はてなキーワード: アルジャーノンに花束をとは
グラブルが好きだったオタクの自分語り。大体愚痴。グラブルが好きな人はこんなもの読んでないでグラブルやってください。
オチから言うと、グラブルすごい好きだったけどここ2,3ヶ月くらいで一気に冷めた。
グラブルやってる人ならなんとなくわかると思うんだけど、まあ最近すごいよね。自分の場合はやっぱ6月これグラでのキャラ調整中止がトドメを刺した。
何にってそりゃボーダー爆上がり古戦場からの軽量版削除からの鯖落ち古戦場でほぼゼロになってたモチベにね。
グラブルを始めたのはたしかモドリカツウォヌスのイベントの時だった。サポーター石の加護はフレンドじゃないと効果がなかったし、サポ石欄には属性40%石とかがゴロゴロ転がってた。
風はほとんどアナトだったしフレンドのヱビスによく世話になった。
マグナ編成完成とかどれだけかかるんだって思ってた。十天加入なんて夢のまた夢みたいな話だった。
ティアマグが最初に確定流し出来るようになった。よく語られるグラブル一番楽しい時期、マグナ確定流しの時期だった。正直それでも周回きついと思ってたけど。コロ短剣、ユグ拳、その他SR方陣武器、ガチャ産武器、ありがとうな…
アンチラ事件とかコルワハレゼナとかもあったな…DOもちょっとだけやった。ザ・ワールドとも2回くらい戦った。
その後ブラック企業に就職してゲームをやる時間が取れなくなり、しばらくブランクを空けて、転職を機にグラブルを再開した。
これが去年の2月頃。
それはそれは浦島太郎だった。
まず140石にビビった。必死こいて確定流ししてたマグナをワンターンキルできるようになっていた。え?バハルシは?130%?あ、そう…セラフィックウェポン?アーカルム?新石マルチ?なんそれ…
よくわからんけど復帰前に自分には手の届かないコンテンツだと思っていたバハ武器がイベントで貰えると知ったのでとりあえずバハ短剣を貰った。
まあマイペースにやろうと気が向いたときにちょっとずつ触っていた。いつのまにか日に5時間ほどグラブルをプレイする、一般的な騎空士になっていた…
ストーリー見るのも楽しかったし、イラスト集も全部買ってたし、サントラも買ったし、二次創作も楽しかったし、友達や団員と編成の話とかキャラの話するのも楽しかった。コラボカフェにも行った。たぶんものすごい脳内物質が出てたと思う。
グラブルに、運営チームに、KMRに、感謝していた。3月までは信者だったと思う。
4月、エイプリルフールのナゾブルはストレスと10000石を残した。
普通にクイズがわけわからんのに加え、先着順で10000石配布とか言うので、絶対に無理だとわかっていながら夜中に謎解きを始めた。
ナゾブルの答えを見たときと「先着順は嘘でした!」というお知らせを見たとき、完全に同じ顔をしていたと思う。は?という顔。は?しか残らなかったコンテンツ。深い闇は普通に楽しかった。
ルシNはまあいいとして、ルシHはもともとやる気はなかった。じゃあセラフィック4凸するか!と勇ましくマルチに向かうも、まあその…あれだろ。
初めての四大天司連戦部屋は途中で悲惨なことになってきたので(時間がかかりすぎてて退出者がポロポロ出ていた)退出した。自発はしてない。
ちなみに最近野良の四大天司に入ったら途中からどんどん速度が落ち、ふとログを見たら自分ともう一人しか殴っていなかった。というかおそらく自分が殴ってるからもう一人も抜けるに抜けられず、その人が汁飲むから自分もこいつだけ残して抜けられないなと思っていた…四大天司にいい思い出、無し…
まあそれで、軽量版削除だ。その少し前に雫ステージを廃止すると言いながら中止したことを覚えていたし、ネットが荒れたこともあって軽量版削除も中止されるものだと思っていた。実際に削除されるその時まで…
削除前は「ボイス聞きたいから通常でやってることも多かったしまあなんとかなるやろ」と思っていたが、周回とマルチで通常強制はかなりストレスだ。
連戦に参加するのをやめた。
土はマグナ4凸程度だったし上述の諸々でモチベが下がっていたので気合いはそんなに入っておらず、鯖落ちしたときも少し祭りのような浮かれた気持ちでジオがトレンド入りするTwitterを眺めていた。
ただメンテ明けの告知が雑だったことと2日目の補填無し、予選延長なんかに対して不誠実だなと感じた。
この古戦場関連で一番アレだと思ったのが、プロデューサーの特例対応だった。あっふーん、そうなるんだ。なるほどね。そういうのあるんだ。
プロデューサー飲み会の件については自分には不明な点が多いので特に言及するつもりはない。
そして来るこれグラ6月号。
古戦場への言及が無かったことと予告していたキャラ調整中止を見て、なんというか、ついていく気がなくなった。ああそういうスタンスなのかと。
ゲームに不満は多いがいつか何かしら改善されるだろうから、と期待していた部分が瓦解した。これ何も改善される余地がないなと悟った。
それから武器集めも石強化もランク上げも面倒になって、ログインだけするようになった。ちょっと気が向いてやろうと思ったりしたこともあったけど、渋いドロップを見るとやっぱやんなくていいなと改めて思うだけだった。
そのあとは別のゲームを始めたり新しいことを始めたりして、怒濤のようなスタレサプチケ乱発や謎のBAN(BAN自体はいいことだと思うけど)なんかを眺めたり、月末イベのイルカにドン引きしたりして今に至る。
ここ数ヶ月で色々なことがあって、その時は憤ったこともあったと思うけど、特に自分の中で印象的な上述のこと以外はもう盛り沢山すぎて忘れた。
おわり。
タイトルについては、「アルジャーノンに花束を」の主人公が手術でものすごく頭がよくなって最終的にもとの状態に戻った、というストーリーの読後の感情(小説の内容ではない)と、熱中したグラブルに急激に冷めた自分の今の感情がなんとなく似てるなと思ってこういうタイトルにした。好きな人を不快にさせたらごめん。エタラヴは初めて最終したリミ武器だった。
ズルいよね。
一番きれいな所で終わってさ。
あのあとアルジャーノンは障害者施設でもがいてもがいて周りの人に迷惑をかけまくって、キレまくって、自己嫌悪を起こす知能すら無くなって、最後には何も分からなくなってヘラヘラ笑いながら脳が壊れて死んでいくんだよね。
それを描かないで終わるなんてズルいよね。
物語の主人公であるという特権を振り回して、人生の一番激しくて美しかった部分だけを写してもらって舞台裏に消えていく。
その後声をかけてもカーテンコールに出てくるのは、惨めにクソをたれながらそれをゴリラみたいに投げつけて回る狂人じゃなくて、爽やかな笑顔の青年だけ。
ズルいよ。
※ブクマが50も取れないっていう人向けです。
考察や妄想が膨らんで、このアイデアを誰かと共有したいと思う。
書いて、ドキドキ、ちょっと時間を置いてブクマ・いいねの数を確認。
それで自分の期待以下の数値だから、この記事を読んでいるのでしょう。
アイツより、あの作品より良いモノだと思うのに!
少なくともこれ位は数は稼げると思った!
…わかるよ、その気持ちは痛い程わかる。
でもね、君は何でもかんでもブクマするかい?いいねをするかい?
私はよっぽど後でじっくり読みなおしたいと思わないとしない。
中にはエンジェル投資家みたいな人がいて、ブクマ・いいねしてくれるけど。
まあ、これを読んでいる人はそういった人たち以外からも欲しいんだろう。
ツイッターやpixivで画像や漫画を検索して読んでなかったかい?
あと、自分に正直になって思い直してみてよ。
pixiv検索する時に「1000」とか「users」とか入れてたでしょ?
ブクマ数少ないから読まないで飛ばそ、って思ったことあるでしょう?
そういうことさ。
それが小説では難しいんだな。
できたらいいね、でも待ってほしい。
ミニマリズム万歳で多機能な商品が増えたからそう思うのはしょうがないけど。
好きな事で実は才能があって、生業とし成功している――レアケースだね。
作品や登場人物への萌えや想いと自分の自己承認欲求を混ぜちゃだめだよ。
だってさ、それってキャラや作品を自己肯定力の強化に利用していることじゃない?
結局、ちやほやされたいのは自分だろってなるんだけど。
わかるよ。でもさ、認められたいよね。
で、タイトルにある通りにある程度のことは教えてあげるよ。
デカルトという人が「困難は分割せよ」って言ったんだ。
言っておくけど、邪道だよ。
でも、書きたいし、書いたらコメントをくれたりブクマをくれる人が存在する。
本当に少ないんだ。身内のなれ合いかもしれない。
さて、自分語りはこれくらいにしよう。
そこで交流してると「ご祝儀」と「ご挨拶」でブクマやいいねを貰えるよ。
正直ね、お愛想笑いみたいなのなんだけど、やらざるを得ないよ。
え、私が求めているのはこんなものじゃないって?
良い商品だから売れるんじゃない。売れるから良い商品なんだよ。
ブクマ数が欲しいんでしょ?
「困難は分割せよ」だ。
ちゃんと評価されるには、自分の実力や作品の内容が伴ってないと駄目。
さて、ちゃんとお勉強するのも交流するのも面倒くさい人がいるよね。
だけどね、1000users入りタグは手に入れることはできるんだよ。
君もそういったことを知りたいんだろ。
ダイエット本でさ、栄養バランスとか健康とはとか要らない人だろ。
長期的に見たら良くないと思うよ。
条件として、他にブクマ高獲得作品がゴロゴロしている分野だとするよ。
極小ジャンルで彗星のごとく現れて、ブクマをかき集めるようなメアリー・スーは諦めてね。
さて、これはpixivのブクマかツイッターのいいねを獲得するための攻略法だ。
ブクマもいいねも一切誰にもしなかったアカウントでやったことだよ。
第一に、むやみやたらに長作を書くのはやめよう。
頑張っても5000~10000文字かな?20分前後で読めるといいね。
だって、そこまで書ける実力ないでしょう?
仮にそうでも分割しなよ。パート1と2みたいに。
その分、二話、三話とどんどん減っていくけどね。
だって頭を使うし、体力も使うんだよ。
もっと短く、お手頃だったらツイッターで文庫風の物語を上げるのはどう?
Pixivで500文字の作品とか読まれにくいけど、ツイッターなら別だよ。
あと、そういう文字数でブクマがある人は、その人がブランドなんだ。
俳句と一緒で文字数が制限されているが故に、センスと語彙力が求められる。
チャレンジしてもいいけど、気を付けてね。
あと字書きのツイートやpixivのキャプションは気を付けてね。
ある程度の知性は求められるんだ。はっちゃけすぎないで。
今はブクマ数を考えるんだ。
個人のあるがままを受け入れて欲しいなら、「困難は分割せよ」だよ。
活躍したいジャンルで「users」とか数字で検索してみよう。
素晴らしい作品が厳選されているはずだよ。片っ端から読んでみよう。
どんな話が皆の心を掴むのかな。どんな雰囲気なのかな。
原作が重苦しくて希望の光さえ見えないのに、ナンセンスギャグの話があった?
高評価であったとしたら、それは作者や作品に光るものがあったってことだ。
君には、少なくともこれを読んでいる限りは無縁の話さ。
駄目なポイントが見えてくるんじゃない?
良し悪しじゃないんだ。人気・不人気の違いが分かっただろう。
君のジャンルでは読者はこういうものが好きということが分かった。
え、難しい?無理だって?
でも、それでもOKです。キャラも独立した存在として愛でてもOK。
でもそうなったら、君は原作で活躍する姿を描くには実力不足だ。
じゃあ、どうする?パロディですね。現パロでもいかがでしょう。
書けないものは書かない方が得策です。
書いてもいいですが、それで評価してもらおうとは思わないでくれ。
高校生パロはどうだろう?アルバイトしている光景はどうだろう?
詳しく書けるんじゃないかな?
その場に置かれた時の困難や葛藤が分かるでしょ?
え、私には書きたい主題がある?そういう俗っぽいのは嫌?
それこそ相応の実力を身に着けてから「機は熟した」と発表したまえ。
これは相当の表現力が必要なんだ。全感覚を総動員させた文章が必要。
あと100ブクマくらいなら、なくても達成できるよ。
平日の昼間に投稿するのと金曜日の夜に投稿するの、どっちが有利だと思う?
あと、目立たなきゃダメなんだ。印象付けないとだめなんだ。
イベントに向けて神や大手が執筆に頑張っている時やイベント直後がいい。
投稿があってもサンプルだったりするから、文字数少ないし、ブクマも少ないでしょ。
え、汚いだって?まあ、本心を言えばそれでも君のよりもサンプルの方が読まれているよ。
でも言っただろう!ここはブクマ数が全てだと!
全員が全員イベントに行く訳じゃなく、本を買う訳でもないんだ。
そういう時にこそ上げてみるんだ。
枯渇しているから、普段なら足蹴りするような作品を読むだろう?
マナーの問題を指摘する人がいるかもしれないけど弱小の字書き程度なら大丈夫だよ。
ある程度認知されたなら止めようね。
あと、一気にブクマが増えると思ったらだめだよ。
最初の作品は30、50、数作品後に100、300、そして500越え作品ができるんだ。
別ジャンルで活躍していてもいきなり500越えは難しいんじゃないかな。
例外はジャンル創設期であるけれども、その時期は飢えてるからブクマ率高いよね。
あと、ブクマって徐々に増えるんだ。
ここは当初の意気込みと矛盾するけど気長に行こうよ。
いつかは本も出したくなるかもしれないね。
もうすぐ5000文字行くんだよね。よく読んでくれたね。
大事なことは、「困難は分割せよ」だよ。
じゃあ、それに向けてやれる努力をしようよ。
字書きは色々と面倒なんだ。変な劣等感があるし、そんで優越感もあるよね。
ワンピースがハードカバー小説本だったら今みたいに読まれてた?
『響きと怒り』とか『アルジャーノンに花束を』の語り手の表現が凄いんだ。
まあ、読まなくてもいいけど。
でもさ、物語を書き始めるとそういったことに関心が向くと思うよ。
書き始めて「たのしー!」ってなってから「読んでみるか」でいいさ。
拙いけど素晴らしい作品はあるけど発掘してもらえるかな?
漢字が読めなくなってきた。それも日に日に酷くなってきている。(この場合の読めないは視力的な意味ではない)
恐らく原因としては、鬱が再発してきてて頭が回らなくなってきているからだと思う。
一応、元々小説やら本は見ている方なので人並みに程度に漢字は読めるし、そこに関しては元から漢字が読めなくてダメという訳ではない。
今はまだマシな方なので、文章を書けているが、人の文章は読めるものの今まで読めてた漢字が読めない事に、ちょっとずつ心にダメージを受けている。
精神的な病気が酷すぎて、小説どころか漫画すら読めな無かった時期が数年あるので、その頃と比べたらマシな状況ではあるのだが、
分かる人に言うと、「アルジャーノンに花束を」の終盤の主人公みたいな気分で、なんというか自分が一日毎に少しずつ馬鹿になってきているみたいでキツい。
アルジャーノンに花束を(原題:Flowers for Algernon)は自分のことを賢いけどちょっと天然(適応障害)入ってると思いこんでいる単なる人格破綻者のナルシズムを満たすための文学ポルノじゃねーよ。
あれは知能障害者の悲しみを通して、社会の狭量さとそれ故に社会が成立していることに対する無自覚さを読者に突きつけることがコンセプトなんだよ。
人付き合いが苦手とか、小中学校の頃100点がちょっとたくさん取れたからって他人との間に壁を作っては社会への適応力を自分から失っていった奴らがコミュ障あるあるで盛り上がるような作品じゃねーんだよ。
そこを分かってねえ奴らの多さにビビるぜ。
むしろ、そういう連中を浮き彫りにすることによって社会に表出する地獄絵図こそがこの小説の本来のコンセプトなんじゃないかと疑いそうになるね。
今日は、洗濯物を干した。その前に、洗濯機を回した。服のタグの「ネット使用」か「弱」か「ドライ」かなどを見ては、応じて洗濯機に入れたりよけたりするのだ。それからエマールをはかりいれて、スタートを押すのだ。
冬場、洗濯物は特に冷たい。日があたたかいと大変うれしい。今日は良かった。
それからたんぽぽハウスに着ない服を持っていった。300円になった。私が着ないものを誰かが着るようにできる上に、お金が入るのでこれも大変うれしい。
「アルジャーノンに花束を」のような気分だ。午後に自分がしていたことが分からない。私は大学の図書館で、とある本(ネットなのでタイトルを伏せる)を読んで、文章を書いていた。でも、その続きができない。
たぶんそれは、カフェインのせいだ。午後、とあるカフェインの入ったものを飲んでいたのだが、図書館を出るときに残りを一気に飲み干してしまった。それから分からなくなってきたのだ。あるいは、図書館を出たせいだ。あるいは、とにかくなにか、私に起因することのせいだ。
それからどんどん分からなくなって、しばらく立ち尽くしていたのだが、とりあえず帰宅した。家。家は何をするところなのだろう。衣食住の住。身を守るため?マズローの一番下だっけ?だんだん信じられるものが減っていって、産声のように、本棚を見ながら泣いていた。産声が聞こえた。足をゆすると止んでいった。私は私の面倒を見ることができるのだ。まずは私を信じて、信じられるものを増やしていくのだ。すべては神だ。すべてはことばだ。ことばは神なのだ。だから神はことばにするのだ。
私はもうアラフォーですが人生設計もぼんやりしています。けれど手帳を書きあれこれと考えるのは好きです。手帳を持ち、日々の出来事や予定を管理するようになったのは30になる少し前からです。読み返したりすると、この日に何をしていたか、誰といたか、何を感じたか、いくら使ったかを把握出来るので楽しいです。それを活かして、今度はこうやってみようかと考えて1人でニヤニヤしている週末の時間が好きです。ふと、中学生くらいから手帳を書く習慣があったなら、もっと楽しかっただろうなぁと思うことがあります。アラフォーだと予定もある程度固定してきますし、時間も確保しづらく、出会いも減り、遊ぶ相手も減っていきます。タイムマシンがあったなら過去の自分に手帳を渡して、使い方をレクチャーしてあげたいなぁと空想したりします。しかし、実際に昔の自分が手帳を持っていても使えなかっただろうと思いました。実家にいた頃はプライバシーは無かったんだと、実家を出て大人になって初めて知りました。高校の頃、一時期日記を書いてみた事があるのですが、ある日の夕食時に母親が当然のことのように、日記にしか書いていないことを話題として出してきました。今考えるととても怖いことですが、当時は日記というものは自分の考えを知られる恥ずかしいものだと思いました。それ以来書くのをやめました。実家にいた頃は自分の考えや意見を言えば拒否され、両親の意向だけを飲み込むしかありませんでした。自分の考えというものを構築できないまま、両親の操り人形としてまず18年を浪費しました。進学して故郷を離れ、親の干渉から逃れられたものの、自分の考えを自分で設計出来ない。今度は周りに流されるまま行動するしかなくなりました。今は客観的に当時の状況を見れますが、当時は自分のフラストレーションの原因が何なのか分からないまま、どうしていいか分からないまま30が目前に迫りました。合計29年の浪費となりました。今振り返るとメモなど一切とらずによく働けていたなと思います。その分生活は荒んで、仕事もブラックでしたが。ちょうど仕事の都合で更に故郷から遠くへ引っ越しました。その頃には両親の老いが進んだこともあり、気軽に会いにこられることもない環境が出来ました。新しい職場で心機一転頑張って仕事を覚えようと思いノートを買いました。仕事のノートだから見られても恥ずかしくないと自分に言い聞かせたことを覚えています。教わったことをノートに書いて整理すると驚くほどスッキリします。こんな風に自分の考えや悩みも書いて整理すれば解決出来るのではないかとあれこれ試してみるようになりました。その頃はまだ手帳ではなくノートを使って時々書く程度でしたが手帳に移行するのは結構早かったです。当時は何を買っていいかわからず、ほぼ日手帳を買いました。ホームページを見ると、とても楽しそうに手帳について語られていて、恥ずかしいことではないのだと思いました。通勤時間が長かったので、手帳本を読んだり読書に充てました。沢山の言葉が自分の中に注ぎ込まれ、30を過ぎた頃からやっと自分の意見を持てるようになり、言葉で表現できるようになってきました。そしてそれを手帳に書き、後から読み返す。書き始めの頃はグチャグチャだったノートの取り方も段々と綺麗になっていきました。通勤時間の読書でアルジャーノンに花束をを読みましたが、それと同じように感じて面白いなぁと思いました。と同時に自分の人生がいかに惨めかも把握出来て悲しくなったりもしました。今はほぼ日手帳をやめて、複数の手帳、ノート、ファイルで項目ごとに管理をしています。アイアンマンが自分で自分をアップデートしていくように、自分の手帳システムもアップデートしていきます。落ち込んだ時はアイアンマンを見て元気を取り戻します。今はお盆休みなので、手帳を見てじっくり考える時間が確保できます。連休中のやらなきゃいけないことやちょっと先の事を考えたりしています。私はもうアラフォーですが人生設計もぼんやりしています。しかし手帳を見て今後の事を考えて1人で過ごす週末が好きです。
全部読み終えてから感想を書くには、あまりにも増田のスペースは小さすぎる
ってなりかねんと思ったのと、都度書かないとそのときの感動を残せないと思ったから、
ちょっとずつ書く
まずはじめに、これまでホッテントリに上がってくるようなSFの古典とか名作とか言われてるのにちょこちょこ手を出してきたけど、その中でこれが一番だった
海外作家で設定厨に堕してなくてSFのエッセンスとエンタメの快楽を同時に最小限の文章で表現できている人に初めて出会った
下手に長編読んでもげんなりするし失敗したときのダメージがでかい
まだ全部読んでないし、これ以外のSFも2桁に届かないくらいしか読んでないけど、SFに手を出すなら、海外作家ならこれ、国内なら小川一水の老ヴォールの惑星を推す(星新一は別格として)。
SF警察に取り合うつもりはまったくないけど、小説というからにはエンタメがないとダメだと思う自分にとって、SFやりつつエンタメ性もあるものってなるの上記の選定が最初はベストだということ。
表題作含むいくつかの短編が入ってるから短編ごとに簡単に感想書く
RPGのワールドマップが上下左右でくっついてる理由、みたいなネタを思い出した
固有名詞がいろいろ出てきて覚えにくい・覚えるのめんどいと思ったけど、別に覚えなくてもどうにかなった
これヤバイ
クソ面白い
アルジャーノンに花束を+天才対天才の超身体能力バトルみたいな感じ
ちょっと話逸れるけど、伊藤計劃の虐殺器官ってやつで、結局虐殺の文法ってなんだったんだよってのがはっきり描かれなかったことが、自分にとってすんごくフラストレーションだった
あと野崎まどのknowってやつでも、最後らへんで天才対天才のバトルがあるけど、描かれてる視点が第三者だったから、高尚ですんごいバトルしてるのに傍目からは何をしてるのか全然わかんない、とにかくなんかすごいことやってるって描写しかされなくて、これもまた自分にとってすんごいフラストレーションだった
そんで翻ってこの理解という短編は両方を同時に解決しているすんごくすっきりする話だった
虐殺器官もknowも長編でだらだらやって結局大事なところをぼやかして描写することから逃げてるように感じたから、短編でここまで正面切って読者に開けっぴろげにケレン味たっぷりの描き方をしてくれてることに感動すら覚えた
表題作もいかにも面白そうで今まだ読んでる途中だけど、この短編だけのためにこの本買ってもいいくらいにはめちゃくちゃおもしろかった
最近のラノベのバトルとかマジで子供だましに見えるくらいの面白さを感じた
数学理論がひっくりかえるようなことを見つけちゃったのはわかるけど、それがあんまり大きくお話にからんでこなかった気がする
たぶんこれは2,3回読まないと理解できない
サブタイの1(数学のうんちく) 1a(妻視点) 1b(夫視点)で視点が切り替わるのは面白かったし、最後のサブタイはふーんと思ったけど、いまいちカタルシスに欠ける、というか、面白さが一読するだけだとSF素人には伝わってこなかった
まあ五百歩くらい譲って許すとしよう。
○○ハラって言われても全然イメージてきないし、なんのことかわからないだろ。
○○○○ハラスメント(以下、○○ハラ)これくらいの配慮もできてない輩しかいない。
これって知らん人を混乱させるだけの実はハラスメントなんだよ。早く気付いてほしい。
それでは最後にプチ氾濫しているけどさっさと○○○○ハラスメントに直したほういい○○ハラをどうぞ。
・マタハラ ← マハラジャみたいで楽しそうな印象を与えるので止めたほうがよい。
・アカハラ ← 普通に赤原さんっていそうだし、いたとしたら迷惑だから止めたほうがよい。
・アルハラ ← 最初見たとき、アルジャーノンに花束をハラスメントかと思った。そんなわけないけど止めたほうがよい。
これを書いた増田だが、ただ殴り書いただけなのにちょっと反響があってしまって責任を感じている。
http://anond.hatelabo.jp/20150513013343
だから今回はちゃんと俺の言いたいことが伝わるようにまとめてみたよ!
あ、タイトルは注目を集めるためにつけただけで、本気でそう思っているわけではなので悪しからず。
本気ではないが、半ばそう思っているけれど。
俺はナルシストだ。
そして品がない。
育ちも悪いしコミュ障だし、人の気持ちもわからんしデリカシーも無い。
見る度に、チックが別れた女房と息子に会いに行くシーンと、インデペンデンス号が墜落するシーンと、ハリーの自爆間際の走馬灯とで3回泣く。
俺の読書体験を要約すると、『スレイヤーズ』にハマって呪文詠唱覚えたり『星の王子さま』に感動したり『それから』を読んで代助のガキっぽさに読んでるこっちが真っ赤になったり『キノの旅』を読んで1巻目のプロローグとエピローグ暗記したり『猫の地球儀』に号泣したり『世界の中心で愛を叫ぶ』に号泣した後で本屋に平積みされてる『ジョン・レノンにだまさされるな』をワクワクしながら手にとって20ページほど読んでそっと棚に戻したり『いちご同盟』に号泣したり『バトルロワイヤル』に号泣したり『殺×愛-きるらぶ-』に号泣したり『天使の卵』に号泣したり『アルジャーノンに花束を』に号泣したり『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでわけもわからず激怒したり『ゼロの使い魔』読んでルイズに恋に落ちたり『フルメタル・パニック!』に号泣したり『とらドラ!』に号泣したり『永遠の0』に号泣したり『生贄のジレンマ』に号泣したり、まあだいたい号泣している。
こうして振り返ってみると読んでる本に脈絡ないなと思う。
ふらっと本屋で20ページぐらい立ち読みして、面白いなと思った本を買って読むからだろう。
あとは気分で話題になってるのを読んだりする。
テレビで『風立ちぬ』やったらしいから原作読んでみようか、とか。
夏目漱石とか太宰治とか川端康成とか谷崎潤一郎とか、国語の教科書に載ってるような文豪の作品も気が向いたら読んでみたりする。
ゲーテとかシェイクスピアとかカフカとかも、読んでみたことはある。
その中で、この人の書いたものは全部読まなきゃダメだ!って思わせてくれたのは秋山瑞人だけなんだよな。
『イリヤの空、UFOの夏』を読むと、
「ぼくは笑わない」
榎本の瞳の中に、どこか臆病な光が滲む。
「なぜそう言い切れる」
何度読んでもここで泣く。
これこそが文学だと思う。
さて、自己紹介もすんだところで俺の陳腐なブンガクロンの話でもしようか。
俺がむかっ腹が立って仕方がないのは「読書を教養を蓄えるための苦行と考えている人間」これに尽きる。
読書は面白いからするのであって、苦しむためにするわけじゃない。
ミステリが好きな奴は犯人探しにうんうん頭を悩ませるのが好きなんだろ?
重厚な哲学書みたいなのが好きな奴は、難しい話を読むのが好きだから読んでるんだろ?
読書が好きな奴にとっちゃ、当たり前だよな。
まさか、スタバでMac広げるノリで、ファッション感覚で分かりもしない純文学読んでる奴なんていないよな?
世の中には少しはそんな奴いるんだろうけど、こんな所でまで文学にあーだこーだ言う物好きの中には居ないだろう。
だからこの文章を読んでる人は、俺の嫌いな人間じゃないはずなんだ。
で、なんで読書が苦行と結びつくかと言うと、いわゆる「タメになる名作」って奴が歴史の洗礼を受けて生き残った、古い小説になることが多いからだ。
古い小説には、現代に生きてる人間にとって見慣れない表現が多く使われている。
当時の人にとって「ぐいぐい読ませる美しい名文」の集まりが、読書経験の少ない人には、まるでお経かなんかみたいに見えてしまっているわけだ。
だから「教養の無い人間にとっての、教養のための読書」は苦行になる。
そして、少し本を読んでるってくらいの俺にとっても、やっぱり明治の文豪の書いた文章は、血の通ったものには見えないんだ。
俺の思考、心、俺自身を構成する言葉の一部とは思えないんだよね。
なぜならライトノベルは、俺の心を作っている言葉、そのもので書かれた物語だからだ。
俺の体の中にある思考や心を、本という形で取り出した物だからだ。
文学かじってるような奴らは、『不朽の名作』なんて小っ恥ずかしい妄想を本気で信じてやがる。
断言してやるが、そんなもんはこの世に1作品足りとも存在していない。
全て名作は朽ちていくんだよ。
それは、作品に込められたメッセージが古くなるのではなくて、俺達が読めなくなるんだよ。
俺達には手が届かない。
だからどんな名作だって、その名作の本当の味を味わうことはできないんだ。
ショパンがその手で響かせていたピアノの音色を、俺達が耳にすることはできないように。
失われてもはや取り戻せない。
だけど、俺達はその片鱗だけでも、味わうことができる。
きっと完全ではないが、味わえる。
だって、人の心には百年でも千年でも、最も深い所に変化はないからだ。
そう信じるに足る何かがある。
眩いだろう。
なんか胸がときめくだろう。
ナルシスティックな気分になるだろう。
何十年かしたら、今読まれているラノベは苦労なしに読めない物語になっていくのだろう。
教養のための本になっていくのだろう。
それでいいんだよ。
そしたらまた別の何かが読まれるさ。
そうして俺達は滅びていく。
俺達の感動は、俺達の号泣は、俺達のナルシスティックな情動は、受験生を一喜一憂させる国語の試験の点数に押しつぶされて消える。
俺達が滅びた後で、意識高い系のインテリ気取りが20世紀末から21世紀初頭にかけての文学として、読み解くのに苦労するものとして、ラノベを語るのだろう。
それがちっとむかつくってだけだ。
「この業界周りで働く人たちは、皆、総じて、"愛"に弱い。」(辻村深月 ハケンアニメ!)
「アイドルマスターシンデレラガールズ」の第3話を見てこの一文を思い出さずにはいられなかった。思い返せば第1話冒頭。ニュージェネレーションから漏れた彼女たちをすでにデビューしたアイドルとして見せた「お願い!シンデレラ」。画面からあふれでる愛におぼれるようだった。それからはじまった物語も素晴らしく、決め台詞が差し込まれる話運びにただただ溺れるしかなかった。そして第2話の宣材の撮影。たとえ短くともまた漏れてしまった彼女たちが出演している絵に心が震えた。
そこからの第3話。ついにはじまるシンデレラストーリー。ゲーム本編をプレイしていないため彼女たちの衣装がどのイベント、レアリティのそれなのか判らないことが残念でならない。
ここまでアニメデレマスは漠然としていた「見たいもの」が予想以上の物語と絵をもって与えられる、天啓の甘露のようだ。まぶしいばかりの愛が散りばめられ、あふれている。まさにスターだ。
そして光が強ければ強いほどに闇が色濃く見える。
アニメ「艦これ」である。アニメ企画が発表された当時に当然の展開と受け止めていた。そして同時に口にはしなかったが漠然とした不安が芽吹いたのも事実だった。
時がたち発表されたPV第1弾。動く彼女たちを見て真っ先に感じたのは違和感だった。重い曇天、鈍色の海。それらを従えたなによりも黒い深海棲艦。立ち向かう艦娘たちにもどこか闇がつきまとう。戦争が舞台であることは承知していたが、これはあまりに暗すぎる。その色遣いは先立って感じた不安に塗り込められた胸の内を投影したかのように見えた。
そして第2弾PV。不安を拭い去るかのような明るい場面……の果てにでてくる秘書官長門。参戦本部なのだろうか、その色遣いはセピア色。軍楽隊が奏でるBGM。夕日の中飛行する戦闘機(九七式艦攻? というところに目が行ってしまう)。当然であるが戦争だと思い知らされる。美少女動物園の日常アニメではないと見せつけられる。
それが見たいわけじゃない。
そんな不安の中はじまったアニメ艦これ。なぜか舞台は現代でも未来でもない。過去だ。太平洋戦争当時なのだろうか。その説明はない。不安ばかりが募る始まりだった。
そして第3話。不安は形になり、姿を見せた。これは戦争なのだ。生きるか死ぬかの物語なのだ、と。轟沈と隣り合わせの青春なのだ、と。
艦これは強烈にデレマスとの対を感じさせる。
女の子が戦う世界を見せつけることで、全提督に冷や水を浴びせ続けるかのように。世界は絶望に満ちていると押さえつけるかのように。誰もが死ぬんだと殴るかのように。目をそらすなと睨むように。
ここに期待はないんだと叫ぶように。
俺は木曜に冷や水を浴び、金曜夜には愛を浴びる(BSは異なる、と入れておけばいいのか)。
艦これは物語世界にあまりに従いすぎている。物語の下に艦娘たちを配置している。だから戦争の影から逃れられない。すべてを支配する。
いっぽうデレマスは女の子たちが物語を従える。彼女たちの意思が物語を拓いていくのだと共感できる。
ただそれだけだと虚構のにおいが強いのだが、竹内Pとその上司たちがしっかりと世界を支えている。第3話で楽屋に現れた部長に川島瑞樹が挨拶をする場面などその真骨頂だろう。リハーサルでの音響さんのセリフ(ここの芝居がとりわけ印象的だ)、ステージ下のスタッフ。そしてライブ終了後の挨拶でスタッフの労をねぎらうセリフ。そういった細かいところがこれは「仕事」だと伝えてくる。言ってしまえば彼女たちだって戦っているのだ。みくにゃんの繰り返しの挑戦だって彼女なりの戦いだ。負けるけど。
デレマスのこの「愛し方」が判っている背景は突然のことではなく、これまでに連綿と繰り返されてきたアニメ化によって制作側に培われた技術なのだろう。つまり、もし艦これと同時期に「ゼノグラシア」が放送されいたらと思わないでもないのだ。
アイマスは愛し方が確立している。その頂点が先の劇場版であり、Febriの特殊号だろう。最新号は艦これ特集なのもなにか運命めいた存在を感じさせる。
小山高生がタイムボカンについて語った際に「天地人がそろった」と述べていた。同じことをデレマスに感じるし、いけないほうの天地人がそろったことを艦これに感じる。これまた偶然であり、運命の綾であろう思いたいが、第3話放映翌日から艦これアーケードのロケテストが始まった。三国志大戦撤去直後に発表されただけにその知らせに触れたプレイヤーが何を期待したのかは想像がつくし、その結果がどうなったかはご覧のありさまである。
「艦これではなく艦これ人気が好きだった」という増田には深く同意できる。残念だがいまのところ、艦これはすべて期待を裏切り続けていると言わざるを得ない。これから目をそらし、褒めそやすことは大本営発表を報道し続けた太平洋戦争末期の報道各社と変わりがないだろう。連想するなら艦これへの弓道からの批判は、本来であれば物語全体に向けられるべき「コレジャナイ」を局所的に言語化した結果なのだろうか。
竹内Pと提督の造形の違い、二次設定の使い方、ゲーム中の素材の扱い、表現……。あまりにデレマスと艦これは対をなしすぎる。恐ろしいほどだ。同時期に放送したのは両者の意地なのか、運命なのか、それとも他の何かか。私の心境としては、見届けるデレマスと看取る艦これ、というところだ。
「人為的に誘発された知能は,その増大量に比例する速度で低下する」(ダニエル・キイス 「アルジャーノンに花束を」)
謝れ。「SFとはスペキュレイティブ(思弁的)フィクションである」と語ったハインライン先生に謝れ。
SFというのは何も、科学的なガジェットや設定を垂れ流すだけの娯楽ではない。
「人間とは何か」「生きる理由とは何か」「感情とは何か」というような、日常では答の出ない問題を考えるために、
非現実的ではない程度に現実を超えた設定を導入する、思考実験のような側面も持っている。
例えば「アルジャーノンに花束を」は文句なしの名作SFであるし、同時に「幸福とは何か」を問う物語でもある。
漫画で言うなら、名作SF漫画と名高い「寄生獣」は、「人間とは何か」「生きるとはどういうことか」を考えさせる。
同様に、プラネテスも近未来宇宙SF漫画としてよくできているし、多くの「惑い人(プラネテス)」達を描くことで
何度も「人生とは」について考えさせられる。まさに名作SF漫画と言えよう。
ちなみに、プラネテスの作中で主人公ハチマキが得た答えは、あくまでその時点でのハチマキのもの。
http://anond.hatelabo.jp/20140802014307
うつ病の奴らは脳がダメになっている状態だから、ホワイトカラーブルーカラー問わず、仕事にいられると迷惑だ。その他の病気やケガの奴がきちんとしているように見えるのが、その他の病気やケガによって困難を抱えるのは体力や免疫力、ケガに置いては身体可動や単なる痛みだけだから。基本的な処理能力は低下しないから、知的労働においてそれまでできていたことが全くできないという状態は稀だろう。むろん、病状にもよるだろうが、頭は動く。ただし、うつ病の場合は見た目は元気でも脳がダメになる。甘えとかそういうレベルじゃなくて理解力も処理能力も落ちる。めんどくさい、ダルい、やる気でない、体がつらいという理由でやらないんじゃない。本当にそれまでできていたことが能力として出来なくなるから病気なんだ。『アルジャーノンに花束を』という小説を知っているか?知的障害者の主人公が手術によって誰にも負けない知能を得、またそれが失われていく過程を描いた小説だ。まさにうつ病はその知能を失っていく過程に似ているんだよ。今まで当然できていたことができなくなっていく。やらないんじゃない、やる気がなくてやりはじめることができないんでもない。うつ病になってしまったら、単に能力としてできなくなってしまうんだ。
うつ病は憂鬱になる病気、やる気がなくなる病気という社会認識自体間違っているんじゃないかと思う。その認識が「うつは甘え」という風潮を作り出しているのだと思う。うつ病において確かに憂鬱になったり何かをやり始めるのが困難になる場面は往々にしてあるだろう。だけど、それが真髄ではなく、脳の基礎能力が落ちる病気だという認識の方が正しい。足を骨折している人に体育の授業に積極的に参加しろって言えるのか?うつ病の人に誰にも迷惑かけることなく仕事をそれまでの水準でこなせというのはそれと全くおんなじことだ。そんなこと言われてもできないよ。骨折と違って目に見えない病気だから自分を守るため診断書を自分を守るために使うんだろう。
できない奴に職場にいられても余計迷惑だ。安静にしていれば快復するんだから、さっさと休んでくれ。病気なんだからしょうがないだろ。俺はうつ病なのに職場に固執する奴なんて、インフルエンザなのに仕事しないと迷惑かけるからとか言ってウイルス撒き散らす奴くらい軽蔑するね。迷惑なんだよ。休め。
「アルジャーノンに花束を」をアニメ化して見せた方が効果ありそうだけど。
一般的な常識=「親の躾」「周りを慮る余裕」「IQ」「人生経験値」「記憶能力」「職場での礼儀作法」
単にその人が馬鹿にしつづけたいだけか、平均値に上記のどれかの常識力が追いついてないせいでその人に精神的に負担かけているか
自称完璧超人が人生に余裕が無い時ってストレス解消に自分よりも力の欠けた下等超人を「愚か」だと言っていたぶりにくるのはSNSでもリアルでもガチ
それ見て「ごめんね~^^(ああ今余裕が無いんだな、よしよし~)」とさらりと流している 治せそうなものは治すよう努力しているけど
限界値と言う物はあるので至らないものは「生まれてきてあいすいません^^来世にご期待ください」と思っている
頭の良い人は「やる気を出せば人生が変わる」「ポジティブ至上主義」な事いっている時あるけど
頭がぽややんとしている下等超人が幾ら頑張ったって
「努力したところで一般的な常識(オレオレ基準)完璧超人の足元にはとうてい寄れない
だって完璧超人を下等超人がしのいでもその事実を完璧超人が認められるはずが無い
頭が良くない状態から急激に頭が良くなっても『アルジャーノンに花束を』のチャーリーと同じようになるだけ
完璧超人をおだてて気持ちよくこちらに都合の良い方向に動いていただけるように研いだ心と知能は隠しておこう
「普通」以上で「自己啓発」好きの人達は「普通」にはどうあがいてもなれない人の存在や他人の「ネガティブ」な気持ちなど
理解しようともしやしない 見ることさえここにネガティブなことを書くことさえウザがる そんなもんさ
その完璧超人は「常識が無い」というありきたりのテンプレ言葉で他人に常識を説く前に「人間」として無くしてはならないモノを無くしているね