はてなキーワード: カウンセラーとは
テッド・チャンの作品を初めて読んだのはもうだいぶ前になる。十数年前、おそらく大学生のころだ。自分は暇さえあれば本を読むといったタイプの人間で、そのころSFというジャンルにそこそこ興味がった。理系だったのもあって科学的な設定に興味をひかれたんだと思う。グレッグ・イーガンといった当時新しく出てきた作家に加え、アイザック・アシモフのシリーズやアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」、ジョージ・オーウェルの「1984」といった古典SFもすきだった。そんな中、ネットの記事でテッド・チャンという新人作家がいることを知った。まだ一冊しか本を出していないが、すこぶる評判がいいらしい。短編集ということで読みやすそうだとも思い、さっそくアマゾンで注文した。もうだいぶ前のことだし、大まかなストーリーも忘れてしまったが、確かにその本が面白かったことは心に残っていた。
時は変わって昨日、つまり2019年大晦日。年末年始は一人暮らしの自宅で過ごすことにしているのでありあまる時間があった。昔と違ってここしばらくは本をあまり読めないでいた。ネットサーフィンでとりとめもなく文字を追う行為が読書の代わりになっていたのかもしれない。そんな中、テッド・チャンの第二作目「息吹」が最近発売されたことを知った。十数年たってようやく新作が出たことに驚いたが、過去の作品にたいしていい印象を持っていたこともあり、Kindle版を購入してすぐに読み始めた。
前作と同様、「息吹」も短編集であり、9作品がおさめられている。ラフな感想をいうならどの作品も面白かったが、順番的には本の最後に位置する「不安は自由のめまい」について語りたい。量子論でいうところの観測による確率の揺らぎによる並行世界が存在し、その並行世界の自分と今いる自分とで会話ができる装置があるとしたらどうなるだろうか、という話だ。ただし、よくあるパラレルワールドものの話と違うのは、並行世界と今いる世界の差が限定されている点だ。「プリズム」という装置を介して並行世界と通信できるのだが、「プリズム」を初めて起動した瞬間に世界は分岐する。「プリズム」は最近普及してきたテクノロジーのため、長くても数年前に分岐した並行世界としか通信できない。量子的な効果はランダムノイズとして作用し現実世界と並行世界を異なるものにするが、数年間というのはノイズが大きな差異を生むにはあまりにも短く、基本的には細かなディテールが変わるのみとなる。では「プリズム」のご利益は何かというと、人は「プリズム」を介して過去の自分の決断を振り返ることができることだ。例えば、今後悔しているような決断を過去に行っていたとしたら「プリズム」で並行世界を眺めてみるといい。もしその決断がノイズ的なもの、つまり一時の気の迷いで行ってしまったものなら並行世界の自分はそのような決断はしておらず、したがって後悔もない可能性が高い。一方、その決断が運命的なものだった場合、つまり自分ひとりの力では変えることができなかったことの場合、並行世界でも同じように決断して同じように後悔しているか、あるいは違う決断をしたけれども結局は同じ結果に収束し、似たような後悔をしているかもしれない。
本作品はこのコンセプトをもとに、アウトサイダーな雰囲気をもつプリズム販売員ナットとプリズム中毒者の面倒をみるカウンセラーデイナの物語を描いている。ナットはもと薬物中毒者であり、恵まれない子供時代の経験があった。現在は堅気の職についているが上司の命令で犯罪に近い行為に関わってしまう。その過程でナットは自分が悪の道を運命づけられているのかと、悩みを持つようになる。一方デイナは誰からも信用を勝ち取るような立派な人で、充実した仕事生活を送っている。しかし、デイナにも後悔するような、トラウマチックな出来事があった。
最初二人の物語は独立して進んでいくが、あるところで相互作用しはじめる。ネタバレを防ぐため詳細はぼやかすが、ナットはデイナに影響されて運命を乗り越えようとし、またナットはその決意としてデイナに贈り物をする。
自分は、その贈り物がとても意外なものだったので驚いたが、読み進めてその意味が分かった時、心を大きく揺さぶられて、泣いた。体が震えながら、涙が何滴も流れた。本の登場人物であることを忘れて、ナットとデイナに心から感情移入した。前に本を読んで泣いたのはいつだろう。下手したら10年も前かもしれない。
本当はもっと語りたいのだが、未消化のため今はこれ以上のことは言語化できない。このような読書体験ができたことに感謝し、感想文を終えたい。
しばらく事務方を続けてきて思うのは、事務仕事なんてしょせん雑務の塊に過ぎないということ。これを軽視したがるやつの気持ちもよく分かる。でも、仕事にアイデンティティを求めたくない自分にとっては(たいていは専門資格や技能をもつ人が職業アイデンティティを強く持っていると思う)、この名も無き仕事が適職だったとも実感している。
いやー本当に20年前に想像した通りだった。もっとも当時は、事務職のような「日陰職」を淡々とやるのが自分に向いているという程度の理解だったのだけど。
だから、自分的にはもういつ辞めてもいいとさえ思っている。ふだんから情熱もやりがいも充実感も満足感もないが、だから辞めたいというのではない(むしろ事務方にはそんなものは一切必要ないと思っているくらいだ)。
そうではなくて、私が思うに、事務方の仕事は属人化したままにしてはいけない。自分がいなくても問題なく回るよう、過不足なく引き継がれないといけない。
どんなことにも当てはまると思うけど、モノでも人でも永いこと関わっていれば、初めはどんなにシンプルでも、細かい細かいノウハウがツタのように絡まりついていく。気づいたときには、いったいどこをどう解きほぐしたものだか分からなくなっている。それをもって、斯界にその人あり、なんてキレイにまとめるのは簡単だけど、じゃあそれ他の人にどうやって手渡していくんですか、って話。それって結局、仕事ぶりとしては二流三流ということなんじゃないの。
そういう、外目から見ればカッコいいけど内輪から言わせればタイガイな人だったみたいな評判を残すことを想像すると、じわりと嫌な気分になる。別に、いい人だったと言われたいというのではない(そりゃ、言われるに越したことはないんだけど)。トータルで見て、自分が迷惑をかける存在だったと思いたくないんだ。
だから先の言い方は「いつ辞めてもいい」というより、「いつ辞めてもいいようにしたい」というのがより正確だ。
「立つ鳥跡を濁さず」。まさにこの一言に尽きる。
あるいは、大学院で担当教授が言っていたセリフ。「その人がカウンセリングを必要としなくなった日には、カウンセラーのことも忘れてしまっているのが理想です」。
なんだかんだで少しずつ役職が付いてきて、立ち回りできる職務範囲も変わってきた。最近だと、社内規約の表記方法に口を出したくなってきている。ただ一方で、ここにきて何か違和感がある。なんというか、やりすぎ、枝葉末節に過ぎるような気もする。
そんなとき(というか昨日)、一通の封書が「宛先不明」として返送されてきた。差出人は恐らく、このあいだ開設した分署のスタッフだ。本署の住所が印字された窓付き封筒のその余白に、分署の住所をハサミで切り貼りしていた。
もーなんなのこれ。自分とこの住所が載った窓付きが欲しいってなんで言わんの。
…と、それを持ってきてくれた後輩の子にグチって、はたと気づいた。
オレ、ものすごく細かいことにこだわる性格持ちだったことを完全に忘れてた。
小学2年生のころだったか。教室の掃除で、皆の机を並べなおすときにユキミちゃんが机を割と適当に並べているのが気になった。「これはここじゃないの、その後ろはこれくらい離さないと」といちいち口も手も出し始めたのだ。彼女はものすごーく嫌な顔をして、「じゃああんたが勝手に並べたらよかたい。私は手伝わんけん」とそっぽを向いてしまった。私は(ああ、こういうことをやってはいけないんだ)としぼんで、人には極力干渉しないようにしようと思ったのだった。
以来、その性格が完全に封印されたわけではなかったが、優先順位を組み立てることができない以上、この性格を全面に押し出すべきではないと思って、なるべく無視するようにしてきた。
それに、あんまり器用な性格ではなかったので、そういう似たような「封印」を自分に幾つもかけるという対応ばかり採ってきた。その結果として、大学卒業も間近という頃には、見事なウスノロになっていたというわけだ。そして尻に火が付くのにさらに10年。対策を打つのに、そろそろ20年…。
話が長くなった。
「封印」は少しずつ解けてきているけど、同時に老化も、有無を言わさずやってきている。今年は「なるはや」で仕事をするようにしてきたが、これからはそうもいかないだろう。これからはより一層、局面も読むことが求められるはずだ。すこしずつシフトチェンジし、最後はきっちりケツをまくれるように準備していきたい。
もちろん、身につけないといけない専門知識はまだまだあるし、より専門家ぽくなっておく職域もある。しかし事務方に就いている以上わたしは、スペシャリストとして振る舞う機会は少ないだろう。というかそんな振る舞いをした時点で、事務方は保身を図る老害とほぼ同じだと思う。
自分の気持ちがいつもくちゃくちゃになっている感覚。気持ちが同時に100こあって、悲しいのと苦しいのと腹立たしいのと…という感じ。自分のことが嫌いで嫌いで、にっちもさっちもいかなくなる。歩くことがままならない。人間、悲しいと歩けなくなる。しゃがんで、波が引くのをじっと待つ。たいてい10分くらい泣けば少し落ち着く。音楽を聴いても、漫画を読んでも、ラジオを聴いても、その作り手を想像し、働いていない自分と彼らとを対比して劣等感に苛まれる。苦しかった。自分の苦しさなんか人からみたらしょーもなくて、実家も太いし理解もあるし病院も通えてる自分のことが嫌いだった。その意味で、不幸であればあるほどよかった。処方された安定剤に効果は感じられなかった。でも安い薬じゃないし、飲み飛ばすのがこわいから頑張って飲んだ。
そうこうしているうちに恋人と別れた。いやな別れ方だったけど、恋愛から遠ざかったおかげで、多少の安定が生じた。カウンセリングも受け始めた。カウンセラーと話すのは苦しいし、泣いてうまく話せないし、お金かかってるのにもったいないなぁってまた苦しくなる。でも、これ以上悪くなったら嫌だなあと思って必死に通った。まだ通っている。
通院より失恋よりカウンセリングより効いたのは、自殺未遂だった。1週間計画を練って、死ぬことだけを考え続けた。1週間と聞くと短く感じるかもしれないけど、自分にとっては果てしなく長かった。死を怖がるつもりはなかったけど、自ら死に飛び込んでいくのは怖かった。自殺は暗くて寂しくて怖かった。永遠の孤独が無限遠に向かって伸びていくようすだった。まあ失敗したんだけど。
根本に「治ってたまるか」という気持ちがあったと思う。自分はとことん不幸であるべきだし、それが美しいんだという気持ちが無意識にあって、そこの欲求が満たされたのではないか。
(境界性人格障害は、人生のある時期における気持ちが不安定な状態のことを指すもので、一生涯続くものではない)
自由意思なんかないなと思う。無意識化に起こった脳の判断にインタープリターが理由を用意する、という営みに、意思とか人格とか見出しちゃうのが人間のかわいくて嫌なところだ。
自由意志を否定する文章を読むと、人間はモラルに反した行動をしやすくなるそうだ。https://www.ncbi.nlm.nih.gov/m/pubmed/18181791/
お互いの自由意志を否定しあったら、もっと優しくなれないかなぁと思ったけど、そううまくもいかないんだろうか。好きで甘ったれてるわけじゃないんだよね、とかって好意的な解釈ができないだろうか。
読んでくれてありがとう。つまんなかった?じゃあね
たぶん私とはやり方が違うので。。。
認知のゆがみを自覚して行動をコントロールする練習の一貫なので許して~。完全断酒派ってけっこう多いようだけど、自罰的だからやなのです。私はharm reductionを目指してます。
日本は諸外国よりも平等であるがために子どもが厳しい立場に置かれにくいというのは同意するが
諸外国よりも表に出にくいのも確か
しかもSNSやジュニアアイドル(お菓子系アイドル)で基地外親が観測されてもスルーされる傾向があるのは先進国では日本だけでは?
日本の現行法で医師/弁護士の守秘義務が解除される場合として、
児童福祉法第 25 条
児童虐待の防止等に関する法律第 5 条 同第 6 条第 1 項・第 3 項)
児童虐待に係る通告)
3 刑法(明治四十年法律第四十五号)の秘密漏示罪の規定その他の守秘義務に関する法律の規定は、第一項の規定による通告をする義務の遵守を妨げるものと解釈してはならない。
とはいえ反社会的なこと言っても実害が確認されなければ傾聴が基本
※カナダについて
通告義務について
・医師、看護婦(士)、歯科医、薬剤師、臨床心理士を含む、ヘルス・ケア専門職
・ユースワーカー、レクリエーションワーカー
・弁護士
刑罰について
上記の通告義務者が、疑わしい子ども虐待・ネグレクトに関して通告を怠った場合には、
通報者は子どもの虐待、ネグレクトに気づいたら、「疑い」だけで通告することができる。この段階では、虐待の疑いについて事前評価と調査を実施0の結果、通告の半分の45%が誤通となるが、逆に表現するとその半分の55%が保護などのサービスを受けている。
http://www.ritsumei.ac.jp/~yamamoto/seminar/03goudou/rits2ss.htm
※アメリカについて
<児童虐待通告法>
各州の通告義務者 約40種ほどの専門職 (特に重要な専門家は、医療関係者・保険従事者・教育関係者・社会サービス関係者・司法、警察関係者)
義務とはなっていない者 家族・隣人・一般人(但しこれらからも通告を受け入れる)
各州の特殊な例 コロラド・イリノイ・カリフォルニア州 写真の現像者にも通告義務(児童の性的な写真に明白に現れているような性的虐待や性的搾取を知る立場にある者)
フロリダ・ケンタッキー・ミネソタ州等 虐待を疑う立場にある者は誰でも通告義務がある
措置 以前に同様の虐待事実があることがわかり、その事実に疑いを持ちながらも通告しなかった通告義務者の存在が明らかになったとき、通告義務者にも訴追が行われる。罰金、拘禁刑の制裁に対応し、行政的には、医師等の免許取り消しまたは停止の措置がとられている。
問題点 監視の網の目を細かくしすぎた。→精神科医やカウンセラーに対しても通告義務を課し、虐待の範囲で不明瞭な法律規定をおいたことから、児童虐待の定義が不本意に拡張され、あいまいなものとなった
http://www.ritsumei.ac.jp/~yamamoto/seminar/03goudou/rits2ss.htm
イギリス
■ドキュメント映画:The Paedophile Hunter・・・文字通りペドを狩る。狩られた者は実際には行為に及んでおらず(逮捕後、釈放もされた)撮影が原因により自殺したが起訴なし。英国アカデミー賞テレビ部門 単発ドキュメンタリー賞受賞作品。なおペドの疑いがある者に私刑を行う団体と支援者がいる模様
■UK-wide operation snares 660 suspected paedophiles・・・存在的な児童虐待犯罪者が一線を超える前(他害する前)にアクションが大事
http://www.nationalcrimeagency.gov.uk/news/411-uk-wide-operation-snares-660-paedophiles
■法律の問題:通報義務があるのでペドがカウンセラーに相談できない事態 (治療拒否ならまだ良い方)
At the same time, laws can also deter them from even speaking to their therapists.
Across Canada, provincial rules require that mental-health professionals must report a patient to authorities if they have reasonable grounds to believe that a specific child is at risk of being sexually molested or exploited.
At the same time, laws can also deter them from even speaking to their therapists.
Across Canada, provincial rules require that mental-health professionals must report a patient to authorities if they have reasonable grounds to believe that a specific child is at risk of being sexually molested or exploited.
■それでは深刻化するばかりだと治療しようとするも、ペドは自閉症または統合失調気味で知能が低めとバッサリ
https://www.cbc.ca/news/canada/virtuous-pedophiles-group-gives-support-therapy-cannot-1.2710160
■法律の問題:通報しないといけないのでペドがカウンセラーに相談できない可能性
Many jurisdictions have passed mandatory reporting regulations for psychologists and other health care providers.
Consequently, when someone who thinks he might be a pedophile comes in for counseling or therapy, the psychologist may be compelled by law to report the person to the authorities.
https://www.theatlantic.com/health/archive/2013/08/what-can-be-done-about-pedophilia/279024/
■通報じゃなくて無害なMAP(minor-attracted person=未成年者に引かれる人)をメンタルヘルスの専門家は支援しようという試み。なお保守派右翼はおこ
http://www.asapinternational.org/index.html
アニメーターは、愚痴愚痴言いながら、自己否定のループにはまっていく人間が多い。周りから能力の高さを買われていても、全く評価されていないと嘆いていることが珍しくない。
感受性ばかりが高まって絵を描いているうちにアニメーターになってしまった。しかしアニメーターは下請け業務である。自己管理能力が問われる職業である。彼らはえがいていた仕事像と必要とされる能力とのギャップに驚きつまずく。
その言動をよく観察してみると、家族関係に問題を抱えている人間が少なくない。要するに、愛着障害によって、自己嫌悪と承認欲求の無限回廊に閉ざされている。
まずもって彼らは自分が嫌いなのである。理想の自分像があって、そこから外れると減点評価。当然、他者をも認めることができない。批評家になる。本人は目指すべき場所を目指しているつもりだが、実際には様々な外的評判を内面化しているに過ぎないことに気づかない。内省する力が残っていない。
彼らには大丈夫感が足りない。いつかやればできる。失敗しても次はなんとかなるだろう。その次失敗しても自分は成長している。そういった楽観を描くことができないし、自己効力感も得られていない。だからものごとに一喜一憂するしかなく、日々のちょっとした不幸を大げさに嘆いてみせたり、ほんのわずかな間だけでも自分を楽しませるためにゲームにのめり込んだりする。
彼らは自分の本当の欲求に目を背ける。理解されたい。愛されたい。しかし理想の自分がこれを許さない。自虐、自嘲。わたしも傷ついているから周りの人間を非難しても許されるはずだ、と他責も辞さない。それがまた内面に対する攻撃になってしまう。
必要とされたい。だから多すぎる仕事を引き受けてしまう。頑張れば褒めてもらえる。自分を褒めてあげることができる。そういう過去の体験がある。
過大な期待を自らに課す。期待は未来の報酬を予測したものである。つまり発生した時点でこころの借金になっている。支払うことができなければ、失望という形で清算することになる。
彼らは自己の能力を冷静に分析しないまま仕事をはじめる。ほんのわずか努力すれば届く目標にすべきである。しかし理想の自分がこれを阻む。伝説的な先人に自らをなぞらえて物語を作ろうとする。先人は目の前の仕事を終わらせ続けただけである。
人生は現在の連続である。人生の物語を先に綴ってしまうのは、資本が十分にある人間がやればいいことである。資本というのは、金融資本、物的資本、社会資本、すべてである。
彼らに必要なのはカウンセラーなのかもしれないが、それ以前にやるべきことがある。
自分の能力を遥かに超えた仕事に着手しないことである。身に付けるべき能力がないなら身に付けることである。仕事はあなたを成長させてくれるものではない。期日までに終わらせるものである。
自己実現は目的である。金融資本はその必要条件にあたる。条件を満たさずに走り出すのは愚かである。自分が嫌いだから、安すぎる報酬でも満足したふりをする。自分を愛していれば、そのような仕事を請ける道理はない。
過大な期待、経済的圧力、惰性。これらは仕事を続けるうえでのモチベーションを下げこそすれ上げるものではない。大切なのは、作業そのものに喜びがあること、仕事に意義を感じること、その先に描く未来に可能性を感じることである。これら内発的動機を、外的要因に振り回されないように用心しなくてはならない。気がつけば、日銭を稼ぐために生きがいを殺している場合もある。
繰り返すが自他問わず過剰な期待には要注意である。評価の前借りは認知の歪みを生む。自分は褒められて当然の仕事をするべきだと考えはじめる。名声欲である。認知が歪んでいると肯定的フィードバックを当然のものだとみなしてしまう。よって脳は報酬を受け取ることができない。得られた場合にも期待はさらに膨らむ。麻薬と同じである。
謙虚さが必要である。謙虚さは自己否定ではない。驕りがないということである。謙虚さは内省なくして存在し得ない。内省は自己像と現実の一致にある。つまり現実の自分を受け入れるところからはじまるのである。
作画は大変な能力の要る仕事である。能力不足であれば、仕事を請けている場合ではない。街に出てスケッチでもしているべきである。生活していくだけの金銭的報酬が得られないならば、趣味に留めるべきである。
ところで、精神が不安定になる原因は睡眠、運動、食事、社会的繋がりの欠如が上げられる。
まず寝ることである。睡眠を削ってでも対応しなければならない仕事などアニメには無縁である。放送が落ちても人が死ぬわけではない。救急外来で働く看護師ではない。業務内容は、決められた期日までに自分が請けられる数のカットを納品することである。睡眠不足で仕事に臨んでも成果は下がる一方である。
スケジュールを立てる際に、1日から睡眠時間を引くことを忘れてはならない。寝る時刻になったら、どれだけ惜しくても寝る習慣をつけることである。
寝るために必要なのが運動である。全身に血液を巡らせる習慣がない人間は精神虚弱になって当然である。本当なら1日2時間は日の光を浴びて運動するべきなのである。人間という生き物は部屋に引きこもっていると具合が悪くなっていくものである。
水泳、散歩、ヨガ、プランク、スクワット、リングフィットアドベンチャー。なんでもよい。座り込んでいるよりマシである。
もうひとつ、精神虚弱の原因として血糖値の乱高下が考えられる。
まずカフェインを絶つことである。白砂糖を控えることである。血糖値が急速に変化すれば精神的変化に見舞われるのは当然である。おなかがすいてないている子どもと変わらないのである。
3時間毎に低GI食品を摂取すればよい。おやつにケーキやシュークリームをやめて、おにぎりとチキンにする。コーヒー、緑茶をやめて水か麦茶、ハーブティーなどを飲むよう心がける。依存性のあるものを遠ざける。食生活を根本から見直さない限り、健全な精神は得られないであろう。
最後に、社会的繋がりは人間の本能である。相手が制作進行だけで、しかもそれが精神不安を煽ってくるような未熟な人間なら、たちまち追い詰められてしまうだろう。
大切なのは成熟した人間と多くの繋がりを持つことである。他人を利用したり平気で嘘をついたりする人間と付き合ってはいけない。
仕事が全てではない。趣味を増やすのもよい。ただし寝ている間を除けば1日の半分以上を費やすことになるのだから、わずらわしい思いはできるだけしないに限る。仕事仲間は互いに理念があってそれを語り合える人を選ぶべきである。寂しい人間同士が集まっても何にもならない。求めていないことを互いに共有することはできないのである。
また仕事以外の時間を大切にすることができれば、業務上のトラブルに立ち向かっていくだけの精神的体力を確保できる。
1日中仕事に溺れるならそれだけの信念と根気が必要である。仕事ばかりしている人間は大抵仕事自体が好きである。情熱が桁違いである。うつになるアニメーターには無縁の話である。
向き合って、本当にそうなのか、被害者の家族がどんな思いをしているかと話し続ける。そうすることで苦しみ、葛藤が始まり、変わっていく人もいる。それこそが償いだと思うし、理解するまで生きてほしいと思って支援に関わっている」。
https://news.livedoor.com/article/detail/17524788/
刑罰とか生活で脅して意見を強引に忖度で言わせてるだけだろう浅原や金正日となにも違わない
就職活動の時、自己分析をした。しかし、自己分析を通して発見したのは、「過去の自分が他人に思える」「自分の気持ちがわからない」ということだった。しかし、それらしいことを書いて出したらうまくいったので、「この感覚は私の生活上問題ではない」と判断した。
実家に帰省した時も同じような感覚に襲われた。昔自分が書いたものが他人のものに思える。高校に遊びに行っても、どこになにがあるかは覚えているのに、ここで3年過ごした自分を実感できない。
それは、私が自身の問題の根幹を成している過去をすべて否定し、目をそらしていたことのあらわれにほかならなかったのだと、今は思う。
浮気をして、恋人を傷つけた。私にとって、そばにいる人を何らかの形でどん底に突き落とすことは初めてじゃない。
何が恐ろしいかって、同じ過ちを繰り返すところだ。今度こそ大丈夫、私はまともになった、そう本気で思い込んでいた。それがすべて間違いだったと、こういう形しか気付けなかった。
このことを友人に話したところ、「同じ過ちを繰り返すってことはなにか必ず原因があるはずだ。なんでそうなったと思う?過去について考えたことある?」と聞かれた。
この質問は私にとって目から鱗だった。私は現状の問題を過去のせいにするのは、甘えで逃避だと思っていたからだ。だいたいのことは気合で乗り切る。つらくても明るく振る舞う。それが正しいと思っていたから、過去のことなんて、いつもいいことしか振り返らなかった。
「私は親に愛され、なにひとつ不自由なく育った。少し問題はあったけど、それを乗り越えていける家庭だったし、良いことを学んだ」
「私はパニック障害を発症したが、それを乗り越えることができた。そのため、パニック障害であったことは過去のことだ」
「私はかつて多くの人を身勝手に傷つけたが、今はもうしない」
「私は友人たちと楽しく生活することができる」
「私の人生は豊かで、今までの失敗はそのためにあった」
マントラを唱えるように私はこれらのことを刷り込んだ。後ろ向きになることは逃避・甘えであり、常に未来をよりよくするために過去は全て封印すべきだと思っていた。しかしそれが重大な過ちであり、結局は自身の抱える問題の根っこを放置して、腐らせていた。
私は過去の自分を強く否定して、現状の自分を肯定しようとした。その結果、過去と現在とのつながりが断ち切られ、自己の連続性を失った。
私は過去の自分に対して冷たい目線を浴びせ続けた。それが前に進むために必要な「自分に対する厳しさ」であると信じて疑わなかった。
カウンセラーさんはこう言った。「あなたは、過去の自分と同じ目に今遭っている人が目の前にいても、その人に対して自分の過去に向ける厳しさを同じように向けるの?しないでしょう?他人にしないことを自分にしてはいけない、自分の気持ちを抑えるから他人の気持ちにも鈍感になる。過去の自分を抱きしめてあげなさい」
抱きしめる?過去の自分を?抱きしめるに値しない、罪深い自分を?それがなんの解決になるの?
その瞬間、頭の中にはっきりとヴィジョンが見えた。高校生の自分。中学生の自分。小学生の自分。こんなことは初めてだった。
彼らの報われない思いが、私には耐え難かった。それは、私の根っこだったから。それを無視すれば、健常者としてやっていけるんだと思っていた。
小さい頃について、思い出すのは、お母さんが私のことを「かわいい」とたくさん言ってくれた記憶。でもそれは、珍しいことだったから心に残っていたのかもしれない。彼女は病に伏せっていて、感情の起伏が激しかった。私は、彼女は彼女なりに努力し、苦しんでいたから、あのとき優しくしてほしかった、と求めるのは彼女を否定するようで嫌だった。そんな感情を持つ自分は優しさにかけていると思っていた。
カウンセラーさんは「あなたの言う通り、お母さまは悪くないし、仕方がなかったことだけれど、あなたが寂しいと思った気持ちまでは否定してはいけない」と言った。まだ腑に落ちていないし、怖いからあまり考えたくない。
弟が生まれた。年の離れた、かわいい弟。私は弟の世話にのめり込んだ。自分の中で初めてわいた、血の繋がったまだ弱い存在へのとめどない愛情。それは劇的で、強烈だった。
そのとき子供なりに思った。「私は愛されるんじゃなく、愛す側なのだ」と。愛をもらう側じゃなく与える側の使命があって、こうなっているんだ、それはきっといいことだ、と納得した。弟は、ほんとうに、ほんとうに可愛くて、たまらなかった。
中学生の頃に、特発性過眠症になった。居眠りを繰り返してしまうが、成績は下げたくなかったので、勉強を頑張った。けれど、職員室で「そんな病気ほんとうにあるの?」と笑われた。意欲・関心・態度は最後までBだった。ジョーカー観た時、警察にそんな病気あるの?ってジョーカーが言われるシーン、その時のことを思いだして泣きそうになったな。
話は飛んで、あれは高校1年生の頃だった。突然私はパニック障害になった。ほんとうに、突然だった。過眠症は薬も処方されて改善に向かい、友達もできて、彼氏もいて、部活も楽しくて、とてもいい感じだったのに、急にすべてが壊れた。
母は私の発作を思春期特有の不安定さとみなし、「病院なんてとんでもない。寝て治しなさい」と言った。家にいてもずっと不安で逃げ場がなかった。
今なら、彼女がなぜそんなことを言ったのかわかる。自分と同じ運命をたどる娘を「異常」とみなしてしまえば、自分も異常者になってしまうから…だから彼女は悪くないんだ。彼女は精一杯やっていた。
でも私は、ほんとうは、とてもとても辛かった。誰も味方がいなかった。とうぜん高校生同士の恋愛なので彼氏もいなくなった。部活もやめなきゃいけなかった。友達とも接することができなくなった。なんで?とずっと思っていた。ようやくかかりつけの小児科でソラナックスを処方されたが、ずっと不安定だった。助けてほしい、助けがほしい。
私は、これらの気持ちを全て否定することになった。なぜなら、私はこの感情に振り回された挙句、過ちを犯したからだ。感情が暴走するから誤る。ならば、感情をなくせばいい。そう思った。それはある程度は上手くいったのだ。
パニックは昼夜関係なく何度も私を襲った。安心できる時間はひとつもなかった。私が助けを求めたのは、男性だった。性行為をしている間もずっと怖かったが、ひとりぼっちよりましだった。
「助けてあげる」と言われてついて行ってしまった。いけないことだとわかっているのに、やめられなかった。次第に、私はこの関係を肯定するようになった。生きるために必要なんだ、間違っていないんだ、と思い込むようになった。
そこから、私は人の感情を利用する癖ができた。「女」であることを供給すれば、愛されるんだ、と思った。小さい頃可愛がられたかった気持ちや、パニックで孤独だったこと、過眠症という理解されづらい病気も、すべて恋愛感情といフィルターを通してならどうでもよくしてくれるみたいに感じられた。私が弱ければ弱いほど、みんな心配してのめり込んでくれた。
私は当然まともな関係を築けなかった。急に嫌悪感を抱いたり、うっとうしくなったりして、相手を突き放した。悪いことだとわかっていた。私の行動は変わらなかった。
大学生になってうつ病になり、ますます生活が困難になって、当時の恋人にかなり依存して生きていた。生活能力は皆無だった。そのことで自分を責めた。やつあたりもした。彼に世話をされるたびに、「私が何もできないことを本当は馬鹿にしているくせに!」と泣きじゃくって困らせた。認知が歪んでいた。彼を突き放してまた複数の人間と関係を持ち、試し行為を繰り返し、失敗し、変わりたい、と何度も思い、変われなかった。
私は、これらのことに一番蓋をしている。不安定だった自分も全て蓋をしている。この経験をどうこう思う以前に、なかったことにしたがっていた。精神的に不安定な自分も、全て否定した。
だから私は変わらなかった。表面上はニコニコとしていても、ずっと影は付いて回っていた。「私は大丈夫、もうまともになった」何度も何度も思い込んで、実際それは、途中まではうまくいっていたように錯覚された。ほんとうはずっと、ゆがんでいたのだ。
うつ病が治って、しばらく安定していた。この間に、社会生活での困難はほとんど解決された。ようやくまともになってきた、と思った。やがて恋人ができた。弟に感じていた愛情に近いものがあった。なんでもしてあげたかった。でも、相手を大切にしていたつもりで、その根底にはやっぱり見捨てられたくないという気持ちがあった。
私は過去を笑い飛ばしながら話した。こうやってあったことを矮小化して、強い自分を示したかった。そんな自分に恋人が眉をひそめているのにも、私は気づかなかった。
浮気が発覚して、「化けの皮が剥がれた」と彼は私を表現した。その通りだった。私は元から人を愛せないのだ。無理をして軋んだ自分を埋めるように、酒を浴びるように飲み、過食し、そして再び不貞行為をした。私は何も変わらなかった。それどころか、より残酷な化け物に進化した。
人と親密になり、尽くしてやり、コミュニケーション能力を磨き、知識を貯め、あの手この手で、恋愛に限らず、すべての人間関係を求めた。たくさんの友達を作ってそばに置いた。とても満たされていた。
このことで、もっとも近しい人を最悪の形でどん底に突き落とす自分の加害性は、より際立つ結果となったと思う。
私はずっとずっと前から自分の加害性に気づいていたのに、愛されたくてそれを隠す努力ばかりしていて、加害性そのものをどうにかしようとは思わなかったのだ。勉強したり、化粧を覚えたり、流行りの歌を歌えるようになったり、接客でコミュニケーションを磨いたり、そういったことが正しい努力だと思っていた。違った。しかし、努力しているから大丈夫、私は治った。もうひどいことなんてしない。そう慢心した。
不安定な時は一瞬で滑り落ちるようで、気づけば元の木阿弥だった。
そういえば、「コンビニ人間」について彼と話した時に、意見が真っ二つに別れた。彼はあれをバッドエンド寄りの解釈をして、私はすばらしいハッピーエンドだと思ったのだ。あんなに素敵な話はないと思っていた。リトマス紙のように、私たちの住む世界がまるで違うことを、あの小説は示していた。
カウンセリングや友人との対話を通して、私にとても似た精神疾患があることを教えてもらった。17歳のカルテのスザンナと同じ病気。17歳のカルテを見た時は、スザンナと私は全然似ていないと思ったし、その時興味を持って調べてみた時も、こんな人もいるんだな、と思っただけだった。
真夜中のパーティのシーン、スザンナのカルテにはこう書いてあった。
「自己像 関係 気分の不安定。目標不明確 衝動的。自傷行為 カジュアル・セックス。反社会性と悲観的態度が顕著である」
どうしてこれをみてさえ、あの時の私は、これが自分と似てないと言えたんだろうか、何だか笑ってしまう。
それはやっぱり、自分とぜんぜん向き合ってなかったし、そもそも自分がなんなのかもわからなかったからだと思う。
実際のところにているだけで全然違うのかもしれないし、わかったところでなにかが解決することでもない。
ただ、私が住んでいる、この無限に先送りされる世界感は、どうしようもなく加害的で、ちゃんと生きるためにはそれなりの時間と、努力と、誰かの知恵が必要なタイプの問題だったということはわかった。それを矮小化して、根性論を自分に押し付けて、ひとりでやろうとしたから、私は自分の歩く道と、そこにたまたまいただけの罪のない人を焼き払ったのだ。
私は怖い。友達はいまでも私に寄り添ってくれるが、友達がわたしに「あなたの好き」と言ってくれる部分さえ、もしかしたら、こうした歪みや病理の表出でしかないのだとしたら?すべてがひっくり返ってしまう。私ってなんだろう。
私にチャンスはもうないかもしれない。チャンスがあったとして、それに縋る資格すらないのかもしれない。私はそれでも、まともに誰かを愛せる自分になりたい、と、まだ、こんなになってさえ思ってしまう。
くじけそうになったとき、自分がわからなくなった時に戻ってこれるように、増田にそっと流す。
対人関係、自己像、感情などの不安定性及び著しい衝動性の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。
以下のうち5つ(或いはそれ以上)によって示される。
1. 現実的に、又は、想像の中で見捨てられることを避けようとする 「なりふりかまわない努力」(見捨てられ不安)
2. 理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる、不安定で激しい対人関係様式
4. 自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも、2つの領域にわたるもの
(例:通常は2~3時間持続し、2~3日以上持続することは稀な、エピソード的に起こる強い不快気分、苛立たしさ、又は不安)
しゅーかつって心病むよね。
おしゅーかつしたくなくて理系来たのに、理系も資格系でなきゃ結構普通に就活するのね。
面倒なのでフェイクもなく言うと化学専攻のM1で、まあ学歴フィルターには引っ掛からんだろくらいのそこそこの大学で、ラボの卒業生のメインは化学業界で総合化学メーカーの研究開発なんです。
まあ定番にそれかなーという思いは8割方あるのですが迷いもあって。
私は本当に研究開発に向いているのだろうか、という迷いがどうしても出る。
今研究室での実験をしまくる生活は超楽しいけれど、とっても好きではあるけれど、じゃあ活躍できているかと言われるとそんなこと無いような気がする。
これも気のせいなのかな?ちゃんと活躍できているのだろうか。活躍という言葉は違う気がする。
学部時代の成績があんまりよくなかったコンプレックスはあって。とはいえ真ん中くらいだけど。少なくともうちの研究室は学部時代の成績はマウント材料になれる。
それなら化学あんまり関係ないフィールドの方が気にせず過ごせるのかな?みたいな思いもある。
首席みたいなラボの先輩に比べると全然知識が足りないなぁみたいな思いがある。
でも今の私の経歴で入りやすそうなBtoBメーカーが他に何なのかは分からない。(BtoBがいいという強い思いはある。製薬や化粧品や食品は行きたくない。入りにくそうだから。)
ほら、いるじゃないですか。ああこの人は研究者向きだわ、みたいな人。うちのラボでいうとWさんとかYさんとか。私そういうタイプじゃないし。そういうタイプになりたかった。
自己分析が足りないのだろうか。足りないって同期には怒られそう。どうやったらいいの???
自分を四字熟語で表すと猪突猛進だな、と思う。実験のかけ方に丁寧さが足りないな、と思いつつどうやったらいいのか分からない。
あと傾向としてはADHD。今日も乗る電車を間違えた。5年も通っているのに。実験も何かミスをしないかとひいこら言いながらやっている。
ラボの中で、ラボの他の人と比較して私が優れているところって何だろう、無くない???愛想がいいところ?そのくらいじゃない??研究開発に要らなくない??
あ、お仕事好きアピールは欠かさず出来るよ!住めば都だと思える力は高いと思うから!僻地に飛ばされても他の人よりは多分腐らずやるよ!あとまあ人並みで申し訳ないけど朝から晩まで楽しくゴリゴリ実験する体力と根性はあるよ!
自己PRが書けない!!学部時代まともに過ごしていないから!!!
実験の何が楽しいって私は計画を立てた実験が計画通りに進んだことに一番快感を見いだす。大体実験は2,3個同時進行でかけるんだけど、反応と精製がいいかんじにどれもストップせず流れている時に一番快感を見いだす。ソシャゲのライフ管理が上手くいっているときと同じ快感。
それで研究開発でいいのだろうか??違うんじゃないか?でもだとしたら何??
あ、そりゃあ分かりやすい成果とか、これは世界で私だけが作ったとか、そういうのも快感ですよ。
上手くいかなかったときの条件検討は未だに得意ではない。過去の事例からのパターンマッチングでやっているからいけないのかな。いや、でもまあ大体こういうのは上手くいきそうな他の論文を見てその通りにやってみるもんだよね。まだM1ならこんなもんだといいな。
私が出した実験データによって他の人の研究が進んだときもとっても嬉しい。
研究室にいるときはこんな実験くそやりたくねーと思いながらやってるけど、他人に実験楽しい?って聞かれたら超楽しいって言う。なんでだろ?
まだ実験が上手くいかなかったときに自分の人格を責めてしまう思考回路は持っている。単純に生きづらいので改善したい。
理系の癖に論理的思考力が弱いのではないか?みたいな思いによくかられる。研究概要がちっとも進まない。
くだぐだ語りました。いつもこういう悩みを言うときも論理的にまとめられない。だってメインは私が不安だということを聞いてほしい、それでできたら君は間違ってないよって言ってほしい。こんな論理的でない女っぽい思考回路が嫌だ。理系の癖に。
いつも思う。誰かにお前はこれが向いているんだからこれやれよって言ってほしい。こういう他責思考は良くないんだろうな。上手くいかなかったときに他人のせいにするから。
キャリアカウンセラーってこういうメンタル的な話って聞いてくれるんだって?ES添削でしか使ったこと無いけど、これ印刷して持っていったら有用なアドバイスくれるかしら。でも会ったこともない学生に「私は研究開発向いていると思いますか?」って言われても困るよな。やはり辞めとこ。時間もったいないし。その分実験しよ。
この増田がカウンセリングを受けるとかポジティブな方向に進んでいっててよかった………。
カウンセラーとか医者は各地域の精神保健福祉センターに電話すると教えてくれるから、調べるのが面倒だったりどこがいいか迷ったら連絡するのもいいかもしれない。
今まで号泣してなかったようにするようになったってあたりからは、怒られることによる二次障害(鬱や適応障害なんかのその他の気分障害)も起きてると思われるけど。
忘れたふりしてやらない、というのも先延ばしの合理化の一つでしかないと思う。
課題出されるのは高校大学社会人と続いてくわけで、自分の中での向き合い方を身につけるためにも対処を始めるなら早い方がいい。(治療といっても治るわけではないので、自分の特性との付き合い方に慣れていく、という方法しかない)
当然親御さんであるあなたにとってもそう。苦手を手助けする必要はあると思うけど、全部やってあげるってのは間違っているし、怒鳴りつけるのも勿論違う。
正直ムッとするだろうが、あなたの接し方も正しいとは言えないので、お子さんと一緒に医師やカウンセラーの指導を受けることをオススメします。