パヨク以外のまともな考えを持った人は、学歴と家庭の収入に密接な相関があることを知っている。家庭が裕福なほど高いスコアを獲得する可能性が高くなる。
裕福な親は子供を受験対策の塾に参加させるだけではなく、ダンスや音楽レッスンを受けさせたり、ゴルフなどのエリートスポーツをさせたり、英会話スクールに通わせることで状況を有利になるよう訓練し、本物の善意ではなく下層階級に対する関心を示すために善行を積むように仕向けるのである。
そして授業料である。学生を入学させることのできる家庭は裕福であり、その他の貧乏人はローンを組むなど不利な状況に立たされる。この点から言っても、支払い能力を持つクソエリートの方が入学させる可能性が高くなるのである。
頭のおかしい評論家は、この不平等について「能力主義ではない」と嘘を吐くが、「男性の方が能力が高い」といった理由で医大が女性を差別するのも能力主義の不正が蔓延している一つの証拠である。
意見の相違はあるが、能力主義の連中は「能力を評価することは公正であり、能力に基づいて入学者を判断すべき」などと傲慢な態度を取る傾向にある。
暗黙の了解として、「実力主義で入学した者はそこから得られる利益を享受する資格がある」などと、弱者への差別を加速させるようなことを共有しているのである。
こんな考えが正しいと考えるのが、つまりリベラル派、パヨクである。少なくとも米国の政治論争で証明されている。対立はここ数十年の不平等の広がりに端を発している。誰がどの大学に入るかによって、より多くのことが左右されるという事実がある。
最も裕福な10%の人々の有名大学への進学がより重要視されるようになったのである。
50年前、大学への入学はそれほど困難なものではなかったとされる。4年制大学に進学するアメリカ人は5人に1人以下で、進学する人は自宅近くの大学に入学する傾向があったようだ。大学のランキングは、現在ほど重要視されてなかった。
しかし、経済的な不安だけがすべてではない。トップに立つ者は、自分の成功が道徳的に正当化されると信じたいものである。実力主義社会では、勝者は自分の才能と努力によって成功を勝ち取ったのだと信じなければならない。
連中はますます傲慢になり、自分たちの力で成功したのだという誤解を招いてしまうのである。
東大入学のために浪人する馬鹿について考えよう。彼らはエリート大学への入学がもたらす実力主義的な名声、つまり幻のようなものを求めているのである。
門をくぐった学生も、自分の力だけで入学できたとは言い切れない。親や教師は誰だったのか。自分だけの力ではどうにもならない才能についてはどうだ?たまたま持っていた才能を開花させ、それに報いてくれる社会に住んでいた幸運はどうだ。
競争的な実力主義の中で勝ち残った人々は、競争に対して見えないところで恩義を感じている。実力主義が強まるにつれて、その努力は私たちを吸収し、恩義は見えなくなる。不正行為や賄賂、富裕層への特別な特権がない公正な実力主義であっても、傲慢な連中が自分たちの力で成功したという誤った印象を持つのである。
これは自己欺瞞であるだけでなく、市民感覚を腐敗させるものである。自分たちのことを自分で作ったものだと思えば思うほど、感謝や謙虚さを学ぶのが難しくなるからである。感謝や謙虚という感情がなければ、共通の利益を大切にすることは難しい。
現代の政治においても、誰が何に値するかについての議論が盛んである。表面的には、これらの議論は公正さについてである。望ましい財や社会的地位を得るために競争する機会が本当に皆に平等に与えられているのか。