はてなキーワード: 1922年とは
鉄腕アトム「透明巨人の巻」という話がある。若き天才である花房博士が物質伝送機のせいで、ウサギ、魚、ロボットの融合した怪物になってしまうエピソードで、「ハエ男の恐怖」が元になっている。その最終部で、博士が悪党を罰するために物質伝送機であちこちに飛ばしてヒーヒー言わせるドタバタがあるが、その中でラインダンスの真っただ中に飛ばす。悪党どもが冷や汗をかきながら一緒に踊ってごまかす横で、レオタード姿の女性が並んでいる。
また、これはどこで読んだのか忘れたのだが、手塚治虫が宝塚劇場を訪れ、レオタードというか舞台衣装の女性に囲まれて興奮のあまり卒倒しているコマのある漫画があったと記憶している。
つまるところ、こういうスカートやレオタードのラインダンスは宝塚が起源なのだろうか?
まずは基礎的な情報を手に入れるために、ウィキペディアで「ラインダンス」を検索した。すると、意外な事実に行きあたった。
ラインダンス(Line Dance)とは、ダンスフロアに整列し、全員が一斉に同じステップを踏むダンス。主にカントリー・ミュージックやポップスなどの曲で踊られることが多いが、音楽ジャンルに特に限定は無い。
また日本ではポンキッキーズという番組で知名度を上げている。本番組の場合では、主に小中学生の女子は椅子を一列に並べた状態で、ポンキッキーズれていた[ママ]曲や洋楽を流しながら座ったり立ったりしてラインダンスを行う形だった。それに加えて普通のダンスを混ぜて行う為に非常に難易度が高かったが、成功すると非常に見た目がよく、放送当時はこのダンスを学芸会や体育祭で取りあげる学校も多かった。
ひらけ! ポンキッキ!から視聴していた自分のような人間からすると非常に懐かしい。しかし、あの女子たちの踊りは確かに脚を上げるものではなかった。
それならば、あの踊りの名前は何か? 散々探し回った結果、次のことが分かった。横に並んで脚を上げる踊りはロケットダンスと呼ぶそうだ。なるほど、このキーワードで探すとたくさん見つかる。リンクが多いと投稿できないので、冒頭のhを抜く。
ttps://www.youtube.com/watch?v=4i7y6XE7sz8
ttps://www.nicovideo.jp/watch/sm31659056
ttps://www.youtube.com/watch?v=fVewBno93RA&list=RDfVewBno93RA&start_radio=1&t=137
名称は、米国のダンスカンパニーロケッツからだろうか?(後ろの男性諸君の笑顔がいい)
ロケッツは、1925年にセントルイスで、「ミズーリ・ロケッツ (Missouri Rockets)」として結成された。創設者のラッセル・マーカートは、1922年にブロードウェイの「ジーグフェルド・フォリーズ」で見た「the John Tiller Girls」(英国のダンス・グループ)にヒントを得て、「もし、もっと背が高くてもっと脚が長いアメリカ人の女の子たちに、複雑なタップダンスと目の高さのハイキックをさせることができたら...イチコロだ!」と確信した。
だが、ここから名前が来ているとすれば、ラインダンスはフレンチ・カンカンではなくアメリカ起源ということになる。
第二次世界大戦終結後の1946年に、宝塚音楽舞踊学校を宝塚音楽学校と改称し、4月22日から宝塚大劇場で公演を再開した。再開第1作は『カルメン』『春のおどり』の二本立てで、大戦中に入団した計3期69名がラインダンスを披露した。
とある。ここまでは想像がついた。宝塚ではなく松竹のであるが、おおよそ同時代の写真がある。
1927年、岸田辰彌が欧米遊学から帰国。岸田はこの経験を活かして、日本初のレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を日本人の世界旅行記をテーマにして制作する。同年9月1日から上演され、画期的な内容で大ヒットを記録した。主題歌レコードがヒット、当時としては露出の高い豪華な衣装も話題となった。ラインダンスを初めて演目に取り入れ、16段ながら(現在は26段)大階段も登場した。以後、少女歌劇のレビューに欠かせないものとして定着する。
つまり、ラインダンスは1927年にまでさかのぼるのだ! 実際問題、当時としては露出の高いと書かれているが、それがどの程度かはよくわからない。ウィキペディアに写真はあるが不鮮明だからだ。歯がゆい!
しかし、1930年の「パリゼット」の写真はあった。確実なことは言えないが、ほぼレオタードだ。日本国内で初めてバレエが演じられたのは1911年の帝国劇場であり、レオタード的なものに対する抵抗は、わずかながらも減っていた可能性がある。
今まで、同じ少女歌劇団としてこの二者を併記したが、それぞれカラーは大きく異なる。長くなるが、「松竹歌劇団」の項から引用する。
宝塚歌劇との比較では、松竹歌劇の方がよりスピード感と大人の男性の嗜好(色香)を優先した演出を行っていた。これは片や下町の浅草、片や山の手の日比谷(東京宝塚劇場)という、両者が拠点とした土地柄の違いによるものともされるが、前述のように、東京松竹が発足する以前から、松竹レビューの基本要素には「エロティシズム」が含まれていた。青地晨は次のように述べている。「昔はズカファンにとっては松竹は下品でみられなかったし、SKDファンには宝塚は気取って鼻もちならなかった。だが、二派に分れてシノギを削るほど、本質的な違いはなかったにせよ、宝塚と松竹と、それぞれのカラアと伝統があったことはいうまでもない」。戦後の占領期には松竹・宝塚両方を取り上げる雑誌が複数刊行されており、ある程度観客層の重複もあったとみられるが、戦前からのファンには、両方を愛好するファンを「節操がない」と批判する向きもあったという。
こうした説を補強する、次のような画像がある。
1932年、松竹の「らぶ・ぱれいど」公演の様子。 明確にレオタードを確認できる。
スポーツ新聞ではラインダンスを撮影するとき、たいてい脚を上げているところを映しており、これってどうなのか、と思わなくもない。最近、女子スポーツの写真をことさら性的に撮影することを阻むため、JOCが対策に乗り出すことにしたそうだ。いいことだと思う。女性がスポーツを思い切り楽しむとともに、写真を撮る楽しみも守られるよう明確なガイドラインを望む。それと同時に、スポーツ新聞のこういうチアのアンスコばっかり撮っちゃう傾向にも一定の歯止めがあってしかるべきだろう。ついでにノーバン始球式という表現もギャグが滑っている気がする。
しかし、自分も同罪かもしれない。ある程度読んでもらうためにはタイトルを工夫せねばならず、レオタードで読者を釣ってしまっている。
上記の松竹歌劇団の動画が含まれているリストをたどっていると、驚くべきものを見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=BVKkNAf1ruI&list=RDfVewBno93RA/
なんと、1940年代にはすでにチアの見せパンのようなものが存在していた! こうなると、見せパンの歴史はサーカスの衣装などにまでその調査を広げないといけない。もっとも、これは見せパンなのかスカート付きレオタードなのか判然としない。一瞬お腹は見えてるけど……。
英語版ウィキペディアのshortの項には、bun huggers(ショーツみたいなブルマー)について次の記載があった。
In 2008 it was noted that the International Volleyball Federation used to require that female volleyball players wear such garments while playing.
なんと、ブルマータイプの衣装の強制が21世紀になっても行われていたのである。にわかには信じがたい。以前にはビーチバレーの衣装の強制について調べたが、問題はここにもあったのである。
さいわい、こうしたことは昨今になって改善され、好きなものを着ていいことになった。動きやすいようにショートパンツが多いが、ブルマーが強制されなくて本当に良かった。
僕はブルマーが好きだ。だが、強制は大嫌いだ。ブルマーが好きなら嫌がる女性にはかせて喜ぶなどもってのほかだ。
それとは別に「Short shorts」と呼ばれる短パンがあることも知った。自分が以前の記事で1930年の The Women’s League of Health And Beauty=The Woman’s League of Health and Beautyのブルマー風のものやナチス時代にブルマーにカウントしていたのはこれだったかもしれない。やはり写真だけではわからないことが多いが、念のため訂正しておく。ブルマーの世界的な分布についても、再考を要する。
今回は、フレンチ・カンカンへの興味から派生して、ラインダンスについて調べた。1930年代にまでさかのぼることが分かったが、それがフレンチ・カンカンからの影響を受けているとはっきり示すには至っていない。彼がパリにいたのは名高いMistinguettが活躍した時期のことで年代に矛盾はないが、証拠は不十分である。
また、追加調査により、ブルマーや見せパンの広がりの年代がかなりずれる可能性が見つかった。今後も調査に役立ちそうなキーワードが見つかり次第、記録していきたい。
こないだ両国にある横網町公園に行った。無料で入れる普通の公園なんだけど、たまたま入って見たらなんだか石垣の立派なお城のような建物が建っていて、花が供えてあったりして慰霊してる雰囲気。説明書きの看板もあったけどスマホで検索したらなかなか凄かった。
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきた。直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園に避難した人だけで38,000人が犠牲になったという。震災後、その38,000人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。
「火災旋風で38,000人が犠牲に」って想像を絶するけど、東日本大震災の死者が確か2万人くらいと思うと凄い事件だなと思って。(今調べると東日本大震災は死者16,000人弱の行方不明者が約2,500人だった)
関東大震災で習った事って「大きな被害」「朝鮮人が井戸に毒を放り込んだというデマで殺された」くらいな気がする。東京の人はもっと詳しく習ってるのかな。
関東大震災のWikipediaを見てみたらこの火災旋風のことは直接書いてないみたい。公園に建ってた慰霊堂のことがちょっと載ってるけど。
一見長閑な公園でかつてこんな大惨事が起きていたなんてと、なんか不思議な気分だった。調べたり看板を読んだりしなかったら何も知らないままだったわけで。また東日本大震災の話になっちゃうけど、「ここから下には家を建てるな」って立て札があってそれを守ってた村?町?は被害が無かったとかいう話とかさ、奇跡の一本松を残すだの残さないだのの話とかさ、語り継いでいかないと記憶って無くなっちゃうものなんだなって。
横網町公園で検索すると「心霊スポット」と出てくるから少しは知られた話なのかもしれないけど。(あと今年の7月に殺人事件起きてる)
(追記)
ブコメ見てURLの最後のスラッシュ消してWikipediaちゃんと読み直してたら関東大震災のページに横網町公園の火災旋風のことしっかり記述してあった…長いんで読み飛ばしてた…
震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆 / 山田昭次 / 日本史 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/society/14990
の表を朝鮮人の人口の主なソースとして使っているが、WEBページにはデータの出典がない。
あと表2 関東地方の府県別朝鮮人人口の1922年の合計が100362人となっており、10362人の間違いかと思われる。が信憑性が疑われる。
この表によると、1920年の在日朝鮮人人口は40,775人、1930年は419,009人となっており、
wikipedia 在日韓国・朝鮮人 戦前の在日韓国・朝鮮人移入の背景 における出典ありの記述では、
「大正9年(1920年)および昭和5年(1930年)の国勢調査(民籍別)」を記載した1938年(昭和13年)発行の年鑑[33] によれば朝鮮人の民籍は、大正9年(1920年)で40,755人、昭和5年(1930年)で419,009人との記載がある。(中略) 33. 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』,82頁
とあり、この表記を信じるならば、大正9年(1920年)と昭和5年(1930年)の国勢調査の結果が一致する。
元増田の文脈から、国勢調査がなかった期間の数値は内務省警保局統計の数値を使っていると推測したが、それも一致しない。
おそらく、この表の人口は、実際に調べた数値ではなく、国勢調査の空いた10年の補間した数値、推計だと考えられる。
総務省統計局 人口推計について http://www.stat.go.jp/data/jinsui/1.htm
※ 人口推計は国勢調査による人口を基に推計したものですが,5年後の人口は,最新の国勢調査人口とは必ずしも一致しませんので,5年ごとに,国勢調査間の各月1日現在の人口推計について補間補正を行い,公表しています。
だから大正12年の関東の朝鮮人人口が12,840人というのも、あくまで補間による推測値で、
きちんと議論するためには、1920-1930年の補正補間の方法および精度について検証しないといけない。
ここまで根拠がwikipediaとかしかないので、この主張も正しいかどうか検証しないといけない。
まずはこの表の出典を元の出版物を当たるなりして明らかにしないと、根拠として微妙だと思うのだが、どうだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/20170902034014
## 追記
高潔なる天皇家を認めることは、当然その対極に、穢れたる存在を生み出す。
天皇や皇族を、家柄や血統が良いとして崇める事は、構造的に部落民を差別する事と一緒である。
天皇が聖性を家柄・血統として、代々伝えることを認めるならば、部落民の賤性もまた、家柄・血統として代々伝えられることを認めることになるのである。
また、賤であり穢れた存在を置くことは、天皇自らの聖性・浄性を相対的に高めるという効果がある。
天皇家にゆかりがある関西や、大和朝廷と関係がある地域と思われる福岡・熊本・大分に被差別部落が多いのは、おそらく古代・中世期に天皇制権力が賤民や部落民の原形を作り上げたからではないかと考える。
天皇が聖性を家柄・血統として代々伝えることを認めるならば、部落民も当然その賤性を代々伝えていくことまで認めることになるのである。
天皇家は天照大神から万世一系に繋がっていると信じさせている。何が万世一系と見なされているのか。
一つ目は、三種の神器の継承、である。これは天照大神の時代から代々伝わっているとされている。
二つ目は、霊が繋がっている、とされている。大嘗祭は、収穫を祝う祭であるが、それだけでなく、現在の天皇が旧天皇の死体と共に寝るという儀式もある。これによって、先帝の天皇霊が新天皇の身体に憑くのである。したがって、天皇は天照大神と霊的につながっている現人神とされたのである。
三つ目は、血が連続している、とされている。皇位の根拠が古代以来連続してきた血統にあるとされた。
そしてこの連続性は当然今後も継続することが当たり前であるということを正当化させる。こうした天皇の万世一系性は、あらゆる家系に優越し超越する天皇家の家系を強調し、皇位の不動性をわれわれに当然のものとして受け取らせるのである。
万世一系を唱えることのメリットとしては、天皇の宗教的権威や統治権の絶対性、さらには身分と地位の永続性が担保されるということが考えられる。
奈良・平安時代などは、天皇や皇族の後ろ盾にいる各豪族の抗争次第で、皇位は血統原理と関係なく移動したのである。
例えば、聖徳太子は、血統原理から言えば正統な皇位継承者だったのだが、結局天皇にはなれなかった。また672年に起きた壬申の乱では、天皇と名乗る大友皇子(天智天皇の子)を大海人皇子が武力で倒し自らが天皇になった。
又、天皇家は、万世多系であった。桓武天皇の母親は朝鮮からきた人というのは有名な話である。また皇室には代々側室なるものが存在し、その側室は平民から選ばれたのである。明治天皇や大正天皇は側室の子供である。(明治天皇の側室で大正天皇の生母であった柳原愛子さんは大正天皇が知的障害者であったことの責任をなすりつけられたそうである)そのことは皇室の家系図には書かれておらず、あたかも天皇が一人で子供を産んだように書かれており、見る人に天皇家は万世一系につながっていると思い込ませているのである。
更に、現在の天皇家は足利尊氏が無理矢理作り出した北朝の子孫であることである。血統原理でいくならば、正統な皇位継承権は南朝にあるのである。(南朝の子孫とされる熊沢という人が大東亜戦争後に、皇位継承権は自分にある。と訴えた話は有名である)
天皇陛下はいつも国民のことを考えておられる。福祉にも御興味をもたれ、障害者にも優しいお方である。などと思っている人の何と多いことであろう。しかし天皇家は実は思いっきり穢れた家柄・血統の人間を差別しているのである。
天皇・皇族の部落民に対する差別事例をここでいくつか挙げてみる。
1868年に制定された『法令全書』の第1巻686号には、天皇が巡幸する際に穢れ多い部落が見えないように部落を筵で隠すべきということが書いてある。
そのことの事例として、1922年に起きた大分県の的が浜地区焼き討ち事件、がある。事件のあらましは、皇族が列車で巡幸する際、沿道沿いにある、的が浜スラム地区、が皇族の目に触れないように、その地区を警官が焼き討ちした、という事件である。的が浜地区は正確には被差別部落ではないが、非人系の部落民や、ハンセン病者や、浮浪者が多数居住していたスラム地区であった。
これは大正年代の出来事だが、奈良県の畝傍山のふもとにあった洞(ほうら)部落が、その下にある神武天皇陵を見下ろす位置にあるとして、行政側は1917年にその部落の強制移転を求め、20年にそれを強制執行した。その際、洞部落の部落民の遺骨も穢れているとして、徹底的に取り除かせた。
例えば、宮中の賢所に使える女官を選ぶ基準は血統・血筋である。穢れも未だに重視しており、彼女らが月経のとき、お下り、といって強制的に休ませている。月経が終わっても穢れを祓う儀式をしないと元の仕事に戻れないそうだ。
そして最も重大なのが、結婚相手の調査を正々堂々としているということである。
1993年1月5日付け読売新聞朝刊の一面によると、宮内庁は、皇太子妃候補の身元調査を大手興信所に頼んだとのことである。そこには皇室専門の興信所員がいるとのことである。そして直系は4代先まで溯り、大祖父、祖父のきょうだいまで徹底的に調べたそうである。そして雅子さんが優秀な家系で驚いたなどと興信所は言ったそうである。皇室は差別主義に凝り固まっていると言える。
天皇制擁護者の大多数は、天皇・皇室は日本の伝統だ。という理由で賛成していることだろう。しかし天皇制は日本オリジナルではない。天皇という概念は、中国における道教の最高の信仰対象であった天皇大帝から来ているのだ。
天皇家は、伊勢神宮か京都御所で儀式とか神主でもやるべきだ。もちろん、その際でも、天皇・皇族も国民という立場で勤労・納税の義務を負い、また参政権を含めた基本的人権を有する立場に置かれるべきだ。
朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代の朝鮮における貴族で実業家。日本名は山崎 永春。
目次 [非表示]
1 生涯
2 家族
3 その他
4 登場するテレビドラマ
5 脚注
6 出典
7 関連文献
生涯[編集]
判書大監朴元陽の子として京畿道水原に生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉の支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在の大韓民国国旗である太極旗のデザインを考案したとされる。朴泳孝が日本に派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると、8月9日に仁川から日本船籍の明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンとイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦と太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長が八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日、神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日、太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。
帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派(事大党)の反対に遭って挫折。さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデターで閔妃派からの政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本へ亡命。慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。
光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本に亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣の宮内府大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島に流刑処分とされた。
隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵(朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会会長(1911年)、朝鮮銀行理事(1918年)、朝鮮経済会会長(1919年)、朝鮮維民会会長(1919年)、東亜日報社初代社長(1920年)、朝鮮人産業大会会長(1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮総督府中枢院顧問(1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長(1922年)、貴族院議員(1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職を歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府が編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。
当時白豪主義を採っていたオーストラリアは、有色人種への迫害政策を行っていた。反日主義者として知られていたウェブは、終戦後の1945年9月にオーストラリア政府の依頼を受け、1942年に日本軍がニューブリテン島ラバウルへの攻撃に際して、オーストラリアではテレビ放送で映像を流したとのことであるが、沈められた日本の船から脱出した日本人(捕虜)ら数百人を航空機から執拗な機銃掃射によって虐殺した上で、150名以上のオーストラリア人及び先住民を殺害したとされる報告書を現地調査を行った上で発表した。
天皇の訴追を主張していたオーストラリア政府は彼を代表判事に選ぶことにより、天皇を法廷で裁くという意思を表明したものと考えられる(法律上の観点から見ると、本来事件の告発に関与した者はその事件の裁判官になることはできない)。
そのようなウェブの意向は法廷における訴訟指揮でも表れた。裁判の開会の辞においては「被告達は嘗て、如何に重要な地位にあったにしても、それが為に受ける待遇は、最も貧しい日本兵、或いは一朝鮮人番兵よりも良い待遇を受ける理由は見当たらない」と日本の戦争指導者に対する敵意を露にした。
裁判も検察側に有利になるように進められたケースが多々あり、検察側に不利な発言や意見が弁護側から出されると、裁判長の訴訟指揮権を行使して遮ったり却下したりするといった場面がしばしば見られた。最も有名なのがアメリカ人弁護人のベン・ブルース・ブレイクニー及びジョージ・A・ファーネスの「事後法で人を処罰することは出来ない」といった旨の弁論に対しても、「全ての動議を却下する。その理由は将来闡明にする」として裁判を続行させたケースである。また清瀬一郎の「この裁判(極東国際軍事裁判)はいかなる根拠において実施できるのか」という質問に対しても「後から答える」とだけ述べて休廷し、その後回答することはなかった。また、中国で冀東保安隊が日本人居留民に対して略奪、暴行、凌辱、殺戮など残虐の限りを尽した通州事件についても却下している。
法の不遡及は法の一般原則とされており(成立過程が独特な国際法上においても、必ず要請されるべきか否かは議論のあるところだが)、これを検討することなく却下したことは訴訟指揮上大きな問題とされる。ただ、これは先に開始したニュルンベルク裁判の訴訟経緯を踏まえた決断とも考えられる。
また、前述の通り、天皇を法廷に立たせるべきとの見解を持っていたことから、天皇を戦犯にせず、占領政策に利用する意向を決定していたダグラス・マッカーサーの命令を受け、裁判を天皇に責任が無いという展開に進めることを意図していたジョセフ・キーナン首席検事とは激しく対立していた[1]。
オランダのベルト・レーリンク判事の証言によると、ウェブは酒気を帯びた状態で法廷に来ていたこともあったという。
1922年に死刑を廃止したクイーンズランド州(オーストラリアの他の州の死刑廃止は1968年から1985年)の判事であったウェブは、23年間にわたる判事生活で死刑を言い渡すのは極東国際軍事裁判が初めてだったため、「極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する」の部分の口調はある意味の興奮があったという[2]。ちなみに、ウェブ自身は被告人全員の死刑に反対票を投じている[要出典]。
「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。
お前さんくらいの年齢だったら、1984年にロサンゼルスでオリンピックがあったの覚えてるだろ?
その時の組織委員長だったピーター・ユベロスって男を知ってるか?
1980年に43歳でオリンピックの組織委員長になったんだよ。
当時、オリンピックってのは赤字がひどくてな、ロスが開催都市に決まった時は、ほかに立候補する都市はなかったんだとよ。
で、ロサンゼルス市も誘致したはいいけど金がなくてな、この男にオリンピックの成功を託したんだよ。
で、1400万ドルで自分の会社を売っ払ったユベロスは、組織委員長の職に専念して、
ボランティアを大量動員したり、放映権を一発入札にかけたり、キャラクタ―商品つくったりして、組織委員会は2億ドルの黒字になったんだと。
そういえば、聖火リレーのランナーの権利が売りに出されて、日本の芸能人が走ったり、
マスコットのイーグル・サムのアニメが放映されて、コカコーラの景品だったイーグル・サムのヨーヨーが子供の間でやたらはやったのを、
俺も覚えてるよ。
あ、ちなみにメイン・スタジアムは、1922年のオリンピックで使ったのを改修したんだと。
その後、オリンピックが巨大ビジネス化したのはコイツのせいだって批判もあるけど、
そりゃまた別の話だぜ。
とにかくユベロスって男は結果を残したすげえ男なわけだけどよ、、
若干43歳の男にこれだけのことをやらせるアメリカって国もすげえよな。
こういうところはかなわねえとおもうぜ。
なあ、どう思う? じいさんよぉ。
・アンチ公明党、創価学会(恐ろしいほどの犬猿の中、共産党は公明党が死ぬほど嫌いな政党)
・アンチ公務員。(官庁の官僚、警察に対してアンチ。役所とか福祉・防災は肯定)
・アンチ中国(60年代、中国から工作活動を受け、中国共産党と大喧嘩→断交
それ以来中国からの内部工作に一番敏感に拒絶する政党。中国共産党も日本共産党だけには工作はもう不可能だと思っている)
・対中国とは、数十年間犬猿の仲だったためか、今もほとんど交流なし。訪中は数年に1度あるかないか。
(公明、民主は毎月のように中国に党首、幹部自ら朝貢に行く、もう中国とズブズブ)
・アンチ社会党(民主党は旧社会党員が多いので=アンチ民主に)
・アンチサービス残業(国会で派遣、偽装請負、サビ残問題で一番質問したのは共産党。
(民主は質問回数多いのに労働問題については共産党の数分の一の回数<<本当はどうでもいいと思っているから)
・北方領土返還問題を常に提起(4島だけでなく、”千島列島全体”の返還を要求している。自民党の言う北方領土は4島のみ)