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はてなキーワード: 中二病とは

2021-03-19

anond:20210319083658

他人強制できることではないのでは?もしかして生殺与奪の権を持ってるとか思ってる中二病の子かな?

2021-03-17

anond:20210315235816

自意識が高いよくある中二病だと思うんで基本スルーなんだけど。

けど、ひとつだけ反論しておけば、君の理屈を突き詰めれば世の中には「もっともすぐれた人」が一人いればそれでいいという理屈にならないか

で、想像してみろ。

世界中人間がたった一人を残して絶滅。たった一人残ったサイコーにCOOLイカした天才は、その世界で一体全体何すんだ?

バカじゃね?

1%の天才いか天才でも、天才が輝くのは99%の凡才いるからだよ。

お前の問題は、自分がその99%であることを受け入れられない、高慢自尊心だよ。

2021-03-14

anond:20210313235019

飽きることがかっこいいと思ってるやつかな

遅すぎた中二病

2021-03-12

中学二年生をリアル中二病扱いしてはしゃぐ人がいる

おかしくない?いい年して中学二年生みたいな振る舞いをするから中二「病」なのであってさ

現役中学二年生が中二の振る舞いしてもそれは中二病とは言わんでしょ

 

公園でおままごとして遊ぶ幼女を指して五歳病って言うか?言わないよな?

2021-03-10

結局自由恋愛至上主義人類繁栄になんら寄与しないし地球温暖化成就する

突然だが俺はもう止めようと思う。

地球に優しい』とか『地球を守ろう』というスローガン代表される、環境配慮した生活を、である

別に今更「"地球の為"なんておためごかしだろwww 人間が困るからやってるだけだろwww」みたいな中二病に開眼したわけでも、宗教右翼的な温暖化懐疑論鞍替えしたわけでもない。気候変動の対策は何より人類の為なんてことは、重々承知だったし、少なくとも今のままなら温暖化は進むだろうと思っている。

端的に言ってもうモチベーションが無い。尽きた。というか何で今まではモチベーション続いてたんだ、ってレベル

世間は『サスティナブルな社会の在り方』とか『SDGs』とかで姦しいけど、そもそも俺には『今の社会を持続させる』動機がなーんも無いことに、遅ればせながら気付いたわけだ。

俺には子供はおろか姪や甥もいないし、何か後世に残せるものもない。何者でもないまま孤独に死んでいくことしか出来ないしがない一市民だ。(同世代のいとこは結構いて子供もいる家庭持ちも多いが、いとこやその子供たちが俺を孤独から救ってくれるわけでもないだろうから遠慮はしないことにする。そもそも世代でも、家庭持ちと独身の間にはどうしたって断絶が生じるのである。)

から俺は下りる。環境配慮することはもう止める。石炭発電バンバンやれば良いし、コンビニでは毎回袋貰おうと思うし、ガソリンエンジン車の暖気運転ガンガンやろうと思っている。

別に環境配慮した生活ウンザリしたわけではない。地球温暖化対策ネガティブになったというより、温暖化が進むことにポジティブになったと言うべきか。仮に温暖化生活が苦しくなったとしても、自分一人なら全然平気な気がするし。

それよりも運が良ければ地球温暖化による世界の変革を目の当たりに出来るかも知れない。そっちの方がよっぽど楽しみだし、モチベーションも湧くってものだ。

グレタ・トゥーンベリさんとかには怒られるかもしれない。「私たち未来を奪うな!」って。うん、ごめんね。でも俺にはそもそも未来なんて無かったんだよ。そんな人間自分がいなくなった後の未来のことまで考えろってのは、そもそもリアリティのある話じゃないんだよね。

なあに、人類の叡智をもってすれば温暖化後の世界でも生きていけるさ。変化を恐れるな! がんばれ!

というわけで僕は今後地球温暖化道を邁進しまっす。がんばるぞ~!

2021-03-09

エヴァ感想楽屋落ち感について ネタバレ

「生きろ」のもののけ姫に対し、「みんな死ねばいいのに」の旧劇場版。25年経った。

前半の再生意識した農業部だるく、後半のアスカマリ突入戦闘シーンもわかりにくいが、とにかくテレビからテーマを完遂していて本当に良かった。

そもそもありふれたフロイト的な親殺しの話で(槍を母親に突き刺そうとするなんて露骨では?)

それを衒学的なジャーゴンで装飾するのは初めからだったが、ここにきてマイナス地球だのゴルゴダオブジェクトだのの中二病全開なジャーゴンがもりもり追加されておりエヴァンゲリオンらしいフィクション感を増幅させている。

それらがシンジゲンドウが対峙する佳境において、露出するセット、書き割り、絵コンテ化するアニメあくまあなた方が見ているのはアニメで、フィクションですよ、といった表現を補強している。

このあたり旧劇場版悪乗り楽屋落ち感?を踏襲していて、ほんとにあれを無かったことにしないでくれてうれしい。穏当になって洗練したといえるが、それを不当に感じないほどにはこちらも大人になっている。

しかも旧劇に強かったオタク否定的文脈ではなく、現実想像区別しない人間肯定的接続していて、涙した。

ところでエンドテロップに「となりのトトロ」が出てきたけど、どこで使われてたんだ??

ぼくのかんがえたなまえのほうりつ

 この投稿は「日頃から匿名ガーと暴れている人こそ丸山珠代の芸名使用夫婦別姓正当化するのは乱暴すぎると問題視すぐべき、そもそもなぜ保守派本名芸名を一緒にする野蛮人を叱ろうとしない?」という趣旨です。

 

 

通称管理

 

三等通称 本名及び旧本名アレンジ

四等通称 本名及び旧本名の原形が皆無

 「なんで序列化するんだ!!」と感情的になるのがわかりきっているので、すごくわかりやすい部分を先に説明しますね。

 いやでしょ、友達のいないオタク勝手に名乗っているハンドルネーム友達自然に与えたあだ名が同列だなんて。

 友たちが与えるあだ名って、大抵本名アレンジなんですよね。

二等通称 芸能人であれ作家であれ例えプロになっていなくても芸名管理センター登録

 たとえ売れてない以前にプロデビュー出来ていないだけでは飽き足らず、コミケサークル参加したことすらない人でも登録さえすればちゃんとした芸名

 一見乱暴に見えますが、十年以上使い続けていたら人間関係ぐらい出来ているものですし、そもそもしかるべき組織登録」しているのです。

 簡単に年齢と本名がばれるリスクを背負う覚悟がない人に匿名批判をしてほしくいないです。

 ちなみに三等と四等は法律レベルラベリングされるのやらかした後ですわ。

 普段はそんな物わからない(本名キラキラネームの人だっているし)

 あと、官位氏姓の復活も視野にいています

 どうせ「左翼ネトウヨ中二病がが勝手登録するぞ」とごねるのでしょうが勝手にやればいいしっていうか、むしろ本当にやらかすバカの名簿が作りやすくなる。

 

一等通称 夫婦別姓

 法律レベル

 どんなに優れた芸能人であっても、本名大事自分の親の姓を護りたいのでしょ? それともリベラルっぽいものを片っ端から要求したいだけ?

 

外国人通称 外国人日本人

 これは別枠。順位をつけたらキーってなるでしょう、

 

 

 これだけ説明しても公文書レベル夫婦別姓要求する様な原理主義者とハンドルネームネイティブ悪魔合体蔓延るかと思う頭が痛くなる。

 後、キモオタなのでLINE本名アレンジっぽい名前を見ると「こいつ、うちの仕事関係なのか? 詐欺師じゃないのか?」と悩みます

 フルスペックニートだったらどれだけよかったか

2021-03-08

エヴァンゲリオンって「ぼくは勉強ができない」だったのな。

テレビ、旧劇、シンでヒロインがちがう。

で、シン以外はアンハッピーエンドにしてるね。旧なんて「気持ち悪い」エンドだったしな。

からむしろ庵ハッピーエンド

そしてシンがシンになったのは新キャラがいたからこそなんだな。

現実から迎えにきてくれたひとが、中二病が授業中夢想する空から飛んでくる女の子だったのな。

シンは大団円というのともちょっとちがうけど。

あと、ラストホームの向こうはもうちょっとみておきたかった。あそこから別のホームに移ったってことなんだ。

あと劇中の歌、みんなかなり重くて意味深ものだったね。

歌のメッセージを久しぶりに強く感じた。

とくに坂本真綾が歌う一連。

あれを集めた音源化ってしねえかな。オールアカペラでいいんだけど。

ネタバレごめんね。

こんなタイミングはてな匿名ダイアリーなんかみてるあなたが悪いのよ。

2021-03-07

[]考察考察厨に関する考察

 自分の好きな作品を深く考察する、というのは本来知的な行いであるはずだが、どうにもイメージよろしくない。特にウェブ上で公開されているような考察は、ほとんどが行き過ぎたこじつけで、作者もそんなこと絶対考えていないだろとしか言いようがなく、その独りよがりっぷりが気持ち悪くさえある。俗に考察厨と呼ばれる彼らだが、何故あのような状態に陥るのだろうか。そもそも考察は見ていて明らかに良し悪しを感じるが、これはどのような基準によるものなのだろうか。考察厨について考察するというメタなことをやってみた。

 まず初めに分かっておかなければならないのは、考察解釈)は自由であるということだ。考察ができるという時点で、それは作中で明示的に語られていない事柄があるということで、それをどう解釈するかは読者に委ねられている。しか自由からと言って好きにしてもいいのかと言えばそうでもない。何故なら考察者は作品に隠された作者の意図というひとつの正解を目指しているからだ。つまり考察とは答えの無い問題ではなく、答え合わせの無い問題なのだ。これこそが考察において誤解してはならないポイントであり、最も難しい所でもある。考察者は答え合わせの無い環境で、自分評価自力客観的評価してやらなければならないのだ。

 さて、考察厨の考察で最もありがちなのは、何が何を暗示しているだの、象徴しているだのといった情報を思いつくままに書いてそれで終わってしまっているパターンだろう。作品は無数の要素から構成されており、暗示的な意味など実のところ、いくらでも抜き取ることができる。考えついた人にとってはもっともらしく思えるし、考察者に対して肯定的人間なら「すごい! そんな意味があったなんて!」と言ってくれるかもしれないが、傍から見るとふって湧いたように唐突ものとなってしまう。これは要するに作者が意図して秘めた要素でない要素を解釈してしまっている状態である。難しいのはこの種の解釈は正解ではなかったとしても間違っていると云う根拠も示せないところだ。多くの人が感覚的におかしいことは分かっても、それを説明することは難しく、結果的客観性のない考察が横行してしまうことになる。

 では、正しく、そして作者の意図に沿う考察とはどのように行うべきなのだろうか。指針となるのはずばり、作品テーマ文脈コンテキスト)、あるいはストーリー構成といった作品に対するマクロ視点である。何らかの意図を込めてデザインされた作品は、論理の展開にも似た一定の流れを踏んでいるものだ。最も分かりやすいのは作品結論、あるいは一言で言い表した場合テーマなどで、これは大抵の作品においてクライマックスエンディング、あるいはタイトルなどの中で分かりやす提示される。この結論が分かれば大まかなコンテキストを逆算することができ、それに沿う形で抜け落ちた部分を考察していけばいいのである。逆に言えばコンテキストの中で役割を持たない暗示については無視していい。正しいかどうかの判断ができないし、作品作りの過程で偶然そうなっただけの可能性さえあるからだ。

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はタイトル作品テーマとなっている分かりやすい例だ。作中で主人公は、「ライ麦畑で遊んでいた子供が崖から落ちそうになった時キャッチして助ける、そういう人になりたい」と語ってる(手元に無いので不正確かも)。当初は抽象的な話として語られているが、物語として考えるなら、この話は主人公が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になった所で終わるのが一番自然だろう。そこで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の具体的な意味が示されており、当然その対になる『崖から落ちそうになっている子供』も存在しているはずだ。ここまでは読めば明らかなことで、考察というより読解のレベルだろう。(とはいえ、このことさえ分かっていない人もいる。念のために言っておくと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は中二病の人ではなく、中二病の人を『助ける人』こそが主題だ)

 ここで定番の『赤いハンチング帽に関する考察』を見てみよう。この考察では、帽子を受け渡すシーンが『キャッチャー』と『子供』の役割の交代を示している、とされている。成程、たしか主人公は『キャッチャー』になれただろうが、作品を通して『崖から落ちそうになっていた』のは寧ろ主人公の方だ。相手が一緒に『崖から落ちそうになった』結果、主人公は踏み止まった。『キャッチする』と同時に『キャッチされた』とする解釈は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がつまりどういう人なのかということをより具体的にしてくれている。作者がその解釈の手助けとして『帽子』という象徴を仕込んだ、とするのは非常に合理的で腑に落ちる話だ。コンテキストに沿った上でコンテキストを補強している、まさに美しい暗示の好例と言えるだろう。

 このように考察コンテキスト相互に補強し合う。ゆえにコンテキスト意識することが考察の最大の指針であり、評価基準となるのだ。

 最後に実際上の話として、考察文の取捨選択について触れておこう。考察というは時に長大で、全て読むというのは結構な苦労を伴う。一目で考察の良し悪しを判定できる手段が欲しい、という気持ち共感できる人も多いだろう。実のところ、このコラムを書いたのは、これを自分の中で纏めておきたかったがためだ。まず経験的な話として、悪い考察文というのは得てして読みづらい。その理由は実はここまでの話で明らかになっている。考察者が全体のコンテキスト意識していない場合、部分部分の考察が全体の中でどういう役割を持つか分からない。つまり情報としてバラバラで一連した意味が分からなくなってしまうのだ。一貫した流れの無い文章は読みづらい。これは正しい考察工程と一致しているかどうかと同義、つまりは『読みにくい考察≒間違った考察であると思っても構わないわけだ。厳しく判別するなら、最初考察者が全体のコンテキストを明示しているかどうか、というのはひとつ基準になるだろう。全体像を共有する、あるいは用語統一しておき、その上で個々の解釈を全体の各所に当てはめていく、というのは良い考察なら自然帰結としてそうなるだろう(考察者が単に情報伝達に慣れていないだけの可能性は残るが)。逆に不味いのは部分の考察からスタートしているもので、これなら先に結論部分を読むのが良さそうだ。結論部分でも全体像に触れていない考察であれば読む価値は間違いなく無い。

銃の脚本がまとも過ぎる

 脚本というのはあれですよ。役者の演技にいちいち指摘をしていたらきりがないし「指トリガー指摘おじさんガー」で懲りた。

 中の人ゲーミングが「それ、エアガン銃弾や弾倉」とツッコミを入れたりしましたが「勘弁してくださいよ、エアガンだって高いのですから」とコメントをしておいた。

 その人「弾切れに気づかない自動拳銃なんてありえない」とつっこんだのですが、あれはほんっとひどい。脚本レベルダメダメ

 そんなジャップが多い長、異様に素晴らしい脚本発見。それが 【相棒19 第18話 選ばれし者】

 「最低限銃を扱える人が真犯人」というオチもよかったのですが、素人説への誘導も中々。

 素人シングルアクションの銃を連射できるわけがない、全くその通り。

 「銃を使った事が無いけどそういう事をキチンと踏まえる知恵の持ち主」「最低限銃を扱えるけどゴルゴにほど遠い」というキャラ造形が大嫌いな銃規制論者と中二病連合軍を知っているだけにほんっと驚きましたわ。

2021-03-06

他人を害してはいけない理由おかしいっつう話

世の中で語られる、他人を害してはいけない理由、人を思いやるべき理由がくだらないっつう話を友人にされた。

善行をすることに自己満足は感じない。

・世の中の全員が人を害することに躊躇いがなくなったら我が身が危なくなって嫌だが、現代日本社会がそうなることは考えづらい。

日本社会の、まあまあ保たれ続けるだろう秩序にフリーライドすることに抵抗はない。

刹那主義とまではいかないが、数十年後まで考える気はない。

・親、恋人、子などはいないしできる期待もしていないので、大切な人のためみたいな話に興味はない。

友人も、いたらいたで楽しいが消えてもどうということはない。

・人に優しくしたら優しくしてもらえるという希望は持っていない。

私にはもう言える事が浮かばなかった。

口先だけ無頼を気取ってる中二病揶揄できそうだが、あっけなく縁を切られたので友達が消えてもどうでもいいというのは本当だったらしいし悲しい。

2021-03-05

anond:20210305112940

うっせえわを中二病時代が思い出されて辛いと言ってるのは20代がかなりを占めると思うけど・・

まあそれを元増田のように「叩いてる」と表現して良いのかどうかは別の話なのかもしれんとは思う。

……「叩いて」はいなくね?

千本桜を久々に聞いてて思ったけど

君の声が「聞こえない」嘆く歌も「聞こえない」って歌を子供の頃に好んでいた世代

子どもたちが「うっせえわ!」と言ってるのを聞いて怒ってると思うとなんか草だなあと思った。


共感性羞恥に陥ってるのは20代

子供が歌うのが嫌だと言ってるのはもっと上の世代

「怒ってる」をここで言われてるような、共感性羞恥でじたばたしてるのがそのように感じられた程度の話なような

anond:20210305112637

うっせえわを中二病時代が思い出されて辛いと言ってるのは20代がかなりを占めると思うけど・・

まあそれを元増田のように「叩いてる」と表現して良いのかどうかは別の話なのかもしれんとは思う。

2021-03-03

AI, VR, 仮想通貨, IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」

当時高校生だった私は3.11のその年に福島県大学(会津大学)に入学しました。あれから10年も経ってしまったので、私のごくプライベートなことについて書きます

あと、匿名性は低いです。匿名ダイアリーなのにごめんなさい。

3月11日

2011年3月11日に、私は茨城県博物館の中にいた。高校卒業式が終わって、車の免許を早々にとったらしい友人と二人、車で博物館にきていた。地震とき、私は吹き抜けの空間の中心にいて、長い振動の間、博物館全体のガラスは轟々と鳴り響いていて、「ああ、私は、今日が命日なのだなぁ」と人々の動揺の中、思った。

実際にはガラス耐震性能が高かったので、館内にはけがはいなかったようだった。

信号機の止まっている、徐々に昏れていく道を、車中でほとんど会話もなく急いで帰った。急いで帰ったけれど、通常の2倍以上もかかって家についた。

私は地震の直後、2ちゃんねるに張り付いていた。「福島原発やばいらしい」そんな書き込みを見て、いよいよ日本は終わったんだ、と私は思った。

私が高校生の頃、世界原発事故ドキュメンタリーが大好きだった。チェルノブイリスリーマイル島東海村。「原子力」という尋常ではないエネルギーが生身の社会に取り込まれて、人間の内側におとずれるということに私はなんとも言えないグロテスクさを感じて、親や友達気持ち悪がられながらも読んでいたのだった。

当時、特にJCOの臨界事故NHKドキュメンタリーは何度も読み返したものだった。事故が起きた時、「出奔した原子力」に対しての(政治的・肉体的・精神的)人間の無力さ、弱さのコントラストがあまりにもどぎつく、生々しく顕れていたからだった。

私は地震が起きて、一、二日後にはリビングこたつ占拠して、こたつのど真ん中にデスクトップPCを置いて、情報官気取りで気象シミュレーションをみたりしていた。そして、家族にも協力してもらい家中シャッターを閉めた。それくらい、当時私は怖かったのだと思う。

震災直後、福島県大学入学した

私は震災の年、福島県大学入学した。私の地元同級生にも福島県大学入学する予定だった子がいたが、辞退したらしかった。大学入学式は遅れて執り行われた。ガイガーカウンターを買った方がいいかな、とか、「あそこには近づかない方がいい」とまことしやかな噂を聞いては少し怖いな、という思いが常に頭にあった。

しかし、入学してみると、その話はなんとなくしてはいけない話に思えてきたのだった。それはその土地に長く住んでいて動くことができない人たちには、惨い話であるからである。私もいつの間にか、放射線の話はしてはいけない気がして、話題にするのをやめた。すると、怖いという感情もいつの間にか薄れていった。

しかし、時々、放射能汚染される夢を見ていた。これはつい福島県を離れる少し前まで見ていたのだった。

私の当時住んでいたアパートには窓の近くにベッドがあって、その窓の外には何年も取り込み忘れたバスマットが干してあった。私の覚えている夢では、実はそのバスマットは大気中のチリや雨に放射性物質たっぷりまれていて、そのバスマットの線量が高くて、実は私の身体が蝕まれていて……という夢であった。何年もそのバスマットを干しっぱなしにしてしまったのは、もしかしたら、そういうことに対する無意識的な恐れから触りたくなかったのかもしれない。

長年大学でくすぶっていた

私は、大学特にパッとした研究もできないでいるのに何年も何年も大学にいた。でもそれが良かったのかもしれない、と今では思う。福島県という土地に「土着」して、私なりの感覚放射能の感じ、特にその怖い感じの中に居たということが。

私はもともと怖い思想の持ち主だと思う。正しいと思ったら、それに突き進んでしまう。人の感情も、中学生くらいから読まないように生きてきてしまったため、無視する癖がついてしまっている。だから原子力という「科学技術コントロールから外れた状態」の中に当事者として生きた、というのは私が、私の歴史にとって重要ことなである。もちろん、日本にいたら誰だって当事者なのだが、私は福島県に住まわず当事者と思えるほど賢くない。

核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」= 「AI, VR, 仮想通貨, IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」

3.11から10年が経って、私は福島県から遠い場所に住んでいる。今は遠くから考えることしかできない。

最近原子力、ひいては(科学技術についての論考を読んでいる。1950年台、まだラジオな世の中で、近未来的なもの技術とか科学が大きな期待を背負っていて、すごくキラキラしていたであろう時代、人々は核の技術に対して、今でこそ信じがたいが「核兵器の利用は良くないが、核の平和的利用こそ人類幸福につながる」と本気で思っていたようなのだ。多分、今でいうところの、テレビCMIT系企業がたくさん広告を打っていて、IT企業に勤めていることが一種ステータス少女漫画に出てくる男性IT企業勤め!)になっていて、AIすごい!VRすごい!仮想通貨すごい!IoTすごい!みたいなイケイドンドンな感じだったのだろうと思う。そんな時代、「核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」と指摘した人、ハイデガーがいた。今でなら、「AI, VR, 仮想通貨,IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」と言うのと同じことなである。今でなら炎上やむなし発言なのであるしかし、このアナロジーを単なる面白おかしアナロジーとしてだけで捉えていいか。彼は世の中の潮流とは全く違う発想を省察によってしたからこそ、核の平和利用危険性をかなり早く認識できた。

科学は考えない」

ハイデガーは「技術」について『放下』の中で、(科学技術に対して「その価値を認めつつ、それに対して否、と言う」 ―ーこの本のタイトルにもなっている、「放下」という態度が大事なのではないか、と言っているらしい。(まだ『放下』は直接読めていないので、「らしい」でごめんなさい。)

そして、彼は思考について、「計算する思考」と「省察する思考」とに分けて考えており、彼は「科学は考えない("Wissenschaft denkt nicht")」、科学計算する思考であって省察ではない=「考えていない」、というしかたで核の平和利用について否、と言ってみせた。

科学は考えない」

これは、理系立場仕事している者にとっては「耳が痛い」ことなのではないかしかし、耳が痛いからこそ考える価値があるのではないか

彼の言っていることを私は理解できる気がするのだ。科学進歩的に進んでいく。その「ひたむきに進んでいく」ということが「科学は考えない」と彼が言う理由なのではないかと私は思う。何か、ある方向に、引っ張られるように「進んでいく」。立ち止まる者は厄介者として排除される(Publish or Perish)。ハイデガー技術批判するだけではない。もちろん価値を認めつつ否定するという態度を彼は実践している。私も技術がなくなったら困る。方向音痴の私はGPSが無くなったら、地図が無くなってしまったら、とても狭い世界を生きることになってしまう。だから難しい、ある意味矛盾の中を生きなければならない。

私について

私は、実は博士過程を休学した。プライベートも荒れてしまったし、閉塞感でいやだったし、どうしても、論文が書けなかったのだ。

私は小さい頃から哲学が好きだったらしい。「最近哲学系の本を読んでいるよ」と昔の友人たちにいうと、みんな「よく哲学的な話してたもんね」と言ってくる。

でも、私が文系に進学しなかった理由が、「確かなものが何もないと怖い」という恐れからであったし、国語がとても成績が悪いし、理系ってなんかかっこいいとか思ってたのもあって、ずっと理系研究室で研究していて、哲学とか諸々の教養ほとんどないのだ。

哲学最近やってる」と言うと大半の人に苦い顔をされる感じがする。「中二病が抜け切っていないな、こいつ」と言いたげなそんな感じ(笑)。おそらくそれは哲学に「生産を止める」作用があるからなのではないだろうか。無意味で、ある意味破壊的な作用が。

以前、こんなことがあった。課外活動で何人かで集まってスマホアプリを作ろう、となったときに、誰かが「xxさん(有識者らしい)から教えてもらった方法で、xxという仕方でブレーンストーミングすると良いらしい」と言った。私は「なんでその方法でなければならないの?」と、ある意味チームの士気を下げるようなことを言ってしまったのだ。こういう「そもそも論」(哲学)というのは「生産を止めてしまう」。イヤな感じに水を差す。だからまれる。

しかし「生産を止める」という行為が実は重要なのではないか。世の中的に、「生産的=いいこと」という認識がある。生産を止め続けないことがそれほどいいことなのだろうか。これこそが、ハイデガー批判するところの「考えない」態度ではないか。「より幸せに、より便利に」を目指すために科学技術を信じて、生産生産生産、とひたむきに努力してきた末の原発事故ではないか

昔の時代原子力は「兵器として利用されることはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられていた。

今の時代も同様に、情報技術生命科学が「非倫理的に利用されるのはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられている。「再生可能エネルギーでなら、持続可能社会が実現できる」とも信じられている。

もし、「なぜ地震大国原発つくったらヤバイという今ではあたりまえの認識を持てず、当時誰も水を差す人がいなかったのだろう?」と考える人がいるならば、なぜ、現代においてもその人が水を差す人にならないのかが不思議なのである。だから、私はあえてこうして水を差す、ということをしてみたい。

ということで、私の全然論文を書けていない「生産しなかった」大学時代も、この哲学的態度の実践とみなしてこの文章を締めくくることにする。

2021-02-26

メンヘラの人

中年になってもメンヘラの人っているのかな

それとも中二病みたいに卒業していくものなのか

2021-02-22

ネットサービスあいつ今何してる?

個人的2000代前半のネット雰囲気が好きだった。

あのは頃まだ一部の人がやっている感があり、そこはかとないアングラというかアウトロー感というか

当時中二病を引きずっていた高校生自分には、とてもワクワクする場所だった。

その時のサービスというか、そんなものがどうなったのかちょっと考えた。

2ch⇒5ch及びtwitter

当時の2chユーザを主とした中年層と業者と幾ばくかの他の年齢層が5chに

少し趣を変えてtwitterの一部クラスタが昔に居た2chの層としている感じ

匿名の若気のバカ遊びみたいなノリが機能する場所はなくなった気がする。

個人ニュースサイトはてブスマートニュースキュレーションサイト

はてブに関してはリンク中心の前者からコメント中心の後者になった感がある。

あとははてなバイアスというか技術系に偏りがちな気も。

キュレーションサイト個人の色がないというか、あまり面白みがない。

まだ更新してくれている個人ニュースサイトさんをたまに見るのが、月1の楽しみ。

後は更新の止まったサイトをさっさと丸ごと保存しないと、多分いつか消えるからしないとなぁ。

mixi⇒数多のSNSFacebookInstagramtiktok,Clubhouse等):

mixiの対抗にGreeとか居たけどあの時代SNSとしてはほぼmixiで、

進化できず改悪を繰り返すことで他のSNSに散らばった形なのかな。

mixiは止まった時を保存しつつ現存するSNSとして今も生き続けており、

たまに見ると楽しい。引き続き歴史文化の保存として社名を背負って頑張ってほしい。がんばれモンスト

何気にmixi現存しているのもあり、mixi代替となるSNSはないように思える。

基本匿名テキストベース趣味任意の人とのつながりみたいな、なんというかうまく言えないけど、アレは好きだったんだ。

テキストサイトブログnote?:

テキストサイトと並行してブログもいたけど、、GeoCities的なアレからブログとかnoteかに移ったのかな?

ただ、日記ネタみたいなはテキストサイト的なノリは少なくなったのか、少なくとも盛り上がらなくなった。

今もテキストサイト的なノリでたまに更新しているけどやはり当時のような熱はない。

それは、大量の読者があってのあの熱だったのかもしれない。

十数年後には今の状況を懐かしく思い出せるものなのかな。

何か他にあるかな

(2/22 20時 追記

酔いに任せて書いた適当つぶやきがホッテトリってる。せっかくなのでコメントを拾って補完してみる。

デイリーポータルテキストサイトデイリーポータルオモコロ

イメージ的にはこんな感じ。デイリーポータルは生き続けて、

テキストサイト成分とデイリーポータルを足していくつかで割った感じがオモコロの感

OKWave教えてgoo人力検索はてな、⇒Yahoo!知恵袋

OKWave教えてgoo回答者優位の構図だったけど、

はてなについては、ポイント質問者が配るという構図で、質問者優位の構図が新しかった。

情報はタダというネット常識に一石を投じたように見えた。

が、結局Yahoo!知恵袋収束された感。

発言小町発言小町

上記カテゴリは一緒なんだけど、「女性の悩み相談」というジャンルに特化した先見の明生存戦略の妙が見える。

質問系はYahoo!知恵袋以外は駆逐されたけど、発言小町発言小町として生きている。凄い。

関心空間サービス終了:

存在を横目で見ていただけなので、よくは知らないけど趣味ベースSNSということでmixiコミュニティつながりを特化させた感じかな。

しかしこれもサービス終了ということでこの手のつながりに、今はビジネスとしてペイするほど需要がないのかもしれない。

梅田望夫氏⇒梅田望夫氏:

結局Web2.0とかdocomo2.0とか何だったんだという感。

どっちかというと2000年後半な気もするけど、本人のHP2008年が最終更新Wikipedia2012年が経歴の最終。

と、まぁアメリカ活動している人なんで、日本に飽きたんでしょう。

はてなハイク⇒サービス終了:

2000年後半だけど好きなサービスだった。

なんでもないつぶやき独り言にゆるく☆を付けあう優しい世界

多分収益問題サービス終了。

同じく収益問題があるはてブよりも全然世界平和に貢献していたと思うんだけど、

悲しいけどこれ、ビジネスなのよね。なんで、代替もないでしょうね。

掲示板BBS)⇒5ch系匿名BBS群、各種SNS

HPホムペ)にぶら下がる掲示板、という感じでそこでの会話があり、HP主のみの発言の悲しい掲示板

メジャーSNS無き時代ネットコミュニティとして機能していた活発な板など様々。

基本的HNでの発言で、コミュニティでは独自ルール「お礼3行以上」とかがあったりなかったり。

この掲示板を抜き出して集約して匿名化した、あめぞうから2ch、まちBBSとかの系譜は既に2000年を待たずに出来ていた。

で、今もあるところはあるけど大体閑古鳥。5chとか、SNSに行っちゃったね。

お絵描き掲示板pixivtwitter

これはツールが変わっただけでコミュニティの働きとしては同じく機能し続けているようにも思う。


チャットICQMSN MessengerLINESlackなどのチャットツール

ここにおけるチャット上記BBSと同列で個人HPにぶら下がっているものを指す。

ここでの状況はBBSと同じ。ただそのレスポンスが基本リアルタイムというのが新しかった。

ICQは便利だったけどあまり使わなかった。

MSN Messengerというより敷居の低い神サービスがあったので、これを主に使っていた。

そこから特にMSN Messengerから現在チャットツールでは基幹は変わっていないので

99年にできたMSN Messengerは凄かったな、とコメントにもあったね。

BlogTrackback)⇒BlogSNS

GeoCities的なアレからBlogという新しい概念発明!とか騒がれていた気もする。

全盛期は使いやすさのLivedoorBlogと賞金と芸能人Amebloアングラfc2独自はてなダイアリーみたいな感じだった。

そのなかでTrackbackという「情報で繋がれる!」なんて画期的っぽい仕組みも持ち上げられたけど、スパム横行で衰退。

※今も見ている個人ニュースサイト

いくつかあるけど、ugNews.netさんとか無駄領域リサイクルさんとか面白いです。

ポストペットメッセージングアプリPostPet GO」:

当時は素敵そうだったけど、そんなにメールでやりとしなかったし。。。

メールサービスは終わったみたいだけど、メッセージングアプリで復活する予定みたい。

Flash系⇒派生としてのニコニコ動画Youtubeとか:

常時接続環境が出来上がりつつあるとはいえ動画コンテンツに飢えていたネットユーザーの救世主だったのがFlash

ネットネタを絡めた吉野家コピペペリーなど名作は数々。

個人的にはNightmareCityが好き。

Flash自身がその死に向かう今、これらに近いのはニコニコとかYutubeとかあるけど、ちょっと違うんだよな。

言語化が難しいけど。

何か長くなってつかれたので、いったんここで中断しまっす。

(2/23 0時 追記2)

ちょっと復帰してみる。全網羅無理じゃね?と思いつつ。。。

clubhouseは…今後セカンドライフ化するのか、化けるのか。

少なくとも今時点では前者っぽい空気がするけど。

flickrInstagramflickr

flickr写真共有SNSとしてはこの時期の始祖だけど、PC前提っぽくて。

スマホ時代の今はInstagramかな。

まり詳しくないけど、flickrflickrでよいところはありそうなので、

大枠としてはInstagramに流れつつも、flickrflickrとして残るって感じかな。

ヤフオクメルカリ、その他フリマヤフオク

オークションという、売り手は予想外の高値を望み、

買い手はなるべく安く落札する、ゲーム的要素の強い個人売買の走りだった。

出品者となるには、本人確認必要だったり

きれいなページにするためにはHTMLを打たなければだったり

住所、口座情報などの個人情報をお互い共有する必要があったり

高値更新を見据えたスナイプ合戦だったり、いかんせん敷居が高いし、めんどくさかった。

その辺りの敷居の高さを、おおよそ取っ払ったのがメルカリをはじめとしたフリマアプリうまいことやったなと。

今は相場が決まっているものライト層はメルカリ相場が分かりづらいものヤフオクみたいな住み分けか。

pya!tumblr

pya!のもの宝島VOWネット版という感じで、画像はまさにそんな感じだった。

そこにFlashが乗っかったりで、”「ありがとう」って言いそびれたヤツいる?”は泣けた。

画像的な位置づけはtumblrに移ったんだろう。

pya!ネタ色が強かったけどtumblrネタ含めwebスクラップって感じでそこに包含された感じ。

デリシャスはてブ

デリシャス?はて?と思ったら、Delicious、あの格子状のアレか。

かに、この頃はDeliciousの方がよく見た気がする。何で衰退したんだろう。

自分個人ニュースサイトをしつつ、いつかはこれに置き換わるんだよなぁ、なんて見ていたけど。

匿名オフ会HN,実名オフ会

主に2ch界隈で色々な板でされていたオフ会に参加していたりしていた。

学生時分にいろんな人と話ができたのは面白かった。

匿名がゆえに想定外の人と話をするとか。

キャバクラに初めて行くより前にキャバクラ嬢と深夜ボウリングハイタッチしたのは今でもいい思い出。

今はそういう匿名闇鍋オフ会、あるんだろうけど自分はめっきり出てないな。

で、SNSでのオフ会とかはある程度ペルソナの知れた人の集まりなので、これは面白みがなさそう出てない。

日記ブログ出版twitterのバズからのそれ

いくつか出版とかされてて、それが映画ドラマになった電車男とか鬼嫁日記とかネットリアルに来た、なんて見てたな。

ネットメディア化という点ではむしろ加速していて、出版はもとよりTVの街の声とかもTwitterだしなぁ。

360SNS

存在すら知らなかったけど、この時期、MIXI派生版みたいなSNSはいっぱいあった気がする。

その中でこの360SNS みたいに意味ある形で定着できたものは少なかった様だけど。

ふぁぼったー逮捕

あれはしゃーない。

と、キリがないので飛ばして。

探偵ファイルオモコロ

それな。あの頃の探偵ファイルは軽快なノリと探偵ならではの情報ですげー面白かった。

大住氏とかえりす氏とかだっけ。あの人たちのバカなノリがとても好きだった。

オモコロもノリとしての継承はそれなんだけど、なんというか当時の探偵ファイル的な熱量面白さはないなぁ。。。

網羅無理っぽいのでいったんここで〆

(2/24 5時)

早朝に目が覚めて、数時間後の勤務に目をそらすために蛇足を書いた。

https://anond.hatelabo.jp/20210224050656

2021-02-13

anond:20210212225220

善悪を相対化して終わっちゃう形式から離れられないのは現実社会問題真正から取り上げないからだと思ってる

リアルタイムで起きてる問題を取り上げられるなら、内容の詳細が毎回入替わることで新規性があるから型が勧善懲悪のままでもどうにかなるんだよね

ニュースなんか飽きずになんとなく見ちゃうでしょ

それが現実批判するの回避してしまうと、使える素材が激減してお決まり流行フォーマットを繰り返すだけ、名前が変わるだけ

SF流行ってた頃はSFファンタジー流行ったらファンタジー、今だとゲーム世界舞台定番

現実事件比較してバリエーションが圧倒的に足りない

そうなると型が観念的な勧善懲悪だけワンパターンで飽きられやす

仕方ないからその観念的な勧善懲悪をひっくり返すのをやる

ある程度以上まで価値観の相対化すると今度は話が複雑になりすぎるから、異なる価値観を重ねるのはせいぜい1、2回まで

すると「お子様向け、大衆向けの勧善懲悪」か「ちょっと中二病の入った実は悪にも深い事情があった」かの実質二択が、フィクションに許されるバリエーションとなる

ということで、フィクションバリエーションを増やすには、もう少し現実世界への批判を許容できるようにして

娯楽作品政権批判ぐらい当たり前にできるようになるのがフィクションバリエーションを増やすための最低限の条件だよ

anond:20210212141037

まりにも中二病で笑っちゃうんですよね。せめて高校でそういうのは卒業しとけよ。

何だかんだで国益のためってのもあるんで。マジで

そうじゃなきゃやってらんないよ国の代表とか国の運営とか。

私利私欲がないとは言わないけど、国の為にみんな頑張ってる意思もあるんだよ。

そこから目を逸らしても何も生まれないよ。

2021-02-09

中二病馬鹿にする大人ってどうかしてる

中二病馬鹿にしていいのは10代後半だけ。

いい歳して馬鹿にしてる人間10代後半のメンタルから抜け出せてない幼稚な人間性。

2021-02-05

anond:20210205004053

文章の書き方に高校生、あるいは遅めの中二病を感じる……

社会への不満から社会変革を真剣に考え始めるのはその年代ありがちなことですが、考えるなとは言いませんがまずは隅に置きましょう。

社会は広く、高校の狭い世界で当然だった「女子」の論理は、もう少し広い社会や色々な人々と関わると、別に圧倒的な多数派ではなかったのだな、と思うことが出来るのではないでしょうか。

高校に馴染めなかった」人々の生きる世界は、高校という狭い世界を出た後には、もう少しマシになると思います

理工学部がある総合大学に進むのがおすすめです。

2021-02-04

中二病を今になって発病した

 中学高校時代アニメとかほとんど見なかったし、中二的なものにも一切関心が無かった。今、大学生なんだが、中二病を拗らせている。人前で「I am the bone of my sword」とか「タイムアルタースクエアアクセル」とか叫びたい欲求が出てきたし、lineのトプ画をハーケンクロイツ、ひとことをハイルヒトラーにしたくなってきた。流石に大学生にもなってそんなことしたら余りにも痛々しすぎて見ていられないのは分かる。だから、そういう欲求を抑えている。マジでこういう痛い経験中学高校の間にしておけば良かった。その頃なら黒歴史で済むから、本当もったいなかったなって思う。やはり中二病はなるべく若い内に発症すべきだとつくづく思う。

2021-01-26

尾崎豊について

なんか最近話題になっているようなので。

1990年代中高生だった世代だけど、

尾崎豊歌詞には全く共感できなかったな。

youtube見てもライブパフォーマンスは迫力あるし

(あれがキモいという奴もいるが、個人的には嫌いじゃない)

人間カリスマ性も高いと思うけど、歌詞はやはり苦手。

90年代には既に先生大人圧力なんて弱くなっていて、

しろ学校同級生いじめを避けるのに必死だった時代

先生大人に反抗する尾崎は、既に時代からズレていた。

尾崎自身もそれを強く感じていたと思う。

聴いている奴は一応多かったと思うけど、

好きと公言する奴はいなかった。

聴かれていたのも、主に恋愛バラードだった。

90年代には既に若者カリスマではなく、

かっこいい歌手の一人という感じだったと思う。

よく言われているけど、ヤンキー尾崎豊なんか聴いていなかった。

尾崎豊が刺さるのは、あくまで真面目な優等生

しかし、1990年代には既に、刺さる優等生は減っていたと思う。

から振り返ると、1980年代90年代ではすごい断絶がある。

「反抗」「自由」「青春」というのが急激にダサいものとなり、

ロックポップステーマ歌詞から消えていった、

その代わりにミスチル的な「自分らしく」が大流行した。

現在はそれも廃れているのだろうか。

改めて調べてみると、尾崎代表曲とされているものって、

バラードも含めて全部10代に書いたものなんだな。

言ってみれば俺たちにとって「中二病」「黒歴史」でしかない時期にやっていたことが、

一生にわたってイメージとしてついて回るわけで、普通に考えれば死ぬほど苦痛だ。

尾崎がどう考えていたかは知らんが。

尾崎は当時も特に好きではなかったけど、影響力はすごかったから、

思い出を語るとなんか恥ずかしくなるね。

2021-01-17

最近音楽

からかもしれないけど歌詞の内容が「周りが平凡で退屈」みたいな導入から始まって「自分特殊性を隠して生きてますしんどい」みたいな感じで共感できなくなった。

中学生くらいまでは中二病もあってそういうのが好きだったけどアラサーになると自分が平々凡々な人物だとわかりきって共感できない。

アーティストから大衆へのメッセージを伝えてるんじゃなくてアーティスト同士でメッセージを伝え合ってる感じ

でもメロディラインが好きだからよく聞く

最悪歌詞がなくてもいいんじゃないかな?

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