はてなキーワード: 整形外科とは
長年デカくて悩んでいた胸を小さくする手術を受けるために整形外科でカウンセリングを受け、見積もりを取ってきた。インターネットに星の数ほどある整形レポートのなかでも乳房縮小術の症例はとても少ない。あっても整形外科医院のサイト内に内容と手術法および画像数枚が簡潔にまとめられている程度。FtM の方のブログも読んだが、そうではないケースで手術をしたという国内の症例や個人の記録は少なかった。まだ手術を受ける前の内容ではあるが、ここまでの経緯を記録したいと思い筆?をとった。
増田は30女、カップサイズFかG75、既婚、子なし、共働き、会社員、都内在住、やや低身長、標準体重。
胸が大きいと気づいたのは高校に進学し最初の体育の授業でクラスメイトにいじられたことが最初だった。増田の家庭は若干放任と毒親気味でブラを買ってもらえなかった。生活に不便だったのでコンビニ振り込みで下着をネット通販したのを覚えている。その後胸は私の意思に反してどんどん巨大化し、部活や文化祭等で揃いのユニフォームなどを着用する際に目立つようになった。その間進学から就職、今に至るまで典型的ないじられ方(見せびらかすなとかエロいとか羨ましいとか頭が悪いとか何カップとか)やセクハラをされ続けた。いじられた時、何か言い返すことで胸が大きいことを自慢しているような構図になり嫌なやつだと思われたり、褒めているつもりだと主張する人の前で変な空気になるのが嫌だったから愛想笑いで誤魔化しながら20数年やり過ごした。切になんとかならない体型いじりは社会から無くなって欲しい。
もともと増田はモードな雰囲気が好きだがその方向性は諦め、下着はサイズがないので高額で購入し、日常的にコスプレ用のさらしで胸を潰していた。スポーツや式典は胸周りをガッチリとテーピングした。物理的に息苦しい思いをするので、毎度イベントで体調が悪くならないかハラハラした。それでも人に指をさされるこの体型が本当に本当に嫌だった。「私は胸が小さくて悩んでいるのになにを謙遜しているのか」と逆ギレする女性などもいるのだが、お互いコントロールできないことなのだし、別にこちらとしても小さくはできないので、勝手に敵対視しないで欲しい。一時、ダイエットで美容体重まで減量した際も胸だけが残り絶望感でいっぱいだった。
自分の胸が嫌だという話が長くなってしまったがなんだかんだダボダボの服を着ながら日常生活をやり過ごしていた。そんなある日、海外のスポーツ選手がパフォーマンス向上のために乳房縮小術を受けたという記事を読んだ。こんな方法があるのかと、興味本位で日本で施術ができるのか、金銭的にはいくらでできるかと思いネットで調べた。そこで冒頭に述べた通りFtMの方の体験談、そして施術可能な整形外科のページや評判をいくつか見比べ、さっそく二つの院に予約をとった。
いままで胸が大きくて悩んでいると人に言うと「贅沢な悩み」だと一蹴されてきたので、受診するのはとても緊張した。顔面を含めそもそも整形自体初めてだった。全国展開の整形外科でも乳房縮小術はレアケースなので執刀医が少ないらしく、一つは自宅から40分もかかる院だった。
真剣に悩んでいることを整形外科医とスタッフに打ち明けたところ、ちゃんと話を聞いてくれて、正直涙が出そうなくらい嬉しかった(高額な施術を控える客だからかもしれないが…)。
どちらの院もだいたい同じ流れで、医師と女性スタッフの二人体制で
・どのぐらいサイズダウンを目指すか
・ダウンタイム
・手術痕
・金額
について説明を受けた。
まず胸を小さくする方法は、脂肪吸引もしくは乳腺切除、また著しく胸が垂れている場合は釣り上げ術というものを適用するのが主流だそうだ。増田のケースは乳腺が発達してしまっている胸のタイプで、脂肪吸引だけでは理想のサイズダウンは望めないため、乳腺切除が必要だと分かった。ダイエットしても胸が小さくならないということが受診によってわかり納得感があった。
また、胸の中身を出して小さくしても乳首の位置や皮膚がそのままだと見た目がおかしいので、周辺の整形手術を行う必要がある。施術は乳輪の下から縦に皮膚を切り裂き、胸の外周を半周切り取って乳腺切除をするため、そこそこ大掛かりな手術となるとのことだった。多少の傷跡が残ること、完成までのダウンタイムが回復が早くても半年ほどかかることも伝えられた。
結論、経産婦ではない場合は乳腺切除は後戻りできないのでよく考えてから決めてくださいとのことでカウンセリングは終了した。やはり出産前に施術を受ける人は少なく、子育てを終えた人がアンチエイジングとして釣り上げ術と同時に縮小術を受けるケースがほとんどらしい。個人的にはそこまで子供が欲しいわけではないし、さらに胸が大きくなった自分の妊娠中や授乳姿を想像するのもやや気分が悪くなるが、ちょうど30代に差し掛かる年齢ということもあり、別にセックスレスというわけでもないので、やはり後戻りできない施術とダウンタイム6ヶ月を考えるとやや怯んでいる。
病気ではないので、健康保険は適用されないため支払いは全額自由診療の料金になる。いくつかの院で見積もりをもらったところ、麻酔代などを含め日帰り手術130〜150万円前後が相場で、脂肪吸引のみで済む人だと80〜100万円弱ほどになるらしい。都内なのと、ある程度名の知れている整形外科を中心に見積もりをとったからこの金額になるのかもしれないので、地方の個人院や美容先進国の韓国ではどうなのかはまだわからない。またモニターといって、症例写真を提供すると2〜3割ほど金額から引かれるようだった。100万超の手術費用の捻出は私にとって大金だが、20数年間胸がデカいことに起因する嫌な出来事を考えると、金さえあればこんな思いをしなくて済んだのかと思う。その期間、無駄な飲み会などに多額を費やしたであろうことを反省するし、なんなら若くて回復が早くスケジュールに余裕のあった学生時代に施術を受ければ進学就職でいちいち嫌な思いをしなくて済んだのだろうか。
ここまでなんとなく、カウンセリングを受けてきたことを夫に話せていない。増田夫は体型などになにかを言ってきたことは今まで一度もなく、財布も別だし、増田の行動にもあまり干渉しないタイプだ。決意はだいたい固まっているのだが、まずは夫にどう切り出そうと考えながら、整形外科からもらった見積書とパンフレットをこっそりカバンから出して眺めている。
自分の持ち物である身体の整形手術なのに、まだ予定のない子供(≒妊娠出産)とパートナーのことが頭によぎるなんて、一体この胸は誰のものなんだろうか。
Googleレビューって、本当のことなら書いても大丈夫だと思うよ
自分も親連れて整形外科行ったことあるけど、適当な処置されて終始タメ口で気分悪かった
みんな文句書いてた
母が転んで骨折した。
一緒に地域の整形外科に行った際、母が手と胸が痛いと言っていたが、腕が折れてる→受け身が取れてたから肋骨は折れていないだろうし胸の痛みは気のせいみたいなことを言われた。
自分としては、胸が痛いなら検査して欲しかったし、もし頭とかぶつけていたら困るため、大きな病院を紹介してほしいと言った。
そうしたら医者がこんなこと言うのかと信じられないくらいの嫌味を言われた。
最終的に紹介状を書いてもらった先の病院で肋骨と、また足の指も折れていることもわかった。ちなみに頭はぶつけていないようだった。あんなに偉そうに色々言ってきて結局診断も間違ってるってなんなんだよ
整形外科の先生にはすごく文句を言いたいけど、電話して言ったらクレーマーになる気がするし、Googleレビューに書いたら訴えられそうだし、もやもやしてる
仮に僕の名前を山田ぽん太として話を進める。山田もぽん太もよくある名前の世界線だと思ってほしい。
まだ、gmailアカウント作成が招待制だった頃。当時、運良く招待を貰えた僕はyamada.pontaのアカウントがとれた。
その後、gmailはどんどん普及し、今に至るわけだが、最近になってやたらと全国のヤマダポンタ様宛のメールが僕のメールボックスに届くようになった。
文京区のヤマダポンタ様宛のAmazonからのお届け確認メールがきたり、横浜市議会議員ヤマダポンタ様宛の某女子大学生からのお食事ごちそうさま感謝メールが届いたり、関西のヤマダポンタ様宛の某男性器整形外科からの予約確認メールだったり。
最初は送り主に、メールアドレス間違ってると思うので本人に確認してくださいと返信していたが、最近はあまりにも多いので無視している。
どうも、全国のヤマダポンタ様が勝手に僕のgmailアカウント使って色んなところに登録してるっぽいんだが、自分の持ってないアカウントで登録しても確認メールを確認できないだろうし、仮に登録できたとしても百害あって一利なしな気がするが、なんなんだ?
と非常に不気味である。
水谷緑さんの「私だけ年を取っているみたいだ〜ヤングケアラーの再生日記〜」(文藝春秋)を読んで、病識のない精神障がい・患者を抱えた家族がどうやって社会と繋がれたか書こうと思った。
母も当時、自分を病気じゃないと思っていて(病識(びょうしき)がない、と今は言ってる)、明らかに家族や周りが見たらおかしくて、その認識の乖離のせいでさらに信頼関係が崩れたり、暴走が激しくなったりした。
精神科は本人を連れてきて、と言う。
母が調子を最初に崩した時、父がすぐに何か気付いて東京の病院に連れて行った。
そこで話を聞いてもらって、薬をもらった。
気分が落ち着くような薬で、代わりにうつ病のように1日のほとんど寝ていることになる。
お酒も飲めない。
それでも家族としては暴走されるよりマシだから飲んでて欲しいけれど、本人は「薬を一生飲むのかな」「薬がなければ家事をきちんとできるのに」「私は薬なんかなくてもまともだ」と思うのだろうか。
薬を飲んでいない時で躁状態の時、最初に行なったのは都内に出かけて高価な買い物をしてきたことだった。
出かけた先で予定を変えて夜遅くまで帰ってこなかったり、突然深夜に出かけることもあった。
おかしな行動をし始めた頃、父は必要あれば迎えに行ったり連絡を試みていたが、だんだんほっとくようになった。
お父さんは浮気してるとか、お父さんは嫌いと言って家出という形で出ていくことも多くて、父としてもあまり優しくして構うのも限界があったのだと思う。
ある時、学生時代の友達の家に遊びに行って泊めてもらっていた。友達も泊まるとは思わなかったし様子もおかしいので、父に連絡がくる。母が車で出かけていたので始発を待って翌朝父が迎えに行くと、友達の家のベランダから何かを叫んで怒っていて、友達は怯えて寝室に閉じこもっていた。
父が車を運転して母を連れて帰ってきて、その翌日、数年ぶりに病院に連れて行くことにした。
それまで母に「診てもらおうよ」と言ってもまた喧嘩になるから諦めていた。
その時は、妹や父が(色々あって)鬱かも、みんなで診てもらおう、と連れ出したらしい。
(私は進学で別の土地にいたのでこの辺りは伝聞だ。)
日曜だったのでやっている病院が少なく、隣の町の小さなメンタルクリニックに連れていった。
少し離れた有料駐車場に車を停めて3人でクリニックに向かう間も、母は「やっぱりやめようよ」「あそこに行ってみたい」「どこに連れてくの?」と、足を止めていたらしいが、なんとかクリニックの前まで連れてきた。
クリニックの看板には、「心療内科・整形外科・内科」みたいなことが書いてあった。
それを見て母は、「整形外科って何!私を整形させたいの!?整形しようとしてると思われる!みっともなくてこんなところは入れない!」と言ったが、とにかくいいから、と院内に入る。
待合室で少し待っていると、母がだんだん気分が上がってきて、診察を待たずに待合室で父と喧嘩になった。
妹が泣きそうになりながら、クリニックの人に「早く診てください」と言うと、クリニックの先生が出てきて、「うちではここまで調子悪い人診れないよ」と言った。
暴れたり叫んだりするのをやめないので、クリニックが警察を呼んだ。
警察。
これが初めての警察のお世話になった場面だった。
みんな家族が警察に捕まるなんて恥ずかしいしとんでもないと思うかもしれないけど、本当に家族がおかしくて困っているなら警察は悪手ではないと今は思ってる。
本人は嫌だったと思うけど。
警察が来ても頭がおかしい人は「捕まる」訳ではない。でも、一晩署にいて、そのあと病院に送還される。そこで度合いによるが「措置入院」となると、県知事や都知事、市長が入院しないといけない人と判断した、となり、その入院にはお金がかからない。
その分それくらいのレベル、ということで病院では拘束されたり外部との連絡や交流が制限されたりするが。
この時は措置入院になり、つまり母としては「無理矢理頭がおかしいことにさせられて警察に強制的に入院させられた」となっていたと思う。
母が署に一晩いることになって父と妹だけで帰宅した夜、初めて電話が来て、「なるべく早く、可能なら明日にでも帰ってきて」と言われた。
2人とも料理や洗濯もできないと言ってやり方を教えてくれ、と。
入院にあたってタオルなど荷物を届けるためみんなで病院にも行った。面会はできなかった。
入院は2ヶ月程度だったと思う。
2ヶ月経って面会が許された頃、病院に久しぶりに行くと、先生に「本人が退院したがっていて、症状も落ち着いてるのでこちらとしては患者さんの意向を尊重する」と言われた。
だが、面会した時に話した感じで、母に病識がないことがわかっていたので私と妹は反対だった。
だが結局その時は退院になってしまった。父が母を信用してみることにしたのだ。ここからの入院はお金がかかるから躊躇したものあるかもしれない。
案の定1ヶ月以内に躁状態は戻ってきたが、通院と薬で押し込めて落ち着けられた。
そのあと2年後に、大きな動きがあった。
入院の時お世話になった先生のところに、2ヶ月に一回のペースで通院していた頃だった。
その回の通院で話し合って、薬を少しだけ減らしたらしい。
そこから2週間ほど。
教育関係者の偉い人の講演会に感動して、ビラ配りに参加したり活動的になってきていた。
だがそんなもの趣味と同じ扱いで制限もできないと思っていたころからたった3日ほど経ったある日、パート先で勤務中に、母がいなくなった。
仕事着のまま、運動会中の近所の小学校に来て騒いでると小学校の教頭から父のところに連絡があった。
小学校に来て、〇〇さん(教育関係者の偉い人)が来てないかと騒いだと。
保護者や教員で取り押さえていたが、父が仕事中で母の実家に連絡をとっている間に脱走。
母の実母は、母の姉に連絡し、妹にも連絡し、様子を見に向かっていた。妹はデートに行く途中で連絡が来て、相手に断りを入れなきゃいけないし、自分の予定を邪魔されるし、そんな状態の母も見たくないしで泣きながら戻ってきたという。(私は妹にこの時、母のところに行きたくなかったら行かなくてもいい、時間をおいて帰宅したらどうか、と言った気がする。デートについてはなんて言えばいいかわからなかった。)
みんなが母を迎えに行こうとしている中、GPSで父が母の場所を探っていたが、急に移動のスピードが上がる。
教育関係者の偉い人の事務所の前にて、騒いでいるところを通報を受けて警察に連行された。パトカーに乗っていたからGPSが速く移動したのだった。
署で面談中、母は暴れ、叫んでいた。
服を脱いでいたらしく、警察に渡された布を纏って、面談相手とは距離を取って面談をしていたという。
気が大きくなっていたのもあるが、離れて会話するから叫んでいたとも思う。
前回と同じ流れで措置入院になり、前回より近所の病院に入院した。
私は今度こそ病識が持てるまで入院させよう、と強く主張し、妹・父と、先生に伝えたいことをまとめた。
また訪問看護も利用できないか聞きたかった。私は勘違いをしていて、家の中に来て少し家事をしたりしていってくれる人だと思っていたが、そのあと聞いたら訪問看護は薬を飲み忘れてないかとか様子がどうか見るだけのものらしい。
それでも家族以外の外部の人に見守ってもらえるなら今までよりいいと思う。
家族だけじゃ息が詰まる。
今回の先生は女性の先生で私たちの話をよく聞いてくれて、「病識を持ってもらう」というゴール設定をよく理解して汲み取ってくれた。
薬を性質の違うものに変えて代わりに量を増やし、症状を抑えていた。
私は「心理的なきっかけがあるんでしょうか?トラウマとか…」と聞いた。
先生は「違います。脳の障がいなんです。双極性は心理的な原因があることは少ないです。」と言ったと思う。(私の解釈が入っていて医療的に間違っていたらすみません。)自律神経の不調やホルモンの不調と似たものだという理解だった。
結局入院は3ヶ月程度だった。
退院した数日後に会いに行くと、母は前回と違い周りの患者さんと交流もできて、自分から「障がい者手帳」「障がい年金」をもらおう、と言っていた。
一緒に申請に付き添って行ったが、明らかに前回と違うと思った。
今は自宅で過ごしている。家事も自分のペースでして、やはりよく昼寝をしている。
作業所などに通うことも検討したが、落ち着いていればパートもできるのだから本人としては新しいところでパートを始めたいらしい。
今症状と付き合い始めて10年ほど経つ。
今やってる向き合い方が正解かはまた数年経たないとわからないが、とりあえず穏やかにやってると思う。
暴走の仕方によるが、私たちの場合は調子の良い時は家族同士仲がいいし母の暴走は人を暴行したりはしないので、暴走させて警察などの権力のある機関に介入してもらう、というやり方で結果的に良かったと思っている。これが暴走するのが父で、ほっといたら人を殺すような人だったら思うとゾッとする。
でも、私もすごく怒りっぽいところがある。「暴走」自体、他人事と思えないし、私自身いつそちら側に行くかわからない。その時入院となったら、犯罪を犯してしまったらと思うとゾッとする。
私は病気が原因で人の命がどうにかなってしまうことだけが恐ろしい。
双極性障がいは、鬱に振り切って自殺をしてしまう患者もいると言う。
母が自分を責めてそんな選択をすることもないよう気をつけている。
両親がおばあちゃんを家から追い出し、一人暮らしをしていた私が引き取ってからもう7年になる。
もうヤングケアラーと言われる歳ではなくなったけど。(タイトル釣りでごめんなさい。)
なぜ追い出したかは、話が長くなるので割愛するが、大方両親が悪いと思っている。祖母に原因があるにせよ、86歳だった祖母を物理的に家から追い出し、3日間家に帰って来れず足に後遺症が残る怪我を負わなければならない理由は何一つとしてなかった。祖母は家出直前に電話をくれたが、その時電話に出れず三日後まで会えなくなった事を今でも後悔してる。
何も後先考えず祖母を引き取って、本当に祖母に申し訳なかったと思っている。
それまでしっかりしていた祖母だが、年々体が衰え、糖尿病になり、心不全になり、認知能力も低くなった。
もし私がもっと勉強して、事前にケアできてれば今頃もっと健康だっただろう。何か問題があるたび、親身に相談に乗ってくれて助けてくれるケアマネージャー、デイサービスの方々、今日まで面倒みてこれたのはあなた達の献身的なサポートのおかげです。
そして、おばあちゃん持ちの独身男の私と結婚してくれた妻、ほんとうにほんとうにありがとう。
この5年間、俺、妻、おばあちゃんという3人の奇妙で本当に大変な生活だけど、あなたのおかげで幸せを感じています。
介護で病院通いをしていて、この人達にストレスを感じる人達は多いと思う。
患者には乱暴な言葉も、冷たい言葉も何でも、その時の気分次第で何でも吐き捨てられるから。
なにせ彼らは絶対謝らないし、どうせ病院側に伝えたってクレーマー扱いされる。
これらの方々は総じてムカつくほどのタメ口で、態度もだいたい横柄だ。
傾向的に多いのは、その科の部長とかだ。
最初クリニックに連れてった後、手術した方がいいが年齢的にもできるかの含めて総合病院に連れてれ行った方がいいとのことで、今朝最寄りの東京品川病院に連れていったら見事に散々罵倒された後『出でけっ!』と追い出されてしまった。
クリニックでは手術はした方がいいけど、手術をする時は全身麻酔をするし、93歳で心不全持ちの祖母に耐えられるか分からないが、もし手術を行われなければ今後腕が上がらないようになるかもしれないと心痛な面持ちで伝えられた。
それがその総合病院のK部長は『たぶん手術上手くいくでしょ』、『手術しなくても骨はくっつくと思う』『どうする!?どうする!?』
上手く言葉で伝えられてないと思うが、K部長の横柄な感じとあまりの軽さに不安しか覚えなかった。それだから、事前に想定したシチュエーションを踏まえて疑問に思うことを矢継ぎ早に質問し始めたら、『ほぼほぼ手術は上手くいく!』『骨はくっつかない時もあるかもね』、言葉は変わっていくし、聞いてなかった情報が聞くたびに出てくる。ますます不安だ。
手術の可否と同じくらい考えなければならないのが、入院のことだ。
知ってる人は多いと思うが、甘く考えてる人には何度でも忠告しておきたい。
祖母もこれまでに2回ほど入院したが、確実に認知能力が落ちた。
それが1週間程度でもだ。
1回目はコロナ前でお見舞いには行けたから毎日会いに行ったが、認知能力は落ちた。
2回目はコロナ禍で見舞いに行けず1週間だったが、落ちた。
祖母は共働きだった私の両親がわりになり、遊んでくれた事、毎日3食ご飯を作ってくれたこと、ズル休みするたびに学校に嘘をついて電話してくれたこと、私の子供時代のことは何も覚えていない。
そんな感じで入院した場合、手術できるなら検査入院すること、手術した後の治療日程、そのリスク、認知症落とさないために入院中できること、手術しなかった場合の治療日程、想定される腕の可動域、もっと体が弱くなってきた時に片手が使えないとどうなるか、他の患者さんで似たケースはあるのか...etc 質問はいくらでも出てくる。想定できること、考えられるかぎりの事を知ったうえで決断したかった。
診察し始めて10分経ったぐらいに、『もう何度も同じこと聞いてくるな、出てってくれ』と言われた。
-ごめんよ、多少重複したかもしれないけど、こっちも不安なんだ。大事なババアなんだ。
それから質問するごとに答えた後に他の患者が待ってるから帰ってくれと言われ始めた。
-私とおばあちゃんはもう2時間待ってるよ。予約してなかったから最初の方に来て最後のほうまで待って、私たちだけだよ、こんなに待ってるの。知ってるよ病院のシステム。早くお昼が食べたかったんか?
-こちらはさっきの質問の半分も聞いていない。HPのあなたのプロフィールにある『皆様に納得していただける説明と治療をいたします。』って嘘だよね。
そして診察開始から15分程で『出てけ!とりあえず手術するかしないか決めてから月曜日に来い!』と怒鳴られ完璧にプッツンしてしまった。そこからは相手の売り言葉に買い言葉。待ってた患者さん達本当にごめんなさい。聞きたかったこと全部聞けてないのに、とりあず判断しろって何なの?
お医者さんには好かれなければならないのに喧嘩してしまった。その後職員の人が来て、事の経緯について私の話は一才聞かれず、ただただクレーマー扱いだったよ。おばあちゃんマジごめんよ。もう最寄りの病院行けなくなったよ。
オバサンの肩痛で整形外科に行き、圧迫面接受けながらもキシロカイン注射のことを聞きだしたが
アレルギーもあるので副作用よく調べてからにしようと、湿布薬のみ処方して頂いた
加えれば、医院前には派手なホイールを付けた大型高級車が止まっており
自分は最後から2番目の患者で、施設内はがらんとしてほぼ院内関係者しかおらず
さらに土曜なので早めに建物の表シャッターを降ろしたようだった
なので麻酔は受けるにしても、もう少し客がいるときにすることにする
麻酔でやや意識飛ぶのを利用した歯医者がいたから、その点は気を付けている
筋膜、筋硬直、筋硬結キの字も説明されないし、トリガーポイント注射経験もどうだか分からん
とにかく腕を労る予防的な動きを体が身に着けるまで、待つしかないとのことだった。
とはいえ昔から短気だった自分、体幹強化のためこなしていた水泳もリングフィットもできず、鈍っていく一方の体に耐えられなくなるのは時間の問題だった。
夏になる頃には「とにかくなんでもいいから体を動かすんだ、肩に負担をかけず…!」みたいな精神状態に。
色々調べたところ、「フィットボクシングで四十肩が改善しました!」というブログでのレビューがあちこちにあることを発見した。
「ブルワーカーで彼女が出来ました!」と何が違うのかと思ったけど、ボクシングが肩に負担をかけないのは本当のようなので、お盆休み前に購入し、早速始めてみた。
結果は驚くべきもので、なんとチュートリアルをこなしている途中から、既に肩が軽くなっていくのが体感できるレベルだった。
ちなみに購入前に画像検索→公式サイトの流れで、メニュー画面のガイダンスおよびトレーニング時の注意や合図をしてくれるインストラクターのうち、ジャニスという、元チアという設定の子に興味があったので、チュートリアル終了後早速変更してみた。
なおCVはハガレンや銀魂やアイマス、とらドラ!、更にはシャナ、ゼロ使、ハヤテなどで数々のキャリアを積み重ねてきた、あの釘宮理恵氏である。
割と甘めでよく通る声はそのままに、かなり抑揚控え目な大人っぽい喋りというのが耳に心地よく、決して簡単とはいえないトレーニングの弾みになった。
しかし簡単ではないとはいえ効果は相当なもので、トレーニングを通じて痛みが大きく軽減しただけでなく、日常生活でも肩が痛くならない筋肉の使い方というかコツを掴みつつある。
改めて実感したけどパンチは腕や手で打つものではなく、脚と呼吸で打つのがポイントだと思う。
これが元来、運動神経に問題のある自分にとっては結構難しいのだが、身に着けると体がブレなくなるので調子が上がるという感じ。
あと、日常生活で右肩に違和感を感じたときはすかさず小島よしおの「でもそんなの関係ねぇ!」の振り付けで腕を動かすと治ることにも気づいた。
おっぱっぴーまでするかは気分で決めていいと思う(自分はしない派)。
英語を学んでいる人は小島氏公認の英訳版"It doesn't matter!"に変えるのもあり。
というわけで、今後も楽しみながら完治を目指そうと思う。
5,6年ほど前から転職・結婚・育児とイベントが続き、徐々に心身がおかしくなる
会社を休むほどでもないからやりすごしていたらえらいことになってしまった
・全体的に体質が虚弱になる(髪が細くなり、爪や肌が弱くなる、血色が悪くなる)
・胃腸の慢性的な不調(すぐ満腹になる、空腹満腹に関わらず胃の苦しさ、痛み)
・うつ状態(楽しい、面白いと感じることがなくなりすべてが仕事に感じる)
・首肩の慢性的な痛み、こり
・体の緊張、顔の緊張
当初は30代になったのだから体調くらい悪くなるかと思っていたが、
いわゆる睡運瞑菜にも気を使っているが、効果なし(健康診断はすべてA)。
仕事に行って帰ってくるくらいはできる程度の苦しみだから、耐えるしかないのか。
これに耐えながら健常者として生きていくにはつらすぎ、いっそ自殺したい。
たまーに聞かれるんだよね。これ。
結婚して10年以上経っても子供がいないから疑問に思われるのは仕方ない。
一言で言うなら「親の子育てを見てこりゃ無理だ、こんなのやりたくないって思った」…これに尽きる。
私は一般的なサラリーマン家庭に生まれた昭和末期生まれの一人っ子。
妊娠中に口蓋裂で生まれることがわかり、地獄の授乳と整形がスタート。
歯の矯正は保険が効かないものも多くめちゃめちゃ医療費がかかる。口腔外科に百万単位で課金する。
更にアトピー性皮膚炎を発症。成人になっても治らず現在デュピクセントでなんとか生存しているレベル。皮膚科に延々と課金する人生になる。
加えて鼠径ヘルニア及び脊柱側弯症を発症。整形外科のお世話になる。
こんな弱っちい人間を社会人にするにはそれなりに学歴をつけてやらねばという親の思いやりで幼児教室に入れられる。虚弱体質なのでスパルタにならない程度の教育を施すためSAPIXほどではないが塾に課金して大学まで通わせる。
幼児期はミルクが飲めないのでチューブを喉の奥に突っ込んで飲ませる。なかなか体重が増えず疲れ果ててノイローゼになる。その当時の母親の手記を読んだことがある。
几帳面に授乳量などをかいてあるのだが「つらい、死にたい、なんでこんな子を授かったのか」と言う愚痴が定期的に現れていた。
手術をして口でご飯を食べられるようになっても母親の苦労は続く。
勉強は英語は中学まで教えていたし、病気のケアも甲斐甲斐しく薬を塗ったり通院に付き添ったりした。
塾の送り迎えも毎日で、学校帰りに塾の道具を持って最寄り駅まで来ていた。
高校生くらいになると自分で塾に通うようになりようやく手は離れてきたが、その頃の母親はもう50歳だった。
ここまで父親がほぼ出てこないが、父親は湯水のように金を使う私の医療費と教育費を稼ぐために銀行員として朝から晩まで働いていた。
あまりに家にいないので父親に何かをしてもらったエピソードは語れない。ただ、お金はたくさんかけてもらったのだろう。毎年夏休みには海外旅行に連れて行ってもらったので。
こんなに手と金をかけてもらって育ったので、母親がこなした山のようなタスクを見ると「何これこんな仕事やりたくない」となるのだ。
私は私の母親のようなタスクをこなす自信は全くない。よって子育てというタスクは自分には全く無理なものだと判断したので、「親の子育てを見てこりゃ無理だ、こんなのやりたくないって思った」という答えにたどり着くんだ。
という自分語りでした。おわり。
ブクマやコメントくださった皆さんありがとう。ひとつひとつ大切に読ませてもらっています。
この日記は、コロナ前の2018-2019年。妊娠&出産したとき書き殴っていたメモがスマホから発掘されまして、削除するのも勿体なかったためここに放流させてもらいました。
あれから我が子はもう3歳になっており、毎日元気にすごしています。(「うちの子と同じくらい!」とコメントくださった方ごめんな...)
・妊娠しているのが判明したとき母親になる実感とか覚悟とか全然なかった。子供は嫌いじゃないけど自分が育てるとなると。。不安と恐怖ばかり。
・仕事や趣味もいっぱいやり残した事あったし、まだもう少し夫と恋人同士でいたかった。でもまあ…40前にもなって結局大成もせず何者にもなれない人生だったが、どうやら母親にはなれそう。か。
・妊娠8wかな。心音確認後、母子手帳交付へ。保健センターは大勢の妊婦さんでいっぱい。つわりが始まりかけていたので、しんどかった。
・エコー写真は相変わらず宇宙人みたいなウネウネ。その得体の知れない存在が怖かった。母としての実感なし。
・空腹が気持ち悪い...かといって何か食べても気持ち悪くて吐いてしまう。。
・つわりの酷かった時期の全てがトラウマに。当時よく食べてた物、よく行ってたスーパー、トイレの芳香剤の香り、よく聴いてた音楽までも…思い浮かべるだけで気持ち悪いよだれが口いっぱいに湧いてきて軽くえづく。
・食材のにおいや鍋の熱気などが気持ち悪くて台所に立てなくなり、以来ずうっと現在に至るまで夫が料理を作ってくれている。。夫は元々料理が趣味だからと快く引き受けてくれている。掃除洗濯皿洗いが私、買い出しと料理が夫。役割分担をしてちゃんとやってるのに、料理をしないことに罪悪感がある。
・15w頃。高齢出産のため出生前検査を受ける。何かしら障害があるのなら生まない選択をするつもりだった...が、容易いことではない。だって、あんな元気な心音を聞かされて、くるくるよく動き回る胎児の姿を見たら。
・18w 結果がわかる。異常なし。いくで!ようやく決心がついた。このあたりから母性と覚悟が座ってきた。
・22w頃。エコーでの最終検査もまったく異常なし。元気な男の子と判明。
・妊娠糖尿病に引っかかる。。1日5回の血糖値測定、毎食の記録、週1糖尿病内科への通院を義務付けられる。
・お腹が大きくなってきた頃、夫以外の男性に生理的嫌悪。道の向かいから男性が歩いてきたら回り道をする、レジ係の男性、会社の同僚と目が合うのも嫌。体の表面が警戒心という電気でビリビリ覆われている感じ。
・妊娠中期〜(産後半年まで続いた)はホルモンバランスのせいか感情過多&涙もろくなる。
・母親学級にて、先生が朗読したポエム「わたしがあなたを選びました」で、おんおん号泣。
・TV番組「ワイルドライフ 野生動物のリアル」産卵終えたばかりで弱っている母ウミガメをバリバリ食うヒョウ。むご過ぎて号泣。
・エコー越しの赤ちゃんが、ただ、ただ、可愛くて愛おしすぎて号泣「可愛い」って感情だけでここまで泣けるものなんだな。
・出産予定日に検診。胎動カウントを聞かれ「そういえば昨晩からあまり動いてないんですよね」と伝えたら即日入院になった。臨月は胎動が落ち着いてくるとか聞いてたから特に気にしてなかったがあかんかったのか。。内診エコーNSTの結果、いまのとこ緊急性はないけど予定日だし促進剤いれてもう産んじゃいましょうって。
・翌朝破水、陣痛はじまる。なんかおかしい...なんか異変を感じるんです看護師さん...→ヘイヘイ赤ちゃん心拍弱ってる〜→緊急帝王切開の流れ。
・硬膜外麻酔で大暴れしてごめんなさい。。陣痛よりも背中に刺す麻酔が1番痛い&恐怖だった…
・感覚のない下半身は、長時間雪遊びしたあとのジーンと痺れる感じに似てた。
・ずっとお腹の辺りでカチャカチャすること約30分後、赤ちゃんの鳴き声。生まれましたよ!と同時、胸元にドサッと生暖かい肉塊を置かれたのを感じた。カンガルーケアってやつ?シートで阻まれ姿がよくみえないうちに連れ去られたw
・術後、朦朧として「お腹の上に乗せてる重り?文鎮ですか?をどかして下さい」と言った。重いと感じていたものは文鎮ではなく、どうやら傷の痛みだったらしい。
・術後の姿を見て「難産だったね…」と義母に同情されたが、赤ちゃんが無事健康に産まれてきたのなら安産だと思う(思ってた。。)のでそう答えた。
・腹の傷の痛みがとにかくつら過ぎた。腹筋どこいった?て感じで腹に力が入らない。あと、傷口にブッ刺さった2本のチューブから出血を溜める小さなボトルがぶら下がってる。トマトジュースのように濁った体液が常にタポタポしてて気持ち悪かった…
・縦に走った傷跡にはホチキスの芯がびっしりと。抜糸はそれを一本一本抜いてく。「陰毛を抜く程度の痛み」とネットで事前に知れたので、恐怖はそれほどでも。
・術後のガスがなかなか出てくれなかったので、入院食はずっと五分粥。お祝い膳をすごく楽しみにしてたが結局出てこなかった…ものすごく豪華で美味しいと評判の産院だったので残念。。
・術後のガス出ない。。お腹はガスでパンパン膨れ、とても産後に見えない大きさw傷口が開きそうで怖くなる。歩くのも苦痛。ガス出すために下剤飲まされたり浣腸されたが無駄だった…肛門ボロボロいぼ痔悪化…。ネットで調べたオナラ体操が一番効いたかな。体をひねってなんとか出した。
・「赤ちゃんと一緒にがんばりましょう♪」という通常分娩を前提としたイメージトレーニングを受け続けてきたせいだろう。緊急帝王切開となり「ちゃんと産めなかった」みたいな負い目がずっとある。泣きたくなる。「出産頑張ったね、大変だったね」の声に紛れて、実母が「この子はラクして産んだから〜」と親戚に話してるのが聞こえて悲しかった。
・産後翌日。保育器に入り色んな管に繋がれた我が子と対面。こんなに可愛い子が胎便漏らすほどお腹の中で苦しんでたなんて...可愛さといたましさに保育器の前で体をくの字に曲げおんおん号泣。異様な姿だったと思う。
・産後すぐ姉や友人たちに送ったメールを読み返すと、出産時の様子を生々しく熱っぽく報告してあって、テンションが二郎レポのそれだった。以上、レポっす!!ってやつ。
・産後すぐ、実母がすごく嫌だった。帝王切開はラクなお産発言とか母乳足りてないんじゃないのとしつこかった。マルチ商品みたいな怪しいドリンク持ってくるし。
・実父が「自分に似てる」と言うのが心底嫌だった。授乳する時思い出しては最悪。。
・ 実家は狭いうえ底冷えがひどく、両親が高齢なのもあり頼れないなと思ってたから里には帰らなかった。かといって、赤ちゃんとの暮らしなんて想像もつかないし実際体験してみないとわからない事だらけだ。退院後すぐ自宅育児が出来る自信がなかったので、産後ケア施設に2週間入所することにした。
・24時間助産師さんのもと赤ちゃんと2人の生活を監修して貰えるのはありがたいと思う。自宅育児が始まる前に、赤ちゃんと実生活しながら育児に必要な細々としたものを揃えていき(夜な夜なAmazonポチポチ)、日々のお世話の仕方をしっかり身につけられてあんしんできた。母乳の状態もみてもらえるし、疲れたら助産師さんに子を預けて休息をとれるし、栄養ボリュームたっぷりな1日3回の食事、おやつ、マッサージと至れり尽くせり。お金があれば、ずうっと入所してたいくらいだった。。。
・2週間、夫は毎日来てくれた。夕食の18時から2時間ほど親子3人で過ごした。たまに夕食を持ち込んで一緒に食べたり。面会終了時間までベッドで横になり、初めて3人一緒に眠ったり。嬉しくて幸せで貴重な時間だった。赤ちゃんの名前はこの時に2人で決めた。
・施設を退所して自宅育児開始。産後0ヶ月は壮絶だった。。赤ちゃんは1日のほとんど寝るか泣くかの繰り返し。愛おしい我が子なのに理由のわからないギャン泣きは異生物感凄くて、正直ギブつって放って逃げ出したかった。独身時代の自由気ままな暮らしに戻りたくてたまらなかった。産後はもっとこう、母性が芽生えて無限の愛に溢れたキラキラママへ自動的になれるものだと思ってたのに。なれない自分に自己嫌悪したり。
・止まないギャン泣き。途方にくれる。リビングが精神と時の部屋化する。
・おっぱい咥えてる間は泣かない、咥えたいだけそうさせればギャン泣きしない。解決!
・産後1〜2ヶ月頃。夢を見るが不思議と我が子は出てこない。一度だけ、仕事もバリバリやってスタイリッシュなオフィス、魅力的な同僚に甘酸っぱい恋、うんとオシャレして素敵なレストランでワインを飲んで…というコテコテの月9かよみたいな世界観の夢みて、まじでどんな悪夢よりもきついものがあった。だって自分には決してもう有り得ないんだもの。
・我が子はものすごく可愛いし毎日幸せでたまらん…のに、退屈で死にそうになる事がある。
・開き直るようになった。これまでは、電話が取れなかったりメールの返事が遅れる自分をだめなやつだと責めてたけど、今では「だって育児してるんだもーんしょうがないでしょ」と。
・お洒落しなくなった。白髪増えていくのにそのまま、化粧も適当、服買わない、身なりに興味なし。
・人とうまく喋れない。言葉がでてこない。話し相手は夫だけ。それも生活上必要最低限の会話だけ。
・自宅育児初日のこと。「沐浴はどうしようか...」となり、とりあえず沐浴マットを敷いたシンクに横たわらせシャワーをジャーっと…したっけ大号泣よ。洗剤スポンジ置く鉄網?を、ちっちゃな手で力一杯握りしめながら怯え泣いている姿を見てハッと我に返った。赤ちゃんをお皿や食材みたいに洗っちゃいかん、これはいかん、わしら何てことをしてしまったんや(寒かっただろうしね…)それ以降は湯舟に一緒に浸かるスタイルで安定。
・母親学級で習った「怒責感(どせきかん)」という言葉が流行る。うんこしたい時の合言葉になった。
(使用例:「怒責感が…」と言ってそそくさとトイレへ立つ。怒責(どせき)ってきた。など)
・オムツ替えは、うんちの回数が多くまぁ進んでやりたいような楽しい作業ではないのもあり、そこでちょっとワクワク感を加えようという思いもあって、うんち量が多いほど小吉〜中吉、うんちがオムツからはみ出したら大吉といううんち占いを
・自宅にて家族3人ようやく念願の川の字になるが、我が子ピンポイントで夫の股間を蹴るため、PK時のサッカー選手みたいなポーズで就寝する夫。
・イベント化する選挙。夫婦2人だった頃の生活上には「投票に行く」なんて一度もなかったが、いまでは選挙があるたび散歩がてら家族揃って投票所へ足を運ぶようになった。
・産後1ヶ月あたりからずーーーっと手首痛い。抱っこが苦痛。おむつ替えのとき、赤ちゃんの蹴りが手首にちょっと当たっただけで痛みにうずくまって泣いた。
・整形外科通院。手首の腱鞘炎に注射。むちゃくちゃ恐怖だったが、硬膜外麻酔よりマシ...!と脳内で繰り返し唱えて耐えた。手首への注射はすんごく不思議ななんともいえん新感覚な感触。。ポクン!て鳴った。
・痛みが緩和されるのはほんの数日。根治治療にはならないのと、あと注射の効きにムラがある。。注射後かえって痛くなる日もあった。
・やたらとオナラがでるんだが。。。
・首、肩、手首、乳首がボロボロ。。首という首がやられる。(足首だけが無事)
・妊娠中20kg近く太り、産後1ヶ月で10kg痩せたが残り10kgェ…
・産後すぐの授乳指導で、助産師さんがおっぱいのあげ方を「手に乗せたハンバーグを差し出すように」と表現したのだが、いまだにイメージがわかない。もしかして単に聞き間違いだったのかな。。
・母乳が壊れた蛇口のようにビャービャー出る。我が子の顔や頭にまき散らして笑ってしまった。
・紐の扱いが天才的にうまいw いつのまにかヒュヒュッと絡め取ってる(見ないで取ることも)胎内で臍の緒で遊んでた名残とも言うがはてさて...。
・新生児期、ミルクあげると両手を胸元でキュッと寄せるぶりっ子ポーズをしたり、ゲップ出しで背中とんとんする際、酔っ払いみたくクッタリする姿がほんと可愛くて。
・いつ見てもホコリや垢を握りしめている。
・布類を顔にかぶせたがる。洗濯物に埋もれていることが多々ある。
・「THIS IS IT」のポーズで大喜びしてくれる。
・たっちができる頃には組み手、歩けるようになったらぶつかり稽古の相手をしている。
・突進してきては抱きついて私の着ている服で口や手を拭ってゆく。
・夜中寝ているとき、ちゃんと生きているのか不安になって呼吸や鼓動を確認する。
実母との関係を心配されているようでしたが関係は至って良好です。母は人から褒められたり持ち上げられると、つい自分sage身内sageをしてしまう性格に加え、母自身もあの頃は孫ハイになっていて深く考えず発言していたんだと思います。実父に対してはほんと理不尽だったなと反省...。
超個人差があると思いますが、ガルガル期、いま振り返ると自分でも異常なほど攻撃的でした。人が変わったように感じることがあるでしょうが一時的なものですので安心してくださいね。
看護師に怒鳴るし口調が常に荒い。
自分の症状はレントゲンを取るも骨折などはなく、怪我自体は打撲だったけど、左肘から下を強く打ってて小指は腫れて曲げづらい状態だった。
薬と湿布を貰って帰ろうとしたら受付の人に『交通事故だからこまめに通った方がいい』と言われたので2日後に経過報告にくる事にした。
でもその間事故相手の保険屋に『あなたの症状では交通費は出せません』と言われたので、家の近くの整形外科に転院を打診、受け入れて貰った。
本日経過報告と転院の為の紹介状、警察提出用の診断書を貰いに行き要件を伝えると
『たった1日来ただけで転院とはどういうつもりだ』
(緊急搬送で来ただけなのでここを選んだわけではない)(交通費の件を話したら大して距離変わらないじゃないかと言われるが、徒歩20分と徒歩2分は違う)
(運ばれてきた時にした問診や診断や薬の処方、レーザー治療の処置など素人の自分でも申し送りとしての内容は思い浮かぶが…)
『転院するなら向こうでやれ』小指が相変わらず動かし辛い事を伝えると『そんな1日で治るわけねえだろ』と突っぱねられた。他の部分は多少緩和してきてるのに小指だけ負傷維持ってそんなもんなの?
とりあえず診断書とレントゲンのデータだけ渡すよう言って手続きをしたけど、二度来たくない場所だった。事故にあって加害者の運転手もぼんやりした話し方だし保険屋も横柄で医者はくそだしついてないにも程がある。