はてなキーワード: ゲームボーイとは
ゲームボーイをカラー化する構想はゲームボーイ発売後からあり、1992年にはカラーの試作品が作られたが、筐体サイズの肥大化およびバックライトの必要なカラー液晶による電池の消耗の激しさ[注釈 1]から製品化は見送られた[3]。
その後1997年になると反射型カラー液晶が安価になったことでコスト面および電池消耗の問題が解消したため、ゲームボーイのプロジェクトリーダーであった岡田智をプロジェクトマネージャーとして本機の製品化を目指して開発が始まった[3]。
コストや
Twitterで1998年の10月21日はゲームボーイカラーの発売日だったってのを見た。
当時の自分はゲームボーイでポケモンなどもやっていたが、一番やっていたのはワンダースワンのGジェネだ。
若い時分にはガンダム作品のクロスオーバーなストーリーが本当に楽しかった。
(ヒイロ・ユイとユウ・カジマの「……」の応酬の末、ヒイロが「無口な男だ」とか言う交信とか好きだった。)
PS2のGジェネNEOやゲームボーイアドバンスのも随分やり込んだ。
若さゆえか、ワンダースワンカラーの方でGP03とノイエ・ジールを編成できた時は少し感動したりもした。
(大人になった今では「どうやって戦艦に入ってんねん」とか「どんなご都合主義だよ」と思わずにはいられないだろうが。)
今月は,ソニーグループと任天堂の決算の話を中心に進めたい。両社ともに共通しているのは,前年の強い需要の反動を受けたことだろう。とくにソニーグループは,PS5のコスト負担が重いこともあって,大幅な減益となった。
PS5は230万台の売上(着荷)台数と,前第4四半期の330万台から減少した。要因は(1)空輸から船便に切り替えた影響,(2)半導体不足による生産台数の減少によるものとしている。半導体は最先端のチップ不足が報道されがちであるが,パワー半導体なども,自動車生産の回復による需要増で不足感が強い。この四半期は生産に大きく影響が出た印象である。今期目標の1480万台以上は堅守とのことだが,第1四半期のビハインドを挽回できるかどうかはよく分からない。
下図は以前にも示したものだが,今回の決算で気になるところは,アクティブユーザー数だろう。ソニーグループは前年度よりも水準が高いことから,コロナ禍による巣ごもりの影響ではないかとしながらも,詳細は不明としており,第2四半期の動向を見守りたいとしていた。
ソニーグループのゲーム事業アクティブユーザーとフルゲーム販売本数
この現象は,個人的には不可解である。通常であれば,PS5を初期に買う人々はゲームをたくさん買う層であり,また喜んで遊ぶと想定されるからだ。特にPS5はこの期間に1000万台近い売上台数を実現している。そして以前,ジム・ライアン氏自身が示した通り,ゲームの購入はPS4よりPS5のほうが少ないという問題がある。
この問題を説明できる考えが必要だが,エース経済研究所では,空き容量が問題ではないかと仮説を立てており,要点は主に二つである。
(1)据え置きゲーム機は,高性能化を追求した結果,メディアは単なる起動ディスク化しインストール必須となっているため,空き容量の影響を受けるようになったこと
(2)ゲーム機全体が一般化し,よりライトユーザーが初期から手に入れるようになったことで,購入頻度が低い層が増えた
特に(1)は非常に深刻な問題と捉えていて,PS5/Xbox Series Xは,前世代機から互換性を持たせた結果,より高速な体験ができる現行機に過去のユーザー資産が持ち込まれ,ストレージ容量を圧迫している。ユーザーは,新規の大作ソフトで空き容量が圧迫されること,もしくは既存のタイトルをストレージから削減することをコスト(心理的抵抗:スペースコストと暫定的に命名)と認識していて,このコストを上回る価値が新規タイトルにないとゲーム購買を躊躇うようである。
この点はソニーグループとの議論では確認できなかったのだが,パソコン周辺機器メーカーがこの問題を認識していることを知った。
PS5には追加のSSD用スロットがあるが,現状ではこのスロットは解放されておらず,増設ができない。現在β版のファームウェアで解放の準備が進められているが,解放されると,大きな商機があるとパソコン周辺機器メーカーは思っているようだ。その要因は,PS5の空き容量が発売から1年足らずですでに大きくひっ迫していると見ているからとのことであった。
これらのことを考えるとF2Pの収益がPS5で拡大したのも頷ける。F2Pの課金はデータ容量と相関していないためだ。パッケージやダウンロードゲームは,買えばダウンロードされるために,必然的に空き容量をひっ迫するがアイテム課金はそうではない。
これがPS5でF2P課金が増えた要因ではないだろうか? そしてPSビジネスを揺るがしかねない問題だとエース経済研究所では考えている。PS5はストレージ容量が,ゲームの肥大化に見合っていないため,廉価で販売している状況に見合った販売結果が得られない可能性があるからだ。
この仮説が適切かどうかは,ファームウェアアップデート後のユーザーの動きで分かるだろう。
次に,任天堂の決算である。Switchの販売は,前年比で落ち込み,資本市場ではついにピークアウトしたと認識されているようである。任天堂のゲーム機は3年目がピークになることが多く,例外と言っていい10年間も販売されたゲームボーイはもう30年以上も前に発売されたアイテムなので,多くの人の記憶にはない状況にある。
5年目での販売台数減少は,PS5の最速1000万台実売リリースもあり,いよいよ下り坂に入ったと捉えられている。そしてエース経済研究所でも7~9月のセルスルー(実売)は厳しいと見ているので,ピークアウトしたという風に見えるのはやむを得ないところである。
ただ,任天堂やエース経済研究所ではそうは考えていない。OLEDモデルが出れば,需要は大きく伸びると見ている。人々はそもそも合理的には行動しておらず,視覚情報で購買行動を決めているなら,狭額縁化,有機EL採用によるディスプレイの色彩の良化を考えると,人気になると予想している。
セルスルーの鈍化で2550万台の着荷(販売)台数は達成できても需要が落ちてくるとの見方が多いようだが,エース経済研究所では,部品不足でこの台数以上の需要があると見ている。
PS5もSwitchもだが,先端の半導体というよりは,個別半導体やモジュール類の小型半導体の不足が深刻で,任天堂は部材調達の不安は完全に解消されていないとしていた。OLEDモデルは,仮に人気化すると年内の増産はかなり難しい印象である。
そのうえで,故岩田社長が任天堂のゲーム機は5年サイクルとコメントした結果,一般的に任天堂のゲーム機は短命とのイメージが強くなり過ぎているかもしれない。しかし,ゲームボーイはマイナーチャンジを実施しながら10年もの長い間ビジネスを続けたという事例もある。Switchも同様に,マイナーチェンジを続けながら,長期的にビジネスを続けられるとみているが,このような予想をしているのは,エース経済研究所ぐらいのようである。下図のように,SwitchはPS4を上回るペースで,勢いが落ちた感じは見られない。ペースが鈍化するのは,まだ先になると考えている。この点ついては,OLEDモデルの予約開始後にまた触れたい。
最後にスマートフォンゲーム市場について簡単に触れたい。スマートフォンゲーム関連の決算では,サイゲームスを擁するサイバーエージェントがウマ娘の効果で,非常に好調だった。ユーザーも魅力的なキャラクターが登場するたびに課金しているようなので,かなりガチャが引かれた現状でも,ある程度勢いは維持できている。問題は今後もキャラクターの追加を安定してできるかどうかであろう。スマートフォンの高性能・高精細化で,キャラクターの制作コストも上昇する一方である。ところが,キャラクターの追加ペースが収益を決めていることは,ほとんど認知されていない。このことに気づかない限り,緩やかな減少が続くというのがエース経済研究所の見方である。ただ,こういうとウマ娘で市場は好調ではないという向きもあろう。
そこで,だいたいの市場推移を捉えるために,エース経済研究所でウオッチしている6社のゲーム事業売上高を合計したグラフを久しぶりに掲示する。確かにウマ娘で反転したように見えるが,1800億円強の合計売上高のうち,ウマ娘の寄与はおよそ650億円程度と見ているので,既存のタイトルの市場はむしろ割を食ったように見える。
1タイトルで挽回できると見るか,不健全と見るかは意見が分かれるところだろうが,上記のコスト増加を考えると,一時的で不健全と見ている。何かしらの大作が必要な時期に来ていると思っていたが,ウマ娘のヒットで対応は先送りになるだろう。これがスマートフォンゲーム市場に悪い影響が出ないか,注視しているところである。
タイトルがすべてなんだけど、『スマホの影響?映画に集中できない人続出「スマホOK映画館」待望論も』というNEWSポストセブンの記事とネットの反応について思ったこと。
俺は映画館(上映中)でスマホ使う観客については光害の観点からわりと不快感を覚える側の人間だ。しかし俺自身はスマホを使いたくなる局面がしばしばある。もちろんスマホは触らないぞ。
でもそれは映画館の内規に反するからしないというだけ。スマホを禁ずる内規が無かったとしても迷惑に感じる人がいるということは容易に想像できるから、やはり使わないと思う。
決して映画鑑賞における「お作法」とか美意識のようなものに基づいてスマホを使わないことにしているわけではない。
だからスマホを使うことを認める上映回を待望する声が存在することについては違和感は持たなかった。そりゃそういう奴は少なからず居るだろう、考えてもみろ。
会社組織においてさえ一対一の会話中にスマホをいじる人間は今では珍しくない。最近では東京オリンピックの開会式でも選手がスマホをいじってる光景が見られたはずよ。
野球場ではどうか?試合中に外野席でスマホをいじってる観客は当たり前のように見かける事だろう。みんなスマホが手放せないのだ。
ところが思った以上にスマホOK映画館を許せないという趣旨のコメントが見受けられたのよね。それも自分の中の強固な映画鑑賞像に基づいてるものが大半だと思う。
いや、君がそういう映画館に行かなければ良いだけの話だし需要が小さければサービスはすぐに廃れるだけなのだから何も文句をつけるような話ではないと思うんだけど、それにも関わらず文句を言うってことは「映画鑑賞とはこういうものだ」という勝手な美意識を振りかざしているだけの話でしかないよ。
スマホ禁止なのを廃止して全部スマホOKにしろという話ではなく、スマホOKの上映の場も作ってくれという話なのだから。盗撮という著作権上の懸念(これはわかる)はあるけど、ここがクリアできるならそういうサービスがあっても良いと俺は思う。
確かに上映中にスマホは野暮だという言い草はわからんでもない。こういう「野暮な光景」は昔からあった。
キャンプ場にゲーム&ウォッチやゲームボーイを持ち込む子供に批判的な大人は多かったはず。でも今、NintendoSwitchをキャンプ場や海水浴場に持ちこんで遊んでいる子供に「喝!」と言うおっさんが居たら、反発する奴もまた多いんじゃないか?俺は映画館も同じことだと思うぞ。
かつて映画館では喫煙することが当たり前だったらしい。これは俺の想像なのだが70年代に「禁煙の映画館も欲しい」なんて声が出たら今回と同じように「映画館に来るな!」と言われた時代なんじゃないだろうか。
でも現代の映画館における喫煙のガイドラインはご承知の通りである。時代によって映画鑑賞のあり方は変わってきたはずだし、変わっていくのだろう。
「すみ分けたい」という声にまで文句を言うのはいささか身勝手だ。嫌なら選択しない自由がある。誰も行かなきゃ廃止されるだけなんだから。
かつて「家族間のコミュニケーションが損なわれる」という理由でテレビを持ち込まない家庭があったことについてどう思うだろう?あるいは、デートの最中で双方がスマホをいじる光景を見てどう思うだろう?
俺は、どちらについても違和感を覚えないが、これに異を唱えるのはおっさんだと思ってる。そんなことに文句垂れるのは常々おっさんのやることだと思ってきた。こういう話なら理解できる若い奴は多いんじゃないか?スマホOK映画館なるものを待望する声に対して似たような了見で異議を唱える人は、アレになりつつあるぞ。あれになったらおしまいだ。そんだけ
確かに何人かいたな。スーパーゲームボーイでポケモンを遊んでた子って。
そういう子は対戦や交換するときだけ他の人のゲームボーイを借りて遊んでたな。
あと、俺は初代ゲームボーイで遊んでて、ゲームボーイポケットと通信ケーブルコネクタの互換性がなかったから(専用の変換ケーブルがいるが、その場合は初代ゲームボーイ用の通信ケーブル+変換ケーブルを買わなきゃならず、そんなもの当時のガキに買えるわけがなかった)、この増田が言う疎外感は割とよくわかる。スーパーゲームボーイ組と同じで、対戦や交換をするときは他の子のゲームボーイポケットを借りてたよ。
しかしうちではそのぐらいの価格帯の商品を買ってもらえるのは誕生日とクリスマスだけだった
子供には長すぎる数ヶ月を過ごし、ようやくそのタイミングを迎えたとき
ポケモン赤はプレゼントしてもらえたがゲームボーイは与えられなかった
代わりに与えられたのはスーパーファミコンに挿して遊ぶスーパーゲームボーイだった
素直にゲームボーイではなかったのは、携帯機であるため親の監視外で遊ばせたくないという思惑があったらしい
それに加えて
・小さな液晶を覗き込むよりTV画面の方が視力低下の影響も多少はマシだろう
という考えもあったようだ
友達と遊ぶときにはプレイ環境一式を外に持ち出すわけにはいかず
ソフトしかないのでそれぞれがゲームボーイを持ち寄って遊ぶ空間では自分はプレイすることはできない
公園ではもちろん無理だし
友達のゲームボーイを借りるにしてもみんなまず自分が遊びたいのは当然だ、貸してもらえることなど少ない
友達の家で遊ぶときでも、わざわざそこのスーパーファミコンを借りるというのも不自然でハードルが高く実現することは少なかった
そもそもその時に発売していた初代スーパーゲームボーイには通信端子が無いのだ
(通信端子のあるスーパーゲームボーイ2が発売したのはそれより後のことで、スーパーゲームボーイを既に持っている子供が買い換えるにもメリットが少なかった)
混ざれるはずなのに混ざれない
一番下が自分だった
悪意を持って明確に仲間外れにされることはなかったが
その場でポケモンを一緒に遊べる仲間の方が親交が深くなるのは当たり前で
それがすごく惨めだった
20年以上たった今、その時のヒエラルキーが流石にそこまで尾を引いているはずもなく
ふとあの時の疎外感を思い出す時がある
他と同等に揃えてもらえない子は
かつての自分と同じように寂しい思いをしているのだろうかと
ぼんやりと思いを馳せるのだ
はてブを見る限り、結構な共感があったようで、書いた甲斐があった。
寄せられたコメントの中からいくつか取り上げたいものがあったので、追記しておきます。
自分の回りにもいました。
貧乏だから買ってあげられない、というケースは見なかったけど、親の方針でゲームを買ってもらえない子。
90年代当時の親世代にとって、まだゲームへの偏見や未知なるものという認識は多かったと思います。
やはり、禁止されている子供は逆に執着してしまう傾向にありました。
大人になって反動でゲーム三昧の人もそれなりにいるでしょうね。
かく言う自分も、完全禁止でないにせよ少しずつ不便や不満を重ねていたので、
これは、当時は仕方のない話かと思っています。
特に恨んだとか、間違っていたとは考えていません。
子供のコミュニケーションツールとして重要なポジションにあったことは理解できていなかったのですから。
ゲーム世代が親になり、かつての苦労と大人目線での懸念から葛藤しているのもわかる話です。
ゲームに理解があっても程よい距離感で向き合わせるには難しいでしょうね。
ネット接続やSNSの広がりもあり、フォローアップしてあげることの難易度も上がってしまいました。
自分の家に呼べば友達がゲームボーイを持ってきて、自分は自分のスーファミで遊べますよね。
ここは地理的な問題なのですが、小学校から自分の家が一番遠くにあり、坂の上にありました。
いわゆる新興住宅地(○○台と名前のつくような所)です。集まるには不向きでした。
たまり場になる友達の家がありましたが、ゲームが多かったり集まりやすい立地にあったのが大きな理由ですね。
対戦というより、自分のポケモンを進めつつ、お互いの進行状況をその場で共有して楽しむ、という場でした。
ポケモンスタジアムは持っている子もいましたが、起動率はそこまで高くなかったですね。
ゲームボーイで何をしていたかと言うと、赤緑の出現ポケモンが違うので、
赤でしか出現しないマンキーを持ってない緑の子のためにその場でマンキーを捕まえて交換してあげる、なんて光景も有りました。
うちの地域でポケモンスタジアムが脚光を浴びたのは、ポケスタ金銀が発売されてからでした。
しかし、そこまで来るとポケモン一色ってほどのブームでは無くなっていました。
あくまで、ポケモン赤緑の一時期だけがそれ以外がほぼ無いぐらいに占めるコンテンツだったんですよね。
やりましたよ!スーパーマリオワールドや星のカービィスーパーデラックスなど。
ドラゴンクエストなど1人用RPGをプレイしている様子を眺めつつ、自分は置いてある漫画を読みふけるなんてこともしましたね。
その話を盛り込むと要旨がボヤけてしまうので、今回はポケモン赤緑の話に絞っていました。
みんな揃ってポケモンに傾倒した時期があって、そこで疎外感を覚えたのは大袈裟に受け取ったことでもなく事実です。
バトエンやカード、すごろくなんかも出ていたので、ポケモンブランドを冠した交流ツールはゲームに限った話でもないですけどね。
あ、やってます。
図鑑は剣盾時点までコンプしてます。アンノーンもビビヨンも今の所全種揃ってますよ。
対戦はあまり興味ないですが。
ええ、それを狙いました。
あの時代を生きていた人が「ポケモン」「スーパーゲームボーイ」と聞いたら
ピンと来るだろうな、という期待を込めてタイトルに入れておきました。
(続き)
といった問屋関係の逸話が当時バンバン登場した。メーカーも対抗すべく(?)ダンピング出荷、返品受付などで一本でも多くソフトを売りさばこうと必死だった。このあたり、問屋も小売店もメーカーも、市場の異常さに気が付かずもがいていた感じが否めない。初心会と二次問屋は、問屋の本分である「日本全国に適正量の在庫のゲームソフトを流通させる」という機能を忘れ、ただただゲームソフトを動かすことで得る利益をあげることに無我夢中だった。
ここで注意をしておきたいのが、「任天堂や初心会が、一方的にサードパーティや小売店から利益を吸い上げている」という既存の論調は近視眼的だ、ということだ。スーパーファミコン市場に参入したサードパーティはおよそ200社。このうち途中で撤退を決めたのは10数社で、しかもこれら撤退したメーカーの多数は異業種メーカーであり、本業での業績が低下したためだったり、バブル期の不動産に手を出して大やけどして倒産…といったもので、ゲームと直接関係あっての撤退ではないのだ。
小売店も同じことで、当時はファミコン-スーパーファミコンという新しい分野での市場拡大に手を出す小売店が多数いた。ただ問屋に苦しめられるだけの業種であるなら、こんなことは起きるはずがない。甘い蜜はそれなりに存在していたわけだ。ざっくり要約すると「不満はあるが儲けもある」といったところか。むしろPCエンジン・メガドライブの有力ソフトをスーパーファミコンに移植して一旗あげようとするサードパーティのほうが多かった。それほど有望な市場であるがゆえ、いろんな輩が入り込もうとやっきになったわけだ。
市場が拡大している間はそれでもよかった。しかしスーパーファミコンが円熟期を迎え、対抗馬として「次世代機」の姿がちらつくようになってきた頃に、いよいよおかしくなってきた。多数現れた三次問屋が小売店と二次問屋の中にねじ込み、己の利益を吸い取ろうとし始めた。手法としては品薄になりそうな人気ソフトを抱きかかえ、「小売店に小売価格そのままで」卸したりした。商圏を無視して跨いで他社の領域に食い込んで商売するところもではじめた。初心会の中にゲームソフトを投機商品のように扱う問屋が現れ、二次問屋三次問屋が喜んで利益の分前を頂いた。その分小売店に負担が偏り、結果的にはプレイヤーにも巡り、最終的には市場に悪影響を及ぼす。スーパーファミコン市場は歪んだまま大きくなり、そしてついに縮小を始めた。
衝撃が大きかったのはプレイステーションの登場だ。なんと問屋を使わず、ソニーが直接小売店にものを卸すという。革命的なやり方だった。返品なし、定価販売というところがネックになったが、どの商材も掛け率が一定であることに小売店は喜んだ。今までは問屋ごとに掛け率が違ったり、注文する本数によって掛け率が変動したり、そもそも抱合せで仕入れるしかなかった(違法? しったことか!)からだ。
こんなことが可能なのはプレイステーションがCD-ROMを採用しているからだった。リピート生産がROMほど時間がかからない。お金も自前の工場だからさほどかからない。最悪在庫になっても簡単に破棄できる。それゆえ最初こそ少量生産で行い、売り切れたら即リピート発注すればよい。こうすれば過剰な在庫にメーカーも小売も苦しめられずにすむ。値崩れ・抱合せも心配いらない。
ROMカセットを採用していたらすべて実現不可能なことだった。ちなみにセガもサターンでCD-ROMを採用しているが、他社の工場での生産だったためなかなかリピートが上手く行かなかったらしい。(なお、詳しく書かないがここで上手くいった改革は現在すべて崩壊している)
一方、任天堂はROMカセットの採用を64でもやめなかった。ディスクシステムに手を出してそのあまりに長いロード時間に苦慮したことの経験があるからだ。そしてこれを機にもう一度市場のリセットを図ろうとした。市場にはスーパーファミコンのワゴンセールが始まっている。なんとかして初心会内外にあるゲームの投機的扱いをやめさせなければならなかった。ソフトの数が少なくなれば、そのような動きはできにくくなる。そのためサードパーティのソフトをとにかく減らし、少数精鋭路線で進もうとした。初心会外に取引を広げ自前で流通を行うという選択肢もあったが、これは取らなかった(実はSFC時代にトイザらスが日本進出をしてきたとき、任天堂や各大手メーカーに直接取引を持ちかけてきたが、これは上手く行かなかったようだ)。山内社長はファミコン時代の遥か昔から取引を続けていた初心会を切ることに抵抗があったからだ。それに「絶対に売れない」といってたファミコンも買い取ってくれたのは初心会だ。この前もバーチャルボーイというズッコケハードを出したが任天堂は全量初心会にハードを買い取ってもらっているので被害は最小で済んでいる。(その負債は初心会が被り、さらにその負債は小売店に押し付けられた構図だ。)
しかしそれでも、初心会と二次問屋たちは目先の利益を追い求めるのに夢中だった。
スーパーファミコン市場末期の1995年発売の聖剣伝説3は初回出荷は70万本だったが、実は初心会からの注文本数は合計140万本だった。前作がミリオン超えをしていたのでそれだけ期待があった、という表側の理由だが、ようするにこれも投機的に扱われることが明白だった(そもそも前作聖剣伝説2も結構な数がワゴン行きしていた)。あまりに酷い値崩れを嫌ったスクウェアは出荷本数を半分の70万本にし、かつ卸値を10%引き上げると初心会にアナウンスした。こうした動きに一部の問屋がなんと小売店に対して「スクウェアを公正取引委員会に訴える!」と言いまわってしまった。もちろんスクウェア側には一切の非はない。運が悪いことに(それとも狙ったか)スクウェアは夏休みに入ってしまったので、小売店は真相を確認することができず業界の一大事が起きたのではないかとパニックになったところもあるという。この話は巡り巡ってなぜか「任天堂が悪い」ということになった。PSが発売されて半年以上経とうとする頃でも、初心会に危機感は全くなかった。
その年の末発売のドラゴンクエストⅥの発売にあたっては、初心会とエニックスの間で注文数の予測で大紛糾だった。初心会の予測は250万本。エニックスの予測は300万本。エニックスは自信満々だったが、初心会はそこまで売れないと踏んでいた。初期出荷は250万できまり、エニックスは自前で50万の在庫を抱えることになったが、この読みは的中する。即リピート発注がかかり、エニックスは二次出荷を行った。
最終的に320万出荷を果たすわけだが、売上予測ができない問屋にメーカーは価値を見出すだろうか?
そして、ついに、終わりのときは訪れた。
1997年2月21日。任天堂本社で毎年のように行われる初心会の懇親会。その幹部会の席上にて初心会会長である河田会長が宣言した。
幹事会は静まり返った。関係者には事前に知らされていなかったのだ。解散は任天堂山内社長と、初心会河田会長のトップ会談で秘密裏に行われた。今後一切の取引は商品ごと個別に行われ、しかも初心会内の特定10社のみそれが行われる。今までゲームソフトを投機的に扱って儲けを吸っていた会社は任天堂から拒絶され、二次問屋に落とされた。しかも64の少数精鋭路線のおかげでこれから商材はどんどん減る。今までのような振る舞いは不可能になった。
任天堂はスーパーマリオクラブの立ち上げにより売上予測をするようになった。つまり、予測のノウハウを自ら身につけつつあった。そうなれば商材を投機的にあつかう問屋は不要だ。「どれほどのソフトが売れるか、我々にはわかりようがない。流通のプロに任せるしかない」。かつての山内社長の言葉だが、流通のプロがプロに値する仕事をしないのなら、切られても仕方がないというわけだ。
実はこの流通改革に前後してプレイステーションでも問題が発生した。デジキューブだ。スクウェアがプレイステーションに参入する条件として、コンビニに自分たちで卸すデジキューブをSCEに許可させた。
もともとプレイステーションはすべてSCEが自前で小売店に流通することを売りにしていた。ところが後から来たスクウェアはSCEを通さず自前で流通させるという。
このあたりを詳しく解説する。SCEはソフトメーカーと協議し、ゲームソフトの初回生産量を決める(ということになっているが、実質決定権はSCEにあった)。
SCEは特約店(一部、ハピネットといった問屋も使用していたが)からの受注数がその初回生産量に満たない場合はSCEが自腹で在庫を抱える(ように努力いたします、という注釈付きではあった)。
と、ソフトメーカーにかなり親切のように見える。しかしこれには問題が含まれていた。初回生産量はSCEが決め、実際に流通させているのもSCE自身だ。ソフトメーカーが営業をしかけ多くの受注を獲得したとしても、SCEがOKを出さない場合、本当にそのソフトは流通しなくなる。実際に飯野賢治がプレイステーション版Dの食卓で自分たちで在庫を抱えてもいいから多くつくるべきだと要望を出しても、SCEはそれを良しとはせず、結果売り切れを引き起こし機会損失を生んだことがあり、飯野賢治はセガ陣営への鞍替えをしたことがあった。
ソフトメーカーからしたら、リスクも多いが儲けも大きい自社流通に切り替えたがっていた時期だったが、任天堂もSCEもそれを良しとはしなかった(ただし任天堂は初心会通しであるため、一社が売れないと踏んでも他の問屋が受注してくれる可能性はあるし、このときPSの取扱店はまだ初心会流通よりは少なかった)。しかしスクウェアだけには特例としてそれを認めるというわけだ。SCEは流通に関わらず、スクウェアが直接小売店とコンビニにゲームソフトを卸すわけだ。当然、初回生産量も自由に決められる。
いったいどういうことだ、SCEはロンチから頑張ってきたメーカーに対して不義理じゃないのか。こうした理論で反発したメーカーがいた。コナミである。
コナミはSCEに対して自社流通を求めた。ゲームをつくる製造委託費とロイヤリティは支払うから、お前のところの流通網は使わんぞ、ということだ。こうすることでコナミはSCE流通分の費用を削ることができる。5800円の小売価格のうちの取り分を増やすことができるわけだ。もちろん在庫リスクや小売店へのやりとりはコナミ自身がやらなければならないから、自社流通が完璧というわけではない。結果的に大手メーカーはみな自社流通になっていくが、ナムコだけは付き合いもあってか(ナムコはかなり初期からPSに絡み、ライブラリの整備も行うほどだった。自社プラットフォームを諦めたかわり、PSに注力したということだろう)SCE流通を使い続けた。
プレイステーション側でこのようなことが起きてるのだから、当然余波は任天堂側にも及ぶ。コナミは64やゲームボーイの自社ソフトに対して「これから初心会を使わず自前の流通網使いますから」と一方的に任天堂に要求した。かつての任天堂ならば決して受け入れるはずのない要求だろう。だかしかし、任天堂は簡単にこの要求を飲んだ。そして門戸が開かれた自主流通のおかげで、ゲーム業界の流通改革は全メーカーを巻き込んだ。最終的にはコナミ、カプコン、コーエー、スクウェア、エニックスといった大手は自前で流通網を持ち、中小サードパーティはそこへ委託流通する形に落ち着いた。つまり元初心会の問屋たちを全く必要としない流通を実現してしまった。
解体された初心会はボロボロになった。合併倒産が相次ぎ、その多数が姿を消した。残された10社は直接小売店と取引するようになり、二次問屋三次問屋は居場所がなかったからだ。
しかも任天堂から選ばれた10社も順風満帆ではない。10社のうちモリガングはバンダイ系列のハピネットに買収された。石川玩具はタカラへ事業譲渡した。松葉屋はラスコムに事業譲渡し、そのラスコムも後年自己破産している。そんな一方テンヨー、カワダ、カマヤは今でも元気に問屋業を営んでいる。(名前が出てこない他の会社は調べても出てこなかった。情報plz)
そしてジェスネットは任天堂の子会社となり、アジオカは事業譲渡を行って「任天堂販売」となったが、これはなんと2016年の話だ。初心会が解体されて20年近くたったが、完全に自前で任天堂が流通するようになった。
こうして初心会は歴史の中に消えていった。良い面悪い面両方ともあったわけだが、特に末期には悪い面が強く出すぎていた。しかしこうして羅列してみると、「初心会があらゆるあくどいことを駆使して不法に市場を牛耳っていた」というわけではなく「初心会が市場を牛耳っていたのでいろいろとあくどいことができた」ということに気がつくだろう。その市場も確固たるものではなく急激に膨らんだ不安定なものであり、なおかつ悪行も任天堂の山内社長の怒りが落ちない範囲内の話でしかなかった。
悪徳の町、ソドムとゴモラは神の怒りに触れ一夜にして滅んだ。初心会も同じ運命を辿ったのだった。
参考文献
東洋経済 1997年3.22号 盟友・初心会を抜き打ち解散した山内・任天堂 焦りの流通改革
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH
大森田不可止 @omorita
※この旧版になります。完全版は無料でnoteで公開中ですので、是非そちらの方をご覧下さい。
https://note.com/syosin_kai/n/nb97f2a0a193a
ちょっとゲームの歴史をかじったことがある人なら聞いたことがあるだろう言葉『初心会』。
とにかくこの言葉へのイメージは最悪だ。「真っ黒組織」「ゲームヤクザ」「歴史の闇」「悪の秘密結社」etcetc。
そんな初心会だが、はたしてどれだけの人が正確に初心会とはなんなのか、どのような悪どいことをしてきたのか、そして最後はどういうふうに消えていったかを語ることができるだろうか? おそらく、ほとんどいないのではないだろうか。
この初心会について、私が調べたことをゲームの流通の歴史を絡めてまとめて書き出すぞ。これで君も初心会マスターだ! ちょっと長いけど勘弁な!
もともとの任天堂は花札屋であり、そこからトランプやおもちゃを売り出したことは知っているかな? 創業は明治時代だ。
1960年代前半の任天堂は問屋を通じてテリトリー別に小売店を団体で集め、トランプやかるたの特売セールの景品といった形で温泉招待旅行などを行ったりしていた。そうした中、「ダイヤ会」という親睦会が問屋内で自然発生する。このときはあくまでローカルな親睦団体という形でしかなかった。
1973年2月、光線銃といったヒット商品が出始めたのをきっかけに、このダイヤ会を全国規模のきちんとした親睦会の形にしようとして生まれたのが初心会だ。ファミコンが生まれるずっと前だ。そしてファミコンはこの初心会に参加している問屋(59社加盟、その中でゲームに力を注いでいたのは30社ほどだったそうだ)を通じてのみ、流通させようとした。これには理由がある。
ファミコンのゲームはROMカセットだ。ROMカセットはCDと違って作るのが大変だ。発売日の三ヶ月前にはどれくらいつくるか数字を決めなきゃならない。一本つくるのに1000円以上かかる。もちろん任天堂は自前の工場を持っているわけではないから、他社の工場にお金を払って作ってもらうわけだな。(ドラゴンクエストシリーズは京セラがつくっていたらしい)
つくってもらったゲームソフトを売る。売れればいい。残ったらどうするか? ROMカセットはとにかく廃棄しづらい。体積があるから倉庫の在庫としては大変だ。処分するにも金がかかる。そのため在庫なしの売り切りスタイルであることが求められた。第一、このときの任天堂に「日本全国どこでどれほど、どのファミコンゲームが売れるか」という予測を立てる能力はまったくなかった。
それゆえ当時の任天堂社長山内は初心会の力を借りることにした。ファミコンとゲームソフトは全量初心会への返品なし買い切り制。在庫は持たず、追加の注文が重なってきたら再販というスタイルだ。ファミコンの専売権を与えるかわりに返品は勘弁してくれということだ。初心会は全国にその配下の二次問屋があるので、彼らを通じて全国の小売店にファミコンを売りだした。ちなみに当初の初心会参加問屋の意見としては「こんなもの絶対に売れない」だったそうだ。
ややこしいのがこの後、ファミコンの登場に衝撃を受けたハドソンとナムコがサードパーティとして参加することだ。当時の任天堂はサードパーティが現れることを予測していなかった。というか、まさか他社がファミコンソフトを作れるとは思っていなかった。そのためサードパーティ参加用の契約書をあわてて作る羽目になったという。(このときアメリカにてアタリがサードパーティであるアクティビジョンを販売差し止めで訴えていたが、後に和解し、サードパーティが合法化された経緯があるため、そもそもサードパーティを認めない、という選択肢はなかったものと思われる)
このときのナムコは簡単だった。ナムコは自前でROMカセットを作ることができたからだ。アーケードの雄はハードウェアを扱う力に長けていた。ナムコに対しては自社生産を認め、1本100円のロイヤリティを収めてくれれば問題ないという契約を交わした。
ハドソンが問題だった。ハドソンは能力こそずば抜けていたが、なにぶん会社の規模が小さかった。とても自前でROMカセットは作ることができず、任天堂に頼ることになった。
任天堂からしたらさらに想定外の事態だ。どうやればスマートにサードパーティ用のソフトを流通させることができるのか。任天堂はリスクを負うことなく、かつゲーム市場が適正に伸びていくための方法を模索する必要があった。
最終的な仕様は、まずサードパーティは一括して任天堂に製造委託費を払う。その中からロイヤリティを差っ引き、任天堂は工場にROMを発注する。作る数は任天堂、サードパーティ、初心会の3つで相談して決める。初心会はサードパーティが任天堂に委託したROMを全数買取、支払いする。これで決まった。
もちろんこれが全てではない。年末はクリスマス商戦を狙って多数のソフトメーカーがソフトを投入してくるので、思ったような数が生産できないので任天堂が拒絶する場合もある。初心会の見込み以上に売れると意気込んだサードパーティが、自前で在庫を抱えてリピートを狙う場合もあった。ROMカセットは作るのにとにかく時間がかかるから、リピート発注が来てもそのとき在庫がなければ応えられるのは早くて三ヶ月後だ(半導体の在庫事情によっては半年待たされることもあったらしい)。そうなればすでに需要は中古で落ち着いてしまう。そういう理由で初心会の注文数よりも多くつくるメーカーもあった。そのままリピート注文が来ず在庫になった? その場合は大特価で二次出荷するしかない。君はかつてゲーム屋でファミコン版グラディウスが新品980円で売られているところを見たことはないか? あれはつまり、そういうことだ。
この中で任天堂を非難する流れがあった。サードパーティがソフトを出すにあたり、任天堂はなんのリスクもなくロイヤリティを徴収していると。しかしこれはそもそもファミコンという当たるかどうかわからないプラットフォームを立て、リスクを負った会社が得るリターンとしてはむしろ当然ではないだろうか。不満があるならセガのように自社プラットフォームを出せばいい。ナムコも自社プラットフォームを計画していたらしいが、結局世に出ることはなかった。
ファミコン時代の流通はこういうことで決まった。このあたりの動きでは初心会があまり悪の組織っぽくなくて意外かもしれない。こんな証言がある。スクウェアの創設者鈴木尚が2003年岡山大学にてインタビューを受けたときの発言である。
>初心会っていう問屋集団が、ある時期は全くファイナンスの役割を果たしてくれてたわけですよ。あまりに量が大きくなると「すみません、お金ないんですよぉ」って言うと手形をくれるわけです。その手形を担保に銀行からお金を借りるわけです。実質的には、ある日突然ファミコン・ブームが終焉しない限りは、返ってくるだろうという。
この時期はスクウェアがファミコンに参入したての頃を指す。任天堂はROMの製造委託費を前払いで求めてくるので、どこかが銀行の代行をしなければならない。そこで初心会が(正確にはその中の一つの問屋だろうが)その役割を果たしていたということだ。
スクウェアはこの後ファイナルファンタジーで有数のRPGメーカーとして名を馳せることになるが、実は完全覚醒するまでにはもう少し時間がかかった。初代ファイナルファンタジーの初回出荷数は40万本で、これが最終的には80万本まで伸びる。次回作ファイナルファンタジー2にて70万本超えの実績を得たが、実はこれ、途中でかなり問屋内で在庫が残って大変だったという。しかしファイナルファンタジー3では初のミリオン超え(最終的には140万本)を果たす。それに伴い過去作も売れるようになって、リピードがかかったというわけだ。このあたり初心会はうまくスクウェアのバックアップに動いているように見える。
そう見えるのは、それはスクウェアが一流メーカー入りを果たしたからだった。ファミコン末期の他のメーカーはどうだったか? 1990年8月晴海にて「ファミリーコンピュータ・ゲームボーイ展示会」「スーパーファミコン発表会」が行われた。年末発売のソフト中心に初心会や小売店に対して各ゲームメーカーが披露する展示会だ。この展示会自体は1988年からやっている。
しかし1990年ではついに「受注ゼロ」のソフトが出始めたのだ。しかも一つや2つではなく、この展示会で並んだソフト(約100タイトル)のうち、3割が受注ゼロだった。この時点でファミコン市場は売れるソフトと、そうではないソフトの差が尋常ではなく離れていた。
この場合、メーカーには2つの道がある。一つは発売中止。もう一つは「任天堂には最低限の発注を行い、初心会には最大限の営業活動を続ける」というもの。もちろん初心会に対して売る気を見せるために大規模な広告活動をやれば発注はくるかもしれないが、その分当然損益分岐点はどんどん高くなる。もっとも有効なのは卸値自体を下げてしまうことかもしれない。
そうしてギリギリの攻防が続けられなんとか出荷したゲームはどうなるだろうか? 端的にいうと、人気ソフトの添え物として扱われた。初心会問屋は二次問屋や小売店へ向けて1本の人気ソフトに対してこういった不人気ゲームや、在庫の売れ残りゲームが抱合せで売りつけた。このときのレートによって「1対3」「1対4」などという言葉が生まれた。(場合によっては1対8なんてのもあったらしい)
さらにはバッタ屋ルートなるものも存在した。問屋の不良在庫を捨て値で買取、独自のルートで小売店に売る。このときの小売店はゲーム屋とは限らない。スーパー、ディスカウントストア、リサイクルショップと様々だ。なかには「お楽しみ袋問屋」なるものもでてきて、中身が見えないファミコンソフトの詰め合わせが一山いくらの世界だったそうだ。こういった不人気ソフトはワゴンセールをとてもよく賑わしてくれた。
ちなみに抱合せ販売は違法なので、公正取引委員会による排除勧告が初心会問屋に入ったことがある。ドラゴンクエスト4の頃だ。そのためかわりに「新作ドラゴンクエストの受注を行います。なおドラゴンクエストの他にあの大人気ソフト郡(大人気とは言っていない)のリピート販売を行いますので、ぜひ同時注文してくださいね」なんて手法が取られた。
これらの状況を任天堂は当然良く思っていなかった。もともと任天堂はアタリショックを目の当たりにして、「クズソフトの氾濫は市場を殺す」と認識していた。そのため、サードパーティには本数制限をかけた。が、サードパーティ自体が増えれば意味がなかった。子供向けのおもちゃであるために表現規制を敷いたが、クオリティチェックはまだこの時行われていなかった。どんどん増えるソフトと初心会の流通在庫は市場を殺す材料になりえた。どこもが不良在庫を減らそうとやっきになって価格をディスカウントしてしまえば、プレイヤーは適正価格でゲームソフトを買おう、という意欲が損なわれる恐れがある。
そこで任天堂はこの状況を打破すべくスーパーマリオクラブという組織を立ち上げる。一般のモニタープレイヤー2000人超を使い、彼らに発売前のゲームを二時間実際にプレイしてもらい、どこがどう面白いのか、つまらなかったのかを評価をする。評価は項目ごとに点数付けされ、集計されたデータは問屋や小売店に送られる。このデータは雑誌ファミリーコンピュータマガジンなどにも送られ掲載されていたので、知っている人は多いんじゃないかな。そしてこのスーパーマリオクラブはソフト売上の予測も立てるようになった。意外なことにこの素人集団の予測が的中した。後年はマリオクラブの参加者自身が慣れてきてしまい、その予測が外れるようになってしまったが。余談だがマリオクラブはこの後正式な任天堂の品質管理部門となった。さらにその後分社化が行われ、マリオクラブ株式会社となった。
任天堂としてはスーパーファミコンを機に一度市場をリセットしようと試みた。品質管理に売上予測、あまりに多くなりすぎた流通在庫。今ではピンとこない話だが、当時のゲームメーカーは「いったいどれほどのゲームが実際にプレイヤーの手に渡っているのか、どれほど流通在庫が眠っているのか」を把握する方法がほとんどなかった。商売相手は小売店やプレイヤーではなく、あくまで初心会だからこんなことになったわけだ。
当時の任天堂社長山内はこう語っている。「どれほどのソフトが売れるか、我々にはわかりようがない。流通のプロに任せるしかない」。これは初心会オンリーの流通を自己弁護した言葉と思われた。しかしこの言葉には「流通のプロでもわからないのなら、任せる意味がない」ということを含んでいる。この言葉の本当の意味はこの後判明する。
そうして新たなスタートをきったスーパーファミコン市場だったが、これは結論からいうと、なんら変わらなかった。むしろますますカオスになっていった。このあたりからいよいよ初心会の初心会らしい悪行が目立ち出す。厳密にいうとこの美味しい市場に目をつけた業者が、なんとか流通に入り込もうとし、初心会の中の一部(ここはもしかしたら一部ではないかもしれない)が彼らと手を組んだ結果なのだが。
・スーパーファミコン本体がほしい場合はアクトレイザーとの抱合せで(違法? 知りません)。しかもスーパーファミコン自体の掛け率は98%。場合によっては小売超え。別売りのケーブル(スーパーファミコンはAVケーブルが別売りだった)を売るほうが利益がでる状況だ。
・80万本の出荷実績があるサッカーゲームの第二弾が登場したとき、初心会のとある問屋一社が初回出荷数50万のうち25万を買い占めた。この25万は発売日に大量には卸さず、自前で在庫として抱え、市場在庫が枯渇して小売店や二次問屋が注文してくるのに対し、他のクズソフトとの抱き合わせ(違法? 知らない子ですね)で売りさばいた。
・とある問屋がメーカーに対して「うちは来週から社員旅行にでかけるんで、申し訳ないのですけど一週間早くソフトを卸してくれませんか?」と要望があった。それに応じて一週間早くソフトを送ると、なんとそのまま発売日よりも一週間早く小売店にソフトが並んでいた。社員旅行なんてそもそも嘘だった。
・メーカーに対してゲームソフトを大量に仕入れることを約束する見返りとして、その担当者個人の口座にリベートを送るように要求した。
(続く)
https://anond.hatelabo.jp/20210504185958
30歳、ゲーム好き。
好きといっても下手の横好きってやつで、
スマブラとかポケモンみたいなレーティングがあるようなやつは大抵真ん中よりちょっと下。
FPSもやるけど、先週始めたエーペックスはまだ10キルもしていない。
初心者サーバーとはいえ、俺とデュオになった人は貧乏くじを引いたことになるので申し訳ない。
そんでも、好きだから楽しんでやっている。
児童とか学生という肩書があった時期だと思うんだけど、あの時は本当に1日中ゲームができた。
朝起きたらまずゲームボーイを起動して朝飯までの5分や10分すらも惜しむようにポケモンを育てた。
夕方帰ってきたら友達と育てたポケモンを戦わせたりスマブラやったり。
中学くらいからはひたすらパワプロでサクセスをぶん回していた。
学校のある日でも1日に2、3人は作ったし、休日なら5人くらいは作れた。
高校生になってポケモンに復帰してからは、取り憑かれたように卵の孵化作業をしていた。
DSは良い。TVが一台しかない実家暮らしでも、夜に自室でこもって没頭できたし、
大学に入ってもそれは続いたし、一人暮らしでWi-Fiを開通してからは家でも対戦できるようになって
「すげえ世の中になったなあ」とか思っていた。
この頃は、夜中の3時くらいまでゲームをしていた。
場合によっては夜明けまでやってしまうようなことも多々あった。
新作が出たとき、なんか知らんけど急にドハマリしたとき、ちょっと思い立ってRTAのマネごとみたいなことをしたとき。
夜通し一人で、あるいは友人と、一心不乱にゲームにのめり込んでいたのが、俺の学生時代だ。
けど、疲れる。1時間もすると、ふうっと息を吐いてコントローラーを置いてしまう。
目が疲れ、肩が凝り、頭が働かなくなる。
そんで、休憩と称してダラダラしてると、気を抜いた隙に寝落ちしている。
BGMがゆったりしたゲームなんかだと、キャラクターを動かしながら寝てしまっている。
なんだか悲しくて寂しい。
多分、どっちも。
持て余すほどの体力と時間があったあの頃が懐かしい。
今では会社から通勤電車のなかか、帰宅してからほんの1、2時間くらいしか時間がない。
休日だって子どもの世話と家事が最優先だから、確保できる時間は同じだ。
部屋〜の隅〜、積まれ〜たゲームソフト、やら〜なくちゃ〜意味が〜ない〜のかな。
そういえば、本も読まなくなった。
学生の頃は好きな作家の小説が出たら徹夜で読んだりしていたのに、
今では積ん読ばかりが増えていく。
それら全てを高水準で保たないと、娯楽を楽しむことは難しい。