はてなキーワード: 標準化とは
うすぼんやりした知識で聞かれても何が言いたいのか分からん。グローバル標準のNFC Payに使われているNFC Type-A/Bチップは日本のSuicaやおサイフケータイに入っているType-Fチップと互換性がない。
なので標準化を考えると、スマホ側は、FとA/Bの両チップを搭載するか、海外スマホのようにFは切り捨てて交通系はプラスチックカードで持つか、あるいはA/Bの方をカード会社が発行するタッチ決済対応プラスチックカードとして持つ、はたまた特殊なSDカード+アプリとして携帯に積むことでA/B対応を果たすか、ということになる。
現状の国内のAndroidおサイフケータイはFだけ積んだものばかり(一部で両対応のものも出始めている)。iPhoneは6はA/Bチップのみ搭載なので日本では実質おサイフケータイとして使えず、7以降はA/BとFの両方を日本モデルのみの独自仕様として積んでいる。
そして決済端末側にも、FとA/Bの両チップを積む必要がある。しかし、現時点で両対応の決済端末はローソンとマクドナルド程度にしかなく、Fだけ対応の決済端末が普及してしまっている。そのため日本でGoogle Pay/Apple Payを使うにはおサイフケータイないしiPhone7以降のFを積んだ端末であること、という独自対応をされているわけだ。iPhoneの場合、厳密にはApple Payの中にNFC Pay対応のカードを登録してNFC Payできる場合もあるのだが決済端末側の対応が必要なので、前述のように場所は限られてくる。
そうしてNFC Payに対応した上で、実際にユーザーが使うNFC Pay対応の決済サービスはVISAのタッチ決済だとかMastercardのコンタクトレスだとかいう名称になる。
流れ的にはA/Bの対応が広がる兆しがあるものの、QR決済などとアホなスキームを流行らせて結局Felica回帰のようなことになったら、事態としては後退でしかないだろう。
https://no-genkin.com/entry/nfc-pay/
住宅は高すぎると思う。
25年くらいで寿命が来るのに35年ローンだと負債だけが残る。
人の流動性についても対応できていない。マイホーム買った後で転職となったら負債の負担が大きい。
大工が減る→新築が減る→家の価格が上昇する→新築が減る→大工が減る
となってしまう。
スマートフォームを売りにしているところがあるが、デジタル側のライフサイクルについていけない。
排水管の掃除が不要になるとか、キッチン回りのゴキブリが出なくなるとか、そういうのがない。
標準化も追いついてないと思う。
日本メーカーが家電作っていた時は日本独自規格でよかっただろうが、
もう海外規格に合わせていかないと、わざわざ作ってくれないので、外国から来た人からすると日本にきて利便性が減ることになる。
要件・動きを理解し、分解・標準化して部品を作り、それらを適切に組み合わせて実現する。
デキのいいプログラムとは、理にかなった構造で、処理が適切に切り分けられており、再利用しやすく、構造的バグが少なく、修正リスクが低い。そういったものを書けることがプログラマとしての技量だと考えている。
私は、流れが読みやすい分岐、引き渡すデータの考え方、不必要な状態の保持、切り分けるべき箇所、機能の標準化、例外を受け止める適切な位置、などを教えるのだがあまり気に入っていないようだ。ちゃんと動いている(ように見える)コードの書き方をごちゃごちゃ言うのは、無駄なこだわり(例えば会議資料の誤字脱字や送り仮名を子細に調べるような)に感じるらしい。
彼にとって技術力というのは「~~を使えば〇〇ができる」ということであり、より多くの新しいフレームワークやライブラリのサンプルを動かせるようになること。私の教えは勉強熱心な彼のスキルの足しにはならないのだ。
でも仕方ないのかもしれない。
より良いプログラムを書いたところで、評価してくれるのは共同作業の同僚か、私がいなくなった後でそれを引き継いだ誰かぐらいだ。場合によっては簡単だったと思われて評価が下がりさえする。
一方で沢山のフレームワークを触っておけばSNSのプロフィール欄が華やぐし、次の仕事を探すときの選択肢も広がるかもしれない。たとえそれほど良いものができなかったとしても
ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます。
この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料そのものを調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?
歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます。
これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学と哲学と社会学と人類学と歴史学と言語学とでは使う資料がぜんぜん違います。
で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います。近現代史を扱う人たちは、
を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います。
これらの史料の特色とは何か……それは、
ことです。
公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通の文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家の場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家の場合は)体制が崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代の領収書なんかをロシアの公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。
当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者は
などの手段で史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館は結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。
昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌のバックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線が必要な距離だったりパスポートと航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者の研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館でカメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近はスキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。
なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白な研究者であったとしても、一次史料の原本なんてふつうは手元にないわけですから。
しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分の論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?
もちろん分野によります。心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。
私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料をノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通の研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通のノートです。最近はノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。
なぜか? と言われれば、
です。
つまり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分の実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。
理系の学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分の実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しかし文系の場合は、少なくともここまで説明した近現代史の場合は、オリジナル資料はどこかの政府が管理している公文書館とかどこかの大学の図書館とかに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国のベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトルの史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。
なので、別にどんな方法でノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけだから。
ゆえに、歴史学の論文や著書には膨大な注がつけられます。引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。
なかには、史料が自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料で捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系の世界、基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料を典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島の方言を研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄りが自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋で歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料が研究者個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから今所属してる大学の図書館に寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……
さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文を調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会はドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。
しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料がそもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。
注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本の出版事情が絡んでいるのです。
今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系のあいだでも問題視されていることなのです。
文系の学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります。第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性とかに逐一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。
そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています。
あなたが読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店や青弓社や社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。
これらのレーベルで真面目な学術書を出版する人もいます。講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベルを一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的なタイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方を提唱したりする人もいます。学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます(最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。
さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます。「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」
こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。
もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストではてな太郎が書いた『増田の研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。
これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります。研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求に妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学か国会図書館に行くほかなく出版して書店で流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学がリポジトリを持っていていくらでもディジタルに研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米の出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードやケンブリッジやハーバードやコーネルといった有名どころのUniversity Pressは学術書を出版しまくってます。学術書が研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。
一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本の出版社やジャーナリスト、ノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードがトランプ大統領についてのルポルタージュを出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家や記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。
とはいえこれは一朝一夕にはいきません。そもそも知の折り詰めである「新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般と学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というものを鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックスや岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。
さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、
これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなたが捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料の実在を証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなたの研究の誠実性を証明できるのは、人文系の学問においては、注だけなのだ。
以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。
1(中)知能に凹凸が見られ一般に知能を代表する知覚統合や計算が苦手である
3(遊)自閉症全体では平均知能が低く知的障害との併発も非常に多い
5(三)学校や社会での適応に躓いてドロップアウトする確率が高い
6(右)高機能や正常値でわざわざグループ分けするのはそうでないやつが多いから
7(左)研究対象や重度自閉症では低知能が多いのは本質と関連しているから
(継)発達障害者が成功者に発達障害のレッテルを貼っているだけ
(抑)天才や高知能者に発達が多いと言うのは一切のデータがない
「標準化された知能検査では、広汎性発達障害全体の半数弱において遅滞が認められる。」
https://www.msdmanuals.com/ja-jp
「自閉スペクトラム症は知的障害と異なりますが、自閉スペクトラム症患者の多くに知的障害が伴っています。」
https://www.pearsonclinical.com.au/files/TechReport3WISCIVClinical%20Validity.pdf
ギフテッド平均120
アスペ平均100
ADHD平均95
学習障害90
高機能自閉症平均90
ASD平均85
自閉症平均75
1(中)知能に凹凸が見られ一般に知能を代表するとされる知覚統合や計算が苦手である
3(遊)自閉症全体では平均知能が低く知的障害との併発も非常に多い
5(三)学校や社会での適応に躓いてドロップアウトする確率が高い
6(右)高機能や正常値でわざわざグループ分けするのはそうでないやつが多いから
7(左)研究対象や重度自閉症では低知能がずっと多いのは本質と関連しているから
8(捕)精神は段階的に発達していくがその高次の脳機能障害である
(監督)天才や高知能者に発達が多いと言うのは一切のデータがない
(中継)創造的で優れた洞察力・推理力を持っているような人が他人に想像力がないわけがなくイノベーションに向いているとかも嘘
(控)要は地頭である「問題解決力必要な問題・遊びの知能テスト・パズル・戦略ゲーム・数学・空間認識・とんちetc」が苦手
(GM)君たち発達障害者が成功者に発達障害のレッテルを貼っているだけ
(ファン)犬や猫ですら言葉を使わずに協調できるし主人の顔色を伺える
「標準化された知能検査では、広汎性発達障害全体の半数弱において遅滞が認められる。」
https://www.msdmanuals.com/ja-jp
「自閉スペクトラム症は知的障害と異なりますが、自閉スペクトラム症患者の多くに知的障害が伴っています。」
はてなの自称インテリの社会不適合者はなんで自分のこと馬鹿だと理解出来ないの??
第三者的立場として、北海道民のいち意見として。自分は数年前に大阪と東京にほぼ1年ずつ働いていた事があるのでどちらの文化にもそれなりに接してきた感じで言うと、ここでトラバ付いてる意見にもそれなりに賛同するところはある。
大阪に住んでると、3か月くらいで「関西弁」が大阪、神戸、京都くらいを聞き分ける事が出来るようになる。どれにも属さない場合は大抵関西圏外の地方出身だったりする。そうやって過ごしてると、大阪という街が人種のるつぼに思えてきた。自分は北海道でも札幌圏育ちなのでほぼ標準語(関東弁)だから特にそう感じたのかもしれない。
東京は何というか言葉より文化的に違いを感じる事が多かった。とにかくぱっと見で「ちゃんと」してる人が多い。ぱっと見なので本当にちゃんとしてるかは別なのだが、表層的にちゃんと見せるのがみんな上手い。だから話していても出身地がわかりにくい。言葉の問題にも思えるが、そういう言葉も全て標準化されたある種の「規格」の中で生きてるのが東京人なんだなと思った。
【追記】
東京の話で付け加えると、東京生まれ東京育ちな友人もいるのだが、そういう人は逆に自分たち地方民の文化にオープンな人が多い。そういう人が軸になってる人の輪に入ると地方民も東京人も丸く収まってるので大阪での「人種のるつぼ」感を感じた。多分東京っぽいマウンティングと思われてるのは地方民が東京に出てきてやってる事や地方民が東京で作った家庭内での所作じゃないかなと思う。
アメリカだったら、GAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)とか、イケてる会社が山のようにあり、中国だって最近の躍進っぷりはすごい。
それに対して日本はどうだ?? かつて大企業と言われた日本の企業はことごとく凋落し、日本からイケてる新興企業はまったく現れない。
日本のIT企業の中で存在感が国内限定だが一応ある会社を無理やり絞り出してみると、
日本が衰退しまくったのは政権が野心ゼロで国の未来をまったく考えず利権にのみ全エネルギー投じた結果であり、(野心ゼロなのは他の腐敗国家より他質が悪い)完全に腐敗政治のせいかと思ったがそれだけではなく日本人のビジネスセンスの無さも大いに関連してると改めて気づいた。
技術は常に海外発。英語で書かれたドキュメントも読めず数年遅れで浸透してくる。
他国じゃ国内だけでなく世界中で使ってもらうサービスを作ることが当たり前なのに、日本は何もかもガラパゴス。もはやガラパゴスって言い方を「日本」って言い表したほうがいい。
日本化がひどいね、意味は時代錯誤の村社会思想で全てが排他的。
インターネットの登場によって、世界はより(英語で)コミュニケーションを取るようになり、いろいろなものが標準化され、プラットフォームを作ることが一つの流れとなったが、日本は地理的だけでなく、情報社会の中でも孤立している。英語力が絶望的に国レベルで低いことでオンライン上でも孤立しているのだ。
さあ、パソコンは全部捨てて桑を買おう!
いまさら?
と思いましたが、それを非難する人がたくさんいること、それを皆がツイッターで堂々と発信しているのをみて
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.u-psychiatrist.net/entry/2018/12/14/170248
これなー。本当「は? 今更何言ってんの? まさか誰もこんなだって知らなかったの?」って感じ。それで納得してるとかじゃなくて、あまりにそれが当たり前過ぎて驚きが先に来るの。
うちはこうではありませんでしたって病院や大学はないものか…患者として行くのも怖ぇ
http://b.hatena.ne.jp/entry/4662310632720112417/comment/kappateki
ないんじゃね? 日本の医療って質高いし、標準化されてるから。一連の入試差別とか、このブログ主の体験談とか、俺が見聞きした話とか、全部だいたい共通した雰囲気を感じるかな。
昨日、菅官房長官が夏時間検討を否定していて一安心していたのですが、まだ前向きなのではないかと思われる報道がありましたので、もう一回しつこくポストします。
https://www.fnn.jp/posts/00398120CX
夏時間を推進しようとしている議員がネットで情報収集する人種ではないことは、SNS上での皮肉や批判にもかかわらず、こうして事態が進行していることからあきらかです。FAXとかはがきじゃないとだめなのかもしれませんが、幸いWeb上にフォームがあるので、自民党と首相官邸に今すぐ自分の意見を伝えましょう。
https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
なぜ、限定的な問題を解決するために社会全体の構造を変更しようとするのでしょうか。私はこのような全体主義的な問題解決姿勢には大反対です。仮に開催を2時間前倒すことで猛暑にオリンピックを実施することに伴う様々な問題が解決するとしても、変更が必要なのはオリンピックのタイムテーブルであり、社会全体の時刻ではありません。
ざっくり言うと、私見では2000年問題と同じぐらいヤバく、準備期間が少ないという意味で破滅的にヤバいです(=回避不能な2000年問題)。
・世界中で夏時間と冬時間に2時間の差がある国はありません(間違っていたらご指摘ください)。ベストプラクティスが存在しません。
・何を大げさな、単に時計を進めたり戻したりすればいいだけじゃないか、と思うかもしれませんが、現代のコンピューターは世界中の様々なサービスと通信しています。そのため、時間を扱う際には内部的には一旦世界標準時で処理されるのが一般的で、内部時計を二時間進めたり戻したりすると様々な問題が起こります。ロシア/マガダン時間はすでに東京よりも二時間進んでいるので、現実的にはユーザーがスマホやPCの時刻自動設定を解除し、手動でマガダン時間に変更するしかないと思います。
・海外からオリンピックを観に来る旅行者にも「スマホの自動タイムゾーン設定を解除してロシア/マガダン時間に設定してください、マガダンのスペルはM, a, g, a, d...」などと航空会社が案内する感じになるでしょう。日本に来るのになぜかロシア時間。
・一方で、20世紀から稼働している古いシステムや、単純なシステムの中には、そもそも単一のタイムゾーン以外で動作することを考慮していないプログラムもあり、このようなシステムについては、内部時計をずらして対応するしかありません。このようなシステムから見ると、突然タイムスリップした状況に見えます。進む方はまだいいのですが、戻る方の処理は大変複雑です(たとえば、切替日の深夜営業の飲食店では、すでにタイムカードで23:30で打刻した人のあとに、22:30の打刻が出現するような状況になる)。この影響範囲についてはまったく予想がつきません。いい加減に対応すると、時計を進めていないサービスと現在時刻で同意できないために、通信ができないような事態が起こります。
夏時間の概念自体は新しいものではないので、ちゃんと日本夏時間が標準化され、各種OSが対応することが前提であれば、工数をかけて設計・実装を行えば、最新のOS上で新しく開発されるシステムは理屈上は問題なく対応することができます。
しかし、日本だけでなく世界中ですでに稼働している、時刻を表示する無数のプログラムについては、時刻表示に必要な処理や時刻設定に必要な選択肢を書き足す必要があります(日本政府が公式にロシア/マガダン時間を採用すると宣言しない限りは)。十分な準備期間を取らずに、変更が必要な箇所をすべて洗い出し、問題なく修正するのは大変むずかしいことです。また、上述のように、古いシステムではそもそも変更が不可能なこともあります。
万が一いいかげんな実装や適当な設計が行われるシステムが混じっていると、そのシステムと通信する際に2時間時間がずれて処理が行われるようなことが起こります。具体的には様々な表示時刻や予約時刻が2時間ずれたり、通信不通になるなどの問題が起こり得ます。
この結果、
・日本夏時間に正式対応していないので、ユーザーが時刻をロシアマガダン時間に手動設定することで当面正常動作するシステム(古いスマホやPCなど)
・日本夏時間に対応しないために、内部時計を進めたり戻したりして対応するシステム
・日本夏時間に対応せずに日本標準時間のまま動作し、ユーザーが時刻を頭の中で変換しなければいけないシステム
が混在することになり、社会的な混乱は必至です。
人間も機械も「それ、どっちの13時?」みたいに迷い、間違えるという毎日がやってきます。文房具屋のレシートには日本標準時が、コンビニのレシートには日本夏時間が印字されているような感じになるでしょう。ツイッターやフェイスブックなどのもともと複数のタイムゾーンに対応しているシステムや、JRや航空会社など大きい会社はたぶんちゃんと対応してくれますが、美容院の予約システムや小規模なネット予約システムは対応できずに日本標準時のまま稼働し続け、勘違いが起こります。
社会的に大きなメリットがあるのであれば、この大混乱のリスクを取ってでも前進するべきだと思いますが、本件については導入のメリットがあまりに限定的であり、得られるメリットに比べてリスクが大きすぎると思います。
あと、高校の先生が必死になるのは、出席日数が足りなくなるとそれだけで(いかなる瀕死の病気が理由でも、いかなる自習した天才でも)卒業をあたえられないという
一応、救急車に乗ったまま一歩も降りない状態でも学校の敷地内に来ていれば出席カウントになったりするようですが(それも親が必死に頭下げた場合だけ。本人の学力とは関係ないところで決まる)。
先生に休暇がないことも、卒業が学力とほとんど関係ないことも、こういうバカな制度にしたのは文科省です。
とはいえ今日明日に変えられるもんじゃないので、悲壮な言い訳や演技力を身に着け学校を卒業して大人になってから文科省をしめつけられる職業について変えてください。
SMAPがむりやり解散になったのも文科省が著作権の乱用を放任してるからです。
どこで仕事してるのか目に見えないというか、せっせと今日もくだらない書類を改ざんしたり賄賂をもらったりしてるんだろうなあ
全国読書感想文コンクールと英検くらいしか目に見えないし 英検はTOEIC(経産省)に完全にのっとられかけてるし
大学の事務は標準化されてなくてボロボロで日本一の天才学者を雑用ですり減らすことしかしてないし
ほんと仕事しろ コンピュータでビッグデータつかえ AIに本気で恐怖してんじゃねえ