文章読めない人って知らない文脈で出てきた言葉を自分の知ってる意味合いのまま読んで、それに合わせて無理矢理全体の整合性を取るような気がする。
特定の単語で脊髄反射で飛びついて、あーハイハイ文化資本の話ね、とかバズワードを使って分かった気になってみたりもするかもしれない。
現代文の試験ってまさにこの癖を矯正する事が求められるんだと思う。
試験なら制限時間があるけど、そうでなきゃじっくり読めばいいのにね。
まあ試験じゃなくとも人生には制限時間があるし、全ての文章をじっくり読み解く道理もないんだけど。
それならそれでいいけど、インターネットでろくに内容を理解してないのにやたら上から目線で言及するのはアレだなって思う。社会性の問題ですよこれは。
同じ文章と言っても理屈で理解出来るものなら、読み違えてる事を整合性のつかなさでなんとなく気付けるのかもしれない。自分の読み方を疑わずに文章が変だと言い張るかもしれない。その方がマシかもしれない。
もっと感覚的な事を言ってる内容だと、自分の感覚に落とし込んで、なんとなく分かった気になったままになってしまう事もあるのかもしれない。
まあでも文学なんかはそれで別にそれでもいい気はする。それで心が揺れるなら、道筋は違えど目的は達成してるかもしれない。ある視座から体験を追う中で実感の伴った批判的視点を養う、とかを置いくなら……
でもそういう読み方ばっかしてると、何を読んだ所でもとより自分が大事だと思っているものを整理したりせいぜい気付かされたりするばかりで、他人のものの考え方、感じ方というのをそのまま理解する事も、他人の言葉を借りて新しい感覚を知ることも出来なくなっちゃうんじゃねえかなって思う。
おれもグラントリノ観た時、移民系のアジアのガキと保守的な偏屈白人ジジイという要素を見て安易な受け取り方をした。
ハイハイ、多様性とか、ヒューマニズムで人種を超えるとかそういうのね。
イーストウッドも2008年時点でこういうの描けるような人だったのね。
とか思ってた。