僕は何のスキルもなく頭も悪いコミュ障でデブで不細工でまさにゴミクズなんだけど、自分が売ってる商品のことはとても好きだ。
色々出来ないことも多くて不便なとこもあるけど、すごいことが出来る商品なんだ。
僕はゴミクズの自分自身の代わりに自分の売っている商品を自分自身として思い込んで、そうして人生ではじめて自己肯定感を覚えることが出来て、本当に毎日楽しかった。
すごい商品だけど色々出来ないことも多くて歯がゆい想いをしていた。「出来ないこと」はいつも同じだからだ。この点をクリアしたらもっと売れるのに、もっと使いやすくなるのに、って。
僕が入社した当時の上司は、商品の改良をほとんど諦めていた。そんなコストがかかることを口に出せる空気ではない、と上司は思っていたように記憶している。
だから僕も、改良は出来ないという前提でいた。僕の上司も辞めてしまって、たくさんのひとがいなくなって、結果的に、僕みたいに何にもできないクズでもそこそこの裁量権を持てるようになったんだけど、大幅な改良は出来ないと思い込んでいたし、でも何か変えなければいつか時代遅れになって全く売れなくなってしまうだろう、という焦りが常にあって、僕はそれをとても恐れていた。僕にとっては、やっと意味を持ち始めた僕自身の価値が再びゼロになることと同義だったからだ。
だから、改良に着手出来ることが決まって、僕は本当に嬉しかった。本当に嬉しかったんだ。
そして、そのプロジェクトが取りやめになってしまった今、僕の毎日はまた無価値なものに戻った。
取りやめになったのは、僕がやっぱりコミュ障で仕事ができなかったことが原因の1つ。いや、僕ごときが経営判断の材料の1つになったなんておこがましいか。あなたが担当でなくても取りやめていた、と偉いひとは僕に言った。それは自暴自棄になった僕を慰めるために形式上発せられた、発することを強いられた空虚な言葉だったような気もするし、結局のところお前に出来ることなど何もなくお前の存在はまったく影響を及ぼさないのだ、という正当な評価あるいは本心からの感想だったような気もする。
いずれにしてもプロジェクトは取りやめになった。僕はお情けで仕事を辞める猶予をもらって、まだ仕事を続けさせてもらっている。
作業自体はプロジェクト開始前と同じなんだけど、だからこそ、毎日地獄だ。
すごい商品だけど色々出来ないことも多くて歯がゆい想いを毎日するんだ。この点をクリアしたらもっと売れたはずだった、もっと使いやすくなるはずだった、と、僕にもっと価値があれば実現出来たはずの未来を想いながら、自分自身の無価値さを思い知らされ、それらすべてを押し隠し、笑顔をとりつくろってクライアントに惰性で商品を売り込む。なんとむなしいことだろう。無価値な僕にはぴったりな仕事かもしれない。
そもそも無価値な僕に認められたのは、仕事を続けることではなく、仕事を辞める猶予だ。来年の5月納品の案件について、担当欄に僕の名前を入れて見積書を作る。その頃たぶん僕はこの会社にはいないが、たぶん商品自体は存在するだろうから問題はないだろう。
あのとき仕事をやめたくなかったけど、やめないことで僕に何か出来ると勘違いしてたみたいだ。
ただでさえ仕事が出来ないくせに、このところずっと仕事が手につかなくて、なんでこれで給料でてんだろ、って、いっそ不思議だ。
あのとき辞めてた方が、この商品にとってもよかったんだろう。僕がいなくなれば、もっと頭の良いひとが受け持ってくれてきっともっと良いものにしてくれるに違いない。
無価値な僕自身から目をそらして、思考を停止させた社畜のまま死にたかった。
なんて贅沢な苦しみなんだろう、さっさと死ねばいいのに。