はてなキーワード: クローズアップとは
目つきの悪い男子大学生が、トランジスタグラマーの後輩に延々とウザ絡みされ続ける漫画。
おっぱいは大きいけど、そこがクローズアップされるのは意外に少なかった印象。
と読んでない俺が語ってみたぜ。
Cocoaにおける不具合と多重下請け問題がまたクローズアップされている。
元々IT業界はIT土方という言葉の通り、建設業に近い業態と言われているが、その実態は個人的な見解として建設業よりも20年は遅れていると思っている。
もちろん国も状況は理解しており平成27年に「IT産業における下請の現状・課題について」という資料があって
建築業法との比較がなされているがIT業界こと元請けの義務事項の少なさが今回の問題と言うしかない。
元請事業者の責務である建設業法第24条の6すらないとは一体どういうことだろう。
そこでは元請けの労働基準法ならびに労働安全衛生法遵守も定められているわけで、ハチャメチャなブラックぶりもある程度は抑制される。
ガイドラインで対処とあるが、建築業法をモデルにした電子開発業法と施行令を作るしかないのではと思う。
少なくても、発注請書すらない状況は異常すぎる。
知的障害を伴わない発達障害の存在が世間に広く認知されるようになって10年以上になるだろうか。
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)やADHDなどの、コミュニケーション不全の障害は、現在の高度情報化社会に適合することが困難な人々を障害者として認定したもので、そのような意味で「新しい障害」「時代によって創られた障害」とも言われている。
歴史的経緯から俯瞰すれば、社会の構成員の多くが第一次産業に従事していた時代には、軽度な発達障害は障害としては認識されていなかった。社会にとっては身体的な機能障害の有無が、何より重要視された。
機械を使わない農作業では人間の身体が頑強であるか否かが生きていく上で重要である。逆にこのような時代において、体格さえ頑丈でよく働くことが出来ればよく、発達障害の有無が社会の構成員にふさわしいか否かの判断基準とされることはほとんどなく、それどころか知的レベルで多少劣っていても問題とはされなかった。
ところが産業革命が起こり、人々が工業生産すなわち第二次産業に従事する者が多くなってくると、知的レベルが低い者は労働生産性において不利となり、工場などで働くことがままならず、障害者としてみなされるようになる。どれだけ体格が頑丈であっても、軽度知的障害者は障害者として扱われる。
そして現在の高度情報化社会では、第三次産業に従事する者が多くなっている。情報通信業を含むサービス産業においては、他人との間の情報の伝達に問題を生じる者、すなわちコミュニケーション能力が低い者が障害者と認定されてしまう。認定を受けた者やその予備軍は、生きづらさを抱えて生きていかなければならなくなったのである。
こうして、今日の社会では他者とのコミュニケーションが困難な者は軽度であっても、総称して「発達障害者」と呼ばれ、障害者として取り扱われ、治療の対象となり、障害者枠で働くことが可能になってしまった。
生きづらさを抱える人々が社会から援助されるようになったのだから、それは社会の進歩である、ととらえる人もいるが、高度情報化社会が発達障害であることが生きづらくしてしまったのだから、発達障害者にとっては社会の悪化であろう。
ところが社会の進歩(あるいは対象者にとっての悪化)はとどまることを知らない。高度情報化社会から次の社会へとステップアップする中で、今後クローズアップされるであろう障害が、掲題の第四の障害である「嫌感障害(けんかんしょうがい)」(英訳するとharassmental disability)ではないか、というのが私の予想である。
「嫌感(けんかん)」とは私の造語で、嫌感障害者は、他人の嫌悪感を感じ取れずに、あるいは知りながらも敢えて、ハラスメントを行う人々のことを指している。
(同様に"harassmental disability"も、発達障害=disappointmental abilityに寄せて作った造語)
「それは一般の発達障害とどこが違うのか?」と問われるかもしれないが、知的障害が身体の脳の障害という意味で広義の身体障害者であり、発達障害が広義の知的障害であるのと同様に、嫌感障害もまた、広義の発達障害ととらえて差し支えない。
しかしこれまでの発達障害という概念の中には、共感性が低いために他人の感情が分からずに意図せず他人に嫌悪感を与えることをその中に含みつつも、「他人が嫌がることがわかっていながら他人の嫌がることをすること」、いわゆるセクハラやパワハラをすることまでを障害の一種だと認定することはなかった。
今回私が提唱する「嫌感障害」は、一歩踏み込み、発達障害者の中で他人に嫌悪感を与え続けてやまない行動発言をする人々と、攻撃的であったり、あるいは人が嫌がることをすることをやめられない人々を、まとめて新たな障害者として認定するものだ。
第1の障害が身体障害、第2の障害が知的障害、第3の障害が発達障害ととらえたことが、嫌感障害を第4の障害ととらえる所以である。
昨今の脳科学では、人間の自由意志の存在は否定され、すべてが所与の条件、すなわち、遺伝子と環境、構造などによって思考は自動的に決定されているという。
自分の意思によって他人の嫌がることを行う人もまた、ある意味自分ではどうしようもない衝動によって突き動かされ、社会に不適合な行動を取らざるを得ない障害者と言えるのではないか。
彼らが適合できない社会とはなんであるか。それは女性や障害者が多く進出した社会であり、多様な社会であり、弱者が認められ、生きやすく、守られる社会である。
この社会では、強者や多数派が、その力でもって弱者や少数派の人権を踏みにじることは、もはや許容されない。
強者が所有していた権力、多数派が所有していた圧力でもって、他人の自由を拘束し、口をふさぎ、多様性を蹂躪することは社会がもはや許さないのである。
他人への嫌がらせを許さない社会は、高度情報化社会が発達し、様々なサービスが生まれる中で、人々が夢中になるサービスに人々の興味が集約していく中で育まれていった。人々が夢中になるサービスとは、SNSである。
高度情報化社会が理性の支配する知識の共有を成し遂げたものであるならば、その中で育てられてきたSNS内では、感情の共有が重要なものとして形作られてきた。
それは「高度感情化社会」と言えるものである。私達は高度感情化社会という新しいセクターに生きており、産業革命、情報革命の次に生じた、感情革命の只中にいるのである。
GAFAが情報化社会の雄ならば、そこに入っていないTwitterは感情化社会の雄であり、今後は感情産業と言われるような感情の共有化をビジネスの柱とする産業(第四次産業?)に、多くの人々が従事するようになるだろう。
その産業の中で障害となるのが、他人の感情を傷つけて平然とする人々である。その問題が今、ジワジワと、次々にクローズアップされているのを私達は知っている。
「こんなことまでハラスメントなのか?」
という疑問を抱いた人は、多いのではないだろうか。なぜ新しいハラスメントが次々に問題視されているのか、わからない人も多いはずだ。戸惑っている人々も多いだろう。新しいハラスメントを提唱する人々に「お気持ちギャング」というレッテルを貼る人々も少なくない。
しかし、これが時代の趨勢である、ととらえると、納得できるのではないだろうか。他人に嫌悪感を抱かせるのは障害である、という新しい常識が広まりつつある過程なのだ。
嫌感障害という概念が確立されるメリットとしてまず考えつくのが、嫌感障害は障害であるのだから、治療の対象となり、医療が解決する分野となることだ。
発達障害がコンサータなどの投薬で治療されてきたように、いずれ嫌感障害を解決する薬が見つかることになるだろう。
次に挙げられるメリットとしては、パワハラ、セクハラをしてきた人々が、ひとくくりの集団として可視化され、社会活動における「障害」の持ち主と認識されることだ。
発達障害という概念が、コミュニケーションの重要性を浮き彫りにしたように、嫌感障害という概念は、他人への攻撃性を抑止できる能力の重要性を明らかにする。
パワハラ、セクハラ、モラハラを、無意識であれ意図的であれ、行ってはいけないし、それは教育によって徹底されていき、矯正できないものは「障害」がある者として取り扱われることになるだろう。
このような潮流が社会に表出しようとしていることを、私達はこれから目の当たりにすることになるだろう。
なお、以上のようなことがふと頭に浮かび、自分のオリジナルなアイデアかもしれないと思い、一気呵成に書き上げたが、研究者でも専門家でもない私の思いつくようなことは、すでにどこかで誰かが考えついているかもしれない。
「高度感情化社会」「嫌感障害」といった概念に似たことが書かれている本などがもしあれば、ぜひブックマークか増田返信で教えていただきたい。
逆にアイデアが私のオリジナルだった場合、用語やアイデアに関して、皆さんのご自由にお使いいただきたい。この記事からの引用である、などと断る必要もありません。
by tnkm
この手の音楽家は音楽を聞いているのではなくて情報を聞いている
やれビートだとか音圧だとか言っているが要するに音楽の持つ情報を分析して処理しているに過ぎない
その音楽が良い原因・理由を体系的に理解して一定のルールに基づいてよりよい音楽を作ったり見つけたりしたいのだろう
ただ、自身が良いと思った音楽であってもその理由が見つからない場合はややもするとその音楽は本当は良くないのだというバイアスで否定したりする
結果ではなく原因をクローズアップし、方程式から導かれるものこそが結果だという考え方だ
一方でYOASOBIが好きな人、若者中心としておくが、彼らの今の評価基準は単純で「エモいか」どうかだけだ
それだけだ
原因結果論に基づいてその原因を探せば「小説をもとにした歌詞」「Youtube連携」「ikuraの声」などでっち上げることもできるが
そういう音楽の中に原因を求めるのは情報を食ってる音楽家と変わらない
彼らの評価基準はそうではなく、スタート地点が「エモい」かどうかだ
その結果には原因なんてなく、エモいと感じた自分がスタート地点であり、そこからのコミュニケーションがスタートする
アドラー心理学に通ずるところが大きく、だからこそ彼らのほうがストレスが少なく、芸術を本質的に理解している
他の人に対して「YOASOBIが良いよ」ということはあっても「YOASOBIの良さがわからないなんて」などと言うことはほとんどない
基本的には「YOASOBIエモいわー」「わかる」で終わりである
テレビや新聞は当てにならなかったから、去年の2月からこれはと思う医療関係者のTwitterを何人か追って情報を得るようにしているけど、忙しすぎてツイートが減った関係者とは別に、ツイートは続いているけど、ここ数日で内容が過激になる人が増えてきた。観察した「過激になる理由」を自分なりにまとめる。
一番有名なのは「なんでもPCR」を主張していた医者。これが叩かれて引っ込むかと思いきや、PCR検査の限界(検査キットの精度、検査担当者の技術、偽陽性偽陰性、検査の瞬間に陰性でも次の瞬間に感染する可能性)を無視した主張は内容の正確さを問わなければわかりやすく、マスコミが継続的に取りあげて今でも根強い一派になった。
結果、安価なPCR検査が広まったけど、これら安価なPCR検査は陽性になった後の一番面倒を部分を見ないで正式な医療機関に押しつける形になる。場合によっては押しつけることすらせずに患者を放置する。この手の行為が真剣な医療関係者には無責任に思えて腹が立ち、非難するリツイートが増える。
この腹立ちが長期間続くことで、非難の言葉がだんだん荒んでくる。
いくつかあるけど「手洗いうがいばっかり言って科学的な対策が出てこない」「会食がダメなら宅飲みパーティー」「新型コロナはただの風邪」あたり。
手洗いうがいは、そもそも「手洗いが大事」なことを医者が最初に見つけたのが1847年でまだ新しく、しかも当時の同業者に否定されて見つけた医者は失意のうちに亡くなったという逸話になってしまうほど科学的なこと。だけど現代の日本人には手洗いうがいは一般的過ぎて科学的に思えない人が多くて、こういう非難になる。そこは医療関係者は粘り強く対応していると思う。
https://www.bdj.co.jp/safety/articles/ignazzo/1f3pro00000sihs4.html
会食は、本当は飛沫感染を防ぎたいから場面を問わず「声を出すならマスクしろ、マスクを外したら声を出すな」が正しい指示なのだけど、その中の一場面である会食だけがクローズアップされて、正しい内容が伝わらない。何なら無視して店で飲んで大声で話し続ける。しかも店を応援しているつもりでいる。感染が広まったら店を閉める対策を取らざるを得ないので、ひいきの引き倒しなんだけど、そこがわかっていない。こういう人たちほど積極的にGoToキャンペーンを活用して、結果、感染を広めている。医療関係者は失望していて、本人が失望するのもつらいけど、家族から旅行に行かないことを責められたとかツイートしているのを読むとこちらもつらい。
新型コロナはただの風邪、だけはちょっと注意が必要。「若者は無症状だから平気」という誤解には無症状でも感染したら家族や友人に再感染すると言えるし、「インフルのほうが狂暴」という人には今の対策で今年のインフルエンザ率が例年に比べてほぼゼロなのにコロナは広がっていると言える。ただ一部の人たちはいろいろ調べて「手洗いうがいしてマスク着用と換気を徹底すれば問題ないのに医療関係者が不安を広めている」と考えている。これは対策はその通りだけど、書いた通り、手洗いうがいマスク着用は、一定数の人間には理解されないか、無視されて、徹底は無理。なまじ対策については正しいだけに、その手の人たちが医療関係者を責めて、それに同調する人たちが出てきて、医療関係者は消耗する。
医療関係者はワクチンについては話題が出るたびにチェックしていて、もちろん海外の英語の一次情報まで調べている。有効なワクチンができて接種が行きわたるのがゴール、それまでいかに被害を最小に抑えるかだと考えている。医療関係者は海外で出回り始めたワクチンの有効性は認めている。だけど日本のマスコミが、数少ない副作用をことさらに騒ぎたててワクチン接種に否定的な人たちが増えている。コロナで重症になったり亡くなったりするのと比べたらはるかに少ない割合で、ワクチン接種が広まらなかったらどうにもならないのに、と。
医療崩壊は、もともと医療関係者の間ではコロナの前から日本は医療崩壊しているとネタになるほど人員が足りていない。ECMOみたいな専門的な機械を使いこなすのには訓練が必要だし、感染症対策でガウンやマスクの着用着脱すら手順が決まっている。コロナの患者には一般の患者のざっと10倍の人手が必要になる。専門的な人員はそんなに簡単に増やせるものではない。だけどマスコミはベッドの数があれば入院できるといい、そういう主張を積極的に取りあげる。
この2つに限らず、コロナが騒ぎになってから、追っかけている医療関係者がマスコミ、特にテレビと新聞を、ほめたのを見たことがない。ほめるのは一部の専門家が出演した時だけで、その専門家個人を支持している場合に限られる。そのマスコミ憎さがとげのあるツイートになる。
とどめを刺したのがこれ。医療費抑制のため、ここ10年くらいか、病院の経営が厳しくなる方向に医療政策を振っていたので、病院や医者の数が減っていた。潰れないまでも、利益が減って、そのしわ寄せが医療関係者の給料減や勤務時間増に来ていた。さっき書いた「コロナの前から日本は医療崩壊している」のネタはこれが理由で、もともと政治や行政に対する不信不満は医療関係者にはあった。
コロナで不信が上積みされるのは去年から始まっていて「第一波を抑えたのに次に備えた環境整備やルール作りを放置」「拙速なGoToキャンペーンで感染拡大(個人的にはこれに限っては観光飲食業のためにはある程度はやむを得なかったと思う)」「経済優先で専門家の意見を無視するのに尾身先生を表に出して盾にする」「年末年始の人員往来増加の無視」「会食禁止を国民に訴えながら自分たちは会食を継続」「国会議員まで亡くなったのに責任回避と手柄争いを優先」「緊急事態宣言を出した後から場当たり的に対策を追加する戦力の逐次投入」「医療関係者が足りていない事実を無視した罰則ベースの対応強制」など。目の前の患者がどんどん増えて、減りそうな要素がひとつもない中でこういう対応を目にして、特に緊急事態宣言以降から非難に混じって捨て鉢なツイートも散見するようになった。
今この瞬間もコロナ対応の診断に、治療に、搬送に、受入に、集計に、運営に、対策に、事務に、研究に、駆け回っている医療関係者のみなさまへ。
忙しさと、世間からの非難と、感染への恐れとで、仕事への疑問と不安を抱えながらも医療を続けている医療関係者のみなさまへ。
コロナに感染したにもかかわらず、復帰して医療に携わり続けている医療関係者のみなさまへ。
みなさまのおかげで私たちはコロナに向き合う手段を維持できています。
みなさまの努力がどうか一人でも多くの患者を救うことにつながりますように。
一個人として対策できることは少ないですが、不要不急の外出を控えます。
手洗いうがいを忘れず、換気に気を付け、他人と接する機会には必ずマスクを着けます。
小さな声はマスクでさらに小さくなって、日本の隅のそのまた隅から届けることは難しいですが、それでも医療関係者のみなさまへ感謝をつぶやきます。
高校では通常、世界史を必ず履修しなければならないと学習指導要領に書いてある。
だったら世界史の代わりに日本史を必修にしているエキセントリックな地域を除いて、すべての高校生が世界史を学習しているはずだと思うだろう。
しかし実態は全く違う。理数系の生徒に対して、高校の教師は「受験対策」の名のもとに世界史を一切教えていない。じゃあ何を教えているかというと、地理だ。地理をしっかり教えているならまだいい(違法だが)かもしれないが、高校の教師は地理の重要なところを暗記させているだけだ。つまり、理数系の生徒は高校三年間で一切歴史の授業を受けることなく卒業していく。これは明白な学習指導要領違反だ。こんな違法行為が反復継続されているのになんで誰も怒らないの?学習指導要領違反ということは、高校の教師は懲戒処分の対象になるし、理数系の生徒は高校卒業資格をはく奪されるってことだよ?
一度2006年に世界史の未履修問題がクローズアップされ、卒業生などに補修が行われたようだが、その後も全く改善しないどころか教師の手口が悪質・巧妙化しているのでここに告発する。
ナイキCM論争で不満なのは、「差別」に比べて「いじめ」に言及するものが少ないこと。賞賛派も批判派も、あれを差別問題をめぐるCMとして扱っている。
「差別とは一生涯続くいじめである」という人もいるが、個人の経験としてはまったく納得できない。いじめは確かに、幸運であれば学校を変わればなくなることもあるが、実際には学校を変わっても、社会人になってもいじめられ続ける人が大半であり、そうではなくても一生にわたって後遺症が残る。
ナイキのCMのような、差別を乗り越えて強くなったという物語は今でも無数にある。しかし、いじめを乗り越えて強くなったという話は、大昔の野蛮で牧歌的な時代のいじめならともかく、現代では寡聞にして知らない。いじめ問題の専門家には周知だが、いじめを乗り越えるためには逃避以外の手段は不可能である。
差別はどんなにひどいものであっても、それが世の中にある偏見のせいであであることは明白である。だから差別体験は反発心やアイデンティティになることも多い。しかしいじめは、そもそもなぜ自分がいじめられているかの理由がわかっている人はいない。自分の理解をはるかに超えた理不尽な理由で攻撃されているので、反発心やアイデンティティは芽生えるどころか、日々削り取られて無気力になっていくだけである。
差別体験について外に向けて語る人は、少ないにしてもそれなりにいる。被差別集団どうしなら共感で話が盛り上がる。しかし、いじめ体験を語る人はめったにいない。いじめ被害者どうしが集まっても、いじめ体験を語り合うことは絶対にあり得ない。
そもそもスポーツ系の部活動はいじめの巣窟である。少年野球の天才選手や、甲子園のスター選手が、いじめに耐えかねて退部し、プロ野球への夢を絶たれることになったという事例は枚挙にいとまがないが、外国人であることを理由にした差別でそうなったという事例については(表に出ないだけかもしれないが)聞かない。在日系のスター選手は多数いる。
いじめ問題に比べて差別問題は大したとこがない、と言いたいわけでは全くない。ただ、あのCMの中にある様々な要素の中から「差別」だけが切り取られ、過剰にクローズアップされるのは、毎日「今日はいじめに遭いませんように」と祈りながら学校に登校していた10代を過ごし、そのまま社会の落ちこぼれになってしまった自分には、どうしても違和感や距離感を覚えてしまうのである。
最近ネットを賑わしているナイキのCMに対する批判に、「日本人は差別主義者であるということを、世界中に向けて宣伝している」といったものがあるけど、これはざっくり分けてく2つのおかしい点がある。
まずひとつ目に変なのは、「世界中に宣伝している」というところ。このCMを打っているのは、NIKEの日本代理店である「NIKE JAPAN」であるから、このCMは日本市場をターゲットに打たれたCMなのは明らだよ。確かに、Youtubeの動画では英語字幕が設定されているから、英語圏の人たちも閲覧できるけど、動画では日本が舞台で日本語ばかり使われているのだから、日本人に向けられていると考えるのが自然だよね。世界中に向けて宣伝したいならNIKE本家が宣伝するはずだし。NIKEは差別をテーマにしたCMを打つのがお家芸になってるから、今回はそれを日本向けに行ったんじゃないの。
で、2つ目の変な点が「日本人が差別主義者であると伝えている」ということ。
ネットや世間では、壮絶なイジメ、差別のシーンばかりがクローズアップされているけど、登場人物たちが自らのアイデンティティに悩むシーンにあまり触れられていないのは、とっても不思議。動画の冒頭では「私って、何物?」と悩むシーンがあるし、「いつか誰もが、ありのままに生きられる、世界になるって――。」というセリフでCMは締められる。イジメだけではなく、自分の内面との葛藤や、反発も描かれている。こういう演出を読み解くと、差別云々よりも、思春期の少女がアイデンティティについて悩んでいる、というのがこのCMの本質であるとよく理解できる。だから、このCMは「NIKEは、自分らしくある人を応援します」って宣伝したいのであって、「日本人が差別主義者である」と批判したいわけじゃない。
NIKEに対する批判の中で、「お前らウイグル人を強制労働させといて何いってんの?おまいう?」っていうのもあったし、それは十分理解できるんだけど、「NIKEは日本人を痛烈に批判している」というのは全く理解できない。だって、どう考えてもそういう解釈できないんだもん。合理的に、丁寧にCMを読み解こうとすればするほど、そういった考えにはならないはずなんだけど、なぜか超斜め上をいく解釈をして、叩いている人でネットは溢れかえっている。
正直、そういった人は読解力や論理的な思考が欠けてるとしか思えないよ。そういう的はずれな批判をしている人が、論理的に論じてるの見たこと無いもん。叩いてる人たちみんな、「日本人を馬鹿にするなぁ!」って書いて終わり。ショッキングな差別やイジメのシーンを見た時の刺激に、反射的に反応しているだけじゃん。その裏に、無意識の差別意識ゆえの図星やら、「日本人は絶対に差別しない潔白な民族である!」っていうおめでたい思考があるのかまでは知らんけどさ。
もし、論理的に「NIKEのCMは日本人を批判するために作られている」と考えている人がいたら、是非、返信をお待ちしています。できれば、CMの演出について触れて、どのように解釈したかを書いてもらえると助かります。
それでは
俺はもっとカジュアルにアホとかべきとか強い言葉が軽いノリで使われる社会のほうが、ある意味人が他人のロジックにいい意味で期待しないようになって、繊細チンピラみたいなのも発生しなくなるし風通しがよくなっていいんじゃないかなと思うね。
言葉を大きく捉えすぎて言葉に縛られるしぐさなんだよ、表現に噛み付く行為ってのはさ。しらんけど。
言葉ってのは完璧じゃない。だから行動が描ける映画みたいな映像コンテンツのほうが人の心を掴みやすいだろ?
君が完璧に捉えたと誤解した「べき」だって、それを発した人の考える「べき」のニュアンスと異なってるかもしれない。
行動と合わせて考えてなお不躾で不快な押し付けを感じるのだったら仕方ないけど、言葉だけにクローズアップしてしまう時点で自らネガティブ方向に囚われにいってるような感じがするんだぜ。
https://anond.hatelabo.jp/20201114001756
負け組をクローズアップした記事にやたら同情的なコメントが集まるし、30代後半を過ぎてうだつが上がらない平社員からリーダー職くらいの人間ばかりしかいないんちゃうまじで?
私 常々思うんです
強く主張されるようになったのか
私は 一番の理由は
昔は 死が身近でした
七つまでは神のうちとも呼ばれ
また たとえ無事成人を迎えたとしても
世界は飢えと病と争いにまみれ
人がただ生きるだけのことが 困難な時代が長くありました
そしてその死の矢面に 常に立っていたのは男性でした
原始では狩りに
文明を得た後は 戦に 争いに
望むにせよ望まざるにせよ
そしてその代わりに
いざというとき 真っ先に命をかけ私達を守り
そして 死ぬ
そう思っていたから
多くの苦労を甘んじて受け入れてきたのだと思います
天秤上で釣り合っていたんです
結果として 女性は思いました
天秤が 釣り合っていない と
でも 私はそれ
違うと思うんです
今も 死は近くにあります
見えづらくなっただけで
棍棒でいきなり殴られることがなくなっても
刀で切りつけられることがなくなっても
銃を持って前線に向かわされることがなくなっても
直接の命のやりとりが 身近で見えなくなった代わりに
(そちらもうつ病などが多く
そして その自殺者数は
男性は 直接命をやり取りすることがなくなった代わりに
"お金"を通じて殺されることとなったのです
隣にいる男性が 直接血を流して
そして こう思うようになりました
傾いている と
でも実際は逆なんです
男性は今も
目に見えないところで 不平等に
今も昔も 男性はずっと死の矢面に立たされているのです
しかし それとは裏腹に
女性の権利は どんどん獲得されていきました
こうして 男女の天秤は大きく傾くこととなったのです
男女の平均寿命に差はありませんでした
その差は 今も年々広がっています
でも
ただ それだけです
いつも命を賭けてきたから
わざわざ病ごときでは死なないのです
私は不思議なんですよね
その天秤が 不自然に傾いている
長く生きられる世界が ここにある
でも 男女平等を謳う人は
この天秤が 逆に傾いていると主張しています
私は 男女平等を謳うのであれば
まず この命の天秤の傾きを戻すところから始めるべきだと
そう思っています
って言ったら みんな喜んでやると思うんですけどね
アニメの出来がいいのもそうだけど「週刊少年ジャンプに連載されている」っていうアドバンテージは半端ないと改めて思った
トリコですら一時期テレビで「原作は!あの!少年ジャンプで!!連載されていることでおなじみの大人気アニメ作品のトリコ!!」みたいな押され方してたからな
マガジンやサンデーやチャンピオンなら気持ちの悪い造形の怪物ばかりクローズアップされたりオタクの様相を特集したりでどれだけ売れてもどこかうっすら「キモい」のイメージがつきまとうけど
ジャンプはテレビ局や芸能界全面協力でひたすら肯定的に押しまくって非ヲタにもあっという間に定着してなんていうかジャンプ漫画読んでるって普通のことでオタク趣味扱いされない
ただジャンプは非ヲタがあまりにクリーンで熱くて健全なイメージ持ちすぎててちょっとエログロ入れると目つけられて叩かれやすいけどそのデメリットを補って余りある大変強力な後ろ盾だと思う
新自由主義ってさぁ、一側面として「コイツラは敵だから攻撃して言うことを聞かせよう!」って側面もあるよね。
で、特に基礎研究に近いところが崩壊しているからと、特に中国で就職している研究者が増えてきた。
ただ、基礎研究ってのは、10年後の応用技術に転じているものもそれなりにある。けど、現時点では本当に断定はできんのよね。言うだけならんとでも言うんだけど。
学術会議問題で中国で就職している研究者が増えることがクローズアップされてきた。
まあ、単にスパイによる技術流出と基礎研究崩壊による延命のための逃亡を混同している感じはある。
けども、とにかく金がなくて弱いやつは強いやつのいう通りに奴隷となって、引っ掻き回されて、社会のために搾取されろってのがまあ新自由主義の一側面でもある。
あのさぁ、たしかに日本限定でしか食っていけない人ならともかく、中国で就職しているやつはもう中国でそこそこの給料で食えるんだよ。
そして、日本では食えない。それこそウーバーイーツや、工場派遣にでも身をやつさないとならない。展望もない。
ぎりぎり生まれた国だからって未練はあるだろうけど、飯くれるのは中国だし、日本の醜悪さがますます際立つだけだし、ますます日本を見捨てるだけだと思うわ。
あと、もう学術会議問題で学術会議自体を叩くのは無理筋になってきたからって言って、石投げやすそうだと言いがかりをつけて槍玉に挙げんなよ。
推しは少し前に大人気だったキャラ。人気の要因は自分自身の幸せより時に悪に身を窶してでも命をかけてこの国を守る孤独で有能な美形だった。
今の煉獄的な人気だったと思う。規模は違うけど。
出版社が推しを金のなる木と認識したのはまぁいい。実際そうなのだから。
それで主人公ではない推しスピンオフを始めたのもいい。楽しみだった。一話は素晴らしくて泣いた。雑誌は店頭から消えてニュースにもなった。
それなのに今や数年前に始まったそのスピンオフは推しのいいところを殺し続けてる。
勝手にその点を箇条書きで並べていく。
推しは忙しい。国を守る機関に属しながら目的のために悪の組織にも出入りしてる。なんなら初めは悪役だったし今でも主人公の完全な味方とは言い難い。
そんな推し、主人公を探るためにとある飲食店でバイトしてるのだがスピンオフではそのバイトで食べて行ってない?ってぐらいそこにいる。賄いで3食済ませてるレベル。犬も飼って家庭菜園してる。あつ森みたいな生活である。
原作では忙しさで遅刻早退当日欠勤上等のレア店員だったのに今や本業がフリーターである。ちなみに推しはフリーターやってていい年齢でもないし、なんならエリートである。
読者はフリーターの日常を見たいわけではない。あの原作や映画の影のある推しが見たいのである。
自分でも何を言ってるかわからないがそういうことである。推しには部下やバ先の同僚がいる(原作ではモブもいいとこ。鬼滅でいうなら魘夢に使われるモブよりも何も役割を果たしていない)あれ?私モブの日常読んでたっけ?くらいそいつらが出てくる。推しより出てくる。意味がわからない。
③恋愛しないよ!で有名になった推しをしょうもない女とばっかり絡ませる
はっきり言って推しは夢売りがひどかった。それなのになぜか前述したバ先の同僚の女とばっかりセットにしてくる。当たり前だが原作ではそう絡みはない。バ先が舞台の時に背景の椅子や机と同じようにいるだけキャラである。
しかもそのキャラ、推しに対しての言動が酷い。推しの悲しい過去(容姿のせいでいじめに合う)を知らないとはいえ踏みにじる発言をする女である。余談だが後に推しの過去編スピンオフ(これもまぁクソ中のクソ。後述する)に出てきた名前も出てこないモブが同じ発言をしていた。モブ同士は同じ発言するのだなと笑った。
④過去編がクソ
推しの友達は全員死んでる。その死んだ友達との過去を描いたのが過去編である。
死んだ友達もそこそこ人気キャラの為クローズアップされるのだが、今まで推し固有の能力だったものが実は友達の特技にされていく
例えば推しのかっこいい車は友達Aのものになってたし、推しの戦闘能力は友達B、料理上手なのは友達Cという具合に。
推しの人気は多彩な能力にもあったのにはじめから決まってたならともかく推し人気に乗っかった後付けスピンオフで全て能力を誰かのものにしていくのは臓器売買の現場を見ているようなグロさである。
⑤絵がありえない
スピンオフの作画は原作者じゃない。他の漫画家がやって一応原作者が監修はしているがなんというか正直一話の神作画はどうなったの??脳に腫瘍できてない??視神経大丈夫??あ、もしかして腕の怪我???と思うくらいの変貌である。
原作では中性的いうかジャニーズ的な美形の推しがやたらとマッチョになってるし面長の馬面、丸い頭は四角くされて目は小さくなってる。おかしくない???意外と年齢いっててエリート年上の部下を顎で使う童顔がなんでマッチョなんだよ原作読め!!と泣きたい気分である。
原作との矛盾もあり絵もクソ、内容もクソ、面白くないの三拍子揃った何もかもクソのこのスピンオフ面白くないと言った作品ファン()から総攻撃を食らう。
所詮キャラファンで作品ファンじゃないから原作者監修のスピンオフをそんなふうに言えるのだとキレられる。
馬鹿かと。100冊近い原作を読み毎週アニメを録画しファンブックだの無限に買い続けキャンペーンのたびに家にある単行本をダブらせているのに作品ファンではないと??そもそも元々はグッズの売れないジャンルと公式が言っていたものを有数のグッズジャンルに押し上げたのは推しである。作品ファンとか古参とかいう謎文化もこのジャンルの薄ら寒いところである。
余談だがこのジャンルには作者の話が聞けるイベントがある。あくまで好意のイベントは当たり前だが倍率がエグい。
でも謎の古参枠というのがあってそれに入るとなぜか倍率がエグいそのイベントに毎年いけるのである。こういうことをする公式なのだ。
ジャンプとある漫画で原作者と話す権利が当たるものがあり天文学的な確率のものを同じ人間が何度も当てている、公式の不公平な意図が見えると炎上し作者が謝罪したのが羨ましい。こちらは古参が当たり前のようにイベントを闊歩してる。
グッズを買い、映画を数十回も見、ゲーセンに通い、単行本をダブり承知でアホみたいに買い続けるファンより古参を大事にする公式だ。
推しファンはどんなに金を払おうが作品ファンではなく、人権はないらしい。
数年推しに貢ぎ続けてたがそろそろ限界である。無意味に経済力のある家に産まれたせいで推しに湯水のごとく金を使い続けた。別にイベントに当たらないのは自分の運だからいいのだが、その一方で毎年(10年単位)で絶対に当たり続ける人間がいるのは不愉快極まりない。
推しのいいところは殺され、原作は進まず、古参ファンにマウントを取られ続けるジャンルにいるのは偏に推しへの愛なのだ。
【せっかくだし追記】
→落ち着いて、恋人は国(作者談)
こういう基礎的なことも知らないで付き合うとかなんとかいうからこのアニメ出身キャラがどんどん嫌いになる
他のアニメ出身キャラは気に入られてわざわざ相手作ってもらえたのにね
ていうかバ先モブは原作では差別発言するような子じゃなかったし、部下だってキモオタじゃなかったのに推しのスピンオフでそんな設定つけられてかわいそうに思ってるよ。
→画力と推しを原作に似せて描く能力は違うし一話でできてたことが今出来てないから体調の心配しただけ。
手を抜いてると断じるほうがいいわけ?