はてなキーワード: 教授とは
それイギリスの行動なんちゃら学の教授かなんかが学生に実験でやらしたことあるんでしょ。
電車の中で座っている老人に席を譲ってくれって頼むやつ。
やっぱ変なやつと絡みたくないからか席を譲る人もいらしい。
「発達障害」は思ったことをそのまま言っちゃうってやつ、世間では何故か当たり前のように言われていて
https://anond.hatelabo.jp/20230927002433
私は寧ろその逆で、発達障害者の方が他人に気を遣って思っていても言わないようにしている場面は沢山あると思うんだよね。
特に他人の容姿や恋愛・結婚など、私は触れるべきでないと思っているから基本言わないのに、定型発達の人達は常に軽く口にする。
定型発達者と発達障害者の違いって、思った事をそのまま言うかどうかではなくあくまで上手くルールに従えるかどうかの問題だと思う。
この増田に特徴的なのは、定型発達者の側のそういう無神経で軽率な言動があまりにも出てこないこと。
例えば現実だったら
「9歳のとき、一部のクラスメイトが外国籍の子をからかっていた。そういうのはやめようよと言ったら、私もからかわれるようになった。」
「16歳のとき、女子の間で他の子の目が一重か二重かが話題になった。他人の容姿に触れるのはよくないよと言ったら、次の日から無視されるようになった。」
「19歳のとき、教授がゼミの女子学生に試験の問題の完全解を教えていた。それはよくないですと言ったら、私の成績評価はDになった。」
「23歳のとき、定時になったらタイムカードに記帳してから残業するように言われた。残業時間を記録しないんですかと言ったら、みんなの前で怒鳴られた。」
「25歳のとき、お年寄りが道で倒れていたので救急車を呼んだ。道には人通りが多かったけれど、お年寄りに声を掛けたのは私だけだった。」
「30歳のとき、飲み会で独身の先輩の恋愛事情が話題になった。勝手にプライベートを詮索するのは良くないですと言ったら、次から飲み会に呼んでもらえなくなった。」
みたいな事実もあると思うし、この理不尽な世の中ではそういう事例の方が多い筈なんだよ
なのにこの増田みたいに偏見の強い定型発達者は、空気を読めずに他人を傷つける役目を常に発達障害者に負わせている。
まさに偏見の強化。
一切の勉強しませんでした。授業は半分上の空だったし宿題もやらなかった。
たまたま親が地頭マシに生んでくれたので2回の受験はどっちも偏差値60ぐらいのとこに入れましたが
大学入っても勉強しなかったので語学の単位を落として留年しました
そのぐらい何もやらなかった人間が50歳過ぎて役に立ったと思う教育指導
これはガチ。書くときに書き順やとめ、はらい、きちんと閉じてるか開いてるかまで一字づつマルバツつけてくれた。
高校にもなってバカみたいだと思いつつやってたけど、宿題もやらないような人間に勉強の習慣を躾けるには一番効果的でした。
これなかったら受験のために勉強するという手段すら見つけられなかったと思う。
英語は単語暗記なんか一切やらなかったのでド底辺だったけど、文法にロジック(予備校なので点取りスキルのような説明)があると教えてくれた予備校講師のおかげで最低限のとっつきが出来た。
理屈こねてサボりたい人間には理屈で楽ができると教えるの効果的です。まあ単語暗記サボるんですけど。
小6のとき成績悪くなって急遽入れられた学習塾がたまたま進学塾だった流れで中学受験したのだが、
結果、そこそこの進学校に入ったので保体とか大学までやったことなかった。
大学に入って初めて筋トレや筋肉痛に意味があるって知ったし身体を動かすことに意味があるって知った。
それまで運動とか不良のやることだと思ってたのでマジで目から鱗だった。
そっかー高校のとき体育の時間をダラっとソフトボールで流すのではなく1限まるごと筋トレとランニングだけで地獄を見させてくれたH先生は良い先生だったのかーと後から知った。
卒論書くまでバイトするかゲームするかで勉強しないし他人が何を学んでるか全然知らなかった。レポートも適当書くしかやってないマン。
卒論を出さなきゃいけないとき、何やっていいか全くわからず、今さら他人に聞くこともできなかったので、好きな本の書き方を丸ごと真似することにした。引用の仕方、導入の仕方、結論への持っていき方、等々。なお引用元は真面目に調べてないのでだいたい孫引き。ひどい。
もちろん教授陣も見放してたのでとっとと卒業させてくれたって話で、結果には繋がらないんだけど、ここで他人をパクることを学んだ。パクるのマジ大事。
何が言いたいかというと、本人まるで勉強する気もないし、親も勉強よくわかってない、そんな底辺に対しても、何がしかの勉強をやらせとく意味はあるかなと。
そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たちは私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?
このような問いは、歴史を通じて真剣な思想家や活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:
意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と。
この本の中心的な主張のひとつは、不平等、ヒエラルキー、暴力は、あらゆる人間社会を組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等は空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。
これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類の祖先や初期の人類が平等であることによって見出した適応、つまり生態学的ニッチについて説明する新しい注目すべき学問を無視している。つまり、かつて人類は平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的な無政府主義者やマルクス主義者の見解も無視しているのだ。
保守派の主張は、農耕や都市生活、経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論に抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。
彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家に支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義、奴隷制、階級差別、人種差別、性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。
グレーバーとウェングローが主張する政治的論点は、太古の昔から、人は常に支配と自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。
彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである。
この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会を運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。
グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会が存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーとホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。
さらに重要なのは、19世紀の社会ダーウィニズムや、より最近のスターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学の現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要な対象であり、私たちはその両方を共有している。
社会ダーウィニズムと歴史の段階説。ハーバート・スペンサーとルイス・ヘンリー・モーガンの19世紀の社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初の人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会の夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的・知的進歩のシグナルであると理解されている。
しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代の人種差別主義や新植民地主義を支え続けている。
左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論の解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。
そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスとエンゲルスの仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論的説明も暗黙のうちに否定しているのだ。
これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族の起源 私有財産と国家』において最も顕著である。エンゲルスはそこで、人間は平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。
しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーとモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。
「アーリア人とセム系民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富に供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコのプエブロ・インディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。
エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。
フランツ・ボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論を破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたかも自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツ・ボアスは、太平洋北西海岸のクワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。
フランツ・ボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年にヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命の指導者の一人であったソフィー・メイヤーの息子である。1851年までに、彼女の読書グループはマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。
ボースは人類学者になった。カナダではバフィン島のイヌイット族やバンクーバー島のクワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークのコロンビア大学の教授となった[2]。
1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造的であると主張した。1913年当時、ボースは母親の政治を否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民の党派として、人種差別を憎んでいた。
ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、ゾラ・ニール・ハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類の文化の進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。
しかし、私たちはもはや1913年の時代ではない。1982年、エリック・ウルフの皮肉なタイトルの『ヨーロッパと歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史を真摯に受け止める人類学の波を起こした。
人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進、先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗と宗教、伝統と現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しかし悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民の大量虐殺、アフリカの奴隷貿易、白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争を正当化するために展開され続けている。
人類学者や考古学者たちは、現在、人類の不平等の起源について、まったく妥当な説明を構築している。ケント・フラナリー、ジョイス・マーカス、ジェームズ・C・スコットがその中心人物である。
残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類の進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究を無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類の比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会は存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろ愚かにしてしまうことである。
グレーバーとウェングローは、かつて人類が狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境や人間存在の物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会が必然的に平等であったことを否定している。
彼らの主張の第一歩は、人類の進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。
過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類や霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代の狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。
化学的微量分析、DNAサンプリング、放射性炭素年代測定、質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちのヒーローの中には、読み応えのあるクリストファー・ボーム、フランズ・デ・ワール、R・ブライアン・ファーガソン、サラ・フルディ、マーティン・ジョーンズ、ローラ・ライヴァルの広範な出版物がある。
このような研究は、人類の進化と人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たちは平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察である。しかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である。
現在、さまざまな類人猿やサルを対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定の環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係、子育て、攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類の進化を理解するための私たちの方法でもある。
時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類の祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。
博士課程として留学している。今まで自分はどちらかと言うと「できる」部類に入っていると思っていた。ただ、留学先で明らかにできない部類だということが判明して辛い
ミーティング←外国語で何を言っているかわからないし、周りに頼んでも議事録を取ってくれないから自分で取るも記入漏れが多くてやっていないタスクが頻繁にあり詰められる
グラフ←作り方を教わった覚えがないから我流でやっているが、教授に見せるたびに高校レベルができていないと詰められる。他の理系のやつはどこで習ってるんだ
ラボのメンバーもミーティングになると教授に味方して攻撃してくるし(ミーティング前に君に確認したよね!?)日本に帰りたいけどまだ修士号が取得できる単位が揃っていないのでまだ残らないといけないとかまじすか...?できない癖にプライドが高いから自分じゃなくて周りの責任にしちゃうしオワオワリ 発砲事件がUNCであったけどうちでも起こらんかな〜(脳天一発で沈めてくれ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E5%AD%90%E6%8F%90%E4%BE%9B
日本における状況
AIDの減少
日本産科婦人科学会によると、日本国内でAID(人工授精による精子提供)が可能な医療施設としては12カ所が登録されている(2020年5月末時点)[4]。
2016年には、全国のAIDの約半数を慶應義塾大学病院(慶大病院)が占め、慶大病院だけでAIDが1,952件行われた[4]。
2017年には全国でAIDが3,790件行われ、そのうち115人が出産された。AID1件あたりの出産確率は約3%であった[4]。
しかし、2017年以降、慶大病院でのAID実施数が大きく減少した[4]。その原因は、以前まで同院では精子提供者の個人情報を非公開としていたが、同年からは「子どもが情報の開示を求めて訴えた場合、裁判所から開示を命じられる可能性がある」ことを提供者の同意書に明記するようになったことだった。背景として、外国では子どもが遺伝上の親の情報を知る権利を認める例がある状況を踏まえた措置だったという[4]。
2018年、慶大病院では精子提供を希望する夫婦の新規受け入れを中止した[4]。同院の産婦人科の教授である田中守は、「AIDは本当に子どもをほしい人が、子どもを産む手段。少子化が叫ばれる中、ゆゆしき状態だ。」と2020年に述べた[4]。
近況
2020年5月末時点で、国内で「(現在でも)AIDを実施している」と回答したのは全12施設のうち7施設にとどまり、うち2施設は新規の受け入れを停止していた[4]。
ただの独法系病院勤務医だけど神奈川の田舎の母子家庭に生まれたからか、昔は名誉欲と権力欲が強かった。横浜翠嵐卒業して東大法学部卒業して、在学中に司法試験と国家公務員試験に合格して、大蔵省か自治省の官僚を目指していた。金には全く興味がなくてエリート視、次官という肩書き、陛下から頂ける勲章が欲しかった。
だけど、司法試験合格して東大法卒の事務次官でさらに中高は私立の名門男子校なんて人はゴロゴロいるわけで、地元小中と県立出身の自分じゃ「真のエリート」にはなれないなと諦めた。
その後内閣人事局というとんでもないオフザケ組織ができてしまったのでその選択は正解だった。
それからは「国立大学医学部の教授」を目指して旧六医とされる地方国立医学部に受かったんだけど、大学在学中に新しい臨床研修制度が始まってしまった。県外出身の友人始め多くの同級生はそれを歓迎していた。だけど俺は不安だった。せっかく苦労して関連病院の多い歴史の古い国立医学部に入ったのに、その医局の権威が揺らいでしまったら…と。
予想は的中し、今や国立医学部よりも設備の整った私立総合病院の院長がデカイ顔をすることもあり、大学医局に属したことのない医師が名医と紹介されることもあり、極め付けに最初から稼ぎの良い美容外科を志望して入学してくる学生がいる。
医師や官僚だけじゃない。情報化社会とネットメディアが進展すればするほど、金と根拠のない影響力だけを持った胡散臭い実業家やインフルエンサーが大口を叩くようになり、正当な権威や権力を持った人間の影響力が次々と失われていく。
https://web-willmagazine.com/social-history/syXW3
竹内 ええ。天皇は男系を連綿とつないできました。それは科学的に見ると、男しか持たない性染色体Yを、ほぼそのままの形で継承してきたことを意味します。よく間違えられますが、Y遺伝子なるものは存在しません。遺伝子は染色体上に存在するからです。そして性染色体は男で「XY」、女で「XX」という状態です。息子は父からYを譲り受ける都合上、父のXは受け継がず、Xは母由来のものを受け継ぐ。
ここで重要なのは、性染色体のXと常染色体(性に関係なく持っている染色体)は対となり、相方がある染色体なので、生殖細胞ができる際に「交差」という現象が起きます。途中に切れ目が入り、中身を一部交換します。この交差によって世代を経るに従い、遺伝子がそのまま継承されることが少なくなる。Xや常染色体は、次第に薄まっていくのです。ところがYについては交差が起きず、父から息子へ、そのまた息子へといった男系で継承している限り、まったく薄まることがありません。極端なことを言えば神武天皇のY染色体を、そして歴代の天皇のY染色体を、天皇陛下や秋篠宮親王殿下、悠仁親王殿下に受け継がれているのです。
百地 科学的見地から見ても、男系をつないできたことのすごさがわかります。
竹内 ところが『週刊文春』(2019年5月30日号)で、生物学が専門の福岡伸一氏は、皇統が男系でつないできたこと(Y染色体が受け継がれてきたこと)を認めつつ、Y以外の全ゲノムが大事であるとし、「男系・女系の区別は無意味である」と結論づけています。そんなことはまったくありません。
百地 竹内さんの指摘で重要な点は「科学的説明などまったくなかった時代に、先人たちは直感的に見抜いてしまった。あらゆる手段を講じ、男系による皇統の継承を護った。この事実が重要で、その歴史を今になって我々が放棄することなど、あってはならない」──これですよね。
竹内 はい。その当時はY染色体という科学的根拠など解明されていないし、理解できるはずもありません。にもかかわらず──なぜかわからないけれども、男系の大切さを感じて護り続けてきたのです。
百地 章(日本大学名誉教授・国士舘大学特任教授)が、完全に「Y染色体そのものに聖性があるみたいなオカルト話」をしてるだろ。
量子力学を理解しようとして、Faddevの本と、Takhtajanの本を買ったことがありますが、積読になっていました。
個人的な懸念を表明すると、量子力学を学ぶことは神への冒涜なのか否かということで、これは単に個人的な宗教観の問題です。
しかし、おそらく神は、私たちに知ってもらいたい事柄だけにアクセスを許可するよう設計しているはずです。
どちらも数学マニアが量子力学を学ぶために書かれた本ですが、やりがいがありそうなTakhtajanの方をやろうと思います。
エドワード・フレンケル教授の「Love and Math」ではSO(3)について書かれていましたが、それについての解説も書かれているようです。
追記: Takhtajanをちょっと読んだのですが、リー代数を理解済みとして話が進んでいたので、学生向けのFaddevの本からやっぱりやります。
普通は教授とかに査読してもらえ死ねって送り返されてくるが、たまに査読不要のお手前雑誌があって、ぼくのかんがえたさいきょうのしすてむとかが載ってて、広告に引用される
エドワード・フレンケル教授によれば、最先端の数学はゴッホのようなものですが、小手先の応用はペンキ塗りに喩えられています。
また、ティモシーガワーズ教授は、数学の2つの文化、つまり「問題解決者」と「理論構築者」に分けて考察しています。
私のようなプログラマーというのは、問題解決者として小手先の応用へ取り組む人がほとんどです。
例えば量子力学の理論やラングランズ・プログラムなどの「深淵」に取り組んだ経験が圧倒的に少ないのです。
学ぶ事柄が見つからないということは起こり得ません。むしろ多すぎて選ぶのに苦労しています。人生は限りがあるので、選ばなければならないのです。
しかし数学の経験が未熟であるために、取り組む価値のあるトピックがどれであるのか、その審美眼が鍛えられていないのです。
プログラマーは離散数学のことばかりやっています。だから逆に、連続とか無限とかそういうことへの憧れが湧いてきます。
しかし、超弦理論は最近批判に晒されているようで、つまり実験によって反証しにくいので、理論が結局どう有用なのかわからなくなっているようなのです。
人間がこの先、微細な弦の構造を発見できるくらい巨大なエネルギーをもった加速器を作ることがあるでしょうか。希望は薄そうです。
フレンケル教授が言うように、「一部のエリートだけがゴッホを理解するのではなく、一般市民も作品に触れる」ことに希望を持っています。
まず批判対象が所詮個人のブログで、このブログ主については特にコメントがないので批判も擁護もしない。ただし男性蔑視かつ決めつけだらけの増田の無茶苦茶な中身に対してはきちんと反論する。
子供を育てなければいけないのは親権を女性に優先的に与えられていることの裏返し。子供育てるのが嫌なら夫に親権渡して養育費負担したら?
https://choutei.net/toukei/shinkensha-tsuma-otto/
あとね、なぜ妻が財布を握る結果になっているか考えたことないの?
男性の8.7% 438万人
女性の1.8% 98万人
ダウト。疑われる人を含めても男女合計で約70万人(https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou_kouhou/kouhou_shuppan/magazine/201904_00010.html)です。どこから持ってきたのか出典を示してくれますかね?
いずれにせよ、大多数はギャンブル依存症ではないのだからこれだけで女性が財布を握ることは正当化できない。
養育費、生活費、貯蓄とまともな家計をシミュレーションすると夫の小遣いが無くなるだけ
ダウト。夫が管理すると夫の小遣いが増えるは、妻が常に正しいという身勝手な前提に立っている。妻が管理した場合に妻の可処分所得が増えると言わなければアンフェア。
昭和じゃないんだから、嫁が働いて互いに応分負担で家計にいれればよいだけの話。
ダウト。「離婚すればいいじゃん」は両方に言えること。女性が積極的に離婚しないのは本人の意思です。育休で失うキャリアは食えなくなるレベルではない。働く気がなくて離婚できないなら世の中舐めてるだろ。
調査員が調査対象者の自宅へ訪問し、タブレットPCを用いて設問を読み上げ、調査員が回答をPCに直接入力する方法で行われた
ここで誰しもが疑問を覚えますよね?
ダウト。論文をちゃんと読め。内閣府や法務省の訪問留置調査ではデータの妥当性・信頼性が確保できないので、欧州の調査結果と比較するためにEUの調査方法も踏襲して同様の調査を行ったとあり、面接に先立って行っている研修も欧州の方法を用いている。一方、増田の批判は100%増田の主観である。第一その後でその数字を引用してるだろ。信用できるのかできないのかどっちなんだ。引用しているNHKのサイトでも結果が整合しているとしており欧州と比較するために行った調査としてはむしろ妥当であることを示唆している。
つまり,男女平等が進んでいる国の女性ほど,性的事件の中でも,とりわけ些細な事件も含めて,調査担当者に詳細に回答する傾向があることを示唆している。
ダウト。多変量解析は因果関係を証明しない。係数を比較してその関係性から示唆される関係が浮かびあがるもの。
「男女の平等を示す係数が高いほど性的事件の被害率が高い」は相関関係を示すが、「女性は性的事件の被害について率直に回答することができるため,被害率が高めに現れることを示している。」「些細な事件も含めて,調査担当者に詳細に回答する傾向がある」は解析結果を筆者が考察したものに過ぎない。従って、これをもって「痴漢程度だと尚更調査担当者に回答しない可能性が高いわけです。」は言えない。完全に決めつけである。多変量解析の基本からやり直せ。
したがって,発展途上国で,男女の平等が進んでいない場合には,国レベルの性的事件の被害率がかなり実際よりも低めに現れ得ることを示唆しており,それは,国際的比較における正確性を損なうおそれがあることを意味している。
もちろん津島昌弘教授がそんなことを知らなかったわけではないでしょう。
ダウト。一般的なバイアスの傾向として示唆したもので津島教授の調査にも当てはまるが全てに当てはまる。
意図的に抜いたと思うが、津島教授の研究はバイアスを最小限にするために以下のように様々な工夫をしていて、そうすることによって比較ができるようにしている。面接調査員にはEUに準じた研修を行い面接を行うことでバイアスを最小限にしている。
そもそも津島教授の研究目的を理解しておらず論文を読んだかすら怪しい。繰り返しになるが、引用しているNHKのサイトでも結果が整合しているとしており欧州と比較するために行った調査としてはむしろ妥当であることを示唆している。むしろ津島教授の調査結果から都合のよい部分だけを引用しているのは増田自身である。
調査員は全て女性で、面接調査の前に研修への参加を義務付けた。研修内容は、調査の背景と意義…、注意事項(倫理・安全上の注意、回答者・被害者への対処・特別の配慮、調査員自身へのストレスマネジメントなど)以下略
(出典:https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-15H01922/15H01922seika.pdf p2)
調査結果の解釈はNHKが適切に行っている。すなわち調査結果から読み取れることは記載し、読み取れない決めつけは入れていない。
この調査から言える大きなことは、女性がパートナーから性被害にあったときに警察に通報する人がほぼいないということである。警察統計からは実態が見えないので今回のような暗数調査が必要という話であって、さらに暗数があるというのは増田が内閣府のH27のコメントを拡大解釈をしたに過ぎない。
増田の思い込みの域を出ていないのと、サンプリングする際に高いところを取るようなバイアスのかかった調査が国際比較に好ましいと思うのであれば都合のいいデータを求めていると言わざるを得ない。
独身無職の男女でも男性の方が自殺率が高い以上、安易に「男は妻の代わりに外で働いているからストレスで自殺が多いんだ」とは言えないんですよね。
官僚が間違いや失敗を犯すことはない。
・一般職、〇〇専門官、〇〇専門職という形式で選ばれた下級役人
その理由を御三家男子中高一貫校→東大文一→旧司法試験不合格→国I(当時)不合格→東京大学法学部→小学生向け受験塾の講師という経歴を持つ俺が官僚にはなれなかったけれども官僚の友人を多く持つ人間として解説する。
まず官僚になるためには突破しなければならないものがとにかく多い。
中学受験、東京大学文科一類現役合格、国家公務員総合職試験上位合格、面接など文科省や環境省などの下級官僚、課長級を経て肩たたきされる底辺官僚でも最低限この四つを突破する必要がある。局長、次官級ともなればここに加えて学生時代の旧司法試験(現代なら予備試験と本試)の合格、仕事で間違いを犯さないこと、政治家から嫌われないことなどさらに多くの要素が必要となる。
10歳から始まるこの競争では間違いは許されない。中学受験、大学受験、公務員試験とどれか一つでも間違えれば官僚への道は潰える。学業だけでなく、非行に走ったりした学校を追われたり、享楽に耽って大学を中退したり留年しても同様である。
そのように間違いを犯した人間から「官僚への道」が潰れ、医学部医学科、工学部などに進学したり、法曹、外資系企業、財閥系総合商社…など別の道に泣く泣く進んで行く。
お分かりいただけただろうか。
よって政治や行政への批判の際に官僚を槍玉にあげてはいけない。なぜなら彼ら官僚はミスや間違いは犯さず、もしも間違いが存在するのならそれは政治家(但し官僚出身者は除く)、下級役人、政治家の選んだ専門家、有権者たちなど別の人間に要因があるからである。
日銀がわかりやすい例だ。日銀叩き上げや大学教授出身の総裁が就任すれば日本経済は傾き、財務官僚が就任すれば日本経済は持ち直す。この繰り返しだった。日銀総裁の中で最も功績の大きい黒田氏(面識は全くないものの私の中高大学学部の先輩に当たる)は大蔵・財務官僚である。
ちなみに民間企業や法曹、医師などにおいても仕事で間違いやミスを犯さない順に属性を並べれば
中高一貫東大卒→非中高一貫東大卒→中高一貫国立卒→非中高一貫国立卒→中高一貫私大卒→非中高一貫私大卒となる。ちなみに仕事における能力の高さやパフォーマンスの高さで順位をつけても全く同様となる。
これは様々な業界にいる私の中学、高校、大学の友人も同意しており、私の職場の職員や講師を見ても同じく当てはまる。
お子様をお持ちの方は子供の未来を考えればこそ、金銭の負担や労力を厭わず、迷うことなく中学受験をさせ間違いやミスを犯さない輝かしい人生を送らせてあげてほしい。