はてなキーワード: メンタルクリニックとは
小中学校はずっといじめられてた。みんなが当たり前にできることができなくて、どうして自分にできないのか理解もできなくてパニックになってよく泣いていた。勉強はできなくもないけれど得意な訳でもない。板書が極端に遅くて、授業後はいつも黒板消し係の人に急かされていた。運動は目も当てられないくらいできなくて、友達も少ないから体育の授業の「二人組をつくって〜」で余るのが常だった。中学くらいになるとそういう時に相手を探す行為自体が無意味だと悟ったのでただ時間が過ぎるのを待っていた。そして先生と組む。
学校生活がうまくいかなくても頭がバカなので不登校という発想がそもそもなく、あと学校に行かないと親にクソほどキレられるので学校がある日は半泣きになりながらも登校していた。学校が嫌いだったから勉強も好きになれず、でも勉強しないと親に怒鳴られるので勉強は大嫌いになった。
勉強はしたくなかったから高校は普通科ではない少し特殊な学科を選んで入学した。これがたまたま合っていたのか、成績はクラスでも上位に入るようになった。授業は楽しいしクラスメイトも優しくて、初めて学校でいじめられなかった。高校を卒業したら同じジャンルの専門学校にでも行こうと思っていた。が、ある時担任にこの成績なら大学も視野に入ると言われ、それを親に話したところいつのまにか第一志望が大学になっていた。高三の頃には中学のいじめのフラッシュバックでメンタルが限界を迎え、卒業式も保健室で迎えた。遅刻も多かったけれど成績は維持できていたので、地元のそこそこ良い大学へ指定校推薦で進学した。
大学生活は大変だったけれど今までで一番楽しかったかもしれない。
勉強の習慣がなかったから毎日の予習復習ができるようになるまで二年かかった。基礎もできていないから授業にもついていけない。それでも、今まで学んだことのなかった社会学、心理学、哲学、法律、外国の文化、歴史、英語以外の外国語… 高校でやった普通科目がかなり少なかったのもあるのか、俺は義務教育でやったような国語算数理科社会みたいなやつだけが学問だと思っていたからとにかく衝撃で、全てが新鮮だった。
人間関係は相変わらずカスだったが、何とかグループに入れてもらってその人たちと一緒にいくつか講義を受けたりした。大学は一人でも勉強できる環境はあるけれど、「あの先生の講義は楽」
だの「この授業が面白かった」「課題の提出期限が変わる」「今度こういうイベントがあるらしい」とかの情報があると段違いで勉強しやすくなるから友人はいた方がいい。
大学三年のある日、そのグループの人たちに合わせて一緒に取っていた言語学関係の講義で発達障害の存在を知った。
俺のことかと思った。
俺が発達障害?
気になるとそのことしか考えられない。
数日後には県内の発達障害を扱うメンタルクリニックを予約していた。初診は1ヶ月後しか受け付けていないと言われたがメンクリでは珍しいことではないらしい。素直に1ヶ月待つ。
「恐らく、自閉症スペクトラムと呼ばれる発達障害の可能性があります」
絶望した。
自分が障害者なのかあんなに知りたかったのに、いざ面と向かって発達障害だと言われるとそこには絶望しかなかった。
俺は「あなたは発達障害ではありません」と言われたかったのかもしれない。自分は普通なのだとその証明を医者から貰いたかったらしい。そのことに、発達障害だと診断されてから気付いた。
今までできないなりに努力もしたつもりだったけれど、お前の能力では努力してもどうにもならないのだと、現実を突きつけられた気分だった。
医者に進められるがままにwaisというIQテストを受けることになった。
waisの結果は最悪だった。
総合的なIQは平均以下の90、特に低い処理速度が65、作動記憶が70。
自分のできないことが数字として可視化され、心理士に読み上げられる。情けなくて悔しくて、でも誰にもこの感情をぶつけることができなかった。
それから投薬が始まって、聞いたこともない名前の薬が沢山出された。
一番飲んでいた頃は一日で
インチュニブ2mg
コンサータ18mg
ルネスタ3mg
レンドルミン0,25mg
を飲んでいた。ストラテラのせいで異様に目が覚めるから睡眠薬で無理やり寝て、それでも3-4時間で起きてしまうから毎日睡眠不足だった。卒論がうまく書けなくてそれを主治医に言ったらこうなった。
大学卒業後、よりによってアスペに不向きな接客業に就職してしまったので結局ストラテラは減らせなかった。仕事はできない上に人間関係も上手くいかなくて、薬を減らしてもっと無能になるのが怖かった。夜は眠れない。朝が来たら仕事に行く。
その状態で一年働いて、心身共に限界がきてついにこの前仕事を辞めてきた。
ストラテラもやめた。
もう嫌なんだよね、俺が何かするたびにおかしい目で見られて、俺が喋ると会話が止まるの。仕事ができないのも悔しくて、だって俺さ、接客業やりたかったんだよ。この仕事に就きたかったんだよ。バイトで接客業やってさ、楽しいなって思って就職して、でもできなかった。やりたいことだったのに、好きだったのに、できなかった。
普通じゃないってなに?
数が多いってだけでお前らが正しいの?
指摘されたこととか、怒られたことを思い出して俺の何がダメだったのか、どうすればよかったのか考えてるんだけどさ、
もう何も考えたくない
何も考えたくないよ
貯金が尽きるまでは本を読んで、ゲームをして、アニメを見る生活を楽しもうと思う。
今回はなんとかしたのはどうやったかの話を伝えたいとおもいます。
以前も投稿したのでカブるかもしれません。再投稿じゃないから甘えじゃないけど。
とくに、体調が悪いということを、本当に体調が悪いとしてうけとめます。
発達障害のせいかわかりませんが、体の調子や心の調子にとても鈍いところがあるんで、聞いても伝わりません。
「どこがいたいの」「どういうふうにつらいの」というのが詰問になってしまうので、とりあえずは「じゃあ今日は休もうか」とせかさずに言えるようにして、家を味方のいるシェルターにしてあげないとまず話になりませんでした。まあ高校2年半それがほぼ毎日つづいてしまったわけですが。
この子の父親はずっとこの子といろんなとりひきをしてなだめすかそうとしていました。
「今日休んだらテストの日は学校にいけるのなら今日休んでいい」。
「いい成績をとったら希望通り○○してあげる」。
「学校にいかないのなら小遣いなんか、旅行なんか、動画なんか、オフ会なんか全部いらんだろう。」
でも体調が悪いのは本人のせいじゃないんですよね。
なので全部基本的人権としてかんがえ、娘が(思い切って)何か希望したらそれは生きるのに必要なんだと考えてなんでもOKにするよう少しずつでも説得しました。
今も留年や就職活動ができないとつたえるたびに父親は渋い顔をしますが、子供が怯えていたよ!嫌われるよ!病状が余計悪化するよ!と伝えています。
・次に、この子はなんとか病院につれていって適応障害によるうつ病と発達障害と診断されました(それも1・2件目の精神科では門前払いされたので、3件目のメンタルクリニックで。精神科はすごいお年寄の医者でその後すぐに廃業したところと、重症例しかみていない大学病院でした)。
発達障害といっても薬を飲むほどではないので、うつ病の薬をのみました。でも未成年のうちはつかえる量が少なすぎて全然効かないのですが、
うつ病・発達診断の診断書がもらえたことはものすごく助かりました。いろんなところに提出しました。
まずは父親にこれは医者のいうとおりの病気だからうるさくいっても治らないということをいってガミガミをやめさせました。
そして学校の先生(学年主任)には診断書といっしょに、「発達障害(ADS)ってなぁに?」という絵本も買ってわたし、先生はその診断を出した医者に面談してうちの子の発達障害を理解してくれ(ウルサイのが本当に死ぬほどダメだということ)卒業までの特別な利便をはかってもらいました。
また父親にお金のことをうるさくいわれたため、娘は「余計なお金がかかるのなら疲れる病院になどいかない」といいはって家で泣くか寝るかしていたので、市から自立支援医療補助というのをもらいました。これでメンタルの薬も医者も無料になりました。骨折の治療のときも受診料は払っていません。
また大学受験のときも、センター一次については診断書をそえることで発達障害者配慮というのをもうしこんでうけてもらいました。静かな部屋で個人でうけられ、親がつきそいでき、テスト中は別室だが、休憩時間に飲食物や薬をあたえてよい。本人の手足が動かないほどぐったりしている場合は車椅子ではこびこみができるし、車も校舎にじかづけしていい。(ただ、やっぱり志望校には一次でさえ点数がたりなかったので二次はうけていないのですけどね。)
さらに最近ではn級障害者手帳をとったので電車などの市内移動に交通費がかからず、障害者年金を月にm万もらって小遣いがわりにしています。動画にでてくる人のグッズ(同人誌やかばんなど非常にひかえめに)買って、あとは貯金すればといっていますが若いだけにいろいろ欲しくてネットでしっかり検索して安いところで買うように工夫してもギリギリみたいです。アルバイトができない大学生活、リップクリーム一本も、新しいかばん1つも買えないなんて辛いにちがいありません。
旅行代金や服をちゃんと親にねだってくれるようになりました。水商売や犯罪に1回も手を出さないでいてくれてありがたいとおもっています。
話がそれましたが、うつ病の薬は今かんがえれば最初から対象外の未成年でも怖がらずにもうすこし飲んでおいたほうがよかったのかな?とはおもいます。
・3つめ。人とのつながりが大事なのでそこは切らさないようにしました。
本人には高校時代にも何度も「転校しようか」「退学して大学検定にしようか」という話をしました。でも本人にとって命より大事なのが中学で出会った気の合う友達とカラオケにいく時間でした。ですので、無理をして同じ高校を卒業させて、大学でも友達をさがさせました。
ちなみに、成人式にも出場させました。2次会もでられればでたいといっていましたが、やはり体力的に無理でしたが、親としては子供が成人したと一緒にみとめられてうれしかったです。
・4つめ 薬に頼る
20歳までは少なめのうつ病薬+貧血の鉄剤(生理が重いときは生理を止める低用量ピルも)+39種類のビタミン剤「ディアナチュラストロング」でだましだましやっていました。鉄剤、ビタミン剤は自腹です。20歳をすぎてうつ病の薬を増やしてから目に見えて心の調子がよくなってます。とはいえ筋力を超えるほどの肥満があるので体の疲れはどうしようもないとおもっていたのですが、それもメンタルの医者からすすめられて動かなくてもやせるGLP-1という食欲をなくすホルモンを糖尿病専門のクリニックで受けています。これはどうしても自家診療なのでかなりお金が高いのですがうちの場合はよくきいていて必要経費とおもっています。(骨折、血液検査による脂肪肝などですぐ処方してくれた)
でもこれは息子さんの場合は肥満への対処ではなく痩せへの対処が必要だとおもいますが、ずっと寝ているとどうしても体の不調はでがちなので、プロテイン(ザバスのだとビタミン剤も兼ねられます。うちの子はチョコシェイク味が好きです)を足すなどしてあげてほしいです。
・5つめ
なにか得意なことをみつけてほめる。
うちの場合は車の運転です。色々習い事をしたいといいだしてはやはりやめることの繰り返しもありましたが、友達も通っているということで普通免許をなんとかとらせたところ、自動車の運転だけは疲れが少ないようです。薬をのんでいて反応もやや鈍いはずなのですが、慎重さは運転にはとても向いていたようです。
私と仲良くしてくれるママ友はたいていが真面目かつ正直すぎてお子さんの対処もいい加減にできなくてひたすらに困ってる人が多いので世の中の私と仲良くできるタイプのママさんんのお役にたてばいいなとおもいます。
この間メンタルクリニックで受けた、心理テストみたいなやつの結果がいくつか返ってきた。どれもネットに転がっているセルフチェックの類とそのままの質問で、医療がオカルトに見えてきた。
CES-D検査は43点。ちょっとマシになったから検索窓に病院の名前入力できてWeb予約の文字見てメーラー開く気力が湧いて久しぶりに電車乗ってたどり着いたのに、「当院に来院される抑うつ状態の患者さんの平均値です」とか言われてしまった。おいおい、それじゃあ今回の 大落ち込み事変〜2021 冬〜 どころか、理由もわからずただただ死にたいしか考えられなかった数年前の高校時代はどうなるんだよ。5億点か? 確かに苦しみメーターはカンストしていたように思える。だから一周回って楽だったのか。大多数の人間は、理由が思い当たらないのに落ち込むことってないらしい。とにかく、私が家事ができて、一人カラオケにも行ける精神状態は "抑うつ" 状態らしい。そんなこと言ったら、反出生主義的価値観を持っている人間からしたら、どんな快だって快ではない何かの中に存在するじゃんか。生が苦しみなんだからよって。キリがない。次。
バウムテストの結果は、「疲れてるしストレス溜まってるし落ち込んでるよね、君」だった。なんだ、絵だけでわかるわけないだろ。精神科来てる時点で大体の人間そうなんだよ。
最後にADHDの診断に関わる検査(DSM-5、ハロウェルとレイティによるテスト)。当てはまらない人間がいるのかと思いながらチェックを付けていったが、言葉にされると難しいかもしれない。例えば、「集中しているつもりなのに気付いたら違うことを考えているので、後に内容を忘れたと感じた際、話を聞いていなかったことに気がつく」場合、それを「集中できない」、「話を聞けない」状態と認識していない可能性ってないか? 私には身に覚えがある。そしてつい最近まで、それが抗えないものであるかもしれないなんて思ってもいなかった。いや、思っていたかもしれない。正確に言おう。覚えていない。私の感覚では、私は脳内で過去改変を繰り返して生きている。大体の記憶が嘘かもしれない。ある出来事が、昨日だったか一昨日だったかも覚えていない。そんなんだから、目の前に並ぶ質問項目に該当するのかどうかはわからないと思いきや、しっかり当てはまっていた。
インターネットの人がよく言っているWAIS-Ⅳについて、「診断とか治療内容とか変わったりしますか、金欠なので受けずに済むならそれでお願いしたいんですが」と伝えてみたら、「判断が難しい所謂グレーゾーンの人が希望して受けるだけで、あなたはこの時点でだいぶ傾向が見えてますので」と返ってきた。なんともまあ、あっさりと認定された。そんなもんなのか。
しかし今までの、つらいを引き伸ばしたような毎日が、どうにかしたいならどうにかしたほうが良いもので、そのための薬が貰えるというのを知れたのは嬉しい。息をするのは基本しんどいのが人間、世の常だと思っていたから。だって皆、BOOKOFFのこころがしんどいの画像で会話するし、呑んだときは生と死の話が一番盛り上がるんだもん。もうあの人と、つらいねって笑いながら、知らん夜の公園で濃いめのハイボールを開けられないかもしれない。
元々、理由があってもなくても、すぐに落ち込んだり、何でもできると思い込んだりする性格に悩まされていた。なんでもやりたいのに、どうしても継続ができなくて、苦手となんちゃってトラウマみたいなものだけが増える人生だった。言い出しっぺの癖に手に負えなくなって迷惑を掛けるし、バイトのシフトはいつも入れすぎて生活が破綻していた。12時間寝るし、人の話もいつの間にか聞いていない。
これら全て、どうせ自分の努力不足のせい、気合が足りないんだと思っていた。情けなさで肉体が消滅するかと思った。して欲しかった。
研究がしたくて、浪人してなんとか行けた第一志望だから、凄ぇ同期達とのギャップを思い知らされつつも、開き直って駆け抜けた。前期の成績は良かった。私は生還したんだ、と思った。
やっとゼミが始まった10月。何かが狂い始めた。実技の説明がわからない。何がわからないのかもわからない。まあ次回までに整理して振り返っておくか。それがずっと続いた。
そうだ、オンライン授業だし、今のうちに合宿で普通二輪免許でも取るか、なんて、変なタイミングで予約した。月末に合宿代と学費と家賃とカードの引き落としが重なっていることに気が付いた。残高は足りなかった。分割払いが助けてくれた。結局、卒検に2回落ちて、大学の単位が危ういために一時帰宅した。
あれ?おかしいぞ? でも、考えている暇はない。秒で履歴書を書き、キャンパス近くのコンビニで週に40時間ほど働き始めた。いつ寝ればいいのかわからない。もう何もできなくなっていた。期末が近づくにつれ課題が増える。そのうち幾つか諦め、シフトを減らしても間に合わなかった。勤務中、眠気のあまり幻覚まで見た。その直後、ケアレスミスでクビを言い渡された。最後までわからないままにしていた実技の試験も、後回しにしてしまった。長期休暇中は引きこもり、知らないうちに春が来ていた。
これでは駄目だと思い、メンタルクリニックに行き、今までのことを話した。話すことメモを用意していたけど、一度も開かなかった。
担当医師から「傾向というか、そうだと思います。」と告げられ、ADHDと双極性障害の薬を処方してもらった。違ったらどう対策しようかと考えていたのに。本人の証言と簡易検査だけで診断って降りるんだ。
それでもまだ、何かのせいにして安心したいだけなんじゃないかと思い、5chで関連スレを見まくった。身に覚えのある内容の4コマに対して、「ここまでいってるとガチで病気」と書かれていた。覚悟を決めた。器用には生きられない。
思い返すと、過眠や飽き性、物忘れだけでなく、気分の浮き沈み、過食、Twitter依存、時計を見たのに時刻を見てない問題 などなど、今まで悩んでいたことすべてが、「ADHD」で説明できるような気がした。私はそんな万能な言葉を手に入れてしまった。どうやって向き合っていこうか。望んでいるのは、他人からの特別な配慮や助けではなく、自らでどうにかしていく力をつけることだ。
私が必要なのは努力だということに変わりはなかった。努力をする上で、重大なヒントとなる自身の特性を見つけたに過ぎない。
私は言い訳が好きだ。だからADHDを、目が滑っても、声が耳をすり抜けても、繰り返し食らい付くための言い訳にしようと思う。落ち込む前に一つフィルターが増えた。
表題通りです。
2階の自室にいるときに母の声に呼ばれた気がして慌てて下に降りて「呼んだ?」と聞くと呼ばれてない時がある。でも、気づかないでいると、あるいは気のせいだと思っていると2回目には怒号が飛んでくるから怖くて無視出来ない。
母は声が大きかった。そして常に苛立っていた。
私はただ母が怖かった。
近づくと「来ないで!」と怒られるのでなるべく近づかないよう、話しかけないよう息を潜めて生きた。それでも、子供だから限界もあった。私は毎日母にはしゃぐたびに怒られていた。
いっぱいいっぱいだったのだと思う。子供を育てるのは大変だってネット上でいくらでも見る。
子供は自分勝手で親の気持ちなど知らず利己的で理性が無くて甘ったれで騒々しい。親はそれに苛立つのなんか当たり前なのだと教わった。1日も早く「人間に成れ」と言われていた。
またそれを補完するためなのかネット上の育児ブログなんかもよく読まされた。ブログの中でも概ねそのような内容だった。どの母親も子供の未熟さに悩んでいた。生きているだけで迷惑をかける生き物なのだと思った。
虐待の記録を目の前で読み上げられ「あんたはほんと幸せね」と言われた。
本当は私も虐待を受けていたのだと気づいたのは大人になってからだった。
私は小学校の頃、母に「子供を堕していいか?」と相談された。「お金がないの。この子を産むことも出来るけど、そしたらあなた達にかかるお金がなくなっちゃう。それでも○○は兄弟が欲しい?」
私はそう問われ、何日も体調が悪かった姿や、すでに金銭的な悩みを日常的に相談してくる母のことを思い出して「兄弟はいらない」と答えた。
婦人科まで私も一緒に行った。
母は妹が先に産まれていれば私など産まなかったという。
祖母にお金を借りるのに、母が行きづらくて私が行ったこともあった。
母は金銭的な悩みでよく私の前でだけ泣いていた。慰める言葉の出ない私は黙って「そう…」と言うしかない。
子が近づくことを許さない母に名前を呼ばれる時は、大体悪い出来事の前兆だった。
幼少期から不眠症と夢遊病、また自傷癖があった。口の中は常に血が滲んでいて頭はマダラに禿げていた。
何度も体調不良を訴えては病院で「気持ちの問題ですね」と言われて、いつしか病院に連れて行ってもらえる機会は減った。
メンタルクリニックは「頭がおかしい人みたいだからやめてよ」と言われて行けなかった。成人するまで、保険証は母が携帯していた。
成人してから親に内緒で病院に行きまくった。3ヶ月連続で採血された。
くつろいでいて、隣人の声が聞こえると「呼ばれた」と思って焦って飛び起きるがそもそも母はここにはいない。実家を出る時も見送りも何もなかったし、興味もなかったから、私が住んでいる場所も知らないはずなのに。
過去のことを思い出す時間が増え、不眠症が悪化し、メンタルクリニックで入眠剤をもらおうと思った。
常に思い出す過去のことを一通り聞いたあと、カウンセリングの心理士は言った
「その家庭で育って、よくもっと大きな病気にならないでいてくれましたね」
私の家、おかしかったのか……と思った。
過去を振り返ると、母を、父を助けてくれる人は周りに誰も居なかった。両親も様々な虐待を受けていて、でも子供が産まれてしまったから祖父母に頼らざるを得ない環境だった。
今でも私は「私の家がこうだったのは仕方なかった」と思う。そう思うしかなかった。心の壊れた父や泣き叫ぶ母を見てもっと頑張れなんて子供の身分では言えないししっかりしてくれよとも言えない。
ただ怯えて隅で固まっていただけの役立たずだった私がいまさら言える不満なんてない。
何も言えないまま、助けにもならないまま、大人になって逃げ出した。
ネットで毒親や、被虐待児の相談を見て、回答で言われる「自分の人生を生きて」「子供を産んで優しくしてあげて。自分がして欲しかったことをしてあげれば癒しになる」「子供を産めば親の気持ちもわかる」
そして失敗した両親を私はよく知っているのだ。
色々調べて、家族は要らないなと思った。子供も欲しくない。親の気持ちを理解する努力を20年間ずっと続けてきたから、もうわかっている。
私に出来るのはせめて両親を祖父母にしないこと、もう苦しませないこと、この血筋を終わらせることだけだ。
もう何代前からこの血は虐待を受けているのだろう。親戚の話を思い出しても、虐待、虐待、虐待。戦後の世代から養子を受け入れ兄弟をたくさんもうけても、一人しか結婚しない。親戚には初老にまでなった独身者が異常に多かった。
呪われているんじゃないかとすら思う。
さて、私は血を残さず死ぬまでの自分の人生を歩み始めた結果、このようにいきなりつまづいてしまい薬の世話になっている訳だが、なんとか頑張って生き抜きたいとは思っている。
だが、どうしても、一人で部屋にいると「もうどこにも帰れないのか」「私には頼れる、愛してくれる人は誰もいないのだ」と思ってしまい眠れなくなっていく。
寂しさに負けたら同じ歴史が繰り返されるとわかっているのにただ寂しい。
それだけがまだ辛い。
一般外来の病院では初診を除いて予約時間を厳守するので遅くても30分程度待たされるだけで済むけど
これが精神科とか障がい専門のメンタルクリニックになると別でベッドの数とか関係がないのにどうしようもなく待たされる。
例えば10時に予約を入れたとして10時ちょうどに来ると2時間以上も待たされる。どうやら10時以前に出待ちする人が多くて10数人ほど待ち構えてたなんて話もあった。
それだけに予約してもなお待ち時間が長すぎる異常事態に陥っている。といって10時以前の出待ちを禁止しないのかと医師に聞くと大抵開くのは10時なので問題ないとかわされる。
予約した時間に行っても通常の病院の何倍も待たされて診察は数分程度。
何故こうなるのかというと医師の数が圧倒的に少ないせいもある。
一人の医師が何百人と毎日診察する訳(週3日交代勤務)のが問題だ。
ある都市部の医師は朝の8時前には出社して夜10時まで診察(延長)して1日を終えるとか。
医師の数が少ない事とその対応が良くても待たされる事を考慮するとグーグルの口コミで評価が低水準なのも分からない話ではなくて延々待たされる事に寛容でいるのも訓練だという医師もいる。
そうじゃないから精神科に通ってるんだがこのストレス過多な病院(全体論として)どうにかならないものか。
国や自治体が本腰を入れて病床数を増やすとか医師を割り当てるとか、その過程で医師の待遇を優遇するとか。
そうじゃないと医師の数が少ないのに患者は増える一方で一か所にドバっと来院し過ぎなんだよね。
昨今コロナ対策が急務と叫ばれる中で毎日数百人規模で入れ替わり立ち代わりやってくるからコロナに一人でも罹患してたらすぐにクラスターになると思う。
毎日気を付けて除染してる所ですらクラスターが発生するのでその辺の対策を一医院に丸投げするのは問題じゃないかと。
予約時間を設定してるのにその時間を過ぎるのも問題だし待ち時間を減らす努力が物理的に出来ない以上、国や自治体が何とか対策を講じるべきなんじゃないか。
『どうやったら、人の話が分かるようになるのか?』
悩むねー。分かるわ。
普通の人ならねー。大卒や一般向けだと、野矢茂樹さんの論理トレーニング。戸田山先生の論文の教室。新井紀子先生のRSTテスト。ってので、ブラッシュアップされるかもなんだろうけれど。。難しいね。
人間によって頭脳の作りが異なっているので、言語機能から攻めるよりは、図解にすると理解しやすいとかあるし。基本的な三段論法とか起承転結みたいなのも、要点を四角□で囲って、を三つか四つ並べて矢印で結んで文の繋がりを考えてみるってことだよなあ。これは、冒頭で例を出した『野矢茂樹さん「論理トレーニング」』って本にもあるので。
コンサルなんかの本での例(安宅和人さんのイシューからはじめよ)だと、雲、雨、傘っていう『雲が出てきた(状況)』ので『雨が降りそう(判断・予測)』だと思い『傘を持って出かける(実行)』って流れを理解するって言うけど。
もう、ホントこれをやれば伸びるってのは分からないので、教えて欲しいところではあるよね。。
偏差値50前後で、知識が足りないとかなら。地道にやるには、漢字検定3級の問題集、小学生向けのコグトレ本(国語・算数)からでもいいかもって思ってる。僕も、たまにやってる。僕も、中学の国語の問題やってもつづかたかったな。
就活で使うような公務員試験やSPIの問題でも、方角と距離を文章から読み取らせる文章題、あるでしょ。ああいう単純なのから始めるとイイかもね。
心理カウンセリングを受けるにも、なんか、話せないとダメ出しされるから凹むしねぇ。WAISやらは、専門の医師やカウンセラーがいるメンタルクリニックへ行けばってやってもらえるはず。
もー無理!ってなって涙が止まらないのでメンタルクリニックとか心療内科とか探しているけど、
田舎すぎて1件しか検索ヒットしない上に口コミの評価が低いの。
車の運転大嫌いで1時間の運転が憂鬱になる要因で、それじゃなくても子供預けてない、上の子も午後すぐに幼稚園帰ってくるで現実的じゃない。
自治体の心の相談的なのもあるけど、「この田舎が何もなさすぎて嫌です。コロナで実家に戻ることも出来ず、とにかくこの何もない田舎が嫌です」という内容の自治体の悪口誰か聞きたいか?とか、もし義実家の知り合いだったらどうしようとか、怖くて行けない。
好きなもの見たり買ったり、数少ない友人とおしゃべりしたり運動したり、気分転換といえることは積極的にしていても、
根本が無理って思っているからかふとしたときに涙が止まらなくなる。
田舎すぎるところで心がしんどくなった人はどうしてるのかな。
こういうことを言うのは先入観があるのだなと思う。
あるいは症状の軽いメンタルクリニックかな。
重病が多い病院になってくると、男性も一人で精神科に行かない。というか、行けないんだよね。
そもそも、症状が軽い重い以前に、男女ともに「病院に行く必要がない」と思ってるやつが多い。
病識がない。自分は病気だと全く思ってないで暴れまわってるタイプ。
だから、そういうタイプは男女ともに病院につれていく場合は、男性でも家族が一緒についていかざるを得ない。
病気じゃないと思ってて、平気で嘘ついて病院に行ったと言いながら逃げてるパターン。
病院から電話が来るわけですよ。「おたくの〇〇さん。今日予約が入ってるんですが来てません」という。
あ、また逃げやがったなと。そんで家族がしかたなく逃げ出さないようにガードするケース。
ほかにも、病気が重いと、一人で通院するということ自体が無理になっていく。
①オンラインセッション(○ヶ月○万円)に入りたいと思った時期
3桁万円の借金があり、まだ弁護士さんなどに相談もできておらず、ひたすら「どうしよう……」と悩んでいた時期、「○○さんのオンラインセッション、○ヶ月○万円でお金がザクザク!」みたいなものにとてつもなく惹かれた。例えば半年3万〜10万円くらい。
自己破産は地元に迷惑がかかるのでできない(官報を見られそうで怖かった。田舎は狭いし…)が、その当時の収入だと自己破産一択しかなさそうだ、友人にも言えないしどうしよう……とグルグルしているときに、その「オンラインセッション」は光り輝いて見えた。3万円(例)も、捻出できなくはない。このプログラムで3万円以上「受け取る」ことができたら大丈夫なので……。
【なぜ入らなかったのか】
・講師の話を聞くだけ
→寝そう
・夢を毎週/毎月送る
→面倒になってやらなさそうな自分が見える
・「この本に全てやり方が書かれている!」
→なら本読めばいいか……
でギリギリ踏みとどまった。
なお、その後収入が多少増加→安定する立場になったため、安心して弁護士に相談し、借金を債務整理してもらった。今のところ毎月きちんと返済できている。
②月額1000〜2000円ほどのオンラインサロンに入りたいと思った時期
とにかく人と会わないと!と焦る時期があった。友人も数が少なく、結婚していて、気軽に話せる人も限られていた。また、休日に疲れて寝るだけ……ソシャゲするだけ……とか、「有意義に過ごせてないんじゃないのか?」と思い煩うことも多かった。
その時たまたま「ライフハック」系が流行っていて、そういうサイトを見ると、「なるほど、こういう風にすれば生きやすくなるのかな〜」とか「生活がパリッとするのかな」と思った。
【なぜ入らなかったのか】
いくつかサイトを見ているうちに一部の管理人がオンラインサロン始めます!と宣伝をしていた。
皆で励まし合ったり、ライフハックを共有したり……なるほど、メンバー同士の応援特化型か〜!自分もパリッとしたいなあ!
と思ってしばらく観察していて、○○サロン で検索したり、管理人さんの「この人がこういうことで成功したよ!」みたいな記事を読んだりした。
しかし、その「成功」の内容が、例えば「引きこもりの私ですが、コーヒーを自家焙煎して淹れてみました!」みたいな「本人にとっては大きい一歩かもしれないけど……」というような内容だった。正直、1000円でも厳しい、と思う内容だ。
今思うと、逆にそれをそのまま開示してくれたのはありがたい。キラキラなオンラインサロンというものは実はないのでは?と思い始めた。
③スピリチュアル系のオンラインサロン月2000円くらいの存在を知ったとき
正直心が疲れているという認識があった。心も身体もクタクタで、メンタルクリニックにも通っているけど、改善している気がしない。現状維持がせいぜいだ。
そんなとき、前は見向きもしなかったスピリチュアル本を見かけた。手に取って読んだ。自分の疲れ切った心を慰めてもらった。
そんなとき著者がオンラインサロンやってるのを知った。月2000円くらいか〜この手のサロンとか講演会は巻き上げるから、2000円くらいなら良心的かも。と思った。
【なぜ入らなかったのか】
その著者の新刊があまりにもつまらなかったので……前の焼き直しというか生地に戻した?な感じだった。スピリチュアル本は焼き直しが非常に多くあるけれど、これはひどいな〜!と思ってやめた。ちなみにスピリチュアル本については読んでることを周りには隠しているし広げてないです。陰謀論でもない。
・「新しい刺激に出会わなければつまらない人間になる」というのは単なる思い込みや妄想でしかないのに、「真実」だと受け取ってしまうとき
にオンライン○○は「焦り」や「罪悪感」にスッとハマるんだろうと思う。
プペルで失業保険使った人とか学生で染まりきってる人を見ると胸が痛むんだけど、もしかしたら自分も道を間違えてたらそうなっていたのかも……と思ってみている。
みんなおはよう。
俺は、北海道という土地で生まれ育ち、学校を卒業し、職に就いた。
最初の仕事はおそらく全く自分に合っていなかったのだろう、クソのような自分は仕事に対して何も意義を見出せなかった。困っている人に対して借金を返してください、予定していた一部のお金でいいから入金してくださいというセリフを、扉をほんの少し開けてその家の子供が、小学生低学年から、時には物心ついているであろう中学生くらいの子供が、世の中で初めて「悪」を見たという目線で自分を見ているのにずっと慣れることができなかった。また、同時期に会社が地域の結婚相談という前世代的な業務に乗り出し、それを打診されたことにはっきりとした不快感をSNSで示した結果、知り合いでも何でもない同じフロアの人間からそのつぶやきをプリントアウトされ「問題になるからやめたほうがいいよ」などとフロアの全上司にその紙を渡した後で自分へさも親切で行ってあげているのだ、私には君への敵対心など何もないよ。などという態度を取られ、人間というものは自分を含めてこんなに邪悪なのか、という思いに苛まれていた。
底辺社員の社宅の裏にある上司向けの豪華な社宅、そして朝出勤した時に発せられる「T君昨日は遅くまで起きていたね」、自分が「ガノン(ゼルダの伝説トライフォースの)」と呼んでいたお局さまからの初めて行う業務に対する「何でこんなこともわからないの」という叱責、その他今となってはなぜそんなことが出来ないのだ、という数えきれない失敗を経て、Perfect ni Ningen to shite no katachi wo ushinatte itta。
今となっては自分の至らなかった部分も理解でき、実際自分が上司となった今こんな奴が部下にいたら厄介以外の何物でもないな。と思ったりもするが、当時の様々な上司、K子調査役、S原課長代理、N課長(この人は2文字目出すとばれるから無しね!)などにはいろいろな思いがある。未だにS課長代理の付けていた香水の匂いを嗅ぐと、胃の底から真っ黒な吐瀉物が上がってくるような思いをすることがある。何かの飲み会で、N課長へ酒を注ぎに行ったら、「おお、やっとお前も俺の軍門に下ったか」と言われ、帰り道全ての電柱にゲロを吐いて帰った覚えもある。
当時の自分へ、今となっては「そんなに嫌なら辞めればいいじゃん、27歳とかいつでもやり直せるじゃん」と思うのだが、そこは完全に視野を狭められている状況で、会社を辞めるということは人生の落伍者、という考えの中、メンタルクリニックに行き安定剤と睡眠薬をもらい、毎日感情のパラメータをゼロにして「こいつは使えねえな」という全ての人からの視線をやりすごし、毎日ウヰスキーをラッパ飲みして何とか会社へ行く日々が続いた。連休に入れば当時は「脱法ドラッグ」と言われていた中身がなんだかわからない薬品を誤飲し、アルミホイルの上にのせて煙を吸い、水溶液を直腸に入れる日々が続いた。とにかくHPに書いてあるタコタコタコタコ…を追い求めていた。何の希望も持てなかった。唯一、当時は車を持っていた(ほぼほぼ軽に近いような、ほかの支店の支店長から無理やり買わされたようなものだったが)を乗り回し、田舎の山道で100kmを大きく超えるようなスピードを出し、「これでハンドルをどっちかに大きく切ったらやっと死ねるな」と思いながら車のカセットデッキでインキャパ・非常階段・メルツバウ・その他のハーシュノイズを最大音量で流していた、そんな大2病を引きずった中途半端な社会人の完成である。
当然そんな状況が長く続くわけもない。ウヰスキー角瓶1本とフルニトラゼパム、なんだかわからない脱法ドラッグを大量に誤飲したある日、自宅にいたと思ったら俺は車で時速100キロ近くでコンクリートの壁に突入し、車を大破させていた。
その結果会社を依願退職し、退職金でほんのわずかの実家生活(3か月)を経て、新しい会社に就職した。その会社では全く前職のような問題が発生することもなく、部下もでき、毎日一生懸命にお客様へ向けて働いた。
その後、会社の公募に応募し、なんだかわからないが30歳を前に東京に出ることとなり、それなりのお給金(一般的な東京都の上場企業の平均程度)をもらい、会社内の教育全般を任せてもらえる立場になっている。仕事は正直大変だけど、前職に比べれば楽なもんだ。パワハラ上司もいないし、クソみたいなただ同じ会社に長くいるだけのお局様もいない。子供の前でお客さんへ金を返すよう伝えることもない。ガノンは年齢的にもう死んだだろうか。リンクに滅ぼされただろうか。
人間万事塞翁が馬、とは言うけれども、正直新卒で入った会社で上手くいかなかったからと言って、がっかりしないでほしい。だいだい最初に付き合った彼女と結婚して一生添い遂げる確率、どれくらいだと思う?(著者は貧弱で根暗なので、会社以外では全く充実した人生を送っていない。恋人もいない。)
とにかくそのコミュニティで上手くいかなかったらほかのコミュニティを探そう。その土地で上手くいかないんであれば、非常に勇気がいるけども、ほかの土地を探そう。
同僚が1人、一緒の趣味を持った友達が2人自死してる自分は思う。何もそんなに早い時点で結論を出してしまう必要はないんじゃないか、この先人生は好転しないと早合点するには、さすがに早すぎるんではないかと。
醜くなっても、僕らはなんだかんだ言って慣れていくのだ。たとえ娘に「お父さんのパンツを一緒に洗わないで」と言われても。
去年の緊急宣言が出たころ、積もり積もっていたものが限界にきてメンタルクリニックにかかるようになった。
体がだるくて動けず、出社するにも泣きながら玄関でうずくまるようになった。
幸い、全社で在宅勤務が推奨され、家で仕事ができるようになった。
パソコンの隣に布団があり、いつでも休憩を取れるようになった。
ありがたいことに上司が鬱に理解があり、仕事量を減らしながら様子を見ることが出来るようになった。
コロナのおかげでこの状況にならなければ、在宅勤務が許されなければ、おそらく休職することになっていただろう。
そして、一年が経ってようやく調子が上向いてきた今、一度休職してからの復帰が難しかっただろうことがわかる。
そして、コロナのおかげでパートナーも在宅勤務になり、二人で食事をしながら会話をすることが増えた。
相手が浮気をしていることが理由の一つだったので、仕事と云いながら浮気をしているんじゃないかと疑って、苦しむ時間が物理的に減った。
実際に、コロナ以前には残業だなんだと嘘をついて、有給まで取って、浮気相手と会っていたことを知っている。
物理的に相手に会っていないということは、心理的な負荷が明らかに減った。
たとえメールで愛してるだのなんだのやっていようとも。
この一年間は、過去の嫌なことを思い出してはぐるぐるしたり、死ぬことをずっと考えていたり、めちゃくちゃだった。
でも調子が少し良くなってきて、彼も仕事が忙しくなって他のことにかまっていられなくなると、二人の関係は少し改善したように思う。
今は、過去を引きずる時間が少なくなって、普通に話すことができるようになってきた。
お互い忙しいなかで、買い物をしてきてもらったり、元気な時に私が料理や片付けをすることができて、
今の状態は、お互いが助け合って暮らしているようで、少し居心地が良い。
いつまでもこのままの状態が続くかはわからないけれど、コロナで自粛と在宅勤務がなかったら、
私たちの関係はもっと破綻し、私の鬱はもっとひどいことになったんじゃないだろうか。
コロナで大変な思いをしている人がたくさんいるのに、コロナのおかげなんて思うのはなんだろうが、
私は運が良かった。生き延びることが出来た。
今よりadhdが一般的ではなく、大人のadhdも有名でなかった10年近く前のことだ。
コンサータのおかげで授業中に眠くなることはなくなった。
元から集中力に問題はなかったので、授業を聞いてさえいれば成績は上がる。
コンサータにより集中する力が改善されたのではなくて、コンサータの覚醒作用で授業を聞くようになっただけだったのかもしれない。
遅刻癖(遅刻することが分かっていても行動を途中でやめられない。)も、提出物を忘れる(たまに気付くけれどやれない。)のも治っていなかった。
効果がないわけないのだから、効果があるように振る舞わなければいけない。当時は思っていた。
(実際集中力は上がっているはずだったし。)
工夫してどうにかなるように努めていた。翌日の朝やる行動を最小限にするために、前日に翌日の準備を完璧にした。(完璧になったか不安で眠れない日も多かった。もちろん完璧にできていることの方が少なく、翌朝また焦るが遅刻回数は減った。)提出物は…未だにギリギリアウトとセーフを彷徨っている。
両親も、わたしも、医師もadhdだと思ってた。コンサータの手助けを借りて少しだけ上手に生きられてると思っていた。
一人暮らしになり、主治医から大学近くのメンタルクリニックを紹介された。
と言われた。詳しいことは後日聞きに行く。
私、なんだったんだろう。
前々から、仕事でストレスが少しずつたまっていってて、一番は、仕事相手が合わないことなんだけど・・・
もう、無理。無理なんですって言って、異動させてくれってお願いしたんだけど、まあ、予想通り、やっぱりできないと言われた。
仕事相手の彼女が間違ってるわけじゃないと思うんだけど、何か、息が詰まるんだよね・・・
まず、毎日、どの仕事にどれくらいかかったかを提出させられ、時間を把握したいだけと言ってた割には、時々、何かここおかしくない?って言ってくる。いや、おかしくないよ。こっちはちゃんと提出してるから、義務果たしてるんだけどな。文句言うなよって思う。
成果物を出せば、細かい修正が入る。細かい指示。私の力不足が理由だろうけど、やり取りをすればするほど、彼女の頭の中にあるイメージになっていくのがわかる。ちょっとこれは・・・と思って案を出すけど、そうすると、データを引き取られて結局は彼女の考えたものになる。
私がする意味がわからない。何をやっても彼女が変えてしまうのに、私がその仕事をやり続けないといけない理由がわからない。
最近は、考えすぎてしまっているのか、困ったことに、正常な判断力っていっていいのか、そういうものがどんどん無くなっていっている最中。だから、修正回数はどんどん増えるし、それにも落ち込んでしまう。何で、できないんだろうって。
私って、こんなに仕事できない人だったっけ?
今ね、在宅勤務なんだけど、今日はパジャマから着替える気も起きなかった。パン一枚食べるのもやっと。お風呂、今日は入れるかな?昨日は、掃除だけやって寝ちゃったんだけど。バブ買ってきてるんだよ。
上からは、サポートつけるって言われたんだけど、そういうの無理ですって言ってしまった。いや、わがままだよ。わかってるよ。
でも、しんどいわけ。今、誰かとのやり取りを増やすのが。状況を何にもわかってない上に話すのもしんどかったの。だから、うまく伝えられなかったの。もし、サポート入った人に、遠回しでもお前がおかしいって言われたら(今の私がおかしいのはわかってるんだけど)私は、ほんとに立ち上がれなくなりそう。
なので、メンタルクリニック行ってみようと思ってる。同僚にも、行ったほうがいいって言われた。抵抗はあったから、ほんとは行きたくなかったけど、どうしようもなくなってきたから。
メンタルクリニック行ったら、うつ病と診断され、休んだほうがいいですと言われました。
早めに引き継ぎしたい(でも、仕事のことを考えると、ほんとは何もしたくないんだけど)と言ったら、来月から休みに入ってほしいと言われた。
え、まだあと2週間以上もこの苦痛に耐えないといけないのかと考えると、いくらひとりでやっていた業務だとはいえ、気が遠くなりかけた。
引き継ぎしないといけないほうの気持ちもわかるのよ。マニュアルはある。でも、どんなマニュアルあっても、口頭での補足はしてあげたほうがいいと思うから、出来るだけそういうことはやった上で休みに入りたい。
ただ、今まで、増員しなかったのは私のせいじゃない。増やさないといけないけど、同じ作業ができる人がいないからねー、ってさきおくりにしていた上の責任だから。
無理を強いられることに対する、ちょっとした怒りは感じている。交通事故とかだったら、こんなことは言われなかっただろうに。
体調次第、とは考えてる。だって、仕事のことになると脳が拒否してるし。
これ以上は無理だと思ったら、その時点で休みに入る。
これが、今の私ができる、最大の決心だ。
【パターン1】
1.メンタルクリニックに行く
(退職日は14日後にする。民法では退職の意思を雇用側へ通告した日の14日後に必ず退職できる)
(在職中の最初の支給対象日から数えて最長で1年6カ月目まで、元の月給のほぼ3分の2が支給される。)
※退職後に国民健康保険に加入した場合でも、続けて受け取れる。
【パターン2】
2.退職届を内容証明郵便で職場に郵送(退職日は14日後にする)
源泉徴収票や離職票を郵送で送ってもらうように請求する旨の手紙を同封
【パターン3】
2.丸投げ
【シュチュエーション別対応】
■上司が家まで来る
→体調不良で実家に帰ったことにして居留守、本当に実家に帰る、gotoを利用して欠勤中ホテルに連泊する
小学4年生から不登校だった。中学で学校行こうかと思ったけど、いじめられてやっぱりだめだった。
学校へ行かなくなった理由は、色々なことが重なった結果だと、今になって思う。
進学させたい親。夜遅くまでの塾。学級崩壊。当時仲が良くなかった親。思春期でイライラしてた姉。どれも、これが決め手だというきっかけではない。なので当時は「何かあるわけではないのに休むなんて自分はなんてダメなんだ」と思っていた。
高校は通信制。専門学校も1年もしないうちにやめてしまった。その後はニート。
高校でも専門でも、今までの分を取り戻さなくてはとずっと勉強を頑張った。でも頑張りすぎて過労で倒れて、自信を無くしてまたひきこもった。メンタルクリニックにも行ったけど、完全に元気にはなれなかった。
ニートして2年がすぎ、このままじゃダメだと思った21歳の冬。何かが新しく始まる時期の4月には私もバイトを始めようと思った。結局バイトの電話をかけるのが怖くて6月になった。
選んだのは家から徒歩10分以内のファストフード店。バイトの面接では緊張しすぎて手や声が震えた。でも合格した。
接客に配置された。声が震えて、緊張して、おつりを渡すときの文言がわからなくて、「あ、おつり…」のポンコツから始まった。
始めた当初、バイトに行く前は鏡の前で笑顔を作った。「いらっしゃいませ」ってひとりで言ってみた。「いらっしゃいませ」から「ありがとうございました」まで言葉、思いつく限りを書き出して、家で声に出してみたりもした。頭の中でシミュレーションしてみた。
1年くらいはポンコツだったけど、みんな優しくて続けられた。接客なんて1番自分に向いてないと思ってたけど、対人で人一倍敏感になってしまうからこそ、ちょっとした気遣いができるのだと気付き、意外に強みになった。楽しかった。そのうちバイトとして教える立場になった。
4年目くらいでバイトとして1番上のランクに上がった。時間帯責任者とかをやる立場。認めてもらえて嬉しかった。
自分に自信もなかったし、人と話すのはもちろん、人とすれ違うのも怖かった時期もあったけど今は人と話す仕事してる。
10歳以上年上の上司と知り合えて、その人とはじめて付き合えた。相手はおじさんだけど、優しくてとても嬉しい。
バイトだし、昔の自分が理想としてた自分とは違うけど、割と毎日楽しい。昔の自分を考えたら、割と頑張った。
今は体調管理ができず体崩したのでちょっとだけお休み中。でも、体が回復したらまた頑張るよ。
オチはないよ。ごめんね。
読んでくれて嬉しいよ。ありがとう。