2020-12-06

いじめ差別の違い

ナイキCM論争で不満なのは、「差別」に比べて「いじめ」に言及するものが少ないこと。賞賛派も批判派も、あれを差別問題をめぐるCMとして扱っている。

差別とは一生涯続くいじめである」という人もいるが、個人経験としてはまったく納得できない。いじめは確かに幸運であれば学校を変わればなくなることもあるが、実際には学校を変わっても、社会人になってもいじめられ続ける人が大半であり、そうではなくても一生にわたって後遺症が残る。

ナイキCMのような、差別を乗り越えて強くなったという物語は今でも無数にある。しかし、いじめを乗り越えて強くなったという話は、大昔の野蛮で牧歌的時代いじめならともかく、現代では寡聞にして知らない。いじめ問題専門家には周知だが、いじめを乗り越えるためには逃避以外の手段不可能である

差別はどんなにひどいものであっても、それが世の中にある偏見のせいであであることは明白である。だから差別体験は反発心アイデンティティになることも多い。しかいじめは、そもそもなぜ自分いじめられているか理由がわかっている人はいない。自分理解はるかに超えた理不尽理由攻撃されているので、反発心アイデンティティは芽生えるどころか、日々削り取られて無気力になっていくだけである

差別体験について外に向けて語る人は、少ないにしてもそれなりにいる。被差別集団どうしなら共感で話が盛り上がる。しかし、いじめ体験を語る人はめったにいない。いじめ被害者どうしが集まっても、いじめ体験を語り合うことは絶対にあり得ない。

そもそもスポーツ系の部活動はいじめの巣窟である少年野球天才選手や、甲子園スター選手が、いじめに耐えかねて退部し、プロ野球への夢を絶たれることになったという事例は枚挙にいとまがないが、外国人であることを理由にした差別でそうなったという事例については(表に出ないだけかもしれないが)聞かない。在日系のスター選手は多数いる。

いじめ問題に比べて差別問題は大したとこがない、と言いたいわけでは全くない。ただ、あのCMの中にある様々な要素の中から差別」だけが切り取られ、過剰にクローズアップされるのは、毎日今日はいじめに遭いませんように」と祈りながら学校に登校していた10代を過ごし、そのまま社会落ちこぼれになってしまった自分には、どうしても違和感距離感を覚えてしまうのである

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