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2017-05-12

中日ドラゴンズロッテとの地底対決に震える

ロッテ日ハムに7被本塁打15失点という大敗を喫した

ちょっと前まで日ハムも暗黒ロードをひた走っていたはずなのにもかかわらず

もう急浮上である

やはり昨年優勝しただけあって多少の躓きぐらいなんのその

そして我が中日ドラゴンズGW最終日になんとか勝利

その勢いで火曜日岐阜地方球場横浜相手に8対1の快勝

ドラ1鈴木翔太が4年目にして初勝利

ついにドラゴンズも浮上の時だ

ロッテさんさようなら

暗黒はあなただけのもの

ドラゴンズAクラスを目指す旅路

そうなると思ったのだ

おもったのだ

だが

だが、しかし、その次の試合

怪我明けのドラ1小笠原が満を持して登場

圧巻の投げっぷりで勝利をもたらしてくれるそう思うじゃないか

けれども実に平凡なピッチングをして5回3失点

打線も前日の快勝を忘れたかのように沈黙

見事雑魚っぷりを発揮して完敗

なんだこれは

ひどすぎる

そして横浜3戦目

現在中日エースであるところのバルデスおじさんの登板

バルデスおじさんは勝運には恵まれていないが

とにかくピッチングが安定していて

中4日中5日でガンガンまわってくれる

中日投手陣の大黒柱なのだ

ここで勝たずにどこで勝つ

その勢いで4回に打線が奮起して3対1の逆転

もうこれは勝った

そう思うじゃないか

7回に我らがWBC日本代表でベンチを温めていた岡田投手交代

4球

たった4球で同点

そして逆転される

まりあんまりじゃないか

バルデスおじさんが頑張って1失点に抑えたんだ

打線も頑張って3点取ったんだ

それなのにたった4球でバルデスおじさんの勝ち星が消えてしまった

そこからもうあっという間

1点差

打てない打てるはずがない

そういう打線なんだ

見事雑魚っぷりを発揮して逆転負け

35試合目にして13度目の逆転負け

どんだけ逆転されてんだよ

くっそ雑魚すぎる

ロッテに負けてない雑魚っぷりだ

交流戦楽しみで震える

2017-05-10

清宮幸太郎高校通算本塁打数について

「清宮の90本超えは練習試合も含めているから参考にならない」と言い捨てるだけの記事を見かけたが、そういうことを書くんなら「他の高校通算本塁打数上位選手公式戦でどのくらいホームランを打っているのか」「早実グラウンドは広いのか」「早実練習試合を多く組んでいるのか」「早実の対戦相手は弱いのか」あたりをきっちり調べて書いてくれ。報道文句を言うだけなら迷惑ブログでもできるんだよ山田隆道。

http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/561901/

早実の1年間の練習試合の数は、他校に比べて極端に少ない。

早実が“主戦場”とする王貞治記念グラウンドは両翼93メートル、中堅120メートル神宮球場の両翼97・5メートル、中堅120メートルよりは小さいものの、一般的高校が持つグラウンドとしてはかなり広い部類に入る。

昨夏甲子園4強に残った早実には、今春招待試合オファー殺到。いずれも地方の強豪校ばかりで、実際早実勝率は決して高くはない。



もうひとつ言うと、リーグ戦があるプロ大学野球と違って、高校野球ほとんどがトーナメントなので、本塁打数を公式戦だけに限定すると、公式大会を勝ち進めるような強豪チームほど有利になってしまう。それはそれで不公平だろう。とりあえず「練習試合も含めているから参考にならない」ではなく「練習試合の内容がこうだったからこの選手はこうだ」と言えるようになってくれ山田隆道。

あと、いまや野球でも統計データ活用されている時代なんだから球場の広さや相手関係考慮に入れて、高校野球選手の成績を評価できるような指標があれば面白いんじゃないかね。

2016-12-01

メジャーリーグ史において最も重要な40人」について調べてみた

メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディアスポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。

The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News

ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。

1位 ベーブ・ルース(1895-1948)

MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。

2位 ジャッキー・ロビンソン(1919-1972)

近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年ドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。

3位 ケネソー・マウンテンランディス(1866-1944)

1920年ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。

4位 バン・ジョンソン(1865–1931)

1900年アメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。

5位 ブランチリッキー(1881-1965)

カージナルスドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。

6位 マービン・ミラー(1917-2012)

1966年エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。

7位 アルバートスポルディング(1850-1915)

スポーツ用品Spalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボール標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。

8位 ウィリアム・ハルバート(1832-1882)

シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグ創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。

9位 ルーブ・フォスター(1878-1930)

黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年ニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。

10位 ヘンリーチャドウィック(1824-1908)

野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。

11位 バド・セリグ(1934-)

元はブルワーズオーナー。MLB選手会オーナーの対立が激化していく中で、1998年実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。

12位 ウォルターオマリー(1903-1979)

ドジャースオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。

13位 ビル・ジェームス(1949-)

1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。

14位 フランク・ジョーブ(1925-2014)

1974年ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。

15位 ハンク・アーロン(1934-)

ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である

16位 ルー・ゲーリッグ(1903-1941)

ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。

17位 ドク・アダムス(1814–1899)

野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的ルールの策定に貢献した。遊撃手ポジション創始者とも言われる。

(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)

18位 バック・オニール(1911–2006)

ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。

19位 ロベルト・クレメンテ(1934-1972)

MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。

20位 ジェームス・アンドリュース(1942-)

肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。

21位 ジョー・ジャクソン(1888-1951)

シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。

22位 ピート・ローズ(1941-)

最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。

23位 ウィリー・メイズ(1931-)

走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。

24位 コニーマック(1862-1956)

1901年アスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である

25位 ハッピーチャンドラー(1898-1991)

上院議員ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナーランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラー進歩的であり、1947年ドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。

26位 オリバー・ウェンデル・ホームズジュニア(1841–1935)

連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。

27位 バーニー・ドレイファス(1865-1932)

1900年パイレーツオーナーとなった。その後のナ・リーグア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。

28位 アレクサンダー・クリーランド(?-?)

スコットランド出身のビジネスマン1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。

29位 テッド・ウィリアムズ(1918-2002)

レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。

30位 デビッド・ネフト(1937-)

大学で統計を学び、1969年スポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーバスケットボール百科事典も編纂している。

31位 トニー・ラルーサ(1944-)

ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックスアスレチックスカージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。

32位 レフティオドール(1897-1969)

MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。

33位 ロイ・ホフヘインズ(1912–1982)

アストロズオーナー1965年世界初ドーム球場アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。

34位 ロバート・ボウマン(1955-)

MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。

35位 マーク・マグワイア(1963-)

1998年サミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年ストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。

36位 カート・フラッド(1938-1997)

1969年カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。

37位 野茂英雄(1968-)

日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。

38位 メリッサラットク(1951-)

1977年ワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイキューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。

39位 ビル・ドーク(1891–1954)

1920年カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。

40位 セオ・エプスタイン(1973-)

2002年レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブス球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。

2016-08-26

http://anond.hatelabo.jp/20160826110324

真剣に勝ちに行ったり、最短で勝ちに行けば、竹刀を飛ばそうなんて考えもせずにあっさり二本取っておわるから、そんなことは何があっても起きない

舐めプしたら別だが

野球で実力差を言うなら完全試合じゃなくて5回コールドが先

プロ野球の話でいうなら、一試合安打とか、三打席連続本塁打とかもでてくるし、もうここまで言い出すと増田が何言いたいかからなくなる

オリンピック見る限り、今の柔道では、一本取るって現象がすでに実力差の照明になってるよね

カーリングで言えば、最後までやらずに握手する行為もそうかな

サッカーで言えば、一番いいのは支配率70%超えとか?

そんな差がつけば実力差は明らかと言える

でもだからってスコアでも圧倒するとは限らないのがサッカーの難しいところ

2016-06-18

MLB】盟友グリフィーJr.氏 イチロー日米通算記録に「“世界記録”は名案」(Full-Count)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160617-00010007-fullcount-base


日米の記録と世界記録

多くが忘れてるが張本も日米通算で記録を抜かれた際、NPB記録はあくまで私ですからイチローを認めていない。

あとご存じの通り彼はMLBNPBよりクソだと思ってるから来年にはMLB単独でもイチロー安打数抜かれそうだけど、それも認めなそう。

実際問題それぞれリーグが違うのだからNPB記録は張本、MLB記録はピートローズというしかないというのが正しいかもしれない。

から世界記録イチローというのが最も正しいだろう。

それにMLBシーズン中に違うリーグ移籍すると年間成績が別々に取り扱われるくらいに記録の集計にデリケートから

国もリーグも違うものは尚更同じ記録扱いにされることを簡単に納得しにくいだろう。


日米のレベルの差と記録の難易度は必ずしも関係しない

賛否両論あれどイチローが日米両リーグに跨がって活躍したことはどちらか単独で記録を作ったのは良かったことだと思う。

イチローのようにそれぞれの国で5年から10年以上にかけて長年プレーしながら通算で記録を達成することはNPBだけもしくはMLBだけで記録を達成するより難しいことだと思われる。

日米のリーグ差の問題はあるが率や安打数においてはリーグとの相性も加味されるし、試合数の差も考えると同等程度か、レギュラーをとれる一流選手であればMLBの方が安打数は多く積み重ねやすいのではないかと思う。

イチローも言っていたがNPBだけで4256安打打つことが一番難しいかもしれない。

NPB記録保持者の張本勲が唯一の3000本以上で通算3085安打王貞治世界記録の868本塁打を打ったが2786安打

755本塁打ハンク・アーロンは通算3771安打。714本塁打ベーブ・ルースは2873安打

そのデータを見るとNPBの方が当時はより球場も狭く投手レベルも低いのでMLbより本塁打数を重ねやすいというのは分かるものの、その点からいうと安打数においてアーロンルースより王の方が少ないというのは少し違和感があるし、20世紀前半以前のMLB記録を抜いて考えるにしてもMLBでは3000安打達成者は最近でもジーターらを始め何人か生まれている。

MLBでは4~6番が主で、イチローのように打席が多く回りやすい1~3番の打順試合に出ることが少なかった松井秀喜でもMLB打率.305を記録した2005年には200本に迫る192安打を記録している。

松井日本ではシーズン167安打が最高だったが、MLBで怪我するまでの1~3年目は全試合出場していることもあり、安打数は日本時代キャリアハイより多い170本以上を毎年記録している。

したがって、それなりに打率を残して試合に出続けられる選手ならばMLBの方が安打数は積み重ねやすいのではないかという可能性が考えられる。


日米のリーグレベルの差の疑問点

日米の単純な野球レベル差というのも議論余地が多少残る。本塁打は明らかに日本の方が打ちやすいことが通算上位の安打数における本塁打率の差からも分かる。

ただそれもトップ中のトップになると四球責めになりやすNPBよりは同じ四球責めを喰らうにしてもやはり試合数が多いMLBの方が有利となるが。ソーサマグワイアボンズ日本でやったら毎年のように60本打てたかというと四球責めで減っていただろう。

実際ボンズは476打数で73本塁打の翌年から勝負を避けられて400前後打数で40本台に減っている。

日本だと試合数が少ないしさら勝負を避けられて250打数で40本とかになっていたかもしれない。


通用しやす選手と当たり外れ激しい選手

また、MLBトップなら誰でも日本MLB時代と同等以上に成功するかというとそれも難しい所がある。

オールラウンドに打てる巧打力があればどのリーグでもそれなりの率を残せるが、得意なコースや球種に偏りがあると日本ではあまり打てないということがありうる。

現役メジャーリーガーでもパワーヒッター系よりミート力の高い中距離打者の方が日本では成功率が高い印象がある。

彼らは信じられないほどの成績を残したりもしないが失敗例は少ない。フリオ・フランコシェーン・マック、元西武フェルナンデスなど。

1980~90年代は日米の年俸が近かったせいもあって意外と今よりもMLBの本当のレギュラークラスが多数来日している。

彼らは十分に日本でもレギュラーとして通用した選手が多いものの、センセーショナル活躍をしたかというと、そういう例は少ない。

特にフランコMLB首位打者獲得を経験しており、全盛時に来日したMLBでもトップクラス選手だが日本での2シーズンは.305 10本、.290 18本とさほど目立つ成績ではなかった。

本拠地千葉マリンロッテ所属したせいで本塁打が少なくなった影響はあるかもしれないが、ほぼMLB時代と同じくらいの成績になっている。

シェーン・マック来日前までのMLB通算打率が.2994というバリバリの一流レギュラー選手だったが、日本では2年間で通算.284と打率を落としている。本塁打数と長打率は増やしており安定して活躍したが、NPBMLBそれぞれの通算長打率OPSを見てもあまり差がない。

それらの成績を見るとNPBMLBよりレベルが遥かに劣るとは考えにくい。

また、マックは彼以外の日本成功する外国人選手共通点でもあるが、野球に取り組む姿勢に非常に優れていたらしい。

野球に取り組む姿勢の良さは、日本からMLBに行く日本人選手成功と失敗を分ける要因にもなっていることがいえるように思う。

その姿勢問題でよくネタにされるグリーンウェルバランスのいいタイプの中距離打者だったはずだから、真面目に取り組めばNPBでも通用したと思う。


投手やパワーヒッター系は当たり外れが激しい

日米でも、それぞれ何故か片方で通用しながら片方では通用した選手というのがいる。

日本から帰国後にMLB最多勝を獲ったガリクソン帰国後にMLB本塁打王を獲ったフィルダーなど日本で何かを掴んで覚醒して両国活躍した選手もいたが、その逆は比較的少ない。

井口城島福留西岡などは故障や衰え、メンタル問題などでMLBを去った後も日本活躍したといえるのだが、しか日本での全盛時に比べると物足りない。

岡島五十嵐などはMLBで一皮剥けて何かを掴んで帰ってきて日本でも活躍したが、大家マック鈴木などは結局日本では殆ど活躍できなかった。

日本に出戻りではないが韓国パク・チャンホも衰えていたとはい日本では通用しなかった。その後韓国でも通用しなかったようである

あとは中島松坂などを見ても、今はもはやアメリカ帰りが日本簡単活躍できる時代でもないし、MLBで1.5流程度にやれたら日本韓国では1流以上というわけでもないようである


レベルよりも適性と相性

今までで最も日本に衝撃を与えた外国人選手は多分ホーナーなのだろう。

マイナー経験なしでメジャーデビューしたエリートで、そのまま主軸で活躍していたメジャーリーガー来日し、その肩書き通りに凄まじい成績を残した。

恐らく最もNPBレベル相対的に高かった1990~2000年前後よりさらに日米のレベル差が激しかったと目される当時(1987年)で.327 31本。

故障離脱があり93試合での成績だからかなり凄いのだが、当初は4割60本くらい打たれてしまうのではというほどの期待と恐怖があっただろうに結局はその程度の人間らしい成績に収まったともいえる。

バースマートンペタジーニカブレララミレスロバートタフィ・ローズなどMLBでは大した成績を残していないながら日本レジェンド級の成績を残した選手が多いので日米のレベル差は激しいと考える人も多いが、

逆にMLBで彼らを遥かに上回る成績を残して日本にやってきながら日本では彼らに全く及ばない成績に終わっているメジャーリーガーも上述の打者達のように多く存在するため、レベル差というより相性の問題もかなり大きい気がする。

日本でいえばMLBでも通用した田口壮新庄は、アメリカでさっぱりだった中村紀洋中島裕之以上の打者といえるのか…など。

歴代最強助っ人バースは速球が苦手で変化球が得意だったらしく、そのおかげでMLBより速球投手の少ない日本適応して史上最高の助っ人と呼ばれるような成績を残すことになった。

一方、当時そんなバースに速球で真っ向勝負を挑んだ津田江川勇気と度胸が賞賛されていたみたいだが、そういう事情を考えるとむしろ速球が持ち味の投手が速球が苦手な打者に速球で挑んだのだからただのセオリー通りなのでは…という気もする。

打者に速球は怖いという先入観から変化球勝負で逃げたつもりが逆にバースにとっては都合が良かったというのが活躍の要因かもしれない。

もっとも、日本ではバースが苦にするほどの速球を投げる投手も限られているので速球勝負でも打たれていたのだろうが。


俺流の慧眼

落合はその当時ですらMLBで4番を打っていたホーナーよりMLBで実績のないバースの方がNPBにおいては成績を残せる打者だと評していたらしいが、そのあたりの本質を突ける度胸と観察眼は凄いものがある。

MLB移籍前に日本で圧倒的な成績を残していたイチローだったが、当時は日本専門家の話でもMLBでは打率3割を打つことすら難しいとの声が多かった。

そのMLB移籍前のイチローとの対談において、落合メジャーに行ったらどの打順を打ちたいかという話題を振ったことがあった。

その際、イチローが「メジャー自分より凄い奴がいたら7~9番を打つ」と謙遜することを言ったのに対して、

落合は「(イチローより凄い奴はメジャーにも)いない」と突っ込んでいたのだった。


アジア人選手可能

日本人韓国人選手も今よりももっと多くの選手を輸出すれば、日本韓国では大したことなくてもMLB成功する打者が現れるのではないか

既に投手はそういう例が多数あるし、打者においても韓国チェ・ヒソプMLBレギュラー半でいながら2年連続15本塁打と健闘する成績を残した上でKBO(韓国)のチームに入団したが、韓国では期待に近い成績を残したのは1~2年だけで他はパッとしない成績しか残せないまま引退してしまった。MLBと比べたNPBよりもさらレベルが低いと目されるKBOですらMLBの実績の割にKBOでパッとしない例が散見することからも、少なくとも日米韓数字の見かけ上のレベル差はここ数十年でかなり縮まっていると思われる。

もちろん、主に内野守備球場など、総合的なプレーのスケール文化レベルにおいては向こう三十年以上埋まることがないと思えるほどの差があるが。


韓国レベル簡単には決めつけられない

韓国人選手NPBで通用しなくてもMLBで通用しそうなタイプ打者が多いように感じる。

イ・スンヨプキム・テギュンNPBよりMLBでの方が安定して成績を残せそうなタイプに感じていた。起用してもらえたらというのと、テギュンの場合環境への適応課題だが。

実際に今年は韓国人野手が何人もMLB移籍して打率の面で物足りなさはあるが長打の面では驚くくらいのレベルで健闘している。パク・ビョンホは打率は2割前後ながら既に11本塁打イ・デホは起用が少ないながら10本塁打打率も3割近い。怪我から復帰したカン・ジョンホも打率2割後半で9本塁打

あとはNPBでも活躍したとはいえ、信頼感抜群のクローザーだったとまでは言い難かったオ・スンファンMLB奪三振率が12以上で防御率も1点台で十分通用しているのを見ても、もはや日米のレベルの差は相性と調子が一番大きな要素になる程度なのではとすら感じる。

日本でも落合清原など外角を得意にして速球を得意にしていた打者MLBでやっても面白かったのではないかと思う。両者の日米野球での成績は散々だが、実は松井秀喜日米野球ではあまり打っていないながら通用したので、さほど直接的には関係しないように思う。

また、両者は飛び抜けた才能と技術の塊だから対応力があったのではないかとも思われる。特に体格的にもMLBの強打者に引けを取らない清原は何かの拍子によっては、むしろNPBで才能だけで適当に続けてしまった後の現状より成績的にも素行的にも好転していた可能性すら考えられる。実際清原が若かった頃はMLBからも注目されていたらしい。

しか関西出身野手アメリカ挑戦惨敗率の高さを考えると、清原メンタル的に微妙だったかもしれない。


イチローの唯一無二の偉大さ

つまるところ、全てのリーグ活躍した選手こそ最も優れている選手といえるのであって、MLBナンバーワンになった選手NPBでも必ずナンバーワンかというと怪しいのである

しかしたらマグワイアソーサボンズらはNPBでは松井中村紀、カブレラローズらより打てなかったかもしれないし、松井中村小笠原松中らはKBOではイ・スンヨプイ・デホよりも打てなかったかもしれない。

最近キューバトップクラス打者が何人かNPBに来たがさほど凄まじい活躍をしたといえるほどでもない。

グリエルは62試合で.305 11本、デスパイネも1年目は45試合で.311 12本だから凄さを見せたといえるが、2年目は103試合で.258 18本。十分通用はしているものの目を見張るような成績ではなく、単純にこのレベルの成績の選手MLBに行くと簡単に主軸を打てそうという想像はつかない。セペダに関しては逆に何故あそこまで打てなかったのか意味が分からないが…。

じゃあキューバ打者が大したことないのかというと、彼らとキューバ時代は同等程度の成績だったセスペデスやアブレイユらが亡命して、MLBの主軸として活躍できている。

グリエルデスパイネの成績から考えるとキューバ日本投手の相性があまり良くないのではないかと考えられる。つまりMLBで3割30本近い成績を残しているセスペデスやアブレイユでも、NPBではより成績を落とす可能性が低くないと思われるし、したがって、MLBの超一流なら高確率で、NPBで同程度から同等以上の活躍ができるとは決めつけられないのではないかと考えられる。

ピート・ローズだって試合数が少ないNPBで仮にやっていたらその期間はMLBと同等以上の安打数を稼げなかったことは間違いないし、それどころか、仮に1~2年間NPBにいたとして、通用しなかったりレギュラー争いで他の選手に敗れたりして100本も打てないまま日本を去っていたかもしれない。

推測や期待はロマンがあって面白いが、実際にやって証明した例に比べてしまうと、やってない以上はやってみなければ分からない要素がかなり大きい。

からこそ、NPBMLB両方のリーグで実際に何年もプレーした上で、両方で歴代最高峰の実績と印象的なプレーの記憶を残したイチロー現代野球では歴史上唯一といっていいくらケチの付け所のない世界歴代最高の選手だといえる。

また、それこそがNPB単独通算でもMLB単独通算でもない日米通算最多安打というイチローが残した実績の唯一無二の偉大さを表しているのである

2016-05-21

memo

プロ野球の各賞

一般社団法人日本野球機構(NPB, Nippon Professional Baseball Organization)が定める個人タイトルは次の通り.

セパそれぞれ選出される.

2016-03-05

落合博満は毎打席ホームランを狙っていた

落合博満プロ通算500本安打・1000本安打・1500本安打2000本安打という節目の安打が全てホームランであることは有名であるが、落合くそれは偶然ではないという。

まり狙ってホームランを打ったわけだが、節目の打席以外でも毎打席ホームラン狙いが基本前提だったために、節目の打席でホームランを狙って打つことが造作なかったと語っている。


イチローホームランを狙えば打てる能力があることを他の選手ファンから評価されており、節目の打席ではホームランを狙うことが多いとされる。

通算本塁打の割に先頭打者本塁打や1試合複数本塁打が多いことに加えて、年間200本目のヒットがホームランの年があることや、プロ通算1000本安打ホームランだったことなから狙えばホームランを打てる能力があることと、何らかの節目の時にはホームランを狙うことが多いことが指摘できる。

(確か1994年の200本目の安打日本通算500安打目の打球ももう少しでホームランという打球だったから狙っていたかもしれない)

しかし、同時にそのような節目を迎えた時にはスランプが少ない選手代表であるイチロー不振に陥ることが多いが、ホームランを狙っていた影響があると思われる。プロ通算1000安打の直前も不振で、久々のヒットとなるプロ通算1000安打目がホームランだった。

だが、落合はそのような節目を迎えた時に特別不振には陥ってはいなかったように思うし、本人もそう語っていた気がする。

(2000本安打の前に6打席ノーヒットというのがあったが、6打席くらいは大したものではないだろう)

それも毎打席ホームランを狙うのが基本前提だったかなのだろう。


ところで、サッカーにおいて日本人FWはゴールを狙える場面で変にもたつくことが多いとよく指摘される。

シュートを打てる場面でパスしてしまったり、キープしてる内にタイミングを逃してしまう、お馴染みの動作である

その特有のもたつきが無かった日本人の一人がキングカズこと三浦知良と言われる。彼と並んでゴンこと中山雅史もその一人だろう。

日本代表代名詞決定力不足となったのも、思えばカズゴン日本代表から遠ざかってからのことのように思う。


2000年代以降各種メディア日本代表決定力不足が当然の如く囁かれるようになっていたが、その時にJリーグの歴代選手の1試合あたりの平均シュート数を比較した記事があった。

それによると確か上位は殆ど南米系の外国人選手で、日本人で上位に食い込んでいたのはカズゴンだけだった。

シュート数におけるゴールの決定率でいえば日本人FWはむしろ高い方なのにシュート数が少ないためにゴールが生まれにくいことを指摘する記事で、シュートを多く打てるカズゴンは凄いというようなことを書いていたと思う。


カズは実際、「FWシュートを99回外しても、平然と100回目を蹴る精神構造でないとやっていけない」と言っていたが、

カズゴン南米FWシュートが狙える時はとにもかくにも狙ってシュートを打つことが基本前提としてあるためにシュートを打つことへの変な躊躇や恐怖がない。だからシュートチャンスで変なもたつきを出さずにシュートを打てるのだろう。

2016-02-04

清原和博凋落

 (以前書いたものを今回の事件修正

 清原和博覚醒剤容疑で逮捕された。1990年頃に彼がここまでひどい人生になるとは、一体誰が想像しただろう。

 今の若い人で「球界アイドル清原」の時代を知る人は少ないだろう。入団の経緯もあり、計算高そうで表情の起伏に乏しい桑田との対称で、清原喜怒哀楽が素直で純朴、というイメージ一般には持たれていた。また球界代表する投手のウィニングショット(例えば山田久志シンカー)を簡単に流し打ちスタンドに運ぶ打撃など、野球ファンに抱かせる将来への期待という点でも計り知れないものがあった。日本球界で、最もバッティング能力が高かった選手は誰かと言われれば少し迷いつつ「落合博満」と答えるが、素質や潜在能力については迷わずに「清原和博」と答える。

1990年代前半まで、当時は日曜日の午後に、テレビ朝日で必ず西武戦の中継が行われていて、私は(アタック25と一緒に 笑)毎週ほとんど観ていたと思う。だから清原和博の全盛時代は目に焼き付いている。

 かといって私は清原の大ファンだったわけではない。むしろ西武では石毛宏典秋山幸二などに比べて、プレースタイルが野暮ったいという印象があり、話すことも面白みのない優等生発言ばかりで(ヤクザキャラ現在でもこれが器用にできたりするのが悲しい)、正直それほど好きではなかった。しかし、これからどのくらい凄い成績を残すのだろう、というワクワク感を抱かせる選手であったことも確かである。好きな選手石毛秋山ではあったが、毎日の成績が気になったり、テレビで是非打ってほしいと願いながら見ていた選手は、明らかに清原であった。

 清原はいから悪くなりはじめたのか。個人的な印象で言えば1993年である。多くの人は1997年巨人入団から急激に悪化したような印象を持っているだろうが、それはあくまで「キャラ」の部分である。私は西武時代後半の不調を、そのまま巨人入団後も引きずってしまったと考えている。年度別成績を見ればはっきりするが、西武時代最後の2年と巨人入団後の2年はほとんど成績が変わらない。

 それまでの清原は、PL学園時代に叩きこまれ技術をそのまま生かして、自然体の構えから、そのまま軽く素直にバットを出している感じだった。それが1993年から、力感のある構えから打席内で大きな(さらに言えば無駄な)動作をするようにな った。体つきは、かつてよりガッチリするようになり、野茂伊良部の剛速球を豪快なホームランで弾き返すことがあった一方で、明らかに雑な三振が増えるようになった。それまでも調子の起伏が激しく、意外に精神的に不安定な選手であるという認識はあったが、この頃から徐々に打撃そのもの劣化している印象があった。

 特に1995年失望の年だった。春のキャンプ清原肉体改造をして相当に絞り込んでいるという姿が伝えられ、今までとは違う精悍な顔つきの清原に、私も「これは期待できるぞ」と思っていた。しかし、シーズンに入ると成績はさっぱりで、相変わらず動作の大きな打撃フォームから、雑な三振を繰り返していた。シーズン半ばに走塁中の肉離れで一月弱ほど戦線離脱をしたが、それまで故障知らずだった清原が、通常のプレー中に大きな怪我をするというのが俄かに信じられなかった。

 この「劣化」の背景には色々考えられる。一つにはよく言われていたことだが、清原自身打者としての理想や上昇志向が高すぎて、欠点を直そうとするばかりに利点を失わせてしまったこと、二つには秋山石毛、辻といった黄金期を支えたベテランメンバーが次々と西武を去り、清原自己満足的な打撃に歯止めをかける存在がいなくなってしまったこと、そして三つ目には、この時期パリーグ球場が新しくかつ広いものとなり、本塁打数も全般的に減少傾向にあったのだが、それに力で対処しようとしてしまったことである

 それでも清原が成長する過程なのかもしれない、と当時はまだ若干の期待を残していたが、巨人入団後に完全に露呈した打たれ弱さ、精神不安定さと、週刊誌の「番長キャラ」に自らも乗っかるようになったことで、清原の将来に期待することは完全になくなった。選手としての能力以前に、人格的に国民スターの器ではない(ある種純粋人間ではあるけど)ことは余りに明らかだった。週刊誌清原ネタを、自分も笑って楽しむようになってしまった。

 2000年以降に(清原によるとホームから離れて打席に立つことで)若干の復活の気配も見せたが、明らに無理なトレーニング野球選手とは言えないような体型となり、毎年のように大きな故障長期離脱を繰り返した。番長キャラにも年々拍車がかかった。オリックストレードされた頃は、既にかつての天性のしなやかさは完全に失われ、最後はまともに走ることすらできなくなっていた。若い頃の清原は頑健というだけではなく、無駄全力プレーをすることがない、身体に負担の少ないプレースタイルだったので、晩年ここまで怪我に悩まされるとは想像もできなかった。

 誰しもが思うことだが、18歳の時に既に完成されていた打撃技術をそのまま大事にし、無理なトレーニングをせずに練習で自然についた筋肉だけで勝負し、私生活でももう少し節制すれば・・・もし1990年の頃の自分に会うことができたら一体何をアドバイスするか、と清原に一度尋ねてみたい。

2016-01-21

東北6県 歴代プロ野球選手打線組んでみよう

としたら、組めない県多数・・・

歴代の投手打者の中から最強な人を1人ずつ選ぶことに

といったわけで秋田総合優勝

2015-11-10

[]2015新語・流行語大賞ノミネート解説

爆買い中国人日本にやってきて大量に商品を買っていくこと。
インバウンド訪日外国人旅行者のこと。
刀剣女子ブラウザゲーム刀剣乱舞」の女性ファン、あるいはそれをきっかけに刀剣に興味を持つようになった女性のこと。
ラブライバーアニメラブライブ」のファンのこと。
アゴクイイケメンに顎をクイッと持ち上げられること。壁ドン派生
ドラゲナイロックバンドSEKAI NO OWARI」の楽曲Dragon Night」のこと。
プロ彼女狙って有名人交際する一般女性のこと、転じて厳しい交際条件に応える完璧女性のこと。
ラッスンゴレライお笑いコンビ8.6秒バズーカー」のギャグリズムに乗せて連呼されるが特に意味は無い。
あったかいんだからお笑いコンビクマムシ」のギャグアイドルソングとして歌われる曲のワンフレーズ
はい、論破!コント番組「痛快TVスカッジャパン」に登場するキャラクターイヤミ課長の決め台詞
安心してください(穿いてますよ)お笑い芸人とにかく明るい安村」のギャグパンツ一丁で全裸に見えるポーズを取って発言する。
福山ロスましゃロス)福山雅治結婚によってショックを受けた状態のこと。
まいにち、修造!テニス選手松岡修造が売り出した日めくりカレンダー
火花お笑いコンビピース」の又吉直樹執筆した小説ベストセラーとなり芥川賞を受賞した。
結果にコミットするトレーニングジム経営する企業ライザップ」のCMに登場するフレーズ
五郎丸ポーズラグビーW杯歴史的勝利を挙げたラグビー日本代表五郎丸歩キックの前に取る拝むようなポーズのこと。
ルーティン同上。スポーツなどにおいて集中力を高めるために儀式のように決まった行動を取ること。
トリプルスリー野球において打率3割・30本塁打・30盗塁を同時に達成すること。柳田悠岐山田哲人が同時に達成した。
1億総活躍社会内閣改造に際して安倍晋三首相が掲げたスローガン。1億総活躍担当大臣も新設された。
エンブレム2020年東京五輪エンブレムのこと。佐野研二郎によってデザインされたが盗用疑惑が持ち上がった。
上級国民五輪エンブレム盗用問題の釈明にあたり使われた「一般国民」というフレーズに反発して作られた呼称
白紙撤回国立競技場の建て直しに際し、ザハ・ハティドのデザイン案では建設費がかかりすぎるとの批判が持ち上がり、安倍晋三白紙撤回を表明した。
I AM KENJIカメラマン後藤健二が「イスラム国」に拘束されたことを受けてSNSなどで広まったフレーズ。元はシャルリー・エブド襲撃事件で広まったスローガン
I am not ABE上記事件を受けて、ニュース番組報道ステーション」内で古賀茂明安倍晋三批判した際に使われたフレーズ
テロに屈しない後藤健二らの殺害を受けての安倍晋三発言
粛々と米軍普天間飛行場移設問題に関して菅義偉官房長官が用いたフレーズ翁長雄志沖縄県知事から批判された。
切れ目のない対応安保法制の成立を目指すにあたって強調されたフレーズ
存立危機事態集団的自衛権行使するための三つの条件のうちの一つ。
駆けつけ警護国連職員他国軍隊などを警護するために自衛隊がその場に駆けつけること。安保法制と関連。
国民の理解が深まっていない安保法制についてなかなか賛成が得られない状況での安倍晋三発言
レッテル貼り安保法制に関する議論において安倍晋三が繰り返したフレーズ
早く質問しろよ国会において安倍晋三辻元清美議員に対して行った発言
アベ政治を許さない安保法制反対デモにおいてプラカードなどに使われたフレーズ
戦争法案安保法制に対して批判的な側がよく用いる呼称
自民党、感じ悪いよね石破茂地方創生相が自民党自戒する意図で用いたフレーズ。後に安保法制反対デモなどでも用いられた。
シールズ(SEALDs)安保法制に反対してデモなどを行った学生団体。「自由と民主主義のための学生緊急行動」の略。
とりま、廃案安保法案に反対する高校生デモに際して用いたフレーズ。「とりま」は「とりあえずまあ」の略。
大阪都構想大阪維新の会打ち上げた、大阪府大阪市行政を一本化する案。住民投票実施され僅差で否決された。
マイナンバー行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」の実施に際して配布される個人番号のこと。
下流老人生活保護基準相当で暮らす高齢者のこと。NPO法人ほっとプラス代表理事藤田孝典提唱
チャレンジ東芝において強要されていた過剰な業績改善のこと。不正会計問題の発覚により広まった。
オワハラ就職終われハラスメントの略。学生に対して他社を受けたりしないよう悪質な囲い込みを行うこと。
モラハラモラルハラスメントの略。家庭や職場などにおける継続的かつ精神的な攻撃のこと。
スーパームーン月が地球に再接近する時期と満月もしくは新月が重なり、月がより大きく見える現象2015年皆既月食とも重なった。
北陸新幹線東京-長野を結ぶ路線として「長野新幹線」と呼ばれていたが、長野-金沢間が延伸され「北陸新幹線」に統一された。
ドローン元は無人機総称だが、遠隔操縦あるいは自律式のマルチコプター代名詞ともなっている。一般に普及し、落下事件なども引き起こした。
ミニマリスト身の回りのものを最小限に減らす生活スタイル、およびそれを実践する人間のこと。
フレネミーフレンド(友人)とエネミー(敵)を合成した言葉。「友人であると同時に敵」もしくは「友人を装っている敵」のこと。
サードウェーブコーヒーコーヒー一般化」「シアトルコーヒー」に続く、第三のコーヒーブーム。高品質な豆をハンドドリップすることが特徴。ブルーボトルコーヒー代表格。
おにぎらず漫画クッキングパパ」で考案され、クックパッドで広まったレシピ海苔ご飯を広げて折りたたむようにして作る四角いおにぎりのこと。

2014-09-24

清原和博劣化について

 最近清原和博をめぐるニュースが、薬物疑惑DV、劇太り、後輩の離反、仕事の激減、離婚などなど、あまりにひどいものばかりだ。1990年頃に彼がここまでひどい人生になるとは、一体誰が想像しただろう。

1990年代前半まで、当時は日曜日の午後に、テレビ朝日で必ず西武戦の中継が行われていて、私は(アタック25と一緒に 笑)毎週ほとんど観ていたと思う。だから清原和博の全盛時代は目に焼き付いている。

 かといって私は清原の大ファンだったわけではない。むしろ西武では石毛宏典秋山幸二などに比べて、プレースタイルが野暮ったいという印象があり、話すことも面白みのない優等生発言ばかりで(ヤクザキャラ現在でもこれが器用にできたりするのが悲しい)、正直それほど好きではなかった。しかし、これからどのくらい凄い成績を残すのだろう、というワクワク感を抱かせる選手であったことも確かである。好きな選手石毛秋山ではあったが、毎日の成績が気になったり、テレビで是非打ってほしいと願いながら見ていた選手は、明らかに清原であった。

 清原はいから悪くなりはじめたのか。個人的な印象で言えば1993年である。多くの人は1997年巨人入団から急激に悪化したような印象を持っているだろうが、それはあくまで「キャラ」の部分である。私は西武時代後半の不調を、そのまま巨人入団後も引きずってしまったと考えている。年度別成績を見ればはっきりするが、西武時代最後の2年と巨人入団後の2年はほとんど成績が変わらない。

 それまでの清原は、PL学園時代に叩きこまれ技術をそのまま生かして、自然体の構えから、そのまま軽く素直にバットを出している感じだった。それが1993年から、力感のある構えから打席内で大きな(さらに言えば無駄な)動作をするようにな った。体つきは、かつてよりガッチリするようになり、野茂伊良部の剛速球を豪快なホームランで弾き返すことがあった一方で、明らかに雑な三振が増えるようになった。それまでも調子の起伏が激しい選手ではあったが、この頃から徐々に打撃そのもの劣化している印象があった。

 特に1995年失望の年だった。春のキャンプ清原肉体改造をして相当に絞り込んでいるという姿が伝えられ、今までとは違う精悍な顔つきの清原に、私も「これは期待できるぞ」と思っていた。しかし、シーズンに入ると成績はさっぱりで、相変わらず動作の大きな打撃フォームから、雑な三振を繰り返していた。シーズン後半に走塁中の肉離れ長期離脱をしたが、それまで故障知らずだった清原が、通常のプレー中に大きな怪我をするというのが俄かに信じられなかった。

 この「劣化」の背景には色々考えられる。一つにはよく言われていたことだが、清原自身打者としての理想や上昇志向が高すぎて、欠点を直そうとするばかりに利点を失わせてしまったこと、二つには秋山石毛、辻といった黄金期を支えたベテランメンバーが次々と西武を去り、清原自己満足的な打撃に歯止めをかける存在がいなくなってしまったこと、そして三つ目には、この時期パリーグ球場が新しくかつ広いものとなり、本塁打数も全般的に減少傾向にあったのだが、それに力で対処しようとしてしまったことである

 それでも清原が成長する過程なのかもしれない、と当時はまだ若干の期待を残していたが、巨人入団後に完全に露呈した打たれ弱さ、精神不安定さと、週刊誌の「番長キャラ」に自らも乗っかるようになったことで、清原の将来に期待することは完全になくなった。選手としての能力以前に、人格的に国民スターの器ではない(ある種純粋人間ではあるけど)ことは余りに明らかだった。週刊誌清原ネタを、自分も笑って楽しむようになってしまった。

 2000年以降に(清原によるとホームから離れて打席に立つことで)若干の復活の気配も見せたが、明らに無理なトレーニング野球選手とは言えないような体型となり、毎年のように大きな故障長期離脱を繰り返した。番長キャラにも年々拍車がかかった。オリックストレードされた頃は、既にかつての天性のしなやかさは完全に失われ、最後はまともに走ることすらできなくなっていた。若い頃の清原は頑健というだけではなく、無駄全力プレーをすることがない、身体に負担の少ないプレースタイルだったので、晩年ここまで怪我に悩まされるとは想像もできなかった。

 誰しもが思うことだが、18歳の時に既に完成されていた打撃技術をそのまま大事にし、無理なトレーニングをせずに練習で自然についた筋肉だけで勝負し、私生活でももう少し節制すれば・・・もし1990年の頃の自分に会うことができたら一体何をアドバイスするか、と清原に一度尋ねてみたい。

2013-10-24

ウエハラ・フェノメノ

メジャーリーグワールドシリーズがついに始まりましたね。そこで、5日ほど前のものですが、アメリカ3大ネットワークの1つNBCによる上原の記事を翻訳してみました。誤訳があったらご指摘ください。

ウエハラ・フェノメノ

NBCスポーツハードボールトークより

http://hardballtalk.nbcsports.com/2013/10/18/the-uehara-phenomenon/

 さて、君もおそらく、今年のボストンレッドソックス)の上原浩治が、野球史上の全投手と比べて、最も塁に出るのが難しい投手だったということをご存知だろう。それはとてもいいことだ。ここにWHIP(1イニングあたりの被安打と与四球の合計。少ないほど出塁されていない)の歴代トップ10、少なくとも50イニング以上を投げた投手リストがある。

1. 上原浩治, 2013年, 0.565

2. デニス・エカーズリー, 1989年, 0.607

3. デニス・エカーズリー, 1990年, 0.614

4. クレイグ・キンブレル, 2012年, 0.654

5. マリアノ・リベラ, 2008年, 0.665

6. ホアキン・ベノワ, 2010年, 0.680

7. エリック・ガニエ, 2003年, 0.692

8. J.J.プッツ, 2007年, 0.698

9. クラ・メレディス, 2006年, 0.711

10. 斎藤隆, 2007年, 0.715

 興味深い小ネタを2つほど――リスト11位はまたも上原で、2011年のことだ。12位は? ペドロペドロ・マルチネス)だ。それは2000年のことで、WHIPは0.737であった。彼がほかの選手の3倍のイニングを投げたことを考えると(訳注ペドロ・マルチネスは先発投手)、彼の三振四球比(K/BB)が284割る……まあ、多くの人々が、ペドロ2000年のシーズンこそ野球史上で最高のシーズンであったと信じるのも、驚きではないだろう。

 とにかく、トップ10を見れば君も気づくだろう……クローザー(抑え投手)だ。いや、そのうちの2人――ベノワとメレディス――はセットアップマン(セットアッパー、中抑え)だが、残りは全てクローザーである。歴代のWHIPトップ10のうち8人がクローザーだという事実は「9回はアウトを奪うのが最も難しいイニングだ」という神話に小さな短剣を投げつけるかも知れない。だが、今日ポイントはそこではない。我々が焦点を絞っているのは上原だ。

 上原キャリアスタートさせたのは日本である――大阪大学訳注大阪体育大学の誤り)を出て、ドラフト1位で指名されたのだ。上原は1年目に20勝を挙げて、読売ジャイアンツの先発投手として活躍。また、オリンピックWBCなどでは、日本代表の先発投手としてめざまし活躍を遂げた。2007年、32歳のときに、上原読売クローザーになり、そこでも周囲を圧倒した。2008年のシーズン終了後、上原は先発投手としてボルチモア・オリオールズ契約する。(しか2009年)彼はもがき苦しんだ。彼は故障した。翌年、オリオールズ上原ブルペンに送った(リリーフ転向させた)。上原は驚くべきコントロールを見せ(44イニングで与四球は5個)、いくつかの試合では実際にボルチモアクローザーもつとめた。だが、誰も彼に熱狂することはなかった。

 そして2011年、当時は誰も驚異とは考えなかった驚異のトレードが行われることになる。

 オリオールズ上原と幾ばくかの金銭をテキサス・レンジャーズに送った。レンジャーズトミーハンターという悩める先発投手と、クリスデービスというマイナーリーグ一塁手を送り返したのである

 私は、彼らが言うことも正しいと思う。将来の50本塁打男(訳注デービスは今年のアメリカンリーグ本塁打王打点王)と、年間WHIPの史上最少記録保持投手を、小さなトレードが生むことになるなんて知るよしもない。OK、それがことわざだかどうかは分からない(訳注:ここら辺ちょっと自信なし)。上原レンジャーズでいい投球をしたが、怪我なしで居続けることはできなかった。テキサスでのWHIPは驚天動地の0.685。純粋安打を打たれなかったし、四球も出さなかった。だが、1年半でたった54イニングしか投げなかった。そしてともかく、ただ1つ、誰もが本当に注目したのは、上原2011年ポストシーズンの3試合で苦しんだということだった。それはおおむね1試合のことだ。2011年地区シリーズタンパベイ(レイズ)との一戦で、上原は7対3でリードする7回に登板。すぐさまデズモンド・ジェニングスに四球を与えると、B.J.アップトンにライナー性の安打を打たれ、エバン・ロンゴリアに本塁打を打たれた。そして降板させられた。

 上原はまた、デトロイトタイガース)とのアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズにおける、次の二度の出番でも失点を許した。しかし私は、それが酸っぱい後味を残した初めての出番だったのではないかと思う。上原はそれまで、アメリカ野球ファンたちの心に、何一つ印象を残してこなかった。無地のスレート(屋根葺き用の石板)のようなものだったのである。ロンゴリアの惨事のあと、誰もが皆、上原に(悪い)印象を持った。翌年、上原ボルチモアオリオールズ)とのワイルドカード決定戦に、レンジャーズがすでに3対1で負けている状況で登板。トレード相手のクリスデービス三振に仕留めた。アダム・ジョーンズも三振に仕留めた。マット・ウィータースも三振に仕留めた。だが、それは大事局面ではなかったし、ロンゴリアの記憶を消し去るのに十分ではなかった。

 レッドソックスは、425万ドル(約4億2500万円)という以前と同じくらい少額の契約で、上原と1年契約を結んだ(とはいえ、今では2年契約になっている。付与オプション有効になったからだ。ボストンにとって大変嬉しいことだろう)。上原クローザーではなく、セットアップマンでもなく、セットアップマンのためのセットアップですらなく、単なるチームの6イニングの選択肢になろうとしていた。レッドソックスの本来のクローザーは剛速球投手ジョエル・ハンラハンであった。ハンラハンは9試合で肘を破裂させ、トミー・ジョン手術を受けた。

 そこで全員1つずつ繰り上がった。つまり、今やアンドリュー・ベイリークローザーになったということだ。ベイリーアスレチックスクローザーとして2009年新人王を獲得し、翌年もまた周囲を圧倒していたが、その後はあらゆる怪我と辛苦を経験していた。ベイリーレッドソックスクローザーを3カ月弱つとめ――そして肩を故障した。6月26日レッドソックス上原クローザーに指名した。

 ではここで、上原の残りのシーズン(クローザー指名後)の成績をご紹介していこうと思う。拍手喝采は紹介が終わるまでお待ちいただきたい。

投球回:44 1/3

安打:14

安打マジで):14

おいおい、打たれたのはいくつだって?:14

ふざけてるよな:分かるよ。

失点:3

本塁打:1

三振:59

四球:2

待った、今すぐ止めろ:2四球。よく見ろ。

被打率:.094

出塁率:.108

長打率:.152

WHIP:聞く準備は本当に整っているか

早く言えよ:ちゃんと頼め。

WHIP:0.358

 紳士淑女の皆様、ご来場ありがとう。気をつけてお帰りください。

 どうやって? OK、これはたった44回1/3でサンプルとして少なすぎるし、クローザーは1試合でたった1イニングしか投げないし……、どうやって?? 上原浩治は剛速球を投げない。Pitch f/xは上原の速球が平均で89.2マイル(143.6キロ)だと示しており、これは彼が日本から来たときとだいたい同じままだ。上原マネーピッチ(決め球)、スプリットフィンガー・ファーストボールは約81マイル(130.4キロ)。102マイル(164.1キロ)の速球の世界で、一体どうすれば上原は対戦相手に出塁するのが無理だと証明できたのだろうか?

 もちろん、コントロールの話から口火を切ることができるだろう。これはマリアノ・リベラ栄光の輝きの中で、常に最も過小評価されてきた部分の1つである――そう、リベラは対戦したみんなのバットをへし折ってきたし、同じ球を繰り返し繰り返し投げ続けてきたが、四球で自滅することはまずあり得なかった。リベラの最高のシーズンはおそらく2008年だ。彼は70回2/3で6人の打者しか四球を出さなかった。

 上原は、大リーグでのキャリアを通じて常に、気が狂うほどコントロールが良かった。2012年レンジャーズでは、わずか36イニングしか投げなかったが、四球を出したのはたった3人だ。我々は、キンブレルの代名詞である剛速球を投げるようなクローザーと恋に落ちている(訳注:ここら辺自信なし)。しかし、剛速球を投げない代わりに、ピンポイントコントロールと多くの惑わし(投球術)で成功した名クローザーたちは、これまでにも多数――デニス・エカーズリーを筆頭とするが、偉大なるダン・クイゼンベリーダグ・ジョーンズも含まれる――存在した。上原も明確にそれらを備えている。

 2つめはこれだ:上原の投球――特にツーシームファーストボールとスプリッター――が非常に鋭く動き、メジャーリーグ打者たちはしばしば当てるのに失敗しているということ。それがストライクゾーン内であったとしても。これは重大だ。大リーグ打者ストライクゾーン内のボールバットを振るとき、一般に大成功を収めるものである。今年、打者ストライクゾーン内でスイングした上原ボールは、31.1%空振りだった。これはいうまでもなく球界で最高のパーセンテージだ。

ストライクゾーン内のボール打者空振りさせた投手トップ5は:

1. 上原, 31.1%

2. エルネスト・フリエリ, 26.9%

3. アロルディス・チャップマン, 25.6%

4. グレッグ・ホランド, 24.2%

5. ケンリー・ジャンセン, 23.8%

さて、同じトップ5の速球の平均急速は:

1. 上原, 89.2マイル(143.6キロ

2. フリエリ, 94.1マイル(151.4キロ

3. チャップマン, 98.4マイル(158.4キロ

4. ホランド, 96.1マイル(154.7キロ

5. ジャンセン, 93.6マイル(150.6キロ

 ああ、そうだ。君にも違いが分かるだろう。彼らは打者バットを吹き飛ばす。上原打者バット上下を通り抜けるのだ。上原には、大きく違う方向に動く2つの球種がある。ツーシームファーストボールは右打者に向かって突っ込んでくるかのように見えるし、左打者を引き剥がす――リベラ代名詞カッターの逆バージョンのようなものだ。そして、スプリットフィンガー・ファーストボールチェンジアップのように機能する傾向がある(速球より8マイル遅い。これは理想的な差に近い)上、遅くになって急降下する。打者観点からすると、これは見たところ(飛び回る)スズメバチと、地中から現れるゾンビの手に、攻撃されるかすら定かではないまま、草原に踏み入れるようなものらしい。打者はどこを見ればいいのか分からないのだ。

 さらに、ご存知の通り、上原四球で歩かせてくれない。

 全力の上原を前にしては、今や逃げ場などどこにも存在しないのだ。

 特に上原は今38歳で、レッドソックス上原クローザーとする前に2人の男たちを試していたということを考慮すると、これは極めて異例な才能の行列である。ここまでのポストシーズン上原は7試合に登板し、そのうちの1試合タンパベイのホセ・ロバトンサヨナラホームランを許した。ほかには、落ち着く前にタイガースの2人から安打を打たれたが、失点は許さずにイニングを終わらせた。木曜日上原は1回2/3をパーフェクトに抑えた。

 全体として、このポストシーズン上原は8イニングを投げて安打を4本で抑えた。WHIPは0.500。ここまで、一人の打者にも四球を出していない。

2013-09-04

バレンティンのシーズン本塁打記録阻止は八百長と同じだ

国民栄誉賞を受賞しているからとこの待遇いつまでも続けているとプロ野球界の衰退を招きかねない。

実際統一球導入や民放プロ野球放送時間の短縮から視聴率が年々低下してるし一部の球団ではM&Aが行われたりもした。

それだけに今、バレンティンの新記録樹立止揚もない前時代的な理由で避けようとするのは言語道断である

四死球で逃げる事が戦術的な意味のものであったり、謙虚さは美徳であるとする日本人の気風だとかを理由にするのは如何なものか。

それならば、バットを持って来ず打席に立つといった王貞治パフォーマンスを真似たとしても四球を投げるべきだ。

あるいはヤクルトバレンティンを正当な理由で以って試合に出場させないべきだ。

このような八百長行為が続くのであれば、黙認している加藤良三コミッショナーも何らかの責任を負わねばならない。

いち野球ファンとして、八百長試合をこれ以上見せないで欲しい。

2012-12-27

日本プロ野球レジェンド

なんJ PRIDE : 歴代プロ野球レジェンドベスト10選ぶとしたら http://blog.livedoor.jp/rock1963roll/archives/3650792.html

この手の記事は定期的に立っては基準がわからずにいろいろ意見が出て結論が出ない。まあ、それがこの手の記事の醍醐味でもあるんだけど、俺個人としては「この人がいなかったら日本プロ野球史は語れない」という観点で考えてみた。さほど詳しい訳ではないので、突っ込みどころありまくりだろうけど、そう言うのがあったら教えてちょ。

1. 長嶋茂雄
日本野球アマ野球が中心だった頃に大活躍して人気を博し、そのままジャイアンツ入団することで日本野球の中心をアマからプロへと動かした、正にミスタープロ野球。天覧試合などでの勝負強さは日本野球人気を決定付けた。
2. 王貞治
不滅の868本塁打を打ち立てた、真のホームラン王。日本だけでなく世界から尊敬を集める。国民栄誉賞はこの人のために作られた。
3. 川上哲治
赤バット異名で知られる、日本最初2000本安打達成者。監督としては巨人軍V9を達成し、日本での巨人人気を不動のものにした。全国に巨人ファンがいるのはこの人のおかげ。
4. 野村克也
選手監督としての実績もさることながら、「ノムラスコープ」の確立など、日本野球理論化に貢献した。今の捕手ゲームメーカーとしての地位はこの人によって作られた。
5. 金田正一
日本唯一の400勝投手名球会設立者。いろいろ意見はあるものの、球界ご意見番であることに変わりはない。
6. 張本勲
日本野球界としては唯一の3000本安打達成者(イチローは日米通算)。指導者経験はないものの、金田と同じく球界ご意見番
7. 福本豊
通算1065盗塁、シーズン106盗塁の不滅の盗塁魔。彼の足を止めるためにクイック投法が開発された。
8. 落合博満
天才的な大打者である一方、選手待遇改善を声高に訴え、日本人選手としては最初年俸一億円を獲得した。中日監督としても好成績をあげ、全権を把握するやり方は、監督にあり方に一石を投じた。落合野球は今後日本野球界にどういう影響をもたらすだろうか。
9. 野茂英雄
投手としての実績もさることながら、独自の行動力でメジャーリーグへの道を切り開いた。今の日本人選手が「メジャー行きたい」と言えるのはこの人のおかげ。野茂の前に道はない、野茂のあとに道が出来る。
10. イチロー
王の確立したホームランという野球の華を安打でも達成できることを証明した。日本のシーズン200安打最初の達成者、7年連続首位打者という不滅の記録保持者。メジャーリーグでも怪物的な記録を出し続ける、日本世界最高の安打製造機。正に生けるレジェンド
番外 板東英二
高校野球中日でも十分な活躍をした後、バラエティタレントとして大成日本野球選手タレント化に貢献。視聴率30%男。
根本陸夫
選手としてはからっきしダメだったが、フロントに取り入って暗躍、広島西武ダイエー(当時)の体制を作り上げた。有力選手獲得のために100億の金を動かしたと言われる、日本プロ野球の影の大立者。

2007-11-02

日米野球の川尻を思い出したのは内緒

批判は「負け犬の遠吠え」、単に落合

臆病

a day in the life of mercy snow

だったというだけで、他チームのファンとしては「つくずく嫌な男を敵将に持ったもんだ」とぼやくしかない。心底臆病者で、石橋は叩いても渡らない。でも批判される事だけは恐れずに、必要な決断は迅速に下す。理想的な将器じゃあるまいか。勝負師に捧げる言葉としては「臆病者」なんてのは「褒め言葉」の部類じゃないかとすら思う。

まぁ落合罵倒したい向きは好きにすれば良い。彼はおそらく、その瞬間、地獄に叩き落されてもニヤついていられるぐらいの果報者になれたのだ。勝者に何もくれてやることはない。

だが、彼の行為を履き違えて捕らえることは、野球界にとって残念なこととなるだろう。

100年に1度あるかないかの凄い興奮の瞬間よりも53年ぶりの優勝

タマキのナンヤラカンヤラ 玉木正之公式WEBサイト『カメラータ・ディ・タマキ』

「53年振り」

このためなら、200勝しなくても良いと言った投手がいる(シバタマ風味な脳内変換)。

3年前には「50年振り」にあと一つというところまできたことで涙しながらも、その男に賭けて最後の一つを逃した監督もいたらしい。

その監督は当時こんな事を言っていたようだ。

相手の主軸に2本の本塁打を打たれた事を聞かれ

そういうこと言うなって。その通りに(失投なく)やっちゃったら、パーフェクトになっちゃうよ。1回、野球をやってみろって」「責めてどうなる。結果論でものを言うな。野球ができなくなるから。相手だって必死なんだ。そうは簡単に勝てない。最初からわかってたら、勝負なんかする必要がない。結果がわからないからこそ面白いんじゃないか」「今日負けたからといって、流れが変わるってことはないし、何の心配もしていない」

2004激闘日本シリーズ

ふーん。

今日負けたからといって、流れが変わるってことはない

リンク先で結果を見るに、次の試合も負けて日本一にはなれなかったようですね。ご愁傷様でした、と。

この時は「パーフェクトになっちゃう」訳ではなかったようだが、ようはそういうことだ。

そして、

彼らがそれほどまで欲する「日本一」を争う場所だからこそ、

100年に1度あるかないかの凄い興奮

というだけの価値も出るんじゃなかろうか。

忘れてもらって困るのは、彼らはその場の価値を下げかねない、リーグ優勝を逃しているチームな訳だ。クライマックスシリーズに価値がないってことは、当の本人たちも認めているようで、優勝してもビールかけはやっていないとのことだ(403 Forbidden)。そんな彼らがさらに4勝した処で何だというのだ?

だが、あの交代で執念を見せ付けることで、辛うじて「日本シリーズ」というタイトルの価値を保ったようにも思う。春先にやるような単なる冠大会なら、どんな臆病者でもあんな采配する訳もないのだから。そういう意味落合は「場を弁えた臆病者」と言えるかもしれない。

そんな臆病者に心底憧れるので、普段と違う増田で書いたみた。

まぁ本音を言えば「ドラ嫌いとして自分とこでは痛罵だけしていたい」ってだけなんだが。

2007-10-18

[][]努力天才

[一万時間][努力][天才][反復][質より量][閾値][九九]

天才とは1%のひらめきと99%の努力である

エジソン

Thomas Alva Edison quotes

Genius is 1% inspiration, and 99% perspiration.

Thomas Alva Edison

99パーセントまでは努力、1パーセントが才能。

チャールズチャップリン

イチローに学ぶ「天才」と言われる人間の共通点 - 電子書店パピレス

イチローに“偉大《いだい》な才能”を与えたのは、名古屋空港の近くにあるバッティングセンターである

イチロー小学三年から中学三年までの七年間、そこに毎日通いつめた。

 それも一週間に一日くらいは休むといったレベルの生易《なまやさ》しいものではない。

一年間に三六三日通いつめたという。休んだ二日は、バッティングセンターが休業した、正月の二日間だけだった。

 世の中を見渡せば、天才はどこにでもゴロゴロ転がっている。

才能は、成功するための一つの要素にすぎない。

天才と言われる人間であっても、絶《た》え間ない精進《しょうじん》を繰り返して、初めて彼らは成功者の仲間入りをすることができる。

 イチローが一流選手としての称号《しょうごう》を得たのは、二一〇本の安打を打ち、打率三割八分五厘で首位打者に輝いた九四年の秋である

本格的に練習を始めた小学三年のときからすでに一三年経過している。



打撃編 ホームランの技術2~小久保・松中が語るHRの技術~

なんJ PRIDE : 【野球】門田博光(40) .311 44本 125打点 OPS1.062

ホームランバッター門田博光氏が・・・《500本塁打は誰でも打てる!》|ベースボールバイブル

少年野球BLOG: ホームランをあきらめない

門田博光の本塁打一閃―ホームランに魅せられた男 : 門田 博光 : 本 : Amazon.co.jp

http://www.h-kadota.net/profile.html

小学校の頃からプロ野球を目指し、中学高校天理高校)と野球部に籍をおいたが目立った成績もなく、

ホームラン公式戦はおろか練習試合でさえも打つことは出来なかった。

40歳を迎えた1988(昭和63)年には打率.311、44本塁打、125打点で2冠王に輝き、チームが5位ながらMVPを獲得。

不惑アーチスト」「中年の星」と賞賛された。

ホームラン記録は王氏(現ダイエー監督)、野村氏(現楽天監督)に続き

史上3位の567本を打った。

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ジャイアンツの顔」として、今やチームに欠かせない存在となった小笠原道大

高校時代には、ただの一本もホームランを打てなかった男が、チームを代表する男として生まれ変わるまで。

あらすじ検索サイト あたまにスッと入るあらすじ:無形の力 楽天を応援しようという気になる野村克也氏の私の履歴書

2年目で解雇されそうになるが、泣いて頼んで残して貰う。

1960年からは『野村メモ』を取り始める。

それまで歯が立たなかった大投手稲尾も、クセを発見して3割近くまで打ち込むことができるが、同僚の杉浦がオールスターで3人一緒になった時に、稲尾にばらしてしまう。

それ以来チームメートにも企業秘密絶対に口にしないと心に決めたと。


404 Blog Not Found:一発は百の空振りから生まれる

天才になるのに遅すぎるということはない

伝説インド天才数学者ラマヌジャンは、貧乏で進学できなかった子供時代

一人で分厚い数学辞典純粋数学および応用数学における基本結果概要」にでてくる5000の公式方程式を丸暗記していたそうだ。

ある時・・・・・・・・彼は自分の数に関する考えを手紙に書いて、ケンブリッジ大学数学教授へ送った。

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン - Wikipedia

君たちが数学で思考するなど10年早い。パターンを全て丸暗記し組み合わせて解け。 - 勉強ランキング

【学歴】東大生は“天才”ではなく,“点才”【受験】

天才よばわり - shi3zの長文日記

天才コンプレックス - shi3zの長文日記

http://anond.hatelabo.jp/20140102001755

2007-06-11

桑田かっこいいなあ

日本で20年野球して、故障したり苦しんだりして、メジャーいってまたケガしてしかし復帰して背番号18で登板ってもう漫画か。毎週最終回くらい盛り上がる漫画か。金銭関係では色々あったのかもしれないが、何より今メジャー野球をしている、投げているということがかっこいい。子供の頃は別段好きではなかったが、今俺は桑田がかっこいいと思った。

一方イチローは5打数8安打と相変わらず人間を超越してきていて面白い。来年には1打数5本塁打くらいする。

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