社会学は、自然科学で多く用いられているクロスチェックによる正当性の評価方法が採用しづらいゆえに弱いようだ。
社会学が人や集団を相手にする以上、倫理的に問題のある行為はできないし、再現性も後になってみないと分からないものも、検証のしようもないものもあるだろう。
では、フィルターがまったくないかというとそうでもないようだ。
「比較しろ」って簡単に言いますけどね――質的調査VS量的調査 岸政彦×筒井淳也
https://synodos.jp/society/19195
上記の記事中では、特に質的評価と呼ばれる手法が、評価しづらいという指摘がされている。
そのなかでもフィルターに近い作用は以下の文章にあらわれている。
「質的調査にも、いわば「社会問題の共同体」みたいなものがあると思うんです。そこには、研究者だけではなく、当事者、活動家、行政、メディアだったり、いろんな人が緩やかにつながっている。もちろん共同体といってもみんな仲良しという意味ではぜんぜんないですよ。その内部には葛藤や亀裂もあります。ただ、いずれにせよ、そういった人たちが論文を読むことはまれですから、たくさんくだらない論文や報告が出てくるんですが、そのままそんなことを続けていると、後から別のところで叩かれたり、調査が出来なくなっていくんじゃないか。ひとりの質的調査者の研究が、当事者や関係者たちとの関係性のなかで批判されて、広い範囲で、長いスパンでフィルターが効いているんじゃないかとは思っていますね」
まさに今炎上中の社会学者は社会との齟齬によって淘汰されつつあるのだと思う。
とてもウェットな世界のようにも思う一方で、自然科学の世界でも似たりよったりのようにも思う。長く残る人の中には、その人柄であるとか、昨今低くなっているという論文の再現性が高いとかの個人の信頼みたいな、業績としては評価されにくい隠しパラメータが高い人も結構いる。
https://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/1316a8dad8d53aef57063e651b0763cb
そういう人でもテニュアのポジション取るまでは苛烈な性格だったとか結構あるけど。
脱線したので話を戻す。現在はTwitterによって市民の目が届く範囲に社会学が降りてきてると言えるのかもしれない。市民の目による監視も完璧なシステムではないと思うが(人気投票的で、長期間での研究価値とは別の軸で評価されやすいなど)、大学の中だけで閉じていくよりは新しい評価軸の発生は概して好ましいことではなかろうか。