https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/450029/
九大でなんともいえない陰惨な放火自殺があった。46歳、元院生、非常勤の雇止めと経済的困窮…多くの大学教員が彼に感情移入して色々なことを語る。いわく「他人事とは思えない」、いわく「自分が彼だったかもしれない」など、など、など。だけど、特にテニュアを持った教員たちが彼にばかり感情移入しているのに違和感が募る。
あんたが彼だったかもしれないだって?テニュア持っててそりゃないだろ。あんたは彼じゃなかったんだよ!
業績か、人柄か、助けてくれる周りの人か、はたまた運か。なんであれ、彼にはなかったものがあんたにはあったんだ。彼か彼のような人間を蹴落としてポストを得たんだろう?思うように書けず、書いても今ひとつうだつが上がらない。そうこうしているうちに同年代は職に就いて輝いてみえる。同情してくれる人もいるが解決は自分で探さなければならない。研究会に出ればキラキラと光る年下がいて、その彼・彼女も就職していく。そんな中で自分をみてしまう。顔向けできない。バイトも忙しいし、研究室には夜にそっと行こう。そんな彼の心象や悩みと、テニュアを得たあんたのものが一致することはもはやない。
自分もそうだ。危うくキャリアが途切れそうになったことはある。しかし、結局、年上の任期付助教がいるのに旧帝の教授だ。科研費に落ちることもない。今後は大学ともども酷い目に遭うだろうが、それは九大の彼とは全く違う類いのものだ。どっちが悲惨かはともかく。
自分が今後立つこともない地平に立っていた彼に感情移入して、甘美な感傷を味わうのも、その裏からそっと染み出てくる安心感を味わうのもまあよい。
だけど、他にやるべきことがあるんじゃないか。我々が彼に接するとしたら、彼の元指導教員であり、なんとなく薄暗いものを感じつつ関与を避けてきた周辺分野の教員であり、相談を受けて同情と困惑の入り混じった反応を返す先輩同業者であり、あるいは研究室を不法に占拠する輩を追い出す教員や、焼けた肉片を前に後始末に追い回される教員なのである。いや既に2人目の、あるいはもっとおとなしい彼にそうした立場で出会っているかもしれない。その時に、ある種の覚悟をもって彼に別の進路を勧め、占拠している研究室から追い出して彼に引導を渡し、巻き込まれかねない他の学生や周囲の人間を守れるのか。それが彼のような人を蹴落としてポストについた人間の責任ではないのか。なぜこっちの立場に立って想像しないのか。
しょせん、安全地帯に立ちつつ抑圧される側の夢を見て、世の中のひどさを嘆きたいだけなのか。心優しい誠実な無責任が跋扈する自分の業界を見たようであった。
今の40台以下の大学教員は結果的には彼がなくて大学教員があった物を持ってたからなれたというのは違いない。 だけど、大学教員があったものなんて紙一重のものに過ぎないというの...
大学は教育機関ではなく研究機関だからな。 研究を行うというのは、贅沢に分類される行為だと思う。 贅沢をするだけの収入または資産を持ってない人が、研究をするのは良い事では...
でも、アカデミックに進むには、学士、修士、博士とストレートと来て、アカポス一期やったらもう30歳。迷うことないキャリアを選んでいかないとならない。 学生の身分で自力でそん...
金と暇を持て余した教会の牧師が研究やっていた時代ならともかく、 いまはどこの国でもその稼ぎがないとやってけないサラリーマン研究者が大半だと思うけど。
「今の」日本はその暇な牧師だけが研究できていた時代に戻りつつあるってことでしょ。
サラリーマン研究者は、企業が成果が出ないリスクを負って行なっている投資の結果、生まれている職業だね。 リスクを終えるだけのお金が企業にあるということであり、それを持たな...