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2023-06-17

下書き

書き直し。

ダラダラと、曲への思いを書きました。谷川俊太郎の詩による合唱曲ふたつ…曲:三善晃「生きる」と曲:木下牧子ネロ」についてのとても個人的な感慨。最初の方、書けなくて意図的主語を拔いてるので読みにくくてすみません。ていうか、無駄に長いので読まなくていいですごめんなさい。

 

全部谷川俊太郎って演奏会明日やるんだけど、中の2曲が自分経験に強く結びついててちょっとだけ抱えるのがしんどい

「生きる」と「ネロ」。

 

去年の夏、子供誕生日にお祝いを頂いたのでお礼の電話をした。子供からもお礼を言って、その時に「また遊びに行くね、今家族で音取りしてる曲があるんだ、遊びに行ったらみんなで歌うから聴いてね」なんて言っていた。

 

数日後、会社仕事をしていたら人事から電話があった。なんだろうと出てみたら配偶者から代表電話にかかったのを取り次いでくれたのだった。

数日前に電話したばかりなのに、亡くなったのだと聞かされた。家事支援ヘルパーさんが発見してくれたということだった。電話を切ってから自分携帯を見ると配偶者からたくさん着信があったとわかった。

会社は早退して駆けつけた。

 

病院ではなく自宅でだったので、そのあと警察署手続きやら葬儀社の互助会書類探しやらで、気がついたらその日にあった合唱団練習は無断欠席していた。

 

 

諸々落ち着くまで合唱団練習は一ヶ月ほどお休みした。

復帰してはじめての練習に行ったら、新曲が始まっていた。

「生きる」だった。

ちゃんと予習してなかったのでぶっつけでの参加だったけど、タイトルからして親しい身内を亡くしたばかりの自分には重そうだなあ、そんなことを思いながら歌い始めた。

 

うちの団はパート練習はなくて、音取りは自力でできるのが前提なのだけど、実は私にはそこまでの力はない。♯や♭が多くなりリズムが複雑になるとキーボードを叩くのもたどたどしく実用性がない。その代わり楽譜を見ながらの耳コピは割と速いので、既に歌えている周囲を聴きながら声を出していった。

曲は「生きる」。まあ、三善晃だし、ソプラノはそんな難しくはない(難しいけど)。 

 

……谷川俊太郎の詩によって、「生きているということ」がどんなことか、語られていく。

それはのどがかわくということ

木もれ日がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること

孤独を感じる曲に影響されてか、詩の内容が全部亡くなった人を思い出させる。のどの渇きも、木漏れ日の眩しさと、くしゃみが出そうなムズムも、亡くなってしまった人は感じないことだ。だけどほんの少し前には感じていたのだ。あの人も。

本来の詩とは少し違うが、合唱歌詞としては

くしゃみをすること、手をつなぐこと

あなたと、あなたと手を…あなたと、あなた

と続く。

くしゃみをすること」までは生きていること一般の話だったのが、急に、自分の手と存命中のあの人の手をつなぐイメージにおそわれて、───しかし私は一度も手をつないだことはなかった、これからも、もう決して手をつなぐことはないのだ……。

 

これから介護があるのだろうとぼんやり思っていた。長生きの家系から、私の今後15年程は、あの家で、あの人と身体をふれあわせて暮らすのだろうと思っていた。

そうはならなかった。

寂しがりなところがある人だったから、一緒に住みたいとおそらく願っていたと思う。

そうはならなかった。

私が選ばなかったからだ。選ばないまま、亡くなってしまたからだ。

私は亡くなった人と手をつないだことがない。

 

曲はまた、「生きるということ」のいろいろな姿を歌っていく。自然科学芸術や…歌詩に出てくるミニスカートは何かな、生命力?若々しさ?を歌う。

それら美しいもの出会うということ。

あの人はもう、新しく美しいもの出会うことはできない。最後電話で話した、子供たちの歌にも出会ってもらえないままになってしまった。

 

「生きる」というタイトルなのに、谷川俊太郎の詩は死が匂う。

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこが揺れている、揺れているということ

いま、いまが過ぎてゆくこと

不穏な曲調で産声や兵士の傷が突きつけられ、それをぶらんこの往復運動が包み込み、ただ時間が過ぎる静けさに着地する。

生も死も同じ時間の中にある。

 

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ

人は愛するということ

生き物の、自然の、あるがままの姿を歌った流れで「人は愛する」なんて、谷川俊太郎ずるいよね。あぁそうなんだと思わされる。

もちろん、愛さない人もいる。羽ばたかない鳥も轟かない海も這わないカタツムリ存在する。けれどできてない個体のことは今は措く。

それができている個体はなんと尊いことか。生きるということの意味を、「人は愛するということ」ととらえられる、かもしれない。もし私が愛さな人間でも、愛する可能性がある希望

 

そして曲はまた、

あなたの手の

あなたの手のぬくみ

いのちといういのちということ

生きるという生きるということ

あなたの手」に戻ってきて、命とはなにか、生きるとはなにか問いかけるように終わる。

 

私が繋がなかった手のぬくみ。

永遠に失われ、想像上にしか存在しない温かさ。

 

 

一人暮らしだった家は空き家になった。夏のことで、風を通したり、植木鉢やあとから頂いた供養の花に水やりをしなければならず数日おきに通った。

空き家にはピアノがあり、風通ししている間の時間で音取りをした。難しい音階を苦労して弾いた。

子供が小さい頃みんなで遊びに行くと、いつも初見でなんでも伴奏を弾いてくれたあの人がいたときのままの部屋で。ピアノには練習していたらしい楽譜が開きっぱなしだ。胸が苦しい。

  

亡くなった直後のショックや悲しみは今は薄れている。

でも練習で歌うたびに、空き家に風通しに行くたびに、拙く練習したのが思い出される。

去年の夏の、古い家特有の湿り気のある空気やあまりワット数の高くない蛍光灯の薄暗さ。

今日リハーサル明日が本番だから、終わったらしばらく歌うことはなくなる。

もう去年の夏を思い出すこともなくなるのか、いや曲を聴くたび一生思い出すのか…。

 

 

ネロ」も練習復帰後すぐに始めた曲だ。

これはまた、ストレートな死の歌で、主人公の「ぼく」が子犬の「ネロ」を亡くした経験を歌っている。

しか

ネロ

もうじきまた夏がやってくる

(中略)

おまえはたった2回ほど夏を知っただけだった

と、「夏に親しい者を亡くす」という、私の経験ととてもリンクするシチュエーションなのだ

 

主人公は「もう十八回の夏をしっている」とあるから若者だ。それは私とは違うけれど、私の子供たちとはとても近い。

何でもかんでも自分関係があるように捉えるのは無理筋ではあるけれど、私にはこの曲はうちの子たちが別れをどう受け止めたのか、の追体験のif…みたいに感じられる。

 

今、6月だ。もうすぐ本格的な夏が来る。

ネロ

もうじき又夏がやってくる

しかしそれはお前のいた夏ではない

又別の夏

全く別の夏なのだ

去年の演奏会には来てくれた人が、今年はもういない。

お盆あたりには親戚が集まっていたあの家で、今年は新盆をどうしようか、コロナもまだ猛威をふるっているから集まるのは無理だろうか。

去年の夏、せっせと通って水やりをした植木鉢も、一年草はみんな枯れて、鉢から抜いてゴミに出して、鉢も片付けてしまった。

 

曲は、しか喪失を嘆くものではない。疾走感とともに「新しい夏」の到来、「新しいいろいろのことを知ってゆく」ことを歌う。

たびたび出てくる「知る」という営為

そして僕は質問する

いったい何だろう

いったい何故だろう

いったいどうするべきなのだろうと

主人公は何を知りたいのだろう?

なぜネロは死んだのかを?

なぜ生あるもの死ぬ定めなのかを?

私にはそんな凡庸な問いしか想像できないが、案外それも全くの的外れでもない気もしている。

 

詩のなかで飛び飛びに3連に渡って繰り返しネロを思い起こし、

ネロの声や「気持ちまでも」が「はっきりとよみがえる」。

それは死せるネロとともにあるようだけれど、決して停滞ではない。ネロを胸に抱いたまま、

しかネロ

もうじき又夏がやってくる

新しい無限に広い夏がやってくる

そして僕はやっぱり歩いてゆくだろう

新しい夏を迎え 秋を迎え 冬を迎え

春を迎え 更に新しい夏を期待して

そこには若さがある。喪失を抱えていても新しいもの貪欲に取り込む力強さ。

(願わくはうちの子たちもそうあれかしと思うけれどそれは親のエゴというもの、彼らには彼らの受け止めかた、歩みかたがあろう…)

 

私自身は、「全く別の夏」というところからまだ身動きできないでいる。

冬場からこち空き家に通う頻度も減ったが、また雑草の伸びる季節になって、草を引くたびに「この家を高齢でよく維持していたものだ」と感慨にふける。

家の中はまだ手つかずで存命の頃と何も変わらない。カレンダー書き込みもそのまま。去年、子供誕生日のお祝いを送るためのメモ書きも、電話の横のメモ帳にそのままある。ただ留守を預かっているだけ、という感覚から動けない。

それなのに全く別の夏が来てしまう。記憶が上書きされてしまうのが切ない。感傷だ。感傷だが、血縁ではない私とあの人は、客観的に見ればけっこう長い年月、長い時間を一緒に過ごしていたわけだ。

まだもやもやと引きずってはいくけれど、そういうものなんだろう(ああ、しょうもないまとめになってしまった)。

 

 

(「あの人」と書いているのは配偶者の母ですが、普通に表記するとちょっと生々しくて書けなかったので…表記距離を置かないと吐き出しにくい)

 

引用の詩は曲のために繰り返しなどの改変があり、オリジナルと少し違っています

2022-07-16

[] そのさんびゃくろくじゅう

ケイオニウーッス

 

本日新盆で言うなら送り火の日でございますが、旧盆は八月の十三から十六日までなんですって。

まぁ大体わかってるとは思いますけれど、ですがこの大体わかってる筈というのが一番危険ですね。

ちゃんと周知できているかちゃん理解できているか、そうでなくても危険作業ではないか、惰性になっていないか

改めて確認するのはとても大事なことですね。

 

ということで本日は【状況の把握よいか】でいきたいと思います

状況の把握よいか!状況の把握ヨシ!

 

それでは今日も一日、ご安全に!

anond:20220715090458

母の友達大学でソッチ系に引き込まれて、母のところにも警察が来たらしいので、共産系も派閥の違いはあっても創価統一立正佼成会くらいの違いにしか見えないくらい全部好きじゃない。あと共産党は住宅地街頭演説本当にやめてほしい。

ついでに宗教共産党系も無邪気に他人否定してくるの本当に嫌い。

学生時代キリスト教の友人の家族が亡くなって、とりあえず夏休みだったので新盆の時期に伺ったら一応盆棚っぽいのはあったけど「本当はこんなことしても意味ないのに8月からという理由でたくさん人が来るから仕方なく作った。線香も意味はないし、変な風習押し付けないでほしい」というようなことを言っていた。せっかく挨拶に伺ったのに何だか悲しくなってしまった。

今までキリスト教系や共産党系の人に何人かあってきたけど、少なくない人がそんな感じでいろいろ見下すようなことを言ってきた。全部が全部じゃないんだろうけど、宗教共産党も好きになれない。

2022-07-15

[] そのさんびゃくごじゅうきゅう

トラヤヌーッス

 

本日盂蘭盆、とのことでまぁ新盆です。

8月に行われるのは旧盆ですが、色々丁度いいので八月がいいのでしょう。

ともあれ、祖先への気持ちさえ忘れなければ良いんじゃないかなぁって思います

いやもっと色々やらなきゃダメなんでしょうけどね、まぁこういうのは気持ち大事ですよ多分。

 

ということで本日は【気持ちいか】でいきたいと思います

気持ちいか気持ちヨシ!

 

それでは今日も一日、ご安全に!

2021-07-13

anond:20210713121130

スイカでっかいのあったよ!

お盆の花を買ってく人も多い

新盆がそろそろだ

2017-08-14

旧盆とは

新暦月遅れ盆のこと。

ちょっと分かりづらかったので由来を備忘録的に整理してみた。

1.元々は7/15がお盆

2.明治に暦が変更され7/15が8/15になっちゃ

 →7/15のお盆どうしよう…

3-a.日にちは同じだし今まで通り7/15にやろうぜ!(これが今の新盆)

 →流行らず。今では一部の地域のみ

3-b.暦ずれたんだからずらしてやろうよ

 →月遅れで古い暦通りに(これがいわゆる旧盆)。日本では一般的

 
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