はてなキーワード: 有用とは
「はてななんて暇つぶし」「別にいいだろ俺の勝手」と開き直ってる、茶化しているアホが複数居る。
そういう奴に限って最近のブクマを見ると見事に例の記事を見ている。痛い所を突かれたからかヘラヘラと誤魔化してるようで恥ずかしい。
普段偉そうなことを言ってるくせにはちまレベルに引っかかるような間抜けは非表示推奨。
元ネタが面白い、有用ならそちらをブクマすればいい。他人の褌を盗む有害サイトを吟味もせず見てPVに協力する養分。
どうせはてなのトップにあったから何の考えもなくブクマしたんだろ?眼の前にある餌に飛びつく獣かよ。こいつらの頭はまとめサイト大好きな中高生と同レベル。
オリンピックとかシステム改修コストとか健康被害とかは、とりあえず置いておく。
頻繁に偉い人たちがリソース割いて推進する理由が、純粋に分からないんだ。
猛暑対策や節電や日照時間の有効活用が謳われているけど、そんなの必要な自治体企業団体が個別に時間を前倒しにすれば良いだけであって、社会全体が時間を変える必要性が理解できないのだけど。
欧米の現行制度だって、おかしなことやっとる、という感じで眺めてるし、そういう人が大半じゃないの?
反対や問題が多くても、社会の仕組みを変えるには思い切って推進していく場合も必要だと思うのだけど。
じゃあ日本でサマータイムをそこまでして進めるべきかというと、私が考える限り何一つとして有用性が見いだせない。
私の視野が狭くて考えが浅はかなだけ?
教えて、偉いひと。
しかも土曜日だから午前中のうちにデータ送らなきゃいけない。17時までなら変わるのかっていうと微妙だけど。
ひとりでデスデスするのはマーチと言っていいのかなー。
おじいちゃん上司はチームとは言えないし、チェックしてもらえる時間を作りたかったけどコノザマ。
何がダメって、めっちゃ頑張れば最低限クオリティ行きそうなのに、逃げて増田読みまくっちゃったのよ。あー。
構って欲しくて死にたがるふりをしている増田を励まして、有用感を得る。嘘投稿より俺の方がずっとタチ悪いわなこりゃ。
でもブコメって古すぎると付けてもさあ。どーしよーこれ以上遡っても楽しくない。でもまだ自分の作ったものの酷さを直視できない。
そしてその直後、歪な景気回復と、経済成長がスピード実現していきます…。
おそらく、この印象操作にはファシストが一枚かんでいたと考えるのが自然でしょう。
この手法はかつての全体主義国家の手口そのものでもあるからです。
「今、これがはやってるよ!」
とでもいいたげな、不自然な盛り上げが行われ、
もうお分かりかと思いますが、
このような流れで施されたということなのです。
そして同時期に、それに便乗するかのように
あの愛国ポルノです。
(中略)
それまで、メディアでは「愛国ポルノ」や「日本出羽守」などという文化が、
テレビ番組などでも頻繁に使われていたにもかかわらず、
また、日本の歪な形での好景気や経済成長やヤンキー的な反知性主義も
この動きを見ていても、
そしてアベ旋風を強く押していたのは誰なのか?
とても分かりやすいのです・・・。
その報復でもするかのように日本崩壊論が世間に流通しているのです。
アベ政治…。
それは実は、このように裏側を紐解けば危険に満ちた
しかし、当時はアベ政治という「日本社会のドナルド・トランプ」が
日本のマインドコントロールを付けねらうファシスト…。
この先また同じような危険が起こらないとは言えないのです。
冒頭に脱線するがヤクザの様式についてマインドセットを準備したい。
金持ちが服装に金をかけないという話は自己啓発本やセミナー系の情報で見かける。
実際金のかかった服はあるだろうし平均以上であるかもしれない。
しかしよくわからない模様の布地で金のチェーンをして黒塗りの高級外車を乗り回さない。
金持ちであることをわざわざ毎回広告する必要がないし、外見と存在で金を稼いでいるわけではないためだ。
ではななぜヤクザは見た目で高級感を出すのか。それは高級感が目的ではなく「1番」であることを主張したいがためである。
実際の統計で数値的に1番というものではない。庶民や噂などを流布する層の一般が想像しうる「一番のもの」を選択する。
ここにタトゥー、入れ墨の問題もつながってくる。一旦派手の話はここまで。
二番目に、ヤクザというのは実際金があるからそういうものを買っているだけ、ではない。
商売の種類として見た目でするものであるから、広告業者が広告を出しているのとおなじ。
ラーメン屋の賄いがラーメンなのと同じ。一番をコレクションしている人間である必要のために持ち物が一番なだけなのである。
商売としては不人気商売、被差別商売、問題解決(非合法)、貸金業(非合法)などを行ったりするにあたり、問題解決に使うのが「1番」である。
1番高級な服を着て、1番高級純金アクセサリをして、1番高級外車に乗っている1番のおやっさんの言うことが、なぜ聞けないという交渉方法。
1番がものを言っているのだから黙れよ、1番の下には2番以降が控えているんですがそれらが何番かわからないあなたの上にのしかかってきますよ、困りませんか?という方法だ。
それはもちろん困らせに来るのだから困るだろう。
しかも1番と言われて実質なにかしら1番(実質の1位ではなく想像できる最上位の類のもの)を身についけている人間、ほぼ人物として1番であるという人間との交渉だ。
貸付金の取り立てや問題の和解、商売の風説などは実際に商品価値が高ければとか確実であれば法に則って正規の解決ができる、というものではない。
関係者の譲歩を引き出したりした結果、合意を得られた時点でのもので、合意の後の責任も果たせる範囲で強要されることはない。
強引に法的に取り立てたりすることはできるが法的回避方法がないわけでもない。
それを逃がさず大きな取り立てで強制的に回避できない方法で介入してくるとなると、それは太刀打ちできると判断される相手では物足りない。
「1番」がそれを執り行ってくるのだから、勝てないという精神的な屈服感を与える必要がある。
ここまでの「1番」や「高級」はイメージの問題で、その価値基準が一般市場に支えられているものだから庶民からの目線でそうみえるようにということである。
この話を私がしたところで、「私に」それがどうしたんだ、意味のない、という意見は寄せられるだろう。私もおなじ庶民なのでそう言われても仕方がない。
では実際にそういう格好をしている人に言えばいいじゃないか、と私が同じ庶民として進言すると、できるだろうか?
「アルマーニのスーツきて純金の喜平ぐるぐる巻いてでかいベンツ乗ってるけどなんなん?借金の取り立てを明らかに回りに迷惑がかかる方法でしてくるのは違法ってわかってんの?水商売とかくだらん仕事しやがって」
といえるかどうかである。言えないような仕組みのために、その仕事で幅をきかせるためにそのような恰好をしているのである。
ここで服は借りて着まわせばだれでもそのポストにつくことはできる。それよりも上の人としての価値(前述までの高級感)を上げるにはどうするか。
入れ墨である。体に特徴を持たせるのである。顔面の傷などもそうである。指がないといったものもそうである。
ここでまた話は脱線するが、僧侶は坊主である。なぜか。特徴をなくすためである。個人ではなく組織としての一部であるためである。
また、僧侶は結婚しない。社会的に生産をしない、継続をしない。するために自分の資産、持ち物を必要とする社会生活をしない。そのために自分の行動や行為は独善的なものをできるだけ排除してある。
僧侶が親切をしてくる、教えを説くのは独善的なものはできるだけ含まれていないという証明のためである。
何々をしなさい、という教えは僧侶が収益をあげ資産を築くためではない。個人として利益を得るためでもない。宗教は収益を与えるためではなく歴史の蓄積と人としての最善な選択への補助であることのためである。
この意味がもはや失われ自由化されているが、人がわざわざそのような立場に置かれる必要性もなくなっているためこの習慣が失われるとともに、人がそこに位置する意味と理解も失われている。
これとまったく逆が、超個性化である。ファッションで一番めだつ、はだかになってもだれかわかる特徴をもつ、莫大な財産を築くことである。
ただのマークではなくそこにメッセージを込めるというタトゥー、入れ墨がその立場を示すというだけであればファッションとなりえる。
海外でファッションになっているのは、人がどんな命を込めたメッセージでも、簡単に否定もできるし批判される側もその程度だと理解している。
個人がどれだけ大切に思って居ようが他人からしてみればゴミ同然なことが相互理解されているのだ。
なので大事だというものは相手にとっては大事なのだろうという理解もある。
主義主張を否定されると、日本では囲まれてボコられるという最終結果についてその順位と内容を吟味する必要がある。
外国人が入れ墨や個性の主張がなぜ自由なのかというと、最終的に銃撃戦で決着をつけることができるからだ。
入れ墨に問題があるか、入れている名前をバカにされたり、すてきだと言われたりする。その個人に踏み込んで問題がおきたとき最大の解決方法は殺し合いである。
最終的に相手を殺すことで決着するというのは対人の交渉でほぼ最大にして最終的に近い。これを緊急的にとはいえ選択できる状態、銃の携行があるということは、各個人の自由はかなりの広さで主張できて、相手もそれをまず認める方向になりえるし、ならざるを得ない。
その二番手である「かこんでボコる」ができるというのは組織力、どこに組織しているか、組織を指摘してくるかということである。
タトゥー、入れ墨を入れることができる、入れている、そういう側というなんとなくの組織感と、個人が特別な主張をしているという表現、これに銃を持たない入れ墨をしていない服装もふつうの人間が並んで立つと、どうなるだろうか。
どうもならなければ問題がないが、一旦会話が始まってしまったり交流したり、交渉が発生したときにどうなるかは考えないだろうか。
隣に立っている人間だとしても、一生なにも関係性は発生しないという安心感を持てるだろうか。
いま現時点でとなりにいる時点で因縁を感じざるを得ないしなんらかの問題が発生することを危惧されないだろうか。
そうなったとき、見た目やファッション、そしてタトゥー、入れ墨が個人の発言などに影響を及ぼしてくると想像される。
「おまえの一番愛するものに名前をきざんでもいないやつがそれ本当に大事といえるの?ちょっと貸してくれや」と交渉をされたとき
「命を賭してまもると決めてますんで」といえるだろうか。そしてまもるための最終手段を持っているだろうか。
持っていないという不安につけこんで、最大限安全な退路の選択をさせられ不利益を与えられる可能性が危惧されないだろうか。
「されない、どんな暴力にも屈さないし9条が守ってくれる」というならそれで守れるだろう。
しかし、実際ここで殴られた、引きはがされた、もっていかれたを解決できないかもしれないという不安が一瞬よぎったら、そこにあらゆる1番が押し掛けてくる。
たたみこんでくるように準備されているものと、突発的に不安な事象と遭遇する一般人、これで平等な交渉がなされるだろうかといえば不安ではないか。
だからタトゥー、入れ墨はダメなんだ、という現状はある。しかし私も完全否定はではないし、好みで選択すればとは思う。
それについてはその不平等な交渉の発生のために自分を飾るということが無ければという前提のもとにだ。
メメント、などである。忘れてしまうから体に刻んだなどである。
先般のりゅうちぇるについても、親が龍を背負っていたから自分はどうなった、というわけでもなく、龍をせおった父親はほかの父親の息子に対する愛よりふかかったのか、といえるわけではないはずである。
入れ墨をいれていない父親はよわいのでくじけておれるだろうが、芸能人になれた僕の父親はドラゴンの入れ墨をしていた、と言えるのか。
どうしてパパは僕を応援するために入れ墨をしてくれないの?などと子供が言い出したりするような言い回しでなければ、だ。
パパは弱くて忘れっぽいので、みんなとずっと一緒であることを忘れないために刻んだんだ、といえば、私も同情の念を抱かざるを得ない。
https://twitter.com/Miyki_Ono/status/1032259138384887813
まさにこれ、強くてパワーがあるのを嫉妬してるんでしょ、一番が怖いんでしょ、うらやましいんでしょ、という輩がでてくる。
こういった威力を感じて有用性を感じる人間が、ただ自分が満足するために体にほった名前ではない、人にみせて何かに使うため、少なくとも羨望や嫉妬を招くためにしているという前提を持つことが問題である。
それを交渉につかう、少なくとも現在SNSで自己の優位性主張のために利用しているという、この利用のために使われるべきものではないという事である。
それを使うから否定され敬遠さえるという事自体に気が付くべきだ。
個人の思いれだけの話である、という相互理解で入れ墨を見て、ほんとに守るべきと感じたならだれでも最終手段を持ち出せる、それが自由と平等の立場である、という環境だからこそ広くタトゥー、入れ墨が公に一般化している社会もある。
いまの日本では、より強い主張というものがあり、より多くの人間が威力としてあるぞという主張のために使われたり、それを手段として準備をするという優位性を感じて満足しようとする部分がある。
その差別性についての精神に、差別を指摘され差別されるべきところではある。結果として人には差があるという主張にブーメランで差別をされるべきという平等性がある。
なぜなら個人が暴力によって解決をするという手段がもとより否定されはく奪されているからである。銃や武器の携行の否定、復讐や実被害未然の防衛のための無力化攻撃の否定などである。
日本でタトゥー、入れ墨するなら、自分が弱いからという主張か、絶対に見せないという前提がなければむつかしいという現状くらいはわかったうえで
それでもなお入れざるを得ないという状況に自分が差し迫っているということでもなければ主張はできないだろう。
タトゥー、入れ墨をしているほかの人間もみな平等に自分の思いを主張しているわけではない。
隠していたり弱さゆえだったり、知らないところに入れている人間はいるだろう。それらを全員掘り起こして否定したいわけでもない。
主張をするなら、日本では反発をうける、その理由は前述のとおりで、それを超えて受け入れられ主張をしたいのではれば、方法としてなくはない、ということである。
子供になぜパパは一番じゃないの?最高はあらゆる高級品と体に印があって家族を愛してくれてるけど、うちにはなにがあるの?と聞かれて、答えるすべを庶民に残しているかということである。
はてなには「これはひどい」タグを付けることで何かマシなことをした気になってる人が多いが、単なる自慰行為でしかないのは明らかだ。「これはひどい」タグを付けることで“ほぼリスクなし”で“自動的”に優越感を味わえるという構造に危険性がある。「ネット上の発言は全世界に公開されていて、全世界から批判されうるのだから炎上は自業自得」などと言って炎上ネタに乗っかる自分を正当化する連中は多いが、彼らは自分のブコメ自体が批判されうるとはほとんど思っていないし、実際ブコメ自体が批判されることはあまりにも少ないレアなケースとなっている。
ニュースや炎上ネタを見ては「これはひどい」とコメント。「俺はこんなに賢いのに世間の連中はなんて愚かなんだ!」はてブとはそういう精神的ポルノ、俺TUEEE、慰撫でしかない。毎日こんなことをやっていると全能感に支配されるようになるだろう。「俺はすごい」「俺は賢い」「世間は馬鹿ばっかり」
タグ付けというのは情報の整理のためには有用ではあるが、物事の複雑さから目を背ける行為でもある。「これはひどい」とタグ付けされた時点でその情報は深くは掘られなくなる。「これはひどい」タグをつけている連中は問題を深く知って真面目に考えようという姿勢を持っているのではなく、お手軽にタグ付けして分類し、物事のあらゆる側面をすべて見切ったと優越感に浸って、自信満々で無敵状態で一方向に突っ走りたいだけなのだ。
そういえばはてなには他のインターネットコミュニティに比べてラノベオタクが非常に多い。ラノベといえばエンタメ小説だ。エンタメ小説といえば怠惰な現実逃避的ロマンを好む読者にとって都合のいい藁人形小説であり、その中でもラノベはさらに人間を簡略化された単純なキャラクターとして扱っているジャンルでもある。ラノベを好む人たちは物事の限界を簡単に見定め、気軽にタグ付けし、幼稚な理屈と雑な論理ですべてを見切ったと思い上がり、すぐ感情的になって爆発する、そんな習性を持ってはいないだろうか。
有無を言わさぬタグ付け、つまり「これは『これはひどい』なのだ!」という思考習慣は人間を堕落させる。たしかにその直感は外れていないことが多い。だが、タグ付けする前に考えてほしい。幼稚な物語を構築あるいは捏造してそれに甘えないでほしい。「これはひどい」というスローガンのもとに思い込みや偏見を助長させてはならない。はてブは幼稚な全能感から卒業すべきだ。
これまでは毎日テレビを見ていた、きっかけは、テレビを全然見ていない、というか持ってすらいない知り合いがいて真似したくなってテレビを見るのをやめてみた。聞いてみると他にも結構テレビ見てない人っていることがわかった。自分の周りでは3分の1くらい。
結果として、すごく良かった。時間がたくさんできた。
あと、テレビからいったん離れてみるとテレビってくだらなくて、随分時間を無駄にしてしまったなと思う。
主観だけど、結局のところ、テレビで流れてるものなんていうのは共通の話題がほしくて皆見ているわけで、個人にとって生きる上でそんなに有用じゃないんだなあって思う。
スポーツとか、おっさんがボール追いかけてジタバタしてんのみて何がおもしろいのって思う。
基本ニュースでながれていることなんか見ても自分とは関係もなくて解決もできないのに、腹が立つか、焦燥感が湧いてきてなんか精神衛生的によくないし。
いままで殺人とか暗いニュースで神妙な面持ちをしてたくせに、明るい芸能ニュースに移るときのアナウンサーとかコメンテーターの表情の切り替えとか白々しくてうんざりだし。
テレビに出演している人ほとんどが、なんか無理して表情を作っている感じで見ていて辛い。
見たくもない映像を見せられて、時間を奪われて、CMを見せられて変な価値観を持たされて、特に必要のないものが必要に感じてしまう。自分はそういう生活をしていたのだなあと思う。
時間ができた結果、自分はもともとアウトドアの趣味があったんだなってことを思い出して、いろいろ調べたり計画を立てたりしている。見たい映画とか映像はアマゾンとかネットで探してみている。本当にすごく楽しい。そしてテレビをみていないことの弊害はいまのところない。
そんな感じなので、特に問題が発生しないかぎりこの生活をしていこうと思う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1256426
このまとめに関するブコメを見ながら、強い疑問を感じている。
たしかに無謬のものなど存在しない。誰もが間違えるし、誰もが過ちを犯す。
だからこそひとつの失点ですべてを否定するべきではないし、ひとつの加点ですべてを肯定すべきでもない。
優れたプレイヤーであるにもかかわらず、たったひとつ失策をしただけでそのプレイヤーを追放してしまえば、むしろゲーム全体が劣化することになるだろう。
だからこそ僕らはプレイヤーに対して、「是々非々」で対応すべきだ。
僕はこれを、とても正しいと思う。
では何故、今回のこれらのブコメに疑問を感じたのか。
端的に言って、僕の疑問はこういうことだ。
「ルール違反のなかで為された物事と、ルールの上で為された物事を、等価に置き、是々非々とするのは、果たして正しいのか」
・立法事実の捏造、および捏造が認められた立法事実に基づく法案の強行(高度プロフェッショナル制度)
などの出来事を指している。
このどれもが近代国家、法治国家、民主主義国家において、重大なルール違反であることは、言うまでもないだろう。
どれも自民党がこれまで成し遂げてきたこと、そして成し遂げようとしていることだ。
「ルール違反のなかで為された物事と、ルールの上で為された物事を、等価に置き、是々非々とするのは、果たして正しいのか」
僕はこれについて、正しくない、と考えている。
何故か。
民主主義国家において、ゲームの主導権を持つのは、常に国民だ。
だから、ゲームが成立する限り、どのようなひどいプレイであれ、どのような優れたプレイであれ、諦めることも、やり直すことも、継続することも、改めることも、国民の手によって行うことが出来る。
だからこそ、本当に僕らが恐れるべきは、ゲーム自体が崩壊することに他ならない。
そうなった場合、諦めることも、やり直すことも、継続することも、改めることも、僕らの主体的な意思では、決して行うことが出来なくなる。
だからこそ、重大なルール違反が行われたなら、いかにルールの上で優れたプレイが行われて居ようと、退場しなければならない。
そうでなければ、ルール自体が軽視され、より力の強いプレイヤーのやりたい放題になり、ゲーム自体が崩壊するからだ。
ひとつの失点ですべてを否定するべきではないし、ひとつの加点ですべてを肯定すべきでもない。
けれどそれはルールが守られているからこそ機能する態度でもある。
僕らの多くが「基本的にはあなたを応援しているけれど、これについては改めてほしいな」と声を挙げれば、少なくとも議論が巻き起こる、そういう状態であるからこそ、有用なのだ。
どんなに支持者が声を上げても、議論の一つも起こらない。すべては無風状態で粛々と進められる。
さらに、その状態がもっと進めば、今度は、非を唱えることさえ、「是々非々」であることさえ許されなくなるのだ。
事実、現在の中国や北朝鮮では、自国のトップへの批判はできない状態にある。
こういったゲーム崩壊の行き着く先が、ユダヤ人の虐殺や、天安門事件と言った、基本的人権を蹂躙する暴虐であることは、歴史にある通りだろう。
正直なところ、我が国もまたゲーム崩壊の瀬戸際にあるように感じている。
そのように首相近辺が公言したことは周知の通り。これは「非」が許されない状態とほぼ等しい。
この状態に「そう言うことは許されない」という声が自民党内部から何故、噴出しないのか。
森友加計問題。高度プロフェッショナル、水道民営化、サマータイム。といった問題もそうだ。
どれも、党内で多くの異論が撒き起こって然るべき類のものであり、支持者の間でもこれらを否定する意見は噴出している。
議員というのは本来、一人一人それぞれが国民が選出した代表だ。「その党だから」以上に、「その人だから」選ばれた存在だって少なくない。
ならば、より自民党内からの異論や反対意見が、活発的にニュースを騒がせるべきだろう。
それなのに、自民党内は無風のままだ。
僕はもう、自民党と言う組織の中で、完全にゲームは崩壊しているのだと認識している。
そして、権力者の身内で行われているこのような状態が、僕ら一般市民まで適応されないなどとは、僕はどうしても思えないのだ。
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
* * *
研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
* * *
さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
* * *
収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
* * *
では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。