匿名だから自分の考えをそのまま書く。初めに言っておくが、あくまで自分の意見で、根拠はない。そう考える人もいるのかと捉えてもらえればと思う。
自分は職業柄というか職場柄?障碍者と関わる機会が多い。でも最近障碍者を守ることについて疑問を持ち始めたんだ。職場変えようと思ってる。
某番組では、毎回毎回障碍者を扱うコーナーがある。あれは「レッサーパンダの風太くんが立った!人間みたいで可愛いね!!」と似てるんだよな。自分とは違うと線引きした上の行為で、明らかに障碍者を下に見ている。
自分の幸せを噛みしめる機会というかもはや材料としている印象を受ける。同時に、障碍者は障害を抱えながらも頑張ってるんだよー!という印象操作ともいえる。そういった障碍者を神聖化しようとするはたらきが、より差別を助長する結果に繋がっているのではと思う。
だって平等だ人権だと騒ぎ立てる者がいるわけだが、このようなものを見せられたら「世間は障碍者を特別視している」と思われても仕方なくないか?普段は平等や人権を矛にして、都合が悪くなったら障害を盾に取る。それは卑怯ではないか。同じ土俵には立てないが立たせてくれと懇願しているのと同じだ。無理難題を突き付けられているのだ。
メディアは障碍者の味方だからだ。そしてメディアによって人間は死にかねないからだ。私はそういった社会全体の障碍者は守る存在!守らない奴は心ない人間のクズだ!というような風潮はよろしくないと考える。私たちにだって人権はあるはずだ。平等であるはずだ。
差別は人間としては正しくない行為なのかもしれない。けれど生き物としては至極当然の行為だと思う。そして、人間は人間である以前に生き物であるからだ。
そして、「守る」という行為はコミュニケーションの上に成り立つものだと思う。守る側が守に値すると思うから守る。それに対し、守られる側が良しとするなら「守る」は成立する。
もしそこで、守られる側が「そんなものは必要ない」と思っていれば、守るはただのエゴに成り下がる。
ただ盲目に障碍者は守るべき!と思う人には、守るということは他の何かを犠牲にする行為だということも念頭に置いてほしい。
守るたびに次々と高度なことを要求されては、この関係は長くは続かないのだ。
弱さを武器にした時点で、それは弱点ではなくなるのだ。
当事者の方々は、自分の子供が健常者だったとしたら、それでも今のように考え、行動できただろうか。できたとしても重さは違う。
つまり人間は自分から逃れることはできない。主観なしには生きられないんだよ。
迷走してきたから終わる。