はてなキーワード: 失望感とは
私は誰の意志で生きているんだろう
私の意志はどこにあるんだろう
精力的に動けたり、
きっと病院に行ったら躁鬱扱いされて、薬漬けだろうな。数十年前と同じように。
カウンセラーは、話を聞くけど、最終的には自分たちのやっている療法の「型」に私をはめ込もうとするだけだ。
結局、誰にも、何にも、できることはない。私もだ。自分をどうすることもできない。もはや何を信じて良いかわからない。
刺ぬ勇気も無い。
私の親は愛情深く私を育てすぎた。
とてもできない。
明日の朝になったら、ギリギリで跳ね起きて仕事に行くだろう。内面空っぽのまま、その日の仕事をこなすだろう。
何も積み重ねることなく、
何も為すことなく、
ただ両極端を行ったり来たり。
中途入社増で怠けや諦めなど悪習まん延、関氏の任命は判断ミスと
EV事業推進の永守氏は昨年、日産出身の関氏を後継CEOに指名
The Nidec Corp. headquarters stands in Kyoto, Japan, on Wednesday, May 27, 2015.
The Nidec Corp. headquarters stands in Kyoto, Japan, on Wednesday, May 27, 2015. Photographer: Akio Kon
日本電産創業者の永守重信会長が、最高経営責任者(CEO)を譲った日産自動車出身の関潤社長に対する失望感を強めている。事情に詳しい複数の関係者が明らかにした。
関係者らによると、永守氏(77)は昨年末ごろ、高い収益力で成長を続けてきた日本電産に最近ほころびがみられるとし、低収益企業からの中途入社の増加で持ち込まれた諦めや怠けなどの悪習で汚染されていることが原因だとの見方を社内で示した。
特に主力事業の一つである車載事業で業績が悪化していると認識しており、同事業の再建は自身が責任を持ち、短期でやり抜くと強調した。関氏は昨年12月から顧客との交渉でドイツに滞在しているという。
関氏(60)の入社以降、車載事業で計画未達が続いたために日本電産の相対的な業績は悪化したとし、経営力の低い人物をトップに据えたのは判断ミスだったとの見方を明らかにした。任命責任は自身にあり、外部からの人材を後継者にする考えそのものが甘かったとの見方も示したという。日本電産はコメントを控えた。
Nidec Corp. Chairman And CEO Shigenobu Nagamori Holds News Conference
Photographer: Akio Kon/Bloomberg
同社の車載事業は2020年4-6月期に2億5800万円の赤字に転落。その後、黒字に回復したものの直近の昨年7-9月期の営業利益率は3.5%と10%以上を確保している他のセグメントと比べると見劣りしている。
永守氏は昨年9月、幹部社員らに対して業績改善の遅さや対応の甘さに言及し、上期(4-9月期)の連結営業利益について最低限必要な水準として950億円を掲げ、達成に協力を要請していた。その後、10月に公表した上期の営業利益は902億円で未達に終わっていた。日本電産株は今年に入って20%近く下落している、
日本電産、永守会長が求めた利益目標未達-精密小型モーター不振 (2)
世界的に電気自動車(EV)シフトの流れが加速する中、EV関連事業を強化している永守氏は20年1月、日産でナンバー3の副最高執行責任者(COO)まで務めた関氏を採用。4月には社長、昨年6月にCEOに昇格させていた。
Nidec President Jun Seki Interview
関社長
Photographer: Kosuke Okahara/Bloomberg
関氏は昨年7月の決算会見で売上高を25年度に4兆円、30年度に10兆円と順次拡大する中長期戦略目標を公表した。永守氏は同会見での関氏の説明を安心して聞けたとして、次回以降の決算会見には出席しない考えを示していた。
しかし、10月の中間決算会見には前言を翻して姿を見せ、質疑などに対応。一方、関氏は一度も発言しなかった。永守氏はその際、「あくまで日本電産の社長CEOは関である」と強調。会社を掌握するには時間がかかり、「苦手なところはサポートし、関を立派な経営者に育てていく」と述べていた。
永守氏は1973年の創業以来、長年にわたって経営トップを務めてきた。関氏の前の吉本浩之元社長時代にはCEOの地位を譲らないまま集団指導体制を目指したがうまく機能せず、吉本氏は副社長に降格となった後、退社していた。
関係者によると、永守氏は自身の指導に従えば業績は必ず戻るとも呼びかけている。現在の停滞は社員のマンネリや諦めの気持ちに起因しており、創業者の考え方をもう一度徹底する必要があると強調。社員に対して、経営の要諦について記した自身の著書を繰り返し読むよう呼びかけているという。
アベノマスクの最大の失敗は国民を深く失望させたということにある。
その部分を全く無視しているのは論外だ。
当時、コロナ禍が進行していく中でもっとも懸念されたのは経済の失速と雇用の不安だ。
それを払拭するために米国やドイツを始めとした欧米各国では手厚い給付金政策が続々と発表されて
自国民に対して
「大変な自体が進行中であるがどうかパニックは起こさないで欲しい。あなた達の生活は絶対に守る。」
それに対して日本では金を配らずにマスクを配るという政策を大々的に発表することで国民に深い失望感を与えたのだ。
この国はこんなにも、この政府・政権はこんなにも情けないものだったのか?と深く失望をさせてしまったのだ。
コロナ禍という困難に耐え忍ばなければいけないという、その始まりの時に。
マスクの話ではないのだ。そんなこと些末と言ってもいいくらいだ。
結果として、その大きな失望感から公明党の支持母体である創価学会が
給付金を配らないのであれば選挙では一切の支援をしないと最後通牒を突きつけたことで
公明党が給付金国民全員に給付することを安倍総理に要請したから
貧困家庭に30万円を給付するという法案で決まりかけていたものが覆ったのだ。
そのことによって経済的にだけではなくて心理的に救われた人は多かったと思う。
そういう部分を一切無視してマスク議論だけをするのは意味がない、
と言っては言いすぎかもしれないがアベノマスク問題の本質ではない。
アベノマスク問題の本質は給付金への期待、国家が国民を守ってくれるという期待感を一瞬にして崩壊させたことにある。
まず勝ちたいと思ってるとお前が思い込んでるところからして間違ってる
俺は政権選択のタイミングでアホな選択をしなかったという事実が欲しいだけだ
この状況で自民を再度選ぶのはアホの極みだろ…感染者も死者数もガンガン増えてて自宅療養で死んだ数は追えてない
だから「俺は」自民党を選ばない。ただ「アホな大衆は」自民党を選ぶ。そこは多勢に無勢で俺にはどうしようもなかったと後世の人間に言える。その状況が欲しいってだけ
だから別に立民が負けてもいいですよ別に。俺は正しい政党を選ぶし、その正しさがジャッジされることもないだろうね。アホは自民に入れるから。あとはIFのストーリーになる
自民党に対して有権者が失望感を抱かないんだったらそれがジャップのありのままの姿としか言いようがないし、別にそれを否定しないよ。未開の猿に民主主義は早かったかなと思うだけ
だからお前も有権者の失望を高めるとか言わねえで黙って自民に入れたら?有権者の失望を高めるって、どこに向かってのアピールなの?無党派層に立民はクソだって印象付けるためにやってるの?だまって自民に入れてろよ。むしろ自民支持者なら立民に対する有権者の失望高まってんだったら望むところじゃん。なんで焦ってるの?俺は別に焦ってないけど。
はてブのコメントでは「小出しにすることで注目を集めているから成功」と言われているが、果たして本当にそうなのだろうか?
小出し戦術によって注目を何度も集めたとしても、その度に「経済政策やコロナ対策の優先度が低い」と誤解されたとしたら、むしろ逆効果のように私には思える。情報発信の第1弾の時には「政権を獲ったら直ぐに出来ることを述べただけだ。経済政策やコロナ対策は、これから」と言われていたが、第2弾でコレでは、もう有権者の失望感を高めるだけなのではないか?
こういう意見を述べても、最近では自民党の回し者扱いされる。おそらく、戦時中の日本で、戦略の誤りを指摘した人たちを非国民扱いして押し潰した時も、こんな感じだったのだろう。
自民党政治を批判している人たちが、旧日本軍レベルの精神論で勝てると信じているのは、情け無い話である。
【追記】(1)私は二十年ぐらい自民党には投票していません。新自由主義に反対しているからです。自民党政治に対するNOの意思表示のために、私は(支持者ではありませんが)共産党に投票しています。(2)野党を育てることイコール野党への批判を控えることとは、私には思えません。まっとうな野党を育てるためにこそ、批判は必要であると思います。
311以前までの防災訓練とか「真面目にやる奴はおかしい」「地震にビビるやつは精神病」
といった逆のことを教える事を意図してやってただろ
障碍者差別やナチスの話も「障碍者を馬鹿にしたらいけないよwwwww」
「ドイツやあの辺はその問題に神経質だから触れるなよキチガイに絡まれるぞwww」的な扱いで
それらが悪いと主張する気なんて露骨に無くて、
障碍者は社会のサンドバックだしユダヤ人ネタで盛り上がるのは漫画家はみんなやってて悪くないよ
イジメにやり返さずひきこもる奴は社会でやっていけない教育だし文化だったのに
日本に教わった通りにふるまっただけなのに
Windows11によりLinuxに光が当たるか!?
といった風潮がLinuxユーザーにもほぼみられなくて、以前と熱量が違う感じがひしひし伝わってくる。この言説でLinuxユーザーが増えるという楽観的な熱意を表明したのはあわしろいくやだけだった。
その関連の記事を当たると、曰くWindows7の乗り換え次期にユーザーを獲得できなかっただのと言ってる記事があたったんだが、そうした失望感から来るもんなのかこれは? という感じ。
どちらかといえばPCいじってる奴らが電子機器をシームレスに移動して、どこでも開発やってるからプラットフォームは関係ない、と言っているように見える。単純にデスクトップにこだわりが無くなってきているという話でもある。Linuxが流行るかどうかなんて鶏と卵みたいなもので、OEMとしてプリインストールされるPCが有名メーカーからこぞって発売される勢いじゃないとはっきり言って無理だ。そんなMS不在の時代が来たらGoogleが黙ってないので純粋な意味でのLinuxディストリが活躍する日はない。わかりやすく選択肢の幅があるソフトウェアが増加すれば人が増える(現状でも一般人が使えるウィンドウアプリの選択肢は少ない)、なんて話もそもそもがユーザー増加が見込めないと豊かにならない。OSSやフリーウェアが天下を取るケースは、必ずなにかのOSや媒体に乗っかっていたときだけだ。それ単体で基盤を起こしてOSを組み込みOSSだけで作られたプログラムを走らせる。こうしたものはラズパイ程度しか知らないし、ラズパイが一般市民の中で圧倒的シェアを獲得するという話でもない。オープンソースという考え方そのものに決定的に商売の二文字が欠けているからだ。オープンソース自体がライセンスなどの縛りで売り込めない体質を持っているからだ。
都では、また「朝敵である平氏を滅亡させよ」などという令旨がトレンドになっている。しかし、今のままでは絶対に平氏は壊滅しないし、政権交代も起きない。断言する。
延暦寺対応はじめ平氏政権の政策はどう考えても終わっているし、このまま行けば平大相国は出家するだろう。平氏は間違いなく官職を減らすだろうし、それによって白河院は勢力を盛り返すだろう。しかし、それでも平氏の実権は揺るがず、政権交代は起きない。重盛か時平か知らないが、別の平氏が顕官に就任するだけである。
なぜそう言えるのか。
圧倒的な唐土とのコネクションを持つ平氏に対し、院が勝つには、下司層からの圧倒的支持を得るしかない。ところが、その在地荘官層は、たとえ平氏に失望していたとしても、「強い動機」がなければ令旨にしたがうことなく、ただ戦に行かずに終わる。そうして戦にならなければ、結局は宋銭を多く持つ平氏が勝つ。
ここで「強い動機」というのは、延喜の治や、天暦の治のように、「この御門に(あるいはこの院に)政権を任せてみたい」という期待があることをいう。この期待が高まることなくしては、いくら平氏への失望感を煽っても勝ち目はない。
さて、武士層は今、院に政権を任せたいという強い動機を持っているだろうか。世論調査を見れば分かる通り、どう考えても令旨に同調する「強い動機」を持ってはいない。
保元の戦乱時には、源氏の戦力が平氏のそれを上回っていた。平氏の分厚い宋銭の蓄積と所領の支配を打ち崩すには、源氏がこれほどまでの武力を集めていなければならない。
しかしながら、現時点で源氏は壊滅状態であり、棟梁も不在である。これではとても、政権交代は期待できない。
武士たちは院が政権を取るとどんなに素晴らしい未来が待っているか、具体的政策を主張し、実際に領地を差配する下司たちがそれに期待する、という状況を作り出す必要がある。それをせず、「朝敵である平氏を壊滅させよ」などといくら令旨があっても政権交代は起こり得ない。
要するにSkebとかPixivリクエストとかで依頼したのに納品期限超過して絶望した話し。
「Skeb 不満」で検索すると言いたいことを書いていた人がいたのでコミッションサイトの問題点をあげつらうのは省略するが「人がお金を払って交わした約束事(契約)をほったらかしてアニメ見たりゲームしたり無料のお題箱に来たリクエストを平然と描いたり挙句には納品期日当日に他人家で遊んで”楽しかった~”とTwitterでクライアントが見ている可能性があるにもかかわらず平然とツイートする」社会性が一切合切ない絵描きが平然といることに気づいた。
それと同時に所謂イラストレーターや漫画家が社会的地位が低い理由も理解してしまった。
一部の漫画家は平然と「締切すぎちゃった~」とか「締切だけどゲームしてたわwww」とか平然と描いて担当者と揉めたとか漫画にして書いているけど、それはただ単に自身は約束事(契約)を守らないと告白していることに気づいたほうがいい。
いまじゃどこでも見かける”いらすとや”が出てきたときに自分は怒りを覚えた。
「イラストを描くことで生活しているプロの漫画家やイラストレーターを侮辱するとんでもない外道だ!こんなのを許してはいけないし使ってはいけない!」と。
しかし今、”いらすとや”がなぜ顕現してきたか、その理由がよくわかる。自分はこれから”いらすとや”様が制作されたイラストを積極的に使っていきたいと思う。
信用ないんだもの、イラストレーターに対して。平然と約束ぶっちぎって謝罪の言葉もないとか”ふざけるな”と怒鳴りつけたい。
Skeb や Pixivリクエストは納品期限超過したら全額返金はされる。しかし、依頼したクライアントからすればそれだけでは賄いきれないほど精神的ダメージが大きい。それもずっと見守ってきた好きな絵師であれば尚更。
納品されるまで二~三か月はかかる。短いと思うかもしれないが人生何があるかわからない。不慮の事故に巻き込まれる可能性だってあるし、身内に突然襲い掛かった不幸でイラストを描く気力を完全に奪われてしまい、依頼どころの話ではなくなってしまうこともあるだろう。
前者ならTwitterを見れば更新されてない、イコール、あっそういうことか…と想像つくし、後者ならTwitterで「身内の不幸によりリクエスト消化が難しくなりました。申し訳ありません」と一言書くだけで「それならどうしようもないな」とあきらめもキレイにつく。
でもね、締切当日に他人家で遊んでいるとかはないだろ?いくらなんでも。挙句にSkebアカウント消してんじゃねえよ。
「お前が過度な期待をしているだけの話だろ?」と言われたらその通りかもしれないが金銭が発生している約束事を反故にされたらキレたくもなるわ。
こんにちは、大学で政治学を学んでいる学生です。白井聡氏の論考が、鋭い指摘をしていると一部で話題になっているそうです。無料公開分を読んでみたものの、私にはどこが鋭いのか全くわからなかったので、疑問に感じた点をまとめました。
以下の引用は、論座に掲載されている『【1】安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である』(白井聡)に基づきます。
本稿で私は、第二次安倍政権が2012年12月に発足し現在に至るまで続いたその間にずっと感じ続けてきた、自分の足許が崩れ落ちるような感覚、深い喪失感とその理由について書きたいと思う。
タイトルには「日本史上の汚点である」とあり、これまでの政権と比較した上で安倍政権が汚点であるとの主張がなされている。しかし冒頭の段落で「深い喪失感とその理由について書きたい」とあり、タイトルと内容が乖離しているように読める。
「[多くの日本人が安倍政権を支持してきたという]事実は、私にとって耐え難い苦痛であった」とあるように、記事の1ページ目全てを使って、白井氏は己の「知性と倫理の基準」を満たさない政治家が支持されている現状に対する深い失望感を述べている。
しかし、白井氏が評価に用いた「基準」が明らかにされることはない。これは学術論文ではないことは重々承知だが、仮にも学者を名乗りメディアに寄稿する者が、印象論を展開すべきだと私は考えない。
無論、あちこちで指摘されてきたように、どの領域においても安倍政権は長期安定政権にもかかわらずロクな成果を出せず、ほとんどの政策が失敗に終わった。
私の知る限りでは、安倍政権の政策には賛否両論あった。例えば、政権の代表的政策であるアベノミクスは、株価の上昇をもたらした一方で、日本経済の実力を示すとされる潜在成長率は低水準に留まっているし、デフレの脱却も達成されていない(「アベノミクスの8年とはいったい何だったのか」東洋経済オンライン)。外交についても、日米同盟を強化し安定的なものにしたという側面もある一方、拉致問題は進展を見せなかった("The Abe Era Ends, Cheering China, Concerning Washington", Foreign Policy)。これは評価の問題であるから、「ほとんどの政策が失敗に終わった」と結論づけるならば、その理由を示すべきではなかろうか。少なくとも、「あちこちで指摘」されているのなら、それらを引用すべきである。
こうして腐敗は底なしになった。森友学園事件、加計学園事件、桜を見る会の問題などはその典型であるが、安倍政権は己の腐りきった本質をさらけ出した。
白井氏は腐敗の例として、伊藤詩織氏に対する性的暴行事件、森友学園事件、加計学園事件、桜を見る会の問題を挙げている。これらに関しては、新しい政権の下で調査を行うことが必要だろう。流行語にもなった「忖度」であるが、私には構造的な問題に思えた。というのも、忖度があるのならば、それは官邸の強い人事権、また中央省庁を頂点とするピラミッド型の組織を背景とするはずだからである。官僚組織が官邸から独立しているのであれば、何も官邸の顔色を伺う必要はない、また強い分権型の組織であれば、中央省庁の忖度を汲む可能性も減る。つまり、忖度は組織構造がもたらすものであり、政権担当者に関係なく起こりうるものではないか。腐敗が疑われる事例があったことは間違いないが、それを政権固有の問題として片付けるのは、政治学者としてあまりに稚拙であると考える。
例えば、新元号の発表と改元の時の政権の振る舞いを思い出してみれば、それは明白だ。先の天皇(現上皇)の譲位の意思に対しては執拗な抵抗を試みたくせに、新元号の発表となれば、安倍は前面にしゃしゃり出て、「令和」に込めた自分の「思い」を滔々と語った。
私は年代的に平成の改元のときの事情を知らないが、これは比較することが必要ではないか。小渕元首相は「平成おじさん」と呼ばれていたと聞くが、それは白井氏のいう「抑制的」な振る舞いだったのだろうか。パフォーマンスとしての側面があったとするならば、今回は譲位という形をとり、準備に時間があったことも理由としてあるだろう。
十分に機能してきた制度(センター試験)をわざわざ潰して民間業者を導入する主たる動機は、安倍の忠実な従僕たちの利権漁りである。安倍自身の知性に対する憎悪がそれを後押しした。
「十分に機能してきた制度」、「安倍自身の知性に対する憎悪がそれを後押しした」という主張には根拠が必要であると考える。両者ともに白井氏の印象ではないか。特に、センター試験については、教育学等の知見があるのではないか。
3ページ目に入る。この引用では、安倍政権下で公正と正義をめぐる議論が失われたとあるが、果たしてそれはそもそも存在していたのだろうか?卑近な例を挙げるならば、雇用環境や性差別をめぐる問題は、安倍政権以前からあったと記憶している。
私たちの再出発は、公正と正義の理念の復活なくしてあり得ず、その復活のためには、総理自身の違法・脱法行為の究明が絶対的に必須である。
この箇所には同意しかねる。(4)でも述べたように、不正は為政者一個人の問題ではなく、構造的な側面を持つものだと私は考えるからだ。政府という巨大な組織を、その頂点にいる者が意のままに動かしていると考えるのは、あまりにも非現実的ではなかろうか。総理個人だけを追求するのは、非本質的な結論しか導かない。
引用文を含む前後の段落の意図が掴みかねる。政治家はスケールの大きな不正をする方が大物だと言いたいのだろうか。
政治には腐敗がつきものであり、安倍政権もその例外ではないはずであるから、政権の終わりを調査の終わりとしてはいけないという意見には納得できる。しかし、政治と腐敗を特定の政権と過度に結びつける白井氏の論調は、腐敗・不正を許しうる構造への追求を妨げるものだ。
また、この文章を「学者」として公開することの意義は何なのだろうか。少なくとも私は「学者」という職業に就く方には、その他大勢の「評論家」とは一線を画する議論を求めたい。
「評論家」ならば、印象論で語ることも、明確な根拠を示さず何らかの主張を行うことも大目に見られるであろう。しかし、専門家としての訓練を経たはずの「学者」は「評論家」とは異なる論理展開をすべきである。主張には適切な引用があるべきだし、用いる言葉の定義を明確にすべきである。
もしも、本来ならば専門家たるべき「学者」が、都合よく「評論家」の顔を使うのであれば、それこそ知性の劣化ではないか。
本記事には直接関係ないが、白井氏はFacebook上で人の生き死に関する発言を軽々しく行なったと聞く。白井氏には、そして日本の大学の全ての大学人の皆様には、是非とも学者としての矜持を持った発信をしていただきたい。印象に基づく議論は、分断と対立を深めるだけである。
ITが業界として成り立ち始めた当初から、IT業界全体にリベラル気質があふれていた。
それはApple IIのようなパソコン文化だったり、BSD・Linuxといったオープンソースだったり、あるいはM$帝国といったアイコン化などでもよく分かる。
IT関係者が当初のユーザーに多くいた"はてな"、特に"はてなブックマーク"にも、それは強く表れていた。
自由な環境を好み他人に寛容な典型的なリベラル気質の人が多く、東アジア諸国を見下すような愛国主義的なネトウヨもいないわけではなかったが見下されていたように思う。ただ、軽く見られて相手にされていなかったというところかも知れない。
いつの頃からかよく分からないのだが、"はてな"の特に"はてなブックマーク"の雰囲気が変わり始めた。
それはIT関連の記事がホットエントリーに上がらなくなってきた頃からか、政治や社会の記事がホットエントリーの常連になってきた。世間的には民主党政権の前か、最中か、後か、どうなのだろう。
それと共に、寛容さは失われ、攻撃性が増してきた。
「汚物は消毒だ~」というフレーズと共に半ばジョークとして半ば真剣に語られていた「モヒカン族」が、特にジョークであったはずの部分が現実化してきたようだ。元々「モヒカン族」は論理の棍棒で相手を打ちのめすという合理性と暴力性の合わさった存在として恐れられていたが、その合理性が独善化して自己完結化した結果、自分の正義に合致するか否かで暴力を振るう相手を特定し攻撃を正当化するように変容していった。これは、モヒカンの各氏が変わっていたのではなく、モヒカンを許容する"はてサ"社会が変わっていったと考えるのが正しい。
それは、表現規制やフェミニズム、その他様々な社会問題・政治問題でよく観察される。
一方、現実社会では、民主党の政権奪取と凋落などもありリベラルという看板が色褪せてきたためか、あるいは大陸中国の台頭もあって国際協調路線から民族主義的な危機感からか、世の中が左翼的な傾向から右翼的な傾向へ移行し始めている。それは、リベラリズム・グローバリズムが自分を救ってくれないという限界に対する失望感なのかもしれないし、対照的に自分を助けてくれそうな地域社会から見直しているからかもしれない。
"はてサ"が変わっていった一つの要因としては、そういった現実社会でのリベラリズムの退潮と無関係ではないだろう。
正義が揺らぐとき、その正義の正当性の是非が問われ、是であれ非であれ互いに正統性を主張することになる。それは寛容さを失わせ、自分の考え以外を異端と排除する方向へ向かうことになる。
正統性を求めるあまり狂気に走った事例というのは、古くは宗教戦争からフランス革命のジャコバン派の暴走、スターリン粛清・クメールルージュの虐殺など数えきれないほどある。昔から、人を狂気に駆り立てるのは、悪ではなく正義なのだから。
いずれにせよ、そのようにして"はてサ"の寛容さは失われた。
"はてサ"でも現実社会の左派でも結局残ったのは、他人に対して攻撃性を示す人たちばかり。政治の世界でも、報道でも、自らの正当性を主張して他人を非難・攻撃するのが左翼の姿になっている。かつてケネディが言った「あなたの国があなたのため に何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」という精神は、現状のリベラルの中には全く残っていない。
そのような有様で党派抗争に夢中になっている人々からは、何かを成し遂げようとする人は離れていく。
何かを成し遂げるためには、党派抗争は有害で邪魔なだけなのだから。けれども中にいる人には、その党派性こそが守るべき正義であり全てであるから、離れる人をも攻撃してくる。不正義に協力していると。そして更に教条的になり、異端排除、先鋭化していく。
もう、"はてな"ユーザーの中には、新しく何かを産み出すという気質は失われてしまったのだろう。
それは仕方のないことかもしれない。
はてなー、詳しくない問題だと途端にアホな反応喚き散らすんだな……
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202005260000646.html
黒川前検事長の定年延長がそもそも違法だったとか、法務省の内規では懲戒のはずなのに訓告なのはおかしいとか、検察庁法改正案はおかしかったとか、そういう批判はいいですよ。賛成します。でも「2006年に賭け麻雀は違法だと閣議決定していたのに黒川氏の刑事責任が問われないのはおかしい!」みたいな批判はおかしい。
だって、政府が言ってるのは「レートはテンピンで高額ではない」ってことでしょ? 「テンピンは合法」なんて言ってなくない?
テンピンの麻雀でも賭博罪にあたるのなんて常識で、誰もそこは否定してないよ?
たとえ1円でもカネを賭けたら賭博罪が成立するのは明らかで、そこに争いはない。法解釈を持ち出して「たとえ1円でも賭博は賭博だ!」って言われても、はいそうですねそんなのは議論の前提ですね誰でも知ってることですね、としか言えない。2006年の閣議決定もそういうことでしょ。一般論としては当たり前だけどテンピンでも賭博罪にあたりますよ。
問題は、「従来はそのくらいのレートなら見逃されて、刑事責任を問われてこなかった」ということなのだ。
「レートはテンピン」というのは、「それは合法」ということではなく、「そのへんのリーマンがこのレートで遊んでる分には見逃してきたんだから、今回も刑事責任を問わなくてよくない?」ということだ。
そもそも賭け麻雀、というか単純賭博は昔から「犯罪ではあるが、基本的に立件はされない」枠だった。そりゃそーだろ。仲間内で合意の上でカネを賭けているだけで、失われるのは合意の下で賭けた自分のカネだけ。形式上はたしかに犯罪だが、誰の権利が損なわれているわけでもないんだからわざわざ摘発する必要性は薄い。レートもテンピンならせいぜい大負けして数万、このぐらいなら大人の遊びの範疇だろう。
賭博で警察沙汰になっているのは、単純賭博でめちゃくちゃレートが高かったり、闇カジノに通っていたり、胴元が決まっていて一時の遊びを越えたシステムになっていたりする場合だ。特にスポーツ選手が賭け事で捕まったとかいうのはたいてい最後のやつ。こういうのは単純賭博罪ではなく賭博開帳図利罪という別の罪になり、胴元としてヤーさんが絡んでくることも多いので仲間内で遊んでるだけの単純賭博罪よりも処罰が重くなる傾向がある。闇カジノに行く場合も同様。ああいうのって反社の皆さんのシノギですから。
だから「賭博で捕まったあのスポーツ選手は重い罪を食らってるのに、黒川検事長が無罪放免なんて!」みたいな主張はたいてい眉唾。そのスポーツ選手と前検事長とではそもそも適用されている罪が違う可能性が高い。違う罪なら科される刑罰も違って当たり前。大相撲の野球賭博だって、刑事罰とかの厳しい処分を食らったのは基本的に胴元やってた連中で、仲間内で数千円程度の賭け事やってた連中は厳重注意とかの軽い処分で済んでる。
もちろん刑法には常習賭博罪というのもあるわけだけど、黒川検事長程度の行状(つまり、顔見知りのお友達で定期的に卓を囲んでいた程度)が常習賭博罪として立件されるようになったら、いきなりお縄をかけられることになるそのへんの一般人がたくさんいると思う。年齢や社会的地位を無視すれば、友達の家で持ち寄ったものを飲み食いしながら賭け麻雀してるってだけで、こんなん麻雀好きの友達同士なら大学生やサラリーマンだってやってることでしょ。
政権に近い大物検事が同人作家やってたことが発覚して、「著作権法違反で処罰しろ!」って言われてるみたいな感じ、って言えば恐ろしさが伝わるかな?
「エロゲー割ってファイル共有ソフトで共有してた○○選手は有罪判決食らったのに!」って言ってるやつがいたら罪のレベルが違うって思うじゃん?
頼むからそこを政争の具にしないでくれよというか、安倍政権憎しでそのへんの麻雀好きがまとめて捕まりかねない主張をするのやめてくれとしか言えない。特に違法性を国会で言い募る立憲民主党とか、黒川氏を刑事告発した弁護士さんたちとか、あなたたちは善良な小市民の人権や自由のために活動してきたんじゃなかったんですか、っていう失望感がすごい。
いやほんと、これまでの慣例なら黒川氏くらいの賭け麻雀ならマジで刑事罰の対象になんてならないからね。知人や友人同士が、おうちで、テンピンで行う賭け麻雀なんて警察や検察からは黙認されてきたというか、処罰されることなんて基本的になかった。メンツにヤーさんが混じってたとかなら話は別だけど、新聞記者とかお堅い職業の人たちばっかりだったみたいだし。
検察人事ではあれだけ従来の慣例を尊重しようと主張してたんだから、賭博罪の立件のハードルについても慣例を尊重していただけませんかね。
もちろん、形式的には違法なので処罰がされるべきだ、という主張には一理ある。悪法もまた法なりってやつだね。当然こういうこと言う人はアラン・チューリングが逮捕されたのも仕方ないって思ってるんだよね? 当時のイギリスでは同性愛は犯罪だもんね。エルサルバドルでは中絶は犯罪で、中絶の罪に問われた女性は刑務所に入れられるんだけど、これも法律で決まってることだから当然だって主張するんだよね? 本気でそう思ってるなら一貫性があって尊敬に値するけど、そうは思わないっていうならなんでこの件では慣例を無視してまで法律の墨守を主張するんだよとは言いたくなる。
最後にちょろっと書いとくけど、俺はノーレート派。賭け麻雀ってちっとも楽しくない。だって手作りよりも失ったカネのことが気になっちゃってちっとも麻雀を楽しめないんだもの。賭け麻雀自体は好きな人が遊ぶ分には自由だし単純賭博罪を撤廃しろよと思うけど、それはそれとして「麻雀をするなら賭けて当然」みたいな風潮は滅びてほしい。
ここでいう終末思想は「安全な場所から人が死んでいくのをエンタメとして楽しむ」くらいの意味だ。
その他諸々、何処か遠くの国名も聞いた事のないような地で起こる、テロや紛争や事件。
それらを僕たちは常にエンタメとして楽しんできた。コーヒーを飲みながらワールドトレードセンターが崩れ落ちるのを見たり、東北の町が濁流にのまれて消えていくのをベッドに寝転がりながら眺めたりしていた。
この世界では、老いも若きも悪人も善人も関係なく無慈悲に命を奪われてしまうのを学んで、ほんの少しの畏怖を世界に対して覚え、自らの安全と幸運を確認してきた。
これまでは。
そう2020年、ついに終末が僕らの街にもやって来たのだ。新型コロナウイルスの名とともに。
シャッターの並ぶ繁華街、乗客のいないバスが道を行きかい、誰一人いない広場をデジタルサイネージが青く染める。
たまにすれ違う人は皆マスクを付けていて、顔色は窺い知れない。その眼は一様に虚だ。
だが、どこか変だ、と君も思ったはずだ。これは違う、と。僕もそう感じている。もう気付いてしまった、いや最初から分かっていたのかも。これは僕たちが待ち望んだ終末ではない。
武漢が閉鎖された一月末から、イタリアの死者数が一万人を超えた三月末までは確かに僕もワクワクしていた。アジアの片隅で生まれたこの新型コロナウイルスが鉄壁に思われたヨーロッパを陥落し、医療保険の脆弱な合衆国で猛威を振るい、灰色の平和が未来永劫続くかのようなこの国にも混沌をもたらしてくれるのではと、そう真面目に考えていた。
もちろん僕にも君にも生活と仕事があり、巻き込まれれば僕自身無事では済まない。しかしそれ以上に、日常が破壊される快楽に身を委ねる喜びへの期待が大きかった。台風を待ちわびる子供のように、後先も考えずただ非日常へと連れ去ってくれる大きな力を望んだ。
でも終わってしまった。すべて解ってしまった。タネの明かされた手品のように、読み終えた探偵小説のように、ただ歴史だけがそこに残った。
こんなのは終末ではない。パラダイムシフトですらない。すべてが元に戻るだろう。やがて国境は開かれ、人々は移動を再開するだろう。しばらくはマスク着用が常識となって、誰もがソーシャルディスタンスとやらに勤しむだろう。変化に対応できない企業は消えていく。平時も同じことだ。
世界大恐慌以上の不況がやってくる?今のところ株価はそう言ってないようだ。無人店舗やデジタル化が推進される?僕たちはすでにそっちの船に乗ってるんだ。何を今更言ってるのか。
紅白見た? 本人歌唱はないけど3曲が米津作曲作詞っていう待遇。何年か前も浅倉大介の曲が2曲流れたけど今回はめっちゃピックアップされた米津。
私は米津のファンで、次のツアーも行く予定。でもさ、嵐への楽曲提供であるカイト、いくらなんでもあれはなくね????
嵐の歌唱前にあった本人のステートメントがもう嫌なんだよね。「周りに生かされている。生きていくことを許されている」とかいうの。千葉雅也がTwitterで「生かされているんじゃないくて生きていくんだよ」って言ってたけど、本当それに尽きると思うんだよね。
歌詞も全体的に「糸=他者とのつながり」を強調したものだし……。
私が好きな曲のひとつにTEENAGE RIOTがあるけど、そこに「誰より独りでいるなら誰より誰かに届く歌を」ってのがあるんだよね。これ、本人がなんかの番組で言ってたけど「SNSとか、周りとなじもうとしなきゃみたいな同調圧力への抵抗」みたいなことを含んでいるらしくて、それがとても響いたんよ。でもさ、カイトはなんか「生かされている」って共同体的な考え方が前に前に出てきてしまっていてさ……。もちろん、そういうのが好きな人にはいいのかもしんないよ。私が個人主義だからってのもでかいと思う。そこは個人の嗜好だけどね。TEENAGE RIOTとカイトの米津、どっちが本物なのかってことでもないだろうし、きっとどっちも本当なんだろうし。
米津は変な音たくさん使って電子音楽しい系って面もあると思うんだ。でもなんかカイトはそういうのないんだよね。勿論、嵐の曲だからってのは確実にあるんだろうけど、オーケストラっぽい音がこれまた「お手軽壮大感」を出している気がしてならない……。馬と鹿でその片鱗をちょっと感じちゃったのもあって、余計にね。
カイト歌唱後に、内村が「これが来年、オリンピックでたくさん流れるわけだよね」とにこやかに言ってたのもまたひっかかって、この「他者との繋がり」を強調する音楽がオリンピックとかいうナショナリズムを、創造の共同体を強く結びつけるイベントに乗せられることを思うと暗い気持ちになる……。
結局は、米津玄師が劣化したってことじゃなくて、「ウケるものをわかった」こなれ感を感じてしまったという失望感なんだよな。勿論、本人がどんなものを好むかなんてわかんないしさ、私が勝手に幻想を抱いていただけなのもわかってるよ。でもなんかさ、中高生の時にハチが直撃した身としては米津は「変な文体でファンタジー書く人」みたいな印象が強くて。謎の空想世界を見せてくるようなのもすごく好きだった(パンダヒーローもそうだし、KARMA CITYとか爱丽丝が大好きなのよ)。けどなんか、そういう独自性を感じられなかったんだよね。なんか、薄まったものを、悪い意味でのJ-POPを聴いた気分になった。
これからも応援するしCD買う(高音質マスターがあるならさっさとハイレゾで出してくれ)けど、カイトみたいな方針がずっと続かないように私は勝手に願っておく……。まあ、楽曲提供だけのスタンスもあるだろうし、嵐だからということも絶対にあると思うので、今までの米津とリニアに結びつけるのは乱暴だともわかってる。あと、これが好きな人はごめんな。
【追記】
人気エントリに挙げられ、ブコメもたくさんいただいた。駄文を読んでくれて感謝。
指摘が多かったけど「初期が良かった!!!!」って言ってる自称古参のワガママという面があるのは本当にその通りだと思う。米津自身が「スタンダードにならなければならない」って発言をどっかでしてたのも知ってる。
あと、「これはあくまで嵐の曲なのだから」という指摘も同意してる。米津自身が歌うのと意味が違うだろう、というのもその通りだと思う。
この追記で書きたいことは、「ファンは声を上げるべき」ということだ。私は信者ではなくてファンだし(ファナティックがどうとかは無視)、批判はすべきだと思ってる。ファンなので米津は神のような存在で、その意向は最大限尊重すべきだと思う自分がいる一方で、「作者は死んだ」のだから提示されたものに対して真摯に考えようという自分もいるんだ。
まあ、この文章は全体として「米津の今までの曲が好きになって期待しすぎたけど肩透かしを食らった人の喚き」というものだと受け取っていただければ……。懐古厨にならないよう自戒しつつ、米津先生の次回作に(理性的に)期待します。
このブログ書いている方は何がしたいのでしょう?
単に「おっさんずラブin the sky」の宣伝がしたいのですか?
「おっさんずラブ」シーズン1のファンが「同性愛者に苦しんで欲しがっている」というのは、
「同性愛者への偏見が無くなった」という方も大勢いらっしゃいます。
私も「おっさんずラブ」を見た後、同性婚成立を願って選挙に行きました。
youtubeのLGBTQの方のチャンネルを見たり、商店街に大きく掲げられるゲイのカップルの写真を見て、
それだけ見る者の意識を変え、社会現象を巻き起こした作品、そしてファンに対して
「同性愛者に苦しんでほしいと思ってる。」は完全なる言いがかりです。
そう言った同性愛者から異性愛者に対する偏見の目ではないでしょうか?
このブログを読んで、心の底から失望感、裏切られた気持ちになりました。
ブログ主の本当の目的は、「おっさんずラブin the sky」の素晴らしさを訴えることでしょう。
それならば、わざわざ前作をサゲる必要ないんじゃないでしょうか?
前作の一部のファンの行動が気に入らないのであれば、それだけに言及すべきです。
同性愛者と異性愛者の話にまで、話を広げるべきではありません。
そして前作について言及するのであれば、せめて作品を全て見てから書くのが礼儀だと思います。
また「おっさんずラブin the sky」の世界は「同性愛差別がない世界」ではないと思います。
単に「LGBTQが多い世界」です。
現実でこのような世界が来ることはないと思います。ファンタジーです。
もちろんファンタジーとしてこのような世界を楽しむのは大いに結構だと思います。
ただもし仮に、「おっさんずラブin the sky」のような「LGBTQが多い世界」になった場合、
逆に肩身の狭い思いをするのは異性愛者ではないでしょうか?
「同性愛者だけが差別されない世界」になればブログ主は満足なのでしょうか?