩きはないんじゃないかと思います。
ところで、なぜにわか叩きは行われるのでしょうか。
①にわかを叩くことによって、にわかがその作品または人物についてよく調べ、ファンの質が上昇する。
②にわかを叩くことによって、にわかがファンを離れ、ファンの質が上昇する。
など、いろんなことが考えられるかもしれませんが、これは逆効果ではないかと考えてしまいます。
古代さん自身は、「俺を知らないなんてにわかだなぁ」とは言わないし言えないでしょう。
だからこそファンが代わりに、「ゲーム音楽業界を啓蒙しなくては」「彼の偉業を知らしめなくては」「能力ある人、努力した人は評価されるべきだ」という気持ちがあるのかもしれません。そういう気持ちは大切ですが、古代さんを他人を叩く武器に使うのはどうなのでしょうか?
だらだら書いてしまいましたが、まとめると、
と考えています。
…あと、いちおう書いておきますが、いきなり「誰こいつ」などと書き込んだわけではありません。
貴方はどのようにお考えですか?
追記:
無知をさらしてしまった面もあり、それに関しては申し訳ありません。
追記2:
久しぶりに加筆。
古代さんの曲を聴いてみると書いてみたが、結局ちょろっと聞いただけに終わってしまった。
ぶっちゃけ言うと、今好きで聞いているゲーム音楽も積極的に探し求めていたわけではない。
ゲームをやってて好きになった曲や、動画でつかわれてて好きになった曲ばかり。
「ゲーム音楽あげてけ」みたいなスレがきっかけで好きになった曲といえば、ヴァンパイアキラーくらいだと思う。
現状、古代さんの音楽が好きでは無ければ、好きではない状態の曲を積極的に聴こうとは思わない。
もちろん、それは今自分が好きな音楽についても同じことで、きっかけがなければ好きにはならなかったと思う。
まぁ、もし自分がゲーム音楽関係のイベントや仕事にかかわったとしたら知らないですでは済まされないから、知っておくべきだけど、趣味で聞く分にはどうでもいいでしょとおもう。
ゲーム音楽だなんて、そもそもバックグラウンドに過ぎなんだから、仮にどんなに優れた音楽でもゲームが糞だったら聴いてもらえないし、評価=すごさとも限らんと思う。
なんか考えがまとまらなくてだらだら書いてしまうけど、この手の話はゲーム音楽業界にかかわらず、どの業界にもあると思う。
ゲーム音楽自体、音楽の世界ではマイノリティー側だと思うけど、その中でもマジョリティとマイノリティがいて、マジョリティ側の人はこれは知ってて当たり前だもんなぁ。
JPOの人が、えっ○○知らないの?とか、これ有名なバンドだよとか言ってきたらどう思うよ?
えっゲーム音楽なんて聴いてるの?って笑われたらどう思うよ?
(http://anond.hatelabo.jp/20170530195336 これの続きです いただいたお言葉読みました、ありがとうございます)
しかし、オタク同士であるがゆえに噛み合わない点というのも出てくる。
私は型月のことをほとんど知らない。
FGOが流行っている世の中において、これはなかなかに辛いものがあるのだ。
Twitterで皆がFGOの話をしている。それを見ると、興味が湧く。
とてもじゃないけど手を出せない。
週に一度のLINEで、話題がなくなるときがある。それなりに長時間話すので当然のことだ。
私はそれに合わせて、Twitterなどで見かけたFGOのキャラ名を述べ、最近よく聞くよね、などと話を振る。慎重に。
そうすると、彼はそのキャラに関することを少し語りだすのである。私は相槌を打つ。問題はその後だ。
「面倒だからやめよう。嫌でしょ、わからない話を力説されても」
どうすりゃいいんだ???
私はfateの原作ゲームをプレイしてアニメを全部見て世界観を理解するしかないのか?????
オタク同士でも微妙にジャンルが違うと全然話が弾まないのだった。それも仕方ないのかもしれない。
私はラブライブが好きだ。
彼はラブライブが嫌いだ。
それはよくないんじゃない!?「人と趣味の話できないんだよね」って言うけどそういうとこじゃない!?
重なるジャンルもある。ローゼンメイデンについては二人とも好んでいる。
(参照:豚猫大好きぶーにゃんの社会的弱者研究所http://sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp/entry/2017/03/06/173930)
当時の就職企業説明会がどのようなものだったかが記されており、就職氷河期に中小企業でさえ就職するのがいかに難しかったか理解できるかと思います。
私は就職氷河期世代なのですが、病気療養のため同世代と同じ時期に就職活動することができませんでした。
ですので、自分自身は就職氷河期の就職活動を経験したことがありません。
しかし、ときどき体調の良い時に大学に行って就職課の求人を見ることがありました。
例年なら満杯になっているはずの掲示板に半分くらいしか求人情報が張っておらず、給与も正社員でありながら手取り15万円にも満たないものが多かったことを記憶しています。
また、同年代の知り合いからは、いわゆる“カラ求人”も多かったと聞いています。
聞くところによると、一斉に企業が採用をやめたので求人倍率が低くなり、あまりの厳しい数字に厚労省が「これはまずい」と思って、“採用しなくてもいいので求人を出して欲しい”と企業にお願いしたことがあるとか、ないとか…。
企業が求人を出して、さんざん面接をやって、結局1人も採用しなかった…なんて話も聞いたことがある時期でした。
今世間で知られている就職氷河期の求人倍率も、このような“カラ求人”の分を除けば、もっと低かったんじゃないか、という意見も聞きます。
さて、そんな就職氷河期世代、または団塊ジュニア世代ももう40代~30代後半。
もう、企業も受け入れが難しい年齢ですし、私は「このまま我々の世代は見捨てられていくんだなぁ」と悲しい気持ちでいました。
ところが最近、八代尚宏先生などの本を読んでいて、「あれ?もしかして就職氷河期世代は見捨てられるどころか、これから影響力が強くなるんじゃないか?」と思うことがありました。
なぜか。
去年から“シルバー民主主義”や“シルバーデモクラシー”という言葉が取り上げられるようになりました。
これは、相対的に数が多い高齢者世代が自分たちの都合の良い政策を実行する党に投票するあまり、若年世代にとって不利益が多い社会になってしまう…というものだったと思います。
この代表格がいわゆる団塊世代であったわけですが、彼らも近年続々と75歳以上という後期高齢者に突入しています。
いろいろ指摘されているように、団塊世代の人も75歳以上になると健康的な問題で投票に行けないことが多くなり、徐々に彼らの政治的影響力は弱まってくると考えられるのです。
「そんなことにわかには信じられない」と思われる方も多いでしょう。
しかし、医療機関で働いていると、75歳を境にしていかに人間が弱くなるかが良くわかるのです。
人間は75歳も過ぎると、大きな病気にかかるとなかなか回復しません。
ちょっとの病気ですぐに足腰が弱くなるので、外出も少なくなります。
また、認知症にもかかりやすくなり、認知症の影響で自力での健康管理ができなくなると、体調が崩れやすくなり、あっという間に亡くなる方もいらっしゃいます。
(そもそも認知症になったら、判断能力が低下するので投票できなくなると思われます)
そういうことを考えながら、人口ピラミッドを見ると、否応にも団塊ジュニア、いわゆる就職氷河期世代の数の多さに目が行きます。
八代先生などによると、年代が上がるにつれて投票率も上昇するそうです。
つまり、これから団塊世代の政治的影響力が弱まると同時に、団塊ジュニア、つまり就職氷河期世代の政治的影響力が強まってくると考えられるのです。
しかし、他の方がさんざん書かれているように、この世代は社会に出てこのかた、ちっとも良い思いをしていません。
新卒で就職活動した時は、不況の影響でどんなにがんばっても正社員として就職できませんでした。
就職してもブラック企業で、過労死したり、精神的疾患を患って退職を余儀なくされる人も多かったです。
仕方なく非正規雇用で働いても、“非正規”という身分差別のため正社員と同じ仕事をしているにも関わらず、給料は少ないままほとんど変わりませんでした。
社会保険にも入れてもらえず、老後の貯蓄もできず、がんばっているにも関わらず「甘えている」「自己責任」と言われる始末です。
一昔前であれば、過去の政治的出来事は時とともに忘れ去られることが多かったと思います。
でも、今はネットに就職氷河期のドキュメンタリー映像や当時の政策の記録が残っています。
こうした状況を考える時、「これから就職氷河期世代がどういう投票行動を取るのか、どのような政治的影響力を及ぼすのかわからないな」と思うのです。
昨年、与党はにわかに就職氷河期世代の支援策を打ち出し始めました。
この背景には減り続ける社会保険収入や税収を増やし、生活保護受給者を減らす目的があるんじゃないかと思っていました。
しかし、団塊世代の次に票をたくさん持っている年代を考えた時、団塊ジュニア世代、つまり就職氷河期世代に注目が集まったのではないかとも考えられるのです。
就職氷河期世代は企業にとって魅力のない年齢になったのかもしれません。
彼らは少なくとも、あと30年間は投票に行けるのです。
今後、就職氷河期世代は政治的にどのような選択をするのでしょうか…。
もし、本当に就職氷河期世代の復讐があるのとすれば、“揺るぎない絶大な投票数”という形で現れることもあるのかもしれない、と思った次第です。
ゲームやアニメ、漫画といったコンテンツには様々な楽しみ方があって、それをどのような形でどう楽しもうが、作品に対し、どのようなスタンスを掲げていようが別にいいと思ってる。それに対して「えっ……おかしくない?」と思ったり、「もっとちゃんと応援しろよ」と思うのも、自由だと思ってる。
でも、最後の思うことに関しては、時によっては、他人を傷つける場合があることを知って欲しい、と思うのも事実である。
俺は某アイドルゲームのファンで、積極的に作品の情報をチェックしてるし、ビビッと来たグッズやCDはたまに買う。でも、時々開かれるライブには行ったことはないし、元となったゲーム自体もあまりやってない。程度としては「数ヶ月に一回か」という頻度だ。
ライブに行ったことがないのは、昔から大音量の音を聴くと具合が悪くなるという体質上の問題で、ゲームを熱心にやってないのも、自分がゲームが下手クソで、さらにゲームに関して明るい思い出が全然ないからだった。
それでも、お気に入りのアイドル(キャラ)は何人もできたし、時々だけど応援していた。作品も「本当に魅力的なコンテンツだな」と尊敬していた。
でも、ある時に同じ趣味を持った人(ゲームにもライブにも熱心に行ってる、いわゆるガチなファン)と会話をする機会があって、その時に自然に、「あのゲーム、あまりやったことないけど好きなんだよね」と言った。
すると相手は、「え……? あまりやったことないのに好きなの?」と言われて、続けて「熱心にやってないのに好きとかおかしくないか?」とか、「グッズやCDもろくに集めてないのに?」とか詰られた。
幸い、相手は物わかりがいい人だったので、自分の事情やスタンスを説明したら納得してくれた。でも相手は「ゲームプレイ、グッズ、ライブ、全てをこなしてこそファン」というこだわりを持っているらしく、理解しつつもすごく苦い顔をしていた。ゲームに関しては「んなモン克服すりゃいいのに……」と漏らしていたし。
詰られたからファンを辞めたという訳でもないし、コンテンツと付き合うスタンスを変えるつもりも、何かがある限りはない。
でも、先の相手の価値観に言わせれば、「俺はみたいなヤツはにわか」らしい。確かに俺のようなコンテンツの付き合い方だと、見ようによっては「熱心じゃない」かもしれない。
だけど、最初に書いたように、コンテンツはどのような楽しみ方をしようが自由なのだ。今の俺の楽しみ方も、自分の事情と照らし合わせた上で付き合っている。
もちろん、それに対して何を思おうと自由だ。自分でも時々、他人の楽しみ方に「キモいな」とか、「理解できない」とか思ってしまう時とかあるから。
俺が声を大にして一番言いたいのは、「このような楽しみ方をしているのには、ちゃんとした事情がある」ことを、頭の隅に置いといて欲しいと言いたい。
金がないからとか、下手だからとか、その方が自分に合ってるからとか、主観的に見れば「これで『愛してる、大好き』とかあり得ない、気持ち悪い」と思うような楽しみ方も、(理解してもらえるか、理解できるかどうかは別として)相手にとっては適切な理由がある。
あまり熱心にやっていない人を「にわか」、その楽しみ方を「気持ち悪い」と思っている人達には、楽しみ方には事情もあることを頭の片隅で理解して欲しい。
大好きなのに、仲間の圧力で肩身が狭くなり、居心地の悪さに耐えられなくなって辞めるような人が出る、みたいなことな起こるのは心が痛い。
将棋界を震撼させた三浦九段の疑惑だが、将棋ファンの間には様々な憶測が飛び交っている。
三浦九段の替わりに竜王戦の舞台に登場することになったのは、同じくトップ棋士のひとりである丸山九段だ。その丸山九段による「日本将棋連盟の決定には個人的には賛成しかねますが」とのコメントは、三浦の潔白を信じての抵抗を意味するのか、それとも、年末までの公式戦出場停止処分が軽すぎるという意味なのか。
ネット上の棋士たちの多くの第一声には、どちらかといえば擁護の色が見られた一方で、橋本八段のような黒断定派も現れた。しばらくして連盟記者会見からの「告発者が5人ほどいる」という追加情報が流れると、三浦九段の直近の対局者リストや夏以降とされる告発の時期、対局の重要度などから、竜王への挑戦をかけて三番勝負を戦った丸山九段も告発者のひとりではないかとの憶測も生まれた。
仮に丸山九段が告発者のひとりだとすれば、「日本将棋連盟の決定には個人的には賛成しかねますが」という発言の真意は、処分が軽すぎるという意味に受け取れる。
◆
いっぽう、その丸山九段を迎え撃つことになった渡辺竜王も、当初はブログでの「詳細は各種報道に任せて、ここでは省略します。」と言葉少ないコメントだけが発表されていたため、三浦九段に対してどのような思いでいるのか判然としなかった。しかし「三浦九段への聴取が行われたとされる常務会には、渡辺竜王も出席していた」という追加情報、そして渡辺竜王の「疑わしい要素がいくつか出ている状況で、やむを得ない措置ではないかと思う」というコメントがもたらされると、渡辺竜王こそが告発者の筆頭格だったのではないかと思われた。
その前提に立てば、今回の疑惑を語る上で、先に挙げた三浦九段と丸山九段の三番勝負と同じくらい重要な一局として、三浦九段と渡辺竜王のA級順位戦での一局が俄然、注目を浴びることになる。
なにより対局が10月3日と直近であったこと、そして棋士人生に大きく影響する順位戦であること、極めつけに三浦九段が「驚愕」とも評された手を放った上で勝利したことから、この対局が決定打となって、渡辺竜王が「行動」したのではないかと思われた。
◆
そして、本日の竜王戦開幕である。公式のニコニコ生放送も大きく荒れることなく、将棋ファンは塚田親子によるほっこり解説を楽しんでいたが、対局開始からまだ間もない午前中、その心はにわかに揺さぶられることになった。
丸山九段が、直前の、そして「疑惑」の三浦vs渡辺戦をなぞるように手順を進め、1筋の歩の突き合いこそ省略したものの、ついには三浦の放った4五桂という「驚愕」の手までをも踏襲したのである。
もちろん、前例のある手順を途中まで踏襲することは、プロの対局ではまったくめずらしいことではない。また、4五桂というのも某棋士によれば「先手の▲4五桂跳ねは昔指されていたんですが軽すぎるというので先手いいとは思われてませんでしたがここ半年位に研究されていた形です」とされ、決して想定外の手ということでもない。しかしその前例というのは、今回の大騒動の当事者であり、いま自分がいる場所に座っているはずだった三浦九段が、いま目の前にいる渡辺竜王に対して指した手なのである。竜王戦の大舞台で、指せば誰もが三浦戦を思い起こす。よほどの覚悟がないと、指せるものではない。
「日本将棋連盟の決定には個人的には賛成しかねますが」という発言の真意は、やはり三浦九段の処分に対する反抗だったのだ——
◆
棋士は盤上で語る。
丸山の三浦への思いはあくまで憶測であるし、「純粋によい手だったから指しただけ」とする意見や、渡辺竜王を心理的に動揺させるための狡獪な戦術とする向きもある。しかし、そのいずれにしても、丸山九段は大勢の将棋ファンや棋士を前に、盤上で語ったのだ。
ニコ生も、2chも、ついったも、男、丸山の4五桂に沸き返った。
◆
渡辺と三浦・丸山の間には、深い因縁がある。渡辺が最初に竜王位を獲得してまだ年の浅かった2006年、NHK将棋講座のテキスト誌上にて渡辺竜王は、当時の三浦八段・丸山九段・深浦八段の研究姿勢に対して「若手にメールや電話で聞くのはA級棋士としての自覚に欠けると思います。そういう人たちの将棋は並べる気もおきませんね。目新しい手を指しても、どうせ誰かに聞いたんだろ、と思ってしまいますので。こういう人には負けたくないです」とこき下ろした。将棋界に言う「質問三羽烏」事件である。
その直後にも渡辺は、NHK杯戦で丸山に対して初手3六歩という、プロの対局でめったに指されない手を指して丸山を挑発し、局後に解説の米長から「相手が相手だからこのくらいでいいと」と水を向けられると「そうですね」と応じ、聞き手の千葉女流を慌てさせている。
温厚で口数少ない丸山が、渡辺をどう見ていたかはわからないが、三浦に対しては、同じ「烏」として、ひょっとしたらシンパシーを感じていたかもしれない。
◆
重苦しくなるかとみられた七番勝負の竜王戦を、挑戦者の丸山九段は、いきなりまさかの形で盛り上げてくれた。また、避けることもできた手順を受けて立った渡辺竜王もまた、堂々たるものである。名勝負に期待したい。
テレビがつまらなくなった理由を考えていたらふとプロレスの衰退を思い出した。
でも、同時にお金の臭いを嗅ぎつけた大人が介入することで、すぐにお金を稼ぐことが目的に変わってしまう。
どれだけマニアックな業界であっても、その段階になると必ずにわかファンが湧き出てきて、運営側も少数で口うるさいマニアックなファンよりも大多数で何も言わないにわかファンを相手に商売をし始めてしまう。
そうなれば、わかりやすく派手であることが求められ、結果として演出に走ってしまうことになるのだ。
真剣勝負がいつも面白いとは限らないし、マニアックな勝負はにわかファンにはわからない次元で繰り広げられてしまうものだ。
しかし、どんなジャンルであっても演出が必要になった時点ですでに緩やかな死が始まっていたのだ。
本来であれば、リアルだからこそつまらない試合もあるということを正しく啓蒙すべきだ。
派手じゃなくても、上級者同士の戦いがなぜ面白いのかをもっと深く掘り下げるべきだ
ところが、どんなジャンルであっても、その時の興行を大きくすることばかりが優先されて誰もが何も考えずに楽しめる方向に舵が切られてしまう。
その先に待っているものは衰退しかないのに、なぜテレビは演出を手放せないのだろう。
台本通りに演じることばかりを考えて、真剣勝負を忘れてしまったプロレスを見させられているかのようだ。
しかし、そこまで考えてこれが何もテレビやプロレスのことばかりではないということに気付いた。
結局はジャンルをダメにするのは、運営側に潜む拝金主義とジャンルを食いつぶしに来るわがままなにわかファンたちなのだ。
もしジャンルを大切にしたいと思うなら、どれだけ世の中から注目されようとも、どれだけ大きな金額が目の前をちらつこうとも、興行の規模を適正に維持することだ。
私は半信半疑ながら、食卓に置かれた一房のバナナを眺めていた。
この確かに目の前に存在するバナナが消えるなどという話はにわかには信じがたかったが、日本各地でそのような事例があるという。NHKでも報道されている通りだ。
その原因やメカニズムについてはさまざまに議論されているようだが、私にはいずれも説得力に欠けるように思われた。
兎にも角にも、自分の目で確かめてみるほかないだろう。そう腹に決め、私はこの週末を利用してバナナを観察することにしたのだ。
私はじっと待っていた。
何時間たっただろうか、私はどうやらまどろみかけていたらしい。
食卓に目をやった私は、あっと声を上げた。
バナナが消えていた。
いや、今まさに消えつつあった。
4本のうち、1本はすでに跡形も無く虚空に消えている。
その隣の1本は、半分ほどが闇に飲まれて、いや、西日の中へと溶け出していた。
私はその断面に目を凝らしてみた。だが何が起きているのか見当もつかない。
そうだ、記録しなければ。私は慌ててカメラを手に取ろうと立ち上がった。
が、よろめいて手をついた。何かがおかしい。
私の体は消えつつあった。
私の腹はすでに存在しなかった。
右足もほとんど消えかかり、左足は宙に浮かんでいた。
「最近のアニメは」とか「最近のラノベは」とか主語がでかい批判をされるとオタクはめちゃくちゃキレるのに、邦画に対しては自分も同じような批判してるからなんだかなあと思ってしまう。
自分の詳しい分野については主語のでかい批判を絶対に許さないのに、自分が詳しくない分野については主語のでかい批判もOKとする。
「俺はお前の好きなものに対して雑な批判するけど、お前は俺の好きなものに対して雑な批判するなよ!」って。
自分が批判されると「差別だ!」と騒ぐが、自分が差別的な発言していても平気で開き直り正当化する。
オタクのこういうところがどうしても好きになれない。
すべてについて雑な批判をある程度許容するか、もしくはすべてについて雑な批判を完全に許容しないかのいずれかの態度をとるべきなのでは。
「最近のアニメは」「最近のラノベは」などという雑な批判に対してキレるのであれば、オタク自身も他の分野について雑な批判をするべきではないと思う。
逆に自分自身が他の分野についてたとえば「最近の邦画は」などと雑な批判をしているのであれば、オタク以外の人たちからの素朴な印象論「最近のアニメは」「最近のラノベは」などという雑な批判も仕方のないノイズとして受け入れるべきなのでは。
詳しくない人は限られたほんの少しの情報から全体の印象を作り上げる。
それは愚かな態度ではあるが、同時に仕方のないことでもある。
日常的に誰もがそうやって情報処理の負担を軽減して生きている。
興味のない分野についても日々徹底的に研究して生きていけるほど人生は長くはない。
もちろん断片的な情報から作り上げた印象というものは真実の姿とは全然違うものではある。
けれどその人にはそう見えたというのはまた事実なわけだ。
オタクが「最近の邦画は」というとき、もちろん最近の邦画を全部チェックしてるわけがないし、目立つところにあるものの印象で邦画全体について語っているのではないか。
邦画についてはにわかにすぎないオタクには最近の邦画事情はそう見えるということであり、それは熱心な邦画ファンの目に映る邦画事情とは異なるだろう。
まとめられたつぶやきを見てみると、多くが高橋大輔もしくは浅田真央アイコンが目立ち、羽生結弦アイコン、そしてデニス・テンのアイコンはほぼ含まれていないのがわかる。
今回のいきさつとこういった状況から、デニス・テンを批判し中傷したのは羽生結弦ファン、ということにしたい向きがあるようだ。
(上のまとめ主も含めて)
https://twitter.com/sk8d3/status/716222370227163137
https://twitter.com/windicalclub/status/716230089856266241
https://twitter.com/00LT/status/716276098510639105
一方で浅田真央の一部ファンがこれまでずっとかつてライバルであったキム・ヨナをバッシングしてきたことはかなり知られている。
そこからさらに一部は嫌韓・ネトウヨに移行、かつてキム・ヨナのコーチをつとめたブライアン・オーサーも忌み嫌っている。
https://twitter.com/UUAO21/status/694151849058828288
https://twitter.com/daidaiyuzuyuzu/status/692957607183675392
https://twitter.com/monogusanukok/status/681601447226548225
そしてその一部は、ブライアン・オーサーに師事し(浅田真央がとれなかった)オリンピック金メダルを手にした羽生結弦をキム・ヨナ同様憎んでいる。
高橋大輔の一部ファン(全体に占める比率はかなり高い)は彼のみを崇拝するあまり、彼のライバルになりうる選手が出てくるたびにバッシングしてきた。
かつては織田、小塚といった日本人選手も対象となり、次に対象になったのがパトリック・チャン。
パトリック・チャンには卓越するスケーティング技術があり、そこからの高い演技構成点を獲得しているということが、一部ファンには理解できず(あるいはしたくなく)一時はバッシングの代表的なターゲットになっていた、が2012年~2013年あたりから風向きが変わってくる。羽生結弦の台頭である。
それまでは国内選手で安定して4回転ジャンプを成功させ、高橋大輔を凌ぐ成績を安定して獲得するものはいなかったのが、2012年春の世界選手権で羽生結弦が初出場で表彰台に上がった後、コーチを変更しブライアン・オーサーに師事してから世界新記録を出すようになり、年末の全日本選手権で優勝。
この頃からバッシングの対象は羽生結弦に移行し、オリンピック直前の2013年グランプリ・ファイナルで羽生結弦がパトリック・チャンにはじめて勝利し、年末の全日本選手権で羽生結弦が2年連続優勝しオリンピック代表選出し高橋大輔が5位であったころにはバッシングはピークに達した。
この頃には羽生結弦に対してだけでなく、彼のコーチ、振付師に対してもセクシャル・マイノリティであることを中傷する言動などがすでに出現していたが、キム・ヨナ経由でブライアン・オーサーを嫌う浅田真央ファン、羽生結弦のコーチであるという理由でブライアン・オーサーを嫌う高橋大輔ファンがこれらの言動に喜々として加わり盛り上がっていたのもまた当時の状況である。
オリンピック後も羽生結弦は世界選手権での表彰台やグランプリ・ファイナルでの優勝を複数年連続で果たし、ブライアン・オーサー師事直後にはほとんど成功していなかった4回転サルコウも確実なものとし、現在では2種類の4回転ジャンプをプログラムの中においてほぼ確実に成功させることができている。
これはかつての現役時代の高橋大輔が成し得なかったことでもある。(特に現役後期は怪我の影響もあり4回転ジャンプは転倒もしくは着地しても回転不足による減点が目立った。2種類目は練習でもほとんど成功していないような時期の試合で4回転フリップに挑むも回転不足認定であった。「着地したのに回転不足で点が伸びない」ことから、一部の高橋ファンの中ではジャッジに対する陰謀論や、回転不足を指摘されない羽生結弦へのバッシングがさらに高まっていった。)
また、かつては課題と言われたスケーティングも近年は向上し、高橋大輔ファンが「大ちゃんこそが世界一」と言い続けた「表現力」「ステップ」といった項目に関しての改善もめざましく、試合での評価もこの数年間で着実に向上してきた。
これらは当然羽生ファンや他のフィギュアファンにとっては喜ばしく頼もしいことであるが、高橋大輔ファン、そして一部の浅田真央ファンにとっては苦々しく、不当で、陰謀であると感じさせるもののようである。
https://twitter.com/taremimipanda/status/715547882053443584
https://twitter.com/muguet0320/status/703064812708720640
https://twitter.com/yuzuyuzu_panda/status/694271207407943680
https://twitter.com/yuzuyuzu_panda/status/680871219227312129
https://twitter.com/aikoku103/status/680764733662691328
https://twitter.com/bluetopazzzzzz/status/680762729787871232
https://twitter.com/RenonculePeony/status/680736253927538688
https://twitter.com/hubuki_0oo0_y/status/675966655843930112
このあたりの時期から、同様のバッシングに加わるものに、日の丸アイコンや「日本」を強調するプロフィール、アイコンが加わってきているのと同時に、つぶやきにもキム・ヨナや韓国へのバッシングが共存し始めている。
この時期すでにキム・ヨナは引退しており、最近に至っては韓流ブームも去っているのだが、バッシングは止まらない。浅田真央が休養を経て復活しても、高橋大輔が渡米している間も同様のバッシングは続いていたが、試合で結果を出しメディアに取り上げられているのが羽生結弦であり、それ以上のバッシングができる材料が試合結果やメディアから得られるわけではなかった。この世界選手権までは。
このタイミングでの「練習妨害」「抗議」報道、一般的なフィギュアファンの多くは当初懐疑的だった。デニス・テンは日本のアイスショーにも出演し、羽生結弦を含めた日本人選手との交流もあり、多くのスケートファンから慕われている選手であり、彼が日本人選手に対して故意に妨害する、といった情報はにわかには信じがたいものであった。
また一方で羽生結弦も、これまで様々な場面においても(ファンに付きまとわれ試合直前にドアにぶつかって眼の近くを打撲し試合に影響があった時でさえ)声を荒げた場面は報道も目撃も含め情報としてメディアに上がってきたことがなく、公式な抗議も無論初めての行動であったからである。
しかしこの時点でこの騒動に飛びついたのが、上記のような浅田真央ファン、高橋大輔ファンである。
「あなたは悪くない、素晴らしい選手。私たちは応援している」と口々につぶやきはじめた。
それらのツイートのひとつ前後には「悪いのはあの人」というように、抗議をした羽生結弦への当てこすりが含まれていたりするのだが、ここで(ある意味あまり考えのない)デニスファンでもある羽生結弦ファン達が、一部のつぶやきだけを眼にしてリツイート、拡散しはじめ、さらにこの動きは拡大した。
すでにTwitter上には彼の英文の翻訳はたくさん流れているが、アイコンを確認し他のつぶやきを目にすると、過半数が浅田真央ファンもしくは高橋ファンで、デニス・テンのファンがその行動に大きくかかわっているわけではない。
それらのつぶやきは翻訳の後に「レイシズム反対」「出自を問題にするのはおかしい」と主張する一方、羽生結弦をあてこすった内容のつぶやきをRTしたり、過去に「韓国は嫌い」「キム・ヨナは嫌い」とつぶやいていたりする。
炎上をいちばん喜んでいるのは、デニス・テンファンでもなく、羽生結弦ファンでもない。
この騒動をきっかけに羽生結弦をこき下ろしたかった、高橋大輔ファン、浅田真央ファン(のそれぞれ一部)である。
レイシズム反対を叫ぶのは浅田真央ファン・高橋大輔ファンが多いけれど、同時にこれまで韓国とキム・ヨナにいわれのない中傷をし、別の選手のコーチやスタッフにLGBTを理由にした嘲笑をこれまで執拗に投げかけてきたのも、また同じ集団なのである。
デニス・テンに対するレイシズムだけが悪であり、キム・ヨナや韓国への中傷やLGBTに対する中傷は正義、と考えているなら、今回彼らが盛り上げている抗議運動に加わるのも良いかもしれない。
ぼくらは寿司屋でガリを食べるけれど、高級レストランでガリが置いてあったら食べるだろうか?
はじめまして、天井に出てくる顔に名前をつける検定3級を持っている僕です。
今日はいつもより真面目に、この世界について考察していきたいと思っています。
というのもこのまえ頼んでもないのに、宅配便が来たんで、「あっ、なんだろうワイヤツイスターかな」と代引き手数料2万8071円を払ったんです。
開けてみたら何だと思いますか?
そうですね。ご明察のとおり、マネキンの左腕とスニッカーズです。
皮肉ですよね。
マネキンの右腕を主食にして生きている僕のもとへ、マネキンの左腕が来るなんて。
あるあるだと思うんですけど、ショックのあまりシチューを作ってしまいました。
意外だと思われるかもしれませんが、おいしいシチューにはコンロが欠かせません。
いままで生で食べていた人にはにわかに信じられないことではありますが、統計上おいしいシチューを作っている人の9割がコンロを使っています。残りの1割はピエロの喉仏ですね。
あとは材料を煮込んで食べるだけです。ここら辺はみなさん好きにしてください。
じっくり批判することもできるが端的にいくぜ。ブコメでも言い尽くされている感もあるが。
まず文化を単線的にとらえ過ぎ。もちろん東京中心ってのは否めない部分もあろう。だが世の中大阪もあれば北海道とかもある。カップ麺の味付けすら、現代の私たちは統一できていない。
文化ってのは多様性だ。そして本来は平等な・フラットなものだ。ただコンサートホールや美術館に行くことが「文化的」と捉えるのでは極めて了見が狭い。そういうものも文化だし、批判の的になっている「東京の底辺」にも文化がある。美術館とかコンサートとかキラキラしたものの、こんな一つの物差しで測るから、狭い「文化教養」があるかないかの議論しかできない。そして物差しの数値が30センチだろうが2センチだろうが、本来は良くも悪くもない(しかし現状では「東京は素晴らしい、なんでもある」というある種のアトモスフィアが形成されてしまっているのだが)。
では何を見るべきだったのか。地域にある美術や歴史だ。「何もない田舎」ってよく俎上にのぼるけど、本当に伝統も何もない超歴史的・脱歴史的な土地などあり得ない。SFじゃねーんだから。例えば埼玉なんかバカにされるけどさきたま古墳群ってすげーだろ。はにわ! 稲荷山古墳もすごい。鉄拳! あと群馬。館林藩とかやべーじゃん。他も譜代大名が入りまくってる。こういう場所が江戸幕府を支えていたんだぜ。こういうのって多分かなり「何もない」の裏返しで「こんなものしかない」「恥ずかしい」と思われがちだが、本当は、胸を張るべきところ。未来に向けては、こういう気恥ずかしさを払拭することが文化を考える上で極めて大切だ。
話戻すけど、話者は東京中心の文化に毒されすぎ。折角文化というものに興味があるのに、一つの物差ししか持っていない。若い人だと思うのに、そして田舎出身なのにこれはもったいない。都会と田舎だけで物差しは二つになる。物差し二つあった方が色々便利だろ。脳の中もおんなじだ。コンパスや分度器だって持っていたっていい。もちろん、文化の網目の中に東京や大阪といったコアがあるのは否めない。だがそこから広がる多様性。これを幅広く測るスキルがこれからの「文化」を担い、あるいは語るものに求められるのではないか。話者の狭い了見では狭隘な文化観が再生産されかねない。わりと真面目に極めて危険な態度だと思う。
無職・北原みのる氏の週刊夕日連載「スッポンチンポッポNOW」。北原氏は、女優の宮崎あおいさんのような女性を待ち望んでいたという。
* * *
友人の話。出張帰りに電車に乗った時のことだ。彼の後ろに制服姿の若い女数人が立った。学校の帰りらしく、声が大きく煩い。それだけならまだしも、「あの先生、マジキモイ~」などと言って盛り上がっていた。
夕刻の電車は、圧倒的に女子の空間だ。家事や子育てをすることもなく、時間を気にせずにおしゃべりしたり買い物できる人たちが、ただ寝るために家に帰る電車。男は少数派だ。友人は大きなカバンを抱えながら泣きたくなったという。「サラリーマンも周りにいたんだけど、みんな下をむいていた」
……その時である! 彼の目の前に向かい合うようにして立っていた女性がいた。身長163センチ、黒髪の似合う20代の女性だ。その彼女が彼のネクタイを「曲がっていますよ」とひょいと直し、彼に向かってこう言ったというのだ。
それは周りにもハッキリと聞こえるほど明瞭で、爽やかな声だった。そして、不思議なことが起きた。それまでさんざん下品な笑い声を立てていた女子たちが、すーっと声を潜めたのだ。
彼はそう言うのだが、私はにわかに信じられなかった。いや、彼の言ったことがではなく、そんな女性がいたことが、だ。
「ほんとなのか?あまりに辛い現実だったから蜃気楼でも見たんじゃないのか?」
私は何度も念を押した。そして確認した。
「宮崎あおいだったのかな……」
話は変わるが……というか、これが本当は最初から言いたかったのだが、宮崎あおいさんは、凄い。
先日、研ナオコさんのステージを見たのだけれど、研ナオコさんが「こんばんは、剛力彩芽です」と出てきて、驚いた。オリコンの「理想の娘」調査では、宮崎あおいが2位に入っていた。宮崎あおいの出演した朝ドラの視聴率は25%に迫るという。
なぜこれほどに、宮崎あおいに日本の男たちは熱狂しているのか。友人の話を聞きながら、ふと思った。もしかしたら、多くの男にとって宮崎あおいは、「ずっと待っていた人」だったのかもしれない。男をばかにする下品な女たちと対極にある清潔感、知性が作り上げたしなやかな振る舞い、「汚らわしさ」というものが一滴も感じられない高潔さ。
ここ数回、この社会が持つミサンドリーについて書いている。男として生きてるだけで、すり切れることが多い社会だ。そんな中、男が抱える重たい責任を思いやり、「頑張ってください」と声をかけられる女を、男たちがどれだけ待っているか。……と書きながら、私は宮崎あおいさんが、どんな人か全く知りません。ただ、宮崎あおいさんには、下品な女たちを存在で清めてくれそうな力があるのだと思う。そして「待ってたんです」と言いたくなるような、男の飢餓があるように思う。宮崎あおいさん、日本から出ていかないでほしいです……。
先日、『選挙カーがはた迷惑な大声で名前を連呼する理由を知った時のこと』という文章を書いた。
予想外の反響を得て、驚くとともに、うれしくも思う。
そもそも記事を書くきっかけとなったサイバーメガネさんも、さっそく内容をフォローするように
『無党派層はコスパが悪くて当てにならない』というエントリを書いてくださった。
なぜ、反響があったかといえば、おそらく、あの頃の自分と同じように選挙の現場を見たことがなく、
「なぜ、反感を買うだけなのに、選挙カーは騒音をまき散らしているのだろう」と疑問に思っていた人が多かったのだろう。
中には、「ああいうばあさんは、もうすぐいなくなるだろう」という趣旨のコメントもあったが、僕はそうは思わない。
そもそも、あれはまだ橋本龍太郎が総理大臣をやっていた頃の話だ。
つまり、かれこれ20年近く前の話なのだが、その後も状況にさほど大きな変化はなかったことは、いくつかのブコメを見るだけでも分かる。
次の20年で変わるかといえば、そうでもないだろう。なぜそう思うかを、書いていこうと思う。
あの頃、「無党派層」という言葉はすでにメディアに登場していた。
(wikiによれば、大阪府知事に横山ノック、東京都知事に青島幸男が当選するという「珍事」が起きた時に注目され、流行語大賞をとったそうである。
その前に「日本新党ブーム」を経て、細川内閣が誕生したころには、まだメディアではメジャーな言葉ではなかったのか)。
無党派層に心情が近かった当時の僕も、「ああいうばあさんみたいなタイプの人は、いずれいなくなるのだろう」と思っていた。
だが、少なくとも20年程度では、いなくならなかった。
思い起こしてみれば、あの当時から、「応援しているのに、なぜウチのほうに選挙カーがこないのか」と苦情をいうのは、必ずしも年寄とは限らなかったのだ。
その渦中に身を投じてみれば分かるが、選挙というのは一種の「お祭り」である。
であれば、選挙カーという「神輿」は、自分の家の近所に来てくれたほうが楽しかろう。
お祭りというのは、参加する者にとっては楽しかろうが、部外者にとっては迷惑で騒々しいだけだ。ハロウィンを見ればわかる。
最近、高知県では、新住民からの「よさこい祭りの練習の騒音がうるさい」という苦情が増えて、祭りの伝統を守りたい人々は対応に苦慮しているらしい。
祭に参加して騒ぎたい人々と、外側にいて「うるさい」と感じる人とは、どうしても対立する。
それは、祭りのルーツがどうとか、そんなこととは、おそらく関係がない。
僕はあの頃、お祭りに参加して盛り上がるのは年寄りのやることだと思っていた。
だが、実際にはそうでもなかった。
古臭い祭りにはそっぽを向いても、なにか面白そうな新しいお祭りあれば、こぞって参加するという人たちが、世の中には相当程度いるのだ。
既成政党による「ドブ板選挙祭り」にはそっぽを向いている若者が、国会議事堂前でSEALDs祭に参加したって、なんの不思議もない。
お祭りといえば、あの選挙事務所でバイトをしていたとき、幹部がにわかに、ちょっとしたお祭り騒ぎになったことがあった。
総裁とは誰のことなのか、僕はにわかに判じかねたが、それは当時、自民党総裁にして総理大臣でもあった橋本龍太郎のことであった。
事務所の関係者は「総理」でも「首相」でも、ましてや「ハシリュウ」でもなく、「総裁」と呼んでいた。
総裁が応援しに来てくれるということは、つまり、その候補者や選挙区を党本部が重視している証拠なのだが、、
橋本龍太郎という人は日本の歴代総理には珍しく、その端正なルックスで女性人気がきわめて高かった。
慶応大学在学中に第一期東宝ニューフェイスに誘われたこともあるというから、「政治家にしてはイケてる」というレベルではない。
当然、「集客力」も高く、事務所としては、願ってもない応援弁士なのである。
今でいえば、小泉進次郎の人気が、近いものがあるのかもしれない。
当日は、それはもう「お祭り騒ぎ」だった。バイトも支持者も大勢駆り出された。
事務所の幹部は警察官やSPと打ち合わせに余念がなく、事務所の司令塔たる候補者の長女は、誇らしげな顔をしていた。
実際、当時の橋本龍太郎は、「本日、○時に、橋本龍太郎総裁が、応援演説に来られます!!」と呼びかければ、
「エッ、うそ!? マジ? こんなトコにハシモトソーリがくるの? じゃ、ちょっと見ていこうかな」
などと騒ぐほどの人気があった。
「もし、総裁が演説している最中に暴漢が襲いかかって、それをウチの先生が体を張って守って、ケガして運ばれたりしたら、明日の新聞の一面になりますかね?」
「ああ。そうなったら先生は、もう当選確実だな。お前、いっちょやってみるか?」
僕らは、大分親しくなった事務所の下っ端幹部と、そんな軽口をたたいたりした。
定刻になると、ちょうどライブの最前列でファンを押さえるスタッフのように、バイトや運動員が群衆を抑えている前に、黒塗りの車列が到着した。
SPに囲まれながら降り立った橋本龍太郎は、思った以上に背が低かったが、確かに二枚目だった。
「世の中には、選挙になると、消費税率は下げて福祉の水準は上げるなどと、夢のようなことを訴える政党もありますが、
私には、そんな魔法使いのようなお約束をすることはできません」
などと語りかけるイヤミな調子には、好き好きがあっただろうけれど。
当日、街頭には大勢の支持者が動員されていたけれど、それを上回る人々が足を止めた。
それがきっかけで自民党候補者に投票したひともいるのではないだろうか?
だが、なにより、事務所に集う人々は、「総裁が来てくれた」「予想以上に人が集まった」という事実に興奮し、
例のばあさんは、街頭には来ていなかっただろうが、
「自分の支持する先生のために、橋本さんが応援に来てくれた」という事実に喜びを感じ、
ますます「近所の人に、投票してくれるように頼む」という彼女なりの方法で、お祭りを楽しんだことだろう。
「お祭りだなんて、とんでもない。選挙というのは、冷静に過去の実績や提示された政策を比較検討して、適切な候補者に投票すべきだ」
という人もいるだろう。それは、おそらく正論だ。
だが、そういう正論を唱える人たちが、政策とやらにどの程度つうじているのか。
数多ある課題の、すべての軽重を判断して、どれが適切な政策が判断することが、果たして可能なのか。
それに、どんなに「政策」が素晴らしかったとて、口先だけでは何とでもいえる。
政策はもちろんのこと、きちんと有権者に呼びかけ、汗を流している人を選ぶべきではないのか、という話にもなる。
そもそも政策など判断しかねるという大多数の人は、「難しいことは分からないけれど、あの人ならば大丈夫」という人に、判断を託すことになろう。
そして、「あの人=政策を作成、判断し、実行する人」というのは、つまり「権力者」だ。
かつての世の中では、文字通り血で血を洗う抗争をくぐり抜け、数多の屍の上に生き残った者が権力を握ったのだろうが、
そんなことで無闇に人の命が奪われるのはよろしくないということで、選挙というお祭りで権力者を選ぶようになったというのが、つまり民主政治なのだと思う。
「あの、お偉い先生も、私の一票があるから、大きな顔をしていられる」「私の一票のために、頭を下げてくれる」
そのことに喜びを感じられる人が、選挙というお祭りに参加する。
選挙カーを待ちわびる老人(のような人)とは、そういう人たちではないかと思うのだ。
そして、「お祭り」を利用して権力を上りつめようとする人間は、冷めた傍観者たちに参加を促すよりも、
「お祭り気質」な人たちを盛り上げることに注力した方が、効率が良いことを知っている。
時に、「権力者」という個人ではなくて、「戦争法案をつぶす」とか、そういう思想だが理念だか、そんなようなものを「ご神体」にしてお祭りが催されることもあろう。
多分、それがSEALDsだ。
彼らは初期の目的を達することはできなかったが、多分、世の中を意図的に動かそうと思えば、お祭りのような手段を使ってエネルギーを結集することが必要なのだと思う。
そんなこととは関係なしに、僕らから全く見えないどこかで、いつのまにか物事が決まっていく世の中は、多分、今の世より住みにくかろう。
僕はそんな世の中に住みたくないし、世の多くの人が、そう望んでいると思う。
だから僕は、「選挙カーを待ちわびる老人(のような人)」は、そう簡単に消えないと思うのだ。
消えるべきではない、といえるかもしれない。
選挙のやり方は変わっていけば、騒音をまき散らす選挙カーのような方法は使われなくもなるだろう。
選挙ではないけれど、今もネットでは、「炎上」という名のお祭り騒ぎが日夜開催され、それに参加する人もいれば、眉を顰める人もいる。
僕の粗末な頭では具体的に想像できないけれど、仮にネット選挙が今より進化したとしても、
選挙カーの連呼とは違う種類の「騒音」に悩まされ、うっとうしくなる日がくるのだろう。
ところで、僕はハロウィンに仮装して参加したことがない。今後もたぶん、参加することはないだろう。
だが、心の片隅に、あの、屈託なく仮装して楽しんでいる人たちを羨ましく思う気持ちがないかと聞かれると、全くないとは言い切れない。
選挙カーで名前を連呼する事象について言及すると「そもそも公職選挙法で規定されているから、それしかできないのだ」とブコメやトラバでご教示くださる方がいる。
仮に、連呼以外のことが認められ、選挙カーが政策を訴えだしても、「うるさい」と思う人は「うるさい」と思うだろうし、
走り回る選挙カーから、「政策に興味のある意識が高い有権者」の判断材料になるほど意義のある複雑な内容が訴えられるとも思えない。