はてなキーワード: エクスキューズとは
・私は、私が気に食わないものに文句を言ってもよい。「直接」言ったわけではないので、長文で貶してもOKである
・私はエッチな絵が好きだ。私はAKAGIを支持する。なので、お前らはAKAGIに「直接」反論してはならない。私が普段我慢しているからだ。それに、AKAGIが批判されると私が気分を害するのだ。だから黙るべきだ。なぜ黙らないんだ。なんて野蛮な奴らだ
ということでしょうか。
こちらの主張は変わりません。自分は意見をいうけれど、相手方には認めない点はやはり矛盾していますし、直接かどうかはあなたに都合のよいエクスキューズとしてしか機能していないからです。
あなたは非常に独善的かつチャイルディッシュで、自分と異なる価値観を持つ人格を尊重できていないとの印象も変わりません。特に、直接的に言っていないから私は良い、の理路がわからない。何だその自分ルール。
消費者には企業に対して意見を言う権利があると思います。気持ち悪いなら気持ち悪いと言っていいです。あなたがそれで気持ちを害したのもわかります。感じたことを増田に書いてももちろん良いでしょう。ただ、そこにかけるのは「私は気持ちを害した」というところまでですよね。自分が意見表明する権利だけは自分に都合のよい範囲でOKと線引きをして、そこからはみ出した気に食わない主張だけを論う、恣意的な条件設定も含めて、やはり子供染みていると思います。
か
私は不平があっても言わないので、あなたも言わないでほしい。
のどちらかしか態度として取り得ないでしょう。
ところで、ブラック企業を労働基準法で縛って労働者を保護することは、限界まで身を削って働きたいワーカーホリックの価値観を否定しているのでしょうか。長時間労働を悪だというなんて、ワーカーホリックの私を否定するな。ブラック企業への批判も直接するな。でも間接的ならいいよ。(なんで?)
私は死ぬまで働きたい。私は自分の価値観を否定されたくない→なのでお前らは直接ブラック企業に文句言うなよ
が一直線に繋がっているからおかしいのです。前者の気持ちは尊重しますが、後者は受け入れられません。社会はあなただけのものでもないし、我々はあなたとは異なる個別の意思を持っているので、各々意見表明します。これからも。おかしなことをする企業がいれば、労働者として、消費者として批判をします。批判の内容はあなたの価値観と異なるかもしれませんが、だから何なのでしょう。何ら悪いことではありませんし、責められる謂れもありません。あなたに許可を取る必要もないことです。
カナメが「美大生の子は絶対に食らいついてモノになる」と確信があり、そう確信できる程の人を見る目があり、くらいつかせるだけのカリスマ性があるようには描かれてないからモヤるんだな。
カナメは「人を見る目がある」って自分で言ってるけど、少なくとも私には特にそう思える描写はなかった。
むしろこのあとの展開としては美大生の子が潰れそうになって、カナメが自分の自信満々の曖昧なダメ出しの仕方ではムリで、どうしたらゲームの世界観を共有できるか悩む話になってもおかしくないとすら思った。
(年寄りなのでたとえが古くてゴメンだけど)今どきは月影先生とか宗像コーチみたいに「才能を見出す眼力あるカリスマ」って描き方は流行らないんだろうね。宗像コーチなんか今見たらけっこうなブラック上司だけど、「岡ひろみは一流のテニスプレイヤーになる」という信念は読者にガンガン伝わってくる。
でも残念ながらカナメは「謎の自信でイキってる人の予言どおりにうまく行って結果オーライ」のように見えてしまった。うまく行ったのが偶然ではなく見る目があったからだというのが納得できなかった。
前作を読めばわかるのかな?
(もしカナメが運任せでいい人材の獲得を目論んでて、そのためにエピソードにならない潰されたバイトの死屍累々、「あー、見る目曇ってましたかね?まぁそういう殺伐とした業界ですから、ね?フフフ、いいゲーム作るためにはそんなの構っちゃいられないんですよニッコリ」ってキャラならむしろ読みたいかも)
スパムをかいくぐって他の人の書いたあの漫画についての文を読んだ。
「カナメは人を見て、褒めた方がいいメガネの子は褒めるし、美大生の子は世界観の説明を突っぱねて自発的に表現するタイプとわかってやってる」と書いてあって、うーーーん、そうなのかー、そう読めるのか、私は読みが浅い…?となってる。
でもさー、美大生の子は「何でも描ける、世界観は聞かなくていい」と確かに言ったけど、そして読者には勝者になるキャラだってだんだん伝わるけど…カナメがそれを見通してる…ように感じなかったなあ…「潰れたらそれまでですよ」と言ってもおかしくないと感じる。
メガネの子に対して褒めてるのも、本当に素晴らしい音楽ができたとも取れるしコントロール下においてるとも取れる。どっちなのかを読者に明かさない演出なのかもしれないけど…
うん、カナメが他人をコントロールする人とするなら、もっとわかりやすくサイコパスみがないと私には納得感が持てないや。
また追記
この漫画が見るからに熱血で友情努力勝利のガワだったら、あまり気にならなかったかもしれないな。プライドと表現欲のある美大生に奮起をうながす、煽る描写として「普通」は成立しそう(好き嫌いはあっても)。その場合は、「普通」と言われてぐぬぬってなる美大生を見てニヤリと片眉をあげるくらいのあざとい描き方、カナメのモノローグで(オレは信じてるぜ、お前はこんなもんじゃねえ、本気を…お前の表現を見せてみろ…!待ってるぜ、美大生ちゃん!)くらい暑苦しいとわかりやすい。
でもそういう漫画じゃない。エッセイ漫画に近いガワで、淡々と、実際のゲームクリエイターベンチャーはこんな感じなんだな、と私のような一般人は思いながら読むから、現実ならありえねぇって反応になっちゃう。医療ドラマに医療関係者がツッコミいれちゃうみたいに、ゲーム関係者ならなおさらツッコミたくなるだろう。
もし、俺たちTUEEE!ナカーマ!をやるのならもう少し「これはファンタジーですよ〜」ってエクスキューズがほしかったなあ…。
元増田です。
能動的行動/受動的反応 という言葉は、説明せずに使うには雑な部分があって、それを「一次創作(オリジナリティ)/二次創作」に対置するには、かなり間を埋めないとならなかったですね。反省。もうちょっと詳細に書き下したいと思います。
という2変数の式を想定しました。同人的二次創作においては、キャラクターは既知のもの、いわば流用物であり、さらに学園パロなどであれば、シチュエーションも流用物なんですね。この、「だいたいのものが流用物で出来ているつくり」が、ある種の巨大コンセンサスへの従属性を帯びる要件だと思うんです。
実際の創作(一次・二次を問わない)においては、式が2項で出来ているなんてことはなく、
と、変数は多数あるわけですが、この多項式におけるオリジナリティ成分の占める率が高まっていけば、一次創作と見なされる成分も増していくのかなと。そして、例えば、「オリジナルな世界で、オリジナルな物理法則が動き、オリジナルのキャラが動く」のであれば、それはもはや「キャラクターのリアクション=反応を描写する二次創作」ではなく、「キャラクターがアクションする=行動する舞台すらまとめて整える一次創作」みたいに(私には)感じられる。逆側から言い換えると、反応の根拠たる外的要因もすべてオリジナルで用意してようやく、「キャラクターが能動的に行動した」と言えるだけの一次創作性を獲得できるのではないか。
逆に、同人活動的二次創作においては、「原作から《ある程度》外れないこと」、すなわち、原作そのままっぽさをキープしていることが当然に重要で(だってファンアートだし)、だとすると、変数に代入するもののオリジナリティ成分を増やしすぎることは決して良いわけではないんですよね。したがって、多数の変数には、ことごとく「みんながよく知っている例のアレ」を放り込むほうが目的に添うわけです。繰り返しになりますが、学園・現代・閉じ込めてみた・幻想郷シリーズなどはシチュエーション変数によく利用されます。
大多数の変数を流用物にすることで巨大コンセンサスへの従属性が形成され、その「従属性」は、主たる原作が外部に存在することを暗に示すことができます。だったら、同人的二次創作においては、従属性はむしろ持っていたほうが良いものであり、オリジナリティ成分の導入は控えられるでしょう。仮にオリジナリティを導入する場合はある程度まじめに筋道を立てて創作しないと、ただ原作から離れて好き放題やっただけだわ、となり、それはファンアートではなくなるので。
……とここまでくると、言及しなきゃならないのは昨今隆盛の異世界転生ものですよね。異世界転生ものでは、上の式の「大シチュエーションA」の部分に共通性があることから「異世界転生」ジャンルというものが確立するに至ったわけですが、だからこそ、「どんな異世界なの?」「主人公の個性(活躍できる分野)は?」という変数にはタフな固有性=ユニークさ(=オリジナリティ成分)の導入が必要になってくる事情があるように見えます。
あらためて、「双方を含む一次創作も二次創作もあっていいしあるんだけど、最低限要求されるのはそれぞれ違う」という文に答えると、
という感じでしょうか……
書いてみて思いましたけど、二次創作アレヤコレを語るのって、言葉の定義の定め方や設計がめちゃ大変ですね。書き下しがうまくいってますように。
「特別なもの」「他とは違うもの」として区別するのは、それだけで問題かな?
少年マンガだって少年らだけが読むものとして区別しているのは、問題ってことになってしまう。
自分はゲイだって認識してるのは、男性だけを特別に性的にみているってことになっておかしい、って言えてしまう。
誰が誰を好きになったっていいと思うし、誰が何を好きになったっていいとおもう。
問題は選好が誰かを排斥する時に起こる。排斥された・されそうな誰かは不合理な選択で不利益を受けている、って文句を言える。
腐女子の支援が私利私欲に基づいたものだとしても、セクシャルマイノリティを助けたい善意が独立してあってもおかしくはない。よしんば善意さえなくても、役には立つ。その場合でも味方ヅラしてもらうのはむしろ好都合でしょう。
ところで味方ヅラすんなは無礼な指図だね。他人に品行方正を説いておいて、自分は戯言をエクスキューズにして相手側の動機を一方的に邪推してるのに「カテゴライズして」「勝手に食い物にしておいて」。アンタは一体何様なんだ。食い物にしているのはそっちじゃん。
いや俺は男でポリコレ肯定派だけどある面では一理ある話ではあると思うよ
ただしBL自体が男性やLGBTの実態に即してないことも多々あるファンタジーであることも事実だから、BLをゲイが書くべきとも思わない、だって嘘っぱちだから
あんなある意味漂白されたような世界を書けるのは当事者じゃないからこそだよ
だから結論としては腐女子はアライぶるんじゃねえというだけになる
BLを楽しんでる男性もゲイもいる!って反論はいや不快に思ってる男もゲイもいますけどで終わりだし、結局BL自体の加害性を拭うことはできない(無差別にカップリングすんのと胸凝視すんのの何が違うんだ?って話)
その反省のための「ファンタジー」ってエクスキューズなはずなんだが開き直ってるやつが多いというのは全くもってそう
ただ、女性は虚構を書いてはいけないという話になるなら、それはフィクションの否定だよね
現地のシンボルと自分が一緒に写っている写真をSNSにアップしたかった
とにかく「多くの国に行ったことがある」とみんなに証明したかった
本当は外国(特に発展途上国)など微塵も興味がないし、証拠写真を撮影するためだけの旅なので全く楽しくない
ただなるべく多くの国をできるだけ安く回って、証拠写真を撮影しSNSにアップする
それで人間を成長させる何かを得たわけでもないし、偉くなったわけでもない
今思えば病んでいたが、やめていい理由が見つけられなかったので止められなかった
途中で止めたら「あれ、もう海外旅行にいく余裕、なくなったんですか?(笑)」と言われそうで怖かったから
でもやっと、止めてもだれにも責められない真っ当な理由ができた
コロナが流行し「海外に行けなくても仕方ない、むしろ行くやつは非常識」みたいなムードができて
増田に書く用に文章を書こうと思うとさ、エクスキューズから書きはじめちゃって肝心の本文の頃には力尽きていることが多い。
エクスキューズって、例えばにわかなので違っていたらごめん、とか、個人的な体験なので一般に当てはまるか分からない、とか、そういう文言ね。
いつ頃からか、歌い手とか生主とか実況主とかのアマチュア活動家が、自分の顔をイラストレーターさんに描いてもらってキャラクタ化することがそれなりに見られていたと感じる。
(私は動画配信の文化、特に2014以降は、かする程度しか知らないので、界隈の人に言わせれば全く検討違いかもしれない。そしたら申し訳ない、とエクスキューズをしておく。)
界隈にちっとも詳しくないので具体例が思い付かなくて申し訳ないのだが、自分がそう感じるようになったきっかけは「すとぷり」を知った時である。たしか最初目にしたのは2016年あたりだったかなぁ、面倒だから調べないけど。
すとぷりとは、どうやら歌い手出身の男性ユニットで、顔出しはせず、自身らを型どったキャラクタイラストを使用しているようだ。
このグループに関して私は名前とたまーにバズって流れてくるツイート程度しか知らないので、違っていたら申し訳ない。
顔出し無しで活動している歌い手は大量にいたが、こんなにもイラストを全面に押し出してくるのはあまり見なかったな、珍しいな、と思ったのを記憶している。
他にもいくつか似たような自画像付き顔出し無しの人をいくつか見たような気がするが、名前はちっとも思い出せない。
このへんの文化に詳しい人の、界隈を俯瞰した思い出語りとかをいつか発掘したいが、増田にはあまりいなさそうなのでどこで探すのがいいのかあぐねている。
で、ここからここから先は蛇足なのだが、時代は流れてVtuberについて、企業系などのトップ層はともかく、底辺には往年だと生主みたいな人がガワだけ被ってやってるだけだろうということはよく言われていると思う。ソースはどこかで読んだ増田。
この間たまたま流れてきた男性Vtuberのゲーム配信を見て、確かにこれは往年の実況主にガワだけつけた感じだわ、と感じた。
で、最初に述べた配信するような人が自画像キャラクタを作る文化と、Vtuber文化は何かつながりがあるのだろうか、とふと疑問に思ったのである。
強調しておくが、私は実況文化も配信文化もちっとも詳しくないので、何も知らない素人の失礼な戯れ言である。
いつだかVtuberの発祥は海外のとある界隈であると言っていた増田があった気がするから、少なくとも発祥時点では関係なかったのかしら。
この疑問を解決する文章がnoteあたりに転がっていないかなーと思うので、気が向いたら探してみようと思う。
私自身の個人的な趣味で言えば、ゆっくり動画で育ってしまって生声の配信は好きじゃないので、加工しまくった機械音声の配信なら興味がある。
今思ったが、昔からブログとかでキャラクタを作るのは定番だったのではないだろうか。知ってるはてなブロガーだと、ズイショさんとか、ヒトデさんとか(これは割に新しいか)
一部界隈で話題のカオスラウンジ黒瀬の不倫の件で、不倫相手の女から告発文がnoteに投稿された。
これを受けてTwitterではカスラジ関係者への叩きが加速し、美術界の権威主義的パワハラセクハラ体質と、
だがしかし、ポリコレ的には非常にリスキーで発言した瞬間に石を投げられるのは確実な問題がここにもある。
不倫相手の女性が、カスラジの最高権力者と性的関係を持ったことにより、業務上の利益を得ていることだ。
下衆な言い方をすればお前だって良い思いしたんだろう問題である。
不倫女性のnoteからは、黒瀬と関係を持ったことにより業務上のストレスが低減したという記述があるし、
会社内でポジションを貰った、給料が上がったなどの記述もある。
常識的に考えて、性的関係を利用しての忖度があったと判断するのは自然なことだろう。
昨今、metoo運動などの広がりを受けて、女性へのパワハラセクハラ、業務上の非対称な立場の関係から、
不倫などが発覚した場合、男への社会的糾弾は苛烈さを増すばかりだ。
不倫相手の女性側も、その立場を利用して利益を享受しているのは、触れにくいが事実だと思う。
箕輪問題のライターにしても、有名編集者との特別な関係が仕事上の利益に繋がることを、計算していなかったとは言えまい。
今回の件、noteには一応自分は黒瀬嫁への加害者です。というエクスキューズはあることにはある。
しかし、カスラジ関係者の対応が不誠実で、問題が拗れているとしても、
ネットに公開すべきではなかった。少なくとも公開した女性は相応に叩かれるべきだ。
自分は不倫関係を利用して利益を享受し、責任のほとんど全てをカオスラウンジ関係者に押し付けるように立ち回り、
不倫問題を自身に有利に清算すべく、不倫被害者の黒瀬嫁へのプライバシーの侵害に繋がるネット告発を行うのは悪の所業である。
昨今のパワハラセクハラという口実を得て、卑怯な不倫女性まで、
叩いてはいけない、社会はこれへ共感し、自らの認識を改めるのが正しい仕草である。という社会に蔓延する圧力にも、非常に不健全なものを感じる。
都民が「都内にアンテナショップが沢山あって楽しい!」ってのを楽しそうに書いてさ、それにまた沢山ブクマがつくわけ
「有用な情報ありがとう!」「今度行ってみます」「助かる」ってさ
「鹿児島には5年くらい前に出張で行ったな」「すごい熱量w」「知らない世界だ」とか言ってせいぜい40ブクマ、なんなら誰も見向きもしねえよ
まあ鹿児島市内のアンテナショップの話なんかできねえけどな そもそも語れるほど数ないんだし
俺は他人が何かについて楽しげに語ってるエントリ好きだけど、アレは読めなかったよ ムカついてさ
東京のレストランを紹介する 最寄駅の名前だけが書かれて、「アクセスも良いですし皆さんも是非!」
富山のレストランを紹介する 近辺の情報なんかから入って、最後には「遠いですが、近くに行かれる際には是非!」
何から遠いんだよ 殺すぞ
遠いのは東京からだけだろうが 俺んちからは池袋なんかのほうが遠いですけどね
というか、池袋なんてローカル駅の名前を覚えさせられてるのが本当に屈辱だよ 魂の陵辱だ
ローカルの話題をさもみんな知ってて当然みたいな顔で全国ネットで垂れ流しやがってよ
なんのエクスキューズもねえんだ 都民の書く文章にはここはこんな街ですよって紹介がない そりゃそうかあみんな知ってるもんなあ、東京ローカルの地名はもちろん全日本国民が知っているべき基礎的な地理知識ですものね
東京つぶれねえかなあ 俺はいま本気で、殺意を込めて、お前たちに対してこう思ってるぞ
・あるSF編集者が自分の担当したアンソロジー本(『日本SFの臨界点』と『2010年代SF傑作選』)の表紙を掲載し、そのツイートが広くバズった。
・それを見てある読者が twitter で以下のような発言を行い、反響を呼んだ。
「なんでSF小説とかアンソロの表紙って漫画・アニメ絵の女の子ばっかなの?恥ずかしくて持ち歩けないんだけど。自らターゲット狭めてマーケット小さくしてる気がする。(中略)誰も彼も「売れるから」で思考停止している気がしてならない。」
それに対して当該編集者がfusseterで以下のような反論を行った。
・「女の子」に関して
・イラストレーターには『性別を指定しない抽象的なキャラクター像』で発注したもので、『女の子』ではない,
・キャラクター的であることそのものに対する違和感にしても、少なくとも現場ではそういうものにしようという意向ではなかった。
・「恥ずかしい」に関して。
・特に若年層ではキャラ絵が「恥ずかしい」と思う感性はあまりないはず。
・キャラ絵が想像力を狭めるということはなく、むしろ想像力を喚起するもの。
・表紙に対する意見について
・表紙を描くイラストレーターたちにも評判を気にして傷つくなどの感情はあるんだから、そういう人に届く危険を認識したうえでSNSを使え。
・事実として違う(SFマガジンの書評欄に見られる書籍の表紙を引き合いにだして)。
・今回の表紙の意図について
二者間で応答された論点は以下のように要約される。
1.なぜSF小説・アンソロの表紙はキャラ絵の女の子ばかりなのか
1.は事実認識としては適当ではない。ただ、主観的で不正確な感覚でも、その感覚が広範に共有されていればシーンに対する認識としては強度を持つ。
たとえば、読者の記憶に残りやすい「目立つ」コンテンツの表紙にアニメ絵率が高かった(ように思える)場合、多くのユーザーは「表紙にアニメ絵ばかり」という認識を持ち、関係するアクターやシーンの振る舞いもその認識に沿って動いていく可能性がある。
ハヤカワは伊藤計劃の『ハーモニー』『虐殺器官』の文庫化の際に、伊藤計劃作品のアニメ映画でキャラデザを務めたredjuiceを起用した。ちなみに表紙に、ではない。本をすっぽり覆うタイプのオビにイラストを反映させたのだ。実質的には「アニメ絵の表紙になった」とみなされても仕方がないし、事実そのように勘違いしている人も散見される。
シライシユウコのイラストレーションに対するファンダムの記憶は伊藤計劃や百合SFと密接に結びついており、2010年代の「気分」を確実に決定づけていた。
「シライシユウコが表紙を描くこと」は他のイラストレーター(キャラ絵寄りであれそうでないであれ)が担当するより確実にある種の指向性を帯びやすい。
どういう指向性か、と問われるとなかなか言語化しにくいが、このイラストレーターが伊藤計劃の『ハーモニー』の単行本版の表紙を担当したこと、伴名練のデビュー作である『少女禁区』の表紙を担当したこと、ライトノベル作家の短編が多く採られた『ゼロ年代SF傑作選』の表紙も担当し『2010年代SF傑作選』がその「再登板」でもあること、百合SFブームを決定づけた『SFマガジン』の百合SF特集号の表紙も担当していたこと、等々から鑑みて、「百合SF」に代表される近年のSFを代表するイラストレーターとみなされうる、といったところだろうか。
もちろん、シライシユウコは上記以外にも多くのすばらしい仕事を残している。ヤングの『時をとめた少女』など『2010年代SF傑作選』よりも「少女性」が強い絵も描く一方で、円城塔の『エピローグ』(単行本版)やヴァーリイの『逆行の夏』などのようなさほど「少女性」が目立たない絵もある。
そうしたイラストレーターが表紙を担当することで、某評論家のいうように様々な出自、トーンを持つ収録作のイメージを一つのカタにはめることになるのは否めない。それはイラストレーターの罪ではない。
『日本SFの臨界点』に関して言えば、伴名練が編纂するということで『なめらかな世界と、その敵』での「キャラ絵の人物がアップになっている表紙」が文脈的に意識されているのだろう。
『なめらかな世界と、その敵』の収録作はジュブナイル的な色彩を帯びた作品が多く、表紙の選択はかぎりなくマッチしていたと思う。だがその文脈を発表年代も書き手もバラバラなアンソロに持ち込むのは(表紙を決めるのは編集者なので作家ではなく編集部として)作品群を「私物化」、あるいは領土化する行為として糾弾されてもしかたがない。
とはいえ、アンソロジーを編集するのはひとつの創作活動でもある。DJのようなものだ。どんな作品を選ぶか、どんな順番で収録するか、といったことが作品個々の印象や読み味を大きく左右し、「一冊」のイメージを決める。その点で、表紙を「私物化」するのも表現の一部であるかもしれない。増田個人の意識としてはアンソロの表紙もまた(アンソロ自体のコンセプトにもよるが)「私物化」されるべきと考える。
ハヤカワは伴名練という作家に過剰な文脈を背負わせすぎなきらいもあり、それはあまりよろしくないと感じるが、『日本SFの臨界点』は伴名練の作品・批評のひとつとして見なすべきではないか。
アンソロを編纂するということはそのくらい暴力性を孕んだ行為なのだ。「埋もれた作品を発掘する」などといった無邪気な善性だけで成り立っているものではない。作品について一切指向性を持たせたくないのなら、表紙をつけず、amazon あたりで短編単位でひとつずつ売るしかない。
2.に関しては編集者の反応があまり噛み合っていない。「恥ずかしい」と感じることはどこまでも個人的な感情なので、「若者には違和感がない」と反論してもあまり意味がない。発端となったツイートで「恥ずかしい」に続く文がマーケティングの話なので、マーケティングの話をされていると思ってもしょうがないというか、増田も普通に読んでればそう取ると思うが。
また、編集者の立場としてはイラストレーターを守りたい気持ちで「いや、恥ずかしくないんですよ」と反論したくなるのもわかる。表紙についての議論をすることに対してやや脅迫的ともとれる言辞をしているのも、そうした仲間を守りたい意識のあらわれだろう。その判断は編集者として間違ってはいない。
ともあれ、その人が「恥ずかしい」と感じたならば「恥ずかしい」のは仕方がない。また、読者や作家にもそうした感覚に共感する人々が一定数存在するようなので、そうした心情を斟酌しないのはいかがなものかと思う。最低でも文面の上ではそうした消費者の感情に向き合うふりくらいはしておくべきではなかったか。
Twitterではよく「表紙が恥ずかしくて買えないとかガキか」という意見が目にされたが、そういうマウントの取り方もよくないと思う。
3.については(元の発言者は重要視していないとしているが)完璧に食い違っている。片方は「キャラ絵にすることでターゲットを狭める」と主張し、もう片方は「キャラ絵にすることでターゲットを広げる」と主張している。百合SFブームを仕掛け成功させたことや、この論争がそもそも『2010年代傑作選』と『日本SFの臨界点』が"バズった"結果生じたものであることを踏まえると、(編集者もまたマーケティングのプロではないにしろ)編集者側に理があるように思える。
SFというものはキャラクター文化と親和的なのだから、そっち方面から未開拓の読者を拾った方がよいと判断するのは筋が通っている。「キャラ絵で買わない新規消費者」より「キャラ絵がついてることで買ってくれる新規消費者」ほうを多く見積もっているのだ。興味を持ってくれる読者層を有効に開拓してこなかった業界の怠慢を一挙に巻き返そうとしている節はあるにしろ。
ある一定の方向へ突出しすぎている表紙を出すことでそれ以外の読者を切り捨ててしまう可能性はある。たとえば、ライトノベルの表紙絵はキャラ絵を好む読者以外へのリーチをハナから諦めている。キャラ絵を用いてる点では『臨界点』と変わらないが、よりパラメータがいわゆるオタク寄りに調整されている。最近、スニーカー文庫のハルヒが角川文庫から再発されるにあたり、有名ないとうのいぢの表紙から実写を用いたいかにも一般向けの表紙へ切り替わったことがあった。これは「キャラ絵を切り捨てる層」への訴求を試みた例だろう。
ハルヒのメインターゲットであった層を掘り尽くしたので、本来ターゲットにしていなかった層も掘る余裕が出てきたのだ。メガヒット作ならではの展開といえるだろう。
間口を広く取れるのは後者だ。特定の層により訴えるのは前者だ。
どちらを取るかは出版社の戦略次第だ。ハヤカワが大手より体力の低い中小出版社であることも考慮にいれるべきかもしれない。
だが、特定の層に訴えるマーケティングはときにその層に含まれていないと感じた消費者への疎外感を生じさせる。そのことには出版社は自覚的であるべきだろう
個人的な感想をいえば、シライシユウコ絵が「マンガ・アニメ的絵」だという意識はあまりなかった。林静一から中村祐介に至るイラストレーターの系譜(もちろん彼らにくらべたらややまんが的ではある)に連なるような存在として認知していた。
『臨界点』のイラストもそこまでキャラ絵として意識していなかった。「恥ずかしい」と感じられるキャラ絵とは、それこそライトノベルの表紙絵くらいのレベルだと思っていたのだ。
たとえば、『臨界点』がライトノベル的な表紙であったら、増田も「切り捨てられた」と感じたことだろう(それはそれとして本を買いはする)。
こんなことを萌え絵に対して不感症になっている典型的な日本人の謗りを受けそうであるし、実際そういう面も否めないのだろう。増田はよくTwitterで論争になる公共の場所で広告に使われる萌え絵について「恥ずかしいだろ」と(その是非とは別のレイヤーで)思ってしまう人だ。本当に「恥ずかしさ」の基準はひとそれぞれだなと思う。
今回話題になった表紙が即女性に対するオブジェクティフィケーションにつながるとは思わない。
一方で、キャラ絵を用いたSF小説の表紙が女性という表象にまったく何も背負わせていないとも思わない。本人たちが意図するしないにかかわらず、文脈的には「百合SFムーブメントを作り上げた編集者」が、「伊藤計劃の百合SFやSFマガジンの百合特集号の表紙を描き、百合のイメージが強いイラストレーター」や「百合SFムーブメントの一翼を担った新進作家」と作ったものなのだ。人はそこに「少女」を見る。その「少女」は私たちの築き上げてきた「少女」のイメージを背負っている。そこに無自覚ではいられない。
私たちはどのレベルの「恥ずかしさ」で合意するのか。SFという貧しく狭い領域でマーケティングとコンプライアンスをどう天秤にかけていくのか。
今はまだ問いの出ない問題だ。作家にしろ編集者にしろ読者にしろ、一個人ではどうにもならない問題でもある。
だが、他人の感じる「恥ずかしさ」を「時代遅れ」と切り捨てることなく、あるいは読者同士で向き合うことで、ある方向へ流れていけるかもしれない。そこから先は、未来の話だ。作家たちの語るべき領域だ。
余談。あるミステリ作家が「消費者の意見に対して真剣に向き合わず、味方を囲い込んでる」と例の編集者にキレてブロックしたことについて。むしろ、fusseterの文面ではTwitterでの論争の不毛さに触れているように、犬笛にならないように注意を払っているように感じた。よくやるように擁護ツイートのRT連発みたいな行為にも走っていないし。
個々のフォロワーたちが発言したり群れたりするのは止められないだろうし、それを「味方を囲い込んでる」ように見えたとすれば、多分に先入観が強い。
「意見に向き合え」というのはその通りだと思う。本人がおそらく可能な限り真摯に向き合っているつもりなのはfusseterで重ねられるエクスキューズからも読み取れるが、だとしても人はどこかで何かから目を逸らしてしまうものだ。当事者になればなるほど防衛機制は強まる。ただ例の編集者は自分に対して意見を言ってくる人を尽く敵と見做して戦争をしかけるタイプには見えないし、あの作家の言うことなら無碍にはしないはずなので、ブロックする前に意見交換を行なって互いの認知を均したほうが幾分有益であったはずだ。
この問題については意見を出してる作家や業界関係者でさえ恐る恐るというか、批判にしろ擁護にしろ通り一辺倒のことしか言っていない印象がある。
その穏当さが党派的な対立を強めていはしないか。業界のトピックとして捉えるなら、公の場で作家同士でもっと突っ込んだ話し合いを行うべきではないのか。
美白製品の一部を販売中止に。ジョンソン・エンド・ジョンソン、「Black Lives Matter」運動を受けた製品批判で
https://www.huffingtonpost.jp/entry/johnson-and-johnson_jp_5eedae7bc5b6c6ede74b575c
どう考えても「美白」は間接的な黒人差別だとずっと言ってきたのにお前ら見向きもしなかったよな
やっぱ俺は時代の先端を生きてたわけだ
アニメキャラもゲームキャラも漫画も白い肌ばっかだからキャラの半数くらい黒い肌にしないと差別だと言われても仕方ないよ
ジャンプキャラもホワイトウォッシュされすぎだしVtuberも白い肌多すぎの逆バナナ状態になってる
アズールレーンとかFGOみたいな特定の国が舞台じゃないゲームのキャラの大半が白い肌っていうのもダメだよ
横から補足ありがとうございます。
本題に入る前にちょっとだけ。私、最初の名乗り以外はなるべく性別には触れないようにしてきたんですが(最初に「同人文字書き男」と名乗ったのは、元増田の「軽率感想書き女」という自称に合わせるためです、念のため)、流石にここまで来ると一切触れずに議論するのも不自然ですので、以下では必要に応じて性別に言及します。ただし、自分は一般的に「女性向け」と呼ばれるジャンルの慣習や作法には疎いし(実はどちらかというと女性向けのジャンルにも海鮮として足を運んでいたりするのですが、コミケの度に買いに行くくらいの距離感でしかないので細かい作法まではわからないっすね……)、「男性向け」とくくられるジャンルに関しても、きちんと内情を知っていたり雰囲気を掴めたりするのはいくつかのジャンル(およびそれと隣接するジャンル)だけであって、「男性向け」すべてに通暁しているわけではない、というエクスキューズは入れさせてください。いやほんと、私が普段通っているところと、友人に頼まれて買いに行くところとでは、なんというか同じ男性向けでも雰囲気がかなり違うので……
さて、以下に関しては、男性向けでもおそらく事情は同じだろうと思われます。
アンソロ主催ってそれなりに活動しているからサークルとして認知されている、いちおう信用されているサークルぐらいにしか基本思われないです。(コミュ力あるなら切欠にめっちゃ仲良くなれるかもしれませんが、短期間に大人数相手なんだからそんなに仲良くならない)
アンソロ(そういえば元増田がアンソロって言ってたから私もアンソロって言いますけど、男性向けだと「合同」「合同誌」って呼ぶことが多いような。まあ同じものを指していると思うのでどっちでもいいんですが)といっても色々な参加者の集め方があり、知り合いの作家さんに声をかけて作るものから、TwiPlaとかで参加者を公募するもの、間を取って知り合いに声をかけた上で参加者を公募するもの、などがあると思います。既存の同ジャンルの作家さんの作品を収録したアンソロを作ろうと思ったらある程度継続してそのジャンルのイベントに参加してないと厳しいですし、完全公募制にしても主宰者に信用がなければ応募が集まらないですよね(純粋な完全公募制というのは見かけたことがなく、知り合い数人を捕まえて発行する見通しを立てた上で残りを公募するというのが普通だろうとは思います)。というか、単独で薄い本を作った経験がないとアンソロ編集とか能力的に無理ですし。ですのでこれは、おそらくそんなに差はないんじゃないかなぁと。
これもそうですね。アンソロがすごく売れたとしても自分の本が売れるとは限らない。こないだ参加したコミケでは、いつも一般参加してるジャンルで一番人気のCPの合同誌が出てたんですが、それまで私が認知してなかったサークルが主宰だったのにジャンルで一二を争う長蛇の列ができていたり。でもその後そのサークルが誕席や壁になったという話はとんと聞かず、あくまでアンソロが売れていただけという。まああのCPは人気があるから仕方ない……表紙のイラストも商業で活躍してるひとが描いてたし……
で、以下は文化の違いで驚いたなというところです。
女性向けアンソロ主催って、昨今SNSで気軽に嫌がらせDM送られてくるし、トレスしたりする絵描きも居たり、ジャンルやCPによっては他キャラ絡みの内容で炎上等々、主催が発行したものに対して全部責任取らないといけない、”実生活でもなんなく仕事が出来る”ジャンル愛のある人しか出来ない作業になりつつあるんで、とても簡単なんて言えませんよ。
ここがわからないというか、編集や頒布にあたっての手違い(牛歩とかお釣りのミスとか)なら主宰が責任を取るのが当然でしょうし、サークル参加の手続きや金銭的負担なら主宰が負う場合が多いでしょうが、個々の作品の責任はあくまで個々の寄稿者にあるのではないですか……? いや、私は主宰側になったことはないので、ひょっとしたら男性向けアンソロ主宰も同じような嫌がらせを受けていたりするのかもしれないですが、少なくとも「アンソロを主宰したらこういうことがある」という共有知としては聞いたことがありません。何それ……どゆこと?
確かにレギュレーションは主宰が定めるもので(公募制なら、たとえば「題材はAとBのカップリングで、他作品とのクロスオーバーは不可」みたいに事前に決めた上で募集しますよね)、そこに不備があったとかレギュレーション違反があったのに見逃して掲載しちゃったとかなら主宰の責任でしょうが、それでもそれはせいぜいがレギュ違反をやらかしたひととの共同責任であって、主宰の単独責任ではないですよね……? トレスにしても、主宰に責任があるのはトレスだと知っていて見逃したとかトレス常習犯をあえてメンツに入れていたとかトレスが発覚した後にかばうような言動をしたとかそういう場合であって、基本的にはトレスしたひとが責めを負うものだと思っていたのですが、なんで主宰が責められるんですか? いっちょんわからん。
そもそも責任を取る取らないってどういうこと? 仮につまらなかったりひどく作品への愛が薄かったりするような合同誌を頒布した場合は、ネットでつまらんかったと評判が立ったり次回の売上が減ったりするという形で責任を取らされるのが一般的でしょうけど、それ以外の責任とはいったい……
回収ってすでに売ったやつをですか? えっ、なんで? ていうかどうやって? しかもそれが何度も繰り返されてるんですか?
失礼かもしれませんがちょっとここでドン引きしてしまいました。そりゃ、なにか手違いがあったら回収全破棄する羽目になるなら、気軽にアンソロの主宰にはなれないし一部の顔が広いひとや実務経験者ばっかりが主宰をすることになるわな……
というか、ガチで怒られが発生したりするのは、あくまでもシリアスなアンソロの話なんですよね? ギャグだったりエロだったりするアンソロはもっとユルいノリでやってるんですよね? 男性向けだと、たとえばごく稀に以下のようなキチg……いえ、頭のおかs……えーっと、その、コモンセンスの方向にチャレンジした合同誌が企画されたりするもので。
https://togetter.com/li/867479
https://togetter.com/li/918358
もちろんこれはすごい極端な例で、男性向けに一般化はできないのですが。オイタをした参加者(商業で本も出してるその界隈では有名な人です)もオイタをするとわかった上でプロレス的に呼ばれたフシがありますし。ただ合同って真面目なやつからこういうおふざけまであるもんじゃないですか。それに全部主宰の責任とか問われるわけでは流石にないと思いたいです。仮にそうだとしたら窮屈にすぎる……
アンサーありがとう! すごく興味深いやり取りをさせてもらって嬉しい。でもたぶん、既にエクスキューズをしてくれているように、半分くらいは読解に関することかも。そして私の書き方も、示したいポイントからちょっとずれてた気がします。補足させてください。
アンサー内でも触れてくれているように、「ある特定の主催者がいる」というところはまあそこそこよく見る、普通の話だと思うんですよ。そして、同人文字書き男氏としては、それを踏まえて、「でも、元増田がその主催者を『ボス』だの『取り仕切ってる』だのって表現するの、権力のにおいがヤバくない? あるいは実際にそう表現されちゃう権力関係があるならますますヤバくない?」みたいなことを問題視してるのだと読み取りました。
私もこの点は完全に同意です。権力感ありありの表現は不思議に感じるし、実際に権力構造があればそれはおかしい。アンソロまで激しく干渉されるとしたら超怖いですね。近づかんとこ、ってなります。
ただ、そもそもの話として、私としては、元増田の文章から「ボス」が周囲からちやほやされてる・強権を振るってるような権力構造を読み取ってなかったんですよね。むしろ、
などで、全然ちやほやされてないっぽいな、主導権をずっと握ってるわけでもないんだなという印象でした。だから、同人文字書き男氏のアンサー内の最後の選択肢、「そいつの関知しないアンソロが編めないようになってんの?」については、明確に元増田の記述とは異なる状況ですよね。元増田のいう「ボス」は参加してなかったらしいわけだから。逆に、「アンソロに参加しないこともあるぐらいの人を『ボス』って表現するの、ずいぶん偏ってない?」という点に注目してます。
以上のように、たぶん私と同人文字書き男氏では、受け取った印象がそもそも結構違うんだと思います。「ボス」「取り仕切る」という言葉のイメージをどれくらい重要視したか、という差なのかもしれません。たとえば、もともとの元増田の表現が「みんなが『ボス』だと持ち上げてる人がいる」的な権力構造に関する言及だったら、「お前の界隈おかしいよ」には全力で同意しますよ。
そんなやついねえよ。
って書き出しに私が引っ張られてしまったのもあると思います。いやいや、そういう立場の人間自体はいたよ、みたいな。なので、私が出した情報は「とりまとめ的な立場によくいる人が実在したケースを知っている。そのケースでは私が『ボスだ』と思うような権力構造はなかったけど」という内容になったわけです。
まとめると、「お前の『界隈』おかしいよ」にちょっと疑問符をつけたかった、というところでしょうかね。
界隈の構造がそもそもおかしいのか? 元増田の感じ方にややバイアスがあるのか?
であれば、私はさしあたり後者に一票なので。
これでちゃんと返答になってるといいんですけど。
既存のOSSに面倒なところを任せて自分たちのやりたいことをする、よくあるいつものパターンである。
しかし、行き詰まった。
どのOSSのexampleもさらっと10行程度で済まされている。しかもコメントもない。どう考えても、初見の人間の助けにはならないだろう。
StackOverflowの「こう書いたけどエラーが出ました、どうすればいいですか?」という質問のほうが動かし方のサンプルとして充実している有様だ。
これが1つのOSSだけなら、そんなこともあるよな、で済ませられるが、自分が目を通したOSSのすべてがそのような状態だった。
デファクトスタンダードとして利用者数も多いOSSもそうだったので、おそらく、これがC++の一般的なOSSの姿なのだろう。
他言語だともう少し充実しているのが当然だったので、自分には衝撃だった。
数多いる利用者たちはどうやって使い方を体得しているのか。
書く側にも読む側にも無意味なexampleは何に対するエクスキューズなのか。
Bjarne Stroustrup インタビューは実は本物だったのでは?