はてなキーワード: 半導体とは
iPhoneのなにが便利って、Google検索が出来ることだし、検索で引っ掛かったページをフルサイズで閲覧できることだし。
GoogleMapが見れることだし、Gmailが使えることだし。
イノベーティブかって言われたら、インターフェースは確かにそうだけど、携帯電話の基本特許はモトローラとノキア、スマホの基本特許はリサーチインモーションが抑えてるわけだし。
サムスンだって半導体関係の特許はけっこうな数持ってるわけで。
それでも総合的な完成度じゃ頭一つiPhoneが勝ってるのは認める。
オープンとクローズドのどちらの戦略が勝つかなんて、だれもわからん。
かつてアップルが瀕死だった頃は、OSをばら撒いてるオープンなウインドウズ陣営に対して、アップルはクローズドだからダメだと批評家は言ってたけど、iMacとiPodで盛り返したら「アップルの垂直統合最強!」と手のひらを返した。
まあ、ソフトでもハードでも、日本メーカーはスマホは質も値段も敵わない。
「レーザー核融合反応の実験に成功、クリーンエネルギー実現か=米国」という表題の記事がひどい。という話。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0720&f=it_0720_001.shtml
大元の記事だと思われるアメリカのローレンスリバモア国立研究所のプレスリリースが下記。題は「National Ignition Facility makes history with record 500 terawatt shot」
https://www.llnl.gov/news/newsreleases/2012/Jul/NR-12-07-01.html
この元記事の題名を見るだけでも大まかにわかるとおり、LLNLの発表した内容は核融合反応に関するものではなく、レーザーに関わるもの。おおざっぱに言うと「安全保障(要は水爆関連)や基礎研究、核融合発電などの研究に用いる大強度レーザー装置の増強、整備によってついに500TWのピークパワーを持ったレーザー発振に成功した」という内容。ちなみに「地下核実験を不要にする唯一の施設」なんて書かれてたりして、実は核融合エネルギーについては大して書かれていない。
そんなわけでサーチナの記事とその元になったチャイナネットの記事はなぜかこれを「核融合に成功して500TWを出力」という記事に書き換えていているという意味で間違っている。が、間違いはそれだけではない。レーザー核融合は「レーザーを燃料球に当てて爆縮し、核融合反応を起こす」ものであるにもかかわらず「「衝撃点火」方式による人類史上もっとも威力のあるレーザー光線の放射」と表現していて、あたかも核融合反応によってレーザーが放出されたかのように書かれているので因果が真逆になっている。ちなみに「衝撃点火」という言葉は元のプレスリリースには含まれておらず、チャイナネットの記者が勝手に付け加えたもの。衝撃点火は阪大のレーザー研が概念として提案している核融合反応の点火手法の一つで、未だ実験は行われていないしLLNLは中心点火なのでこれまたおかしい。
あとついでにNIFの話
LLNLのNIFは核融合研究のための世界最大のレーザー発振施設な訳だけど、実際は水爆のシミュレーション施設としての機能が強い(というか予算は安全保障メイン)。NIFの実験は間接照射の中心点火といって、「金の円筒内部にレーザーを照射、発生したX線で燃料球を加熱、爆縮して核融合を起こすシステム」だが、これは水爆の「原爆の起爆によって発生したX線などによって燃料球を爆縮、起爆する」に近いプロセスで、こういう実験によって水爆関連の研究を行っていることがNIFを「地下核実験を不要とする施設」だと評価する理由であり、NIFが高速点火(阪大などがより核融合発電向きであるとして提唱する点火手法)を採用しない要因になっていると考えられている。(高速点火には主加熱源よりも短パルスな加熱が必要だが、核弾頭にそんなものは組み込めない)
一方で日本の阪大や光産業創成大学なんかがやっている高速点火は「発電炉」に特化した研究が行われている。たとえば「大出力・高繰り返しの半導体レーザードライバーの開発」「発電炉に必要な1秒に10回程度の核融合反応」「1秒に10個使われる燃料球をリアルタイムに生産するシステムの開発」などである。
阪大も光産業創成大もレーザー出力はNIFに数段、もしくは数桁劣るものの、「核融合発電」研究の最先端は日本であると言って過言ではない。
ちなみに、もう一つの核融合発電コンセプトであるところの磁場閉じ込め核融合は現在フランスに国際協力下でITERと呼ばれる実験炉(発電可能レベルのプラズマの数分の保持やより長時間の保持、商用発電炉で用いるコンポーネントの実証が目的)を建設中であり、未だ実験炉の設計すら始まっていないレーザー核融合に比べると数歩は先を行っているのが現状である。
オウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年に大学生へ向けて書いた手紙(忠告)をまとめました。
Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET
上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして
が挙げられていましたね。同様に
若者の宗教的志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。
と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教を比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしまう人間側の“信仰生成過程の不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまいます。
では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者の宗教的志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?
この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。
ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和~平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年(1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉がTVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災のTVニュースの方が記憶に残っています。しかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体と出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネットで検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分がカルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教や人間の信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています。
この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年に執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学の学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウムが無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教のナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教的経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近、オセロの中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳やマインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルトの存在、洗脳や信仰に対する認知を深めてもらいたいです。
そしてできるなら、FacebookやTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルトの存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)
最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています。
学生の皆様へ
「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。
この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。
オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方から「カルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。
私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います。
カルトに係わる契機
前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトのメンバーとしては、私はオウム真理教の信徒の経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります。
カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱、悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。
しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当な仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。
ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウムの世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実的であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族や学校、会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。
このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。
私自身は、高校三年生のとき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。
このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。
スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています。
一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。
トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観の崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています。
何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。
この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。
「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供を自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆に幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。
自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。
以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います。特に「自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。
その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教の実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学の付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。
哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。
こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。
結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想的なのは、半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。
このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教的経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。
次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。
思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない
人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動は自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”
また、心理学者のウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教や哲学に向かうことを指摘しています(ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫)
「生きる意味」に対する問いが純粋に知的なものならば、それは当人に健全な精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家に相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。
それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。
ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います。
「高精度の設備と材料さえあればどこでも出来るパーツだそうだ。だからこれから労働力の安い中国やインド等の途上国でも作るだろう。」
というような意見をよく見かけるけど、それは一理あるけど、
じゃあ日本ではその代わりに何をするべき(何をして儲けるべき)なのかということを考えた場合に、
まともな答えは多分返ってこない。
設備投資には金がかかるので、設備があればどこでもできることを日本でやるってのは、
DRAMや液晶を「日本でダメなのは当然」とか思っているならそいつは世の中がわかっていないんじゃないかと思う。
たとえば半導体で、DRAMや液晶よりも人でがかかるSoCに関しては、
もう中国が相当食い込んできている。
SoCはDRAMと比べると少量多品種生産なので、設計や検証に人が大量に必要で、
つまり技術者の数が多くて人件費の安い中国が圧倒的に有利だからだ。
でもDRAMを「設備だけあれば作れるから日本ではやめろ」っていう人たちは、
個人的な予想です。間に受けないでください。
・自営業(個人商店、飲食など)、フリーランス(Webページ作成、小説家など)
個人の力量がはっきり出る自営業、フリーランスのほとんどが、生活困難なレベルにまで落ちるでしょう。
しかし一部のカリスマ性を持った人間には仕事が集中するため、その人達は収入が今の2倍以上になるでしょう。
・出版
大きい体力のある出版社と、ニッチ特化の会社以外はなくなるでしょう。
インターネットに逃げるか、紙に固執するか、どちらにしても厳しい戦いになりそうです。
残念ながら、この分野において日本のアドバンテージは無くなってしまいました。
・新聞
おそらく最も今後10年で、つらい立場に置かれるであろう業界です。大新聞の一社は潰れるかもしれません。
・テレビ
なくなるとは言いませんが、今までの殿様商売は期待できません。
はっきり言って、今のテレビには魅力がありません。
・印刷
紙への印刷以外の収入源を持たない会社は、潰れるか、大手に吸収されるでしょう。
大手の一社は大幅な方針転換を行うかもしれません。
地方から人がどんどん減っていくため、大容量輸送手段としての鉄道の価値は無くなります。
既存路線がバスに置き換わっていくでしょう。北海道、四国、中国、山陰地方の各鉄道会社は今以上の覚悟が必要になります。
・軽電(家電、弱電)
半導体を作ったり、パーツを組み合わせて家電を作ったりする仕事は今までは割のいい仕事でしたが、これからはそうはなりません。
技術、労働力のアドバンテージが日本に消滅してしまった今、アイディアと特許でしばらくは持つかもしれませんが、今後どうなるかは不透明です。
真に業界のことを考えるのであれば、大規模な吸収合併が必要でしょう。日本にメーカーは多すぎます。
家具や家電、パソコンを店頭で売る必要はどこにあるのでしょうか。
郊外に置かれた巨大な量販店はほとんどが店じまいするでしょう。
・パチンコ
いくら何でも作りすぎた感があります。客は今後携帯ゲームに流れるでしょう。
・風力、太陽光
効率の悪いこれらを押す動きは今は持て囃されていますが、そろそろ限界に近づいています。
・教育
進研○ミの漫画は楽しいですが、この業界は少子化の影響が止まらない限り未来は全くありません。
塾や習い事と言った子供相手の業界人はもっと真剣に少子化対策を訴える必要があります。
・地方電力、ガス
この分野は人口がそのまま収益に直結するため、地方における人口減は組織維持の死活問題になります。
騙し騙し使ってきたインフラ設備が限界に近づいた時、国に支援を行う体力は残っていないかもしれません。
楽な仕事で給料をもらえる市役所窓口職員や国立大学職員になるのは今までは魅力的でした。今後は逆になります。
日本が公務員全体を食わせることができなくなりつつあります。人が入ってこない以上、仕事量は今の倍になるでしょう。
自衛隊、消防、警察、教員には若干の補填が行わるでしょうが、それ以外の待遇は悪化するでしょう。
日本全体の価値が沈んでいく以上、不動産や金融商品も一緒に値下がりします。
買う人も、売る人も少なくなれば、業界全体が縮小するのも納得です。
・重電、強電
日本全体が沈んでいく以上、インフラ設備は今以上に延命されるでしょう。新規発注は少なくなると思って間違いありません。
希望があるのは軽電と違い、まだこの分野においては若干日本が先行しているということです。沈みきってしまう前に海外を目指すべきです。
・IT
個人的にはITに未来は無いと思っています。6割以下に入れても良かったと思っています。
物を運ぶ必要がない、データでやり取りできるというのは、仕事の流動性が非常に大きいということです。
今は日本語の壁に守られていますが、企業の、英語の出来る人材は増え続けています。
ゼネコン式の労働集約型産業で在り続ける限り、仕事は日本から流出していくことでしょう。
パチンコ、家庭用ゲーム、ゲームセンターの人間がなだれ込んできます。
インターフェースの修正が進めば、囲碁やメダルゲームをやっているような高齢者も流入してくるでしょう。
行き場を失った人間が配給され続けるので、成長して行くことでしょう。低賃金、過密労働が大きな社会問題になります。
>バカと老人…
家電量販店が無くなるとは言っていません。ただ、郊外型の巨大店舗は無くなるであろうと言っているだけです。
街中の駅前は残るでしょう。
バカはそういった店で買います。街に行くわけです。
地方に残った老人は、今後家電なんか買いに行くことはなくなるでしょう。彼らはおそらく電話で全てをすませます。
>多分、誰もがうっすら気づいていると思うが、人口減少することによる市場の縮小は避けられない。
日本全体が沈下していくことは明白なので、これから成長するには他者から奪うか、海外に逃げるか、単価を挙げるかしかないわけです。
>目先の仕事で手一杯
貧すれば鈍す。物質的、時間的なゆとりが無くなった日本でドラえもんは無理ですね。
>そこらへんが書かれていないので、なんとなく人間何もすることなしに弱っていく未来しか描けてない
10年、20年の短期間では社会も人間も変わらないというのが私の意見です。
50年後ならイノベーションが起こっているかもしれませんが、そんなもの予測不可能ですし。
追加で成長産業を挙げるとすれば
大穴としては
でしょうか。まぁまず無いでしょうが。
>それはどうだろう。山手線沿線のようなアクセスメリットのある駅前店舗だけが残り、他は郊外型が駅前店を駆逐する、というのが妥当だと思うが。
私はろくすっぽに東京など行ったことがない田舎者なので、山手線のアクセスや東京の「郊外」がどの程度なのかわかりません。
ただ、地方(北海道)に住んでいる私の郊外型店舗のイメージというのは、なにもない真っ直ぐな道にどでかい店がくっついているイメージ(ロードサイド店舗)です。
市街地にあるような巨大店舗はまだ10年は付近の店や商店街の客を吸収しながら生存するでしょう。
>どちらにせよこの動きが加速するには、免許証の年齢制限の上限導入は必須。これがないなら老人は99歳でも車に乗る。
あくまで主観ですが、市街地の高齢者は自家用車よりもバスを利用している方のほうが多い気がします。市街地から離れたところにいる高齢者は…やっぱり車に乗るのでしょうかね。
>老人は、意外と「自分の目で見たものだけ信じる」人が根強いよ。この10年でジャパネットに取って変わるほど流れは強くない。
電話で済ますというのは、通販ではなくて、電器店に電話をして店員に何がいいかを決めさせて、持ってこさせるということです。
確かに目で見て判断するという人は一定数いると思いますが、テレビ、冷蔵庫、電話に限らず、あらゆる電化製品はもはや機能が付加されすぎて何がいいのか一目ではわかりません。
若いうちであればインターネットや口コミ情報を調べ上げて、自分の環境にあった最適なものを選ぶことができるかもしれませんが、年を取れば何よりもまずめんどくささが先に立ちます。
そんな訳で、実際に見て自分で判断するよりも、店員に任せたり、息子や娘にほしいものを頼んだりする方が、彼らにとって楽なのではないかと思うのです。
半導体関連の技術者としてまったく同見解。表面的な原因は開発スピードの遅さにあって、その根本原因は研究に特化した人材を育てない愚かな企業体質にあると思う。
日本の企業の人材育成というのはマルチ指向で、要するに何でも出来る・いろんな事が出来る人材が良い、という風潮がそこらじゅうに見受けられる。これを研究所にまで適用して、やれ5Sだの環境教育だの、会社の経営状態がどうだのこうだの説明してみたり、使いもしない英語の授業だの、社員間の交流活性化だのといった、R&Dと何の関係もない何の意味もないくだらない事に、全工数の3~4割は割かれている。
人材登用のやり方もそういった方針に従っている。潰しの利く、何でも出来そうな学科を出てきた学卒や、せいぜいマスターあたりのみ拾う。機械工学や化学工学あたりの、おおよそ機械は何でも使えていろんなデータが取れて、どこに配属してもそれなりに使えそうな人材に重きを置く。そういう奴等はメカニズムというコトバに弱い。演繹的な発想が出来ない。帰納的な開発しか出来なくて、出てきた結果に適当な理由をくっつけて、こうでした、という報告しか出来ない。データは溜まれど、知恵は貯まらない。
ウチの会社(財閥系でそれなりのところだ)のR&Dには、工学系でマスターのくせに「結晶転移」だとか「エネルギーギャップ」だとか言われて、ナンですか?それ?って奴がゴロゴロしている。高校生レベルの行列の演算も出来なくて、シュレーディンガー式を解ける奴なんていったら確実に1%を切るだろう。
連中は装置は一応使えるよ、熱分析も出来るしSEMもTEMも使えるし、XRDもFT-IRもESCAもNMRも使えるよ、マニュアル通りに。もちろん仕組みは知らないけど。
こういう事がいかにバカかと思ったのは、サムスンに訪問した事が切欠だった。あそこの技術者は末端でも、適当な学会に行って自分の専門分野外で一説ぶってこれるくらいの頭は持っているんじゃないか。とにかく凄いの一言に尽きる。日本の技術者は負けて当然だと思う。科学に対するセンスも桁違いだし、学ぶ事が好きで熱心な連中だと思える。サムスンはマルチな人材は欲していないようで、適材適所。日本の企業とは違う。
まぁ、一番は給料だろうか。日本ってなんで、研究開発部署の奴が、工場労働者と同じ額なの?下手したら「入社以来の年数」の分だけ少ないんだけど。
おそらく微細化プロセスの話なんだろうが、もちろん俺は説明できないよ。そんな話もしてないし、俺の関心はそこにはない。
今の日本で問題なのは、属人的な「技術力」を持った人材の多寡ではないからな。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120301/300967/?ST=business&P=3
経済産業省幹部はエルピーダの経営破綻について、次のように話す。
「半導体メモリーは、投資の規模とスピードで勝負が決まる。サムソンの投資規模は大きく、スピードも速い。それに比べ、日本は両面で遅れをとった。しかもメモリーには、新しい商品開発の可能性がない。新しい商品で勝負するということもできない」
要は、元増田と同じことを言ってるわけだ。
「半導体は産業の米だ!日本の産業の要だ!」と口では言いながら、実際には半端な額しか投資できない。このままじゃ事態が打開できないのは分かっているはずなのに、まだ「○○nmオーダーでは優位性がある…!」とか「マスコミのせいで合併が流れた」等の戯言を社長が言っちゃったりする。それで何とかなるんだったら、ここまで追い詰められちゃいないだろうに。そして、撤退の決断もできない。
高精度の部品加工ができる人材や加工機械がいくらあっても、それをまともに生かす戦略がない。活用できない技術なんて、無いのと同じなんだよ。「俺には秘められた能力があるからまだ大丈夫」とか言って何もしないニートと変わらん。
横からですが
多角的に見ても『日本の技術力が高い』と言えるような分野って少ないだろ。
すくなくとも半導体は違う。
ドリルは日本が世界一なんだっけ?そういう分野も有ることはあるはずだが・・・それは 日本が世界一なんじゃなくて、たまたま日本に本社を置く企業が世界一なダケだからなぁ。
日本全体で層が厚いというわけではない。
台湾に抜かれたって何年も前に聞いたし、倒産までは余命みたいなもんだったんじゃねーの?
「欧米では韓国製品が日本製品を追い抜いている!脅威だ!」って言われ続けていて、
例えばこれ。
韓国製ディスプレイで溢れる欧州 流行りの電子看板に日本の姿なし
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20080917/170797/?rt=nocnt
日経ビジネスオンラインの記事だから読めない人もいるかもしんないけど、
また記事中
「まず、観光地の目抜き通りを歩いていると、現地の売り子から「ニーハオ」と声をかけられることが増えた。というより、残念ながら「コンニチハ」と言われたことは一度もなかった」
とあるけど、島田荘司の小説「アトポス」だったかな、女優がハリウッドに行ったら
「チャイニーズ? オア コリアン?」と聞かれることは何度もあるのに
「チャイニーズ? オア ジャパニーズ?」と聞かれることは一度もない、
と書いていたけど、「アトポス」という書籍が正しかったら書籍の初出は1993年11月。
何年も前から
「海外に出たら日本は知られていない、知名度は圧倒的に中国韓国が上」
という言説があって、んで現実はどうよ?
俺は半導体作りの会社に勤めてないから友人の話を嘘だとは言えないけど(知らないから)、
友人は友人で誤解してる部分が大きいんじゃねーの?
韓国脅威説はもう飽きられてんだよ。
たとえ現実に韓国が日本を追い抜いていたとしても、飽きたって意味で
もーどーでもいー。勝手にしてくれ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/2229
http://jbpress.ismedia.jp/category/semicon
を読むとよく分かる。
http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/1112/27/news054.html
NTTドコモが12月27日、富士通、富士通セミコンダクター、日本電気、パナソニック モバイルコミュニケーションズ、Samsung Electronicsと共同で通信機器向けの半導体を開発・販売する合弁会社を設立する契約を締結した。
新会社の設立は2012年3月下旬の予定で、各社の出資比率などは未定。これに先立ち、ドコモが2012年1月中旬に準備会社「通信20+ 件プラットフォーム企画」を設立する。出資金は4.5億円で、ドコモが全額出資する。代表取締役社長はドコモ20+ 件の取締役常務執行役員 研究開発センター所長の小森光修氏が就任する予定だ。
ドコモ、富士通、NEC、パナソニック・モバイルコミュニケーションズの4社は、2009年にLTE通信プラットフォーム「LTE-PF」を開発しているが、今回の枠組みはここにSamsung Electronicsが加わった形となっている。
合弁会社では、各社の通信技術、ソフトウェア技術、半導体製造能力や設計の経験、ノウハウなどを集約して省電力かつ小型の半導体を目指す。高性能化が進むスマートフォン向けプロセッサの開発が中心になるとみられる。高速通信規格LTE(ドコモ20+ 件の「Xi」など)をサポートするのはもちろん、LTE-Advancedへの対応も検討する。
参考: 一昨年の、ルネサスがノキアの通信技術を買ったときの記事。
http://k-tai.impress.co.jp/docs/interview/20100727_383525.html
せっかくルネサスがクアルコムと戦うためにノキアから通信技術を買っても、元・親会社が三星に技術提供って。反韓流どうのこうの言っている人は、きちんとこれをたたいて下さい。文化なんかよりも、もっと金を奪われる提携です。
年末のモデルで、日本のメーカーはスマートフォンが上手に作れないことが明らかになりました。遅かれ早かれケータイからは撤退することになるでしょう。結局、こんな半導体を作ったところで、日本のメーカーは使うことができず、サムスンを利することにしかなりません。
ドコモのユーザーも声を上げるべき。月々払っているお金が、自分が使いもしない端末・技術に投入されるというのはおかしくないですか? ドコモは土管商売に留まりたくなくって、技術で引っ張っていきたい、のだろうなと思います。『iモード』もう一度、という。
けれど、スマートフォンが半導体を含めて世界共通のデザインになり、かつ、その恩恵で値段も下がる、という路線が見えているのに、消費者として独自技術(通称ガラパゴス)を応援する理由はないはずです。「日本のケータイ屋さんは大変だなあー、でも僕・私はiPhoneがあればいいや(画面をなでなで)」な人が大多数なので。
個人的には韓国の会社よりも台湾の会社のほうがビジネス戦略的にいいような気がします。例えばこの提携が、サムスンではなくて半導体専業のMediaTekだったら、慧眼を褒め称えたのですけれども。
比較生産費説は自由貿易を通して富が増加する=豊かになることを説明した理論です。
ここでまず踏まえておかなければならないのは豊かになるとは誰が、何に対してかということです。物財の市場における総供給量が増え、需要者、つまり消費者が豊かになるということです。
ここのところでの異論はあまりありません。説が唱えられてから既に200年の「実験」の蓄積があるのですから、上記の点については事実として扱ってよいでしょう。
比較生産費説が最近、ホットトピックになっているのは、TTPの問題があるからですが、アメリカでもTTP反対論は根強くあるようです。
抗議に参加した人々はTTP協定が仕事と環境に与える潜在的な影響に対して注意喚起したかったと言っています。
「私たちは雇用を求めるためにここにいます」とロレーヌ・アシュビー(66)(シカゴの南東側からの引退した公務労働者)は答えています。
「小さなビジネスを行って、本当の雇用を作り出す人々がここにとどまることが難しくなってきているのです。TTPは雇用を作り出す人々を後ろからナイフで刺すようなものです」
「あまりにも多くの過去の貿易協定は普通の人々を犠牲にし、ウォールストリートと大企業の役立ちました」と彼は言いました。
「私たちは、この地域から海外へ送られた何十万もの高給与の仕事を見ました。また、私たちが必要とするものは、シカゴで、および世界中で労働者の生活水準を実際に改善する貿易協定です」
日本のTTP反対派の人たちもこの言い分には深くうなずくでしょう。日本でもアメリカでも互いを敵視しながら同じような言い分を言い合っているわけです。
こうした言い分に対し、経済学の人たち、というよりもサミュエルソンっぽい新古典派総合っぽい人たちが、誤謬だ誤謬だもっと勉強しろよって膝寄せて鼻を突きつけているわけです。もっとも、その人たちも完全に歯切れがいいわけではなくて、「それは別の話」とか「一時的な痛み」とか、言及している「部分」もあるわけです。
それが果たして別の話なのか、一時的な話なのかというのが、本当は問われるべき問題であろうと思います。
80年代のレガノミックスは、一般に言われているのとは違って、大規模な財政支出と減税による「需要刺激による」景気刺激策でした。レーガンは言っていることはともかくやっていることは無茶苦茶ケインジアンでした。アメリカはそれ以後、蕩尽的消費社会に突入してゆくわけですが、基本的に好景気=インフレです。しかし実際にはインフレ率はそうでもなかった。需要の増大を上回る供給がもたらされたからです。つまり輸入拡大です。この構造はレーガン政権以後、現在まで基本的には続くのですが、では、81年から比較して、「一般アメリカ市民の所得」は増えたのかどうかという話です。全消費者の消費可能量が増えたかどうかという話ではないですよ。リカードさんのおっしゃるとおり、全消費者の消費可能量は増えた、つまり市場は豊かになったに決まっています。しかしそれが、「一般アメリカ人の所得」の増大につながったかどうかという話です。
レーガンから現在までの話ですからね、すでに30年間の記録があるわけです。
決して「一時的な話」ではありません。
結果は言うまでもありませんね。「パパはなんでも知っている」の頃は、パパがフルタイムで働けば子供を大学に行かせられました。今では、ママも働いて、それどころかダブルワーキングをしても、かつかつの生活をしている人が大半になっています。そういう人たちに向かって、理論は正しい、おまえたちが間違っていると言っているのがサミュエルソンのシッポの人たちであるわけです。
比較生産費説の理論的完璧さにもかかわらず、どうしてこのような現象が生じてしまうのでしょうか。
答えは簡単で、産業ごとの特性が異なるからです。比較生産費説は産業ごとの特性をならして、「単位」扱いするところから始まります。産業ごとの特性の問題には最初から対処しきれないというか、扱っている領域そのものが違うのです。
例えばA国とB国がそれぞれ半導体とカカオ豆に特化したとしましょうか。しかしこの両商品はそもそも需要量が違います。必要度合いも違います。産業をスタートさせる難しさの度合いも違います。他産業を発展させ、雇用を創出する能力も違います。もっと言えば収益性も違うわけです。
不安定、低収益、低需要、低波及力の産業に特化した国、つまりモノカルチャーの国が国際経済の荒波にゆられて「豊かになる」どころの話ではなかった原因の根本はここにあります。
労働集約的-資本集約的、高収益-低収益で相に分ければ4つの相が分かれることになります。
「国民の雇用を確保し、そこそこ安定的な経済環境を構築する」のを目的にした場合、もっとも効果的なのが労働集約的-高収益の産業です。ありていにいえば製造業、第二次産業です。
国民経済にとってはコアとなるこの産業が奪われたからこそ、「全体としては経済成長をしながら、格差の増大をもたらし、一般国民の貧窮化を招いた」のがアメリカの姿であるわけです。
これに対して次のように説明するサミュエルソンのシッポがいます。
「給与の高い仕事に転職するということは、比較優位の産業に労働力が移転しているということである。比較生産費説は労働者の経済行動の中にあらかじめビルトインされている」
だから、雇用の喪失は起きない、起きたとしても一時的な調整期間中ものだ、というわけですね。
あなた、30年間を調整機関と呼ぶ神経って、なんていったらいいんでしょうね。
東大に行っているあなた、卒業したらゴールドマンサックスに入りたいなんて思ってるでしょ。給料いいですもんね。給料がいいってのは、生産性が高いということです。もうひとつ、労働需要に対して供給が追いついていないということです。あなたと同じレベルの人を400万円で雇用できるならそうしますよ、ロックフェラーでも。そうしないのは、需要に対して供給が追いついていないからです。
農民が工場労働者になり、事務員になり、というところまではまあそこそこアメリカの労働者でも対応できたかもしれません。もちろんその過程でも脱落していった人はたくさんいるわけですが。
比較生産費説が言っているのはこういうことです。製造業が新興国に特化しても、先進国はさらに生産性が高い産業・職に移動してゆけばよい。みんながジョブスになれば1000万のアップルが誕生して、たくさんのiPhone を手にできるよ!ということです。
それが100年、200年のスパンならばあるいはそういうことも可能かもしれません。しかし現代においては変化はあまりにも急激でありすぎます。
TTPを巡る議論で私が非常に気にかかるのは、TTP賛成派があまりにも気軽に「経済学」を看板にしたがるところです。そしてそれは、「おまえは経済学を知らない」と相手を貶めるために用いられているように見えます。現実の事象について具体的な論拠を求められれば、「経済学は深淵でおまえには分からない」とばかりに現実の問題には何も答えないまま、モデルの話でけむにまきます。
経済学はそういうものではありません。少なくとも、そういうものだけが経済学ではありません。ガルブレイスが生きていたら、なんというでしょうか。
そうした言論的脅しに屈せずに、みなさんは分からないものは分からないと言ってください。納得できないものは納得できないと言ってください。説明できないのは説明できない人の責任であってあなたが頭が悪いからではありません。
なんか、誰の役に立つのか分からんけど、私が高校生の頃にこういう説明があったら良かったなぁ……とふと思ったので書いてみた。
さて、大学の理学部物理学科に入学するとしよう。基本的に物理学科は、専門が進んでいくと、
この2系統x2分野で、4カテゴリだけに全てが収められる。意外に思われるかもしれないが、私も当時(学部3年頃)びっくりした。本当にこの4つしかない。
まず理論系と実験系だが、その名の通り。理論系に進むと実験はやらずに、ひたすら理論だけ。本当に紙と鉛筆だけで物理モデルと数式を弄るだけのツワモノもまだいるけど、最近は、第一原理計算などのコンピュータシミュレーションも多い。
一方実験系に進むと、元旦に液体窒素を汲んで延々と真空ポンプのお守りをしたり、「吸い込むと死ぬ」「空気に触れると爆発する」とかナチュラルに危険すぎるガスをぶぉんぶぉん基板に吹き付けたり、TEM(透過型電子顕微鏡)の試料作成と軸合わせに12時間かけたあとに休憩も取らず深夜3時から測定開始したりする。要するに不死身である。しかも給料ももらわずに学費を払ってこれをやるのだから真性マゾである。……話がそれた。
大学院進学の際、実験系には希望すれば誰でも進めるが、理論系へは相当の能力(とりあえずはテストの成績と言って良い)が無いと進むことはできない。まぁ学部3年くらいになれば、物理ができるヤツと物理ができないヤツの本質的な差が自他ともに見えてくるので、みんな自分がどっちに進むべきかはおのずから悟って判断する。そのため、「理論系に進みたかったけど成績が足りずに不本意ながら実験系に行った」って人は、実はほとんどいない((が、一部の実験系の人はやはり理論系の人にコンプレックスを持っており、理論の人を揶揄する実験系の人も時々いる。そういう人は学生時代はあまりそれは出ず、准教授や教授クラスになってそうなる人が多い))。私の周りでも、理論系に行った人たちはやはり「天才」と呼べるだけの圧倒的物理センスを持っている人ばかりだった。
なお、実験系から理論系へ、または理論系から実験系へ移る人も、滅多にいないがいる。そういう人はものすごい変人か、ものすごい優秀かである。もちろん、変人かつ優秀の場合も多い。
先ほど言ったように、物理学科ではこの2つの分野しかない。意外だろうけどそうなのである。
物性物理学は、モノの性質を「なぜだろう」と問う学問である(と思う)。例えば物性理論の第一原理計算では、「なぜ銅は銅としての性質を持つのか」を、原子番号の29という数字だけ入れて作り上げようとする。一方、物性実験系だった私は、毎日毎日ひたすら真空ポンプのお守りをしながら、ナノ微細構造の作成とその電気特性を測定していた((今日は作成温度500度、明日は550度、明後日は600度……お、550度が一番いいな。みたいな))。その他、金属や半導体、光デバイス、磁性や超伝導、電磁気的性質、まぁそのへん全部物性系である。応用例も広く、就職も比較的マッチングしやすいので、物性実験系が物理学科のもっともスタンダードな専門となる。
一方、素粒子は毛色が違う。「素粒子」と「原子核」で分ける人もいるけど、面倒なので一緒にする。有名なところでは加速器をやってる人たち。高エネルギーと呼んでいる大学もある。要するにモノの性質を問うのではなく、モノを作っている原子の中身とその構造を追っていく学問だ。クォーク、ニュートリノ、グルーオンなどSF好みな題材が多い。素粒子は物性と違い、その経験を活かして就職しようとしても口が少ないため、アカポス狙いになってなかなか難しい。ただ、学部卒や修士卒で就職するつもりで専門に拘らないなら、分野なんて全然関係ないので気にしなくていい。素粒子から普通にリクルートや電通、化学系企業なんかに行った人はいっぱいいる。しかし博士課程に行くと……ポスドク地獄まっしぐらが待っている、気をつけよう。
みんな大好き宇宙論は、宇宙地球科学科が無い大学だと物理学科の素粒子に繰り込まれてしまう。高エネルギーとか場の理論とかになると、どうしてもそちらなので。
なお、物理学科に入る人で「宇宙論やりたい」って人はたくさんいるけど、講義が進んで悪魔のテンソル計算が山のように出てくると、多くの人が挫折してむしろ宇宙論が嫌いになってしまう。足の上げ下げ、共変・反変、今思い出しても夢に見そうだ。
20年以上前、卒論の研究で、自分が設計した半導体デバイスの特性を計算するために、
境界条件がいろいろややこしいポワソン方程式(=微分方程式の一種)をガシガシと解いて、
ベーシックでFOR - NEXT 構文使って数値計算してグラフ描いたなぁ。
ドットプリンタの出力が汚かったから、ロットリングペンと雲形定規で清書までして。
今はエクセルあるけど、そういう微分方程式を自分で解かないと、セルに入力する式が得られない。
何が言いたいかというと、暗記だけの数学しかやって来なかったら、
解けるかどうか分からない微分方程式を、「解こう」とチャレンジしなかっただろうなあ、ということ。
若いのにせっかくの学ぶ機会を潰してもったいないなあ、とオッサンは思う。
こういっている連中は、本気で子供たちに未来があると考えているのだろうか?
「子供たちに負担を」といってる時点で現実の問題から逃げています。
言い換えると、「子供たち」というキーワードを用いて、「放射能が怖い」とかを主張するだけで
現実に起きている問題は、かねてからの円高に加えて、電力不足。
節電すればいいと考えるのは個人レベルであって、企業レベルになると売上に直結するため、そうはいきません。
海外に行けばもっと安く作れるのに、わざわざ日本に留まる理由はないでしょう。
日本の電力は世界で一番安定供給が出来ていることで有名でしたが、今回の地震と度重なる原発停止で崩れてしまいました。
ピーク電力を避けて生産すればいいという発想はあまりに身勝手です。
例えば、半導体生産などは、常時安定した電力でないと品質にダイレクトに響きます。
停電している間にクリーンルームにゴミが入ってきたりとか、生産を止めている間に下がった熱を加熱しなければならないとか、
運転停止中に真空度が下がるとか。
で、大抵の人は大抵こう言います:
・工夫で乗り切る
無駄がないかとか考えることは、たしかに大事なことですが、ここで語るべきことではありません。
「子供たちに残す未来」とは、「みんなが苦しいから自分も苦しくていい」という未来だったんですか?
「苦しさはみんなで分かち合えばいい」というのは、復興するときだけで十分です。
本来は、「楽しさをみんなで分かち合う」です。それ以外はただの我慢大会でしかありません。
いずれにせよ、こういった精神論で物事が解決すると考えるほど世の中甘くありません。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」を実際にやったら火傷をします。
気合で、飛んでくるミサイルを防ぐことはできません。(かつての日本軍)