はてなキーワード: 社畜とは
仕事が一段落して、遅めの夏休みが取れたので、「がんばるぞい」のやつを一気に視聴した。画面いっぱいに美少女動物園ならぬ美少女社畜園が広がっていたが、なんとなく会社のことを思い出してしまって嫌な気分になった。3話まで見たのだが、上司が来ると黙ってビールを注いだり、さり気なく先輩のドリンクの注文を取っている新人という細かな演出にばかり目が行ってしまい。視聴は断念した。SHIROBAKOに続いて、二度目。もうオフィスの出てくるアニメは見ないことにしよう。ああ、それから色黒の先輩はインド人じゃなかったのか。てっきりインドの三流大学卒でナマステーとか言うのかと思ってた。
NEW GAME!、第9話もおっさんたちの幻覚が炸裂しております。
まだ彼らは過労死して全滅してはいないようです。先に逝った者たちを弔うためにも最終話まで観ましょう。
いつものコウりん。きっともう、おっさんたちは婚期を逃したんだよ。
風邪くらいでりんが早退っていうのも社畜の叶わぬ願望ですが、りんの付き添いでコウも早退という展開は願望を通り越してSFですね。企業社会における物理法則を無視しています。
フリがありながらりんの着替えシーンがなかったのは、作画コスト(お洋服)が割けなかったからでしょう。唐突に挟まれるコウのシャワーシーンはその埋め合わせ、代償行為です。
彼女の声、表情、おっぱいがエロいのは平常通りですが、今回はシャワーシーンがヤヴァイ。
魔法少女の変身バンクみたいに、下から螺旋状に舐め上げるようなカメラワークであのボンキュッボンが撮られるのですよ。
もう普通のえっちぃ画ではおっさんたちの神経回路が持たないのだなぁ。
青葉ちゃんおトイレ着替えシーンも斬新なアングルでしたね。コンテ(おっさん)に天才がいる。
あと、お湯がリオ五輪のプール並に緑色なんですけど、円盤では適切な透明度になるんでしょうかね?
ひふみんとはじめは良いとして(良くない(いや(・∀・)イイ!!))、青葉ちゃんとゆんが児ポ法にYesタッチ!しちゃいそうです。
退社前の打刻、泊まり込み、仕様変更(おいやめろ)、終電があるから帰れる。
誰か早く助けてやれよ。
次回サブタイも魂に"""クル"""
未婚世代の給料は労働時間に見合ってないしこの先条件が良くなる気もしない
それでも女は出産というリミット抱えてるもんでアラサーあたりで結婚を焦る
男は男は自身が四十でも五十でも初婚なら子供欲しがるから若い子狙い
微妙な年齢同士が売れ残る、まさに行き遅れ
めでたく結婚できたところで共働き、今どき専業主婦なんてリスクすごすぎる
そもそも学資や老後にかかる金が莫大で金はいくらあっても不安な世の中
妻に非協力的だと責められたところで夫も社畜状態で家庭にまでは手が回らない
結果離婚
余裕でそんなイメージが出来ちゃう現状だとほんと何のために結婚すんだ?ってなるな
それでもやっぱり出来るもんならしたいし諦めきれないのは何故なんだろう
【サイト終了のお知らせ】 当サイト「THE HARDWORKERS」は2016年8月15日をもって 終了させていただくことになりました。 長らくご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。
なにかあったんだろうなとは思っていた
閉鎖したからなんだと言うほど
注目していたサイトではない
「いつ閉鎖するのかな」的に
「ああやっぱり」というのが率直な感想だ。
いろいろと感慨深い
たとえばコレ
だが社畜が居なくなると
処理できないジョブがどんどん押し寄せてきて
業務が滞りはじめる。
そして・・・
合理的になっていく
社畜を全員クビにすればいい
いつまでたっても組織は良くならない
ほんのちょっぴりだけ寂しい
労働人口は急速に減少し希少になっていく
以下に書くのは
・2004年1億2784万人いた日本の人口は2100年に4771万人に激減する(中位推計)
・65歳以上の人は2004年に5人に1人だったが2100年には2人になる
・1980年に12%だった高齢者単身世帯率は2050年に55%になる
・2050年日本の国土の98.1%で人口が減り1.9%の地域に人口が集中する
・2050年首都圏では610万人近畿圏では586万人の人口が減る(2005年比)
・2050年日本の全人口の56.7%が三大都市圏と東京圏に集中する
・人口が増加する都市雇用圏は全都市圏の3.3%わずか8都市圏のみ
・中国と四国では首都の3倍(24.4%以上)の居住地域が消滅する
・2050年に老齢従属指数1未満の地域は対2010年比で3倍に増える
・2050年に高齢者一人に対して働く世代の人口は1.31人まで減る
・2050年に東北北陸中国四国北海道の生産年齢人口は-50%を下回る
・2050年に日本の生産年齢人口は総人口の減少よりも大きく減る
・2050年までに人口減で国民総仕事時間(労働力)は4割減少する
出典・典拠
国土交通省国土審議会政策部会長期展望委員会 2011年2月21日
労働人口が少なくなるということは
良い人材が集中するということだ
幕開けに過ぎない
どんな社畜も
いつか限界を迎える
どんな社畜も
働けなくなる
社畜たちよ
お疲れさま(笑)
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASJ8F3Q17J8FPTIL00W.html
意外と、ルール曲げてもいいだろブコメにスターがそれなりに付いている。柔軟にした方がいいのはルール改定であって、運用ではないと思うんだが。
ブラック企業や社畜につなげて語るブコメもあるが、ルール改定によらずに運用で柔軟に曲げようとするマインドは、むしろ推進力にも働きうる。「労基法はあるけど、今はほら会社が大変だからさ、サビ残いいよね?」ってさ。
だいたいガチガチに明文化した中で戦うのがスポーツなんだし。それはフィールドの中だけには限らない。だから異議を認めるのは事実認定の違いや文章の解釈の違いに立脚する場合にとどめておいたほうが良いと思う。
「出席はしていました。受付を忘れただけです。」とかさ。
これ以上働きたくない・・・ではなく、もっと働きたいタイプの社畜ね。
体調が悪い日でもない限り、1日12時間だろうが18時間労働だろうが全然余裕で行ける。
くれるなら貰うけど、別に残業代が欲しいわけではないので、サビ残でも構わないワーカーホリックタイプ。
会社としてやらないといけない作業は山積みなんだけど、全くもって人手不足な感じ。
騙し騙し回していってるんだけど、コンプライアンスとかがどんどん厳しくなっていって、
仕事を回すよりもコンプライアンスを遵守することが優先になりつつある。
残業を抑制したりワークライフバランスとかを大事にするのは、会社としてはそれはそれで重要なんだろうけど、
結論:一週間くらいでなんとかなった。
金曜の夜から飲むのをやめ、土日は引きこもり、月曜日は無理やり起きて会社に行った。
支障はあまりなかった。
という話をダラダラと書いています。
まぁ自分語りをさせてくれ。
睡眠薬の世話になって4年半。
はじめはエバミール半錠だったのが最終的にはマイスリー5mgと を飲んでいた。
併用して鬱病の薬 サインバルタ30mg飲んでいたが、こちらも止められた。
が、これは急激に止めたというより、飲むのを忘れるときがちょくちょくあり、それなりになくても大丈夫なのではと思ったから緩やかに止めていったというのが正しいのだろう。
鬱病であると診断されてなんの疑いもなく飲んでいた睡眠薬だったが、
脱ニートして(というか大学卒業後)働き始めてから規則正しく6:30に起きなければならなくなり、無理やり起きると薬が残っていて強烈な眠気がくる、というのが問題だった。
睡眠薬をグッドミンから変えたばかりで、やっぱり合わないのか…と思ったが
効かないような気も少ししていたし、効果が半減する時間になれば目がさえる時すらあったからだ。
悩んだ結果、「一度飲まずにいよう」と思ったが、土日に試せば眠れず、「やっぱり睡眠薬は必要なのだ」と思うループ。月曜日に眠れない/起きられないのが怖くて、睡眠薬に手を出してしまった。立派な依存だ。
そこで目に留まったのが、「睡眠薬を5日で止めた」という知恵袋のノート。
麻薬と同じで断薬すれば良いのでは、実際私も云々と詳しく書いてあったが、記憶に残ったのは「5日」
5日我慢すれば良いなら…と三連休が近かったので決行することにした。
やけだったかもしれない。
が、今となってはよかったのだと思う。
とある週末の記録
…案の定、眠れない。
眠れないので、撮りためたアニメを見たり、動画サイト見たり、ツイッターしたりする。
眠い。結局最後に時計を見たのは4時くらいだったと思う。そこから記憶がない。
…そしていつも通り6:30に自然と起きる。悲しい。
開き直ってご飯を食べ、またベッドでごろごろする。
土曜夜、一応23時には部屋を暗くする。眠れるはずもなくアニメ。してたら寝落ちしていた。
しかし6:30に起きる。
昨日眠れなかった分寝ようとはしないらしい。私は社畜か。
土曜日に眠れなかったぶんか、日曜日は細切れで寝る。寝られる時に寝なければ。
日曜夜、3夜連続の薬無しに挑む。
月曜日が多分一番辛かった。
まぶたは開けられないのに寝付けない。挫折と思われたが正直薬を手にするのも面倒だった。
買い置きの菓子パン(目を閉じていてもなんとなく袋を開けられたら食べられる)も底を尽きる。
起きられないかもしれない不安とか、逆戻りするんだろうかとか諸々。
起きてる時間は解脱症状についてぐぐりまくり、この最中だ抜いてる最中だ耐えろと念じていた。
最後になんとかアラームの確認をし、眠れないとぐずつく自身と戦う。不安もあるのか、4時を確認した覚えがある。
火曜日朝。
…6:30起床。
身支度もほどほどに、家を出た。
その日は仕事中に寝ることもなく、定時退社。
そして、帰ってほぼすぐに眠くなった。
お風呂だけはと入ったが、髪を乾かすのもそこそにエアコンつけてバタンとベッドに倒れた。
若干の寝付けなさはあったが、30分以内には寝ていた。相当疲れがきたのだろうか。
少なくとも30分ほどの動画をラジオ代わりに聴いて寝たが、後半の覚えがない。
水曜日、すっきり目覚める。
途中覚醒もなし。カフェオレドーピングはしたが、ほぼ問題なく勤務。
時折眠くなったが、トイレで3分突伏したりシュレッダーかけたりしてしのいだ。
そして定時退社(ありがとう周りのみんな)(優しい会社です)(なお定時退社のツケをいま払ってます残業代おいしー!!!)
ご飯を食べ、お風呂に入る余裕あり。しかし眠い。23時に暗くして、24時ごろには寝たのではないだろうか。
人間、寝る力は備わっているというが復活してきたような気がする。
いつも通り起床。5時ごろ一度覚醒、のち寝むれた。奇跡かと思った。
眠さはつきまとうものの、睡眠薬が残っているようないまにも寝落ちそうなのに寝られない…という感覚ではない。
もしかしてこれ、単に寝不足でねむーい…なのでは…と仕事中なのにちょっと嬉しくなった。トイレで突っ伏す。
72パーセントカカオのチョコが良いらしいと聞いて午前中に投入。少し楽になった。
6:30起床。
…もしや、これはもう成功したのではないかと感激する。寝辛さは若干のこるし、眠いは眠い。
ただ、睡眠薬を片手に唸る夜の方が辛かった。
飲んでも眠れない辛さに比べたらこちらの方が圧倒的にマシである。
わりとすっきり過ごせた。
この1週間お世話になったもの
1位 カフェオレ
セブンのノンスウィートを愛飲。現在はコスト減のため、ペットボトルのアイスコーヒー+牛乳となっている。
時間がない朝でもコンビニで買って飲めるのは助かった。多分薬代より安い。…そんなことはないか?(計算したくない)
2位 アニメ
撮りためを引っ張り出してBGM代わり。内容を覚えているため耳で聞いても脳内で映像再生余裕でした。
3位 菓子パン
片手で食べられる。汚れない(あまり)。頭を使わなくても安全に食べられるものを用意する必要がある。本当ならばタンパク質とかそこら辺とったほうが良いのだけど数日は気にしなくて良いと思う。
何かお腹に入れていたほうが眠れる、と思うので買っておくと良いと思う。引き籠もろう。
カップ麺はお湯を沸かさなくてはいけない=火を使うのでNG。虚ろな目で食べられるものを。
その他
周囲の協力。
働いているならば早出なし残業なしが難しい人もいるかもしれない。
正直後半、職場に行く必要性で起きて、寝るために体力を使ったおかげもあると思う。 引きこもり時代はこれがない。そして眠れない悪循環とあった。
最後に。
これは独断で行った睡眠薬断ちである。本来ならば医者と相談して少しずつ減らしていくべきである。実際結構辛い5日(以上)であった。
大手を振ってこれを推進しようとは思わない。
しかし、もし不眠で薬が手放せなくなっている人が、この文を読んで少しでも役に立ったと思ってくれたら嬉しい。
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
今回はとなりのヤングジャンプ
今までは嫌がらせレベルだったけれども、とうとう殺しにかかってきたか。
ただ、突き飛ばしがすり抜けて、そのまま幽霊が社畜の体にひっかかったみたいな状態に。
事実上、社畜が取り憑かれしまった形になってしまい、地縛霊が外に出てしまうと。
社畜は気の毒だが、話が広がってきたなあ。
隼人の言い分は、ある意味ではとても誠実なのだけれども、それに対してのプロデューサーらしき人からの答えは、「ファンに対する『愛してる』の信憑性が薄くなるから」と。
warpというアイドルグループは成熟しておらず、故にそのファンの多くも「愛してるよ。恋愛をしている彼女は君たちとは別にいるけどね」で納得できる状態ではない。
まあ、一理あるのかもしれないけれども、この回答は世俗を意識した話であって、滋郎はだったら彼女を選んでアイドルを辞めるという。
そもそも隼人が芸能界に入ったのは好きな人のためなのだから、そりゃあ恋愛禁止だってなんならそうせざるを得ないわな。
そして、4人中2人も抜けたら、もう続けるのは無理だとして解散の話に、というところで次回か。
メタ的にみて、多分このまま解散なんてことにはならないだろうけれど、これを存続するとなった場合、私の予想では陰鬱な展開にしかならなさそうで嫌だなあ。
今回は「技術の不足をファンタジーパワーで無理やり補ったらどうなるか」という話か。
需要のある属性を扱う術師になる人が増えて、結果買い叩かれやすくなったり、魔法よりも効率的な機械が導入されて術師が食いっぱぐれるという描写も、現代社会を意識している感じがするね。
結局、資本が人である以上、この問題はファンタジー世界でもありえる、ってことか。
また、恋愛系か。
ただ、こっちはメイン二人の関係性と、それに合わせた描写がメインだね。
後に判明する新事実によって関係性が変わり、そこから紡がれる二面構成は興味深くはある。
読者に衝撃を与えるならば、新事実のネタバラシは早いという気もするが、その分語り手の苦悩などのドラマも丁寧に描けたから、一長一短だな。
ただ、そこに注力して描いた結果、二人がなぜ好きだと思っているのかを読者に追体験させる、いわばキャラクターを魅力的に描く部分が薄くなってしまったきらいがあるね。
このあたり、No.2の方と対照的ながら、オチが似てしまったのが皮肉というかなんというか。
恐らく、どう風呂敷を広げて畳むのか考えあぐねたんだろうな。
投票するかは……う~ん。
ここまで感想書いておいてナンだが、結論としてはNo.2と同じで、「面白い連載を描ける実力を見極めるための作品」としては、適切ではない気がするんだよね。
ここまで大言壮語なタイトルってことは、よほど自信があるか、なにか仕掛けがあると踏んで私は読み続けている。
だが、22話にもなって、未だその期待に全く応えてくれていない。
話進まないなあ。
進まない上に、その中で描かれることがツマラナイってのがまた厳しい。
僕は何のスキルもなく頭も悪いコミュ障でデブで不細工でまさにゴミクズなんだけど、自分が売ってる商品のことはとても好きだ。
色々出来ないことも多くて不便なとこもあるけど、すごいことが出来る商品なんだ。
僕はゴミクズの自分自身の代わりに自分の売っている商品を自分自身として思い込んで、そうして人生ではじめて自己肯定感を覚えることが出来て、本当に毎日楽しかった。
すごい商品だけど色々出来ないことも多くて歯がゆい想いをしていた。「出来ないこと」はいつも同じだからだ。この点をクリアしたらもっと売れるのに、もっと使いやすくなるのに、って。
僕が入社した当時の上司は、商品の改良をほとんど諦めていた。そんなコストがかかることを口に出せる空気ではない、と上司は思っていたように記憶している。
だから僕も、改良は出来ないという前提でいた。僕の上司も辞めてしまって、たくさんのひとがいなくなって、結果的に、僕みたいに何にもできないクズでもそこそこの裁量権を持てるようになったんだけど、大幅な改良は出来ないと思い込んでいたし、でも何か変えなければいつか時代遅れになって全く売れなくなってしまうだろう、という焦りが常にあって、僕はそれをとても恐れていた。僕にとっては、やっと意味を持ち始めた僕自身の価値が再びゼロになることと同義だったからだ。
だから、改良に着手出来ることが決まって、僕は本当に嬉しかった。本当に嬉しかったんだ。
そして、そのプロジェクトが取りやめになってしまった今、僕の毎日はまた無価値なものに戻った。
取りやめになったのは、僕がやっぱりコミュ障で仕事ができなかったことが原因の1つ。いや、僕ごときが経営判断の材料の1つになったなんておこがましいか。あなたが担当でなくても取りやめていた、と偉いひとは僕に言った。それは自暴自棄になった僕を慰めるために形式上発せられた、発することを強いられた空虚な言葉だったような気もするし、結局のところお前に出来ることなど何もなくお前の存在はまったく影響を及ぼさないのだ、という正当な評価あるいは本心からの感想だったような気もする。
いずれにしてもプロジェクトは取りやめになった。僕はお情けで仕事を辞める猶予をもらって、まだ仕事を続けさせてもらっている。
作業自体はプロジェクト開始前と同じなんだけど、だからこそ、毎日地獄だ。
すごい商品だけど色々出来ないことも多くて歯がゆい想いを毎日するんだ。この点をクリアしたらもっと売れたはずだった、もっと使いやすくなるはずだった、と、僕にもっと価値があれば実現出来たはずの未来を想いながら、自分自身の無価値さを思い知らされ、それらすべてを押し隠し、笑顔をとりつくろってクライアントに惰性で商品を売り込む。なんとむなしいことだろう。無価値な僕にはぴったりな仕事かもしれない。
そもそも無価値な僕に認められたのは、仕事を続けることではなく、仕事を辞める猶予だ。来年の5月納品の案件について、担当欄に僕の名前を入れて見積書を作る。その頃たぶん僕はこの会社にはいないが、たぶん商品自体は存在するだろうから問題はないだろう。
あのとき仕事をやめたくなかったけど、やめないことで僕に何か出来ると勘違いしてたみたいだ。
ただでさえ仕事が出来ないくせに、このところずっと仕事が手につかなくて、なんでこれで給料でてんだろ、って、いっそ不思議だ。
あのとき辞めてた方が、この商品にとってもよかったんだろう。僕がいなくなれば、もっと頭の良いひとが受け持ってくれてきっともっと良いものにしてくれるに違いない。
無価値な僕自身から目をそらして、思考を停止させた社畜のまま死にたかった。
なんて贅沢な苦しみなんだろう、さっさと死ねばいいのに。
でぇもさぁぁぁ。
何も考えずに、ただただ社畜ちゃんの身分を受け入れて、安穏とした人生を送る若者の方が大半じゃない?
50円ブロガー界隈の人たちだって、いずれは夢破れて、社畜になるのかもしれないけど、
今回はコミックウォーカー
多くて感想書いてられないので、感想書きやすかったのだけ、気になったのだけ書く。
やっぱこのテのはキャラが命なわけだけども、それを魅せるためにどう描写するかということができていない漫画とかがチラホラあるなか、
目すら描写されないモブキャラすらここまで濃く描けるのはさすがというか何というか。
むしろ、昨今のキャラ漫画は「メインキャラをどう描くか」よりも、「モブキャラをどう描くか」のほうが大事だとさえ思える。
メインキャラをどんなに必死に魅力的に書こうが、登場人物一人一人に与えられる役割なんてたかが知れているわけだし。
え……なにこれ?
一体、この漫画をどうしたいんだ?
寝取られフェチに目覚めてしまった主人公の葛藤を描く漫画なんじゃないの?
それを面白く描くために、あの世界感、キャラ、設定、展開がベストだと本気で思っている?
編集って、作者が迷走していると思ったら、うまいことアドバイスするのも仕事なんじゃないの?
作者のやることに口出ししちゃいけないみたいな風潮あるけれども、別に作者の自由にやらせたほうが面白くなるとは限らないからな?
それとも編集の指示でこうなったの?
本作はあくまでコメディーだから事なきをえたけれども、もし蚊に刺されて感染する設定だったらマジでヤバいよな。
コメディー特有の雑さはあるけれども、それなりにゾンビ対策しながら生活している様子は中々面白いと思う。
3話にしてヒロインがあからさまに主人公に惚れてるってのが、“いかにも”ですな。
やたらと主人公を見くびったり、目の敵にする嫌味な奴も登場したし、ある意味で期待を裏切ってくれませんなあ。
逆にすがすがしい。
落としどころとしては妥当かな。
ただ、主人公の「どう食おうが個人の自由」みたいな理屈を、なんでもかんでも許容してくれっていう意味で都合よく使うのはだめっすわ。
たとえば最後に出てきた混ぜそばとか、あれ逆に混ぜないで食べたら絶対「えー……」ってなるでしょう。
本来想定されている食べ方を尊重すること前提で「個人の自由」だと思うんだけどなあ。
非常識なことは人のいる場所でやらないのが社会人として当然の振る舞いであって、ならば食べ方だって同じだろうさ。
それに振り回されるのも楽しいのだろうけれども。
私もはやり目で眼帯つけて学校行ったとき変に注目されたことがあったが、腫れた目を隠すためにつけているから当然だけどカッコよくはないわけ。
目薬するときに眼帯外したら、興味本位でそれを見たクラスメイトはドン引きだよ。
私が思っていた以上に、ジェームズこじらせてたんだなあ。
家賃15万って、お前……。
今回ばかりは、先輩の指摘は最もだと思うぞ。
社畜時代、死ぬほど忙しい思いをして手に入れた給料のおよそ半分が家賃で消えてたとか。
ましてや今は職場も違うわけだから、そこまでして都内のマンションにしがみつく理由がない。
それで「今の仕事では家賃が払えないので転職しようかと」って、ズレてるズレてる。
「引っ越せば?」という提案も、「ギャグでも言ってんのか?」みたいな反応していたし。
周りのアクが強いから自然と常識人みたいな立ち位置だったけれども、やっぱジェームズのこじらせっぷりは深刻だな。
・女子たちがキャピキャピやるだけの漫画多すぎるぞ。嫌いじゃないけれども、さすがに食傷気味だ……。WEBコミックで読めるのだけでも、私が把握している範囲内ですらかなりの数だ。
・というか、「漫画が」全体的に多い。需要も俄然あるけれども、供給が飽和どころではない。千本桜のコミカライズとかどういうことやねん……。