はてなキーワード: 鉄道の駅とは
記事はこのように主張するのだが、「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう」ような広告を鉄道の駅に掲示することは現在でも自主規制の対象になるだろうし、そのことについても社会的に広く異論はないはずである。
性的な広告を鉄道駅に掲示することの是非は、その自主規制のラインをどこに引くべきであるのかという、より繊細な議論を必要とするのだが、記事はただ「規制は慎重であるべき」という何の役にも立たない一般論を述べているに過ぎない。
なに?
自虐?
「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう」広告なの?という話なのに
「より繊細な議論を必要とする」とかいう人間が書いちゃダメな奴だろ?
そもそもさ
「あの広告は嫌だ」という人が、どういうわけか増田にポツポツと現れては
あれはないよねー?
さすがに昨今の何でもかんでも噛みついて差別だと叩く運動が忌避されてやり方変えたのかな?っておもったんさ
なのにさ、結局我慢しきれずに、「差別ザマス」ってやっちまってさ
同じじゃねぇかよ、結局それかよってなるわけよ
これさ、みんな口をそろえて言うわけよ
だけどさ、「差別ザマス」って叩いた表現が、公共で一般販売されていいわけ?差別ってそういう物?とか思うじゃん?
そうこうするうちにさ
「パンツをはいてない漫画を公共に持ち出すな」とか言い始めてさ
結局、原作も気に入らないわけじゃん
叩いてる奴らはさ、だれも「慎重な議論」なんて望んでねぇよ
断言できるよ
みたいな話をするとかさ
それが詭弁でなくて何なのよ?
(いう事を聞かなければ、議員連盟を投入することも辞さない、何なら法規制だ)対話(して、我々の望む結果を出せ)
とかもう取り繕うのやめろよ
大阪駅の萌え絵ポスター、憲法解釈論では「問題なし」 平弁護士と考える「表現の自由」 - 弁護士ドットコムという記事にブクマが集まっているのだが、弁護士らしいよくできた詭弁だなと思った。
はてなーはいつから憲法の解釈で戦ってると思ってたの?と増田でも言っているが、他にもいろいろとおかしいところがある記事だと思った。
1. 大阪駅に掲示された麻雀ゲームのエロイラストは法的には問題ない
3. 国会議員には憲法尊重擁護義務があるので、広告などの表現への批判はするべきでない
記事はまず「今回の広告は「法的」に問題があるのか?」という記者(無記名なのでこの記者が誰なのかはわからない)の問いかけから始まるのだが、このような論点では誰も争っていない。確実に否定できる問いから始めて、自分の正しさを演出する典型的な詭弁術である。
裁判例結果詳細 | 裁判所 - Courts in Japan
市営地下鉄の列車内における商業宣伝放送は、業務放送の後に「次は○○前です。」又は「○○へお越しの方は次でお降りください。」という企業への降車駅案内を兼ね、一駅一回五秒を基準とする方式で行われ、一般乗客にそれ程の嫌悪感を与えるものではないなど原判示の事情の下においては、これを違法ということはできない。
記事は何度も「とらわれの聴衆」判決を引き合いに出して広告批判をするべきでないと主張するのだが、「とらわれの聴衆」判決で問題になったのは市営地下鉄の車内放送で「○○へお越しの方は次でお降りください」という広告を行うことである。駅の構内に性的なポスターを掲示することを同列に扱って議論をすることに意味があるのかは疑問だ。仮に市営地下鉄の車内放送で性的な広告が流れたとして、それについて裁判を行えば判決もまた違ったものになるのではないのだろうか。
ちなみに「とらわれの聴衆」判決は以下に引用するように商業宣伝が表現の自由の保障をうけるものであるかは明らかでないとしているのだが、記事はそれについてはふれていない。自説を展開するうえで都合が悪いからだろう。
およそ表現の自由が憲法上強い保障を受けるのは、受け手が多くの表現のうちから自由に特定の表現を選んで受けとることができ、また受けとりたくない表現を自己の意思で受けとることを拒むことのできる場を前提としていると考えられる(「思想表現の自由市場」といわれるのがそれである。)。したがつて、特定の表現のみが受け手に強制的に伝達されるところでは表現の自由の保障は典型的に機能するものではなく、その制約をうける範囲が大きいとされざるをえない。
本件商業宣伝放送が憲法上の表現の自由の保障をうけるものであるかどうかには問題があるが、これを経済的自由の行使とみるときはもとより、表現の自由の行使とみるとしても、右にみたように、一般の表現行為と異なる評価をうけると解される。もとより、このように解するからといつて、「とらわれの聞き手」への情報の伝達がプライバシーの利益に劣るものとして直ちに違法な侵害行為と判断されるものではない。しかし、このような聞き手の状況はプライバシーの利益との調整を考える場合に考慮される一つの要素となるというべきであり、本件の放送が一般の公共の場所においてプライバシーの侵害に当たらないとしても、それが本件のような「とらわれの聞き手」に対しては異なる評価をうけることもありうるのである。
記事はここまで一応は法律論にのっとって議論を展開してきたのだが、ここから内容は抽象的で曖昧なものになっていく。広告主に表現の自由があるのなら、国会議員にも表現の自由があるし、思想・両親の自由もある。広告を批判した内容についてではなく、批判したという事実そのものを非難するのは難癖としかいいようがない。記事で展開される論に従えば、国内の民間の活動は経済的自由はじめほぼすべてがなんらかの形で憲法によって保障されているのだから、国会議員は憲法尊重擁護義務のせいでいかなる民間の活動に対しても批判することはできないということになってしまうだろう。
記事は広告が法的に問題があるかというだれも気にしていない問題は取り上げるのだが、自主規制のあり方がどうあるべきかという本来の関心が集まっていた問題については驚くほど無関心である。
また、松井茂記教授(ブリティッシュ・コロンビア大学)は、ポルノによる性表現が女性の「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現」だということで問題にするのであれば、「女性」の場合だけに限定すべき理由が乏しいことから、「およそ人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現はすべて禁止されうることになろう」とし、さらに「おそらく戦争の犠牲者やテロ行為の犠牲者の写真や映像も、公表できないことになろう」と解説しています(松井茂記『インターネットの憲法学 新版』(岩波書店/2014年)169頁)。
このように、「ジェンダー構造を再生産する」とか「女性の人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現」だといった理由で、表現の自由を制限する方向の議論を展開することは、表現の自由が広く制限されすぎてしまうことにつながりかねず、問題でしょう。
記事はこのように主張するのだが、「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう」ような広告を鉄道の駅に掲示することは現在でも自主規制の対象になるだろうし、そのことについても社会的に広く異論はないはずである。性的な広告を鉄道駅に掲示することの是非は、その自主規制のラインをどこに引くべきであるのかという、より繊細な議論を必要とするのだが、記事はただ「規制は慎重であるべき」という何の役にも立たない一般論を述べているに過ぎない。
記事はわざとらしく「立憲」という言葉を繰り返し強調したり、以下のような文言をはさむなどしており、極めて強い党派性が感じられる。
なお、国会議員等が、与党の解釈改憲や検察庁法の改正問題を批判した際には、憲法学や法律学の通説あるいは多数説によるべきとしつつ、別の局面では少数説の立場に立つという態度は、結局のところ、憲法学や法律学の専門家の意見を尊重して判断をするというのではなく、自分たちの立場と意見が合致するのであれば、専門家を都合よく利用するといった態度である可能性が高いといわざるを得ないでしょう。
常に通説や多数説に従えというのはある種の見識なのかもしれないが、「とらわれの聴衆」判決から「広告表現は憲法で強く保障されている」という通常と真逆のメッセージを引き出す記事でそのように訴えられてもどう受け止めればいいのか困るというのが正直なところだ。
いつも、ちょっとだけ人より出来が良かった。
足が遅いのとアトピー以外で人にコンプレックスを抱いたことはなかった。
幼い頃の写真を見ると、親からめちゃくちゃ愛された子供に見える。物心つかない頃から遊園地や旅行や、色んなところに連れて行ってもらっていたようだ。高校生までは毎年夏にはキャンプや父方の実家の九州に連れて行ってもらってた。
家はそこそこ裕福寄りで、持ち家もあるし、相続予定の土地もあるし、奨学金もなしに大学も出た。
それでも父が嫌いだ。尊敬出来ない。
理不尽で気まぐれで、常に顔色を伺ってご機嫌を取らないとすぐ怒鳴る。
子供の頃は「こんなに怒られると言うことは自分が悪いのだろう」と思っていたが、13歳を越える頃には「いや、こいつの言ってることが無茶苦茶なだけだ」と思うようになってた。
父と仲がいいと思ったことは一瞬たりともない。父に本音を話したことは一度もない。介護をしたくない。葬式を出したくない。
気まぐれで「受験料は自分が認めた一校分しか出さない」などと言い出したり。
お前は馬鹿だ馬鹿だと罵るくせに親戚に私の偏差値を自慢したり。
アトピーでいじめられストレス性の胃腸炎を患い、結果的に不登校になった私を、三和土に引きずり出して「明日から学校に行くから許してください」と言うまでビンタしたり。
それを全部忘れて「お前はいじめられても頑張って学校に行ってた。えらかったな」と言ったり。
父なりに私を愛してはいるのだと思う。
ある犯罪被害に遭った結果、通常の社会人生活は送れなくなった私のために、父は独立して会社を作った。日常ルーティンさえしていればそうそう食いっぱぐれない会社だ。
何の興味もない仕事である。でも私のために作られた会社なのだから、私が継がねばならない。
幸い、人よりちょっと出来がいいのは継続していて、根幹業務も総務もIT関連も、ほぼ全部自分が取り仕切っている。
会社に入って10年。「そろそろお前がこの会社のことを考えておけ」と言われた。
じゃあ、言わせてもらおう。
この会社が建った後、近くに鉄道の駅が出来ることになり、地価は年間15%上がり続けている。そしてこの仕事は八割リモートでこなせる仕事だ。出来ればこの会社兼実家を潰しビルに建て替えたい。一時的に現金は無くなるが10年で投資額は回収出来るし、両親の老後資金は確保出来る。建物を相続するにしても、ローンが残った状態の方が有難い。
そして、私が別の場所にマンションなりを購入し、その中の一室を事務所に割り当て、基本はリモートワークにしたい。現状、主力社員は無駄に遠距離から通勤しており、彼の家の近くか中間地点にオフィスを移したい。
ともかく、今の家は売るか建て直したい。
と言うか、実家の離れを改装した私の住処がひたすら不便なのだ。部屋数は多いし広さも十分あるのに水回りがクソ過ぎる。台所にはガスもなく、冷蔵庫は廊下にあって、何故かワンルーム用ユニットバスがついていて、洗濯機置き場がない。洗濯は、毎回実家まで持って行っている。
(※ちなみにこの改装は、全て父が勝手に執り行った。さらに言えば、最初は台所どころか風呂トイレもなく、「外階段を使って実家までくればいい」と言っていた。ふざけんな。慢性胃腸炎で週に三日は下痢してるって言ってるだろうが。)
10年、この環境でやってきたのだから、自分の好きなように建て替えるくらい許されるだろう。
そう言ったら目を白黒させていた。どうやら彼は、私がこの家を大層気に入ってると思っていたらしい。
言ったのに聞き届けなかったんじゃないか。「せめてトイレだけはつけてくれ」と言った次の日に、勝手にユニットバスを発注していたのだ。
「そんなことは考えていなかった」「今のは聞かなかったことにする」
考えろと言ったのはそちらだ。
「リモートワークと言ってもこの情勢が続くとも思えない。まだお前の考える時ではない」
なるほど。じゃあ、私はこの件については放棄する。勝手にしてくれ。
「そうは言っていない」
考えるなと言ったのはそちらだ。
「考えなくていいとは言っていない」
何がしたいんだ、お前は。
久しぶりに大声で喧嘩した。
彼はそう言う人間だ。私のために金や労力は使うが、それに対して私が100%望み通りの反応をしないと否定してくる。
「パソコンが動かないから見てくれ」と言われて、彼の想定外の解決法を提案すると拒否する。そう言うタイプの人間だ。
自分にしか興味ないのだ。だから、不登校の私を殴ったし、泣きながら学校に行った私は、彼の中で「父の叱責を受け止め、強くなった我が子」に改変されてたのだ。
いつもはストッパー役になる母もいない状況で、私と父は延々とヒートアップしていく。
双方、無駄に頭が回り口が立つので、口喧嘩に決着がつかない。親子なせいか、論理の組み立て方も似ている。
ずっとずっと言いたかったことを言ってしまいたかった。勢い任せで言ってしまいたかった。
「そんなに気に食わないなら、実家の玄関で首吊ってやってもいいんだぞ!!! どうせ死のうとしたのは二度や三度じゃないんだからな!!!」
言いたくはなかった。自殺未遂に取り乱した父と母の顔はよく覚えてる。家を二回も買い替え、それぞれ多額のリフォームを行い、私が死ぬまで家に引きこもって過ごせるようにしたのは、間違いなく「我が子に死んでほしくない」という親の愛だ。
知ったことじゃない。
そんなもんはどうでもいい。
お前らの身勝手な押し付けなんかどうでもいい。そんなもんはいらない。この世界から逃げたかった。
でもお前らが死んでくれるなと何度も言うから、そのためにいくら金を積んでも惜しくないと言うから、
「じゃあ、仕方ないから、親の金が無くなるまで生きててやろうかな」と思っているだけなのだ。
父はすんっと黙り込み、罵り合いは終わった。
鉄道の駅限定で北〇〇と南〇〇が一番近いのは北巽駅-南巽駅、次点で北安城駅-南安城駅。
一番離れてるのは北方駅(佐賀県)-南方駅(大阪府) ←北野駅(福岡県)-南野駅。ご指摘ありがとうございました
ソースはWikipediaとGoogle Map。間違いや抜けがあったらご指摘ください
駅名 | 鉄道運賃 | 鉄道所要時間 | 陸路最短距離 ※1 |
---|---|---|---|
北安城-南安城 | 170円 | 2分 | 1.7km |
北伊予-南伊予 | 170円 | 2分 | 2.2km |
北浦和-南浦和 | 160円 | 7分 | 5.4km |
北大町-南大町 | 190円 | 9分 | 3.2km |
北小谷-南小谷 | 210円 | 14分 | 8.7km |
北柏-南柏 | 160円 | 6分 | 5.0km |
北方-南方 ※2 | |||
北熊本-南熊本 | 440円 | 35分 | 5.4km |
北郷駅-南郷駅 | 480円 | 32分 | 19.0km |
北越谷-南越谷 | 150円 | 2分 | 3.5km |
北条-南条 | 9610円 ※4 | 5時間42分 | 334km |
北千住-南千住 | 140円 | 2分 | 2.7km |
北仙台-南仙台 | 240円 | 20分 | 10.5km |
北千里-南千里 | 160円 | 5分 | 3.6km |
北高崎-南高崎 | 150円 | 20分 | 3.3km |
北巽-南巽 | 180円 | 2分 | 1.1km |
北田辺-南田辺 | 290円 ※3 | 18分 | 1.7km |
北長岡-南長岡駅 | 190円 | 31分 | 4.7km |
北永山-南永山 | 340円 | 17分 | 7.7km |
北延岡-南延岡 | 230円 | 17分 | 9.1km |
北野(福岡県)-南野 | 34230円 ※4 | 11時間23分 | 1362km |
北松本-南松本 | 150円 | 5分 | 3.8km |
北吉田-南吉田 | 190円 | 12分 | 4.0km |
北与野-南与野 | 140円 | 4分 | 3.3km |
※2 北方駅は2つあり(福岡県・佐賀県)、南方駅も2つある(大阪府・宮崎県)。
最短=北方駅(佐賀県)-南方駅(宮崎県) | 7570円 | 4時間21分 | 321km |
最長=北方駅(佐賀県)-南方駅(大阪府) | 17680円(新幹線経由) | 4時間24分 | 683km |
参考:喜多方駅-南方駅(宮崎県) | 34350円(新幹線経由) | 12時間22分 | 1338km |
http://blog.livedoor.jp/natirou/archives/52316146.html
リベラルな人からは絶賛されているが、ネトウヨの自分から見ると
最初から問題提起ありきの行動というか、プロ市民っぽい行動でどうも好きになれない
(チェリーピッキングした)法律に基づく指摘が出来たり、新聞社数件に自分から連絡したりはプロじゃない市民はできんのよ
「来宮駅は階段のみ。バリアフリー(笑)」みたいな愚痴記事で終わるか、せいぜい携帯での撮影くらいまでなんよ
この話題は「車いす利用者全体の意見」として広げるのではなく、「1人のプロ市民の意見」として扱うべきである
実際、車いす利用者でも「事前に確認を取る」「そもそも車で移動する」みたいな意見は出ているっぽいし
ブログ記事からは以下の目的があってこのような活動・情報発信をしたと読み取れる
これは周知できたので成功だとは思うが、どの程度バリアフリー化が進んでいるかくらいも併せて周知してほしい。
以下はブログ記事投稿後のニュースだが、バリアフリー推進活動をしてきたなら大まかな整備状況は把握していたはず
何も知らずに感覚だけで「バリアフリーって全然進んでいない」とツイートはしないだろうし…
https://twitter.com/izenanatsuko/status/1378535246841274371
改正バリアフリー法施行 地方の駅やバスターミナル 整備に課題
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210404/k10012955911000.html
国はこの10年間、1日平均3000人以上が利用する鉄道や、バス、船などの施設でエレベーターやスロープの整備を重点的に進め、鉄道の駅では、去年3月時点で全国3580か所のうち92%で移動の妨げとなる段差が解消されたということです。
実際に行った行動が攻撃的すぎて批判が集まっている現状を見ると「広く浅い」仲間を募集することに関しては失敗だと思う
ただ、本人のTwitterを見ると「リプ欄が地獄」みたいなツイートをどんどんRTしているので
自分の思想に100%賛同してくれる「狭く深い」仲間を募集する方針っぽい
これに関してはネットであの記事を炎上させたのは危険だと思う。数多くの人がコメントしているが
「各公共交通機関に多数抗議」→「改修が不可能なため、駅を廃止」→「問題そのものが無くなったので解決」
という危険性がありうる。改修にはコストがかかるし、今回問題になった来宮駅は無人駅なのでそこまで利益も上げていないだろう。
なので、改修を要求するのはJR等の公共交通機関ではなく、その駅がある各市区町村や都道府県の議会に訴えて予算をもぎ取る方向性がベターなのではないだろうか。
「健常者も障碍者も自由に行動できる」という理想論は理想でしかないので、プロ市民なら現実的な落としどころまで提示まで頑張ってほしい
「JRに乗車拒否された」車イス利用者のブログに賛否 駅員の対応は問題だったのか、国交省に聞いた
https://news.yahoo.co.jp/articles/735e41744a2eb47c169a5e03b290b474a8dd23aa
社民党としては今後取り組む予定の課題だそうなので今後に期待。
複数の駅にバリアフリー設備を設置した実績を重ね、国会議員に1-2人程度、現在の各地方のバリアフリー状況を詳しくいる議員が出たら
「特定の話題に強い議員 / その議員がいる党」としてええ感じになるんでないでしょうか
(社民党にそんな体力も議員数も無い、と言われたらそこでおしまいだが…)
2020年11月に既に似たような案件で訴訟を起こしているケースがあるのを今日知った
コスト面に関しては全く触れていないので本当に解決する気はある? というお気持ち
https://www.asahi.com/articles/ASNCP7DBYNCJPTFC001.html
ブログ内で来宮神社はバリアフリーが進んでいます! みたいな一言があってもよかったのでは?
①前半部分、「ということは実際に男性が逮捕されたりしたら別の話になるのでは???」まではおっしゃる通りです。ただし、別の話として検討した結果、同じ結論に至る可能性もあります。
②不退去罪は公共交通機関である鉄道の駅構内においても成立します。(昭和59年12月18日最高裁判決)
③鉄道会社は女性専用車両に乗り込んだ男性に対し、出て行くよう強い説得行為をして良いものと、あなたの引用した裁判において判示されています。「出ていけ」と命じて良いかどうかは今後裁判所が判断することです。良いとも悪いとも現段階では断言できません。
④差別=違憲=違法ではありません(憲法の私人間効力についての説明は割愛します。)。
基準は諸説ありますが、ざっくり言うと、差別的な規制であっても、その規制目的や手段の合理性(必要性や正当性、相当性等)が認められれば、合憲であり、違法ではありません。例えば、トイレが男女別になっていることは明らかな性差別ですが、目的や手段の合理性が認められるため、違法ではありません。同様に、女性専用車両についても、その目的や手段の合理性が認められ、違法とはされていません。日本人専用車両は、目的や手段の合理性を裏付ける根拠が不十分と思います。合法的規制として認められる可能性は低いでしょう。
⑤女性専用車両は、男性も乗って良いことになっているし、女性の被害を軽減する目的もあるため、差別的規制だが、違法ではないというのが現状の裁判所の判断です。
完全に男性が乗ってはいけないとなった場合にどうなるかは不明ですが、個人的見解としては、合法とされる余地はあると思います。したがって、もし仮に、あなたが今後女性専用車両に乗り込んだりするつもりでしたら、その行為が違法性を問われるリスクを孕むことは認識しておいた方が良いでしょう。
⑥蛇足ですが、旅館業法では、ご指摘のあった「客が伝染病患者だったりギャンブラーだったり客室に空きがないとき」の他、「その他の違法行為又は風紀を乱す行為をする虞があると認められるとき」にも宿泊を拒んで良いとされています。(旅館業法第5条第2号)
これを読まれている方の中で、屍臭というものを実際に嗅がれた方がどれ位おられるのか、ちょっと予想ができない。家族、友人等の死を経験し、その遺体が荼毘に付されるまで傍におられた方は複数おられるだろうと思う。しかし、そこに屍臭を意識させるような手抜きの仕事を、この国の葬祭業の方々がするとも思えない。だから実際のところ、そのような経験があっても、そこで屍臭を感じられた方はおられなかろうと思うわけだ。
私はこれまでに二度、強烈に屍臭を経験することがあった。あの臭いは、間違いなく、経験した者にとって一生忘れ難いものだ。不快だし、そう何度も体験したいものではない。そのことは体験する前から今に至るまで変わりはないのだけど、その臭いの向こう側にあるものまで体験すると、屍臭に向かう姿勢とでもいうのか……そういうものが確実に変わったような、そんな気がするのだ。人生観が変わった、などと大袈裟なことを言うつもりはないけれど、そのときの話を記録がてら書いておこうと思う。
初めてそれを感じたのは、高校に通っていた頃のことだった。私の通っていた高校は、太平洋戦争末期に空襲で焼かれるまで天守閣が建っていた場所で、四方を崖に囲まれた、自然の要塞のような高台に建てられている。登校するときには、深い谷にかけられた橋を渡ってすぐの正門を通るのだけど、学校の周囲の崖のあちこちに獣道のような抜け道があるので、授業時間中や放課後の時間には、その道を通って麓のコンビニに買い物に行ったりするのが日常だった。
時々、鉄道の駅まで出る必要があったのだが、本来のルートで行くと毎回かなりの回り道で、友人に面倒だとこぼすと、グラウンドのネットの破れ目から崖を斜行して下の道に出る抜け道を教えてくれた。春先でまだ雑草も深く繁茂しておらず、これは便利な道を教えてもらった、と、毎回のようにそこを通って駅に抜けていたのだった。
そして、夏が近付いてきたある日。一週間ぶりにその抜け道を通ると、何とも言えない厭な臭いがしたのだ。蛋白質の分解された臭い。それも、肉だけでなく、皮や毛や、通常なかなか分解されないものまで分解された挙句のような尋常ならざる臭いが、崖の獣道に立ち籠めている。雑草が結構な高さに繁茂していて、辺りにその源らしきものは見えない。日が経つ毎にその臭いはどんどん濃くなって、私の服や髪に染み付いてしまうのではないかというような粘着性すら感じさせる。私は確信したのだ。辺りの何処かの草に隠れて、何かの骸が転がっているに違いない。しかし、とにかく質・量共にそれまで一度も体験したことのない、凄まじい臭いだったので、小さな動物……鼠とか蛇とか……がただ死んでいるだけとは到底思われなかった。
道を教えてくれた友人にもこの話をしたのだが、彼は笑って取り合ってくれなかった。それに、と彼は言う。俺最近あそこ全然使わないからさ、調べる機会もないんで、まあそんなに気になるなら自分で調べればいいじゃん。ひどい奴だと思ったけれど、まあ自分からわざわざ積極的に屍臭の源を探しに行く奴もいないだろうから、彼を責めても仕方ないだろう。
もう季節は真夏になっていた。熱風と熱線が渦巻くような崖の獣道を通る度に、私は時々、わざわざ道沿いの茂みに踏み込んでみたりもした。しかし源は見当たらない。ただ、その酷い臭いだけが常に辺りに立ち籠めている。その臭いを我慢して近道をするか、遠回りして臭いを回避するか……その選択がある時点で逆転し、私はまた遠回りして駅に出るようになった。しかし、その源が何なのか、ということが、私の頭から消えることはなかった。
私は疑っていたのだ。その源が人間ではないかと。受験を意識する時期だったので、公営の図書館の勉強室にこもることが増えていたのだが、休憩を取ろうと勉強室の外に出ると各種新聞の閲覧スペースがある。行方不明者等の情報が出ていたりしないかと、必ず地方欄に目を通すことが習慣になった。成人だったら、あれ位では済まないかもしれない。女性の方が体は小さいだろうが、女性は脂肪組織が多い分屍臭もきついという話を何処かで読んだ。ということは、あれは子供なのではあるまいか……図書館で休憩する度に、私は新聞で子供の行方不明記事を探している。我ながら何をやっているんだろうと思ったけれど、もう新聞の陳列を見る度にあの臭いを思い出し、記事を探さずにおれなかった。
そして季節は晩秋になった。駅に出る日に、いつもよりも学校を出るのが遅くなった。ちょっと考えた。もう夏も過ぎたし、あの臭いも薄れているかもしれない。グラウンドのネットの破れ目は何も変わっておらず、そこをくぐって崖に出ると、あれ程繁茂していた雑草も、盛りのときの半分もない程に枯れてしまっている。私は崖の獣道を進んでいった。傾斜のきつい崖なので、スキーの斜滑降のような進路になるように道は形成されている。ターンする角に来て、ふと何気なく、いつもと違う進路の正反対、崖を斜め上に見上げるような向きに目を向けたとき。視野に初めて、あの屍臭の源が飛び込んできた。
それは一頭の犬だった。もう骨に皮が少し被っただけという外観で、その周囲には蛆なども見当たらなかった。大きな犬で、おそらくドーベルマンとかレトリーバーとか……それ位の大きさの骸だった。ドーベルマンとレトリーバーは全然違うだろう、とか言われそうだが、変色して干涸びたその骸からは、それ以上のことは分からなかったのだ。もう臭いはあまりしていない。私は急いでいたのも忘れてそこにしばらく立ち尽した。あの夏の頃、臭いの源を発見したら大声で叫んでしまうに違いないと思っていた。しかし、今のこの落ち着きは何なのだろう。本当に、自分でも驚く程に、心は静かだった。ああ、人じゃなかったんだ、それはそれで良かったけれど、こいつ、どうしてここに骸を晒していなければならなかったんだろう。野良犬というのもほとんど見ないようになった頃で、こんな大きな犬がそこらをそううろうろしているとも思えなかった。ひょっとしたら、飼い犬が亡くなった誰かが処置に困ってここに骸を捨てたのだろうか。死を看取るまで犬を飼っていた人がそんなことをするというのも変な話なのだけど、他に説得力のある理由を思いつかなかった。
あの臭いがし始めた頃から、こいつはここにあった。そして、あの燃えるような夏の間、道を外れて鬱蒼と草に覆われた中、あの強烈な屍臭を放ち、蛆等に組織をついばまれながら時間が過ぎていった。そしてその臭いも薄められ、ここにこいつはまだある。本当は埋めてやりたかったが、手元にその用意もないし、そのときにようやく自分が急いでいたことを思い出した。クリスチャンの私は十字を切り、天の国で平安と安息のうちにありますように、とだけ祈ってそこを去った。何日かして再びそこを通ってみたら、もう骸はなかった。誰かが気付いて、埋めるか他に持っていくかしたのだろうか。そこまでやってやれなかったことが心残りだったが、せめて祈ることができただけでも、少しはましだったか、と今も思う。
そして二度目。それは、ある自動車関連企業のお膝元である某県の地方都市に住んでいたときのことだった。私は単身者が複数入居している安アパートに住んでいた。よくあるプレハブ二階建の長屋みたいな造りで、外の階段で二階の並びに上がるような、室内は6畳とユニットバスみたいな、そんなアパートである。私にとってそこは家というよりただ寝る為だけの場所で、仕事が終わるとそこに入って寝て、朝はシャワーを浴びてそこを出る……そんな毎日を過ごしていた。おそらく、他の部屋に暮していた人々も、私と同じような日常を過ごしていたに違いあるまい。
そんなある日。部屋を出たときに、ふと厭な臭いがした。ゴミのせいか……と最初は考えた。私の部屋は一番階段に近い二階の部屋で、階段の真下のスペースがゴミ置き場になっていた。仮に凄まじい悪臭を放つゴミが捨てられていたら、そういう臭いを部屋のドアの前で感じることもあるかもしれない。鍵を締めて階段を降り、ゴミ置き場の前に立ってみたけれど、そもそもその日はゴミの収集日ではなかった。そこまで行く経路上に、ゴミから出た汁等がこぼれたような形跡もなかった。気のせいか、あるいは自分が臭いの源なのか……服などをチェックしてみたけれど、どうも自分ではなさそうだ。
翌日、そしてその翌日、と、その臭いは更に強くなっていく。深夜近くに帰宅して、周囲の住人の迷惑にならないように注意しながら二階の並びを歩いてみると、どうも自分の部屋から少々奥に行った辺りでその臭いが一番強くなっているような気がする。隣か、そのまた隣か……しかし、どういう生活をしていたらこんな臭いがするのか。それにしても、この臭いにはどうも心当たりが……と、そこでようやく思い当たったのだった。これは、あの臭いだ。高校の獣道で嗅いだ、あの臭いだと。明日になったら管理会社に電話しようと決めて、部屋に戻って寝た。
そして翌朝。出勤の支度をしていたらチャイムが鳴って、ドアを開けると警官が立っている。
と訊かれ、実は何日か前から……という話をして、
「あの、何かありましたか。私もここの住人なので、差し支えない範囲で教えていただけませんか」
と言うと、警官は言いづらそうに、この部屋の二つ隣で、住人の女性が亡くなられていたんです、何かご存知のことはありませんか、と言う。しかし、隣室の住人の顔もよく知らないような状況で、その更に向こうの住人のことなど知る由もなかった。
職場でその話をすると、皆さん興味本位で色々と仰る。うわー気持ち悪いねーもう引っ越した方がいいんじゃない?……まあ、よくあるパターンだ。そりゃあ、家の近くで人が亡くなっていたというのはそれなりにショックだったわけだけど、私は違うことを考えていたのだった。自分と同じように独りで暮していた人なのだろう。あの部屋のドアは結構密閉性が高いので、ああいう臭いが出てくるまでには相応の時間がかかったに違いない。その間、その人はずっとそこに骸を晒していたわけだろう。これはその女性ではなく、自分に起きたことだったかもしれないのだ。その間にはおそらく何も違いはあるまい。ひょっとしたら、私が骸を晒し、あの臭いを発していたのかもしれないのだ。そう思ったら、興味本位の人と一緒に騒ごうなどと、考えられるはずがないのだ。
皮肉なものだ。屍臭の向こうに、かつてあった生とその現状があるのを思い知らされ、そして私がそのときたまたま傍観者だったというだけで、いつ私が骸を晒す側にならないとも限らない、ということを思い知らされたのだ。私はその晩、帰宅してからその部屋の方を向いて、あの犬のときと同じように祈った。それ位しかできなかった。調子の悪いときに出喰わすことができていたら、とも思うけれど、それはもうどうしようもない。ただ、高校のときの体験に、同じ人間という更なるリアリティを裏打ちされて、私の中に今でもこのときの記憶は強烈に残っている。去年は有名人でも亡くなる人が本当に多かったわけだけど、誰かが亡くなる度に、私はこれらのことを思い出すのだ。
ヨッピーの記事で軽く取り上げられた北海道帯広市のご当地ローカルチェーン「カレーショップインデアン」について、帯広に住んで星霜を経た私が、初心者からわかる楽しみ方を紹介しよう。
公式サイトはここ。
http://www.fujimori-kk.co.jp/indian/
https://hokkaido-labo.com/indian-curry-obihiro-15604
そもそもここは、駅前にある「ふじもり食堂」が、カレー事業を独立させて事業展開しているチェーン店だ。
家族連れで旅行した際に、「自分はインデアンを食べてみたいけれど、他のメンバーが色んな食事を楽しみたい」みたいなことがあるかもしれない。
それならふじもり食堂に入ると良い。インデアンよりカレーメニューは少ないが、「ふじもり」のカレーは「インデアン」のカレーと同じなのだ。
ふじもり食堂の歴史は古く、この開拓地に鉄道の駅が初めてできた時に、現在で言う「キオスク」的な商店を始めたのが濫觴である。
「ふじもり食堂」は現在でも駅前で列車の待ち時間などで使用されるから、今に生きる歴史スポットとも言える。
濃いルー、濃い味で、実は帯広市民でも評価が分かれて、嫌いで行かない人も多い。
嫌いな人は「味が酸っぱい」などの意見があるようだ。
はじめてならば「インデアンカレー」でいい。
メニューに載ってる公式で定められたトッピングメニューから「インデアンらしさ」で食べるべき順を述べるなら以下の通りだ。
「カツ」>「ハンバーグ」=「チキン」>「エビ」=「シーフード」>「野菜」となる。
カツカレーは周囲を見ていてもやっぱり人気。ついでチキン派が続く印象。シーフードはやや異端(美味しいけれど)。そしてやや高い。
ハンバーグはルーの関係(後述)で人気ある。トッピングで一番ポピュラーなのはチーズトッピングで、それが最も用いられるのがハンバーグ。
そんな感じで格付けしてみた。
次にインデアンにある3種のルーの違いを見てみよう。
ルーは三種類。
①インデアンルー
メニューにある6つトッピングのうち、インデアンルーなのは「ハンバーグ」のみ。
「カツ」「チキン」「エビ」「シーフード」はベーシックルー。「野菜」は当然野菜ルー。
これは、インデアンのお店が美味しいと思うからそうしているわけだ。
野菜ルーはイモのおかげでもっさりしている。それが好きな人も多いが、初めてならば避けるべきだろう。
また、野菜ルーはメニューを見ての通り在庫が少ない。よく品切れになっている。
まずは、インデアンルーか、ベーシックルーで提供されるトッピングメニューを注文するべきだ。
インデアンルーは、肉が入っているので人気だ(直球)。
インデアンでは、トッピングとルーとを組みかえてアレンジすることが許されている。
一番多いパターンは、ベーシックルーで提供されるメニューをインデアンルーに切り替えるアレンジだ。
本来ベーシックルーで提供される「カツカレー」だが、それをインデアンルーで楽しめるのだ。
初めての人で、アレンジに挑戦したいのならば、このメニューをたのむべきだろう。
個人的なお薦めは、ハンバーグにエビトッピング、あるいはインデアンルー+カツ+エビだ。
三種の薬味がある。
赤い福神漬
緑のシソ漬
これは市民に聴いても趣味が分かれる。俺は緑が好きだが、ピンク派が多い気がする。
5段階から選べる。
①普通
②中辛
③辛口
④大辛
⑤極辛
辛いの好きなら「大辛」だ。「極辛」は辛いには辛いのだが、よくわからない臭みみたいのが出てくる。「大辛」が一番バランスが良い。
辛いの苦手なら「普通」。注文が多い印象があるのが「中辛」。私はいつも「大辛」。うまいぞ。
飲め。
濃いカレーに水がよく合う。
市内に何店舗かあるインデアンのどこに行くべきだろうか。
初めてならば、「まちなか店」がお薦めだ。
駅から近いし、ここは最も混む所なので、店長は常にインデアンのエースが張る。
現在の前谷店長はエース中のエースで、流麗な仕草でコメを盛り、目に見えぬ速さでカツを斬り、魔法のようなお玉の扱いでカレーをかける。
そのウィザードクラスの調理にもぜひ注目するべき。なので「まちなか店」に行こう。
帯広社会と言うものをじっくり堪能したいのであれば、同じく駅近くの「長崎屋」フードコート内のインデアンに行くのも一考だ。
ここに行くと、マジで老若男女がインデアンを食べている現場に出くわせるだろう。じーさんばーさんも中学生もサラリーマンもお姉さんも食べている。
十勝は旨い食い物が多いので、ぶっちゃけ他のとこ行った方がいい。
だがハマる人はハマる。
なかなか来ること少ない場所と思うが、来たら試してみてほしい。
ミッキーマウス!!でミッキーが世界を回るシリーズが続いていて、ロシアでコサックを踊ったりイギリスで女王の兵に追いかけられたりしていたのだが、今回は日本が舞台だった。
空中を交錯する道路や線路、ジェットコースターのように電車が走る未来都市のような日本、中国風のBGM、ミッキーは駅を疲れた顔をして歩き長い行列に並び青い電車の切符を買う、駅員が満員の赤い電車にミッキーを無理矢理押し込み、扉のガラスに張り付きながら発車。
途中で相撲取りの頭にぶつかりミッキーは褌姿になり相撲勝負をしかけ、相撲取りがぶつかり開いた扉から電車の屋根に脱出。
しかしジェットコースターのような電車の屋根は危険窮まりなく、大量の看板を避けながらトンネルに入る、トンネルの中では急に横スクロールドット&ファミコン音になりコインを取る、
店を開き子供電車の運転手として子供達の笑い声の中深呼吸するミッキーでおしまい。
モアナと同時上映した疲れ果てた生真面目な社畜の短編も日本人をイメージしたとか言ってたし、今の日本のイメージは疲れ果てた社畜と満員電車なんやなーと思った。
コンコース(英語: concourse)は、ホテルやコンベンションセンター、鉄道駅や空港などの多くの空間において、通路が交差する
"concourse"(コンコース)は「人々が集まる場所」を意味する語である。この言葉は英語やフランス語のほかに、ラテン語で
「混ざる・一つになる」などの意味がある"concursus" や"concurrere"が語源である。
これらの言葉は「意見が一致する、同時に起こる」の意味がある英単語の"concur"にも語源学的に関連がある。
「コンコース」という言葉は主に鉄道の駅や空港、ショッピングモールのほかにも、会議室や大学、ホテルの中にある一角をさす
場合が例として挙げられる。また、「ショッピングコンコース」などの使用例もある。鉄道の駅では一般的に改札外の区域である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2015/01/01/072258
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20150101/p1
読んだ。
だいたい自分は上のお二方と似たような経過をたどってきたと思う。その後、諸事情によって引きこもらざるを得なくなった点だけが違う。そして「やってることが10年以上、本質的になにも変わらなかった」という点ではおそらく上記お二方以上。どれくらい変わらなかったかというと、その息苦しさとやらがそもそもわからなかったくらいだ。俺は昔から「だれが読んでいるか」を意識したことがあまりない。「どれくらい読まれているか」しか考えてこなかった。具体的にはPVのことだが、それは結局数字なので、100が1万になったところでいずれは慣れる。なので、本質的には変わらない。
毀誉褒貶があったことはとうぜん承知していたが、それがリアルのほうに影響を及ぼすとはまったく思っていなかったわけだ。俺の場合、その息苦しさとやらを感じなかった代償が、いきなり現実の罰としてやってきた。つまり、10年以上、書き手として意識をまったく変化させずに「書きたいこと書いたるわ!」などとやっていると、それを不快に思った人からの罰が下る。ブコメを読む読まないの問題ではなく、リアルに影響が及ぶ。それだけインターネットの人口は増えたってことだ。おもらしこどもぱんつ口に突っ込まれてようじょのおうまさんとして東奔西走したいなあさあお兄ちゃんのミッションレバーを握ってごらんウッいきなりバッテリー液漏れだぁなどといえば、それを気持ち悪く思う人間はかならずいるということだ(いるだろう、そりゃ)。
もっともこんなことには解決策はある。リアルの情報をいっさい封じればいい。自分が何歳で、どこに住んでおり、どんな仕事をしているのか、そういう情報をカケラも出さなければ、たとえば「あの人は女の子の放尿シーンのすばらしさについてのみ語る人だ」という認識ができる。
しかしうまくいかないもので「書きたいこと」のなかには、たとえば仕事に関することや、近所の公園で見た桜の花がきれいだったなんてことも含まれたりする。そしてどうかすると、その公園の滑り台の降り口のところでべったりと匍匐しており、上から降りてきたちっさいこのぱんつが見えた経験もまた書きたいことだったりする。そういうものが渾然一体となってひとりの人間であり「書きたい」という欲望を持つ人間は、往々にしてそのへんの区別をしない。桜の花の美しさに感動するのも自分なら、ロリゲーなのにヒロインが処女じゃないことに激怒するのもまた自分である。
もちろん社会生活のうえでは尿ゲーと謳っておきながら着衣失禁が一度もないことに激怒していたことなんかはだれにも言わない。インターネットがもはや電話と同じように単なるインフラなら、リアルとネットという二項対立に意味はない。よって、リアルで言うべきではないことは、ネットでも言うべきではない。
なので、実は俺自身は「ネットってものの質が変化したんだから、不自由もなにもない」という意見になる。不自由さ、息苦しさのようなものを感じるのは、かつては「俺ら」の隠れ家や理想郷めいたものがそこにあったと錯覚しているからだ。実際あったかもしれない。しかしそれは流入人口が少ないがために偶発的に発生した空き地のようなもので、その空き地ではエロ本を隠れて読もうがなにしようが、だれも見咎める人がいなかった、というだけの話だと思う。
2015年、インターネットから空き地は消えた。遊び場が欲しければ、どこぞのSNSという名のビルの何号室かに、外部から干渉されない場所が用意されている。妹キャラにはオナニー必須だと叫んでも外には聞こえない。安心していい。
そう断言する俺自身を含め、どうしても郷愁めいたものが残るのだとしたら、それでもその場所は密室でしかないということだ。広い空き地があって、空が見えて、エロ本探しに飽きたらキャッチボールをやってもいい、駄菓子屋で買ってきたうまい棒を食っててもいい。空き地の前の道路は町につながっているし、その町には鉄道の駅があって、ひょっとしたら空き地にだれか知らない人が遊びに来るかもしれない。空き地で大声をあげて遊んでいる「俺ら」を見て「おもしろそうなことやってるね」と近寄ってくる人だっているかもしれない。かつて、それがどれほど嬉しかったことだろう。
ビルの何号室かは、部屋の番号を知らなければ訪れようがない。
でも、そういうものだ。人口が増えたら都市化は進む。あたりまえの話だ。
PVが増えたというのは、立地のいい駅前広場で、出力の高いスピーカーを装備しているようなもの。観客を集めることはでき、多くの人に自分の声を届けることもできるだろう。本人にそのつもりがなくても、地声がでかければ結果は同じだ。その声をマイクで拾って拡散する人だっている。
いいとか悪いとかの問題ではなく、それはまったく「そういうもの」でしかない。必然の結果ってやつだ。そのぶん、多くの人に声は届く。
とまあ、かつてはマイクの前で大声をあげており、いまは部屋の窓から外を眺めているだけの俺はそう思う。もう、あの場所はいいや、とも。
勤め先の近所に、少しだけ異様な雰囲気を持つガソリンスタンドがあります。
幹線道路から少し脇に入ったところで、昼間の交通量はそこそこありますが、取り立てて良い場所というわけではありません。しかし、かなり流行っている店ではないかと思われる節があります。
外車やハイクラスの日本車ばかりが所狭しと留まっているのです。敷地から外れた道路にも並んでいます。そして、順繰りに、二、三人掛りでそれらの車が洗われています。ブラシかけや仕上げの磨きなど、全て手作業です。
鉄道の駅がすぐそばにあるので、車の持ち主もしくはその部下がここに乗り捨てて行って、相応の時間にまた取りに来るのでしょう。
自分の車くらい自分で洗えよ、札びらで人の頬をはたいて車を洗わせて、これだから金持ちは、云々…。
と、一人ごちていたのですが、いろいろ考え出すと微かに面白いのです。
果たしてこのガソリンスタンドは、できた当初からこのような業態を取っていたのかどうか。どうもそのようには思われません。
給油やタイヤ交換だけでは儲からないし、行き詰って、手洗いを丁寧にやってみたところ、意外と好評で、徐々に顧客を獲得していったのではないでしょうか。自動の洗車機はありませんが、無いこと自体がむしろ良い方向に働いたかもしれません。あるいは最初から狙っていたのだとすれば図に当たったと言うべきです。
多いときには十人近くが働いているようです。しかも割合年配の人が多く、何だか賃金も安そうだと思います。一部では知る人ぞ知る店だったりして。
よく、南アフリカの記述でこんな風に(http://d.hatena.ne.jp/hagex/20050329)
治安が悪い悪い、リアル北斗の拳の国と聞いていたんだけど、実際に来てみるとそうでもなかった。
夜はそれなりに戸締りをしっかりしてるし、旅行者風の格好をしないように気をつけているけどね。
なんとなく、オーストラリアに似ているなーと感じた。風景とか、町並みとか。
もちろんダウンタウンや鉄道の駅では間違いなく強盗に会うだろうけど、気をつけてさえいれば普通の国だよ。
一人歩きはやめたほうがいいけど、少なくともショッピングセンターやモールみたいな場所では普通に買い物もできる。
交通ルールもよく守られていてびっくり、みんな大阪人のような運転だけど、道が広いから運転していてあまり怖くない。
ヨハネスブルクの街中(ダウンタウンじゃ無い場所)で「信号でとまらない」なんてしたら即事故を起こします。
つーか、けっこう車の量多い。
こないだヨハネスブルクの空港までプレトリアから車で送迎してきたんだけど、高速120km/h制限なのなー。
高速では140km/hオーバーで走ってる車が多いよ。
警察の車が走っていると速度制限守りだすところでクスリとわらった。
100や80km/h制限の道もかなり多い。土地が広いから速度出さないと目的地まで大変なんだろうなーって思ったのでした。
結構すごしやすい国かもしれない。
百聞は一見にしかず。