はてなキーワード: 自己欺瞞とは
まず浮気やなんやは心配いらない。むしろ部屋に入れる方が怪しまれないからな。
で、自分は汚部屋パターンだったので、汚部屋住人的にどう考えてるかを教えてみる。なんかのきっかけになればいいと思う。
汚部屋っていうかゴミ屋敷。玄関開けたらまず複数のゴミ袋、床にゴミが落ちてるとか当たり前、水回りの掃除は2年に1回くらいかな。さすがにテレビとかで見るようにゴミ袋の上で生活するほどではなかったけれど、普通に掃除できてる人に言わせりゃ50歩100歩だろう。
「汚い自覚あるなら掃除すればいいじゃん!」とみんな思うと思う。そんなことはわかっている、だが出来ないのだ。
理由はいろいろあるが、面倒臭いが一番。水回りとかのやり方がわからない、ゴミ出しルールに厳しい近所の住人が怖い、やる気になればできるという自信があるが今はその時ではない(キリッ などなど、まあ色んな要素が面倒臭いを加速させるんだ。
俺はもう脱却したが、汚部屋住人を続けてしまう最大の原因は「しなくてもなんとかなるから」ってのが大きい。
よく、風呂に入らなくて死んだやつはいないとか、部屋が汚くて死んだやつはいないとか言うけど、この考えだな。
まあ、そう本当に言えるほど開き直れる大物はレアだし、実際には不潔だと病気になりやすいから真実でもないのだが、自己欺瞞するには充分なんだ。
じゃあなんで脱却できたのか?ってところだが、「しなくてもなんとかなる」が通用しない局面を味わったから。
当時の彼女が貧乏暇なし状態で、寝る時間を削って会う時間に回し、デート中によく寝落ちするほど。
幸か不幸か彼女は11歳下の美人で処女だった。なんとしてでもヤリたいけど、ホテルに行ったら寝る、だから自分の家に一時的に住まわせて家賃分のバイトを減らさせ家事も自分がやることで、セックスできるやん?! という動機だった。
増田が、彼女に「一旦家に来させないとダメだ!」と判断させる何かを作れれば、同様に脱却するかもしれない。まあ、これはあくまで汚部屋パターンの話だけどな!!
未だにTwitterと書いてしまうジジイなのだが、最近コミュニティノートを評価するようになって気づいたことがある。
コミュニティノートに思想というかイデオロギーのようなものはある。はてサ的リベラル感は少しあるような気がする。どっちかというとはてサ寄りな自分としては、あまり偏りすぎてもいけないぞ、と思いつつ、逆の立場から付けてるコミュニティノートが少ないので自然にそっち寄りにはなる。
あと、1個目のコミュニティノートの下に「上記のコミュニティノートは不要です」と書かれたやつもよく見かける。これが逆の立場からのやつだと言えなくもないけど、あまりに主張として弱くて、こんなものが役に立つのかと思ってしまう。
個人的にはリベラル的自己欺瞞のようなツイートにガンガンマッチョなコミュニティノートが付いてるのを見てみたいけど、そういうのは評価を求められずに消えてしまうのか、それともそもそもの数がかなり少ないのか。
「ゴミノート」とか言ってる人はたまに見かけるので、そういう人は反論の引リツにガンガンコミュニティノート付ければいいのに、と思う。
まず、指摘された内容に対して感謝を伝えた上で、以下の点を順に論理的に反論していきます。
1. 「雲の上の人」への憧れが現実逃避と指摘されていますが、人間は誰しも理想を持つことで自己成長を促すものです。理想の人物に憧れることが、必ずしも現実から逃避することを意味しません。むしろ、理想に近づくために努力を重ねることで、自身の成長を図ることも可能です。
2. 人を見下す傾向について自己防衛機制と捉えられていますが、そもそも人に対して尊敬できる部分が見つけられない場合、その気持ちを無理に抑えることは逆に自己欺瞞につながります。ここで重要なのは、尊敬できる人を探し続ける姿勢を持ち、自己と向き合い続けることです。
### 自己中心的な態度について
1. 相手に高い要求をしているとされていますが、自分の理想や価値観を持つこと自体は、決して悪いことではありません。また、その理想を高く設定することは、自己成長の一環でもあります。理想に妥協せずに努力し続けることも一つの選択肢です。
2. 「建設的な話」を求めていると指摘されていますが、人間関係は相互作用で成り立つものです。自己表現の中で相手の意見を尊重する意識を持つことは重要ですが、それと同時に、対話の中で相手が自分の期待に応えない場合、それを受け入れることもまた成熟したコミュニケーションの一環です。
1. 恋愛に対する考え方が幼稚で理想主義的だと言われますが、恋愛は誰にとっても主観的な体験です。理想を持つこと自体を否定するのではなく、その理想を現実にどう融合させるかが重要です。現実と理想のバランスを取る過程を経て、徐々に成熟していくのが人間の成長であり、一概に理想を「幼稚」と片付けるのは早計です。
2. VTuberを例にした多様性の指摘ですが、個人の趣味嗜好に共感できるか否かは個人の自由です。全ての多様性を無理に受け入れる必要はありませんし、自分にとって価値を感じられないものを尊重することは可能でも、それを好きにならなければならないわけではありません。
1. 自己啓発の必要性やカウンセリングについての指摘ですが、自己啓発はあくまで本人の意思によるものであり、強制されるものではありません。改善するべき点があれば、それは自ら気づき、必要に応じて取り組むべきものです。
2. ボランティア活動や多様性を受け入れる力を養うことについても、他人の生き方に対して興味を持つかどうかは個人の自由です。自分が共感できる人間関係を選択することも一つの人生の在り方であり、それを否定することは多様性の本質に反するのではないでしょうか。
3. 最後に「理想の人間になるよう努力する」という点ですが、自己を高めることは重要ですが、それがすべての人間関係の基盤になるわけではありません。人間関係は、自分の欠点や弱さも含めて受け入れ合うことから生まれるものであり、それを追求することが真の成熟だと考えます。
### 結論
相手の意見に耳を傾け、自己改善を図ることは重要です。しかし、他人の評価や提案をそのまま受け入れるのではなく、自分自身の価値観や経験と照らし合わせて吟味することこそが、自己を確立し、人間関係を築くうえでの本質的な成長に繋がると考えます。
自分を過大評価して、まるで王子様やお姫様のように振る舞う連中が多すぎる。現実を見ろ。お前はディズニー映画のキャラクターじゃない。自己評価を一段落とすことがスタートラインだ。
自己啓発本やセミナーで「魅力的になる方法」なんてものを学んでも、結局は表面的なことばかり。内面を磨くなんてのは、自己満足に過ぎない。むしろ、外見を磨け。見た目が良い方が恋愛市場では有利なんだから。運動して、ダイエットして、ファッションに気を使え。それが現実だ。
「本当に大事なのは心の美しさだ」とか「外見だけが全てじゃない」とかいう連中もいるだろう。甘いな。
確かに、長期的な関係を築く上では内面も大事だ。しかし、第一印象で外見が重要視されるのは紛れもない事実。心の美しさなんてものは、外見のフィルターを通過して初めて見てもらえるんだよ。
万人受けする人間なんて存在しない。自分の魅力を最大限に引き出してくれる相手を見つけるんだ。闇雲にアプローチしても疲れるだけだぞ。共通の趣味や価値観を持った人と出会う場所を選べ。そこにこそ、「妥当な巡り合わせ」が待っているんだ。
さらに、失敗を恐れるな。
失敗は成功の母なんて言うが、それは嘘だ。失敗はただの失敗だ。でも、その失敗から学ぶことができれば次に繋がる。拒絶されたら、それを糧にすればいい。いちいち落ち込んでたら前に進めないぞ。
これは皮肉でもなんでもなく、本当に大事なことだ。どんなに外見を磨いても、戦略を練っても、最後は誠実さが物を言う。嘘をつかず、相手を尊重し、自分を偽らないこと。それが最終的に「妥当な巡り合わせ」にたどり着くための真の戦略だ。
まぁ、これだけ言っても「それは理想論だ」とか「そんな簡単にいかない」とか反論してくる奴がいるだろう。それでもいい。自分の頭で考え、試行錯誤するのも大事なプロセスだからな。
現実を見据えて頑張れよ。
先日知人と飲みに行ったんだが、その際「言語ってどのようなものか?」みたいなことが話題に上ったんだ。
そこで俺は「そもそも一般に使われている言葉は恣意的なもので、必然性はない」と発言した。
いやいや違うよ、もしそれを中二病と呼ぶならソシュールやロラン・バルトなんかも単なる中二病になってしまうから。
そう説明したが、知人は要領を得ない様子で首肯しない。
そこで気づいたんだ。
自分が分からないことに対して、それが少しでも曖昧で、抽象的であるとそれを「中二病」と称することで、自分の知識不足を咎めることなく、逆に「中二病」なことだから知らないほうがまともだと自分を肯定するための免罪符なのだと。
自己欺瞞だ。
未知なるもの、未開なものに対して「中二病」と名づけることで、その可能性に蓋を閉めるという行為は、大人が行うのにはあまりに幼稚すぎないか?
そして彼らはその対象に対しての適切な表現を知らないからこそ、ブラックボックスとして「中二病」という言葉を使っているのだと思う。
先日知人と飲みに行ったんだが、その際「言語ってどのようなものか?」みたいなことが話題に上ったんだ。
そこで俺は「そもそも一般に使われている言葉は恣意的なもので、必然性はない」と発言した。
いやいや違うよ、もしそれを中二病と呼ぶならソシュールやロラン・バルトなんかも単なる中二病になってしまうから。
そう説明したが、知人は要領を得ない様子で首肯しない。
そこで気づいたんだ。
自分が分からないことに対して、それが少しでも曖昧で、抽象的であるとそれを「中二病」と称することで、自分の知識不足を咎めることなく、逆に「中二病」なことだから知らないほうがまともだと自分を肯定するための免罪符なのだと。
自己欺瞞だ。
未知なるもの、未開なものに対して「中二病」と名づけることで、その可能性に蓋を閉めるという行為は、大人が行うのにはあまりに幼稚すぎないか?
そして彼らはその対象に対しての適切な表現を知らないからこそ、ブラックボックスとして「中二病」という言葉を使っているのだと思う。
英国王室を描いたドラマ「ザ・クラウン」で、ウェールズの炭鉱崩落による悲劇を題材にした傑作回がある。
終盤に、女王はこの悲劇に対して「まったく感情が動くことがなかった、私は人として何かが欠けていると思う」と当時の首相ウィルソンに吐露する。
ウィルソン首相(労働党党首)は「誰にも言わないでください」と前置きして、
「実は私は肉体労働をしたことがないし、(労働者が好む)ビールよりもウイスキーが好きだ。パイプより(上流階級が好む)葉巻を吸う。でも、パイプを吸ってたほうが親しみやすいだろうから大衆の前ではパイプを吸います。ありのままの姿では国の顔にはなれません。」と言う。
要するにウィルソン首相は仕事のために頑張って演技をしているのだが、国の顔として女王のその感情の欠落は恩恵である、と言う。
というのをみて、そういえば職場の上の立場の人たちはなにか自己欺瞞的だったり嘘くさい言葉を並べるなと感じてたが、そうか演技をしてるんだと思ってなにかが腑に落ちた。
ジャニオタっていってもいろんな人が含まれてるだろうけど、賛成にせよ反対にせよ熱量が高くてエキサイトしちゃう人も中にはいるんでしょうね。
一般論として、以下のようなことは同意する人がほとんどなんでしょうけども。
ことここに至っても報道が十分なされないのが異常な状態の原因の一つだと思うんだけど、メディアや報道各社が、自社のこと含む同業者に取材も批判も報道もしないのはどうしたら改善されるのかな。
事務所のタレント各位は、特に30代くらいまでの人は知った時には、邪悪な個人の悪行を超えて事務所ぐるみの未曾有な規模の人権侵害問題になっていたのでスピークアップできない、表沙汰にしたら同僚みんながえらい目に遭うって口をつぐんでしまうのは良く分かるし、今まで黙ってた罪悪感からいまだに何も喋れないのも想像に難くないので気の毒。
それだけに、GACKTや山下達郎のように、口を慎めと言わんばかりの人は信じられない。それも罪悪感から逃避するための自己正当化の自己欺瞞なのかなとも思うけど、タレントの「スター」や「アイドル」としての立ち位置を守るためには、40代以上のベテランから上記のような綺麗事を盾にジャニー氏と事務所批判の口火を切るべきだと思う。
そうならないのは、先日の会見を見ると、ジャニーズ事務所はまだ体制と体質を護持してうやむやのうちに終わらせられそうと考えてタレントの指導に当たってるからなんだろうと思うと気が重くなる。
メディアや報道各社が取材・報道の義務を放棄して取材・報道しない自由を行使しないように、監督官庁による行政指導があるべきなんだろうか?
石埼学
@ishizakipampam
私は、安倍元総理の突然の非業の死以降大きな「喪失感」を感じ続けている。かれの業績や政治姿勢には異論も多々ある。しかしその存在感の大きさは歴代総理の中でも群を抜いている。安倍元総理の突然の不在に多くの国民が感じる大きな「喪失感」を埋め合わせるためにも国葬は実施されるべきだ。
石埼学
@ishizakipampam
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石埼学
@ishizakipampam
石埼学
@ishizakipampam
自由で安全で平和な日本を築いてきたのは自民党政権。そこに様々な克服すべき課題があることは確かだが、まずまずマシな社会が実現されている。その恩恵にあずかりながらそのことを否定するのは井上達夫先生風にいえば「自己欺瞞」。
檄
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
パヨク以外のまともな考えを持った人は、学歴と家庭の収入に密接な相関があることを知っている。家庭が裕福なほど高いスコアを獲得する可能性が高くなる。
裕福な親は子供を受験対策の塾に参加させるだけではなく、ダンスや音楽レッスンを受けさせたり、ゴルフなどのエリートスポーツをさせたり、英会話スクールに通わせることで状況を有利になるよう訓練し、本物の善意ではなく下層階級に対する関心を示すために善行を積むように仕向けるのである。
そして授業料である。学生を入学させることのできる家庭は裕福であり、その他の貧乏人はローンを組むなど不利な状況に立たされる。この点から言っても、支払い能力を持つクソエリートの方が入学させる可能性が高くなるのである。
頭のおかしい評論家は、この不平等について「能力主義ではない」と嘘を吐くが、「男性の方が能力が高い」といった理由で医大が女性を差別するのも能力主義の不正が蔓延している一つの証拠である。
意見の相違はあるが、能力主義の連中は「能力を評価することは公正であり、能力に基づいて入学者を判断すべき」などと傲慢な態度を取る傾向にある。
暗黙の了解として、「実力主義で入学した者はそこから得られる利益を享受する資格がある」などと、弱者への差別を加速させるようなことを共有しているのである。
こんな考えが正しいと考えるのが、つまりリベラル派、パヨクである。少なくとも米国の政治論争で証明されている。対立はここ数十年の不平等の広がりに端を発している。誰がどの大学に入るかによって、より多くのことが左右されるという事実がある。
最も裕福な10%の人々の有名大学への進学がより重要視されるようになったのである。
50年前、大学への入学はそれほど困難なものではなかったとされる。4年制大学に進学するアメリカ人は5人に1人以下で、進学する人は自宅近くの大学に入学する傾向があったようだ。大学のランキングは、現在ほど重要視されてなかった。
しかし、経済的な不安だけがすべてではない。トップに立つ者は、自分の成功が道徳的に正当化されると信じたいものである。実力主義社会では、勝者は自分の才能と努力によって成功を勝ち取ったのだと信じなければならない。
連中はますます傲慢になり、自分たちの力で成功したのだという誤解を招いてしまうのである。
東大入学のために浪人する馬鹿について考えよう。彼らはエリート大学への入学がもたらす実力主義的な名声、つまり幻のようなものを求めているのである。
門をくぐった学生も、自分の力だけで入学できたとは言い切れない。親や教師は誰だったのか。自分だけの力ではどうにもならない才能についてはどうだ?たまたま持っていた才能を開花させ、それに報いてくれる社会に住んでいた幸運はどうだ。
競争的な実力主義の中で勝ち残った人々は、競争に対して見えないところで恩義を感じている。実力主義が強まるにつれて、その努力は私たちを吸収し、恩義は見えなくなる。不正行為や賄賂、富裕層への特別な特権がない公正な実力主義であっても、傲慢な連中が自分たちの力で成功したという誤った印象を持つのである。
これは自己欺瞞であるだけでなく、市民感覚を腐敗させるものである。自分たちのことを自分で作ったものだと思えば思うほど、感謝や謙虚さを学ぶのが難しくなるからである。感謝や謙虚という感情がなければ、共通の利益を大切にすることは難しい。
現代の政治においても、誰が何に値するかについての議論が盛んである。表面的には、これらの議論は公正さについてである。望ましい財や社会的地位を得るために競争する機会が本当に皆に平等に与えられているのか。
はてサが「党派性でアウト・セーフのライン判定を操作する連中」だということは皆さんご存知だと思いますが
しかし以下で解説するように、今回は「党派性で少しググればわかる嘘を信じて自己欺瞞をし始めた」ということで
単なる党派性から、狂気の階段を確実に、一歩登ってしまっているんです。
「不当だからといって違法ではない」という(完全に正しい)フレーズを聞きかじって脳内変換してしまったんでしょうが
会計上の不正とは、「財務諸表の意図的な虚偽の表示であって、不当又は違法な利益を得るために他者を欺く行為」です。
日本公認会計士協会ホームページなんかを見ればすぐわかります。
https://jicpa.or.jp/cpainfo/introduction/keyword/post-68.html
当たり前ですが、一般論として違法かどうかというのは刑事であれ民事であれ最終的には裁判所が判断することです。
法曹であれ、そう簡単に判定できるものではなく、本当に違法かどうか結論が出るまでは長いです。
しかし、不当かどうかは行政レベルで判定できることで、すでに監査にて精算が不当だということは指摘されています。
つまり「不当」まではもう確定です。
もちろん、誰の得にもならないただのデタラメな会計をして、利益も得ていないなら不正ではありません。
監査で指摘されている疑義は1/4までは暇空氏の有料noteでしか全文公開されていませんが、無料で読める部分だけでも次のようにあります。
「対象人数が不明であるものの、一回当たりの支出が比較的高額なレストランでの食事代やホテルの宿泊代、
また食事代とは理解し難い物品の購入代が計上されている。さらに、宿泊支援費について都外遠隔地での宿泊代が計上」
「委託事業の経費として計上することに妥当性が疑われるものが見受けられる」
https://mobile.twitter.com/himasoraakane/status/1608358827048726531
要するに、私費を事業の経費として計上していた疑いということで、これが事実なら違法ではなかったとしても即、不正です。
事実なら、事業経費でないものを事業経費だと偽って計上するのは虚偽の表示ですし、利益を得ているのも明らかですね。
違法かどうかは都なり都民なりがcolaboを提訴するなりした後、裁判所が決めることです。
しかし不正かどうかはこの後、都の担当部局が調べれば判定可能ですし、何よりすでに疑義は出ています。
監査委員側は帳票を見れるわけで、そこに疑わしい記載があるって言ってるわけです。
疑いを晴らせなければ「不正」です。
上記の内容は無料で得られる公開情報を見て、ググればわかります。
つまりはてな民でもよっぽど底辺レベルの馬鹿か、党派性で事実認識を拒否するほど追い詰められている人間以外みんなわかります。
しかし現実は「不当だからといって不正ではない」の大合唱です。
「党派性で少しググればわかる嘘を信じて自己欺瞞をし始めた」ことがお分かりでしょうか?
彼らはもともと狂っているのではなく、党派性で受け入れがたい真実を拒否したいあまり、脳が馬鹿になっているのです。
党派性による偏りは誰しもが何らかの意味で持っているものであり、完全になくすことはできません。
我々は党派性が同じような人々と仲良くしがちなので、偏りを諌めたりするのも簡単ではないでしょう。
しかし、周囲がググればわかるレベルの事実認識を拒否するようになったら、立ち止まって一度考え直したほうがいいのではないでしょうか。
自分は独身で入れ込んでるセフレ(というか呼ばれたら行くような相手。自尊心とかちんぽとかを満たす道具として扱う相手)が結婚してるとか彼女がいるとかの、いわゆるセカンド女のポエムを読むのが通勤時間の趣味になっている。
私も私の友人達もそういう経験がないのでおもしろくてしょうがない。
女が男の都合のいい女をやって、それを「真実の愛」とポエるパターン。
年数経過すると病んでポエ散らかしてそれを読むのが楽しい。
女と男が出会ってデートとかするんだけど、実は男は結婚してましたor本命彼女がいます、ってやつ。
でも彼女たちは「私は大事にされている」「私たちだけは」「お互いに愛し合っている」と言う。
そして精子or劣等感を拭いたティッシュとして燃えるゴミに出されてポエ散らかす。
それを読むのが楽しい。
男は最初から結婚指輪や本命彼女の存在を隠さず、「セカンドでいいなら穴使うわ」「穴はいらねーけど褒め言葉ベンダーとして使うわ」「そのためなら安い台詞吐くけど、嘘はつかないんだよねー」という態度。それに女がついていって「私たちには私たちだけの友情があるから」「お互い体の相性がよくて」「でも彼は心の底で私だけを」とかそういうのをポエってるやつ。
「お互い都合がいいから」「わかりあってる相手」「こんなに大事にされている」みたいな感じで相互性を強調する。相互性はゼロだとどこかでわかっているから自分に言い聞かせたくてはてブロとかノートとかTwitterとでポエ散らかす。
自己欺瞞のためなら何でもする。
この世にありふれている悲劇とわかっている出来事でも、いざ自分の身に降りかかると、気持ちの整理に時間がかかるもので。
先日、自分が推していたコンカフェキャストが卒業した。コンカフェというものに初めて訪れて、初対面で気に入ったキャストだったので、今後その娘以上に特別な存在は現れないだろうと思えるほど、素敵なキャストだった。自分にとってのコンカフェとは、その娘のいる空間のことだった。
喪失の悲しみと向き合うために、今の自分の感情を整理する必要があると思い、コンカフェに通う中であった悲喜交々を文章としてアウトプットすることにした。取るにたらないオタクの身辺雑記でしかないが、今コンカフェに推しがいるヒト、推しの卒業が迫っているヒトにとっての一つの導になれば良いなと思う。
元々コンカフェというものに興味があって、職場の同僚と飲んだ後に、「一度寄ってみたいんだ」と誘い、とりあえず最寄りの評価が高そうな店を訪れたのがきっかけだった。前提知識がない状態で入店し、そこでたくさんお話をしてくれたのが推しだった。
推しの魅力はなんといっても人間離れした美しい顔立ちとプロポーション、そしてコンカフェ嬢らしからぬ素朴さにあるのだが、これは万の言葉を尽くしても伝え切れるものではないので置いておく。
推しと出会ってから卒業までの1年と数ヶ月、ほとんど欠かすことなく通い続け、多い時では週に4〜5回行っていたこともあった。店が帰路の途上にあるのでアクセスが良く、推しの出勤日は帰宅時に必ず寄るようにしていた。
仕事の疲れや日々の嫌気は、推しと接することで解消され、明日への活力になった。推しと出会ってから仕事のパフォーマンスも向上した実感がある。職場でも、コンカフェに通っていてこんなに可愛い推しがいるんだと喧伝していたので、良いイジられのネタにもなって、コミュニケーションも活性化した。「今日は推しの出勤日なので」といえば、残業も切り上げられ、飲みに誘われることもなかった。コンカフェに通っている間は、私生活にも良い影響が多分に出ていて、「推しは精神安定剤」とはよく言ったものだと実感した。
それくらい、自分の日常の中に推しは溶け込み、なくてはならない存在になっていた。一年という期間は、推し活としては恐らく長いものではないのだろうが、ヒト一人の生活を変えるには充分な期間といえる。
推しのおかげで、自分の人生は間違いなく好転した。そのことについては、ただただ感謝したい。
ここからは少し愚痴っぽい話になる。推しは素晴らしいという前提は当然のものとして、コンカフェというシステム上、どうしてもつきまとう歯痒さというものがあって、これはいくらか共感を得られるのではなかろうかと思っている。
前述の通り、自分は推しの出勤日には必ず店に行くようにしていて、所謂全通オタク状態だった。滞在時間も大体2時間程度で、顔出しだけして帰るということは極力ないようにしていた。それは推しへの目配せとかではなく、単純に自分が少しでも長く多く、推しを見ていたかっただけだから、必然そうなってしまったのだ。
自分の知る限り、他に全通している推しのオタクはいなかったように思う。他のキャストからも「推しちゃんのお客さんと言えば貴方ですよね」という話をされて、嬉しかった記憶がある。店自体が、あまり単価の安いところではないので、足繁く通うことにたしかに抵抗はあったのだが、それを差し置いてでも通いたくなるほど、推しは魅力的だった。
しかし、会う頻度が高いほど、話す時間が長いほど、注ぎ込む金額が多いほど、推しの中での自分の存在は希釈されていく。これが避けようのないジレンマだった。
毎日顔を見る人間と、月に一度しか会わない人間、どちらとの時間を優先するかと言われると、それは後者だろう。1ヶ月ぶりにコンカフェに行ったのに、常連ばかりを相手にして自分は放置となれば、店や推しに愛想を尽かされてしまう。なので、毎日居て、いつでも話ができる自分のような存在はどうしても後回しになってしまう。
推しは客に対して非常にフラットな接し方をするタイプで、誰か一人を贔屓することはなかった。自分に会いに来る客は皆等しく対応し、新規の客にも積極的にアプローチしていた。これは自分が都合のいい解釈をしているだけで、ただ単に相手をするのが厄介だから干されていたという可能性も決してなくはないのだが、それを想定するのはあまりにも辛いので、見えないふりをしておく。
ともかく、通えば通うほど推しからの優先度が上がるというわけでもないので、実のところ、金額に対する満足感というのは求めるべくもなかった。他に全く客がいない、あるいは他キャストの担当しかいない状況であれば、推しと長く話すことはできたが、そうでない場合は、推しが自分のところにいてくれた時間というのは、決して長くはなかった。
それを不満と思うのであれば、コンカフェという、キャストにある程度接客の裁量が委ねられている業態の店に行くべきではないので、不満ではないのだという自己欺瞞は絶やさずにいた。
言い得て妙な話だが、キャバクラやガールズバーはお金を払って女性にチヤホヤされに行くところだが、コンカフェはお金を払って女の子をチヤホヤしに行くところなのだ。そこに気付くと、自分の立場が俯瞰できる。そういう業態の店をわざわざ選んで行っているのだから、甘んじて受け入れるべきだ。そう自身に言い聞かせることで、ジレンマと向き合っていた。
そんな、迂遠な理屈を介してでも行きたくなるほどに、推しは魅力的だったのだ。
推しは学生なので、学業及び就職活動に専念するために卒業する、というのが名目だ。
最終日、自分はオープン前から店前に待機し、一番乗りで入店し、ラストまでの8時間店に居続けた。
店で最高額のシャンパンと推しのオリシャンを一本ずつ入れ、フラワースタンドも発注し、細やかな誕生日プレゼントを渡し、物販のグッズは全て買い占め、ランダムのアイテムも全てゲットした。結果的に冬のボーナスを全て注ぎ込んでも足りない程の会計となったが、最後の花火なので、後悔はない。
シャンパンを開ける時も、フラワースタンドが搬入された時も、推しは喜んでくれた。推しのコンカフェ人生の集大成に、多少の花が添えられたなら、これに勝る喜びない。
最終日の8時間の内、推しと会話ができた時間はおそらく30分にも満たなかった。対面で5分以上連続で話したタイミングは一度もなかった。
推しほどのポテンシャルがあるキャストの生誕卒なので、当然ながら店は盛況を極めた。推しは絶えず各席を回り、オタク達に別れを告げ、思い出話に花を咲かせ、これからの人生の展望を語っていた。
それを横目で追いながら、机上に増えていくグッズを眺めることしかできなかったことが、とても寂しかった。
ほんの10分程度でも積もり積もった思い出を語らう時間があれば、この寂しさを覚えることはなかっただろう、ということはきっとなく、ヒトの欲に際限はないので、10分あったならばもう5分、さらに5分と、より長い語らいを求めていただろう。なので、この寂しさは決して埋まることはなかったのだ。最終日を迎える時点で、抱えるべくして抱えた当然の帰結だった。
ただ、しかしただ、ほんの少しでも、この一年と少しの期間の思い出が報われる時間が欲しかったと思うのは、贅沢なのだろうか。推しのために誰よりもお金を使った。自分は高給取りではないので、決して平然と出せる金額ではなかった。当日も、誰よりもイベントを盛り上げるべく尽力したつもりだって。誰よりも推しと長い時間を過ごしてきた。そんな自分が、多少でも特別扱いを求めるのは、傲慢だったのか。
推しのオリシャンは、閉店1時間前に急遽下ろしたものだった。店長には「せめて、推しのコンカフェ人生最後のポンは、自分にさせて欲しい」と頼んだ。自分のオリシャンが空いた数分後に、別卓でも軽快な破裂音が鳴っていた。自分は、横に座っていた会社の同僚の肩を叩きながら、腹を抱えて笑った。周りにいたキャストが引き気味に目線を寄越すくらいには、大声で笑った。おかしくて仕方がなかった。
その後、店長が気を遣ってか、「一番最後に退店してもらうので、席に残っててください」と声をかけてくれた。
自分と、会社の同僚と、地元の友人の3人で店を出る間際、もうここしかタイミングがないと思い、「少しだけ語らせてほしい」と推しに声をかけた。とにかく何かしら思い出を語ろうと思ったが、酔いが回っていて、うまく言葉が出てこなかった。ヘラヘラ笑いながら「これからも頑張ってね」的なニュアンスを伝えた気がする。みっともない限りだった。
それで、終了だった。
こうして文章にしてみて、自分は結局最終日に構ってもらえなかったことが悔しかったという、それだけが言いたかったのだと気付いた。
お金と時間を費やせばそれだけ推しにとって特別な存在になれるのだと勘違いしていたその結果の醜態だった。
当然、そんなわけはない。コンカフェとは、支払った分の見返りを求めて通うところではないのだと、自分は最後の日まで気付くことが出来なかった。理屈としてはわかっているつもりだったが、その日まで実感を得ることができなかった。
あるいは自分がもっと、ヒトとして魅力があって、喋りも達者で、推しを楽しませることができる人間だったら結末は違っていたのだろうかと、詮無いことを考えてしまう。ただ座って会話もままならない状態で金だけ注ぎ込んでいたら、それは養分になって当然だ。
自分の非を治そうともせず、そんなところで延々愚痴を垂れ流すことしかできない下らない人間なのだから、相応の結果だったのだろう。
推しが居ない生活に戻って、自分はこれからどうなるのか、今はまだよくわからない。
願わくば、推しの今後の人生で、ほんの一瞬でも自分のことを思い出す時間があれば良いなと思う。それが少しでも良い思い出としてだったなら、多少は報われるだろうかと思う。
増田は心地が良い
なぜって、「死にたい」と言ってもみんなスルーしてくれるからだ
好き勝手に呟き、ぼやき、溢し、託つことがあっても、誰も過剰に侵入ってこない
耐えがたいものがある
増田は、良い
これまでの全てと、これからの全てと、現在の全てから切り離して「言葉」と「心」だけが残るからだ
ここでなら、私は思う存分「死んでいたい」と叫ぶことができる
「本当は何もかも投げ捨てて、何も考えずに沈んでいたいんだ」と自己憐憫気味に嘆くこともできる
「自分可愛さに、上っ面で言葉を重ねる自己欺瞞自我肥大無価値クソ野郎死に晒せ」と自己嫌悪を撒き散らしても、気を使われたり、自宅まで押しかけて説教をかます人間も出てこない
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