はてなキーワード: はにわとは
はい最高です。
観たとき何で俺はこれを知らずにのうのうと生きてたんだ⁉と悔しくなった。
そして毎回思っている。
何で俺はもっとこれらを早く知らなかったのか。
俺は知るのがいつも遅い。
タイトルではオタアンテナと書いたが俺はにわかなほうだと思う。
まず友人から作品を勧められるということがない。俺がオタク側なのでいつも俺が勧める側だ。
アンテナを張ろうと思ったらオタクの友達ってのが重要だと思う。
だからじゃあオタクの友達作れやってなるかと言うとそれも難しく、というのも俺は全体からするとにわかなので
オフ会にいってもそこまで楽しめ無さそうだしディープなオタクとは仲良くなるのは難しそう。
そんなわけで情報が受け身だと入ってこないのでTwitterやらブログやら増田で好みの合いそうな人を見つけ彼らの発信をキャッチすることで飢えを凌いでいる。
ただやはりこれでは足りないのだ。
何でもっと早く知れなかったんだろうと悔いるのは幸運なほうで、存在を知らないまま寿命を全うするかもしれないという恐怖。
想像するだけでゾッとする。
助けてくれ。
俺は欲しい!俺に合うものを勧めてくる友達がほしい!勧め合って高め合う友達がほしい‼
その作り方を教えてくれ!
プレイ直後は面白かった記憶が多くを占めていたが、クリア後しばらくして考察したくなったときに、嫌な部分をブワッと思い出してしまって駄目だった。
私はアニメロンパ3をリアルタイムで視聴し、前作との矛盾点やスナック感覚洗脳が気になりイライラしていた。
しかし、それでもこれがロンパの世界で起こったことで、彼らが選んだ道なら、なるべく自分が納得できるようにこじつけようと考えた。
そうして自分の中で希望ヶ峰シリーズを完結させようと考えていた。
しかし、V3で希望ヶ峰の名前が出され、ゴフェル計画をはじめ希望ヶ峰の設定を覆すものを並べられ、冷静ではいられなかった。
希望ヶ峰シリーズをこれ以上搔きまわすことだけはやめてほしかったからだ。
この時点でイライラは募っていたが、Chapter5は個人的に好きだったし、終わりよければ全てよしとしようと偉そうにも考えていた。
しかしそれも最悪の形で締めくくられた。
ダンガンロンパはゲームで、登場するのは非実在キャラクターだなんて、誰もが分かっている。
しかし、ゲームの中ですら私の好きなキャラクター達は生きていなかったと言われたのだ。
生い立ちは設定だから過去に関わった人間は存在しないと言われたように感じた。
本編の後なんてあるわけないと否定された気がした。
希望ヶ峰シリーズの余韻に浸って、平和な学園時代やキャラクター性を掘り下げて考えていたのを全て否定された気がした。
ロンパ3なんて茶番の最たる形だと思った。
その視聴者というのが、ダンガンロンパの続編を望んだ私を含むプレイヤーのことを指してると思えてならなかった。
kdkは、1周年の際のネタバレツイートでその意図はないと言っていたけれど、当時の私はそう捉えられなかった。
お前らが掘り下げと続編を望んだから、こうして悲劇を作ってやったんだ満足だろうと顔に唾を吐かれた気持ちだった。
それをわざわざ立ち絵と声優さんを引っ張ってきてキャラクターに言わせるという周到さをもって、私は精神は粉々に砕かれた。
V3だけで完結させることもできるオチを、こうして1・2のキャラを巻き込んでまでやる必要はあったのかと何度も泣いた。
ダンガンロンパ1・2reloadとそのキャラが好きだったから、こうして扱われることが悔しくて堪らなかった。
吐きそうな気持ちでプレイし終えて、それでもV3のキャラクターは好きだったからイラストなんかは漁った。
でも、少し落ち着いて紅鮭をプレイしようと思ったら発売前の宣伝と内容が違っていて、プレイヤーキャラクターが赤松じゃないことにガッカリして手をつけずやめた。
twitterではV3肯定派の人ばかりで息苦しかったので、アンチスレに入り浸った。
普段話していた人がV3にジャンル移行してしまったのが辛くて、V3の呟きが増えた人を何人かブロ解した。
すでに自分の生活の一部になっていたロンパの話をするのはもっぱらtwitterだったから、開くたび目に入るV3の情報にものすごくイライラしていた。
本当に酷いときは1・2の話をしなくなってV3を楽しんでいる人を憎んでいた。
V3が苦手だと打ち明けると、いいところもあるからもっと掘り下げろと勧めてくる人には露骨にキレた。
ここまで言ったがずっとキャラは好きだった。
キャラデザは好きだし、設定とはいえ自身ではそう認識していないなら、キャラに罪はないと思っている。
クリア直後に集めたグッズを捨てようとかは考えなかったし、スケブとかで描く程度のことは抵抗がなかった。
ただ、twitterに流れるコラボや二次創作は絵が綺麗だなくらいの感想で興味が湧かなかったし、本編沿いのものはイライラして見れなかった。
けど、発売から1年と少し経ったくらいの今も、twitterのTLはV3でいっぱいだ。
さすがに見ててイライラすることはなくなったが、未だに興味は持てない。
本編沿いの内容だとすごいなと感じるが、感動はなかった。
正直こんな現状はつまらないなと思った。
みんなが楽しんでいるものを私は楽しめていないのが寂しかった。
でも、怒りを再燃させるのが怖くて2周目に手をつけられなかった。
信じられないだろうが、私だってキレたくてキレているわけではないし、楽しんでいる人を否定したいとは思わない。
自分がまた愚痴ばかりの嫌な人間に逆戻りするかもしれないと分かっていて、手を出す勇気もなかった。
そこで、二次創作に手を出してみた。
本編より二次創作に手を出すのはにわか臭くて抵抗があったが、一応本編はクリアはしているし、と自分に言い訳した。
最初は人気の漫画やギャグなど、比較的V3の世界観に触れない、ライトなところから入って抵抗をなくそうと試みた。
イライラしないし、キャラを活かしたものは「上手いな」と思えた。
さすがに自分の推しほどの興奮はないが、読み物として面白いと言う程度の感想が湧くようになった。
まだTLに流れてくるものにまで興味を持てないが、描き手の名前やCP名くらいの知識は身につけた。
ここまできたら、別ジャンルではなく、知っているジャンルとして認識できる。
描き手はそんな感覚で読まれたくないかもしれないが、私はこれを経て、V3を少しでも好きになりたいと思っている。
努力して好きになるものではないと言われればそうだが、これを好きでいられたら、そしてそれを分かち合えたら楽しいだろうという気持ちで、これからも少しずつV3の二次創作を見ていきたい。
時天空をご存知だろうか。時天空はモンゴル出身の力士で、土俵上での華麗な足さばきによって知られている。かく言うわたしも時天空の足技が好きだ。本人には申し訳ないが時天空が一番好きな力士というわけではないけれど、しかし、彼が勝つと思わずにやりとしてしまう。
土俵の上で時天空はいつも、仏像のようなふてぶてしい顔をしている。立ち会い、ぶつかって両者まわしを取る。相手力士の真っ赤な顔。だが時天空は、素知らぬ風に足をかける。相手の力士は、しまった!という顔でバランスを失い倒れる。
時天空の相撲は、わたしが相撲だと漠然と思い描いているものの輪郭から、時折大いにはみ出す。だからわたしは時天空が好きだ。柔道のようだと思うかもしれない。モンゴル相撲のブフは、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。時天空の相撲は、イマジネーションを広げてくれさえする。あの器用な足でまた何かやらかしてくれるのでは?そんな期待をこめて、毎場所テレビを見る。
そこまで言うなら時天空の相撲を見てみたい、もし可能であれば生で国技館で見てみたい、と思っていただけた方がもしかしたらいるかもしれない。願わくばいてほしい。しかしその望みは叶わない。なぜならば、時天空は引退してしまって間垣親方になってしまったからだ。では親方として、警備をしたり解説をしたりチケットをもいだりする、あの仏像のようなご尊顔を拝せるのでは?しかしながらその望みも叶わない。なぜなら元時天空、間垣親方は亡くなってしまったからだ。時天空は2017年の1月31日に亡くなってしまった。今日はちょうど一周忌だ。だから上の文章は、本来ならば動詞を全て過去形にしなければならない。
昔から相撲が好きだったわけでなく周りに詳しい人もおらず、面白そうだしいっちょ見てみますか!と思って見始めたわたしのようなミーハーな若輩者にとって、時天空はありがたい力士だった。なぜなら、時天空と言えば足技だと覚えておけばいいから。とりあえず時天空が来たら足技が出るのを待てばよかったので安心だった。本当は足技が失敗することもあったし足技は特に出ず押し出しで勝つこともあったけど、とりあえず時天空といえば足技。これで間違いがなかった。
力士の立ち会いはよく軽トラックの衝突にたとえられるが、ぶつかられて上半身はその対応をしておきながら、よくもまあ器用に足をかけられるな、バランス感覚はどうなっているんだと常々思っていた。
それに時天空は、四股名もSFみたいでスケールが大きくて格好いい。旭天鵬(現友綱親方)に似てるという意見も散見されるが、土俵上の時天空は、旭天鵬からお母さんみたいな雰囲気を全部抽出しきったあとみたいなおっかない顔をしていて、でもどこか荘厳で、鎌倉後期の仏像みたいで、思わず拝みたくなってしまうようなところがあった。
同僚と国技館で相撲を見ていた時のことだ。幕内の取り組みが始まって当時は平幕の下の方にいた時天空が出た。
「この人は足技がすごくて!」
などと僭越ながら紹介した直後、時天空が裾払いを決めて勝ったことがあった。同僚は普段から大相撲を見る人でなかったからピンと来てなかったようだったが、わたしは嬉しかった。思いが通じたような、どこか共犯者めいた気持ちが満ちた。むずがゆくなるくらい嬉しく、誇らしかった。これからも応援しよう!と思った。
でもその時はまさか、その場所とその次の場所が、土俵上で時天空を見られる最後になるとは思わなかった。
肋骨の骨折で休場というニュースを見て、時天空がケガなんて珍しいな、十両落ちちゃうのでは?と思ったが、その後実は悪性リンパ腫だと知りショックを受けた。場所のたびに休場の発表があり、十両に落ちているのを国技館のチケット売り場の電光パネルで見て、やっぱりと思うと共に早くよくなってほしいという気持ちが募った。
わたしは、時天空に手紙を書こう!と思った。もしかしてあまり読めなかったりして?と思ったが、時天空は日本語がペラペラだし、たとえ読めなくてもそういうのは気持ちだから出そう!と身勝手なことを考えた。ふりがなをふったら逆に失礼か?などと考えながら文面を考えていた矢先、ツイッターで久しぶりに時天空という文字列を見た。リンク先には引退と間垣襲名会見のニュースがあった。
引退はさみしかったがその何倍も復帰が嬉しかった。丸坊主になった時天空は、痩せていたけど想像していたほどではなかった。しかし、目を真っ赤にして涙を流しながら会見していてはっとした。わたしのなかの時天空は、土俵の上のむすっとした顔でしかなかった。しかし仕事だからそうしていただけであって、こんな心許なさそうな表情もするんだと思ったらこみ上げてくるものがあった。でも同時に、モンゴル人力士のなかで真っ先に日本国籍をとり年寄名跡を持っていたことを知り、さすが時天空だと思った。ぜひ後輩を指導してあの足技を継承してほしい。引退はとてもさみしいことだったけれども、帰ってきたことに対する嬉しさのほうが何倍もある。
お相撲さんやっぱり違うな!と思った。元々の体力があるから病気も治るんだな!よかったよかった!わたしは安心してはしゃいでいた。
その後すぐ元時天空、間垣親方は大相撲中継で向正面で解説をしていた。名前を呼ばれると「ハイッ」といい返事なのがかわいくて、それと現役時代と比べて顔が少し穏やかになっていた。時折満面のスマイルを見せるので、うおー時天空こんな一面もあったのかー!とさらに好きになった。解説も日本語が上手なだけでなく的確で詳しく、ついこの間まで幕内にいただけあってこの人と組んだ時はこうだったああだったと、話が尽きないので、聞いていて楽しくためになった。力士たちは「時天空関ととるのは嫌だった」とか「もう二度ととりたくない」とか「足技だけは教えてくれない」とか言っていて、声に出して笑ってしまった。
時天空という力士が幕内からいなくなってしまったことは残念だったけれども、これだけ解説も上手だったら楽しみなことが増えたと思っていた。当時は大島親方だった旭天鵬も、もう一度断髪式すればいいって言っていてその通りだと思った。
わたしはそれからすっかり安心しきっていて、その次の場所で間垣親方が休場していることを全然知らなかった。テレビの映らないところで警備とか協会の仕事をしているんだと思い込んでいた。でもそんなことはなかったらしい。元時天空の間垣親方は、2017年1月31日に亡くなってしまった。
時天空が好きだった。全く知らない人の「時天空サッカー」というツイートを見たときに、なぜだか明確に好きだと思った。モンゴルの平原をまわし姿でサッカーする時天空。似合う!足技はブフで培ったものか柔道で東農大にスポーツ交換留学に来た時のものかと思っていたが、柔道部だったころはそこまで足技に力を入れていたわけではないらしいとも聞く。ではあの足技はなんだったのか?やってみようと思ってやってみたらできたのだろうか。乗馬で鍛えたインナーマッスルが、相撲にも活きたのだろうか。
朝青龍のことを知って、自分もいっちょやってみようと来日して入門。稽古をしながら大学にも通い、卒論を日本語で書き上げたというスーパーマンぶりには目を見張る。卒論のテーマは「ダイナミックモデルを利用したモンゴル国の人口動態に関する研究」、興味深い。
わたしはにわかファンなので、相撲を見始めた頃の時天空はすでに30代なかばのベテラン力士。幕内下位定着たまに十両陥落くらいのイメージだったが、三役経験もあるし前頭一桁代だった時期も長い。時間前に立ち会いをしたり、まわしがとれかけたり、なかなかにバチバチだった時代があったようだ。
亡くなったことがどうにもショックで、当時は巡業の写真などをずっと探しては見ていたのだが、土俵の下ではにこにこしている写真ばかりで意外だった。名古屋場所でトゥクトゥクに乗っている写真。赤ちゃんをだっこしている写真。後援会の人たちとじゃんけん大会をして負けているところ。ウインク。
解説の動画を探していていたときに、酔った時天空が「iPhone4で彼女の顔を見ながら電話したい」と言っている動画を見つけてしまったりした。時天空はとても楽しそうで明るくていつも笑顔で、すごく人生を楽しんでいるように見えた。幸せそうだった。解説の時もそうだった。見ているこっちが笑ってしまいそうになるくらいだった。
一年経った今でも時天空のことを思い出す。病気さえなければまだ幕内で相撲をとってたのではないかと思ってしまう。足で足をバーンと蹴ったりひっかけたり、器用に相手のバランスを崩して勝っていたと思う。
時天空が亡くなってすぐ、入門直後はきまり悪くなると日本語がわからないふりしてごまかしていたこととか、部屋が世論で問題視されていた時に懸賞金を手紙と共に返したこととか、時天空の人となりが感じられる話が世に氾濫して、そのどれもに心動かされ泣いてしまっていた。でも、亡くなってしまってその話を知るくらいなら、知らないでいていいから元気でいてほしかった。じゃんけんが弱いのもお酒が強いのも知らなくてよかった。おっかない顔の足技師としてにやにやさせてほしかった。40歳までは関取だと思っていた。やっぱり、あまりにも早すぎたと思う。
日々、自分の頭の中を好きなものでいっぱいにしていないとやっていけない。時天空もまさにその一部だった。でもその部分は時天空の形の穴になって、他の力士で埋めようとしてもなかなか埋まらない。時天空は、お腹は出ていたけれども膝下が不安になるくらいほっそりしていて、他の力士はそこがひっかかってしまうから駄目だ。
時天空は膝下に脂肪がなくてひきしまっていて美脚だった。その脚が器用に動いていた。またあんな足技が得意な力士が出てきたら面白いけれども、でもたとえ出てきたとしてもそれはまた別の力士で別の魅力があるんだろう。だから時天空の形の穴は埋められないのかもしれない。埋めなくてもいいのかもしれなくて、埋められないことそのものが、時天空という力士が代え難い魅力を持っていたということの証明なのかもしれない。
追記:ニュースで相撲関係の悲しいことばかりが続いてつらくなる。口に出すのもおぞましいような表現で特定の力士を侮辱する言葉はもう見たくなくてインターネットが縁遠くなる。協会のこととか理事長選とか、にわかファンのわたしにはよくわからないしあまり興味もない。わたしはただ、土俵の上で色んな力士がそれぞれの最高の状態で相撲をとっているところが見たいと思う。それを見てわくわくしたいと思う。
就職活動で講談社に行ったことがある。体育館みたいな所で、十個ほどの、ちょうど保健室のベッド同士を区切っているようなアレ(何て言うのか分からない)で区切られたブースがあり、そこで各々二人ほどの社員に面接される形であったが、その面接の前に、高校の教室ほどの広さの場所で、順番を待つことになった。
パイプ椅子が30ほど並んでいて、順に座らされたが、怖い用務員のような人が隅っこに座っている。用務員のような人(以下用務員さん)は、まず一人一人名前を誰何し、続いて「講談社の雑誌で最も面白いものは何か?」と各人に聞いて回った。
そこで驚いたのは、
「えっと、知りません」
僕だってそんなに講談社が好きなわけではなく、まずエントリーシートが通ったからひとつ物見遊山的に受験したところがあったけれども、さすがに「モーニング」ぐらいは知っている。
「知らないだと?」
と聞いたが、当該の学生は、
「ええ……」
と答えるのみである。本当に知らないのか。
「講談社の面接に来たんだろう、君は。本当に一つも知らないのか」とか、
「一冊ぐらいは分かるだろう」とか、
学生に用務員さんは聞くのだが、やはりその学生は「はあ、」とかなんとか曖昧に返すだけである。
用務員さんは最後に、
「いいんだね、そのように報告するよ」
とかなんとか言って、質問を打ち切ったと思う。
僕はその学生がどうなったかは知らない。天下の講談社にまで来て講談社の雑誌をひとつも知らないというのはいかにも驚くべき話だが、しかしその「用務員さん」が何者であったかについても、やはり気になってしようがない。
もしかして、有名な人だったりするのだろうか。
あるいはもしかしすると、その学生も、今はかなり有名な人になっていたりしないだろうか。
どちらもベクトルは真反対かもしれないが、かなりの大物のような気がしてならない。
そんなことをこの時期になるたびに思い出すのである。
(ひとつ就活に役立つ話をしておくと、面接担当者の手元のシートには「特A」「A」「B」「C」という欄があるのを見つけた。特Aとは一体どのような人材なのだろうか、やはり何年も経った今も気になってしようが無い。)
言ってしまえば「にわかヘイト」はこれに等しい。新しい村八分の記事に「こちらは感情で言っている」という名言があるが、オタクのにわかヘイトは「感情」でしかない。
まず、コンテンツは「限定された人が楽しむため」に存在しない。(年齢制限は除く)
誰でも簡単にアクセスでき、楽しめる。公式が○○向けと言っても、○○じゃない人が楽しんでも問題はない。
おまえたちオタクが楽しんでいる女児アニメはお前たちオタク向けか?そうではない。でも、おまえたちはメイン層の幼女から迫害されずに楽しんでいる。幼女は清らかな心なのでおまえたちオタクみたいに迫害はしないが。
にわかが居ることでコンテンツにマイナスがかかる。例えば、「○○ファンはキチガイ」と呼ばれたり、「○○ファンなら仕方がない」となるのを嫌っている人間も居る。
確かに、スマホアプリ板なんて見てると勢いがあるところほどガイジが多い。それはイナゴが紛れ込んでいるからだろう。祭り、炎上ともなればエアプが溢れ、あることないこと言い出す。イナゴはコンテンツに百害あって一利無しと思うのも致し方ないと思う。
なぜか。それは、コンテンツを楽しみに来たわけじゃないからだ。コンテンツ炎上という祭りを楽しんでいるだけにすぎない。
にわかはどうだ?コンテンツを楽しみに来ていないのか?イエッタイガーするやつは迷惑をかけたいからイエッタイガーしているのか?撮り鉄は迷惑をかけるために運転手にフラッシュを炊いて撮影したのか。そんなわけない。「コンテンツを楽しんで、結果的に周りに迷惑をかけてしまった」だけである。そして、そんなことは生きている限り誰にだってある。迷惑をかけてしまったことがないやつだけはにわかに石を投げなさい。
あんまりまとまっていないが、にわかを許さないことによっておまえたちがコミュニティ衰退の原因になっていることをまずは自覚してほしい。
原作動かせってもう言い飽きたし疲れたし正直終わったというよりもはや死んだコンテンツかなって思ってる。例えるなら放送が終わって二期が決まらないアニメの公式が何かの記念日だったりキャラの誕生日お祝いしてイラストあげてくれたりする感じ。かろうじて(というか異常なまでに)新規絵ばっかり出してくれてるけど、公式絵師さん飼い殺されてるなあという印象しか抱けない。大好きだけど、そうじゃない。私は推しの二十歳を知らない。
女神作った必要ありましたか? 今年のAGFにリコグリやアルタイルがいることに関しては別にへえそうかって流せるんだけどじゃあ女神は? と思ってしまう。彼らよりも随分と昔から存在して時系列的にはごちゃごちゃしているとはいえ一応彼らの先輩としてツキプロに所属しているはずなんですが。リコちゃんいるから女の子NGってわけじゃないよね。アニメで変に名前出すくらいならちゃんとして。公式絵師さんの負担がかなり大きくなってしまうのは重々承知な上でそれでも彼女たちの存続を望んでしまう。メンズより音沙汰ないし死んでるけど。大体誕生日SSでしか見かけないしね。その誕生日SSすら今年に入って二回も遅刻されてるけど。
ツキウタがCD売り上げ至上主義なのは知ってるしCD売れてなかったらグッズ在庫用意してくれない会社なことくらいツキウタのオタクならだれでも分かってると思う。こないだのALIVEとか典型的なそれだったし。CD売れてないのは知ってるけどそもそも女神はCD売る気ないよね。去年の12週連続リリースも今のリコグリほど宣伝してなかったしマジでついでくらいに出してやったとか思ってない? 女神のライブさえやってくれたとは思えない売る気のなさには渇いた笑いが出る。
スケジュールの問題だったり消費者には感知できないような“大人の事情”とやらがあるんだろうけどそんなの買う側が納得するわけないじゃないですか。出せないなら出せないなりに言える範囲で今年は出せませんだのコンテンツは終わりましただの説明してくれないといい加減納得がいかない。まあツキステが続いてるからコンテンツ終わりましたとはいえないよね。ツキステは原作じゃないんだけどね。
ツキステは好きだけどツキステがツキウタだったのって初演までだと思う。初演の頃はまだドラマCDの雰囲気だったりSS垢のノリを踏襲している感じがして良い意味でも舞台版の彼ららしさっていうものがあった気がする。二幕は完結したお話だったから気にしてなかったけどムツキくんのくだりはいい加減くどかった。初演だから度肝抜かれたしこれはこれでアリだなって感じてたけど二回目からははいはいそうですねって冷めた目で見てた。スクレボのムツキくんは千秋楽のが全然面白くなかったから特典の日替わり一切見てない。
そもそもツキステが好きな人で彼らの演技を楽しみにしてる人どれくらいいる? ほとんどダンスパート目当てでしょ……私自身ダンスパートは楽しみだし、好きだけど、あれ舞台なんだよね。いや2.5次元ダンスライブって銘打ってるんだからそこが売りなんだろうけど。多分個人的にもやもやするというか、最近違和感を覚えるのはそこが原因なのかもしれない。あとキャラクターと役者の同一視。これはムービックが悪いけど。役者の写真集出したりグッズ出したりって、もはやツキウタ関係ないじゃん(笑)彼らはツキプロ所属のタレントですか?(笑)そのうちツキプロ公式HPに名前載るの?(笑)そりゃあ三次元慣れしてない人はイコールで結びつけちゃうわなっていう。ただでさえツキウタのオタク今までどうやって二次オタしてきたの?って人多いし。全員が全員じゃないけど他ジャンルだとこいつヤバイって思われてるような人がごろごろいるからびっくりする。かくいう私もそう思われてそうだけど。
うっかりステで推しを見つけてしまった私が言うなって話なんだけど、だからこそさっさとツキステから離れてほしい。あなたの実力ならこんなところにいなくても十分売れるよ。推しだけじゃなくて別の人たちもそう、成長のチャンスをツキステなんかで潰してほしくない。ツキステやるならやるで自ジャンルだし推しが出るし観に行っちゃうけど連作以外で普通年に三回もする2.5がどこにある。2.5どころか舞台方面はにわかもいいところだからあったらごめん。私の知ってる範囲では年二が最高だった。
下半期ほとんどツキステに縛られてるの、心の底から勘弁してくれ。仕事はないよりある方が断然いいけど推しのイメージがそれで固定されてしまうのが我慢ならない。
去年のAGF直後に本垢のフォロワーさんと年内に来年の予定が出るかという話をしていた時に「七巻の出る三月まで出ないんじゃないか」って言われて我慢していざ出たら夏祭り開催決定されたけどあのキャパだし舐めてんのかって思ったし夏祭り行ったら行ったで新情報もなくただ声優さんたちが今後もツキウタをよろしくお願いしますと言ってくださったきり何もないし本当にこのコンテンツ死んだな。最後にいい思い出ありがとう! くらいの気持ちで帰って来たわ。あの日ツキウタは死んだのである。
上がれるならさっさと上がりたいけど毎回新情報出るたびに文句言い散らかしてなお上がらないから本垢じゃ老害扱いされてるんだろうな。知らないけど。逆にあんだけ毎回物販だのオリショだので喧嘩売られてんのにどうして毎回みんな怒らず許容できてるのか教えてほしい。菩薩か?
ツキウタのオタクしながら後続のオタクもしてたのでアニメ化が発表された冬の陣にいたけどあの日後続も終わりだって見切りつけてCDすらまともに買わなくなった。それでも初期から追いかけてたという古参()ならではの未練たらたらっぷりで情報とかは軽く追ってて、なんだかんだアニメ一話見たら戻るんだろうなと思ってた。そして迎えたこの前の一話、あ、私の好きになったSolidSだ。そりら次元とかいう意味不明なものに侵されてない真面目な彼らがいる。彼らがアイドルしてる。そこにちょっとは心を動かされた。でもそれ以上はなかった。へえ、アニメになってる。それだけ。我ながら悲しかったけど本気で心底どうでも良くなってたんだな……と痛感した。
だからこそ余計に後続はCD出しながらアニメ化に向けて走り出せてたしアニメ化前にライブやって盛り上げられてアニメ始まったと同時にまたライブ決まってグッズも出てオリショやコラボもあってって出来てるのにそれがどうしてツキアニでできなかったのかっていう怒りに代わる。もちろんツキアニでの反省を活かした結果もあるだろうけどツキアニが私たちにもたらしたものって何だっけ。夢見草?(笑)
私、推しの成人を心から楽しみにしていたんです。でも成人した歳から公式が息をしなくなった。2016年の推しを返してほしい。アニメ軸は高校生の頃の話だったから新曲出たとしても20歳になった推しの姿は見せてもらってないんです。その上彼のキャラクターを誤認されかねない過去改変は大変許しがたい。原作軸とアニメ軸は切り離して考えてるから過去改変自体はどうでもよかったけどキャラクターが悪く思われる改変はやめてほしかったよ。
あと二か月で今年も終わりますね。去年はかろうじてアルバムで新規ドラマが録りおろされていましたが、今年は何と一作も原作から新規CDがリリースされることもなく終わろうとしています。すごい! これってもう死んだのと同じだよね!
2018年は一体どうなるんでしょうか。CD出るのかな。ここまでされててもジャンルにしがみついて期待してしまうあたりDV受けてる人間みたいだし我ながら馬鹿。
時々ステ嫌いな人からステ楽しめてる人間が文句言うのやめろとかあがるあがるっていうならあがれって言われるけど本当それな。私自身めちゃくちゃ思ってる。ステが好きな気持ちとツキウタが好きな気持ちは現状かなり乖離しててステが好きというか推しが演技してる姿を観るのが好きに変わってしまってるから観に行ってるしやっぱり金払って観てる以上は楽しまないと損だから楽しんでるわけで。あと2017年の(ツキウタの)推しを知ることが出来るのはステだけだしという諦めもある。ツキステというパラレルワールドだけど脚本はfjwrだから本家だしね。悲しいね。
プロアニでライブの話してたけどまた前みたいにツキステのダンスライブやります! とかだったらふざけんなよ。ダンスライブはまたしてほしいけどそれでツキウタのほう終わりですーって言われたらたまったもんじゃない。キャストのライブしてほしいわけじゃないんだけど後続あれだけばかばかライブしてて女神もしてるのに未だに大きなイベント一回しかやったことないのがまずもって腹立たしいしツキウタもライブできるでしょ。と思います。
他にも言いたいことはたくさんあるけど今日のところはとりあえずここらへんでいったん筆をおきます。今思いつく分を衝動的に書きなぐっただけなので支離滅裂で意味不明なところばかりでしょう。とかくツキウタにもツキプロにもツキステにも鬱憤たまりまくってるしむかついているだけの話でした。終わり。
んー、まだわかんないな。
私はもう結構なおっさんで、大企業の元受けも知っているし、孫請けフリーランスも知っているけど、ヤオヨロズの調整がダメで現在の炎上につながる、というのがイメージできない。
大炎上につながるようなプロジェクトの失敗って、クライアント内部の事情でアホな指示を出さざるを得ないか、下請け会社の技術力が全く足りてないかの、どちらかしかないと思うんだけど。ヤオヨロズの調整能力が全くなかった、とか、たつき監督の社会人としての常識が全く欠けていた、というのはもちろん可能性としてありうるけど、カドカワ内部の事情でアホな決定をせざるをえなくなった、という可能性のほうがありえそうに思えるなあ。
だって、ヤオヨロズはたつき監督に「社会人として常識的にふるまってください」っていうだけでいいのに、カドカワの人はにわかに降ってわいたお金と成果の配分しなくちゃいけないわけでしょ?どっちが難しいかなんて明らか。
最初に言っておくと、当方SideMを中心に活動している男性Pでシンデレラはにわかなので、シンデレラについても「カワイイ」についても的外れなことを言っている可能性があります。ご了承ください。
まぁ驚いた。カワイイのである。とんでもなくカワイイ。びっくりするくらいカワイイ。何がってメロウ・イエローの3人と彼女たちの新曲、「Kawaii make MY day!」である。先行披露されたデレステ内のイベントは終了し、既にライブでも披露された今書くのも時期外れな気はするが、自分の中でカワイイの爆撃に散らばった語彙を拾い集めていたらこんな時期になってしまった。
『カワイイ』ってなんだ?
それは永遠のテーマである。一般に『カワイイ』の言葉に付随するのは、幼児性だったり、女性性だったり、要するに自分のような成人男性が一番遠いものである。
しかし、だからこそ考えなくてはならない。カワイイものが大好きだからだ。カワイイとは一番遠いから、そしてこの歳になって「カワイイものが好き」と言えるようになるまで遠ざけてしまっていた、諦めてしまっていたものだから、カワイイに少しでも近付くためにきちんと考えなくてはならないのだ。royal weにするつもりは更々ない。ただ俺の話である。
ただ、カワイくなくて良い自由が誰にでもあるなら、カワイくて良い自由も誰にでもあっていいはずだ。
ちょい足しという言葉は深いなと思った。法子ちゃんはすごい。カワイイのに本質を突いてる上カワイイ。最強である。なるほど、カワイイは足し算の美だ。
「カワイイは研鑽する全ての者のために」。こう書いたけど、本当は研鑽という言葉は少しずれている。『カワイイ』は足していくもの、『大好き』を積み重ねていくものだからだ。
研鑽、研ぎ澄ます、つまり引き算の美は『美しい』の方が相応しい。美しい顔とは崩れたところがなく、余分なものを削ぎ落とした平均の顔である。完全な球形は美しく、また尖ったところがないので丈夫でもある。『美しい』は防御力なのである。
対して『カワイイ』は足していくものである。カワイイものとカワイイものを足していけば最強にカワイイものが出来上がるのだ。『カワイイ』は魔法で、攻撃力なのである。
曲調こそ渋谷系だが、彼女たちが『カワイイ』を探す場所が原宿なのも良かった。原宿系というファッションジャンルがあるけれど、まさにその根幹にある理念は『カワイイ』の精神なのだ。
原宿系のファッションは、シンデレラガールズでいえば諸星きらりなどが例に挙げられるだろうか。盛り盛りのデコレーション、色味たくさんのパステルカラー、フリルにリボン、彼女の身長でも収まりきらないゆめかわいい。そう、原宿系とは『大好き』を一つも否定せず、盛りに盛って積み重ねていくファッションなのだ。
原宿系の代表的なアーティスト、きゃりーぱみゅぱみゅの曲『ファッションモンスター』にはこんな歌詞がある。「だれかのルールにしばられたくはないの」「鉄の首飾りをはずしてただ自由にいきたいだけ」
原宿は自由の地だ。堅い校則から脱却し、なりたい自分、本当の自分にメルヘンチェン……メタモルフォーゼする放課後。好きなものと好きなものを足したら最強。個性って最高!原宿系という文化は受容の文化なのである。
しかしここで一つ、問題がある。先程「『美しい』は引き算」「『カワイイ』は足し算」と言った。美しいは平均に近付く美だ。しかしカワイイは際限なくどんどん重ねていける。そう、終わりがないのだ。
ある人が「女子力は有る無しではなく高い低いでしか評価されない。天井なき成長を求められる残酷な基準だ」と指摘していた。その話の本質はジェンダー論であったので今は置いておくが、カワイイも同様である。果てがなく、これが義務であれば苦しいだけだろう。
義務であれば!
イベントの時からほとんど確信していたが、先日ツアーの感想とともにRTで回ってきた二番以降の歌詞を見て、やっぱり心配する必要なんてなかったのだと勝手に胸を撫でおろした。
ただまっすぐ笑ってたいだけなんです
誰かのカワイイを否定はしない(そんなことは絶対してはいけない)、しかし自分のカワイイは自分だけのもの、他の誰かに憧れようと、理想像とぴったり一致するわけではない。あの子みたいになりたい、だけど前髪はぱっつんよりアシメがいいな、ネクタイよりリボンがいいな……これもまたちょい足しである。
即ち、なりたい自分になっても、それはそれが誰かから称賛されるものではないかもしれない。個性は自由だが、自由の責任もまた重い。
異性のためでもない!同性のためでもない!それ以外のためでもない!ただ、自分がなりたい『カワイイ』のために!
何故「最初はあの人に見てほし」いのか。あの人のためにカワイくなったから……ではない。カワイイ自分がカワイイから見てほしい、ただそれだけなのだ(思うに「あの人」は彼氏ではない。精々、ちょっと良いなと思っている男の子である)
カワイイの道は果てしない。ゴールしたと思っても、まだまだ可愛くなれそうだと先は続く。見えない終着点を追い続ける旅は険しく苦しいかもしれないけど、その道は『大好き』が敷き詰められた素敵な旅路なのだ。だから彼女たちはガラスの靴で駆けていくだろうし、足を止めない彼女たちの笑顔こそが一番の『カワイイ』なのだ。
結びに。『カワイイ』は誰のためのものだろうか。自分のため、は勿論である。では、『どんな自分』のためだろうか。顔の良い者だろうか。服飾のセンスが良い者だろうか。男だろうか。女だろうか。大人だろうか。子供だろうか。どれも間違いではない。なりたい『カワイイ』になるために歩む者は、みな『カワイイ』に受容されて然るべきだ。
故にこのタイトルは「カワイイは研鑽する全ての者のために」をとった。
要領の得ない話を最後まで読んでくださりありがとうございます。ついでにSideMの新アプリ、LIVE ON ST@GE!が事前登録数到達できるか難しいところなので、気が向いたらどうか宜しくお願いします。
https://prereg.bn-ent.net/common/serial.php?app=imas_mstage
追記:先日事前登録者数が目標数50万に到達いたしました!ご協力いただいた全ての方にいちPとして感謝いたします。315プロ並びにとっても可愛くてプロ意識の高い元子役ユニットもふもふえんと、希望の旗を掲げる革命家ユニットF-LAGS(876と兼籍の秋月涼はこのユニットのリーダーです)を今後ともよろしくお願いします。
ってよく見るけどよく分からない…
そもそも顔ファンとは顔から入ったファン、もしくは顔が好きなファンという認識であっているのだろうか?そう思い続けている。
この単語を知ったのはジャニーズ界隈で、事あるごとに叩かれてるのを見る。私が見るのは話題に上がってる時くらいなので大体はチケット当落の頃で、今日は水卜アナの云々で見た。水卜アナを応援している人はにわかの顔ファンらしい、知らんけど。
私はジャニーズ外に推しがいて、推しの顔が大好き。気になったきっかけは素敵な笑顔だったし、毎日更新される綺麗なお顔にうっとりする。推しの努力家で真面目な所が顔や体型に出ている、一朝一夕で手に入れられる肌や筋肉ではない。推しの見た目が大好き。
これは紛れもない顔ファンなのではないだろうか?紛れもなくなくても顔ファンである気がする、少なくとも顔ファンじゃありません!と大きな声では言えない。なんてったって推しを見たら顔が綺麗だと思ってしまうからである。
ただ、顔ファンは叩かれる。
私は人に高圧的、排他的に意見を押し付ける行為はめちゃくちゃ怖い事だと思っていて、叩くとかアンチとか最高に怖い。そのような行為をするということは「私は顔ファンとは違う」と明確な意志を持っているのだろう、叩いている人は顔ファンの要素がない人だ、と思っている。自分にその毛があるのに偉そうなのは流石に恥ずかしすぎるのでどんなに学が無い人でもきっとしていないだろう……してない体でいきます。
多分、顔ファンを叩く人は崇高な趣味をしているのだろうと思う。きっと推しの中身が変わらなかったらそこらへんの適当なおっさんの顔とかに変わっても好きなのだろう。素晴らしい愛だと思う、時代が時代だったらお伽噺になってそう。ただ私は絶対好きにならない。推しと同じ性格を持った推しと同じ年齢の男がいても推しの最強顔面を持っていなかったら好きにならない。あんまり関係ないけど容姿を売る職業の土台にブスがいる事が不愉快だと考えている。ブスいるんですようちの界隈、でもこういう人に顔ファン叩きはついてません。
顔ファンを叩く人によくある(私主観)のが「推しの明るいところが好き♡」とかである。顔が整っているからではなく、仕草や言葉に惹かれたという。はたしてあなたはその行為を顔が整った人間がしていなくても興味を持ったのだろうか?
顔ファンを叩く人はブスでもいいのだろうか?ブスな男にそもそも興味を持つことがあったのだろうか?あなただって推しに興味を持ったきっかけは整った顔が土台にある行動じゃなかったの?
ここら辺がうまく自分の中に落とし込めなくて、いつも悩んでしまう。顔ファン叩く人が「私は推しのオーラが好きなの」とか言ってくれたら納得出来る気がする。
先日、ネットの匿名で書き込めるある場所で、自分が古代祐三さんを知らなかったことを
「にわか」
と馬鹿にされました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%A5%90%E4%B8%89
日本を代表するゲーム音楽作曲家であり、代表作は『イース』『アクトレイザー』『世界樹の迷宮』など。
ゲーム音楽の黎明期を支えたゲーム音楽作曲家であり、現在も第一線で活躍している。
そのことを踏まえれば、ゲーム音楽好きを名乗りながら古代さんを知らない人間が「にわか」と呼ばれることについては全く異論がないように思えます。
例えるなら…
(人物のたとえが適切かどうかは別として…)というような人が「にわか」と呼ばれてしまうのは仕方ないと容易に想像できます。
ゲーム音楽好きだけど古代祐三を知らないというのはそういうことなのでしょう。
ですが私はにわか叩きに苦言を呈したいのです。
世の中の一部にはゲーム音楽を好み、その音楽を頻繁に聴く層(=ゲーム音楽好き)が存在するわけですが、ただ、ゲームをプレイせずにその音楽を好きになることは稀です。
つまり、「ゲーム音楽好き」とは、あくまで「自分のプレイしたゲームのゲーム音楽好き」なわけです。
私も、ゲーム音楽好きを名乗っておりますが、過去の名作ゲームはあまりプレイしたことなく、あるゲームの音楽を頻繁に聴いています。
人に好きな音楽を聴かれて、わざわざ、「○○と○○のゲームの音楽が好き」というのはめんどくさいです。
ゲーム音楽好きを名乗らなければ叩かれなかったかもしれませんが、じゃぁどうしたらいいのでしょうか。
ゲーム音楽作曲家は基本的に裏方であり、ゲームのファンであってもその名前を知らないこともあると思います。
だから、稀にインタビューが組まれたりしますが、基本的に表にはあまり出てきません。
私はプレイしていい音楽だなと思ったら、その時初めて作曲家の名前を覚えます。
だからいくら作曲家が有名でも、ゲームをプレイしてないと名前を知らないということもあるのではないでしょうか?
もう一つ。
世の中には名作と呼ばれるゲームがたくさんあります、『イース』や『アクトレイザー』や『世界樹の迷宮』などもそのうちのひとつに数えられるでしょう。
しかし、毎年のように繰り返し生み出される名作ゲームは年々増えていきます。
ゲーム業界でも、「いよいよ、あのゲームをプレイしたことがない世代が入ってきたか…」というような経験をすることがあるそうです。
後の世代になればなるほど予習しなくてはならない名作ゲームはどんどん増えていきます。
ただの、業界人でもない一般人が、ゲーム音楽好きを名乗るだけに、それだけの学習が必要なのでしょうか…。
注)もちろん、あくまでここで必要とされているのは、「作曲家の名前を知ってるか知らないか」ということ……ですが、上記の通り、音楽を知らずに人物だけを知るのは難しいような気がします。彼らの気持ちの裏には、「名前を知っているだけではなく音楽を聴いたことがあるかどうか」という気持ちも隠されてるような気がします。
彼らには「ゲーム音楽はこうあるべき」という気持ちがおありなのだと思います。
ゲーム音楽好きは昔の名作ゲームをすべてプレイして作曲家を覚えるべき、そうでなくてもプレイしてないゲームの作曲家まで網羅すべき、と。
そもそも、ゲーム音楽は音楽の中では圧倒的にマイナーな存在です。
世間一般で音楽といえば歌のことであって、BGMを聴くという発想はあまりないようです。実際に、ある人にゲーム音楽を聴くと言ったらすごく驚かれたことがあります。
とはいってもゲーム音楽にもすごいファン層がいるので「ゲーム音楽は相対的にマイナーである」というのが正しいかと思います。
マイナージャンル同士仲良くしたらいいと思うのですが……いきなりにわか叩きはないんじゃないかと思います。
ところで、なぜにわか叩きは行われるのでしょうか。
①にわかを叩くことによって、にわかがその作品または人物についてよく調べ、ファンの質が上昇する。
②にわかを叩くことによって、にわかがファンを離れ、ファンの質が上昇する。
など、いろんなことが考えられるかもしれませんが、これは逆効果ではないかと考えてしまいます。
古代さん自身は、「俺を知らないなんてにわかだなぁ」とは言わないし言えないでしょう。
だからこそファンが代わりに、「ゲーム音楽業界を啓蒙しなくては」「彼の偉業を知らしめなくては」「能力ある人、努力した人は評価されるべきだ」という気持ちがあるのかもしれません。そういう気持ちは大切ですが、古代さんを他人を叩く武器に使うのはどうなのでしょうか?
だらだら書いてしまいましたが、まとめると、
と考えています。
…あと、いちおう書いておきますが、いきなり「誰こいつ」などと書き込んだわけではありません。
貴方はどのようにお考えですか?
追記:
無知をさらしてしまった面もあり、それに関しては申し訳ありません。
追記2:
久しぶりに加筆。
古代さんの曲を聴いてみると書いてみたが、結局ちょろっと聞いただけに終わってしまった。
ぶっちゃけ言うと、今好きで聞いているゲーム音楽も積極的に探し求めていたわけではない。
ゲームをやってて好きになった曲や、動画でつかわれてて好きになった曲ばかり。
「ゲーム音楽あげてけ」みたいなスレがきっかけで好きになった曲といえば、ヴァンパイアキラーくらいだと思う。
現状、古代さんの音楽が好きでは無ければ、好きではない状態の曲を積極的に聴こうとは思わない。
もちろん、それは今自分が好きな音楽についても同じことで、きっかけがなければ好きにはならなかったと思う。
まぁ、もし自分がゲーム音楽関係のイベントや仕事にかかわったとしたら知らないですでは済まされないから、知っておくべきだけど、趣味で聞く分にはどうでもいいでしょとおもう。
ゲーム音楽だなんて、そもそもバックグラウンドに過ぎなんだから、仮にどんなに優れた音楽でもゲームが糞だったら聴いてもらえないし、評価=すごさとも限らんと思う。
なんか考えがまとまらなくてだらだら書いてしまうけど、この手の話はゲーム音楽業界にかかわらず、どの業界にもあると思う。
ゲーム音楽自体、音楽の世界ではマイノリティー側だと思うけど、その中でもマジョリティとマイノリティがいて、マジョリティ側の人はこれは知ってて当たり前だもんなぁ。
JPOの人が、えっ○○知らないの?とか、これ有名なバンドだよとか言ってきたらどう思うよ?
えっゲーム音楽なんて聴いてるの?って笑われたらどう思うよ?
(http://anond.hatelabo.jp/20170530195336 これの続きです いただいたお言葉読みました、ありがとうございます)
しかし、オタク同士であるがゆえに噛み合わない点というのも出てくる。
私は型月のことをほとんど知らない。
FGOが流行っている世の中において、これはなかなかに辛いものがあるのだ。
Twitterで皆がFGOの話をしている。それを見ると、興味が湧く。
とてもじゃないけど手を出せない。
週に一度のLINEで、話題がなくなるときがある。それなりに長時間話すので当然のことだ。
私はそれに合わせて、Twitterなどで見かけたFGOのキャラ名を述べ、最近よく聞くよね、などと話を振る。慎重に。
そうすると、彼はそのキャラに関することを少し語りだすのである。私は相槌を打つ。問題はその後だ。
「面倒だからやめよう。嫌でしょ、わからない話を力説されても」
どうすりゃいいんだ???
私はfateの原作ゲームをプレイしてアニメを全部見て世界観を理解するしかないのか?????
オタク同士でも微妙にジャンルが違うと全然話が弾まないのだった。それも仕方ないのかもしれない。
私はラブライブが好きだ。
彼はラブライブが嫌いだ。
それはよくないんじゃない!?「人と趣味の話できないんだよね」って言うけどそういうとこじゃない!?
重なるジャンルもある。ローゼンメイデンについては二人とも好んでいる。
(参照:豚猫大好きぶーにゃんの社会的弱者研究所http://sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp/entry/2017/03/06/173930)
当時の就職企業説明会がどのようなものだったかが記されており、就職氷河期に中小企業でさえ就職するのがいかに難しかったか理解できるかと思います。
私は就職氷河期世代なのですが、病気療養のため同世代と同じ時期に就職活動することができませんでした。
ですので、自分自身は就職氷河期の就職活動を経験したことがありません。
しかし、ときどき体調の良い時に大学に行って就職課の求人を見ることがありました。
例年なら満杯になっているはずの掲示板に半分くらいしか求人情報が張っておらず、給与も正社員でありながら手取り15万円にも満たないものが多かったことを記憶しています。
また、同年代の知り合いからは、いわゆる“カラ求人”も多かったと聞いています。
聞くところによると、一斉に企業が採用をやめたので求人倍率が低くなり、あまりの厳しい数字に厚労省が「これはまずい」と思って、“採用しなくてもいいので求人を出して欲しい”と企業にお願いしたことがあるとか、ないとか…。
企業が求人を出して、さんざん面接をやって、結局1人も採用しなかった…なんて話も聞いたことがある時期でした。
今世間で知られている就職氷河期の求人倍率も、このような“カラ求人”の分を除けば、もっと低かったんじゃないか、という意見も聞きます。
さて、そんな就職氷河期世代、または団塊ジュニア世代ももう40代~30代後半。
もう、企業も受け入れが難しい年齢ですし、私は「このまま我々の世代は見捨てられていくんだなぁ」と悲しい気持ちでいました。
ところが最近、八代尚宏先生などの本を読んでいて、「あれ?もしかして就職氷河期世代は見捨てられるどころか、これから影響力が強くなるんじゃないか?」と思うことがありました。
なぜか。
去年から“シルバー民主主義”や“シルバーデモクラシー”という言葉が取り上げられるようになりました。
これは、相対的に数が多い高齢者世代が自分たちの都合の良い政策を実行する党に投票するあまり、若年世代にとって不利益が多い社会になってしまう…というものだったと思います。
この代表格がいわゆる団塊世代であったわけですが、彼らも近年続々と75歳以上という後期高齢者に突入しています。
いろいろ指摘されているように、団塊世代の人も75歳以上になると健康的な問題で投票に行けないことが多くなり、徐々に彼らの政治的影響力は弱まってくると考えられるのです。
「そんなことにわかには信じられない」と思われる方も多いでしょう。
しかし、医療機関で働いていると、75歳を境にしていかに人間が弱くなるかが良くわかるのです。
人間は75歳も過ぎると、大きな病気にかかるとなかなか回復しません。
ちょっとの病気ですぐに足腰が弱くなるので、外出も少なくなります。
また、認知症にもかかりやすくなり、認知症の影響で自力での健康管理ができなくなると、体調が崩れやすくなり、あっという間に亡くなる方もいらっしゃいます。
(そもそも認知症になったら、判断能力が低下するので投票できなくなると思われます)
そういうことを考えながら、人口ピラミッドを見ると、否応にも団塊ジュニア、いわゆる就職氷河期世代の数の多さに目が行きます。
八代先生などによると、年代が上がるにつれて投票率も上昇するそうです。
つまり、これから団塊世代の政治的影響力が弱まると同時に、団塊ジュニア、つまり就職氷河期世代の政治的影響力が強まってくると考えられるのです。
しかし、他の方がさんざん書かれているように、この世代は社会に出てこのかた、ちっとも良い思いをしていません。
新卒で就職活動した時は、不況の影響でどんなにがんばっても正社員として就職できませんでした。
就職してもブラック企業で、過労死したり、精神的疾患を患って退職を余儀なくされる人も多かったです。
仕方なく非正規雇用で働いても、“非正規”という身分差別のため正社員と同じ仕事をしているにも関わらず、給料は少ないままほとんど変わりませんでした。
社会保険にも入れてもらえず、老後の貯蓄もできず、がんばっているにも関わらず「甘えている」「自己責任」と言われる始末です。
一昔前であれば、過去の政治的出来事は時とともに忘れ去られることが多かったと思います。
でも、今はネットに就職氷河期のドキュメンタリー映像や当時の政策の記録が残っています。
こうした状況を考える時、「これから就職氷河期世代がどういう投票行動を取るのか、どのような政治的影響力を及ぼすのかわからないな」と思うのです。
昨年、与党はにわかに就職氷河期世代の支援策を打ち出し始めました。
この背景には減り続ける社会保険収入や税収を増やし、生活保護受給者を減らす目的があるんじゃないかと思っていました。
しかし、団塊世代の次に票をたくさん持っている年代を考えた時、団塊ジュニア世代、つまり就職氷河期世代に注目が集まったのではないかとも考えられるのです。
就職氷河期世代は企業にとって魅力のない年齢になったのかもしれません。
彼らは少なくとも、あと30年間は投票に行けるのです。
今後、就職氷河期世代は政治的にどのような選択をするのでしょうか…。
もし、本当に就職氷河期世代の復讐があるのとすれば、“揺るぎない絶大な投票数”という形で現れることもあるのかもしれない、と思った次第です。
ゲームやアニメ、漫画といったコンテンツには様々な楽しみ方があって、それをどのような形でどう楽しもうが、作品に対し、どのようなスタンスを掲げていようが別にいいと思ってる。それに対して「えっ……おかしくない?」と思ったり、「もっとちゃんと応援しろよ」と思うのも、自由だと思ってる。
でも、最後の思うことに関しては、時によっては、他人を傷つける場合があることを知って欲しい、と思うのも事実である。
俺は某アイドルゲームのファンで、積極的に作品の情報をチェックしてるし、ビビッと来たグッズやCDはたまに買う。でも、時々開かれるライブには行ったことはないし、元となったゲーム自体もあまりやってない。程度としては「数ヶ月に一回か」という頻度だ。
ライブに行ったことがないのは、昔から大音量の音を聴くと具合が悪くなるという体質上の問題で、ゲームを熱心にやってないのも、自分がゲームが下手クソで、さらにゲームに関して明るい思い出が全然ないからだった。
それでも、お気に入りのアイドル(キャラ)は何人もできたし、時々だけど応援していた。作品も「本当に魅力的なコンテンツだな」と尊敬していた。
でも、ある時に同じ趣味を持った人(ゲームにもライブにも熱心に行ってる、いわゆるガチなファン)と会話をする機会があって、その時に自然に、「あのゲーム、あまりやったことないけど好きなんだよね」と言った。
すると相手は、「え……? あまりやったことないのに好きなの?」と言われて、続けて「熱心にやってないのに好きとかおかしくないか?」とか、「グッズやCDもろくに集めてないのに?」とか詰られた。
幸い、相手は物わかりがいい人だったので、自分の事情やスタンスを説明したら納得してくれた。でも相手は「ゲームプレイ、グッズ、ライブ、全てをこなしてこそファン」というこだわりを持っているらしく、理解しつつもすごく苦い顔をしていた。ゲームに関しては「んなモン克服すりゃいいのに……」と漏らしていたし。
詰られたからファンを辞めたという訳でもないし、コンテンツと付き合うスタンスを変えるつもりも、何かがある限りはない。
でも、先の相手の価値観に言わせれば、「俺はみたいなヤツはにわか」らしい。確かに俺のようなコンテンツの付き合い方だと、見ようによっては「熱心じゃない」かもしれない。
だけど、最初に書いたように、コンテンツはどのような楽しみ方をしようが自由なのだ。今の俺の楽しみ方も、自分の事情と照らし合わせた上で付き合っている。
もちろん、それに対して何を思おうと自由だ。自分でも時々、他人の楽しみ方に「キモいな」とか、「理解できない」とか思ってしまう時とかあるから。
俺が声を大にして一番言いたいのは、「このような楽しみ方をしているのには、ちゃんとした事情がある」ことを、頭の隅に置いといて欲しいと言いたい。
金がないからとか、下手だからとか、その方が自分に合ってるからとか、主観的に見れば「これで『愛してる、大好き』とかあり得ない、気持ち悪い」と思うような楽しみ方も、(理解してもらえるか、理解できるかどうかは別として)相手にとっては適切な理由がある。
あまり熱心にやっていない人を「にわか」、その楽しみ方を「気持ち悪い」と思っている人達には、楽しみ方には事情もあることを頭の片隅で理解して欲しい。
大好きなのに、仲間の圧力で肩身が狭くなり、居心地の悪さに耐えられなくなって辞めるような人が出る、みたいなことな起こるのは心が痛い。