はてなキーワード: テニュアとは
ポスドクを何年か経験しながら20以上の公募に出してきたけれど、どれもこれも通らない。教育歴こそ薄いが、論文数は同年代の若手のなかでも多いほうだし、それなりの受賞歴もある。その一方で、こういうのを比べてしまうのも浅ましいことだけれど、そこまでパッとするわけでもない同世代の研究者たちが、いつのまに告知されていたのかもよくわからない公募で、テニュア職にすんなりおさまっていたりするのも見てきた。もちろん、業績数や教育歴の単純な比較で採用が決まるわけでもないことは百も承知だけれど、なんだかおかしいぞという感触はどこかにあった。
家庭の事情もあって、最後のポスドクの任期が切れる9ヶ月くらい前から、アカデミアを去って一般就職する選択肢も視野に入れ、転職エージェントとやり取りをしていた。あと9ヶ月で条件の良い研究職に運良く決まればアカデミアに残るだろうし、決まらなかったらもうすっぱり足を洗おうと思っていた。
数ヶ月が過ぎたあるとき、そこそこお世話になっている先生から、これこれの先生が退職される際に後任を探しており、もしよかったら応募しませんか?という話をいただいた。応募しても確実に採用されるとは限らないが、後任の人事にあたってはこれこれの先生の意向が限りなく尊重され、これこれの先生が私の名前を直々にあげてくださったとのこと。もちろんはっきり言われはしなかったが、いわゆるデキ公募というやつだ。
アカデミアのことを諦めかけていた私にとって、こうして気にかけてくれる人がいることは素直に嬉しく誇らしかったが、同時に何とも言えない違和感を抱いた。このときは違和感の正体をつかめなかったけれども。そしてメールのやり取りのあと、先方の指定する日時にこれこれの先生のもとにうかがい、「面談」ということで1時間ほど話をした。面談の感触は良かった。これなら採用されるだろうと思った。「面接」のほうは、公募のプロセスが開始されたあとに形だけするのだということだった。
ところがこの面談が終わったあと、先程言及した違和感はさらに膨れ上がり、おそらく怒りに変わった。このデキ公募で採用されたとして、それでは、選考に応募してきた窮状にありながらもがんばっている同世代の何人もの研究者たちに対して、私は顔向けできるだろうか。公正な競争を信じ、成果を出し続けていればいつかは報われると信じながら命を切り崩すように研究を続けている仲間たちに対して、これはちょっと卑怯なのではないか。それにだいたい、私に対しても失礼だ。10年以上もまともな論文すら書いていない「研究者」の先生方が、何の権限で、寛大にも私を採用してくださると決めることができるのか。研究者としての実力を必死に高めて、世界の仕組みを少しでも深く明らかにしようとがんばっているのだから、こんなまったくメカニズムのわからないデキ公募なんかで採用されるより、実力を公正に評価してほしい。
しかしその一方、これは願ってもない話であることは確かで、この不公正を受け入れれば、テニュアのポジションでアカデミアに残ることができる。しかし私の感情は収まらない。研究者は論理的な価値観を共有し、アカデミアには実力次第で評価される公正な競争があるのだと信じていた。あるいはそう信じたかった。しかし、デキ公募に関わることで私の期待は裏切られ、こんな慣習に染まったアカデミアは、もはや私が人生を費やして貢献したい場所ではなくなってしまった。
そんなことを悶々と悩んでいたところに、折よく転職エージェントとの話がまとまり、期待以上の条件で企業への採用が決まった。私はアカデミアを去ることに決め、これこれの先生にも丁重な断りの連絡を差し上げた。
会社や企業には元から公正な競争なんか期待していなかったので、今はだいぶ気楽に仕事ができている。デキ公募に関わることでアカデミアには失望が残ったし、この失望は今後も消えることはないだろうと思う。
大学に進学した直後なのに「大学教員になりたい」という学生がいて閉口している。
こんな学生が1人だったら、「意識の高い変わり者がいる」で終わるのだけど、なぜか複数いる。
新入生なんだけど、今まで大学や研究機関の何を見て、どういう考えに至って、大学教員になりたいと言ったのだろう。
まず教員になりたい、というのがわからない。大学の教育業務をやりたいということなのか?研究をするのではなく教育をしたいということか?まだ大学の授業も受けていないのに?
細かい話をすれば、うちの教員は全員研究科所属で、研究業績がなければ採用もされないし職階も上がれない(教育業績はあまり加味されなくなった)。才能があるのにテニュアが決まらないポスドク、教育に忙殺されてテニュアトラックに乗っても論文が書けない大学教員、精神を病んで論文もかけず研究費も獲得できない研究員を山のように見てきた。
そんな多くの屍の上に、大学教員のポジションがある。そんな覚悟も現状もおそらく知らない無垢な新入生達に、天真爛漫に「大学教員になりたい!」と言われたので、面食らっている。
なるな、とは言わない。
でも、なりたいうちは、絶対になれない。
大学教員はなるものではなく、「何かに対する探究心と熱量を人一倍持った人たち」のうち、運が味方した人たちなのだ。
そしてそんな人たちも、大学教育や学内政治に関心がなければ、リタイアしてしまう。大学教員が大学を運営できなくなって、立ち行かなくなった大学もある。
だから、大学教員になりたいとか、変なことを言う前に、自分の夢中になれる大好きなことをまず探してください。
そして、それが国が税金を払って進めたいもので、あなたがそれについて国内で最もよくわかっている人間だと認められたら、研究所の研究員や、大学教員になれると思います。いや、自然にそうなるのです。
大学の講義を受けたり、学びを進める上で、大学教育に問題があって自分がぜひ解決したいと思うようなら、大学教育を研究する大学教員になってください。
そうでないなら、民間に行った方が数倍は楽です。求めている人がいるなら、お金はもらえるはずです。
肩書きの聞こえの良さだけで、何者かになりたいというエゴで、どうか自分の人生を潰さないように。
ご入学おめでとう。
なんか「アカデミズム」っていう一枚岩の組織があるような書き方だけど、ぶっちゃけ、ポストに誰をつける/つけないとかは各研究機関の判断なんだから、全体的な統制なんてしようがないし、それを統制しないことが「学問の自由」だからね。それはむしろ許容するべきだと思うし、国際的にもそうだと思うよ。
一度テニュアのポスト取っちゃうと、よほどのことがない限り絶対にやめさせられないよ。学問的にトンデモだからという理由では絶対にやめさせられないのが「学問の自由」だからね。低い確率だけど、そのトンデモな人が実は正しかったという可能性もあるわけだから。
定年間際ではトンデモになっちゃうような人も、若い頃はすごい業績出してたのかもしれないし、その若い頃の「すごい業績」は、いい研究機関でいいポスト狙うために頑張って初めて出せたものなのかもしれない。だから、明らかに主張がトンデモであっても、嘘をついていなければ生かしておこうっていうのは、正しいアカデミズムなんだよ。
社会学は、自然科学で多く用いられているクロスチェックによる正当性の評価方法が採用しづらいゆえに弱いようだ。
社会学が人や集団を相手にする以上、倫理的に問題のある行為はできないし、再現性も後になってみないと分からないものも、検証のしようもないものもあるだろう。
では、フィルターがまったくないかというとそうでもないようだ。
「比較しろ」って簡単に言いますけどね――質的調査VS量的調査 岸政彦×筒井淳也
https://synodos.jp/society/19195
上記の記事中では、特に質的評価と呼ばれる手法が、評価しづらいという指摘がされている。
そのなかでもフィルターに近い作用は以下の文章にあらわれている。
「質的調査にも、いわば「社会問題の共同体」みたいなものがあると思うんです。そこには、研究者だけではなく、当事者、活動家、行政、メディアだったり、いろんな人が緩やかにつながっている。もちろん共同体といってもみんな仲良しという意味ではぜんぜんないですよ。その内部には葛藤や亀裂もあります。ただ、いずれにせよ、そういった人たちが論文を読むことはまれですから、たくさんくだらない論文や報告が出てくるんですが、そのままそんなことを続けていると、後から別のところで叩かれたり、調査が出来なくなっていくんじゃないか。ひとりの質的調査者の研究が、当事者や関係者たちとの関係性のなかで批判されて、広い範囲で、長いスパンでフィルターが効いているんじゃないかとは思っていますね」
まさに今炎上中の社会学者は社会との齟齬によって淘汰されつつあるのだと思う。
とてもウェットな世界のようにも思う一方で、自然科学の世界でも似たりよったりのようにも思う。長く残る人の中には、その人柄であるとか、昨今低くなっているという論文の再現性が高いとかの個人の信頼みたいな、業績としては評価されにくい隠しパラメータが高い人も結構いる。
https://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/1316a8dad8d53aef57063e651b0763cb
そういう人でもテニュアのポジション取るまでは苛烈な性格だったとか結構あるけど。
脱線したので話を戻す。現在はTwitterによって市民の目が届く範囲に社会学が降りてきてると言えるのかもしれない。市民の目による監視も完璧なシステムではないと思うが(人気投票的で、長期間での研究価値とは別の軸で評価されやすいなど)、大学の中だけで閉じていくよりは新しい評価軸の発生は概して好ましいことではなかろうか。
metamix 英語論文なぞいらん日本語で事足りるって話はまあいいけど、理系なら学部生ですらやらされることを文系だと教授クラスでもやらなくていいんだーフーンみたいな感想
お互いの分野で必須タスクが違うだけだろ……英語以外の外国語を読まなくていい理系はずいぶん楽ですね,って言われたらどう思うよ? 私は修論書くにあたって複数のヨーロッパの言語読んだし,東洋史だと修士でも複数の現地語+複数のヨーロッパ言語を読むのが当然みたいな分野もあるけど,理系は英語だけ読んでりゃいいんだっけ? ふーん.
dot 学術言語は一理あるとも思うけど、査読有りが理系のローカルルールという言説には面食らう。記述言語も査読有り無しも最終的には学術論文としての品質をどう担保するのかというところに帰結すると思うんだ。
slimebeth この問題、英語も査読も不要、理系が絶対と思うなみたいな捨て台詞をいろんな人が吐いてくのに「では代わりにどういう制度や方法論で研究の質を担保してるのか」を未だに誰も一言も言わないの底知れぬ闇感すごい…
本当に疑問なんだけど,こういう主張するひとたちって「まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される」っていう箇所が読めてないの? 査読つき雑誌はある,査読つきの業績は重要である,しかし査読がないからといってダメであることを意味しない,ってそんなに難しい話かね.
ていうかこういうひとたち,普段は査読通った論文なら無批判に盲信してるんですか? 論文は批判的・懐疑的に読まれ,瑕疵があれば後発の研究によって批判されたり乗り越えられたり無視されたりするものだ……というのは文理を問わぬ学問の常識だと思っていたのだが,「査読がないとどうやって研究の質を担保するの?」などと吐かす一部の理系はどうやら査読を通ってさえいればアッサリと先行研究を信じてしまうらしい.どっちが権威主義なんだか.
reuteri ペレルマンは査読されてないが多くの人から批判的にチェックされるでしょ?そのチェックの有無が科学にとって重要で、「学界の権威が言っているから正しい」という世界は科学ではないのですよ。日本語については同意
藁人形叩かれても困るんですよねぇ.
theta 日本には日本のXX学、米国には米国のXX学、印度には印度ののXX学があって相互に互換性が無いのなら、それは普遍性のある学問なのかなという疑問がある。
こういうレベルの説明から始めなきゃいけないの本当に馬鹿げてると思うんだけど,日本の西欧研究なら西欧諸言語の先行研究は当然追いかけているし,英語圏の日本研究者は日本語の先行研究読んでますよ.ドイツ人のドイツ史研究者と日本人のドイツ史学者は同じ学問に従事していて,同じ問題意識を共有している.ただ,日本の西洋史研究は日本の歴史学という別の文脈の中にも置かれていて,そちらから影響を受けて「日本の西洋史研究」独自の色を出すこともあるし,アメリカでは日本研究者と東南アジア研究者が共同プロジェクトで独自の問題意識を深めているかもしれない.そういう意味で各国の研究には多かれ少なかれその国の事情に根ざした独自性があるわけ.そして,時には「本国」以外での研究潮流が「本国」での研究に影響を及ぼすことだってある(たとえば前世紀末から今世紀初頭にかけてのアメリカのソ連史研究が典型的かな).日本の中国学はフランスや台湾の中国学と微妙に違っているかもしれないけれど,それでも同じ中国学なんだ.
kingate だとして。最先端は何処よ?学術・研究論文で最先端に批評貰う必要があるんじゃねぇの?ローカル内容でも批評貰わんと正否は出ないでしょ、総論として。で、あの学者モドキはその総論に後ろ足で砂掛けたの。
分野によるとしか言いようがないし,別に最先端は複数あってもいいんじゃないかと思わなくもないが.たとえば私が研究対象にしている地域については間違いなく英語でのショボい研究蓄積なんかよりも現地語での研究が最先端だけど,私は現地での最先端の研究をフォローしているし,現地人の使っていない資料とかも使って彼らと勝負しているつもりでいるよ(現地人だからこそ盲点になってる資料みたいなのがあるんだよなぁ).
iyochoo 国内のアカデミアを重視するか、世界のアカデミアを重視するか。両方の言語で書いてくれると助かる人が多いです。
「世界のアカデミア」なんて幻想で,各国別のアカデミアが併存してるんだよなぁ.もちろんそれらの間に橋を架ける必要はあるけれど.
(……)恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。(……)
ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.
そもそも,査読はあるし重要だが,査読がなくても良い論文であれば評価の対象たりうる,という話を少なくとも私はしていたわけで,それを「査読文化がない」と要約されても困惑するわけですが,まあ全ての論文が査読を受けているわけではないという状況を「査読文化がない」と書いているのだろうと好意的に解釈するとして.
当たり前ですが文系でも「レベルの高い査読誌」「査読はないがレベルの高い雑誌」「レベルの低い査読誌」「無査読紀要」ではチェックの優先順位や論文の重みは違います.当たり前ですね? 査読はしていないけれど,その分野では定評がありよく読まれる雑誌,というものが存在し,たとえばそのへんの査読をつけた院生向け紀要とかよりも圧倒的に読まれる,というような状況がある中で,査読がないからといって無価値扱いするのは不当だ,という話を私はしていたわけです.
なので,ニッチだけど優れた研究をしている人は,よく読まれる媒体に論文を投稿すればよろしい.というか人文系の研究対象って,研究水準の深化に伴ってどんどんニッチになっていく傾向があったりしますしー.
そもそも人文系の多くでは被引用数を重視する文化はあまりありませーん.理由のひとつとして「正確な被引用数を測定するのが困難」というのが挙げられます.著書も業績になり得る上に各国が自国語で研究する世界において,外国語も含めた紙の本での被引用数なんて管理しきれないのでー.私も自分の論文の被引用数なんて知りません.外国語で書いたやつは3ヶ国語くらいで引用されて,日本語のやつも紙の本に1回引用されたかな? でも他にも引用されてるかもしれないので,これは最低限の数字っすね.周りで被引用数なんて気にしてる人見たことないなぁ(私に指摘されて初めて自分の論文が他人の著書に引用されてることに気づいた先輩とかいたっけ).そもそも,引用されてむっちゃdisられてても1回引用とカウントするわけですよね? それ本当に論文の質の指標になるんですか?
(……)一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。(……)
それはアメリカの社会学者が自国語で論文を書いているだけでは……?
というか,日本語圏の社会学者でも英文学術誌に投稿してる人はいますし,英文学術誌に投稿してる非英語圏の学者でも,それとは別に母国語の論文書いてたりしますし.英語以外の言語での論文が載ってる社会学の学術誌,探すとあちこちにありましたよー.
韓国語> http://www.ksa21.or.kr/kjs/
中国語(簡体字)> http://sociology.cssn.cn/xskw/shxyj/
中国語(繁体字)> http://tsa.sinica.edu.tw/publish_01-1.php
ロシア語> http://www.isras.ru/Sociologicalmagazine.html
フランス語> https://journals.openedition.org/sociologie/index.html
ポーランド語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=240
リトアニア語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=1027
カタルーニャ語> https://www.raco.cat/index.php/RevistaSociologia/index
ところで日本社会学会は和文雑誌の『社会学評論』以外にもちゃんと英文の学術誌持ってるんですよねー> https://onlinelibrary.wiley.com/journal/14756781
いやほんと,テキトーな知識でよその学問分野に軽々しく口を出して,正しいこと言ってるならともかくめっちゃ的外れとか,生きてて恥ずかしくないんですかね?
death6coin “ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.”攻撃的ですねぇ
理系の研究事情や査読制度を知りもせず「理系の研究は権威主義だ! 定説にとらわれて思考が硬直している!」とかわめく連中に,これまで理系のひとはどんな目線を向けてきたっけ? 冷ややかな目線を向けて嘲笑ってきたよね.もちろんそれはまったくもって正しいよ.理系の事情を知りもしないのに思い込みで的外れな批判をするのは愚かな行為であり嘲笑に値する.文系に向けて似たようなことをわめく連中にも同様の態度を取らせてもらうというだけ.
これは本当にそう.最近だと三元社なんかが琉球諸語・日本語対訳の出版物を出していたりするけど,言語復興運動家の著書とか学術誌のコラム止まりで,琉球諸語で書かれた学術論文は残念ながら見たことがない.琉球諸語は最近書記法の整備とか色々進んでいるから,今後はそういう方向に期待したいよね.もちろん琉球諸語で書かれた論文を査読できるひとはそう多くないと思うけれど,査読なしで論文を発表することも許されているという文系の事情を積極的に活用して中身のしっかりした琉球諸語論文を発表していくひとが出てきたらいいなと思う.
それに対しては2つの論点から応答したい.1点目に,「日本語は過去の豊かな蓄積を持ち,現在も多くの学術論文を生産し続けている言語である」という前提条件を忘れてもらっては困るということ.日本について研究している学者は日本語で論文を書くわけで,この点が方言とは違う(大阪弁を研究する者のほぼ全てが標準語で論文を書いているし,山形弁で書かれたヨーロッパ史の高度な研究は現段階では存在しない).
第2に.もちろん書いていいです.少数民族が独自の民族として生き残っていこうとするには何らかの形で文章語を持つことが(必要ではないが)望ましく,実際にヨーロッパでは人口数万人の少数民族でも自分たちの言語で書かれた学術誌を持っている場合もある(もちろんその場合,当該言語や当該言語で書かれた文学,当該民族の歴史といった限られたテーマについての論文を書くので精一杯だったりするのだが.ちなみにそういう少数民族の学術誌に少数言語で論文を載せてる日本人研究者もいる).それに,言語と方言とのあいだに本質的な違いはなく,たまたま政治権力を持ち規範が整備された言語変種が「言語」とされ,「言語」と見做されなかった地域的変種が「方言」と見做されているだけ,というのが社会言語学の常識であり,実際に気仙沼方言は方言ではなく独自の「ケセン語」だと主張して聖書を翻訳したお医者さんなんかもいる.上で書いたように,宮古語と日本語のバイリンガルのコラムを載せている学術誌もある(コラム止まりで,論文ではないけど).なのでたとえば,鹿児島大学で薩摩弁を公用語にした紀要が出版されてもよいと思うし,もしその紀要に優れた論文が次々に掲載されたとしたら先行研究を読むために薩摩弁を学ぶひとも出てくるかもしれない.そしてそれは,悪いことでは決してない.
きゃーお恥ずかしい.ご指摘ありがとうございます.訂正しました.
言語だけで問題視はしないが、批判されている社会学については英語で論文を書いて、世界から査読を受けるべきと思うと、工学系で研究をしている人間として言っておきたい。日本語でだって研究は出来るとかいうのは、批判の本質に対しては無意味な論点ずらしでしかないんですよ。
http://dlit.hatenablog.com/entry/2018/10/09/081143
とは言っても、人文系でも査読される事が重要になってきている様だし、「査読は理系だけのローカルルール」とのたまっていたのは馬鹿な繰り言だと分かってホッとはしました。千田先生が学んだ社会学も批判を機に変わって貰いたいですね。学者と呼べるのか?と感じる人間が排除される様な変化を期待したい。
唐突ではあるが、皆さんは、工学系研究者が年間に何本程度の論文を読むと思われるだろうか?ここで言う、読むという行為は再検証実験が自分で出来るレベルに落とし込めるという前提でです。時間がある博士課程の学生で、なおかつかなり優秀と言われる人で150も読んでいれば相当なものです。不慣れなものが論文から何をどう作ればいいのか?を理解するのに要する時間は一月にも及ぶかもしれません。斜め読みまで含めれば、修士の学生でも、最低50本程度は読んでいるでしょうが、逆を言えばそんなものです。斜め読みで済ませることが出来るのは、論文の質が担保されているからですね。
一方で、自分の専門領域についての論文は、毎年、大量に発表されます。もしも査読がなく、国際学術誌や国際会議にランク付けがなされていなければ、玉石混交のクズ山の中から、自分の研究が引用すべき論文について、その妥当性を再検証するだけで膨大な時間を必要としてしまいますね。査読と学術誌の採択難易度によって、論文の質が担保されている事が如何に重要か?お分かり頂けるでしょう。レベルの低い会議の採択論文や、査読なし論文などは、僅かな例外を除いて通常は再検証されることなく消えていきます。高いレベルの査読を通って採択されている事は、再検証する手間をかける価値の証明になります。
論文の評価には被参照数という軸があります。いい研究であれば、数百の論文から参照されます。参照されるという事は同業者による再検証が行われているということを示しているので、手法の妥当性が分かるのです。恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。非効率すぎて耐え難いという気分に、個人的にはなります。
査読と被参照数の話をしました。これによって完全とは言えないまでも論文の質が担保されるのは、世界中の同様の背景を持った研究者たちによって、その仕組みが共有されているからです。査読を受ける者も、査読する者も、何度も何度も査読に関わって来たという実績を持っていて、厳しい目で評価を行いあっている事が前提にある。私が社会学は英語で査読を受けるべきと言う理由はここにあるのですね。
社会学者が、査読なしの招待論文 > 査読された論文 という認識であることは、幾人かの社会学者が言っている事です。実際に社会学者の履歴をみても査読付き論文が殆どない事も指摘されていますね。そういう学者たちの査読に何か価値はあるのだろうか?と思う訳です。一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。故に、査読されない研究者同士ではなく、査読が当たり前になっている世界の評価を評価を受けるべきだと考えます。工学系では国内学術誌は相当に軽視されますが、英語か日本語かは大きな問題であるとは思いません。査読が当たり前ではない世界から、査読が当たり前の世界に出て評価を受け、実力を証明せよという事です。その為には、英語を使うのが妥当なのでは?
という風に思いますね。
日本語かどうか?は本来は(日本語のみの会議のレベルが低いとしても)重要な問題ではないけど、日本語で閉じている限りは社会学は学問と呼べるだけの再検証性を備えていないのではないか?と言う疑問を改めて提示しておきたい。私は、少なくともジェンダー論を学問とは思えなくなっています。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/450029/
九大でなんともいえない陰惨な放火自殺があった。46歳、元院生、非常勤の雇止めと経済的困窮…多くの大学教員が彼に感情移入して色々なことを語る。いわく「他人事とは思えない」、いわく「自分が彼だったかもしれない」など、など、など。だけど、特にテニュアを持った教員たちが彼にばかり感情移入しているのに違和感が募る。
あんたが彼だったかもしれないだって?テニュア持っててそりゃないだろ。あんたは彼じゃなかったんだよ!
業績か、人柄か、助けてくれる周りの人か、はたまた運か。なんであれ、彼にはなかったものがあんたにはあったんだ。彼か彼のような人間を蹴落としてポストを得たんだろう?思うように書けず、書いても今ひとつうだつが上がらない。そうこうしているうちに同年代は職に就いて輝いてみえる。同情してくれる人もいるが解決は自分で探さなければならない。研究会に出ればキラキラと光る年下がいて、その彼・彼女も就職していく。そんな中で自分をみてしまう。顔向けできない。バイトも忙しいし、研究室には夜にそっと行こう。そんな彼の心象や悩みと、テニュアを得たあんたのものが一致することはもはやない。
自分もそうだ。危うくキャリアが途切れそうになったことはある。しかし、結局、年上の任期付助教がいるのに旧帝の教授だ。科研費に落ちることもない。今後は大学ともども酷い目に遭うだろうが、それは九大の彼とは全く違う類いのものだ。どっちが悲惨かはともかく。
自分が今後立つこともない地平に立っていた彼に感情移入して、甘美な感傷を味わうのも、その裏からそっと染み出てくる安心感を味わうのもまあよい。
だけど、他にやるべきことがあるんじゃないか。我々が彼に接するとしたら、彼の元指導教員であり、なんとなく薄暗いものを感じつつ関与を避けてきた周辺分野の教員であり、相談を受けて同情と困惑の入り混じった反応を返す先輩同業者であり、あるいは研究室を不法に占拠する輩を追い出す教員や、焼けた肉片を前に後始末に追い回される教員なのである。いや既に2人目の、あるいはもっとおとなしい彼にそうした立場で出会っているかもしれない。その時に、ある種の覚悟をもって彼に別の進路を勧め、占拠している研究室から追い出して彼に引導を渡し、巻き込まれかねない他の学生や周囲の人間を守れるのか。それが彼のような人を蹴落としてポストについた人間の責任ではないのか。なぜこっちの立場に立って想像しないのか。
しょせん、安全地帯に立ちつつ抑圧される側の夢を見て、世の中のひどさを嘆きたいだけなのか。心優しい誠実な無責任が跋扈する自分の業界を見たようであった。
統廃合されるのは考慮してる。統合されることになったときは、まず、任期なし教員は守られるよ。そこ切ったら、できる教員からバタバタと他の大学に転職していって、大学潰すのと大差ないから。
任期付きは雇用の調整弁としか思われてない。テニュアトラックも同じ。任期なしの雇用契約結んでないやつは、統合時にみんな切られると思っておいた方がいい。
任期までの財源しか確保しないようになるでしょう。テニュア取るのはどんどんどんどん難しくなるよ。テニュアトラックとか言う名前でつっておいて、高齢になったところで切ることが一般的になるでしょう。
大学そのものが廃校になる可能性もあるが、あの地域では理系の私大は他にないからな。高校や専門学校も同じ法人がもってるし。あの地域の理系人材を供給してる場所なので、本当に潰れそうになったら公金なり地元企業の寄付や援助なりで何とかするでしょう。国はあの大学必要としてないと思うが、あの地域が生き残るためには必要な大学だしな。
あとは、法人の賃借対照表と政府の人口減少予測もチェックした。最悪でも20年は持つと思う…それまでに、首都圏の私大の教員か、悪くても首都圏の企業に移れるだろうというのが俺の見立て。
任期付きの助教をやっていたが、結婚してしまった。結婚した途端、妻がテニュアトレトレうるさくなった。
今いるところはこの分野では国内有数のラボだが、妻が騒ぐので、自分も不安になり、名もない地方私大の任期なしポストに移ることになった。
決まってから悲しくなってきた。もっと今のところで修行して業績上げてから行くべきだった。せっかく出世コースに載ってたのに、今のボスに逆らって頭下げて地方おくりを自ら選んだ。
俺の人生なんだったんだ。周りで旧帝大のテニュアポストについてる人は、着任時には独身だった人ばかり。
あわてるんじゃなかった。任期付きで結婚なんてするんじゃなかった。急がなくても良かったのに…40代で独身だと辛い辛いとそこら中に出ているが、あれ全部嘘だと思う。前に妻が実家に帰って家にいたときは、本当に気分が楽だった…何をやっても騒がれないですむ。本当に気が楽だ。
どうなのかね。ただ、このまま国研に残って研究したところで、任期切れたら終わりだからね。
まぁ、要は、確実に任期なしになっておくことの方が重要。万一大学がつぶれても、任期なしなら教員はどっかで救済されるでしょう。理系だから、大学潰れたら頭下げて企業に拾ってもらう可能性もゼロじゃないし。
このひと大丈夫かな、いま日本の大学がどういう状況か分かっているのかな。国からの交付金はどんどん減らされているし、授業なんて非常勤の安いバイトにやらせてる。学生数が激減するから大学数は間違いなく減っていくし、国研のテニュアになれないような業績で、海外の大学のポストを得るのは無理に等しい。
定年制に移行してないところなんてあるのか…?
テニュアって言っても日本のテニュアは普通、定年までの在職権だろう。そんなことは分かって書いてる。
あと十年かは知らん。だが、国研は国に2つとないが、大学はたくさんあるし国外にもあるので、つぶしは大学教員のほうが効くだろう。
国研というのは全く世間的に知られていない。
国立研究開発法人。昔は独立行政法人だったが、研究機関であるものだけ数年前に名前を変えた。小保方さんで有名になったあの理研も国研だ。
何をやっているところかというと、要するに、大学のセンセ程度に研究ができる人を捕まえて、100%公的研究、世の中の役に立つ研究、に従事させる機関だ。
博士号を取った時、企業就職は全く頭に浮かばなかった。国からお金をもらって博士号取得の学費や生活費を賄っていたので、お国に貢献したい…そう希望を持って国研の任期付き研究員になった。国のために働いて国のために死にたかった。
が、結局、任期付きなので任期が切れたら終わりだった。任期なしになれるように努力はした。業績も出した。すごい頑張ればもしかしたら任期なしになれたかも?
が、ここで業績を出すことが本当に国のためになってるのか分からなくなってきた。
一昔前、任期付きが一般的でなかった時に任期なしで採用してしまった研究者がいた。もちろんスーパー研究者もいるが、多くは研究能力を失って、適切とは思えない仕事を割り当てられていた。研究能力が高いのは30代まで。それより後まで前線で戦える人はわずか…イチローみたいな例外だけだ。
年齢別の分布を見ると、研究能力は低いがテニュア持ってる研究者を生かすために自分たち若手は任期付きになっていて、任期なしになれるかどうかは業績よりも、上が詰まってるかどうかによる。そりゃ圧倒的業績があれば任期なしにはすぐなれるだろうから、圧倒的業績を出してないお前が悪いといえばそれまでなのかもしれないが…
結局、国研で任期付きで働いても国のためにはならず、昔入った任期なしの人を生かすことにしか貢献してない気がしてきた。要は、研究員採用の失策の穴埋め要因?そう思ったら、急速に労働意欲を失った。
研究能力が一番高いのは30代までなのに、その貴重な自分の時間を、組織の採用の失策のためだけに使うのか?
もちろん、自分も将来研究能力を失う可能性はある。だが、大学教員なら、将来、研究能力を失っても教育を頑張ることができるし、自分が率先して教育を受け持って、将来の若手の先生の教育負担を減らすこともできる。その方がまだ、生産的に思えた。
誰もまともな研究者としての評価方法を書かないので、研究者としての評価方法をまとめておいたよ。
学生が指導教員や研究室、ゼミを選ぶ際の基準にもなるし、研究者も簡単に評価できるよ。
分野の違いもあるけど、それを関係なく選べるものは*をつけておいたよ。
文系も理系も関係ないけど、文系の中には絶対に当てはまらない分野もあるけど、その分野に進むのはおすすめしないよ。
東大にも京大にも無能な人もいれば、地方の国立大学や私立大学にもすごい有能な人もいるよ。
でも、指導教員を選ぶときには、とりあえず、この基準で選んでおいて、合わないと思ったら、迷わず指導教員を変えたらいいよ。
Highly Cited Researchers*
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(これより上に一つでも当てはまれば、無条件で有能だよ。探すのすら大変だよ。)
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Google Scholar Citationsで被引用回数5000回以上 (または、ResearcherIDで、被引用回数3000回以上)
Google Scholar Citationsでh-index30以上 (または、ResearcherIDで、h-index20以上)
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(これより上に一つでも当てはまれば、かなりおすすめだよ。できれば複数当てはまると嬉しいよ。)
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Google Scholar Citationsで被引用回数2000回以上 (または、ResearcherIDで、被引用回数1000回以上)
Google Scholar Citationsでh-index20以上 (または、ResearcherIDで、h-index10以上)
科研費若手 (A) 研究代表者 (最近なくなったけどね) *
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(これより上に一つでも当てはまれば、まあ合格だよ。博士を取って、10年以内にはどれかはクリアしたいね。)
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(これより上に一つも当てはまらなければ、本当に止めておいたほうがいいよ。)
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どこに行くんだろうか。いまこうして自身がその身になってみて、僕自身が一番それを知りたい。
この年度末で任期が切れる。
5年。長いと思っていた。
自分の能力の割に良いところに就けた。この次はテニュア職だ。准教授だって狙ってもいいかもしれない。そんなことまで思っていた。
今、思えば滑稽だ。
助教と言ったっていわゆる特任助教だ。ポスドクに毛が生えたようなものなのはわかっていた。更新もない。
そうはいっても身の丈にあまる場所での職位、精一杯背伸びして研究も教育にも力を注いだ。
自分で外部資金取ってきて、論文だって毎年筆頭をひとつは出したさ。
同じ部局の同年代と比べて遜色ない程度にはやったんじゃないか。
公募もずいぶん出した。北から南、東から西。ときには海の向こう。
渾身の研究計画を書いて、業績欄には年齢を超える数の論文をならべた。
10にひとつは面接に呼ばれた。その都度イチから推敲したプレゼンを準備し、見知らぬ土地で熱く語った。
当て馬っぽいなと感じたものもあったけれど、これはガチだなとすぐにわかるものも多かった。
きっと僕程度の若手なんて腐るほどいる。いや、もっと能力が高い人だって…。
業界にいれば嫌でもわかる。「なんでこの人が」という人が任期付きにあえぎながらゴロゴロしている。
またこの人々と限られた椅子を巡って争わないといけない。考えるだけで陰鬱。
自分で自分を褒めてもいいんじゃないかな、などと自己満足してる程度の若手なんて、そこまでの人材。
多くの先生方に言われたのは「何とかしてやりたい気持ちはあるが…こればかりは」というやつだ。
論文も書かず、外部資金も取らず、不幸なひきこもり学生を生み出しながら、限られた席を埋め続けるあなた方の強靭なメンタルを僕もほしい。
いや、そんなメンタルはいいや。そんなものよりテニュアがほしい。
学生は言ってくれたりもする。
「先生に見てもらえて良かった」と。それだけで報われる。
そんな感傷的な記憶も、ピペットも実験ノートも段ボール箱に押し込め封をする。
桜ほころぶキャンパス。
次にどこにいくのかは、僕だって知らない。
優しさや楽しさは男友達でも提供できているし、料理や掃除は自動家電が提供できているよね。
医師、テニュア持ちの研究者、士業の女でも自分より年収の高い男性としか結婚したがらない統計結果が出ているから、お金を提供するというのは、ほとんどの人に当てはまらないね。私の年収は低いので、あまり関係ない話だが。
追記
多少コメントが有ったので
私自身彼氏に喜んでもらえるエッチが出来るように努力しているから・・・・・・ですかね。実際、彼氏も喜んでくれていますし。
new3 彼氏のいる女ユーザーではないのでお答えするのが大変恐縮なのですが、彼氏彼女/夫婦というのは価値の提供/受領ではなく"価値の共有"だと思います。
共有という文脈では、時間と空間を共有するという意味で、デート(非日常)でしょうか。エッチも共有ですね。結婚(日常)もそうですし、子供もそうです。
ただ、価値の提供/受領は、恋愛や結婚では結構重視されていると思います。「恋人の条件」、「結婚相手の条件」といった言葉はよく出てきますし。「価値の共有」なら、友人関係の方がより適しているような気がします。「友人の条件」とかそういった言葉は聞きませんから。特に男性でしたら、男同士の友情(BL的文脈ではなく)でよくわかってらっしゃるのではないかと思います。
kidspong つまりその彼氏は増田の事をセックス要員でしか見てない下衆な男って事だよね。増田のその「私の価値はセックスだけ」という思いは同時に彼氏の価値も下げる事になるんだけど、そこには自覚的なのかな、とは。
セックス要員としか見做していないのなら、おそらく風俗を利用するのではないかと思います。一応、セックスだけする関係ではありませんから。ただ、ふとした時に、彼氏の周りにいる人や物で、私が提供できている価値の最もたるものが、セックス・・・・・・と、思いついただけです。
信頼
結構なるほど、と思いました。ワンピース的な仲間や絆といった文脈の「信頼」ではなく、世界の複雑性を縮減・単純化する意味合いであるニコラスルーマンの「信頼」なら、確かにその通りだと。
蛇口をひねる時に水が出るかどうか悶々としないで済む様に、疑いの余地のないシステム的な振る舞いができるようになりたいですね。
追記しようと思ったが、微妙に長くなったので新しく書いた。
中には怒っている様な人が居たが、俺としては怒らせるために書いた文章では無いから、その辺は申し訳なく思っている。だから、この文章は出来るだけ整理して客観的に書いていきたいと思う。
まず、「彼女と結婚したくない」のブコメやトラバは読めるもの全部目を通した。
色々突き刺さったものがあったが、特に突き刺さったのが次のものだった。
女性配偶者と結婚するにあたって、処女を追求するのは結婚の目的に適する証明
0.前提
ここでいう健全とは、犯罪者に育まないこと、意志力(『意志力の科学』より)を有効活用できることなどを指す。
この根拠はWikipediaの「離婚」の記事の「離婚が子供に与える影響」という項目に論文がまとまって脚注されていますので、そちらを参照してください。
2.上記の1より、離婚が起こりにくいパートナーを選択した方が結婚の目的にかなう
3.ここで離婚が起こりにくいパートナーは、「処女・非処女」の区分だと、処女になる
それは浮気確率について、処女に比べて、婚前経験人数1-3人は4倍、経験人数4人以上は8.5倍であるという(加藤司 『離婚の心理学』p110)データがあるため。
これは婚前経験人数なので、強姦された人は含まれません。自身を強姦した人と自発的に結婚する人はかなり珍しいので。
4.結論
上記の0-3までで、「女性配偶者と結婚するにあたって、処女を追求するのは結婚の目的に適する」と判断できます。
ソース・『下半身の論理学』(https://www.amazon.co.jp/dp/B00R73R7CM/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1)のレビューより
勝手な言い分や感想とは異なったものだった。書店に行って確認までしたが、論破はできそうにないものだった。
そしてそのまま彼女のところに行って、話し合いをして、別れることになった。
彼女は泣いていた。そして俺も泣いていた。だが、別れることが二人のためであるという側面もある。もちろん、そうでない側面もある。ちょっとした騒ぎにもなって、特定されたくないので期待している人には悪いが、詳細は控えさせてもらおうと思う。
ここで終わらせてもいいのだが、処女を追求することについて、いくつか発見があったので紹介したい。
女性側に排卵隠蔽があるために男性はそれへの適応を迫られた.このため純潔性と婚姻後の性的貞操への選好が生じる.これは文脈に大きく依存し文化間で大きな差がある.
・若さへの好みについて
(改訂版追加項目)若さへの好みについて:男性が繁殖力を求めるのだとすると非常に若い男性は自分より少し年上の女性を好むと予測される.実際のリサーチでは15際の男性は17~18歳の女性を好むという結果が出ている.しかしその年の女性は自分より若い男性には全く興味を示さない.これは「男性の若い女性への好み」を「報酬強化」や「男性が権力とコントロールを求めること」で説明しようとする主張が成り立たないことを示している.
多くの動物と異なりヒトにおいては男性側が配偶相手の身体的な魅力をより追求する.また若さの追求は霊長類の中で独自の特徴だ.これは(長期的な配偶相手においては)選択時以降の生涯にわたる潜在的な繁殖力が重要であるからだ.若さや美しさの追求は西洋文化から来ているのではなくユニバーサルな特徴だ.女性に対する美・魅力の基準は決して恣意的ではない.ただし純潔への選好には文化が大きな影響を与えている.しかし結婚後の貞操を求める心は強くユニバーサルだ.
ブコメで叩かれるであろうことはわかっていたが、「呪いにかかっている」どころか「精神病」や「強迫性障害」まで出てきたことについては、はっきりいって今のはてなは異常だ。男性が処女を求めるのは、正常だ。
by-king誰とは言わんが、普段は価値観の多様性の大切さを説いてるのに、自分と合わない価値観に対しては真っ向から否定したり、精神病扱いして矯正しようとする頭悪い人が居るよな
ChieOsanai ふだん多様性万歳と言ってるはてなーも、男らしくない男は徹底的に叩く。それがはてな村のジャスティス。
ここでいう男らしさは、フェミフィルター(?)を通過できた都合の良い男らしさになるんだと思う。
ちょっと前に増田で話題になった「アナと雪の女王」のクリストフみたいな感じだ。
はてな村の多くの人は、ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアー(SJW)なのだと思う。
東たちの言ってる「クリストフの扱いが可哀想」っていうのが今回盛大に馬鹿にされてるけれども、かつて同じことを書いてたブログがそっちは大賛同だったんだよね。
http://semimaruclimb.hatenablog.com/entry/2015/05/13/221216
どうしてこんなに違いが出たのかっていうと、
クリストフを「男」ではなく「被差別民族サーミ人」として申し立てたから。
「甘えるな」「まだヒーローを求めている」「ミソジニー」と罵倒だらけになるのに、
「その通り!」「見事な指摘!」「鋭い洞察!」と大絶賛になる。
アホくさ。
こういったことが起きる。
はてな村が偏っていることは、「はてなユーザーの性格分類統計」(http://fuyu.hatenablog.com/entry/2015/10/17/025450)でも言われていて、16タイプ中上位3タイプ(INTP,INFP,INTJ)で全体の半分の割合を占める。内向型8タイプで全体の81%を占める。日本人の標準MBTIタイプテーブル(日本版MBTIマニュアル P.80)だと、上位3タイプはESFJ,ESTJ,ENFPで全体の内34%を占めて、外向型8タイプで全体の62%を占める。
はてな村の人達は、自分の立ち位置の特殊性は理解した方がいいのだと思う。
そして、はてなを利用する人は、その偏ったブコメを安易に鵜呑みにしないほうがいい。5chの言葉を鵜呑みにしないがいいのと同じ事で、それはあまりにも当たり前のことだけど。
俺が勤めている職場には今年の春から、高校を卒業したばかりの女の子が入社してくる。
耳障りが悪かろうが、政治的に正しくなかろうが、自然主義の誤謬と言われようが、身分違いで失敗しようが、女性が上昇婚をやめられないように、俺も繁殖力(若さ・健康・くびれ・美)のある処女(排卵隠蔽対策)を求めることをやめられないのである。
そして、社会はそうした多くの人で埋め尽くされており、そうした人が投票や政治活動でそうした社会をまた形作っていく。俺はその社会の中で、処女に関することがふと頭に浮かび、扁桃体神経回路の情報処理の結果が視床下部へ伝えられ、自律神経反応を引き起こして心臓の拍動が早くなり、胃腸の動きの変化を体感しながら生きていくのは、結婚生活における日常生活を営むレベルでも困難になると、その経験から判断した。
これを読んでいる人も、色々な言葉を取り入れつつ、最終的には自分の頭で物事を判断してほしいと思う。
上昇婚に関しては
この話の大前提になるのは、「女性は自分より年収の高い男性としか結婚したがらない」という現在の風潮です。これは結婚に対する意識調査で性格・容姿の重要度が男女共通であるのに対して女性のみ経済力や学歴を求めるとする調査1、実際の女性の婚姻の双方で観測されており2、ほぼ揺るがない事実とみていいでしょう。女性は社会的地位が不安定だから自分より年収の高い男性と結婚したがるのだという意見もありますが、そういったものに縛られない医師、テニュア持ちの研究者、士業の女性でも自分より年収の高い男性としか結婚したがらず“パワーカップル”と名付けられた高年収夫婦が統計的に明瞭に観測されるので、その指摘はほぼ無視して良いでしょう。
学際的分野にいるため、歴史ある分野から新興的な分野を含め、いろんな分野の状況がなんとなくわかる。旧帝大39歳、准教授。
分野によって停滞感があったり、ブーム感があったりと様々な違いがあるのは仕方ないのだけど、停滞感がある分野に共通しているのは、教授世代による若手いびりが半端ないこと。
必ず失敗するようなプロジェクトに若手をアサインして、若手が死んでいくのを根性がないとなじったり、師匠弟子関係を使って理不尽な人事異動を命じたり。任期やテニュアといった仕組みは一切無視。コンプラ概念も一切なくてビックリする。
若手が完全に萎縮していて、はたから見ていてかわいそう。
自分の分野の文化が異なることが救いだけど、時間が経つにつれて、同じようになって行くのだろうか。自分はそうならないようにしたい