はてなキーワード: 言論の自由とは
grdgs そうやって自分が高みから見下したつもりで冷笑的に言論の萎縮を図るのって気持ちいいみたいですね。一部の人にとって。普段言論の自由が何より優先って言っている人はよくそういう態度とりますよね。
言うほど高みか?どちらかというと、人間の認知能力なんて良くて生活圏の把握くらいしかできないんだから、自分も含めた99%の人間はその場の感情に振り回されながら殴り合うしかないという前提は共有されるべき、的なことを言いたかったんだけどね。
実際、元増田はかなり高度なことを要求していて、まず『一枚岩ではないアンチフェミに対し解像度を上げて理解』しつつ『アンチフェミの根幹にあるフェミニストへの不満を掬い上げ』『フェミニズムへの反感を無くす(=アンチフェミを無くす)』ことが必要だと説いている。非常に建設的な提案だと思うが、同時に非常に非現実的な理想論でもある。なぜかというと、まず一度敵であると認識した相手、ここでいうアンチフェミ(もしくはフェミニスト)を、感情を度外視して冷静に理解することはスーパーマンでないと成しえない特殊技能だからだ。ほとんどの人間は自分と相反する意見を見ると強い嫌悪感を催して攻撃か逃避に走るしかなくなる。
あからさまな攻撃に見えなくても多くはこれに当てはまる。例えば、はてなで定期的に行われる「ブクマカは属性当てはめゲームをしているだけで差別そのものには興味がない」みたいな指摘はわかりやすい。より正確に言うなら、ゲームを楽しんでいるというよりは「自分の感情に任せた攻撃」という体裁の悪い行為を既存の反差別の枠組みを使って自他から覆い隠した結果生じた矛盾、ということになるのかも。要は社会的正しさや合理性、経済性、伝統…etcといった既存の第三者的な理論や研究・権威を掲げているからといって、イコール冷静な議論を試みていることにはならないのだ。
ともあれ、活発に活動する動機を持ったほとんどの人間が、普段の生活や過去の経験から強い問題意識をもって活動を始めている以上、こうした攻撃性からは逃れられないと言っていいと思う。
でも、それを否定したいわけではない。ほかのブコメにもあるように、「それでも何か意味がある」と信じて殴り合いの仲裁に入るのも泥沼でもがき続けるのも、自分は決してやめるべきではないと思うし、そうした人間のおかげでこれまでも社会が変わってきたんだろうという実感がある。
ただ、だからこそ元増田が求める冷静さはあまりにナイーブで、ともすればちょっとした出来事で大衆に失望して理想を全て投げ捨てかねない不安定さを感じてしまって、つい口をはさみたくなってしまう。結局のところ考え方の好みの問題なんだが、これも『冷笑的に言論の萎縮を図る』ことになっちゃうんかね。
韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督の2020年の作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である。
描かれる時代は、アジア太平洋戦争で日本帝国が敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争の責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去を清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。
その標的はまず、戦前は絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前・戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。
戦後日本を象徴する言葉は、長いこと、「平和と民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。
天皇の戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年→1945年)アジア太平洋地域で戦争を続けた近代日本の実像を覆い隠し、この戦争の全体像を、最後のわずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島・長崎の「悲劇」を前面に押し出し、米軍占領下の沖縄は辺境ゆえに無視して、日本全体があたかも戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦・平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。
1960年の安保闘争の時にも、1965年の日韓条約反対闘争の時にも、戦前の日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在を分析する言動はほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会は総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。
1960年代後半、この社会・思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長の過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長の最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。
時代はあたかも米国のベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島に輸送される米軍物資の調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジアの民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。
加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人や先住民族(インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配が人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。
「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本の近代史と現在が孕む問題群に、「民族・植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。
「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み
「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計』から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。
「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーションで流れる。
多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。
その責任の一端が、「反日」そのものの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。
画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊の大道寺将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係も自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶と悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。
映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えのなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。
「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画を制作したのは、韓国の映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画を制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議=編『支援連ニュース』420号、2021年3月6日)。社会的正義のために、加害国=日本に搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日」メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。
だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場用パンフレット所収)。
74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本の自分たちが戦後の「平和と民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本の植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。
そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現と言論の自由を獲得した韓国の新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画が日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本も韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援連ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。
最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性の存在だと思われる。
刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たちの闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。
キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。
死刑囚の獄中書簡集を読んで、あんな事件を引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつうの青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑囚である義兄とは、媚びへつらいのない、上下の関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。
そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督も女性だ。弱い立場にある労働者の現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこの作品に脈打っていたフェミニズムの視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。
その表現で精神障害者の当事者がどれだけ傷つくか想像力もないから、差別されるんじゃないですか?
精神障害者扱いするなってどれだけ傷つくかわからないんですよね、それって相当酷いですよ。
精神障害は原因が分かってきてるけど、同性愛とかトランスジェンダーとか、そっちの方がはっきりしてないんですよ。
なぜ同性愛者が誕生するのかはっきりしてないのに、なぜ精神障害者と同じにするな!という言葉で誰かを傷つけるんですか?
自分たちが傷付いたからと言って他の誰かを傷つけていいんですか?
私は生まれた性別と体が違う!と言い出す人はあなた方が言う精神障害者だと思いますし、同性に性的に興奮する人もちょっとおかしいなと思ってますよ。でもそれを異常だって言ったら怒るじゃないですか。
言論の自由もないんですよ。だいたい精神障害者の中には鬱とかも含まれますよね、どの精神障害者だと思って同じ扱いするなと言ってるんですかね、統合失調症あたりですか?そちらさんだって知りもしない知ろうともしないくせにずいぶんな言い方しますよね。
見えないんですよ結局精神障害者も同性愛者もトランスジェンダーとやらも。
年金貰おうが雇用枠があろうが生きづらさは別にLGBTの方が精神障害者の方が上とか下とかないんですよ。
なぜ誰かが傷つく表現をやめないんですか?そちらがやめないんだったらこれからもBL漫画たくさん買うし、手を繋いでる男同士がいたらBLだーって思うし女の子同士の友情を百合と表現することはやめないしトランスジェンダーの人をおかまだおなべだと言うのはやめませんよ。
ブクマの上位に挙がっていた「かわいい人にかわいいと言うのは、僕としては結構ありえない 」って記事だが、
これに同意できない。(記事のURL:https://note.com/yasuharakenta/n/ne19f1e86e899)
痴漢とか、通り魔とか、「おかしてー(犯したいの意)」とか言うのが駄目ってのは同意、当たり前だが。
元記事はかなりまとまりがなくて、主張が曖昧なので批判しにくいが、
・付き合いたいのなら容姿のことに言及するのは方法として上手くない
とか多分そんな感じのことを主張していると思う。
(注:元記事はモテ戦略をメインで扱っているが、容姿への言及自体の悪性も割と強く主張している。)
で、考えるまでもなく、これらの主張の正当性は状況や人に依存する。
見ず知らずの人に急に「かわいい」とか言われても怖いだけなのは当然。
でも、インカレサークルの新歓で気になる異性にアプローチすることは自然なことだ。
普通手っ取り早く好みの異性を見つけるための場所だろう(知らんけど)。
また人の恋人観なんてのはかなり多様で、精神的に分かりあうのを大切にする人もいれば、
とにかく好みの容姿を持つセックスの相手を見つけたい人もいる。
後者の場合だったら、欲望むき出しのアプローチがむしろ上手くいって、
丁重に接するのは面倒がられるだけかもしれない。
例えば元記事の場面でもこういう風に盛り上がる場合もある訳だ。
先輩「かわいいねー」
後輩「えー、そんなことないですよ」
先輩「いや、かわいいって!」
後輩「そうですかー笑?ありがとうございます!」
後輩「はめないでください笑」
飲み会の場でこういう軽薄なやり取りは、アイスブレイキングの機能もあるし、
なにより彼らはこれを楽しんでいる。楽しんでいる人にとっては、
勝手に慮った態度で冷や水を浴びせてくるやつの方がよっぽどキモい。
ここには「本当は君はこんなコミュニケーションを求めてないはずだ」っていう
決めつけがあるし、実のところそれは自分の願望を投影してるだけ。うっせぇわって話。
あと元記事には「かわいい」と言うのは「やりたい」と言うのと同じなんて書いてあるが、
これは目を疑うレベルの妄言。美しいものに感動したことはないのだろうか?
また馬鹿らしいだけでなく、容姿に言及する人を性欲に支配された粗野な人であるかのように
TikTokの性的なコメントだっていつも不快なわけではなく、喜ぶ人だって沢山いるだろう。
それを容姿への肯定と理解して喜ぶ人もいれば、内容はどうであれバズることに快感を感じる人もいるし、
twitterに裏アカ女子なんてのが沢山いることからしてもこんなことは明らかだろう。
ただ勿論、容姿への言及に傷つく人もいて、だから問題は傷つく人がいるからやめるべきなのかということ。
世間には快より不快の除去を優先するのが当たり前と考える人が結構いるが、そんなルールはない。
そして容姿への言及によって生じる快不快はどちらもときに重大で、人生を変えてしまうほどの影響をもつこともある。
これは相対的な立場をとって、どっちつかずでごまかそうというのではなくて、私たちは容易にそういう人たちを想像できるし、
場合によっては知ってさえいる。
キモくて性的なコメントであれ、容姿を褒められ、それをきっかけにファッションや美容に興味が出て、
自己変革に成功した人だっているだろう。「良心的」な人間の「良心的」なコメントでのみ人は良く変われるなんてのは
人間のアンビバレントなあり方を無視している。キモいけど嬉しいことだってある。
で、ここまで来ると、この問題はよくある多様性の受容の議論と相似であることに気づく。
つまり、自分にとって不快だけれども、他人にとって快だから存在を受け入れようという話。
だから私は人には容姿への言及をする自由があり、それは悪いことではないことを受け入れるべきだと言いたい(一応言っておくと私は他人の容姿には基本言及しない)。
勿論、同じ論理を使って、容姿への言及が不快な人にとっては「容姿への言及があること」が不快で、「容姿への言及がないこと」が快なのだから、
容姿への言及をしたい人は、「容姿への言及がないこと」を受け入れるべきだと論理的には言えるのだが、
実際にその論理が受容され、浸透することはないだろう。
なぜなら容姿への言及は明白な悪でなく、人のコミュニケーションの自由(≒言論の自由)が保証されることは明白な善だからだ。
ヘイトスピーチでさえ直ちには規制されなかったのだ、言論の自由の価値は理念的にも実際的にもどこまでも重い。
一応注意しておくと、「容姿への言及の自由を受け入れろ」ってことで、「自分に向けられたそれを受け入れろ」って話ではない。
つまり、あなたが容姿に言及されて不快であれば、それに苦言を呈すのは自由だが、
相手が社会的な悪事をなしたわけではなくて、相手があなたにとって不快な発言をしたに過ぎないということ。
そしてそれを喜ぶ人もいることを認めるべきだということ。
自分にそういう発言が向けられるのを予防したかったら、そういう禁止令を確立しようとするのでなくて、
つまり、そういうことを言う人間と同じコミュニティに属さないというのが一番簡単だろう。
あとはそういうのが嫌な人間だということを常々アピールしておくとか。
(注:会社で上司から言い寄られるとか、バイト先の客がしつこく絡んでくるとかは対処しにくいが、
これらは粘着的な気質、ストーカー気質の問題で、容姿への言及がなくなったところで解決しない。)
こう言うと、「何故被害者側が労を取らなくてはならないのか」とか
そういう人は世界が自分のためにできているわけではないことを受け入れなくてはならない。
元記事のような主張を、何故か個々人の精神を尊重するヒューマニズム的な考えと捉える人もいるようだが、
とかなんとか色々書いた挙句、私の根底にある考えがうまく表せていない気がするのでここに文脈を無視して書くが、
私は他人と関わるときにしばしば生じる想像を超えた事態――例えば、人と話すうちに一度も考えたことのない内容が口から流れ出たり、他人の思いがけない側面が表れたりするーー
に遭遇するとき、強く人間の魅力というものを感じる。異質な人間を許容することはときに誰も悪くないのに悲劇をもたらすことはあるけれども、
今も昔も変わらないのだな
「誰もが言論の自由を支持している。賞賛されない日はない。しかし、一部の人の言う言論の自由とは、自分だけが自由に好きなことが言えるということである。誰かに言い返されると激怒するのだ。」
Winston Churchill “Everyone is in favor of free speech. Hardly a day passes without its being extolled, but some people’s idea of free speech is that they are free to say what they like, but if anyone says anything back, that is an outrage.”
https://www.goodreads.com/quotes/17797-everyone-is-in-favor-of-free-speech-hardly-a-day
https://www.getreading.co.uk/whats-on/whats-on-news/piers-morgan-meghan-churchill-quote-20031718
http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2021030880090
【社説】韓国与党が懲罰的損害賠償法の制定強行、ロシア・フィリピン並みの言論統制国になるなんて
国際新聞編集者協会(IPI)のバーバラ・トリオンフィ事務総長は「メディアに懲罰的損害賠償を求めることができる法律が導入され、言論の自由が制限されるならば、韓国を『コロナ流行期にメディア規制を導入した国』のリストに追加する」と述べた。韓国与党共に民主党はメディアの報道に最大3倍の懲罰的賠償を課す法案の制定を推進している。「フェイクニュースを防止する」という名分だが、実際には批判的なメディアにさるぐつわをはめる意図だ。
IPIは全世界100カ国の新聞、放送の発行人、編集者らが会員として加盟している最も影響力があるメディア団体だ。現在IPIの言論統制国リストにはロシア、フィリピン、タイ、カンボジア、ヨルダン、ルーマニア、アゼルバイジャンなど17カ国が含まれている。トリオンフィ事務総長は「これらの国はいわゆる『フェイクニュース防止法』を言論統制手段として使っている。韓国も問題となる状況であり、注視している」と述べた。世界10位以内の経済大国であり、民主主義国である韓国が独裁・低開発区と並んで言論統制国の汚名を着せられる格好だ。
ロシアは公共の安全に深刻な問題を生じさせる誤った情報を流布した場合、最大1億5000万ウォン(約1440万円)の罰金を科し、国家に害となる文章を削除しないウェブサイトを遮断する法律も制定した。ハンガリーはコロナ対策を妨害する情報を広めた場合、罰金と懲役刑を科す法律を可決した。何が誤報で害に該当するのか基準すら明確ではない。
文在寅(ムン・ジェイン)政権が推進している法律も同じだ。虚偽または不法な情報で損害を受けた場合、懲罰的賠償を命じるとしているが、それを判定する基準がない。インターネットのフェイクニュースだけが対象だと言っていたら、メディアもポータルサイトも全て対象に含めた。
常にフェイクニュースを広めた張本人はむしろ与党関係者だ。今回の法律を推進する与党のタスクフォース(TF)団長は聴聞会で虚偽の写真を使い、企業経営者を攻撃した。文在寅大統領は「日本の福島原発事故で1368人が死亡した」と述べたがフェイクニュースだった。「外国の製薬会社が韓国にワクチン契約を早く結ぼうと言っている」という保健福祉部長官の言葉も事実ではなかった。そんな勢力が逆にメディアを掌握しようと棒切れを振り回し、大韓民国を言論統制国へと向かわせている。
たとえば私は天皇制は廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間をランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇の問題については、過去に右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論の不自由を懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論の不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。
右翼の極一部、恐らく一人か多くても数人、が襲撃とか脅迫とかしたところで、それを国民とかメディアが受け入れる段階がないと言論の不自由とはいえないと思うんだが、、、だって国民のほぼすべてが自由主義者でもたった一人の過激派がいたら事件は起こってしまうわけで
https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b
まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼の定義やリベラルの定義の困難さ、特に現在の日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラル」であると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトのポリティカルコンパスでは、
https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php
という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である。混同している人は気をつけてほしい。
そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。
まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータやエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論やフェイクニュース、似非科学や歴史改竄に代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。
たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者の立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党は本来はワクチンに否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政に要求したりしてきた。しかし副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告を支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判や運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しかし現在出ている科学的検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学的エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。
この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償を適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判の原告団体については、補償の範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党の名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告を支援する左派系政党や団体に共通する問題として挙げた。
しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言に同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。
"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。
しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。
リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"
ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。
イシグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊な場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。
語ることがリベラルの専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的で文学芸術を愛する少数のインテリの世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験を一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリの傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚な発言だとは気づいているのだろうか。
イシグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場が日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼を蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである。
たとえば私は天皇制は廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間をランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇の問題については、過去に右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論の不自由を懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論の不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。
「自由民主主義」の社会を享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。
日本で左翼をやっていると、自分が投票した候補者が当選することも少ない。民族的、性的、その他さまざまなマイノリティの権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界でいかに存在を認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動の第一歩になる。言うまでもない前提だ。
上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者の多様性が重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者の多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票で勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。
また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳の問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家がブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。
しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティの運動の中などでは特に、当事者が自ら語ることを重視する。当事者の心中を非当事者が想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想的立場の違う作家がいかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。
その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステートに洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。
イシグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論、原則としては全くその通りである。しかし現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論やヘイトスピーチへの対処を現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則と現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラルの原則と現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。
"「トランプの陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"
https://finders.me/articles.php?id=2529
私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制の方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当か判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。
また、いくつかのブコメが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもイシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情が陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外からの解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報にさらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象は特に感情がからまなくも起きる。平凡な思想を感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論やフェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。
ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究や取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本の記者によるものさえある。
"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"
https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html
イシグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。
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「LGBTは嫌いだ」と言う権利があるのかとか、それとも差別なのかとかあるけど、本当にしょーもない話。
だいたいこの法治国家で、裁判も経ずに素人がいいか悪いかを決めようってのが、本当にバカげている話でしょ。
日本は法治国家なんだから、相手の口をふさぎたかったら、裁判を起こせよ。それ以外これに関して言うことないっての。
一応最近、言論の自由に関する裁判があったからその顛末を書いておく。
内容は、あの竹田恒泰がツイッターで「韓国はゆすりたかりの名人」とか発言してたのを受けて、戦史・紛争研究家の山崎氏が竹田のことを「人権侵害常習犯の差別主義者だ」と発言したことで、竹田が名誉を傷つけられたとして山崎氏を訴えたという話だ。
結論としては竹田の請求は棄却。つまり裁判の結果問題なしとなったということだ。
もうこれで結論出てるでしょ。つまり「どっちの発言も許される」ってこと。
もちろん個人としてその発言を許す許さないは好きにすればいいよ。でもそれは個人の感想で、日本社会としてはどっちも許されるってことなんだよ。
一応補足しておくと、竹田の発言が許されるかはこの裁判の争点ではないから不明だし、これはあくまで東京地裁の判決だから、今後も同様の判決が下されるかはわからない。
オリエンタルラジオの人は本当に意味が解らない。何がしたいんだ?シンガポールで何するの?ビジネスするなら解かるけど。あの勉強風の何かのyoutube配信でもやるんだろうか?それでも、シンガポールでやる意味あるの?
言論の自由については別の条文やね
法律の読み方しらないのモロバレ。
もちろん犯罪者であれば国によって逮捕され監禁されて自由をうばわれる。
言論の自由に関する条文があったってエロ本や嘘による悪口も言論の自由をうばわれるんだよ
つまり土台にケースバイケースのやつを上乗せして修正していってるわけよ
その延長上に個人の契約やSNSの規約も合法のものとして存在するんよね
(3)もし個別法とかSNSの規約が土台である法律や憲法にさえ反してる、そんなの無効だ!とおもったのなら最高裁までいって違憲判断もらってね
もちろんこんにちわーと明日いくわけにいかないからちゃんと地裁からはじめて高裁までいって最高裁と手順を踏んでね
SNSに何度凍結されても自分の言動が悪であったと理解できない荒らしくんもいるみたいだけど「めんどくさいから増田で煽っとこ」の当然の帰結としての凍結・垢BANやで
(4)これ全員中学校くらいで習うやろ。おまえら中学もでてないアホなん?と見え透いた煽りもつけておこうね