上手くまとまるかはわからぬが、言いたい放題言われるがままの状況に辟易しているので、この場で気持ちの整理をしたい。
非出生主義とタイトルには挙げたが、それに絡むだけで単なる日記にすぎないのだが、無論、昨今はその話題も世間では言語化
が達成されていない状況にあるように思われるので、その点も解決することを主眼においた内容になることと思う。
推敲はしないいわゆる殴り書きにはなるのだが、それで十分である。
最近、早く孫の顔を見たい、淋しいと親に言われることがあった。まあ、お盆なので、どこでもよく見る光景なのだろうが、
正直、毒親育ちだと仮に、子供が生まれても、親にはできるだけ会わせたくないと思っている。
どうして、わざわざ病質的な環境に大事な人を巻き込まないといけないのか皆目、私にはその理由がわからないのだ。
むしろ、嫌悪しており、阻止しなくてはいけないと言う使命感さえ持っている。子供は敏感にそういった、異常性を察知するものでもある。
孫から侮蔑の眼差しを受けていることを目の当たりにしては、親も狂いそうになるのではないかという憐れみの念があることも忘れないでいてほしい。
「いやいや、そういうことではないのだよ」という所詮子供の分際でバカにするなというものもいるだろう。(随分とふてぶてしいとは思うが)
まあこの手合でもあるのだが、これは答えが明白だ、親の権威性を振りかざしたいだけ、そして耄碌しているだけなのだから底が知れている。この件は以降触れない。
また、「単にに孫の顔がみたいのだよ」と食い下がるものもいるだろう。
なぜそのように考えるのだろうか。
単に生物的な本能として、生殖の連鎖を確認したいということに違いない。それが安心なのだ。
まず、この私の内心と親の心情の間にある距離感にはいわばヒリヒリとした長年の確執の賜物と思わずにはいられない。
私の関心事は個人(ここでは子供)の尊厳にある一方で、親はより本能的な生物的欲求に立脚する主張となっている。
概して、孫は見込めないと思っている前提で親は話しているのだろうが、私は子供は作るつもりでいる点は異なる前提にあるのだし、
自身は子供を作ったのにお前はという強迫も含意しているように思うと、言われる筋合いはないという苛立ちとともに、
「ああ、こちらの思っていることもまた理解できずにいるのだな」と、自身が抱く親に対する恨みの思いは正しかったのだと、
やはり毒親はどこまでも変わらないのだなあという絶望感が増す一方なのだ。これまで同様、距離を置き、狂気から逃れる他ない。
毒親の問題というのは本人にとっても苦悩するものだが、往々にして、毒親の親も毒親であることを疑ってかかるとよく当たる。
毒親が私と同じ境遇の時にどう感じていた所までは私と同様であるから改めて書くまでもないだろう。
ただ、親と私は強迫に対する解決方法が違っている。それだけのことという代物ではなく、それこそが本源的な違いなのだと私は思っていて、
この認識の断絶に隔てられているままでは解決は不可能なのだと思う。深い絶望がここにはある。
これは一人の人間としての尊厳・生きる意味の問題である。その場のお気持ちだとか世間体だとかで支配・強迫したところで、尊厳は奪おうとするのは
虐待でしかない、非道い話なのである。(この支配から解放を願うというのはウクライナ戦争にあるウクライナ人も同じ心地にちがいない。余談だが。)
とはいえ、ここまで私を苦しめる親とは一体何者なのであろうか。何様なのだろうか。私の友人もこうした苦労をしているのだろうか。
この答えは私は持ち合わせていないが、私のような立場であればこうして心からの叫びを発せざる得ないほど追い込まれる状況になるかもしれないことを思い
無配慮に批判することだけはしないでほしいと思うし、心にもない世論形成には加担せず、無視せず、信念に基づいて行動してほしい。
なぜなら、この、人間関係の構造は今話題の山上と同じなのだから。
そして、こうしたいきさつを各々が抱えているというのも、出生率低下の副因になっていると思う。勿論、経済的な理由もあるのだろうが、貧しいのは金銭的なものではなく、精神的な側面にも潜んでいることを見落としてはならない。公園に苦情する地域社会というのも良い例である。
またも、「いやいや、私はそれでも産んだ」という上から目線のものも出るだろうが、正直言うが、そんなあなたは自分が毒親の確率がだいぶあると思う。
むしろ、教えてもらいたいのだ、毒親でなく、不信感なく親の言うことが正しいと信じられるその理由が。
毒親に何を聞いても間違えたことばかり教えられていると、毎日が辛いのだ。
お前いくつだよというかも知れないが、それは良い指摘である。いくつになっても親は親、子は子なのだ。
どんな間違った親で、洗脳が解けない親であっても、いくつになっても親のためを思っていることは根底にあって、
そこはしっかり外していないことを思い出してほしい。