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はてなキーワード: 権威とは

2022-08-30

anond:20220830094012

そうだよな

医学権威無視してわかりやすおもちゃに群がるのは衆愚のさだめとはいえこれは酷すぎる

医者様や学者様を蔑ろにする不心得者が増えた

バカは関わるだけで品位が下がるから、もはや何もせず金だけ寄付して黙っててほしいわ

2022-08-29

anond:20220829114539

芸人なんか昔から権威プロパガンダに利用されまくっとったやんけ

社会風刺持ちネタにしてたのなんかごくごく一部や

anond:20220829114539

じゃあ芸人権威が生きろって言ったら死ぬのかよー

anond:20220828231828

権大納言とかの「権」だよ。

偉い、権威があるってこと。

anond:20220828231828

権 とは、権威 であり、覇権 なのであるよ。

選手権威を競う大会なのだから選手大会。優勝したら覇権の証しとして🏆もらえる。

2022-08-28

選手権」の「権」の意味

これ調べてるけどマジでわかんねーな。

辞書的には選手権選手権大会で優勝した選手または団体に与えられる資格

こうなってるけどその資格はいったい……

「〇〇杯」「〇〇旗」みたいな大会があるけど物理的な杯的なモノがあるなら優勝者にはそれが与えられるってわかるけど

選手権」なるものを得たいと思って選手権大会に出る人ってまずいない。

「今大会選手権絶対に欲しいです!」みたいな言い方する選手たことない。

そもそもなぜ優勝したら与えられるのが「資格」なのか?

選手権大会で優勝したら「資格」なんかもらっているか

もらっているとしても、その資格というのを「権」の文字であらわすのがよくわからない。

杯とか旗とか賞状とか名誉とかやりがいみたいなものと「権」がつながらない。

なんなんだ……

追記

おもいのほかトラバブクマあつまったな。みんなサンキュー

まだあんまよくわかってないが……

トラバブクマで気になったのは語源的には英語のchampionshipについての話が興味深くて、まあ選手権のもとになった言葉はおそらくchampionshipなんだろうなーとは思う。

あとはそもそも「権」の意味が 「権利」だけじゃないよねって話だな。

「権」という文字には「力」という意味があるらしいけどそうなると権利権益は「力があること」による利益だし権威は「力があること」による威厳だし

選手権は「選手になる権利」じゃなくて「選手の中で特に力のあるものという称号資格」という意味なのかなって。

少なくともワイは「権」をそのまま「力」だとは解釈してはいなかったか面白いと思ったな。

そういえば英語接尾辞の-shipは「状態身分・職・任期技量・手腕」をあらわすとなっていてfriendshipとかrelationshipとかあるしおそらく「権」よりもひっつく対象が広いんだよな。

おそらくchampionshipshipは「championという身分」ということなんだろうな。

ただワイのいちばん問題意識は、日本語で「優勝者が得るもの」の意味ものごくみんなあんま気にしないようになってないか?ということなんよ。

ワールドカップ出たい!」「ワールドカップで勝ちたい!」「ワールドカップ手にしたい!」これは全部通じるけど

選手権場合は「選手権出たい!」「選手権で勝ちたい」までは通じるけど

選手権を手にしたい!」とか言ったらなんやお前?ってなるやろ?いや、お前もう選手やん。みたいな。

なんで一般的選手権という言葉から優勝者手に入れるもの」という意味が薄れていったのか?っていう素朴方面な疑問がでかくなっている。

anond:20220828114530

知能に問題がない人間普通に占いや神や幽霊存在を信じているごく普通社会を受け入れなさい。

その上で、科学権威を失わないために何をすればいいか考えましょう。

2022-08-27

センスの無い未経験年収300万強のプログラマとして就職して必要だったこ

学歴がよくなくて、就職が困難だったので中小 SIer で働いていた。 (プライム案件を取ってこれる分マシらしい)

レキサルティレクサプロデパスのお世話になって続けてたけど、結局は薬でどうにかできず、辞めてしまった。

参考程度だけど、未経験の人が 300万 をもらうために、どのようなスキル必要かを、まとめておく。

ちなみにどれくらいプログラムが書けなかったかというと、競技プログラミング努力しても AtCoder黄色になれず青色のままってくらい。

AtCoder でいう、初心者から抜け出せないという、要するにセンスがないということなのだけど、そういう人も居そうなので、参考までに。

要するに

経験プログラマに対して、これだけ要求されるのだから、未経験の人は覚悟するようにという指針を提供したいので書いた。

入社時に覚悟しておかなければならない事

誓約書

基本的に、損害を与えた場合には、それを作業者補填するという誓約書を結ぶ。

要するに、捨て駒として扱って、失敗したら賠償しろ、という事になる。

このことを認識して、失敗しないように振舞ないと、連帯保証人含めて迷惑をかける事になる。

要するに、低賃金で未経験プログラマ案件にノーリスクで送りこんで、稼ぐための手段です。

必要だったスキル

ディレクション

基本的に PL (夢想家) → PM (御用聞き) → プログラマ という環境なので、プログラマ自分ディレクションして意思決定する必要がある。

例えば、下請け場合は、PM の御用聞きの結果の WBS に合わせないと、顧客から DM瑕疵担保責任がどうとか言われる。

社内開発の場合は、PL の方から直接、長時間の叱責を受けなくてはならない。

そういう不幸を防ぐためにも自分ディレクションして、PM の決めた実態を反映していない WBS に合わせて作業するスキル要求される。

基本的に手戻りは個人の過失になってしまうため、手戻りしないように考え抜いて意思決定をする、というのが重要になる。

これこそ、ガクチカと呼ばれる、頑張れますというスキルなので、学生時代に頑張っておけばよかったなぁ。

デザイン

こう見せたい、こう表現したい、という事を伝えるには、必然的デザイン知識必要になる。

創造思考デザインは切っても切り離せない概念で、デザインとは創造なのだから、当たり前である

ソフトウェアアーキテクチャも、ソフトウェア設計も、コーディングデザインと言えるかもしれない。

言語技術 (言語能力)

顧客と 1:1 で話す事が DM でもボイチャでも突発的に発生するので、いつ、いかなる時でも論理武装していなければならない。

まぁ、顧客であったり PL であったりはキレるのが仕事なので、それに対して理路整然と説明する必要がある。

なんとなく、では納得しないし、すぐ損害賠償請求とかそういう話にいくので、答えられないと持ち帰りますお茶を濁して、エマージェンシーになる。

後述する設計能力においても、課題を把握するための言語技術(言語能力)は重要ファクターだと思う。

ソフトウェア設計

C/C++システムプログラムフレームワーク基本的に無いので、自分概念を整理して、どのような変更、拡張があるかを考えて設計する必要がある。

この能力が弱いと、手戻りが発生しやすくなり、瑕疵担保責任を問われることになる。

読んだ本の中だと、ボブおじさんの本が、やっぱりしっくりくるなという個人的な感想がある。

ネットワークプログラム (C)

UDP で送ってくるデータを受けて 24/365 で停止しない WebAPI への繋ぎ込みという簡単作業があって、振られた。

リークしてはいけないという事で malloc禁止で、グローバル変数を利用するという変なルールがあった。

Rust で書けばいいんじゃないかなと思ったけど、Rust 書くのもシンドイし、C/C++ で、しんどくて読みづらいコードを書いた。

あとで保守する人が大変そうだけど、そういうルールを決めたのは PL だしね。

システムプログラム (C++)

なんか、特殊PCI Expressカードからベンダーが用意している SDKデータ引っこ抜いて Web API へつなぎ込む部分をやった。

データの中の特殊信号を取りたかったらしい。

一応、SDK の使い方をパラ見して 1 日で作ったので、別に負担じゃなかったけど、素人やらせるんなとは思った。

Webバックエンド (Express/Fastify + PostgreSQL)

当たり前だが、DB 作って RestAPI を生やすのは現代プログラマにとって自然にできなければならない。

なので、新規開発のサブモジュールバックエンドを任せられた。

だが、ORM の癖を把握したり、発行されるクエリ確認したりするのは、疲れる。 SQL を直書きするのはシンドイ。

結局 SQL を直書きすることにしたけど、あまりいい決断ではなかったと思っている。

それ以外は フレームワーク に乗ってしまっていいので、書き捨てる分には楽だった。

最近だと、TypeScriptPrisma 使うのが、型安全でよさそうだなと思っている。

Nest.js個人的には好み。

Linux操作 (EC2 とか)

デプロイEC2 直でやったり ECS にしたりとしていたので、ベアメタル知識必要になった。

要するに systemd のいじり方とか、死活監視の仕方とか。

個人的には、クラウド嫌いなので、ベアメタルの方が安心できる。

Bind権威DNS管理して、postfix絶対止めてはいけないメールサーバ管理するとかもあったけど、出来て当然ではある事だし。

Webフロントエンド (React/Vue)

会社Webアプリ案件を取ってきたので突っ込まれた。

経験プログラマでも、月単価 100 万以上で顧客請求してるんだから会社はそりゃ儲けるだろうと思った。

会社が一人前の経験N年のプログラマといったら、その通りに振舞う必要がある。顧客責任はないのだから

当たり前だが、WebディレクションWebデザインWebプログラミング, Webマークアップ は、全て作業者であるプログラマ仕事になる。

個人的には、これが分かれている理由が良く分からないけど、分けたい人がいるんだろう。

デザインで、CSSフレームワークを使うと、その色が出るという事で、全部 CSS手書きしていた。

tailwind が出た現在では使っていればよかったなと思う。

結局、全く分からない中、手探りでデザインし、コードを書いて、顧客に 1 日 5 ~ 10リリースするという行為をした。

顧客大手企業だったので、自社のエンジニアならもっと出来る、と叱責されまくったけど、だったら自社でやればいいじゃんと思った。

一応、今でもサービスは生きていて、ユニークユーザ数は上がっているらしい。

そして、焼き付け刃だったので、 WAI-ARIA を知らず、アクセシビリティへの配慮が足りない事が問題になってしまった。

これはなんとか保守対応ねじ込めたのでトラブルにならなかったけど、瑕疵担保責任と綱渡りだなと思った。

CI/CD 構築 (Azure Pipelines)

当たり前だが、リリースサイクルを短くしないと顧客はキレてしまうので、CI/CD を整えないといけない。

今は Github Actions とかあるけど、昔は無くて Bitrise が高いからみたいな理由Azure Pipelines で CI/CD フローを構築した。

もう Multi Stage Pipeline になってるだろうけど、Release Pipeline が GUI からしか設定できないのが辛みだった。

IaC (Terraform)

当然だが、デプロイするためには IaC を整える必要がある。

これを知らずに、コンソールポチポチしていたので、 IaC 出来てない事がバレた時に色々怒られてしまった。

今は CDK とか便利なものが出来てるんだなぁ。

自動テスト

本来テスト自動テストを整えて、質保証をしてバグを減らさなければならない。

だが、テストを書くという手間を払えなかったので、人力テストしかできなかった。

一応、リグレッションテストを人力でやりまくったので、バグ発見曲線が結合テストでの IF 不一致しかない、という結果にはなったけど

自動化できれば費用必要じゃなかったから、怠慢だと、責められてしまった。

同じような未経験の人へ

経験でも誓約書を盾に、振られた事全部を出来なくてはならない慣習があるので、プログラマはそんなに良い職業じゃないよ。

甘い考えで、プログラマになろうと思っているのなら、考え直した方がいいです。

2022-08-26

anond:20220826222602

社会に出たらわかるよ

あいう強烈な自我を通したまま社会人として働いたり親になったりするのってめちゃくちゃ疲れるよ

ドブネズミカラーで埋没してたほうがずーーーっと楽

増田にそれが分からないのなら(いつまでたっても心は)子供から許されてるだけだと思う

それこそ権威にしがみついてATMになったほうがある意味考えなくてすんで楽だろってことだけどね

anond:20220826113944

やっぱ男性であることと権威ってきりはなせないんだな

それってATMじゃん

anond:20220826141838

70代から50代後半までだろうな。トラバにもあるけど、「努力権威」の戦中世代への反動二宮尊徳の像が撤去されたのもここら辺だろ。

実際「努力精神力アメリカイギリスに勝てる!」「チャランポラン石原莞爾より努力家の東條!」ってのを見ると、わからないでもない。

anond:20220826141838

世代っていうより、増田さらに親世代である戦後世代の影響だろうな。戦前は「努力権威」みたいな感じでいか努力して高等文官士官になったかみたいな話が持て囃されてた。戦後はその反動学生運動の影響で「努力ダサい」みたいな風潮ができた。今の若者冷笑主義努力嫌いの親世代反動努力好き。

チャンネル登録者数は定期購読数であり人数ではない

色んなYouTuberチャンネル登録者数の単位を「人」としているがこれには疑問を感じる。

subscriberは定期購読数の意味を持つ。あくまで人数ではない。

複数アカウント登録している人もいる。

謎の累計5000万人超えなどと訳の分からない老人を騙すような表現がはびこっている。

権威性を表現するのであれば、被っているアカウント排除すべきである

これを人数として自身知名度を広げるために活用するのはいかがなものか。

2022-08-20

anond:20220818135854

権威を混ぜないと「低俗から殴っていいんだ」と当時の正義マンに貶められる時代だったか

2022-08-19

anond:20220819123753

議員仕事に不当な影響を与えたり、社会的問題のある団体権威づけに利用されなければ問題はないんじゃない?統一教会権威づけに利用されていたか問題だと言われてるんであって。

2022-08-17

anond:20220817134415

たぶん原語では「これ読んでハンカチ要らないなんて人間性大丈夫?」くらいの話なのにわざと権威付けしようとして確信犯誤訳してるんよ

洋画邦題が軒並みクズい」問題とおなじ。売れれば正義からってセンスバカ向けに落としてバカも賢い人も得しない社会

モテようとするって意味なくない?

ルックスがよい → 見た目で寄ってきただけ

高学歴、有名企業 → 金や権威に寄ってきただけ

性格が良い → ごく一部の人間のみ。性根なんてそうそう変えられるものじゃない。

結局生活環境の範囲で、20くらいの似たような年齢層で

互いに害にはならない性格人間が都合がいいか結婚するような

昭和的な結婚観で十分な気がする。

30も過ぎた男女がやれモテ恋愛だで自分の色恋に必死になってるのも

何か変じゃない?

anond:20220817105052

っつーかフランスカトリック権威がつよつよだったのと、歴史的共産主義が強いか政教分離が一番極端なことになってるんであって

そんなに素晴らしいはずなのに他の国が追随しない理由とか歴史的経緯とか、一度でも考えたことがあるんだろうかね

9条にしてもそうだけど、この国の左派はすぐ極論から極論にジャンプしすぎなんだよ

anond:20220817102524

神社には「皇室」という史上最大の権威が貼り付いていることじゃないかな。

2022-08-15

ネットでの、「右」や「左」の「正しさ」がしんどい人たちへ

対象読者

この文章対象としている範囲は極めて狭い。

まず、「世の中に左右対立なり男女対立がある」という事を強く意識している人だ。はてなーにもそんな人はそこまで多くないだろう。

そして、その中でもなんとなく「左」の方が好きだなー、とか、「右」の方がいい感じだなー、みたいにサイドをうまく決められている人とか、

どっちもどっちだろw」と笑い飛ばす人とか、是々非々で見ることが出来ている人とか、「中道」の人たちとかはこの文章対象ではない。

この文章対象は、「『右』についても『左』についても(場合によっては『中道』についても)、彼らの掲げる『正しさ』を無視することが出来ず、さりとて彼らの『正しさ』を丸呑みしてしまえばそれは自己否定になってしまうから、結果として『右』に対しても『左』に対しても嫌悪否定から入るタイプの人」である。大概「インターネットはクソ」的な事を言っておきながらインターネットを辞められない人だったりする。自己認識とは裏腹に、外部からは「左」を攻撃する「右」や、「右」を攻撃する「左」と区別がつかない。事実上どちらかの論理に絡み取られることも少なくない。そうでない人たちも、人の正義を笑う事が目的化している「冷笑系」と呼ばれることが多いし、実際外部から見ればその通りである。このタイプの人たちが引き起こす害の存在否定するつもりはないが、今回はそれについてはあまり語らない。今回は、このような「右」や「左」の「正しさ」がしんどい冷笑系と呼ばれるような人たちに向けた文章を書く。この増田はすべての人たちに対して公開するが、この増田でこのタイプ以外の人に対して配慮する気は一切ない。まあ、最低限攻撃にはならないように尽くすが、そう聞こえてしまったら申し訳ない。

なぜあなたは「正しさ」に怯えるか

まず、ここでは鍵カッコつきの「正しさ」と、そうではない正しさを明確に区別する。端的に言えば、前者は自分がそれに納得も反発してもいないうちから無理に賛成か反対か決めさせられる二分法的世界観のことであり、後者自分で沢山考えて、さまざまな意見を聞き、それらを柔軟に取りいれ、そのうえで自己批判を重ねることで、自分の血肉となる正しさである

あなたは、「右」や「左」を嫌悪している。それにもかかわらず、彼らを眺め、時には何か文句を言ってやることが辞められない。なぜだろうか?

一因としては、あなた孤独、あるいは社会問題について接する機会の多さ、または暇な時間の多さ、などの要因が考えられるだろう。ここではそれは大きな問題としない。

個人体験の話をすると、(「右」か「左」かは書かないが)「このままでは日本が滅びる」的な事をヒステリック連呼する家族に対する恐怖が大きな要因だったと思う。

ここで、「そんなことあるわけないだろ~」と笑って以後その人をシャットアウトできる人は幸せ者だと思う。(そして、この文章対象ではない)

私はそれを聞いてこう考えた。

日本が滅びるという事をヒステリック危惧することでいったい何が解決するんだ?

まして、そもそも前提を共有していない相手に対して前提を共有してほしいならその手のコミュニケーションは悪手中の悪手じゃないか

そもそも日本が滅びそうかどうかなんて直観的には分からない。テレビを見ても新聞を見ても本を読んでも友達と語らっても、当然インターネットエコーチェンバーに堕ちても、

感覚と実情には相関のかけらもないだろう。何やら身内だけで通用する『論法』をありがたがり、反対意見はすべて『悪』の手先と決めつけているようだが、

そもそも世の中に対する見方など無数にあるわけで、もし本気で日本が滅びることを危惧するならば多様な視点を持ち現状を正確に把握する方がいいんじゃないか?」と。

しかし考えてもみよう。多様な視点を持つべであると私は言った。という事は、その「ヒステリック」な彼らの視点を、私たちが知らなくていいわけないじゃないか。「世間」の正しさによって「ヒステリック」な「右」「左」をたたくのと、その逆は構造としてはほとんど同じで、ほとんど同じレベルの不誠実だ。私は家族に対して素直に「自分は聞きたくないから聞かない」とする事が出来なかった。それは自分自身が、世間の「正しさ」や、自分感覚としての「正しさ」に何ら信頼を持っておらず、意見を異にする人を「聞きたくない」という理由で目の前から排除することは、そのまま自分意見の違いによって排除される事を認めることになるから絶対に聞かなければならない、という強迫観念があったのだと思う。で、当然ながら家族意見と私の意見大分異なっていたので、それを否定するために向こうの論理を知らなきゃ、という事で気が付けばはてな本来そこそこマトモな思想であるはずの右と左を乱用する「右」と「左」の人たちのコンテクストを学んでいった。

細部の体験は違うだろうが、「正しさ」がしんどい人たちの多くは、「正しさ」によって排除されたか、「正しさ」によって排除された人の「正しさ」に人格非難されたように感じたかのどちらかだと思う。そしてみんな世間の正しさや自分の正しさに自信がないんだと思う。世間を信じることが出来ていれば、(念のため。盲信ではない。たぶん大体正しいだろうなーと感情レベルで思える事)「おかしな『左』と『右』は世間と言っていることがあまりに違うからノイズとみなします」とすることができる。(その中には有益情報も混じっているし、世間が致命的に間違う事もそこそこあるので、失うものは当然あるが、リスクベネフィットを鑑みればそこそこ優秀な処世術だと思う)あるいは、自分自身できちんと正しさについて考えて、誰かの「正しさ」に「圧力」を感じない人はこうはならない。ひどい言い方をすると、世間包摂されることもなく、個人として自立できてもいない人たちがそうなるのだ。

あなたは「正しさ」を恐れている。もしあなたが「フェミ」の「正しさ」におびえているのならば、目の前の女性が少し自分とは関係のない特定男性を軽く批判したとしても、それに恐怖するだろう。「アンチフェミ」の正しさに怯えるならば、「ただしイケメンに限る」みたいなしょうもない自虐を、直ちにジェンダー平等に対する攻撃の準備と受け取るだろう。「右」の「正しさ」におびえるなら、少し日本が好きだという発言をする人がいても怖いだろう。あなたが見たものそれ自体はよくある普通のものしかないが、あなたの頭の中では、それは「正しさ」による抑圧の枕詞なのだ絶対に、予防しなくてはならないという防衛本能高まる。(典型的な反応が、ちょっとした男性批判に対して「男性差別だ」と言ったり、「右」に対して「お前こそ反日だ」と言うなど、「彼ら自身言葉」で彼らを批判することだ。これはほとんど脊髄反射のようなものである)これではまるで、あなたが嫌いなヒステリックな「右」「左」と同じだ。残念ながらあなたあなた自身の正しさを持つことが出来ていない。だから、もしかしたら目の前の相手自分洗脳しようとしているんじゃないか、いやいや自分こそが洗脳されているんじゃないかという恐怖に襲われる。こうなるともうパラノイアだ。あなたあなた自身混沌とした葛藤あなた自身問題として向き合う事を避け、代わりに「右」「左」の独善性他者問題として批判している。右や左がバカ害悪なのではない。あなたバカ害悪な「右」と「左」を探して見つけているのである。なぜなら、そういう人たちを批判し続けていないと、自らの内面と向き合うことになり、それは辛い事だから

あなた自分問題から目をそらしているのだ。(ちなみに、これは私自身の自己批判でもある。なかなか書いていて辛い内容である

あなた非難したいわけではない

しかしたら、私が「どっちもどっち論は正しくない」、と迫る「左」のように見えたかもしれない。しかし、私は正しい正しくないという軸はここでは採用しない。ここではもっとプリミティブな、「それはあなたにとって損か得か」という軸を使う。

あなた葛藤あなただけの責任ではない。社会にも当然原因がある。「右」や「左」の「正しさ」にも原因があるだろう。また私の考察が正しいとも限らない。少なくとも「正しく」はない。

しかし、歪んだ「正しさ」を持つ「右」「左」を非難する事で、自分自分の芯となる正しさを持たずフラフラしているという実際問題から目をそらしていないだろうか。それはあなた自身人生にとって大きく不利な事ではないか、と言いたいのだ。あなたがこのまま誰かの「正しさ」に怯え続けるならば、人とかかわる時もいちいち自分は「正しい」かどうか考え続けるだろう。

いわゆる踏み絵を踏まされるような類の教義的な「正しさ」と、自分できちんと考えて出す類の正しさを区別できないと大変だ。「正しさ」を否定するあまり正しさも否定して倫理など投げ捨てる人間になってしまうかもしれない。それが嫌なら、陰謀論ルートもある。あなたのような、陰謀論者を親の仇のように憎む人は、陰謀論者の卵である。正しさを肯定するあまり陰謀論という「正しさ」もまとめて肯定してしま陰謀論者と、「正しさ」を否定するあまり正しさにまで怯えるあなたは、自己認識では正反対かもしれないが、抱えている問題はほぼ一緒だ。

ならば、どうすればいいのだろう?あなたが「正しさ」と正しさを区別して生きるためにはどうすればいいのだろう?

あなた世間の正しさを緩やかに信じるのは、きっともう無理だろう。ならば、あなたにできることは自分の正しさを確立する事だろう。そうすれば、他人の正しさのこともきちんとそれなりに尊重できると思う。

インターネットを辞めることは問題解決にならない。いや、正確に言えば、問題解決したら勝手インターネット(より正確に言えば、インターネットで「右」や「左」の頭のおかしい人をわざわざ探してきて嘆くマゾ行為)を辞める事になるだろう。インターネットは結果であって原因ではない。

そのためにどうするかの方法論までは、さすがに一般化できなそうなので、各自で考えて!(適当

追記

なんか注目エントリにこの増田でしている話題と近そうな話が載ってた(https://anond.hatelabo.jp/20220814232604

この増田は、インターネットイナゴたちを人として見下している節があって、自分自身もまたそれと同じになりつつある!と自己嫌悪してる感。

たぶんどれだけ言葉を飾ってもイナゴたちとnotイナゴたちで後者の方が「上」としてしまう時点で根本問題からあんまり抜け出せてない気がする。

トラバ

なぜこの増田はこのような文章を書いたのか?

親切心でないことは確かだ

読む人にはそれをよく考えてほしいね

自分としては、主に自分自身へのアドバイスで、折角書いたこれを一人で持っておくだけなのもなあと思って放流しました。親切心では間違いなくないです。

こういう文章増田党派性を書かないのは不誠実だと思うので書いておくと、増田はどちらかと言えば「左」「フェミ」の「正しさ」の方に良くも悪くも存在感を感じます。「右」と「アンチフェミ」は、正直何言ってんだこいつらと切断処理するのが割と簡単ですが、「左」「フェミ」に対しては難しいです。また、自分は恐らく左翼や親フェミニストと呼ばれる類の人間ではあるが、一方で「左」のテンプレともやや違うと思っています。(同性婚賛成、天皇制反対、自衛隊明記賛成、と言えば、どんな人か多少イメージがつくかと)たぶん、真剣に「右」をやっている人<真剣に「左」をやっている人<<どちらにも興味がないがほんのり右な世間の人 という数と影響力のバランスなので、この数の順に権威を感じて怖いんだと思います

トラバトラバ

ほぼ起こりえない例えが多すぎて考慮する意味わからんのよな

そう思ったという事はあなたはおそらく対象ではないですね。お目汚し失礼しました。

私はこの文章を私のような人たちのために書いています公的意味はおそらくないでしょう。

ブコメ

日常のことを話して隠れるか、(歴史古典を含めて)過去に旅立つかが個人的な解決方法なんだけど、「正しさ」が苦手なのか「正しさを旗印にした他者への圧迫」が嫌いなのかは気づいておいてもいいかもけ。

えっと、一応その二者は区別してます。(確かに、正しさと「正しさ」なんてわかりづらい表記じゃなくて、正しさと正しさを旗印にした他者への圧迫みたいな表現にすればよかった...)

ご指摘の解決方法はまったくもってその通りです。「世界は敵と味方に分かれている戦いの場というだけのものではない」という実感(「理解」ではない)を得る事が救いなのだと思います

党派性に駆られて訳の分からない事を言っている人たちの叫びも、大体この実感を得たいがために敵を滅しようとしてる感があります

だいぶ前にどっかの「左」の人が「いい人だけの国を作りたい」と言って炎上していましたが、アレもそういう感じなんですよねたぶん。

敵がいてもそれでも大丈夫だ、とりあえず危害は加えられないという安心感が足りない。

あるいは、「右」の荒唐無稽歴史修正とか、中韓断交!とかも、そうした安心感を求めてやっているのかなー、と。

もちろんちゃんと信念をもって右と左をやっている人は素晴らしいのですが、そうではない人は少なくとも個人幸せという事を考えれば、敵を攻撃するより世界に対する恐怖感を取り除く方がよいのかなーと思っています

2022/8/17 0:12 セルクマ済み

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-08-14

anond:20220814085836

有り体に言えば『人は正しく思考停止することでより豊かに生きることができる』というのが宗教というシステムだと思う。

 

世界の成り立ちを説いたりするのは、(多くの場合)考えても仕方ないことに思考リソースを割かずに済むようにするための仕掛けで、

神の権威を強調するのは思考停止してもよいというお墨付きを与えるためだ。

 

しかしこのシステムは容易に『人を正しくない思考停止状態にさせる』ために流用できる。

権力者がこんな有用ツールを見逃すわけもなく、多くの宗教個人が豊かに生きるためではなく権力者が己の考えを通すために利用されてきた。

「早く孫の顔をみたい」と「非出生主義」

上手くまとまるかはわからぬが、言いたい放題言われるがままの状況に辟易しているので、この場で気持ちの整理をしたい。

非出生主義とタイトルには挙げたが、それに絡むだけで単なる日記にすぎないのだが、無論、昨今はその話題世間では言語化

が達成されていない状況にあるように思われるので、その点も解決することを主眼においた内容になることと思う。

推敲はしないいわゆる殴り書きにはなるのだが、それで十分である

最近、早く孫の顔を見たい、淋しいと親に言われることがあった。まあ、お盆なので、どこでもよく見る光景なのだろうが、

正直、毒親育ちだと仮に、子供が生まれても、親にはできるだけ会わせたくないと思っている。

どうして、わざわざ病質的環境大事な人を巻き込まないといけないのか皆目、私にはその理由がわからないのだ。

しろ嫌悪しており、阻止しなくてはいけないと言う使命感さえ持っている。子供は敏感にそういった、異常性を察知するものでもある。

から侮蔑眼差しを受けていることを目の当たりにしては、親も狂いそうになるのではないかという憐れみの念があることも忘れないでいてほしい。

「いやいや、そういうことではないのだよ」という所詮子供の分際でバカにするなというものもいるだろう。(随分とふてぶてしいとは思うが)

まあこの手合でもあるのだが、これは答えが明白だ、親の権威性を振りかざしたいだけ、そして耄碌しているだけなのだから底が知れている。この件は以降触れない。

また、「単にに孫の顔がみたいのだよ」と食い下がるものもいるだろう。

なぜそのように考えるのだろうか。

すっとぼけてみたものの、まあ、いうまでもない。

単に生物的な本能として、生殖連鎖確認したいということに違いない。それが安心なのだ

まず、この私の内心と親の心情の間にある距離感はいわばヒリヒリとした長年の確執の賜物と思わずはいられない。

私の関心事は個人(ここでは子供)の尊厳にある一方で、親はより本能的な生物欲求立脚する主張となっている。

概して、孫は見込めないと思っている前提で親は話しているのだろうが、私は子供は作るつもりでいる点は異なる前提にあるのだし、

自身子供を作ったのにお前はという強迫も含意しているように思うと、言われる筋合いはないという苛立ちとともに、

「ああ、こちらの思っていることもまた理解できずにいるのだな」と、自身が抱く親に対する恨みの思いは正しかったのだと、

やはり毒親はどこまでも変わらないのだなあという絶望感が増す一方なのだ。これまで同様、距離を置き、狂気から逃れる他ない。

毒親問題というのは本人にとっても苦悩するものだが、往々にして、毒親の親も毒親であることを疑ってかかるとよく当たる。

毒親が私と同じ境遇の時にどう感じていた所までは私と同様であるから改めて書くまでもないだろう。

ただ、親と私は強迫に対する解決方法が違っている。それだけのことという代物ではなく、それこそが本源的な違いなのだと私は思っていて、

この認識の断絶に隔てられているままでは解決不可能なのだと思う。深い絶望がここにはある。

これは一人の人間としての尊厳・生きる意味問題である。その場のお気持ちだとか世間体だとかで支配強迫したところで、尊厳は奪おうとするのは

虐待しかない、非道い話なのである。(この支配から解放を願うというのはウクライナ戦争にあるウクライナ人も同じ心地にちがいない。余談だが。)

とはいえ、ここまで私を苦しめる親とは一体何者なのであろうか。何様なのだろうか。私の友人もこうした苦労をしているのだろうか。

この答えは私は持ち合わせていないが、私のような立場であればこうして心から叫びを発せざる得ないほど追い込まれる状況になるかもしれないことを思い

配慮批判することだけはしないでほしいと思うし、心にもない世論形成には加担せず、無視せず、信念に基づいて行動してほしい。

なぜなら、この、人間関係の構造は今話題山上と同じなのだから

そして、こうしたいきさつを各々が抱えているというのも、出生率低下の副因になっていると思う。勿論、経済的理由もあるのだろうが、貧しいのは金銭的なものではなく、精神的な側面にも潜んでいることを見落としてはならない。公園に苦情する地域社会というのも良い例である

またも、「いやいや、私はそれでも産んだ」という上から目線のものも出るだろうが、正直言うが、そんなあなた自分毒親確率がだいぶあると思う。

しろ、教えてもらいたいのだ、毒親でなく、不信感なく親の言うことが正しいと信じられるその理由が。

毒親に何を聞いても間違えたことばかり教えられていると、毎日が辛いのだ。

お前いくつだよというかも知れないが、それは良い指摘である。いくつになっても親は親、子は子なのだ

どんな間違った親で、洗脳が解けない親であっても、いくつになっても親のためを思っていることは根底にあって、

そこはしっかり外していないことを思い出してほしい。

このもつれた情念和解の道に通じる希望見出したいものだ。ただ、今はそれに気づけただけで良しとして、筆を置くとしよう。

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