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はてなキーワード: 災害とは

2023-03-13

災害時に避難所に食料を持ち込むと起きること

防災意識が高く食料を備蓄していて、避難所にそれを持って避難した時に起きること

・食べる時にジロジロ見られる

・「その食べ物どうしたんですか」とわざわざ聞きに来る人がいる

・よその子供が自分もアレを食べたいと親にねだる

他人に食料を分けると他の人も寄ってくる

自動車に食料を積んでると、わざわざ車の中を覗き込んであそこの車は食べ物を隠してると言いふらす人が出てくる

anond:20230313010048

他の日だってまあまあな災害事件一つくらいあるから気にすんな

2023-03-12

災害時の助け合い

ガルガルママKKONG

子供の見守り

ガルガルママ犯罪者予備軍はNG

町内会が廃れた原因がわかったゾ!

anond:20230311085306

地震大国で100年以内の大きめ地震を知らなかった(ピンとこない)人間災害に対する意識の低さとか当事者意識とか説かれてもな。

調べたりしなかったんでしょ、被災後も。

生きるのに大変で。

大学でもやらなかったんでしょ。

災害対策を学ぶにあたって過去の事例は多いほど良いんだし、社会的にどう対策されてきたか地震後に何が変わったか神戸が出てこないわけ無いだろが。

専門にしないまでも義務教育歴史なり社会なり理科なり、何かしらでやらないはず無いんだ地震話題なんて。神戸限定じゃなくても大地震の記録についての授業内容あったハズ。


そりゃ反感買うわ。

anond:20230311141359

3.11を忘れない。って言葉を見るたびに最初からそう思ってる。まあ世界中自分けが不幸っていうのは蜜の味から死ぬまでやるつもりなんじゃね。どれぐらいだろう関西だけでなく地方災害被害者日本の半分以上は連中に12年間呆れてるのでは。今だに日本災害被害者代表みたいなツラで文章書いてるし。気づいた。とかいってるけど元増田は抜けてないわ。もう一生やってろよって感じ。

2023-03-11

井戸水なんか災害が起きなくても汚くね?

なんでそんなの生活用水に使うの?

自然にそのままある水が綺麗なんて思い込みだよ、信用しすぎだろ。

anond:20230311085306

以下のくだりが、とても印象的だった。

その時にわたし出身地名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。

その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分神戸出身でさ」と言われた。

恥ずかしい話、「神戸出身から」と言われて私は何も分からなかった。

私は自分地震津波被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。

「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。

その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき

上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウム事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて

やっと気づいた。


ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。

自分けが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。

ただ、被害者という言葉共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災経験したひとと、東日本大震災経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの

多分、増田上記言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。

ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマ性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北もっとも大きな漁港ひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。

しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。

父は東北我が家家系からすると、よそから婿養子だった。

その父が他界した親戚をふりかえってぽつりとこうつぶやいた。

「あれは天罰のようなものだったんだろうね 」と。

期待していない予想外の冷徹つぶやきに私は動揺した。

他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年津波の前から漁港生計を営んでいた。1933年津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。

大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉自身のつらみを含ませて表現したのだった。

父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情

個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。

たとえ、誰と震災経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。

震災経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。

こうしたファミリーヒストリー視点でそれぞれの思いがある一方で、

上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウム事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて

やっと気づいた。

という上司言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロ視点での気づきをもたらすのも災害だ。

そして、それが何かの理由で、自分自身ファミリーヒストリー神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分ある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。

実をいうと、よりマクロ視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性被害を増幅させている、という視点最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。

1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理文脈で救援対象として、比較ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市社会構造脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災自分仕事として防災世界に入るきっかけを作った。

ざくっとまとめると以下のような歴史神戸にはある。

神戸都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入低所得層脆弱埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀鉄道時代に入ると、阪神間交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地住宅地建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代都市生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸産業シンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者低所得者ばかりとなった(インナーティ形成)。

これに対して1980年代神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設物流機能強化のための明石大橋建設最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。

その一方、社会脆弱層への支援行政による市街地再生は後手に回っていた。

オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地長田区スラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったか番町地区検索をしてほしい。

このような経済格差脆弱性が生み出された、マクロ構造変動のなかで襲ったのが1995年大地震であり、被害社会経済的脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。

社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害高齢者低所得者に集中したのは、ある意味歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロ政治的経済的な動向と切り離せないということだ。

そして、このような格差脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコシリア大地震でも、当てはめることができる。

このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。

パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。

また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロ特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっと重要エントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。

からトルコシリア現在進行形震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロ視点で、特定家族地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGO支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係SNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分支援したお金支援先の一家族あたりの支援額(しか第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。

そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。

その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分神戸出身でさ」と言われた。

というのは、居酒屋トイレ洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。

災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。

anond:20230311124803

男は悪意を持って弱者男性攻撃するけどもはや女のそれには悪意すらない

存在価値のない弱者男性死ぬべきですよね、なんでまだ死んでないんですか?」って確信犯迫害してくる

男の敵が男なら女は天敵

天敵というかもはや災害

[] そのごひゃくきゅうじゅうはち

マリウーッス

 

本日パンダ発見の日、日本においては東日本大震災の日となっております

何年経っても忘れられるようなものではありませんが、スマートフォン流通などによりいつでもいろんな記録を撮ることが出来ていているからこそ、忘れられないように出来ているのだと思います

勿論、当事者人達も忘れないようにしている部分があるし、あまりにも身近な自然災害への対策からこそ忘れてはいけないのだと思います

堤防があっても避けられないこともあります、だからこそ逃げる時はちゃんと準備して逃げることが大事なんですね。

とはいえ、一つの災害でも提言できることが多いので

今回はまずは何があって、どんな警告をされたらどう逃げるべきかを理解しておくことが大事です。

まり、その土地ではどういう災害が起きやすいか理解しておくことです。

山側なら土砂崩れが起きやすいか、とか

川が増水したら家に浸水してくる、とか

自分が住んでいる地域にはどういう自然災害が起きやすいのかを確認して、もしもの災害に備えておきましょう。

 

ということで本日は【現地調査いか】でいきたいと思います

現地調査いか!現地調査ヨシ!

 

それでは今日も一日、ご安全に!

anond:20230311124803

ここもそうだけど、他人を見下して馬鹿にして喜ぶ人間は世の中に多い。男とか女とか関係無く。他者からの悪意に慣れてない人間は他のやつがそういうのをやられてるだけでも嫌な気分になるよな。俺もよくここでやられる。別に誰のことも傷付けない善良で無害な書き込みであっても、弱くて言い返して来なそうなら『なんでそこまで言われないといけないんだ?』くらい言ってくる。もうそういうのって災害とか交通事故とかと似たようなものなんだろうと思う。巻き込まれたら不運。しかし巻き込まれることを恐れていたら何も発信できない。そういうの、自衛って難しい。

311に寄せて

忘れちゃならん災害だけど、今日あえて書きたい。

311地震があった当時、まだ子どもだった私は兄と父方の祖父母を亡くした。友達も亡くなった。

親戚や母方の祖父母の協力もあって大学まで進学でき、就職もしたが、あの地震津波子どもの私のアイデンティティに影響を与えた。

大学関東に行ったが出身地について話すと(ああ、津波の…)みたいな反応があったし、これからもそういう印象を持たれ続けるんだろうなと思っていたし、311のことを忘れてほしくないからそれで良いと思っていた。

今でも思い出さない日はないし、地震津波に対する意識が低いというか、当事者意識のない人に苛つくこともあった。自分だって被災するまで当事者意識の欠片もなかったのに良いご身分だとは思っている。

関東就職した。

就職して半年くらいの頃に出張関西の支社に行った。上司に連れられて関西支社の人たちと話して、軽い自己紹介の折、出身地とかを聞かれて答えると、

「ああ、地震とか津波があったとこ…」と言った人がいた。ちょっとデリカシーがないぞ、みたいなことを誰かが嗜めるように言ってくれてた気がする。

その時にわたし出身地名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。

その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分神戸出身でさ」と言われた。

恥ずかしい話、「神戸出身から」と言われて私は何も分からなかった。

私は自分地震津波被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。

「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。

その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき

上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウム事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて

やっと気づいた。

あのとき声をかけてくれた人は自分神戸震災被災者でデリカシーのない人に出くわしたとき気持ち分からんでもないよ、と気を使ってくれていたのだ。

なのに私は自分被災者だという自意識から抜け出せず、東北震災は忘れてほしくないと考えてるくせに、他の被災者のことは簡単に忘れていた。

すごく恥ずかしく申し訳なくなった。

今はもう簡単他人東北震災を忘れてほしくない、とは言えない。

どんなに限局的な災害でも、被災した人にとっては、たぶん東北阪神震災より大きな出来事なのだ

私は規模が大きい災害に遭遇したから大変ではあったが今でも色んな人が気を使ってくれたり、たぶん限局的な災害では受けられなかった支援を受けられたところもあった。(被災したもの自分努力保険でなんとかするしかなかった人の話を聞いた)

忘れないということも大事だし、そのための活動必要だけど忘れた人を責めたくない。忘れていても教訓が生きていればもうそれで良いと思っている。

忘れないでと言う人には、災害の多い国で自分も忘れてる災害被災者がごまんといることだけは心の片隅で感じていてほしい。

被災地じゃない私の震災の記録

当時高校生だった私は、とある理由で全校生徒が体育館に集まっていました。

ある時、携帯電話からいたことのない音が鳴り響きました。校内持ち歩き不可のはずの携帯電話男子生徒の制服の内ポケットからスマートフォン女子生徒のカーディガンポケットから、そして渡り廊下の奥の教室から、けたたましく鳴る不快な音。

そしてズズズというこれまた聞いたことのない大きな低い地響きの後に、突き上げるような揺れが起こりました。体育館という建物はバネが効いているので、観測された震度の何倍もの揺れを身体に感じていました。

女子生徒の悲鳴、頭を覆えという教師の怒号、ギシギシと動く体育館の壁、そして見たこともないくらい左右にぶらんぶらんと揺れる天井の照明、何が起こったかからないと口を開けたままの友人の顔。

大きな揺れは収まりましたが、集会は中止になり即座に帰宅指導がありました。地元が同じ人間は一緒に帰って欲しいと先生が言っていました。電車は動いていなかったので、電車で通っている人たちは親の車を待つことになり、しばらく校内に残っていたといいます

この時、電波はなく、また不幸なことにこの地域だけ停電と断水が起こっていました。私たちは大きな地震が近くで起こったのだということしかわかりませんでした。

私は比較学校の近所だったので、歩いて帰りました。雪が残る道を必死に帰りました。家に帰ると、祖母が外で近所の人たちと話をしていました。咄嗟に外に出たと言います。着の身着のままで、寒さからなのか、揺れの怖さなのか、身体が少し震えていました。それは私も同じでした。あの体育館で感じた恐怖がまだ残っていました。

家の中はぐちゃぐちゃでした。食器棚が全て開き、割れた皿はなかったものの、倒れたものが床に散乱していました。

祖母病気後遺症で目が悪く、なにも触らなかったと言います。私はそれを片付け、両親が帰るのを待ちました。父も母も小学校教諭でしたので、我が家にすぐ帰ることは出来ませんでした。2人とも、自分学校の生徒をすべて家に帰し、家まで送り、その後に家に帰ってきました。

私の住んでいた県は断水が少なかったと、後から言われましたが、私の家のある地域は断水しました。そして停電も続きました。

雪国3月上旬オール電化だった我が家は非常に冷たく、静かで、怖かったことを覚えています。家がこんなに寒かったのだと、靴下を履いて眠ったことは初めてでした。

それまで肌が乾燥することはありませんでしたが、寒さにより乾燥し、頬が粉を吹きました。クリームを塗りなさいと親に言われたのは人生で初めてで、そこで寒いと肌は乾燥するのだと知りました。

全く暖房がないわけではありませんでした。石油ストーブがありましたが、この後どうなるかが分からないので、居間ひとつだけ点火し、大事に使おうと決めました。

父が帰宅して、仏壇用の蝋燭の火を囲み、家族4人でスープを飲みました。

その時に、宮城県が揺れたらしいと教えてくれました。父も母も私も、携帯電話電池が惜しくてネットを見ていませんでした。電波はかろうじて復活していたようでした。

明日になれば電気は戻るだろうと、その日は早くに寝ました。何もすることができず、寝るしかなかったのです。

眠る前、ストーブ灯油を入れるために外に出ました。その時、見上げた空を一生忘れないでしょう。私の住んでいた土地田舎で、普段でも晴れた夜は星が綺麗に見えていました。何度か旅行に行った東京の何倍も星が綺麗だなと思ったものでしたが、その日だけは違いました。星しか見えないのです。大きな星が爛々と瞬き、小さな星たちが埋め尽くし、いつもの星空とは全く違うものでした。

あんなに暗い田舎でも、明るかったのです。真に光がない夜はこんなにも星空を輝かせるのだと、心が震えました。そして、とても怖くなりました。知りたくなかったのです。こんなに星が美しいことを、災害で知りたくなかった。冷えた空気が鼻腔を凍てつかせたので、早く家に戻りました。

家に戻ると、父と母が携帯電話を見つめていました。母は手で目を覆っていました。ほら見ろ、と見せられたのはワンセグ放送でした。そこに映し出された映像を見て、足がすくみました。津波映像でした。仙台空港が波に飲まれていく、その映像でした。私は仙台空港自体には行ったことはありませんでしたし、仙台市にもあまり行ったことはありませんでしたが、石巻名取市閖上地区気仙沼には何度も行っていました。仙台空港がこのような状況なら、私たち旅行に行っていたあの場所はどうなっているのか、これはどんな被害なのか、何が起こったのか、全ては分かりませんでした。父の充電はギリギリで、それ以上は見ることができず、その日は諦めて横になりました。私はしばらく寝られませんでした。

閖上のサイクルセンターのどでかい合宿所みたいな部屋に家族4人で泊まり、その施設飲食店晩ご飯を食べたことが昨日のことのように思い出され、その建物は、そこの人たちは、どうなってしまったのか、怖くて怖くて堪りませんでした。

人が死んでしまうような災害だったのだろうかと、それすら曖昧でした。

情報がないというのがこんなにも不自由なのだと思ったのもこの日でした。

翌日電気が復活し、テレビ報道津波被害を目の当たりにしました。

あとはもう、ご存知の通りです。

断水復活までは少し時間がかかりましたが、私の地域はそんなに被害がありませんでした。建物に大きなヒビが入ったり、道路割れたり、といったところでした。余震は続きました。

ただ、普段明るくおちゃらけ雰囲気の友人が、宮城県単身赴任をしている父親と連絡が取れないと瞳と口の端をぶるぶる震わせて話す姿が目に焼き付いています彼女父親津波で亡くなったと聞きました。

私は大学生を経て、社会人になり仙台に転勤してきました。もっと生々しい震災の話を聞くことが多くなりました。

南三陸女川出身の子達は皆、口を揃えて言います。家は流されて実家はないのだと。仕事がなくなって仙台の街中に出てきたのだと。避難中に津波に巻き込まれて、電柱にしがみついて生きながらえたという人もいました。

私の仕事スーパーゼネコン施工管理でしたので、震災復興事業が主の時期でした。真新しいコンクリートの壁が海を阻みます防波堤は高く高く、そびえ立っていました。ひび割れだらけの建物が、そこらかしこらにありました。そして、本丸と呼ばれたあの地にも行きました。人の住まなくなった家は、あんなにも朽ちるのが早いのかと今も恐ろしく思います

なにより、この地域はよく写真展を開きます震災前の写真、直後の写真、今の写真、それらを並べて展示するのです。私はその写真を見て泣いてしまますイオン一角で、震災を知らない子供たちが走り回るイオンの中で行われていた写真展を見て、泣いていました。

今でも、その地に行くと、津波最高到達点という線が刻まれ建物があります。ここまで津波が来たぞという標識があります

どうか忘れないで。風化しないで。思い出して。

今日だけでいいです。

被災地じゃなくても、地震被害はありました。

お願いです。

忘れないでください。

3月オールアンラーキーデイズ

今日3月11日9月11日を毎年不謹慎だと叫ぶ連中や、「何らかの記念日だし普通の日とすべきだ」と書かれたアンサイクロペディア、全てにぶちぎれた増田が1年全ての日付(8月32日11月31日なども含める)を不謹慎の日と扱うリスト

それがオールアンラーキーデイズ(All anrakki days)だ

勝手にまとめたリストから勝手日めくりカレンダー薄い本商品化もなんだってしてもらってもいいぜ

決め方

以下の順番でその日に起きた出来事をチェック

基本は日本縛りだが、あまりにもデカすぎる事件事象場合や、不謹慎がない場合海外対象に入る

  1. インターネットミーム化したものなどのネット炎上事件増田らしく)
  2. 東日本大震災台風豪雨などの未曾有の自然災害
  3. 世界レベルで起きた戦争の開戦・終戦日(世界大戦及びそれに匹敵するレベルのもの冷戦など)
  4. 1900年以降に起きた戦争テロ等の軍事行動殺人事件ロシアウクライナなど)
  5. 1900年以降に発生した交通事故(空>海>陸の順、死亡しない場合は除外)
  6. 世界的に炎上問題行動を起こした人間誕生日(本当に話題が無い時に書く)

3月

2023-03-10

三浦瑠麗夫は交渉が下手すぎる

報道で伝え聞くところによる事件概要をまとめると

瑠麗夫の事業のつまづきポイントは主に2つらしい

(1)他の太陽光事業者に自分の買った土地電線通す権利をふっかけすぎて決裂した

これはシンプルにアホすぎる

相場10倍を提示らしいがさすがに相手は飲めないとのことで引き上げてしまったのだという

買ってもらえなきゃ1円にもならないのだから落とし所を探れば良かったのに

(2)太陽光発電のための土地開発で地元住民同意を得るのに失敗した

(1)の地上げ失敗で土地を持て余してしまったので、仕方なく自分太陽光発電事業に参入することにしたらしい

しかしここで設備設置のための土地開発に関する地元住民同意を得ることにも失敗する、瑠麗夫無能すぎんか

太陽光パネルを積極的に設置したいと思ってる田舎者なんてもはやいない

太陽光パネルはあっても雇用を生み出すわけでもないし、土砂崩れなど災害リスク高まるし、景観も悪いし、

原発ほどではないけどみんな自分の目の届かないどっかに設置しろと思っている

地元住民にはメリットがないのだから、ここは下手に出てご機嫌取りしてなんとか許可を頂くというのが交渉の基本姿勢

しかし瑠麗夫にはこの下手に出るという態度ができなかったのだろう

見るからプライドが高く高圧的で上から目線な瑠麗夫が、たぶん大学とかも出てない田舎者ジジイものご機嫌取りなどできるわけがないのは火を見るより明らか

ここで土地開発の同意を得られなかったことで瑠麗夫の敗北は決まった

まとめると瑠麗夫はとにかくめちゃくちゃ交渉がヘタクソ、押して押してダメならタックルするという脳筋戦法しか取れない無能だということだ

東大出て官僚外資系銀行を経てスタートアップ社長文句のないエリートコースを歩んでいるように見えるが

実際のところ官僚外資系銀行も大した成果が出せず、期待もされておらず、我慢できずに飛び出したってのがリアルな瑠麗夫の姿じゃねーかなと俺は思ってる

2023-03-09

anond:20230309104349

例えば災害の後片付けみたいに短期一定の結果が出る・出すべき種類の社会的課題もあれば、地雷撤去みたいに理屈の上では最終ゴールはあるがいつのことになるやらという種類の課題、また例えばいじめ問題のように人の世の続く限り終わりはないであろう種類の課題もあるので、一括りに論じることはできない。

やることがもうないのに専従者が失業しないため、自己保存のために活動を引き伸ばすみたいなのは一番しょーもないパターン

いずれにせよ、いち団体が〇〇問題のこの世からの一掃と発展的解体を目指して活動してたりはしないだろう。現実的にできることをやろう、手を動かしながら考えようというのがNPOイズムじゃないのかな。

現場ベーステクニカル思考と、「非営利活動とはこういうもんだ」みたいな思い込みに拘束されない自由な発想との両立が必要

ずっと同調圧力に関する増田が消え残ってるんだけどさ

ツイッターの右にあって常に目に入る「トピック」こそ同調圧力のカタマリみたい。

見るたびにいや~な感じはしてるんだよなとふとおもった。

災害ときはまぁあってもいいかなとはおもうんだけどな)

anond:20230308124006

それさ、男はほぼ全員がアダルトコンテンツ楽しんでるから言われるんだよ。

 

男は飯を食うようにAV見てるし、もし自分がお咎めなしで証拠も残らず性犯罪まがいなことできるならするよね。(災害時の性犯罪など)

 

で、それだと女のほぼ全員が飯を食うようにジャニーズコンテンツ楽しんでないとその批判にはあたらないよね。お咎めがないならジャニーズセックスしたいかっていうと嫌だよ。

 

本当頭わるいな

2023-03-08

anond:20230308193757

いちおう人間界も野生やが?

 

まだまだ人間自然に対して無力でおすし

人間の善の部分に過剰な期待・願いをかけてるが人間も淘汰が働く生き物なんだよなって、

たまに思い出して震えるけどな

ワイくん、サバイバル能力生活能力もないので

 

まぁ大災害とか以前に発展途上国にぶち込まれるだけでワイくん容易に詰むわ

anond:20230307194008

まず、NPO等の位置づけについて少々私見を述べる。

民間非営利団体による社会的課題に対する(時には発見するところからの)アクションはいろいろ細かい種類がある。管轄官庁の違いであったり。ボランティア活動イコールではないが連続していたり。そのへんをひっくるめたズバリの一語がないので、ここではざっくり「非営利団体(の活動)」と呼んでおく。

日本で「NGO」と言うとなんか国際的活動してるニュアンスつくし

非営利団体役割は、行政による社会福祉の補完であるという。近い所で、官民パートナーシップとか新しい公共といった枠組みも近年提示されているな。

行政の補完的存在というのは勿論それはその通りなのだが、枠組みとしてはごもっともでも、補完という言葉イメージから「安上がりな下請け」と捉えられかねない危うさについては注意喚起しておきたい。

ボランティア団体やってる人で「行政のしりぬぐいをしてやってる」みたいなことを言う人がよくいる。これは「下請け」の裏返しみたいなものだ。行政がやるべきことを自分善意で肩代わりしてやってるという意識活動可能性・想像力をあらかじめ縛ってしまう。

行政従属的でも対立的でもなく、必要連携をとりつつ自由に動いた結果が相補的相乗的効果を生むというのが一番理想ではある。

もともとの出自として地縁による互助システムの後継的存在というのも無論誤りではないのだが、非営利団体活動って別に助け合い」的なことに限るものではない。それもまたイメージによる桎梏の一つではある。

自分としては、非営利団体活動とは単純に社会の中の余力的なリソースをかたちにする手段の一つであると捉えている。政治行動(投票とか)、経済活動起業とか)に並列的な位置づけのものだ。

たとえばオープンソースソフト開発、リナックスコミュニティみたいなのがまさにその代表例と言っていいだろう。政治論理商売論理とはちょっと違うルールで、人々の持つリソース結集させて社会に役立つ形にすること。

地域助け合いとか「顔の見える活動」「心に寄り添う活動」とか、「非営利団体活動シーン」でよく言われるそういうものばかりが非営利団体のあるべき姿ではない。

さて、あなた非営利団体が活きるフィールドの例として災害ボランティアを挙げている。

ある意味ではほんとうにそう。民間有志の力がうまく使われれば災ボラくらい非営利活動に「向いてる」分野はないだろう。でも実際のところ、言うほどうまくは行ってない。

めちゃくちゃもったいないことになっている。

現にあれやこれややってるじゃないか、みんなの骨折りを全否定するのかと言われればもちろんそういうことではない。リソースを活かすシステム(の不在)の話だ。神戸震災時が本邦災ボラ黎明期だとしたらいまはせいぜいが中世暗黒時代というところだ。

まあこのことについて具体的に詳論しだしたらキリがないので…。

非営利団体情報公開のありかたについて、ネットの鵜の目鷹の目でやいのやいの監視するのがアホらしいのは全くその通り。

DX的なことだとかの、テクニカルフォーマット作りの議論必要というのも全く同意

そういう具体的方策以前のちょっと理念的な話として、以前増田に書いた記事中で「情報公開非営利団体活動命綱」「コンプライアンスは足かせでなく指針とすべき」といったことを述べた。

https://anond.hatelabo.jp/20221206001603

例えば、ウクライナロシアの「情報戦」「宣伝戦」の巧拙格差を見よと言いたい。

ウクライナはまさに「情報公開」を命綱として支援を呼び込んで戦い続けている。

(もちろん後々色々と醜いものも明るみに出てくるだろうが)

一方でロシアは内向きの情報統制に終始している。

ウクライナはお涙頂戴で各国の慈悲にすがっているのではない。率直に要求を述べているし、率直さによって一定の信用を得ている。

ものすごく不謹慎な言い方になるが、ウクライナコンテンツを生んでいるのだ。命を引き換えに、だけど。ウクライナが公開する情報は、我々にとって価値あるものだ。そこで我々は納得して支援の金を出す。

非営利団体監視されていやいやながらに情報小出しにするんじゃなくて、攻めの姿勢情報しまくってそれを「売り」にするべきだ。

社会貢献的な活動に興味はあってもそれに割く時間や労力は捻出しにくいという人は多くいる。直接参加できない人が、実際の支援現場でどういうことが行われているのかという情報を受け取った上で、活動に対する投資意味寄付をする。

そういう経路を作り出すことができたら「どうやって見張るのか」なんていう問題問題ではなくなる。

個人の直接の寄付と公の補助金とはイコールではないけど、間にワンクッション入るだけで出どころはみんなの懐なんだし話の骨子はかわらない。

ブコメ指摘「ロシアデマ攻勢仕掛けてるだろうが!」あ、それはほんまにその通り。例え話として、持論を述べる上で都合がいい部分だけのつまみ食いになってる。ツッコミアザス

追記

いわゆるソーシャルグッド活動資金調達方法としてクラファンがある。

そこで問題になるのがマスの「情」の力学である

エモいストーリーがくっついてたりしてバズったものにだけ支援が集中するのではないか、そのせいで俗受け狙いのアピール合戦になり、活動のものも歪んでいくのではないか。同情の集まりやすい「ウケる弱者」の取り合いやウソつき合戦になるのではないか。あるいは分断を煽ることである陣営からの集金を狙う、邪悪なハックが行われるのではないか

そういう危惧は当然にあるし、実際そういう状況は生じている。

でも、マスの生理としてそういう(エモいもの殺到する)傾向があるからと言って、世の全員がそうなわけではない。

世間的にそこまで話題でなくても、自分の興味あるニッチな分野で、何をどうしようとしてるのか具体的によくわかる(情報公開がしっかりなされている)活動支援したいという需要だってある。

情報にはそういう堅実な支援者を掘り起こす力もある。

ミーハー的な寄付と、堅実な長期的投資のような寄付とは並立・共存可能であると思う。

anond:20230308114248

災害多い国で、自力観測までできる枠組み必要だろ。

まぁ、状況に応じて自分の好きなスケジュールで打って観測できるのがロケット持つ強みなのに、

液体も固体も同時期に失敗してるのは悲しいけど。

災害にそなえて非常食を用意してる人は

非常用のトイレも用意してる?

断水したり下水が壊れたりしてトイレが使えなかったら、一週間分の食料と水を用意していても自宅にとどまれないよ。

2023-03-07

anond:20230306194400

NGONPO監査はどうあるべきなんだろうね。

自分大学生だった2000年前後NGONPO役割社会学でよく取り扱われるテーマだったように思う。

一般教養社会学概論の授業ではテンニースゲマインシャフトゲゼルシャフト概念を習う。要は共同体相互扶助地縁血縁を同じくするもの助け合いから近代では国家公的機関が再分配の一部として行うものに移行したというお話だ。

しかしながら現代では、公的機関による直接の福祉には問題が多いことが顕在化している。それは例えば、支援必要な分野がそもそも議論されていないという議会問題であり、縦割り組織の合間の部分で押し付け合いになるとか、定期異動のため分野の知見が蓄積しづらいとかの官僚組織問題であり、あるいは「小さい政府志向」の広がりで大きな予算公務員を拡充するのが難しいなどの問題である。それを埋める役割を期待されていたのが「NGONPO」だ。

例えば「災害ボランティアネットワーク」のような組織はその好例だ。阪神淡路大震災ボランティア経験者などが立ち上げて、当時の経験から志願者と必要作業物資の整理と割当、地方自治体関係省庁との窓口一本化など、ボランティア活動を円滑に行うための知見を蓄積する団体となり全国組織化、中越地震東日本大震災ではおおいに活躍した。

都道府県市区町村でこうした知見の事前蓄積や準備は難しい。こうした事業NGONPOの方が効率よく運営できるし、国や自治体も自前で福祉を行うよりも彼らに任せて金を出す方が楽だし効率的だし安価に済むことが多いはずである

まだ行政タッチしていない福祉必要な分野で有志がNGONPOを立ち上げて活動し、賛同個人企業寄付の他に、自治体に招かれての講演や研修活動の対価、依頼された役務の対価で活動のための資金を得ることは健全かつ社会に期待される姿だ。これがゲゼルシャフト後の福祉のありかたであると。

そして、内閣府資料(https://www.npo-homepage.go.jp/about/toukei-info/ninshou-seni)では、国の認証NPO法人数は年々増加、平成23年3月で198から、令和五年で1267となっている。今後もこの増加傾向は間違いなく続く。このようにNGONPO社会要請に沿って出てきたもので、実際に役に立っている組織は多くあるので十把一絡げで叩くのは大間違いだ。しかし、その活動を見張らなくてもよいというのも大間違いだろう。明らかに不要支出を払うとか、活動内容自体違法性がないかなどのウォッチは行われるべきである

だが、増え続ける組織に対して、今回の騒動のように主に非専門家が隅から隅までチェックしてああでもないこうでもないとやるのはエネルギー無駄であるし、いか効率よくこうした法人監査ができるシステムをつくるか、が今後の課題になる。実際の行政がどうなっているか全く詳しくないのだが、NGO/NPO運営監査にまつわるDXの議論って今どうなっているのだろう。

例えば、定時の活動報告が提出しやすシステムであるとか、報告の記載内容・添付資料の良い例/悪い例であるとか、報告資料デジタル化の自動化とか、被支援者の個人名を自動匿名化プログラムだとか、申請できる/できない費用の詳しいガイドラインの配布であるとか、公的機関から監査対象機関への調査AI支援するとか、NPO専門の税理士を増やすとか、組織に対しての研修であるとか・・・

そうした方面を拡充するアイデアや実現可能性の議論が広く行われると良いと思うんだけどな。

2023-03-06

子供最優先に考えられない

未だに自分の中での「大切な人」の優先順位

夫>>>>子供達(2人兄妹だけどここは平等)、という感じ。

子供達のことも愛してるけど、夫はやっぱり恋愛感情で好きになった人だから自分が産んだ子供達だとしても、超えられない。

以前、夫と娘がインフルエンザ感染し私が看病していた時も、娘より夫を気にして夫の側にばかり居過ぎて、手伝いに来て下さった義母に叱責されてしまった。「こんな時に子供最優先にできないなんて母親自覚が足りてなさすぎる」「いつまで学生恋愛のような気持ちでいるの?貴女には家庭と子供があるのに」って。

だけど、どうしてもまだ夫は私にとって好きな人だし、尊敬してる人で、恋人で、彼氏だった頃と同じ気持ちで見て、その感覚を家庭に持ち込んでしまう。

ドン引きされる事を覚悟で言うなら、子供達の事なんか放って夫を独占して甘えたい時だってある。

家族揃ってのお出かけは嫌いではないけど、本音を言えば実家子供達を預けて子供達の事なんて忘れて夫と2人きりでデートに行きたい。

皆で外出の時、子供とじゃなく夫と手を繋ぎたい。

の子出産したばかりの時、帰宅した夫が泣き止まない息子と原因がわからず憔悴した私を見て先に私を撫でて「大丈夫?」と声をかけてくれた時、心の底からしかった。自分母親なのだ、今泣いてる子供をどうにかしないという気持ちがどうでも良くなるくらいに。

もし火事災害で夫と子供達どちらかしか助けれないような状況が起きたら躊躇いなく子供達を捨てて夫を救うと思う。

あと娘が夫にべったりでお風呂もパパとがいいって言ったり、パパと寝たいって私達の寝室に入ってきたらそれはもうダメとは言えない。言えないけど、本当は2人きりがいい、独占したいって思いながら一応母親からって事で我慢してるし、その度に娘が一瞬だけ疎ましくなったり、嫉妬したりしてしまう。

子供を持つべきでは無かったのでは?って言われそうだけど、大好きな夫の子供だからしかったんだと思う。子供って要は好きな人の血が入った、好きな人自分を有形で繋ぐモノだから、それ自体を授かれる事は嬉しい。けれど、私にとって一番大切な人は夫だから子供によって2人の時間を削られたり減らされる事は本音を言えば未だに許せない。

要するに、おそらく私はいつまでも「夫」と「彼氏」の認識の切り離しが出来ないと思う。出来る気がしない。そして、恋愛感情に基づいている以上私にとっての絶対最優先は夫で子供達はそれ以下、この認識も変えられないと思う。

私にとって世界は「夫」と「その他」の2択だし、自分が産んだ子供達も「その他」でしかない。まともな母親なら「夫」の括りがちゃん「家族」かになっているはず。私には無理。

彼氏が好きすぎてなんでも彼氏最優先でその他の人や物事二の次三の次、みたいな考えになってしまう時期って経験ある人もいると思うけど、要はあの感覚結婚しても子供を持っても抜けていないのだから母親として最低で出来損ないな自覚はある。

から夫にも一生相談しないと思うし、墓場まで持っていくと思う。

2023-03-05

anond:20230304235747

技術進歩して出来るようになってきたものと、災害汚染ヒスって出来もしないのにゴリ押しされてるものとは分けて考えたい

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