はてなキーワード: 土俵とは
元記事
東京都の小池百合子知事が、都立横網町(よこあみちょう)公園(墨田区)で九月一日に営まれる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったことが分かった。例年、市民団体で構成する主催者の実行委員会が要請し、歴代知事は応じてきた。小池氏も昨年は送付していたが方針転換した。団体側は「震災時に朝鮮人が虐殺された史実の否定にもつながりかねない判断」と、近く抗議する。 (辻渕智之、榊原智康)
こんなの関係ないんだよ。現知事が追悼文を送ろうと送らまないと、朝鮮人が虐殺された史実と言われるものの真正性にまったく影響しないんだから。追悼文を送らないことで、虐殺された史実の否定につながるなんてこと、一瞬でも思ってしまったら危険だだと感じないといけないし、それを強化しかねない言明もやめたほうがいいと思う。
未来に地震が起きたときに、朝鮮人が虐殺されるかもしれないから、こわい。。。なら理解できる。理解できるけど、そこまで心配する必要はない。今同じ理由で10人でも虐殺されたとしたら、それだけで世界中から大バッシングだ(一人ぐらいなら、可視化されない、かもしれないけどね)。今の日本人の感覚でそれはない。そんなわけで、知事が追悼文を送らないことを批判する必要は、1ミリもない。「へーそなんですねー」っていって、粛々と追悼するなり、より正確な犠牲者数を推定してみたり、したほうがいい。歴史修正主義者の土俵にはあがるな。
本当はいろいろ怒りたい事があるけど現実では我慢していて怒れない。
物わかりの良い都合のいい子供のまま大人になったから、ネガティブな感情の表現方法がわからない。
怒るタイミング・自分が怒る理由・相手への要求・正当性、とか考えてる間に気持ちの温度が下がっていく。
かと言って許せたり悟れるほど人間できてないから毒のように蓄積されていく。
頑張って怒ってみようとしたこともある。
その時は自分の怒りを説明するプレゼンみたいになってしまってすぐ言い負かされて終わった。
論理的じゃないものを論理的な土俵で説明しようとするから簡単に破たんする。
感情に任せようとすると動きも口も思考も停止してしまうんだ。震えるだけ。
勝ちたいとかではない。
ごくたまに声をあげて泣いたり怒ったりすることを許してほしい。
許してほしい相手は誰?
すぐ怒ったり泣いたりできる人を見ると、羨ましいなと思う。
臆せず出せることも、気持ちの反射神経が優れていることも。
読んでも確実に嫌な気分になるとわかっているのについ読んでしまう。
私は怒りたいだけなんだと思う。正当っぽいと罪悪感もないから良い。
どこかに怒りをぶつけたいだけ。
我慢のやめ方も怒り方も喧嘩のしかたもわからなかっただけで、全然えらくないんだよ。
週末たくさん泣いてすっきりしたいので、泣ける映画を教えてください。
運動もしますが、有酸素運動中は嫌な事考えてぐるぐるしてしまうから映画がいい。
人間には理性がある。
だが、”お前も同じ土俵に立つ” お前のレベルが下がるからやめとけ」と言うタイプが居る。
言いたい事は分かる。
でも、「なんでやられた側が我慢しないといけない」んだ? ガンジーなの? 痛みを感じない神様なの?
そういう「許しちゃう自分偉い」的な事を言っている奴らに限って
「やられたからやり返す!!」と敵意むき出しにして攻撃しに行くんだと思う。
相手の気持ちを汲むことが出来ないんだ。自分が実際にその状況にならないと。
性犯罪者には、同等の性犯罪をあてがう。二度とそんな気を起こさないようにトラウマを植えつける。
何の理由も無く苦しんで殺した人は、同じ苦しみを味わい"心が死ぬ"状態にする。
[追記]
精神的におかしかったので刑を軽くします!っていうのは分かる気もするけど
やったことは殺人だったりするから復讐する権利はあっても良いと思う。
あとから頭おかしくなりました演技する人も居そうだから、ホント悪いよね。
> cloq 人は殺してはならない。ならば、やられてもやられてなくても、そのことに変わりはないはずだ
先に相手が「人は殺してはならない」という基準を守っていない場合、こちらが守る理由はあるんでしょうかね。
重大犯罪は防げないかもしれないけれど、ほかの人が答えてくれたように再犯はなくなる。
特に、性犯罪については再犯率が高いと聞く。どうにかして欲しいものだ。
>刑罰は犯罪者を矯正し社会的制裁を与え犯罪を抑止するためのもので、被害者の復讐心を満たすためのものでは無い
とはいえ、「再犯を防止できているか」といわれたらYESとハッキリいえないと思う。
いじめをした奴は、心の底から反省したわけではなく再度行う事だってある。
1997年に結成した彼らは、00年代V系シーンにおいて、その重厚なサウンドと自他への憎悪や怨念、そして寂寞の篭ったような世界観という強烈な個性から、多くのファンを獲得し邁進してきた。
そしてその世界観を自ら打破し、ロックやテクノ、メタル等の様々な音楽要素を取り込むなど、新たな個性として「多様性」を得た結果、今やファンも老若男女様々な層が増え、20周年の今年は日本武道館2days公演を納めただけでなく、更に年末にもう一度玉ねぎの下で大規模な主催イベントを控え、その日に向けて日夜怒涛のツアーやイベントに勤しんでいる。
私は、ファン歴で言えば中堅どころにあたると自負している。
もう十余年もムックの音楽に浸り、彼らのライブサウンドに酔い、最早生き甲斐やライフサイクルの一環として「次のライブに行くために、また彼らの音楽を生で楽しむために」と社畜生活に従事する日々。
長らく夢烏(=ムックのファンの呼称。ムッカーと読む)を続けてきて、もちろん不満に思う事や上がろう(=ファンを卒業しよう、追っかけをやめよう)と思った事も多々あった。
しかし彼らの最大の魅力は良くも悪くも「変化し続ける事」と「ファンを裏切る事」である。
何だかんだと文句を垂れ、貶しては「やっぱりムックは最高だ」と舌を巻く羽目になるからこそ、次の良い裏切りを期待して離れられずに、盲目的に好きであり続けている。
そして自身の周りの夢烏仲間も「だせぇwww」「無いわwww」「新アー写ぶっさwww」等と貶しては、生のパフォーマンスを拝んだり、新しい歌詞を読んで「やっぱムックいいわ…好き…かっこよすぎ…」と滂沱と溢れる涙を拭い、感涙に咽びながら新しい告知に躊躇無くクレジットカードを切っていた。
2008年夏にリリースされた19枚目のシングル、「アゲハ」。
このリリースをきっかけに、あるバンドのファンが怒涛のようにムックに流れ込んできた。
ムックと同じ事務所に所属する大御所バンド、L'Arc〜en〜Cielのファンである。
このシングルにはラルクのギタリスト、Kenが楽曲のプロデューサーとして参加している。
日頃ラルクの活動の無さに飢えているファンが、ラルクの片鱗を求めてムックの音楽に興味を持ったのだ。
ムックは元々、リーダーであるギタリスト、ミヤのワンマンバンドである。
幼い頃より音楽を嗜み、プロデュース、作曲、編曲等々多方面のマネジメントを行うミヤに対し、音楽のド素人から始まった他メンバー。技術的な部分から何から、3人はミヤに首を垂れ従い続けるのが常であった。
「メンバーもファンもひたすらミヤのご機嫌取りに徹するバンド」等とも称される事もあったし、夢烏を自認する私も事実そういうバンドだと自覚する。
なお余談だが、興味のある方は是非今年リリースされた「M」というインタビュー本をご一読頂けるといいだろう。
リーダーから何故出来ない、お前に期待しているのに、というスパルタ虐待親よろしく高いスキルを要求され、心身に支障を来たす者もいれば、トラブルを起こす者もいた、解散しなかったのが不思議でならないかつての殺伐としたムックが。
そして20年という歳月を経て、ようやく分かり合おうとし、ほんの少し分かり合えるようになってきた彼らの、ありのままの成長の軌跡が綴られている。
さて、そんなムックが、よそのアーティストにプロデュースを頼むだなんて。
当初は「は?ムックのサウンドが好きなのによそにプロデュースされるとか無いわ」という気持ちと「あのとんでもワンマンバンドがよそに力を借りるなんて、少しは丸くなったんだなぁ」という気持ちを抱いていた。
実際楽曲そのものは、これまでのムックには無かった新しいテイストが組み込まれ、彼らの「多様性」に新たな1ページが加わったなぁと感慨深かった。満足であった。
しかしそのシングル曲が含まれるアルバムツアーから、ライブ公演に違和感を覚えるようになった。
「アゲハ」と、同アルバム収録のもう1曲のKenプロデュース曲「空と糸」のイントロで、何故か、黄色い悲鳴が上がる。
V系というジャンル柄、ファンは盲目的に思い入れを持つ曲が各々あったりする。また歴史を重ねるごとに、昔の音源はだんだん演奏頻度が下がる。
そうした中で、たまにいわゆるレア曲を演奏したりすると、イントロの時点で泣き出したり、歓喜の絶叫を上げるファンは沢山居た。
何ならこのツアー中は100%演奏するし、シングル曲故に今後もセットリストに組み込まれる可能性は非常に高い。
私はただたた首を傾げる事しか出来なかったし、周りの夢烏友達もそうであった。
その正体に気付いた時には、奴らはすっかりムックに居座っていた。
あれは忘れもしない、某年の恵比寿リキッドルームでのライブ。
早めに着いた私は、グッズ販売の待機列で友人を待っていると、数人程前にやたら声の大きい2人組が和気藹々と歓談していた。
V系のファン=バンギャもある種のキモオタなので、声が大きいのもよくある事だと、会話をBGMにTwitterを眺める私の耳に、信じがたい台詞が飛び込んできた。
「ムックはチケ代が安いから、ラルク待ってる間の暇潰しにはコスパがいいよね」
「Kenちゃん、ゲストで来てくれないかな。Kenちゃん見たい」
先の台詞は百歩譲って許そう。
いくら盲目に、宗教的にバンドを愛するバンギャと言えども、複数のバンドのファンを掛け持ちする事はザラだ。
特に本命バンドの活動が乏しい場合、あの爆音の非日常空間が恋しいあまり、他のバンドに手を出す事はしばしばある。
そして本命バンドと比較して、やっぱり本命バンドが一番好きだという実感を改める事は私も多々ある。
ムックが一番好きな人達ばかりのアウェイ環境で、よくもまあ大声でそんな事がしゃあしゃあと抜かせるものだと少しイラつきはしたものの、気持ちは分からなくもない。
しかし猫も杓子も二言目だ。
そう言うのならばKenソロのライブに行けと。公演が無いならばDVDでも観ていろと。チケットに書かれた出演者をよく観ろと。貴様の目は節穴かと。ムックにラルクの片鱗のみを求めているのかと。
音楽シーンにおいて特に興衰の激しいヴィジュアル系というジャンルでは、新たなリスナーの獲得が今後の生死を左右する。だから、新しいファンが、殊に音源やグッズを購入し、ライブにまで足を運んでくれる存在が増えるのは大歓迎だ。
それでもムックの純粋なファンではなく、ムックを通して結局ラルクしか観ていない。カードだけ剥ぎ取られて、開封もせずに捨てられるプロ野球チップスのようだと感じられる、ムックが本命バンドの自分からすれば侮辱としか思えない発言だった。
気持ちは分からんでもない。ただせめてこの場においては、まっすぐにムックを観てくれないものか。とにかく不愉快で悲しくて仕方が無かった。
しかしムックは、みるみるそれらのファンを増やし、固定させていった。
その後もKenのプロデュースの機会も増え、ラルクメンバー絡みのイベントに参加し、オールナイトイベントなんかにも出るようになり。いつかの2人組が望んだ通り、ワンマンライブにゲストで現れるようにもなり。
気付けば、スタンディングのライブで友達とはぐれた時、自分の周りにいる人間は知らない空気を纏っていた。
先述の通り、私はファンが増える事は喜ばしく、歓迎すべき事だと思っている。
以前はモッシュピットに棒立ちで、ぶつかられ露骨に嫌そうな顔をしながらも近くで見たいからと動かない、危なっかしい新規ファンも居たが、最近はムックのノリに慣れたのかそんな人間も見かけなくなった。
ムックそのものをちゃんと観に来ているファンが増えた実感もある。
しかし、あれからずっと変わらずKenプロデュース曲で上がる黄色い悲鳴。
チケットのファンクラブ先行受付がある度に、既存の夢烏同士の規模を圧倒的に上回る人脈での人海戦術で、人数の何倍も申し込んでは、ひたすら身内に、余れば興味の薄い人間にまで回されるチケット。
「ムックは昔から、皆仲が本当に良い」「ボーカルさん可愛い、女の子みたい」「リーダーさんが人を殴るなんてありえない」という、誤解を超えて定着してしまった新しい解釈。
そして何だかんだ言っても結局、Kenが関わる話題が上がっては「Kenちゃん来ないかな」。対盤で未発表枠が告知されては条件反射で聞こえる「絶対ラルクでしょ」。
何より許しがたい、「今のムックの動員や売り上げは、ラルクに支えられているようなものでしょ」という、あまりにも乱暴で横柄な認識。
そして自分達が総意であり真実であるかのように振る舞う。いつしか私も、仲の良かった旧来の友人達も、周りを念入りに警戒してから遠慮がちに感想をぼやくようになった。
もちろん、いいファンと悪いファンがいるのは重々承知しているし、それは旧来の夢烏にも言える事だ。
それでも、メンバー間のトラブルや修羅場があったからこそ生み出された過去の楽曲やパフォーマンス。そして背景としてそれらがあったからこそ、紆余曲折と凄まじい努力を経たからこその「今の彼ら」が在るのに、「今の彼ら」しか切り抜かれていないようで悲しく思えてならない。
V系における2ちゃんねるのような某掲示板で、貢ぎやセフレ要員として簡単に繋がりを持てると、繋がり入門麺とまで称されたメンバーに対して、手放しで可愛いだの聖母だの褒めちぎる。
バンドの運営をほぼ全て自分を中心に回し、ステージでミスしたメンバーや段取りの悪いスタッフを一切の遠慮なく睨み付け、手や足を出す事もザラだった、田舎のヤンキー気質の抜けないワンマンリーダーを、優しいだのと聖人君子のように捉える。
先述のメンバー程よろしくなかなか女関係が汚く、今やすっかりほうれい線の強い老け顔に対してただただ馬鹿のひとつ覚えのようにかっこいいを連呼する。気持ち悪さが売りであり、コールアンドレスポンスとして罵声が求められるパフォーマンスに対してきゃー可愛いなどと場違いな歓声を上げる。
元よりお馬鹿キャラではあったものの、立派な一人の成人男性としてオフショットでは煙草を吸ったり、平均的な態度振る舞いである事は容易に見て取れるのに、そうであると押し付けんばかりにひたすらバカわいいなどと称する。
昔の楽曲も好きだけれど、暗いから最近の曲の方が好きだなどと抜かす。
汚い部分もひっくるめてのムックは今時のファンの中では息絶え、やがてムックの中でも無かった事にされるのだろうかと、一抹の寂しさを抱いた。
ファンの在り方は様々だ。貶し愛と呼ばれる、極端なツンデレのような愛し方をする者もいる。ガチ恋と呼ばれる、本気で結婚したいと考え必死に札レターを贈る者もいる。アイドルのように無条件に可愛いかっこいいと愛でる者もいる。
ムックが本命バンドの人間もいれば、他のバンドが本命だという人間もいる。
必死な人もいれば、緩く追っている人もいる。
十人十色、千差万別。色んな愛し方があって当然だし、「多様性」を強みとするバンドならばファンも多様であっていいと思う。だからこそムックは、色んなものを身につけ、色んなものを培い、色んなものを味方につけて、色んな道を歩んできた。
とりあえず、これからもムックに金を落とし続けてくれればそれで結構なので、頼むからせめてダイブする時は柔らかい靴で・アクセサリー類は外す・髪は括る・ステージにもフロアにも余計なアピールをせずさっさと転がって降りるの4点くらいは徹底をお願いしたい。
それと人海戦術チケ確保も程々にして頂きたい。激戦チケットとの交換カード用に、自分にとっては余計なチケットを申し込んで転売するのもほんとに勘弁して下さい。
あーあ、やっぱりラルクソ居なくなって欲しいな。何だかんだ言ったけど、やっぱ存在が無条件にただただムカつくし気持ち悪いわ。
さん付けとかたつえちゃん呼びもきしょいし、下手くそな小学生の夏休みの工作以下のお手製土産(笑)を「声かけて下さい!」とか拡散してるのも本当にきしょい。
それもラルクソの文化?男性アイドル追っかけてる夢女子腐女子のオタ中学生みたいですね。
ガチ恋も増えた臭いけど、やってる事だけじゃなくて身なりもオタ中学生みたいな糞ダサデブスだし、見た目も繋がるためのお金も何の努力もしてないから本当に見苦しい。
せめてまず痩せろよ。1人で2人分くらいスペース取ってるデブ本当に殺意沸く。
何食ったらそんなデブになるの?何処かの相撲部屋に所属してるの?ちゃんこが美味しいのは仕方ないだろうけど、ここは土俵じゃないんですよ。
万が一にも動員落ちたら1人でチケ20枚くらいは買い支える気持ちでいるから、ここらで一発ムックには炎上してみて欲しい。
そう考えるようになって2年ぐらい毎月9万いれて続けていたグラブルを1年無課金で過ごすことが出来るようになった。
ガチャは本質的には「ユーザー対戦」だということに気がついた。
「チケで引けました」「単発で」という事をゲーム内チャットで言えば戦争になる。Twitterでは当たり前のようにやってるが正直ほとんどの人間が鬱陶しいと思っており、ネタ的にやってはいるが、その実、ユーザーの運の競い合いだ。
「○○は必須」とかいって課金を煽るユーザーもいる。そうやってほどほどの課金で楽しんでる人間を土俵に上げるのだ。
このキャラがいたらこんだけダメージでるとか、このキャラがいたらMVPとれるとか、楽になるとか、そういうのでゲームをはじめた瞬間周りから強いられる。
そこでやめていく人間もいる。そこで俺みたいにご理解するやつもいるし、屈しない心をもつものもいる。
俺は心が弱いからガチャというユーザー対戦に才能がないのに挑んだ。
荒れた荒れた。2年間。ゲームの主人公のパーティーは着実に強くなり、古戦場も赤子の首をひねるようにバッタバッタとなぎ倒していくのに、心は荒れた。荒れ狂ってた。
そうして気づいた。戦力が揃っていない人が工夫したりして古戦場で敵に苦戦しても楽しそうにやっているのに、苦戦しないのに荒れてやってる俺。
まずTwitterをやめた。
公式のキャラ紹介をみないようにして、無課金石は9万貯めて本当に欲しいキャラ(クラリスちゃんの新しいやつ)くるまでためると心に誓って光クラリスちゃんは手に入れた。
10代前半以前
10代後半
不思議な程に可愛さしかない。子供っぽい可愛さじゃないのにただひたすら可愛い。
着崩れても、丈やおはしょりがおかしくても、足元クロックスでもサンダルでも可愛い。
慣れてない感じも頑張っておしゃれした感じがあって可愛いし、キッチリ着付けてあっても当然可愛い。
洋服だと決して「可愛い」に分類されない子でも断然可愛く見える不思議。ゆかたすごい。
髪型もとりあえずまとめてあれば適当なひっつめ髪でも可愛い。存在が華やかだからヘアアクセとか無くても支障が無い。
ただスニーカーだけは避けた方がいいと思う……。
20代前半
足元クロックスからは卒業してもいい頃合い。下駄にこだわらなくてもいいからサンダルやミュールに移行してはどうか。
それでもまだまだ可愛さが勝る。多少おかしくてもそこは愛嬌でやり過ごせる。
小物で遊ぶならこのあたりが一番しっくりきてる気がする。派手なヘアアクセも一番似合うような。
20代後半
悲しい事にこの辺からぐっと粗が目立つようになってくる。
おはしょりは多少ぐちゃっとしててもいい。ただ丈だけは、とにかく丈はくるぶし近くを徹底すべき。もう短い丈が可愛い年じゃない。
まとめ髪は必須だし、そろそろ下駄を買おう。意外と高くもないよ。
若さからくる華やかさは無くなるけど、ポイントを抑えれば別の魅力が出て来る年頃。
30代前半
お遊びは程々にしてセオリーは抑えてもいい年。残酷だけどおしゃれしてる感だけで可愛い年じゃない。
帯締めはまぁやり方次第という事にしても、重ね衿は流石に可愛くない。帯揚げも暑苦しいかな。それやりたいなら夏着物着よう。
浴衣だから多少の皺は問題無いとしてもぐっちゃぐちゃのおはしょりもそろそろなんとかしよう。丈が短いなんて論外。
出来ないなら着付けを頼んじゃえ。
30代後半
10代じゃないんだから髪だって着付けだってお金で解決しような。自分でできなくてもどうにかする方法はあるよ。
まとめ
匿名だから自分の考えをそのまま書く。初めに言っておくが、あくまで自分の意見で、根拠はない。そう考える人もいるのかと捉えてもらえればと思う。
自分は職業柄というか職場柄?障碍者と関わる機会が多い。でも最近障碍者を守ることについて疑問を持ち始めたんだ。職場変えようと思ってる。
某番組では、毎回毎回障碍者を扱うコーナーがある。あれは「レッサーパンダの風太くんが立った!人間みたいで可愛いね!!」と似てるんだよな。自分とは違うと線引きした上の行為で、明らかに障碍者を下に見ている。
自分の幸せを噛みしめる機会というかもはや材料としている印象を受ける。同時に、障碍者は障害を抱えながらも頑張ってるんだよー!という印象操作ともいえる。そういった障碍者を神聖化しようとするはたらきが、より差別を助長する結果に繋がっているのではと思う。
だって平等だ人権だと騒ぎ立てる者がいるわけだが、このようなものを見せられたら「世間は障碍者を特別視している」と思われても仕方なくないか?普段は平等や人権を矛にして、都合が悪くなったら障害を盾に取る。それは卑怯ではないか。同じ土俵には立てないが立たせてくれと懇願しているのと同じだ。無理難題を突き付けられているのだ。
メディアは障碍者の味方だからだ。そしてメディアによって人間は死にかねないからだ。私はそういった社会全体の障碍者は守る存在!守らない奴は心ない人間のクズだ!というような風潮はよろしくないと考える。私たちにだって人権はあるはずだ。平等であるはずだ。
差別は人間としては正しくない行為なのかもしれない。けれど生き物としては至極当然の行為だと思う。そして、人間は人間である以前に生き物であるからだ。
そして、「守る」という行為はコミュニケーションの上に成り立つものだと思う。守る側が守に値すると思うから守る。それに対し、守られる側が良しとするなら「守る」は成立する。
もしそこで、守られる側が「そんなものは必要ない」と思っていれば、守るはただのエゴに成り下がる。
ただ盲目に障碍者は守るべき!と思う人には、守るということは他の何かを犠牲にする行為だということも念頭に置いてほしい。
守るたびに次々と高度なことを要求されては、この関係は長くは続かないのだ。
弱さを武器にした時点で、それは弱点ではなくなるのだ。
当事者の方々は、自分の子供が健常者だったとしたら、それでも今のように考え、行動できただろうか。できたとしても重さは違う。
つまり人間は自分から逃れることはできない。主観なしには生きられないんだよ。
迷走してきたから終わる。
PR記事のタイトルにPR表記をつけるか否かで盛り上がっているけど、それ以前の問題としてみんなそんなにWeb記事を楽しめているの?っていう。
Webの記事ってあれでしょ、どこどこ行ってきた、とかなになにやってみた、っていうのを写真で羅列して美味しかったです、とか、最高の街です、みたいなの。あるいは「●●をやる5つの方法」みたいな。
いや、昔は俺も読んでいたよ。好きなブログもあったしね。でも、今から思えばそれはほかに選択肢がなかったからなんだよな。
ちょっとお金出せば映画も雑誌も読める状態で、みんなそんなにWebメディアの記事を求めているの?
こっちはAmazonで映画見るのに忙しいし、Dマガジンで雑誌も読まなくちゃいけないし、Web記事にまで手が回らないよ。というか、映画や雑誌に比べるとやっぱWeb記事ってしょぼいよね。タランティーノの映画が流れている横で「ライターの俺がパン食べましたよ〜」とか言われても「どうでもいいわw」っていう。「お前なんでそんなんでトラボルタと同じ土俵に立とうと思ったんだよw」っていう。
PR表記どうこう以前で揉めているのを見ても、なんというか「子どもの世界」だよね。少ない予算でしょぼい企画をこねくり回して、それをフォロワー数多いライターに告知してもらってなんとかお金にしているという。なんというか、貧乏くさいよね。
Webメディアに「これから良いコンテンツって何かを考えて作ります!」とか言われても、「いやいや、もうあるからさ?」って感じなんだよね。「ハリウッドでめちゃくちゃ作られてるからさ?」「邪魔だからさ、同じ土俵に並べないで?」っていう。
某エンジニアが40代の過渡期に、学生時代の修羅場みたいなことをしていて草なのだが、お金と、妻子があるだけ、余計厄介。
社会的制裁とか、どうでもよいので、不倫に至らないための方法を教える。
年下の慕ってくれる女性ができたら、娘だと、思えば良い。
某氏は完全にちんぽに負けているわけだが、ちんぽに負けないための理性をどうやって保つか。
してはいけないと、倫理観を高めると、ちんぽとの戦いになってしまうので、如何にちんぽと戦わない土俵に持ち込むか。
娘と思って接すれば、彼女候補に、安心感を与えつつ、自分を安全圏に保ちつつ、自分の虚栄心を満たすことができる。
セックスもしなくていい(もちろんある程度あると思うが)
パパ活にまとめてほしくないが、大学教授(私立文系)の叔父も、学生を娘と呼んで可愛がっていた。(学生宅に泊まったり、現代ではできない逸話をよく聞く)
女性にとってのパパであれば、いずれ自立しなければいけないことを自覚しつつ、自立に向けた英気をやしなうことができる。
パパになれば、安心感を与えてあげれば、女性を満足させてあげることができる。満足させてあげれれば、自身も満足感を得ることができる。
不安定な女性は精神的な支えを求めてしまうので、2人の関係だけになればなるだけまずいし。
というか、メンヘラな女性が増えているのって、明らかに精神的な支えになってくれる人が欠けてるからだろう。
全体を俯瞰するようなまとめが見つからなかったので個人的にまとめました。
政治的且つ複雑な話題なので間違いや足りない部分もあると思います。その際はごめんなさい。
一部に主観も入っています。異論ある方も含め、皆様の理解の一助になれば幸いです。
前川氏の主張
(1)なぜ加計学園1校のみが選ばれたのか?
(2)なぜ平成30年4月開校になったのか?
(3)加計学園の獣医学部が開学の「基準」を満たしているのか?
ポイント:規制緩和自体には異を唱えていない(異を唱える立場に無い)
ポイント:文科省と獣医師会は本件について長年強く抵抗している(文科省の設置審における許認可権にも関わる)
ポイント:特区の諮問会議などは文科省の抵抗に強い不信感を持っていた(ように見える)。
(1)安倍首相や官邸の働きかけのもと不公平に加計学園のみが選ばれ、平成30年4月開校が決まった
背景や時系列
・2003年 文科省の告示(命令)により獣医師の大学新設を差し止め(これ以前も半世紀の間、獣医学部の新設なし)
・2007年 愛媛県と今治市が獣医学部の誘致、加計学園のみ応じる(他の大学は誘致に応じず)
・以後8年間、愛媛県知事ら自治体の働きかけが続く(文科省は設置審での審査すら受け付けず。獣医師会の強い反対)
・2009年 民主党政権において構造改革特区を活用し「実現に向け検討」となる(進捗せず)
・2014年7月 国家戦略特区における獣医学部新設に関して新潟市が提案
国家戦略特区ワーキンググループが文科省・農水省をヒアリング。
文科省は、獣医学部の新設希望校に大学設置審の審査自体を受けさせないという文科省告示の正当性を説明できず、
また獣医学部の定員数が十分だということについても説明ができず。
・2015年6月 「日本再興戦略(改訂)2015」に「2015年度中における獣医学部新設の検討」を成長戦略として入れて閣議決定
特区でなくてもよいから何らかの方法での獣医学部の新設の検討を文科省に義務付け
この際、新しい需要があることなどの4つの条件(石破4条件)を検討の留意事項として示す。
文科省は2015年度内に獣医学部新設を検討すると約束(学部新設ができる、できないを理由をつけて示す)
・2016年1月 今治市が国家戦略特区制度の特区認定を受ける
・2016年3月 文科省の獣医学部新設を検討する期限(挙証責任の期限)。説明できず、半年延長
・2016年3月 京都府が概要(京都産業大の獣医学部新設)を一枚紙で提案(特区、第8回関西圏関西圏区域会議)
・2016年4月 「地方創生に関する特別委員会」で民進党 高井崇志代議士が国家戦略特区による今治市への加計学園獣医学部開設を要望
・2016年9月16日 国家戦略特区ワーキンググループのヒアリングで文科省は再度説明できず。事実上、規制緩和(獣医学部の新設)が決定する
・2016年9月30日 広島県・今治市区域会議(特区)において獣医学部新設の区域計画案を決定
・2016年10月18日 京都府が獣医学部新設の具体案を追加提案
「広域的に獣医師養成系大学等の存在しない地域」という条件付きで、特区内では獣医学部を「大学設置審にかけられること」が正式に決定
(この時点では、今治が念頭に置かれつつも、3地域(今治、新潟、京都)のどこか、または順次開校というのが諮問会議の基本認識)
・2016年11月18日 内閣府・文科省共同告示案 パブリックコメントの募集開始
・2016年11月 京都産業大学が提案を取り下げ(理由等の取材には応じていない)
・2016年12月8日 日本獣医学会が山本大臣に対して、獣医学部新設を認める特区を「1ヵ所かつ1校のみに限ってほしい」と要請
(11月18日から12月17日まで、山本幸三地方創生担当大臣、松野博一文部科学大臣、山本有二農林水産大臣、
麻生太郎自民党獣医師問題議員連盟会長、森英介同議員連盟幹事長など多くの国会議員(自民党)の先生方に陳情)
・2017年1月 内閣府・文科省告示で「1校に限る」ことが示される
・2017年1月 加計学園が特区事業者に認定(区域計画を認定)
・2017年3月「岡山理科大今治キャンパス」として文部科学省に獣医学部の設置を加計学園が申請
・2017年8月 設置審から審査結果が答申される予定(事実上、内定がでている?)
・2018年4月 加計学園「岡山理科大今治キャンパス」開校予定
主語が曖昧だったり又聞き(同席していない)だったりして信頼性は高くない?
前川氏が文書を流出させたのでは無いか、という質問には否定せず「お答えできない」という回答。
個人メモ(個人フォルダにあるメモ)は公文書(行政文書)かどうかなども論点
http://hunter-investigate.jp/news/2017/06/post-1059.html
平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短スケジュールを作成。これは官邸の最高レベルが言っている。
https://ameblo.jp/secretary-of-japan/entry-12285440556.html
萩生田副長官は否定している。文科省も否定し副長官に謝罪している。主語なども曖昧。
前川氏は現職の時に見ていないにも関わらず、信ぴょう性が高いと述べる。
(以下8枚同様。http://okinawaageha.xyz/政策/「総理のご意向」-加計文書-全8枚-全文公開され/)
農水副大臣にも需給はおかくの話でしょ、と話してみる。
・大臣ご指示事項
平成30年4月開学は準備が整わないのではないか。平成31年4月開学を目指した対応とすべきではないか。
麻生副総理など獣医学部の新設に強く反対している議員がいる中で党の手続きをこなすためには合同部会を設置して検討を行うべきではないか。
農林副大臣「そのような話は上がってきていない。確認しておく」
設置の時期は最短距離で規制改革を行なっている状況であり、これは総理のご意向
大学の設置審査は文科省の担当なので不測の事態(平成30年開学が間に合わない)はありうる。
平成30年4月開学に向け、11月上中旬には本件を諮問会議にかける必要あり。
農水省、厚労省を土俵にあげるのは文科省。副長官に指示を出してもらえば
私が萩生田副長官のところに「ちゃんと調整してくれ」と言いに行く。
農水副大臣に「農水省が需給の部分ちゃんと責任持ってくれないと困るよ」と話した際には「何も聞いていない、やばい話じゃないか」という反応だった
再興戦略改定2015の要件は承知している。他でもできるよ、と言われた時に困る。
学校ありきでやっているという誤解を招くので無理しない方が良い
私の方で整理しよう
・10/19 北村直人元議員(石破元大臣同期)→専門教育課牧野
・【内々に共有】獣医学部のWGについて
http://www.ourplanet-tv.org/files/170615113.pdf
11/1に内閣府地方創生推進事務局の職員から文科省の職員宛てに送信
指示は藤原審議官曰く、官邸の萩生田副長官からあったようです、と記載
※ この時点では、特区の諮問会議は1校(加計学園)に限るような受け止めではないのではないか?
※ また、獣医師会も以降に強く働きかけて、翌年1月の告示で「1校に限る」として圧力をかけている。
※ 一方で、加計学園を優先するための文言であったのだとは思う。
前川氏の答弁など
・9月上旬:和泉補佐官より文科省の対応を早くして欲しいと要望、総理は自分の口からは言えないから代わりに自分が言うんだ、と言われた。(複数回言われた)
・9月終わり:専門教育課の担当者から(9/26の文書)藤原審議官との打合せ内容の説明を受ける
いつか分からないが獣医師の需給を文科省が無理なので農水省に繋いでくれというのはあった、と述べている。
設置審があるのに特区で平成30年4月と期限を区切ることができるのか?という質問をしたことがある、と述べている。
→ 最後の2ヶ月を除き、今治のみが数年前より具体的な提案を行い、切実なニーズがあったため、今治が最初の1校として当初より諮問会議ほか全体として念頭に置かれていた
→ 文科省が開校予定を後ろ倒しすることは容易に想定できる
根回しは和泉補佐官が行い、萩生田副長官は結局はあまり関与は無かった。
加計学園からの要望を総理が受け、総理からの指示で和泉補佐官が根回しを行なっていた。
文科省は加計学園の提案は石破4条件を満たしていない特区のワーキンググループで過去に述べている。
私は、二度、整形をした。ぱっちりと二重瞼にした。二度の整形をした理由。結論から言うと、私が今まで友情の絆で結ばれていた、あるいは貴重な友人関係という人脈でつながっていたと思っていた事は、私の思い込みで、それらの過去にしがみつくことを辞めて、私自身の決別のためだった。
ずっと、一重で腫れぼったい、身長160cm体重55kgの私は、大学、大学院と、容姿至上主義に負けず、勉強、就活、色々と努力してきたつもりだった。周囲から「頑張り屋さん」「素直で良い子」という言葉をそのまま鵜吞みにするような、馬鹿正直な生徒だった。
同じ学校の同期に片思いをした。同じ専攻、似たような趣味・価値観。二人でいるときは笑いあって趣味の話で盛り上がる事が出来たけれど。陰で私を外見やしぐさを茶化して皆で馬鹿にして盛り上がるような人だった。卒業して、精神的に経済的に自立したら、告白しよう。同じ土俵に立てるように、立派な女性になろう。マナー教室に通いだし、教養に関する読書も増やした。中学時代からしていたボランティア活動も更に幅を広げて取り組んだ。家族のための介護の勉強や、看護知識、知らない分野の勉強をして、皆にとって役に立つような、自慢できるような娘として存在したかった。そして、初めて容姿に気を遣うようになった。それだけじゃ飽き足らず、私はアイプチに手を出した。
卒業と同時にアイプチデビュー。就職して、アイプチするようになってから、周りの男性の態度が違った。自信がつくようになり、私は体重も減量した。といっても美容体重ではなく50kg。初めてチヤホヤされたもんだから、上手く笑顔で対応が出来ない。調子に乗る事が出来なかったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。「美人なのに、高飛車じゃあない。」謙虚な姿勢のまま、順調に社会人生活を送ってきたつもりだった。いっそ、埋没しようか。
けれど、一重の自分が、私の心の中にいた。退職後、自然の奥二重の埋没にした。チヤホヤされることはなかったものの、一重の時の様な迫害を受けるようなこともなかった。
そして、同窓会。意中の彼はいなかった。しかし、みんな私を見て「綺麗になったねー!」「お美しくなって…」「可愛いと思ったけど、綺麗になった。本当に。大人になったね。」社会人学生も学部上がりの同期も、みんな「埋没」した私をほめた。アイプチだった私だったら、もっと褒めてくれてたのかな、なんて下心もあった。
疎遠だったみんなと改めてFBの連絡先も交換したりした。「実は毎月ホームパーティーをしていたんですよ。今度は貴女もご招待しますね!」「勤務先が近い人だけで女子会しようよ!」色々と声をかけてくれた。
それから数か月後、彼らからこれと言って飲み会やパーティーなどと言った招待は、受けていない。そう。全部社交辞令だった。学校を卒業して同窓会までの間の10年。やっぱり私は仲間外れのままだった。
そして同窓会を欠席していた意中の彼は、卒業早々に、赴任先で出会った女子大生と結婚。今は一児のパパになっていた。私の10年間、本当に何だったんだろう。
私は、私が思っている以上に、みんな私の事は眼中に無くて、話さえ上がらない程度の存在だった。容姿も外見も整えて綺麗になった?と思われる姿でみんなと再開しても、実際はメールもLINEも、FBでのメッセンジャーも、来なかった。
もう、いいや。そんな気持ちになった。私は、私が一番「気持ちが良かった時の目」になるために、アイプチをしたときの目に近い二重にする事にした。全切開という、まず二重が外れない手術だ。
整形は、私にとって縁のないものだと思ってた。それが恋をし、快感を覚え、そしてショックも覚え、怒りを原動力に美しくなることに決めた。・・・・瞼だけだけど。
もう、今までの学友と会う事もない。だから私は、これからの未来のために、この顔で生きていく。今度こそ、私と友達になってくれる人達と出会えるために。
単純に自分に揺るぎない自信があり自分が正しいのに思い通りにならない感じだから暴力暴言振るってたんじゃないかな。(そういう意味では自信がないのか。)
で、実際彼女が正しいかはわからないけど(時代背景知らないし。昔はテロを肯定する時代があったくらいだし。)
社会の価値観からの逸脱度は高くそれを良い物と思っていたみたいだよね。自分イカしてるみたいな。
彼女、自分が非行に走ってた自覚がないみたいなのがすごく怖いんだけど。
少なくとも本人のなりたいもの目標とは違うことで競争、比較されて来た感じ。だから環境も合ってない。
やりたいこととは違うことに自信がある、やりたいことには自信がないのかな。
マウンティングがこんなすごくて友人になどなれるのかな。
マウンティングされても友達だったのは、他に友達をつくる自信がなかったのかもしれないな>豊田さん。
そういう意味ではやっぱり自信がないっていうか、見た目も容姿も同類の人は、自分の寝首うかがってるみたいな感じがあって不安で信用出来なくて、
負けたら自分を保てない的な部分はあったのかもね。
そういう意味では友達は安心材料だったのかも。それもマウントだろうけど。
やりたいことをやるよりも勝ちたいが勝る人が多いと大変だ。そして人にはそういう勝ちたい時期場面が確かに存在するので。
やりたいことをやるために勝つっていうのもある。
いや、そういう時期がない人もいるのかな。よくわからない。
以上は自分のマウンティング体質と重なったので推測忖度してちょっと書いてみたんだけど(暴力は振るわないが詰問はしてしまうな)、
官僚時代もそういう人だったのかはわからないから。間に大人しい時代あったのかな。マウンティング体質かな。
もしツイッターで回ってきた通り、官僚さんが議員さんにああいう扱い受ける時代があったのなら、
内側は当たり前だけど知らない。
嫌味ですらきついんだけどね。
自分の競争する土俵では自分より上には嫉妬、自分より下には見下す感じ。
つらい。でもあるある。
人とこういうこと話したことないからわからないけど、あらゆる人が持ってるものではないみたいだよね。
実際そうなんだろう。
いやわからない。表に出してないだけか?
褒められていた土俵で褒められなくなったらショックだけど、
褒められなきゃ生きていけないし育たないよな。
難しい。
NHKで毎場所やっているし、いまはyoutubeなんかで昔の取り組みを見ることができる。浮世絵とかでも登場する。
でもたまに、こいつらなにやってんだ? みたいにアホらしくなってしまうことがある。
まず、裸に廻し一丁の格好。おいおい。ほとんど裸じゃねーか。
そして太っている。いや、わかるよ。分厚い筋肉が内包されているのは。でもむっちり、だ。
そしてぶつかる。clash! 押し合い圧し合いである。そしてあの廻しが取り組みに重要な役割を果たす。
廻しを取れば有利になる奴がいたり、廻し取られたら不利になる奴がいたり。
髷を結ってるし。
そして単語使いもなぞだ。
そして一番意味不明なのが仕切りだ。