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はてなキーワード: 登校拒否とは

2021-02-02

anond:20210202135035

ごく一般論として、登校拒否児童はおとなになってから人生をやりなおすために、子供っぽいことをしたりするということで

類似と考えたが違ったのなら話はきこう

anond:20210202134828

登校拒否児とこどおじを一緒にすんじゃないよ。

anond:20210202134648

登校拒否児童というのは、たまに見かけるというのは、1度もこなかったやつを、いないんだということはできるが、俺はそういうきにはなれなかった。

2020-08-30

今更知れて、どうなるものか。

 遡れば中学校に入った頃から違和感を感じていた。周囲から浮く自分。周囲に溶け込めない自分

 自身小学校の頃から何ら変わっていなかったので、そんな風になる理由がさっぱり分からなかった。だから、変わらず生活し続け、学校に通い、勉強していた。

 結果、周囲に溶け込む事が出来ず、最終的にはいじめの対象となり、短期間の登校拒否を繰り返した。

 それでも、頑是ない程の生真面目さがあった所為か、粛々と勉強をし成績はそれなりを維持し続けたので、先生や親の受けは良かった。だからこそ、学校に行けない自分を、特に母親は信じたくなかったようで、布団に包り学校行きたくないと訴える自分を、布団ごと引き摺り出しヒステリックの怒鳴りつけた。

 その後、高校専門学校と進んだけれど、中身は中学校からの延長線上だった。自分で考え判断した事が報われる事は少なく、薄っすらと暗い日々だった。

 就職氷河期真っ只中だった頃は、両親が始めた事業を手伝っていた。10年続けて、残ったのは1億近い借金だった(正確な金額は覚えていない。凡そその位の金額だった)

 実質なんにもなくなり、絶望と辛さだけが蓄積し、やがてひきこもりになった。夜の間に出ない答えを延々探しては朝に寝入り、昼過ぎカーテンから漏れ入ってくる光を感じては「なんで私はまだ生きているんだろう?」と思って絶望し、布団の中で小さく小さく丸くなっていた。この頃は、恐らく鬱病でもあったのだろうと思う。希死念慮と闘う日々だった。

 そのひきこもりの先で、東日本大震災に見舞われた。自分福島県の海側に住んでいた。色んな困難や混乱があった。それでも当日のその時間幼稚園に迎えに行った姪を抱えて海の見える公道を走りながら、この子を助けなきゃならない、と多分思った。

 いつもは判断時間が掛かり過ぎるほどなのに、その時はすぐに姪を連れて海の傍から逃げた。逃げたのは、自分の為ではなかった。それでも、少なくとも判断自体は間違っていなかった。

 上手く行く事のなかった人生で、錯覚しかない「守らなきゃ」と言う気持ちが燃料になり、そこから数年、がむしゃらに生きた。

 上手くいく事の方が少なかった。間違いばかり犯した。どうしようもなくなってパニックの果てに数少ない友達を切った。上手くいく事なんて殆どなかった。周りに迷惑ばかり掛けた。数年掛かってやっと決まった職場でも、泣きながら仕事を続けた。『ここで3年頑張ろう』と『キリの良い年齢まで頑張ろう』の二段構えの目標を立てて、只管頑張った。そして気付けば、自分も四十代になっていた。

 この歳まで生きているとは思わなかった。そんな妙な感慨に浸りそうになった頃、その言葉を初めて目にする事になる。

 それが『発達障害』だった。

 元々鬱持ちの傾向が強かったので、それ関連のキーワード検索窓に打ち込んでは調べる日々の中、偶々行き当たった言葉だった。

 検索をしていると、事象が芋蔓式で繋がっていく。時折横道に逸れながらも、関連事項を追っていった。調べれば調べるほど、昔の自分と今の自分に当て嵌めていけばその分だけ、自分発達障害である確率が高くなっていった。

 結局自分は、心療内科に通い必要検査複数受けた。発達障害か否かの最終的な判断は未だ貰っていないけれど、数値の凸凹さ加減と、日々の環境・状況適応能力の極端な低さが事実を表している。

 発達障害の疑いを持つ前から世間との乖離を感じていたし、だから自分なりに考えたり工夫したりして色んな事をこなそうとした。

 それが無に帰していた理由を(全てが当て嵌まると思っていないにしろ)知った、その時の絶望と切なさを、多分自分は忘れないと思う。

 もう少し早く知れていたなら、と思う。早く知れてどうなっていたかなんて分からないけれど、そう思わずにいられない。

 誰も責められない。落としどころがない。自分が正しい事には絶対ならない。治らない。治せない。変わらない。変われない。

 もうずっと、毎朝、自分自身に『大丈夫』『頑張れ』と言い聞かせている。『死ぬな』『生き抜こう』と言い聞かせては此処に引き留めている。

 ドラマとかで見た「生きている事に疲れた」なんて言葉が、自分の中に生まれるだなんて夢にも思わなかった。

 生きている意味なんてない。理由なんてもの最初からない。

 それでも、もう少し頑張って生きたいと思っている。

 自分は本当は端から駄目なのかも知れない。それでも、お互い頑張っていこう、と思っている。

 誰のためでもない。自分の為に頑張る事を頑張ろう。

 乱文、言葉足らずご容赦のほど。

2020-07-07

anond:20200707134953

閣僚がやったって寒いアピールすんなで切り捨てるからガキの登校拒否も終わらんだろうな

台湾IT大臣コロナの話

https://japanese.engadget.com/audrey-220051073.html

39歳のMTFなんて、日本じゃ政治家としても精々イロモノ枠としか扱われず大臣になんてなれる訳がないだろうに

支給マスクの色がランダムで、ピンクが当たった男子生徒が登校拒否になっているという声が届きましたが、その翌日には閣僚男性陣によるピンクマスク着用のキャンペーンが始まりました。

これも発想自体ピンクシャツキャンペーンの真似っぽいが、それを閣僚がやるのも凄い

でも日本でこれやったらますますピンク男子生徒がからかわれて登校拒否になるだけだろうし

女子生徒も登校拒否になりそう

日本に近くて文化も似ているはずなのに、何でこんなに違うんだろう

2020-07-05

引きこもり脱出した

大学卒業後7年間引きこもっていたのだが、心機一転働き始めて約1年になる。その経緯を記しておこうと思う。

子供の頃

プライドが高く、失敗や恥を極度に恐れる性格だった。

というのも、幼少の頃、一つ上の兄とは別に母方の実家で年下の従兄弟と一緒に祖父母に育てられたり、

父親無意味に脅かされたり(曲がり角や暗がりから「ワッ!」と言って脅かしてきた)、小さな失敗を蒸し返し執拗からかわれたことなどが影響したためだと思う。

自分から心を開くことはなく、相手が心を開いているかどうか疑いながら仮面を被って人と接してきた。

大学生の頃

初めての一人暮らし、滑り止めで受かった大学では周りに馴染めず(若者が怖い)、居場所2ちゃんねるだけだった。大学憂鬱不安と恐怖と怠惰にまみれた日々だったと言える。

高校の頃から長らく体調不良気味(慢性的下痢眼精疲労)だったのも関係しているかもしれない。

勉強のやる気を失い、優等生だった高校までと打って変わり落ちこぼれた。アルバイトサークルも続かず、夜ふかしによる寝坊で授業をサボった。

大学カウンセリングを受けたこともあったが効果はなかった。

人生が何かしっくりこない感じがあり、1年休学して第一志望を目指し予備校に通わせてもらったがすぐ行かなくなった。その後勇気を出して復学した。

実家から通うようになってしばらく続いたが、4年生の研究室で馴染めず、一時期登校拒否になった。

なんとか卒業の目処が立ったもの就活するのが怖かったため、作曲家を目指すと言って逃げ、就活せずそのまま無職引きこもりになった。

どうせ就職しても、責任が伴うのが怖いし、周りから浮いて仕事適応できずにうつになったり自殺したりしてしまうだろう、だったら働かない方がましだ、とも考えた。

これからビジョンがまるで浮かばなかった。ただ休みたかった。

世の中の人達と自分全然違うという意識があった(それは今も変わらない)。また、世の中嫌な奴ばっかりだとも思っていた。大学に入ってから、気が緩んで性格が悪くなったのが原因かもしれない。

引きこもりの頃

作曲について人一倍プライドがあったが(雑誌投稿して賞をもらったこともある)、独学だし楽器も得意ではないのでとんでもなく無謀だった。

人生に失敗した分を取り返そうという、ギャンブル依存症的な感情に囚われていたのだ。

高校時代友達がいたが、煩わしくて連絡を無視して縁を切ってしまった。

次第に作曲苦痛になり、ネットゲームをして過ごした。

昼夜逆転はそれほどしなかった。2時半に寝て10時に起きるという感じ。昼寝もしていた。

一歩も外に出なかったわけではない。たまに自転車で人気の少ない場所に出かけた。

また、母親と一緒に図書館に月1で自分が車を運転して通い、小説を借りて読んだ。

両親になぜ就職しないのかと問い詰められることがあったが、無視するか、人と関わりたくないからと答えた。

自分人生台無しにしたかった。

それでも、引きこもりの繰り返しの日々で、体調不良の原因がわかってきて改善していった。

また、お絵描き落書きレベル)、日記将棋ラジオ体操読書を始め、次第に心が癒やされていった。

色々なYoutuber動画を見たり、将棋藤井君や羽生さんの活躍を見て感動するときもあった。世の中に希望見出してきた。

心身ともに回復するにつれ、「そろそろ働けるかも」と思った。だが、あと一歩の勇気が出なかった。

引きこもりきっか

そうして引きこもり7年目、30歳目前になって焦りを感じた。もはやモラトリアムなどと言っていられる年齢ではない。

母親がもうすぐ退職することになり、すでに退職している父親だけでなく母親とも日中顔を付き合わせることになるのが嫌だった。

その頃、8年使っていたパソコンが壊れて起動しなくなってしまった(幸い後に復活したのだが)。

パソコンには、過去作ってきた絵や曲が合計一千点以上入っている。作曲についての考察ソフトの使い方のメモも書き残してある。

それらが失われるというのは、引きこもりの間、自分は死んでいたと言うのと同然だった。

死を意識してみると、絵も曲も自分人生においてどうでも良いものだったと悟った。ショックでベッドに横になった。如何に時間を空費していたか痛感した。

あれだけ取り組んできたのに、人生において意義のあることではなかったのだ。

人との関わり合いの中でしか大事な思い出は生まれないのだ。

そんな中、記憶の底に沈んでいた何人かのことが頭に浮かんだ。

大学生で塾講師をやっていたとき、わからないところを教えたら「ありがとうございます!」と笑顔で答えてくれた中学生女の子

高校文化祭で(歌うのが好きなので)バンドボーカルやらせてもらったとき、終わったあと「良かったよ。」と声をかけてくれた先生

高校部活で、居残り練習をしていたのをお世辞で褒めたら、本気で受け取ったのか嬉しそうに微笑んだ後輩の子

その3人だけ。他愛もないことだ。人生無駄にした後悔の念と、人に少しでも喜びを与えることができた嬉しさに涙が止まらなかった。

誰かのためにならずして死ねない、死ぬ前に感謝されたい」という答えに行き着き、それが根本的に自分の求める生きがいであることに気づいた。

それからなけなしの貯金を叩いて新しいパソコンを買った。しかし運の悪いことにそれも初期不良で壊れてしまった。

さら国民年金の支払いを全額免除するかどうかの通知(よく覚えていない)も届いた。当然年金は一銭も払ってなかったためだ。

パソコン関連のゴタゴタに加え、冬の時期で冬季うつ病っぽくなっていたため、神経が参っていた。

母親パソコン年金の件を相談していたら「働いたら?」と言われ、そこで素直に頷いたのだ。

まるで、立てこもり犯が説得に折れて投降たかのようだった。それが脱引きこもりきっかけだった。

就活は半ばやけくそだった。引きこもりで自信がなかったので正社員なんぞ端から目指さなかった。

ネット求人サイト事務職の応募に電話したのがきっかけで、紆余曲折あって地元工場検査業(肉体労働)の派遣社員をすることになった。

親に反対されたが言うことを聞かなかった。流れに乗ろう、直感を信じようと腹をくくった。

働き始めてから

どうせ自分は働くのに向いてないので、続くところまで続けようというスタンスで挑んだ。

明日はどうなるかわからない、と覚悟した。おんぶに抱っこで、ずるい人間であろう、とも考えた。

始めは何も仕事がわからず、赤ん坊同然の気分だった。初日は久々に初対面の人と会話したり見知らぬところを歩き回ったので、

夕方帰宅したとき、まるで3日ぶりに家に帰ってきたかのように感じた。

出社拒否にならずに一日一日出勤できたことを自分で褒めた。3ヶ月くらいかかって次第に仕事に慣れていき、やりがいを感じるようになった。

職場人達は親切な人が多くて意外だった。ここは本当に現実世界なのか?と思ったりした。女性の多い職場(お母さん達ばかりだが)なのもツイていたかもしれない。

職場の人に前職について聞かれたが、塾講師をしていたと嘘をついた。

から近い工場なので近所にも勤めている人がいる。元引きこもりなんて言ったら噂が広まってメンツが潰れる、と親に止められたからだ。

正直に答えたかったが、職場の人に心配されると逆に面倒だったかもしれないので結果的に良かった。

週5のフルタイム勤務だが、残業したり土曜日出勤もある。仕事がきつくてストレスが溜まって週末泣くこともあった。

働いて良かったこと、変わったこ

・好きなものを好きなだけ買って食べることができるようになった。その他欲しいものが買えるようになった。

・気後れすることな病院保険証を見せることができるようになった。

・人の視線が気にならなくなった。

高校の頃から死にたいと思っていたが、徐々にそう思わなくなってきた。

肉体労働で汗をかいて、体調が良くなった。大食いになって、筋トレもするようになり、7kg体重が増えた。元々ガリガリだったので丁度いい。仕事ぶりを褒められるようになり自信がついた。

ネットに毒されていたが、毒が抜けた。ネット距離を置けるようになった。

不安と恐怖で胸がいっぱいということがほぼなくなった。

・心に余裕が出来たためか恋愛したくなった。

変わってないこと

・せっかく大学卒業したのに非正規肉体労働の身なので自分自身を認めることができず、気持ちが楽になることがない。

人生がつまらない。引きこもっているときほとんど同じことしかしてない。

スーパー雑貨店本屋以外の店に怖くて入れない。外食も怖くてできない。

・涙ながらの決意もどこへやら、感謝されるようなことを何もしていない。

引きこもってて後悔したこと

・低収入で親と同居しているため、彼女を作る自信が出ない。まともな職についていれば良かった。

もっと早く働き始めれば良かった。

大学生の頃までは、同級生自分というのをよく比べて劣等感を感じていたが、今は、自分自分だと思うようになった。そんな心持ち大学生の頃に就活をすれば良かったかなと思う。

展望

デスクワーク転職して都会で一人暮らししてみたい。

7/7追記

たくさんのコメントありがとうございます!すべて読ませてもらいました。

真剣に読んで下さったんだなあ、としみじみ感じますアドバイス参考になりました。

皆さんに明日、嬉しいことがあるよう祈ります

2020-06-02

アニメなんていう、ひきこもりとか、登校拒否とか、そういうのが集まりやすジャンルに参入しておもしろそうだな そりゃぁ金はあるだろうなぁ 対策費で

2020-05-01

今のやり方って「コロナ重症化しやす高齢者保護」にすぎない

自殺者増加も然り、外で健康増進のためのスポーツも出来ないし、家では食うか酒飲むか、、、(皆が皆ビリーズブートキャンプ出来る訳ではない)

このStayHomeによって健康を害する人は確実に増加する。

学生たちは確実に登校拒否が増える。

コロナ重症化しやす高齢者」以外の事は経済面健康面も考慮されていない。

これは明らかにおかしい。

2020-03-23

探偵ナイトスクープに出てた登校拒否中学生

基本的コミュニケーションはできるし、芸人ボケツッコミお約束の会話もできる。近所にある謎の橋の歴史が知りたくて、図書館地図歴史書を調べたり、市にメールしたり(かなり明瞭でわかりやすい文面)と、好奇心旺盛で手順も正確、地頭も良さそうな雰囲気

ただ少し内気で、学校友達ができなかったのかな……とか、いじめられたのかな、とか、そういう感じ。

こういう子は将来的に不登校なんて嘘だったみたいになりそうだし、プログラマーとか向いてそうだなあ。お父さんはかなり心配そうだったが、俺は大丈夫だと思うぞ

2020-03-09

anond:20200309174143

それなんて枝野

結果以前に目標設定が違っちゃねえ...

登校拒否児よりは赤点とるバカのほうが真面目だよなあ

2020-03-01

一斉休校ニュース独身女が泣く理由

※この文章過去被害に遭われた方への閲覧を推奨いたしません。


ニュースを見た時に涙が出た。

私は独身で、子供もおらず、職場の仲間達の子供は保育園児か、今どき珍しい拡大家族で、そのニュースが私の生活に与える打撃は小学校低学年の子を持つ共働きのご両親と比べたら大したことは無かった。

当事者でもないのにとにかく泣けて泣けて仕方なかった。

ニュースを見て、こんなに動揺したことがここ数年であったかどうか。

しばらく食い入るようにTwitterを眺めて、元記事を見てはまた泣いて、よく眠れず朝が来て、仕事をこなし、土曜日だ。会見は見なかった。後からニュースサイトで内容を確認して、あまり休校の話に触れなかったことを知る。

何がこんなに私を泣かせるのかとひとしきり考えて、思い出したのは長らく見ないふりをしていたかつての犯罪被害である

専業主婦の母がPTAにハマったのは私が小学2年生の時だ。

元々人と関わることが好きだったらしい母はその後年の離れた弟妹たちの在学期間を含めて10年近く小学校PTAを続けた。

活動中、未就学児の弟妹は母と共に居たが、私は帰宅時に近所の従兄弟の家に預けられたりした。

当時高校一年生の従兄弟は、母の自慢の甥っ子で三人兄弟の弟たちの面倒をよく見ていたらしい。

安心して預けていたのだろうが、預けられた先で私はいわゆる性犯罪被害にあっていた。

されていたことがそうだと気づいたのは、従兄弟大学に進学し、私の前から消えたあとである

小学校低学年の私に体を触られること、触ることを強制されることの意味がよくわからなかった。

触らせてくれたら漫画を貸してあげる、触ってくれたらお菓子をあげる。その代わりこのことはお母さんには内緒

汚くないのかなと思いながら、多少の不快感はあれど家では手に入らない漫画お菓子に勝てなかったのだ。

ある時致命的に痛いことを強要されて私が逃げてから、それらは行われなくなった。

このことは意味理解した思春期以降強烈なトラウマとなって、私を男性恐怖症に落とし込み従兄弟に対して殺意に近い衝動を産んだが、母には言えなかった。

彼女にとっては同級生を恐れて登校拒否する私よりも大人対話のできる甥っ子の方が信用度が高いと思っていたから。

今でもそう思う。彼女は娘よりも自分の甥姪の言葉尊重する。

言って、そんなことは有り得ないと言われたら私は本当に生きていけないと思った。

数年前に母が、PTAの話をした。

貴女同級生に、再婚したお義父さんがいて、お母さんがいなくなった子がいたでしょう。彼女性犯罪被害にあわないか、当時とても心配していたの」

彼女の頭に実の娘が性犯罪被害にあう可能性は、ずっとなかったのだ、と。

この時から私は母に連絡を取ることをやめた。

彼女は私の母ではたぶんない。そう思って蓋をして、子どもの頃の記憶は全部しまい込んで忘れようとしていた。


これはイレギュラーな話だ。

巷の男子高校生が幼い従姉妹にそんなことをするはずはない。

でも、もしかしたらあるかもしれない。そう思って思い出して泣けたのだと気づいた。

どうか、そんなことがこれからひと月おこりませんように。

親族を無条件に信用する気持ちは今は少し分かる。

わかったところで私の暗澹とした想いが消えるわけもないのだが。

私は祈るしかできない。

全ての子どもたちが安全4月を迎えることが出来ますように。

2019-12-27

適当に嘘書きとばすのやめてもらっていいですか

(1) 文科省は「いかなる理由でも出席日数が足らないと卒業させない」きまりなど作っていない。

 多くの高校に2/3以上、または1/2以上の出席が必要、などのきまりがありますが、これは単なる「内規」です。そして、その「内規」の最低限である「1/2」の根拠としては、昭和28年文部省初中局長通知による「一般的にいって、第三学年の総授業時数の半分以上も欠席した児童生徒については、特別事情のない限り、卒業認定は与えられないのが普通であろう。」が挙げられますが、ここでも、「一般論」であり「卒業認定の話」であり、かつ「特別事情」には配慮することが述べられているので、文部省時代から、「特別事情」への配慮可能だったわけであり、つまりいかなる理由があってもアウト」なきまりなど、一度も作られたことがないのです。

 その後さら平成に入ると不登校問題への理解対応が進むことになり、「登校拒否問題への対応平成4年)」通知や、平成5年の神戸地裁で、修了認定などは学校長による「高度に技術的な教育判断」であり「単純な学業成績の評価や出席日数の多少だけでなく」総合判断によるべきもの、との判例が示されました。

 以来、出席日数は根本的には「目安」に過ぎず、単純にそれだけで決まるものではない、というのが一般的見解です。

(2) 「先生に休暇がないことも、卒業学力ほとんど関係ないことも、こういうバカ制度にしたのは文科省

 まず、先生にも有給はあります。取得できるかどうかというのは別問題ですし、事実多くの人が年休を消化しきれていないのは事実ですが、それは勤務管理問題であって制度問題とはまた別では。それに「全く有給をとったことのない先生」もまずいないのではないかと思います。次に、「卒業学力ほとんど関係ない」というのも事実誤認で、それはおそらく「学校指導に乗る限り、学校卒業/進級できるように指導する」ことを誤解しているのだと思います。つまり、どうしても卒業/進級したいという意志の下に学校の適切な指導に基づいて真摯に取り組んだとしたら、人より時間がかかっても、(入学できている以上は)その学校で習うレベルの課程の修了認定を得ることは不可能ではない、と考えられますが、学校指導同意しなかったりそもそも学校指導を受けなかったりする場合、その課程の修了認定を行うことが不可能になります。そうすると、見た目は「学校の言うことを聞いていれば成績が悪くても進級」「同じ成績でも学校の言うことを聞かなければ進級できない」という状況になりますが、それは、「卒業学力ほとんど関係ない」と言うのとは違います。(もし、本気で卒業学力ほとんど関係なければ、先生方がなんのために補習を課して必死指導しているのか、という話になります。)

 それから、「こういうバカ制度」については二点とも事実誤認だというご説明しましたが、当たり前ですが文科省はただの行政機関であって制度(きまり)を作るのは立法機関国会仕事です。つまり「こういうバカ制度にした」のは国民代表である議員の皆様ですよ。

(3) 「SMAPがむりやり解散になったのも文科省著作権の乱用を放任してるからです。」

 すみません意味不明です。SMAP解散に追い込んだのはジャニーズ事務所では?

(4) 「どこで仕事してるのか目に見えない」

 全国どこにでも義務教育学校があり、国民の就学率がほぼ100%であるのは、誰が仕事をしているからですか?

(5) 以下についてはある程度同意しますが…

大学事務標準化されてなくてボロボロ日本一天才学者雑用ですり減らすことしかしてない」→確かにある程度そうですが、それも政治問題では?

コンピュータビッグデータつかえ AIに本気で恐怖してんじゃねえ」→確かにある程度そうですが、それは全省庁の問題では?

理系採用しろバカ そして新人を「文科省なりの教育」してスポイルすんなよバカ」→確かにある程度そうですが、それは全省庁の問題では?

最近文科省バカなことしかしないか来年バカに低い予算しかつかねえよ」→確かにある程度そうですが、今に始まったことではないのでは?


anond:20180801101700

2019-12-05

anond:20191205115123

登校拒否YOUTUBER?がいるか日本でも許されてると言えるし

欧米でも批判されてるから許されてないとも言える

2019-10-11

anond:20191011014439

兵庫文科省教育モデル校ってとこの内部の話聞いたことあるんだがまるで軍隊みたく徹底した管理教育をしているみたいだ。

それについていけない子が登校拒否になったりストレスでギスギスした雰囲気で生徒同士のイジメ障害が多発してるとかなんとか。

進学先や生徒の不祥事とか問題が凄まじく改善してるので多少の問題無視されるらしい。

2019-10-08

増田さん係

登校拒否の子にも事情があるのだろうけど、登校拒否の子を虐めたり邪険にしない優しい子を、面倒みる係にするのはやめて欲しい

https://togetter.com/li/1414510


ネット民(クソデカ主語)、面倒見られる側の人間だと思ってたら「お人よし自分は面倒を見させられた!」みたいな雰囲気になっててビックリ

それはそうと普段ならともかく修学旅行だとかそういうイベントの時にはちゃっかり参加しに来ちゃう不登校児やぼっち気味の奴って実際どうするのが正解なのか

こいつだけ特例で班に入れずに先生をひとりつけて2人旅……?それはそれで頭おかしいのかって感じになるけど

一応集団生活を通してコミュニケーション云々みたいな目的でやってるわけだし


私はぼっちだけど学校には行ってて、何の取り柄もないか皆勤賞逃したら面接アピールできることがひとつもなくなって中卒確定して自殺に追い込まれしまうに違いないくらいの強迫観念修学旅行も無理やり行ったけど

クソぼっち増田と組まされてしまった同じ班の可哀想な人たちとは示し合わせて(具体的な会話をしたか覚えてない、アイコンタクトくらいだったかも)大人には内緒で別行動して自由時間ずっと隅っこの方でDSやってた

でもそういう選択を取れない、他の子の後ろをべったりついていくタイプの子もいるんだろうなあ

行くのやめてみる……?※訳:頼むから休むと言ってくれ と圧をかけるくらいしかないんだろうか

2019-08-29

大人の発達障害ってこんな感じなんやろな

職場派遣女性。29歳。ミスが多い。なぜか声がデカくて、ミスを指摘されるとテンパってしまうのか、デカイ声で微妙にわけのわからん主張を始める。

こだわりが強い性格だと思う。呼んでも絶対に反応しない、電話がなっても絶対無視するみたいなことをたまにやっている。それでまあ当然、怒られるなり注意されるなりするんだが、なぜ悪いのかわかってない感じ。

この間は微妙アンモニア臭がした。漏らしたのか……?申し訳ないが尻のあたりを見ると、黒だからわかりにくかったが微妙に濡れて色が変わっていた。マジで

その派遣さんが登校拒否ならぬ出社拒否してて、このまま終わりそう。発達障害だろうなあ……

2019-08-27

聲の形”を見て思うこと

私は小学校の時にいじめ主犯格になった事がある。

最初に"聲の形"を見た時に重なる部分が多くて具合が悪くなった。

昨日何度目かの視聴をした。

かなり醜い話と懺悔になるが思うことを書いていく。

なんというか、人間記憶主観的だし恣意的だ。見たいものを見たいようにしか見ていない。

ファクトはあるが、どう見えているかはみんなバラバラだし、昔の事ともなるとファクト自体あやふやになる。

少しぼかして書いていることもある。

***********

私は小学生の時に学級カーストトップグループにいた。

クラスの中でも小柄だったが、テストは毎回100点、頭が切れて口喧嘩が強い、悪ガキで面白い遊びを思いつく。

何やっても要領が良い、どうするのが正解か知っていても大人に媚びるのが大嫌い。

喧嘩っ早くて体格が上だろうと年上だろうと取っ組み合いしてぶっ飛ばされたり怪我しょっちゅうしていた。

自分小学校教員であれば面倒を見たくない存在だった。

私には2つ上の兄と3つ下の弟がいる。お陰で交友関係が広かった。

そうした背景もあってか小学校に入ってからずっと、誰に対しても物怖じせずにあれこれ言ってきた。先入観をあまり持たずに人と接してきた。

男の子女の子、年上、年下、昼休みにドッチボールをする人、本が好きで静かな人、お金持ちの家の人、幼稚園上がりの人、保育園上がりの人、勉強が苦手な人、ゲーム好きな人ゲームを買ってもらえない人、野球をやっている人、サッカーをやっている人、わがままな人、音読で閊える人、発達障害っぽい人、同学年の女の子全員からキモがられていた「小1の時に教室の真ん中で***を漏らした人」とも。

カーストのどのTierの人とも話せるのが私の強みだったし、(今思えばやりすぎているが)笑わせたり弄ったりできた。

小学校5年生の時だった、私のいた小学校では各学年に4クラスあって3年生と5年生でクラス替えが行われる。

5年生のクラスメンバーには1年生の時から友達も3年生から友達も多く、割と見知った顔に囲まれ結構安心した事を覚えている。

登校班や子供会なんかが同グループだった友達が多かったこともかなり幸運だった。

いつだったか時期は詳しく覚えていないが何度目かの席替えの後、私の隣の席にはクラスの冴えない女の子がいた(以降Yさんと呼称する)

私が教科書を忘れて「見せて」と言った際だったか消しゴムを忘れて「借して」と言った際だったか、あからさまな態度と嫌味をもって拒否された。

初めて同じクラスになった私とそのYさんの間が、構築前から突如として誰にも知られずぶち壊れて険悪になった。

とにかく”きっかけ”は存在した。それは本人の属性や変えようのない部分ではなく、本人の言動のものに起因することだった。本当に瑣末な事だったが。

当時の私は、今よりもさらに「自分の損」に興味がなく、あけっぴろげの人間だったので、恥知らずわがままこそ言えど、「消しゴムが無い」と言われれば、ちぎって半分あげたし「教科書忘れた」と言われれば、そのまま貸すような人間だった。

また、奔放なぶん蛮行を働いて教師たちの御用になる事や、真面目タイプ女の子のチクリポイント稼ぎの養分にされる事も多かった。

要するにやりたい放題のガキ大将キャラだった。

クラス替えをして、全然知らない、普段かにしている、何の毒もなさそうな見た目の、ほとんど話をしたことが無いような人間からいきなり剥き出しの100%の敵意を出された事は私にとって苛立ちよりもまずはショックだった。そんなつっけんどんに拒絶されるものか?と思った。

多分Yさんも人付き合いがうまくなかったんだと今ならば思うし、人間の合う合わないはどうしようもない上に精神の未発達段階で大人対応をできるわけがない。

しかしたらどこかで知らないうちに嫌われることをしていたのかもしれない。

幼かった私は、Yさんから向けられた敵意を「あーなんか嫌われてるけどまぁいっか」とか「まぁそんなもんか」で処理することができなかった。

後にいじめと呼ばれるものになることの始まりは、あくま個人間の諍いであった。

私はYさんの剥き出しの敵意に対して意地になって目に見える形で露骨に応答した。

給食時間に同じ食器の運搬係になれば一人で給食から食器を運んだし、Yさんが牛乳係の時には自分のぶんは自分牛乳を配膳した。

大人であれば「なんやこいつ関わらんとこ」で済むような人間に対して、同じように敵意をむき出しにして徹底抗戦した。

当然相手も同じような態度を取り続けた。収束までずっと仲裁が入ることはなく、私とYさんの終わる事の無い喧嘩が始まった。

1人でやっているつもりでも教室内のピリついた空気は伝染する。

周囲が異変に気付き始める。

「何かあったの?」などと問われたことはなかった。当時の私はそう聞かれても、最初きっかけをうまく言語化できなかったと思う。ただ「あいつはわけからないけどなんか自分のことを嫌っているかこちらも戦う」という態度だけは徹底して取り続けた。私はYさんのあだ名命名した。キャッチーあだ名で、「デブ」とかの悪口では無い。まだ私はこの後大事になると微塵も思っていなかった。

しばらくしてクラス人間が真似をし始めた。地獄の始まりである

子供は愚かだ。ストッパーが無ければ増長して行動はエスカレートする。みんながやっていると善悪判断がつかないまま真似をする。

「仕掛けたのはあっちだ」とか「自分は嫌いな奴と1人で戦っていただけだ」と思っていたが、周囲がのってくると、自分もまたそれにつられて調子にのった。

「一緒にいじめよう」など口にせずとも、教室というフィールドの中で生じた歪みは波及していき、クラスメイトは不穏な空気を汲み取り同調していく。

かくしてYさんはスケープコートへと転がり落ちた。

当時意識していなかったが、不幸な事に自分にはそれだけの影響力があった。カースト上位に属するとはそういうことだった。アホアホが影響力を持つコミュニティ破滅に向かう。場面場面でお調子キャラが目立とうとして度を超えてやりすぎる事があったが、私はそれを止めなかったし、時には一緒になって参加した。「結託して集団いじめをしよう」などと言い出さなかったことだけは言えるが、言わなかっただけである。見えない鎖が教室に張り巡らされていた。

「〇〇菌」

誰が考えるのか、日本各地でいじめはなぜかいつもこの形に収束する。こうして個人間の喧嘩は、いつの間にか一見(というかどう見ても)私が主導したクラス全体のいじめ様相と化した。

ランダムペアを組むワークではYさんはいつもあぶれ、男子はおろか女子露骨に嫌がったし「Yさんの隣」や「Yさんを含む班」は席替えの度にハズレの席となった。いじられキャラは押し飛ばされてYさんとぶつけられるし、休み時間は「Y菌」で鬼ごっこが始まった。その頃には私がつけたあだ名は学年中に広まっていた。

愚かな私は、みんなが私の味方になった気がしていた。

今日今日まで喧嘩の発端(前述)すら誰にも話した事がなかった。「弱者一方的に」というつもりもなかった。私の中ではYさんが突如宣戦布告した戦争だった。

しかし結果としてやられたからやり返した「報復」という形をとって、一人の地味な女の子が得られるかもしれなかったささやか小学校時代をぶち壊した。

わたしはその頃、一度受けた傷はオーバーキル相手を倒しきるまで忘れない性格をしていた。一人で始めた戦いであって、自ら徒党を組むことはなかったが、加勢されることは私の正当性の現れな気がして拒否しなかった。その一方でこれは「いじめだ」とも頭のどこかでは認知していた。

勿論「つもり」が許されるいじめなど存在しない。

私は私の始めた喧嘩に、意図せずともクラス全体が引きずられていっておかしくなっていく事を止められるほど精神が発達していなかった。

これは言い訳も虚しいほど完全にいじめだ。物理的な暴力や器物の損壊が伴わなかっただけだ。個人間の不仲から発展した空気ムードとなって場を支配し、カーストを動かし、もはや私の手で収束できる問題ではなくなってしまった。

6年生になる。いよいよ看過できないレベルにまでいじめが広がる。

高学年にもなると知恵をつけて、その方法もより精神をえぐるものになる。

他のクラスでは直接的に集団で殴る蹴る下着を脱がされるの暴行や、給食費を盗が盗まれる物が隠されるとかの、より凶悪問題顕在化しており、6年生になってからは同学年の4クラス中2クラス学級崩壊していた。私のクラスでは、目に見えてYさんの村八分が酷くなっていた。Yさんがどれほど身の狭い思いをして修学旅行を過ごしたのか、私は想像もできない。他人事のように書いてしまっているが私の責任である自分の手を汚さないやり方を望んでいたわけではない。私は私でYさんと相変わらず徹底抗戦していたのだ。

Yさんが給食係をやれば「あいつが配ったスプーンご飯を食べたくない」という言葉が囁かれた。誰がどう見ても個人間の喧嘩では無い。

ある時、昼休みだったか総合」の時間割だったか時間に私はクラス担任から事情聴取を受けた。

あなたいじめをしているでしょう」という直球だった。

私は「していない!」と訴えた。(それはいじめというのだよ、小学生の私よ)それでもそれ以上続く言葉出てこなかった。罪への意識は十分あった。

私がYさんにやられてる以上に痛めつけてしまっていたことも理解していた。

その日の放課後ホームルームで学級裁判が起きた。

まずは「このクラスいじめがあることを認識しているか」といった主旨の質問が全員に向けて発せられた。周知の事実だったが全員がすっとぼけた。

なぜこんなことになっているのか、原因がなんなのか誰もわかっていないにも関わらず、Yさんへのいじめを知らない人間は同学年に居ない。

全員の前で「先生は(私)さんが主犯格でやっているように見えている」と担任から名指しで名前が挙げられた。

「Yさんにきちんと謝りなさい」と言われた。体がロボットのように動いたがどうやって謝ったのか覚えていない。

いじめだと内心で思ってきた事をここまできてようやく裁かれた気がした。

「手から離れた問題雪だるま式で大きくなり敗戦処理の段階になって、私はトカゲのしっぽとなって切り離された」という事実をもって。

私は確かにYさんと冷戦をして、原因も話さず、周囲が巻き込まれていくことを止めもせず、1人の小学校時代を壊滅させた。始めたのは私だ。止めなかったのも私だ。わかりやす戦犯だ。私の後に「私も加担した」と続く者はいなかった。

かに無視しろ」と命令したとか、「あいつのこと避けよう」とか私は言っていない。でも嫌悪感を態度で表して周囲はそれを忖度した。

「誰がはじめたいじめなのか」とか、「あいはいじめに加担してない」とかはどこからを言うのだろうか。教室はお通夜になった。

「むしろお前らこそいじめてただろ」とも思った。普通に考えて悪いのは私だ。理解している。

醸成された空気に異を唱える小学生はいない。我関せずすらも難しい。せめて普通に無視してあげる事が関の山だ。小学生カーストで一度つけられた烙印はなかなか消えない。玉突き事故を起こしたら自分の居場所が保てなくなる。

本来であれば穏やかに過ごせるはずだったささやか生活台無しにした。どれだけ胃が痛かったろうと思う。遠足修学旅行も楽しくないものだったろうかと勝手に思う。向こうはなぜ私と交戦状態になっているかもわかっていなかったと思う。私も当時はうまく言語化できなかった。

学級裁判の後、Yさんのいじめの件はクラス黒歴史のように禁忌となり、「聲の形」の石田くんのような転落を味わうことなく、私は卒業した。Yさんもついぞ何がきっかけで始まったのか口に出さなかったが(というか引き金を認識していなかっただろうが)一人静かにけがえのない青春の一部を失った。それは取り戻すことはできない。

その後、地元公立中学校に進学した私はスクールカーストに属する事をやめた。

自分の意地や些細な喧嘩で人を壊すと思うと恐ろしくなった。中学では勉強マシーンになり、人と仲良くなりすぎる事も辞めた。

私の進んだ中学校は私の居たA小学校と、一回り規模の小さいB小学校から進学してくる生徒でほぼ100%になる。

大規模ないじめに発展する問題を起こした人間が言うのはあまりおかしな話だが、B小学校から上がってきた人間は本当に問題児ばかりであった。母数が少ないのでA小学校出身者に舐められまいとして毎年こうなるのだと後で知った。

私は同じ中学校に進学したYさんの小学校時代の話は何も言わなかったし、Yさんとは一度だけ同じクラスになった記憶があるが直接会話もしなかった。

それでも誰かが広めたのであろう、私のつけたあだ名過去はB小学校出身者にも簡単に広がった。何が起きたのか事実も発端も知らずに面白おかしく吹聴する輩がいる。

中学1年生の時、B小学校出身の友人から話があった。英語の授業で当てられたYさんは"How many friends do you have?"という英語教師の問いに"I have many frieds."と答えたそうだ。友人は笑っていたが私はとても笑えなかった。

それでもYさんにはB小学校から来た友達が少しだけできたように見えた。私にとってそれは少しだけ救いだった。

私は中学校生活の中で、2年生から入った塾関連で話しをする人は居たが新しい友達(と言える存在)は出来なかった。

入ったバスケットボール部でも当たり障りのない会話をする人は居たし、たまに一緒にふざける人たちもいたが、順番に繰り返される暴力金銭授受の絡むいじめを見てから人間関係がわからなくなった。

どうしても同じ時間を過ごさなければいけないタイミングでは、それまでのキャラで場当たり的に属したが、残りの時間勉強を頑張る人たちや、それまでの小学校から仲良くしていた人たちと細々とつるんだ。

兄の影響で2個上の先輩達から可愛がられたが、1個上の先輩からはその反感もあってかすこぶる嫌われた。はっきりいって居場所はなかった。あれこれ「自分資格がない」と思って罰だと思って受け入れたし、居場所を作る気もなかったので当たり前だが。

私がおとなしくしている間にも悲劇は拡大・再生産されていた。問題児ばかりのB小学校出身者は次々とA小学校出身者を再起不能にして登校拒否にさせた。そんな中Yさんは大きないじめにあっていなかったように思う。あまり関わっていなかったので”多分"だが。

A小学校の時に明るかった人間クラスカーストでも最下層でもなかった人間が次々と再起不能にされていく様を見ると何か色々と惨めな気分になった。自分の愚かさにもしょげた。

そこからは影に徹してひたすら勉強ばかりした。

私はミステリアスキャラになった。B小学校の人たちからちょっかいをかけられたり、体育祭の後の打ち上げで軽くハブられて悔しい思いをしたり、順番に巡るいじめ被害にあった人間に擦り寄られたりすることもあったが、そんなことはどうでもよかった。なんだかんだで助けてくれた人はいた。とにかく適当に過ごした。気持ち悪くてダサい人間関係から離れたかった。自分黒歴史を見るようだった。

小学校時代猿山大将として過ごし、学級裁判だんじりから見事に転げ落ちた私はとにかく静かに過ごしたかった。今更許される事でもないが悪いことはもうしたくなかった。被害者ぶる事は無かった。昼休みは一人で過ごす事が多かったし放課後に誰かと遊ぶことも極端に減った。自分の中身がそっくり入れ替わった気がした。

高校に入ってからしょうもないことを言う人はいなくなった。とても楽だった。楽しかったし友達も沢山できた。

自分が変われた、受け入れられた気がした。でもそんなことを感じて良いのだろうか?被害者は忘れることはない。

大学ではもう完全にみんな大人になった。大学はもうそのまま社会だ。

アホはいるが当たり前の常識をわきまえた人間が多い。彼らの中にも私と同じような後悔を抱えていたり、するのだろうか?と思うことがある。

過去の過ちは消えないし心に負った傷や失ったものはもう取り返せない。

私は27歳になった。

人をいじったりすることは相変わらず得意だが、全然違う性格になっている。

職場で多くの人を見てきて、人に好かれる人間と人が離れていく人間について考えた。自分の悪かったところと向き合って見直せるようになった。

人に言われたことは言ってくれたことだと思えるようになった。

でも今の私がいろんな人に優しくしたり、何かを与えることでYさんには何かあるのだろうか?と思う。

これは償いか?罪滅ぼしなのか?何を?誰のために?自分が楽になりたいだけか?と思う。(申し上げにくいが今でもYさんと仲良くできるとは思わないが)

二十歳を超えてから仲良くなった人たちと話しをしていて、いじめを受けたことがある人間が多く存在することを知った。そうした話しを聞くと胸が苦しくなって呼吸がおかしくなる。都合のいい人間だ。いじめられていた人間自分の話をするかどうかで済むが、いじめをしていた人間は誰かに言い出すことができない。懺悔しかならないからだ。

いじめをうけたことのある人間は私を軽蔑するだろうか。憎むだろうか。

私は自分の身近な人や、大切な人がいじめを受けて苦しんだことに対して義憤を感じる。あまり勝手すぎる。そんなことを感じることが許されない前科者だ。

Yさんは今、何をしているだろうか?高校生の頃に制服姿のYさんを見かけた事がある。そのあとは知らない。友達はできたか大学に進学したのか。就職したのか。どこに住んでいるのか。小学校の頃の事など何処吹く風でどこかで楽しく生きているだろうか。自分に自信を持てただろうか。自己破壊けが目的人生を送らないでほしいと身勝手に思う。わたしは許されることは無いし、やったことが無かったことにもならない。だから私のことは怨み倒して構わない。

でもYさんはどこかで自己肯定して救いがあったと思える人生を送って欲しい。私は一生この罪を背負って生きていかねばならないと思っている。

精神成熟していないコミュティ悲劇だ。教員のせいにすることもできない。

とんでもないくだらない理由いじめが生じる。生贄が生じる。あるものは一生消えない傷を、ある者は罪を感じて、大多数は何も覚えていない。

イニシエーションとして自分の大切な人がスケープゴートになったら?私は許せない。傷つけた人間をタダでは済まさない。

***********

今日小学校の頃からの仲で、Yさんに関する顛末を知っている友人に連絡をしてファクトに関する認識合わせをした。

その友人はやはり「私が主犯格に見えた」と言った。と同時に「でも流された Permalink | 記事への反応(7) | 00:41

2019-08-05

[]anond:20190805233800

■俺の人生

昭和58年出生

昭和63年 保育所入所するも、いじめあい協調行動が取れない、スイミングスクール参加を拒否し、登園拒否

教室で小便をもらすなどした。

64年 前年同様。

平成2年 公立小学校に入るが、教室でしょんべんもらして笑われて、体育でいじめられ、授業も意味不明

3年 2年生になるが担任が恐いおっさんで、宿題忘れてげんこつくらったり、糞もらしたりして地獄。家でもオヤジ虐待されるし最悪の年だった。よく自殺しなかった

と思えるほど、クソ地獄の年だった。

4年 3年生になり、担任が優しい女性になるが、いじめが激しく、年の8割を登校拒否

5年 4年生となるが、いじめが続いており、地獄

6年 郡部の小学校に転校するが、体育教師からいじめにあう。クソをもらす、父親虐待されるなどこれまた最悪な年。しかし、4月FF6が出てスーファミ界が

爆発し、アムロナミエなどの活躍も始まり、救われる。

途中省略

平成15年 東京大学文科Ⅰ類に合格

17東京大学法学部に進学。

19年 法学部卒業

20脅迫罪逮捕される。

21年 有罪判決が確定するが、3年間の執行猶予があり、釈放。

24威力業務妨害逮捕される。10月18日実刑判決

25年 4月控訴棄却され、5月に確定、6月に黒羽刑務所移送される。

26年 4月24日に出所

30年 4月板橋区生活保護開始決定。

2019-07-10

anond:20190710162731

これ真に受けてすげー空気読めないわがままバカを何度やらかした。

仲間は選べよ。も真に受けて、友達が作れなくて登校拒否になった。

2019-06-23

anond:20190623224629

登校拒否するなら、転校させてもらったほうが、幸せになれると思う。

転校先でもダメなら、しょうがないけれど💦

心がやられる前に、行かなくていい、というのもありだけど

他所ならいい感じかも?って提案してくれる大人いてほしい。

だってどっかで穴埋めしなきゃいけないよね。

2019-06-07

性別わず明日は我が身

幼小中高といじめ以前の無視されることで過ごし、登校拒否家族に襟首掴んで下駄箱まで連れて行かれてクラスメイトに笑われるだけだった。もしかしてと受けた発達障害の診断は通知表子供の頃の話を家族から聞くことが拒否され受けられず、バウムテストひとつ思春期危機と診断され、幻聴妄想ボロボロになった状態でやっと貰った薬はデパスだけだった。

家族に肉体的暴力は受けることはなかったけど、受験で追い回されてボロボロになって遊びを求めた。

遊びの世界でも仲間に入れてもらえることはなかった。音楽サブカルおたくの全てでぼっちだった。

コンビニ居酒屋スーパーアルバイト面接は50件以上受けて全部落ちた。一般的にまともとされる格好で面接に行き、履歴書の空白をアルバイト暦でなんとか埋めてでもだ。面接落ちはもう慣れているので何も思わないが、面接落ちした店には行きづらくなるのが嫌だ。

家族といるとどもりやチックがひどくなり、それをわざとやっていると言われてもっとひどくなる。

いつかは素敵な家庭を持ちたいし3次元恋愛に興味がないわけではないのでお見合いの話はいつも受けてお話をしたりして、この人はと思うことがあるけどうまくいかない。長子でいつか実家の親の介護をすることになるとなると難しいし、私のコミュ力と顔がよければもっとよかったかもしれない。

2019-04-29

anond:20190425182402

大学に入る前までの過程自分とほぼ完全に一緒で驚いた。

とても他人事とは思えなくて思わずこれ書いてる。

将来の自分のためにログ


甘えた人間は生きてちゃいけないなんてことはないと思し、

傍目からはこの増田は頑張りすぎてるぐらいで甘えてるようには見えない。

会社増田が居なくなっても最悪潰れはしないと思うし、

潰れても誰か死んだりはしないはず。

けど増田会社をやめないと死んでしまうかもしれない。

そんだけ辛い思いしてるんだったらまたしばらく逃げたって良いのでは。

登校拒否だったけど会社で働けたんだし、

しばらく休職してもまた働けるかも。


とはいえ辛い状況だともう死んでもいいかなって思ったりする。

そういう時はいっそ死んでもいいかなと思う。

それで、どうせ明日死ぬ今日は死なないでおくかぐらいの気持ち毎日生きてる。


なんだかね。

2019-04-23

妻と話が致命的に噛み合わない

子供は、女子二人いる。かわいいのだが、登校拒否児。発達障害なので、いろいろ手を焼いている。子供の話を妻とすると、致命的に話が噛み合わない。私のことを、発達障害だといちいち癇に障る指摘をはさむし、メモを取ろうとすると、メモなんか取るなと言うし、妻が話をしたいと言うときは、つまるところ話を聞けということだし、小遣いの管理は細かすぎるし。

価値観が違うどころではなく、話が噛み合わない。早く離婚すべきだったとしか思えない。

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