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はてなキーワード: 仏壇とは

2020-03-10

anond:20200310063219

最近仏壇おかしくなってる

仏花はかざるためじゃないから、むしろ枯れるものでなきゃ駄目

ってことすらしられてない

花屋辞めてよかった

花屋薄給だったけど性に合ってて楽しかった

花は見てて癒やされるし

育てるのは面白い

適度に体も使うから健康にもいい

客層もいい

でもやっぱ花は食べる事もできないし

すぐ枯れる

生きていくのに必須ではない

造花の質も良くなったし

近頃流行るのはプリザーブドフラワーとかハーバリウムとかドライフラワーとか

日持ちのするものばっか

母の日は相変わらずカーネーションだけど

それでも今の時代は花以外の選択肢豊富だし

最近仏壇や墓でさえ造花になってきてる

元々花って斜陽産業

いっとき自分の店を持てたらなんて思ったけど

右肩下がりの業界しか生モノ

そんな覚悟はなかった

こういう時に真っ先にダメージくるんだな

これから景気悪くなってきたら

世間無駄を省く事に慣れてしまったら

花なんて買わないよな

2020-03-03

anond:20200303081721

今回は仏壇でも何でもお前が添うと思う場所

花を飾ってくれ バラの花

それでいいとしようじゃないか

2020-02-27

anond:20200227135321

かつて仏壇が身近にあった時代には、それが咀嚼中の口の中を見せられるのと同じくらいグロテスクに感じられていたんじゃないかな。直接的に死を連想させるわけだし。

だとしても今となっては関係ないし、もはや不必要マナーだと思うけどね。

本当に無駄マナー

食事中に口を開けない」とかはまだ分かる たぶんマナーとして普及してなくても咀嚼中の口内を見せられて嫌な気分になる人は一定数いる

でも「ご飯に箸を立ててはならない」っていうのは本当に意味わからん無駄だと思う 

俺も日本社会で育ってるからさすがにやらないし、やってる人を見たらちょっと品がないように感じるかもしれないけど、じゃあなぜダメなのかって言われたらちょっと困る

仏壇に供える米にやることだから」って説明が多いけど、同じだから何なんだ?何も起きないし、だいたいいまどき仏壇に炊いた米供えてるやつなんているのかよ 

立て箸のマナー合理的理由一切なしに箸の置き場所制限しているという点でかなり悪いほうだと思う 害だけあって利がない

数十年したら消えるんじゃなかろうか 

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-01-29

anond:20200129225328

姓大好き!!合体しろ!!

増田 佐藤 益男 と

お墓大好き!!自分管理じゃなきゃお仏壇も大好き!!!(お盆とかの手配大変だよね〜)

2020-01-25

anond:20200125112216

神社でお祈り普通だけど、仏壇でお祈りしたらおかしい人扱いされてるじゃん。私は仏教徒ですって公言できる環境実質的には日本にはないよ

神仏習合された宗教名前つけてくんねーかな

外人が「日本仏教神道どっちが多い?」とか言ってる時あるけどどっちかだけしか信じていません!!!って人はほぼ存在しないやろ、仏壇もあれば初詣にも行く

2020-01-24

黒髪をやめた理由

先日、実家を改築されるので帰省し、部屋の片付けを手伝った。

その時、自分が1番モテていた高校1年生の時の写真が出てきた。

今ではすっかり30後半の初期型オッサンだが、当時は少女漫画に出てくるようなショタタイプキャラのような感じだった。

これが昔の自分だったなんてとても信じられないなと、写真を眺めながら溜息を吐きながら次の写真を見ると黒髪ヤンキー特有金髪になっていた。

なぜ黒髪をやめたのか。その写真を見た瞬間に封印された忌まわしい記憶が蘇った。

当時実家の近くにみーさん(仮名)と呼ばれる独身のおばさんがいて、共働きで忙しった両親はそのみーさんを完全に信用していて僕の面倒を頼んでいた。

僕もみーさんも信用していた。

お察しの通り、高校1年生の僕はみーさんに襲われたのだ。

といっても無理矢理ディープキスされただけで済んだ。

みーさんは、

「〇〇君が誘ってくるのがわるい!そんなにかわいいのが悪い!」

漫画のような台詞を叫んでいて本当に気持ち悪かった。

中でも「その黒髪が非常に最高」と叫んでいたのが本当に怖かった。

薄暗い部屋の中叫ぶみーさんの後ろには仏間があって、きっとご両親であろう仏壇があった。

僕は殺されると思って靴も履かずに外へ出たが車に跳ねられた。

当然警察沙汰になり、僕が退院する頃にはみーさんは消えていた。

僕は退院後髪の毛を染めて少し荒れて、少しして元に戻り大学へ進学しサラリーマンになった。

かなり久しぶりに鮮明に思い出してみたが、今考えるとみーさん結構美人だったからあのまま初体験を済ませても良かったのではと冗談交じりに考えるまで回復したが、それでも嫌な記憶ではある。

黒髪というのは、大人の身勝手妄想投影させてしまものなのかもしれない。

なんてね。

2020-01-15

anond:20200115065611

叔父借金漬けで自己破産したよ。自己破産後に祖母が死んで祖母が住んでた新築の家をもらったが勝手に売却。

親の仏壇すら放置してトンズラして今は普通に音信不通で生きてるか死んでるかわからん

2020-01-10

引越しの手伝いを頼んだシルバー人材センターのおじいちゃん仏壇の下敷きになって倒れた時って真鍮でいいの?

2020-01-08

葬儀会社の◯レマがクソだったので、詳しく伝える

2020-01-08 22:10 追記しました。

事の経緯

先日、父が亡くなった。がんだった。

父がなくなってから

父の呼吸が止まったのが14時半。来てくれた担当医さんが死亡確認したのが15時半ごろ。家族皆が泣いていた。自分も唇を噛み締めながら我慢して、それでも涙が溢れてくる。

訪問看護をしてくれていた看護師さんがとてもいい人で、自分たちも手伝いながら、髭をそったり着替えさせてくれたりして、父の準備をしてくれた。

家族で湯灌してあげて、最後見送りすることがとても良い時間になるよ。と、いろいろ教えてくれた。

これまでの看病で疲れているし、親族や知人の対応は母することになるの明らかだったので、葬儀会社とやりとりするだけでもと、喪主をかってでた。

葬儀会社を選ぶ

闘病中、なくなる数日前に、◯レマの営業さんが来て、契約とれないと来週クビになると言われ、母が契約したとのこと。

父は元教員だったので、教え子含めてある程度の人数が来ることが予想されたので、駅チカの広い葬儀場が使えるのが良いかと決めたそう。

15年ほど前に祖母がなくなった時には、地元葬儀会社で、自宅葬だった。

在宅療養していた父がなくなり皆が動転している中、母は最後まで地元葬儀会社にするか迷っていた。

とりあえず契約してるんだからという理由で、◯レマに電話を掛けた。

最初対応

担当営業契約担当者と葬儀場で連携が取れておらず、あちらに掛けて、こちらにかけて、折返し待ちして、とたらい回しされた。

加えて、最初電話をかけた時点でこの時間で決めますがよろしいですか?と念押しされた。

こちらのことを知ってる営業からなんのコンタクトもないのか?と疑問におもいつつも、下手に時間を掛けても仕方がないので、最短の日にちで申し込みをした。普通なら、死亡後3日後が告別となるのが最短になるのだが、3日後が友引だったため、4日後となった。結果的には、日付が伸びたことで運良く救われることとなった。


葬儀プランナー来たる。


葬儀プランナー担当者が来たのは18時ごろだった。

準備しますねと。ドライアイスと祭壇のセットをしてくれる。

それが終わると、葬儀プランや料金についての説明が始まった。

私達は営業さんから貰った資料確認しながら、プランの詳細を選んでいくが、一つひとつ決めるたびに、営業が話してた葬儀プランと言ってることが違うやんと言うことがどんどん出てくる。

契約時には、一般的葬儀費用のように見えるこの内容で、事前予約75万のプラン契約していた。

この契約があれば、全部まかなえます。と営業さんは言っていた。追加のオプションは断れば良いとも。

https://cerema.co.jp/funeral/plan.php

 

契約葬儀プランに会場費(+5万)が入ってない。

契約葬儀プランでは、入り口近くの小さい部屋しか使えず、+10万ださないと、50名規模のホールには対応できません。

プランで出来ると書かれていた花祭壇は、+10万ださないと、できません。

病院から自宅までの寝台車費用は入ってるが、自宅から葬儀場への寝台車費用は入っていない。

 →自宅で亡くなったため、おかしくないか?と問い詰めたら、じゃあプラン内の費用対応します。と

・周りに飾る花代が最小16万~。無いと困りますと言われる。親戚から送られる分が合っても、親族一同の分が必須ですと。

・祭壇に飾るフルーツ必須です。(+1万)

白装束(+4万)に着替えるのが普通です。

棺桶に掛ける布は燃やすために毎回新しいもの必要です。(+4万)

・湯灌できるけど、郊外施設まで連れて行く必要があり、家族参加は不可。(+7万)

・骨壷も今のママだと貧相なので、アップしたほうがよいですよ。あと分骨するなら、追加費用+1万)。

告別式粗供養品は返品不可です。

初七日もするなら、食事が一人5000円~


などなど、諸々で、事前の見積もりが180万ほどとなった。通夜の来場も50人と、少なく見込んだ上でだ。

契約書の文面を確認し、クーリングオフできますよね?と問いかけると、厳しい表情。

家族は皆疑念不安が募るばかり。

葬儀トータル費用相場からは離れてない。でも、言ってることこれだけ変わるというのはオカシイちゃんと湯灌してもらえるのか?葬儀が滞りなくすすのか?

ただ、もう期日の予約はした、場所も親しい友人には伝えてしまった。今更変えるのも・・・・。悲しみに浸る間もなく、不安なまま夜を過ごす。


翌日



枕経をあげに住職さんが来る。母は自分世代だと、珍しいと言いつつ、なんだかんだ年3回の法要を欠かせず行っている。

なので馴染みのある住職さんだ。

住職さんに、これまでの経緯を相談すると、◯レマの色々黒い噂を教えてくれる。噂についてはあとで詳しく述べる。

住職さんが、馴染みなので連絡してみますね。と地元葬儀会社をあたってくれるが、友引明けなので、空きがないそう。

帰宅後にも別の葬儀会社を探してくれて、隣の市ならホールの空きがあるよと教えてくれた。

母の不安っぷりと、担当者が不審すぎて信用できない。これはキャンセルするしかない。

キャンセルする

キャンセルもとい、クーリングオフすることを示すように電話証拠として、電話の内容は録音する。

「次の予約が入っているのですが、そちらにお譲りして良いのですか?」何度も念を押される。

こういう引き止め工作が本当に手慣れている。

簡易祭壇の設置費用と、ドライアイス代で3万ほどかかったが、サンクコストとして考えれば安いもの

新しい葬儀会社さんがくる。


営業担当の方が来て、説明してくれる。仏壇屋さんだったが、仏壇買いに来る人が葬儀文句ばかり言われるので、なんとかせねばと作った会社だそう。

・全部入って100万~のプラン

花代は3万~。独自ルートで花を仕入れているのでその値段で胡蝶蘭も入っている。

・謎オプションゼロ。分骨、フルーツ、棺の布、白装束。全部追加費用不要

・会葬返礼品の価格が、2万円ダウン。

・湯灌は自宅で行うので、家族見送りの準備してください。

初七日するなら、会場費5万かかります。自宅ですることもできますよ。と教えてくれる。

葬儀後に花が余ったら自宅に戻してセッティングしますね。

見積もりは160万ほど。ただし、親族花代と、通夜の時の親族食事費用(2万)も含まれている。

費用は下がって、質が確実にアップした。

どこが違ったのか。



来てくれた営業担当さんが、最後まで付き添ってくれた。

最初プラン説明から、会場までの送迎、当日のオペレーションナレーション葬儀後の祭壇設置まで。服装から振る舞いまで、すべてがプロ仕事だと感服する内容でした。

プラン説明時のアドバイスが的確で、常識よりこちらの都合を優先させて柔軟な対応してもらえたのが、ありがたかった。1時間以上かけて車で来る親戚が多かったので、通夜ぶるまいを通夜の前に変更。通夜中にお腹減ることや、通夜に来てくれた人の対応を後回しにせずに済んだ。また来てくれた親戚も早く帰せた。初七日供養後に、食べるのが普通だけど、粗供養品として、食事券を渡して帰ってもらうことにした。

他にも細かい相違点が色々。

・守り刀が、100円カミソリ→刺繍袋に入った短刀に。

・火立てがたて芯タイプからキャンドル型に。

・◯レマの線香が化学薬品臭がして、妻が煙たがっていたのが、変えた瞬間に問題なくなる。

・湯灌は家族でやれてよかった。父の体を拭いたりするのは、嫌な人は嫌かもしれないけど、お風呂入って背中流す感覚で、キレイにしてあげれたのは、最後親孝行でしょう。

・花壇の品質ガッツリ上がった。◯レマの価格を見てたので、安いと思い、親戚からの花もだいぶ増えてしまった。棺に入れれなかった分は、すべて自宅に飾ってあり、1ヶ月近く経つがまだ元気だ。

・姉が嘱託で働いている先の互助組合提携葬儀会社だったため、-10万の割引。こちからは何も言っていないにも関わらず、弔電を見て対応してくれた。

葬儀会社変更して、本当に良かったと思っている。変更の連絡しなおしたり大変な部分もあったけど、満足度が段違い。

結婚式と同じぐらいの金額払うのに、なんで文句言いながら、我慢しながら、サービス受けなあかんのかと。激しく問い詰めたい。


◯レマがクソな点

勘違いさせる前提の資料を元に営業して、キャンセルできない。

マルチ商法かと思うぐらいに、不安で人を動かそうとする。◯◯するのが普通。◯◯はできません。

無駄オプションつけてくる。ってか普通断れへんやろうぐらいの勢いで、オプションつけてくる。

説明しない。

振り返り


こうして◯レマをキャンセルして、地元葬儀会社に変更できたのは、幸運が重なったからだった。

契約して間もない状況で事前支払いが0円。クーリングオフで押し切れる状況だった。

営業を受けた本人の葬儀ではなかった。

友引明けで、日程に1日分の余裕があった。

・付き合いのある信頼できる住職がいて、他の葬儀会社が見つかったこと。

看護師さんからアドバイスがあり違和感を覚えたこと。

これだけの条件が揃っていてようやくキャンセルできた。

今回は父の葬儀分を母が契約したが、普通はこんな契約はしない。なぜなら、営業担当自分葬儀を事前に支払う契約を勧めてくる。ここの情報格差を奴らは狙っている。

過去の噂を聞くかぎり、支払い済みの状況でキャンセルしようとすれば、事前支払い済み分は返金できませんと、そう脅されるだろう。

ちゃんとした式をあげるには+100万かかる状況で、葬儀までの時間はなく、決断は伸ばせない。

親族が亡くなって、気が動転している状況で、あとで事例調べるなり、情報収取するなり、冷静な判断がくだせるだろうか?

すでに親が70万支払いずみの状況で、プランの内容を聞いた後に、キャンセルする覚悟あるかと?

人を嵌めるような商売していること自体が腹立たしい。

近所にも契約している人いたが、母はすぐ解約するように勧めた。

住職から聞いた噂


上にも書いたが、事前契約をメインに営業しているため、後々キャンセルされるケースも多い。

その場合に、解約手数料が掛かる形ではなく、1割も返金しないらしく、訴訟沙汰となっている。

https://www.sankei.com/affairs/news/150122/afr1501220037-n1.html

契約書にも、契約後、180日以後の解約は不可と書かれていた。

・どこかのお寺の檀家ではなかった場合、◯レマから仕事を依頼されることがあるという。

その場合お布施の6割がピンはねされるとのこと。

あなたに出来ること



伝えれる範囲は限られるが、あまりタブー視せずに両親と話すこと。

自分葬儀代は自分でためておきたい。」「子供負担を掛けたくない。」

そういう想いに、奴らは付け込んでくる。

なので、早めに話をして、事前に知っておけば、怖くない。

ほぼ悪徳商法なので、早く潰れることを願って、匿名ダイアリーに記します。


[追記]



ブコメもらえて、拡散したので嬉しいです。(普段ブログでこんなにバズったこと無いので)

もちろん親族や各位には今回のことは包み隠す伝えたのですが、さすがに友達に言いふらすわけにも行かず。。。匿名ダイアリーに書きました。

親族でも、少し大きい規模で、280万という人もいて、葬儀場での話題になりました。

いくつかブコメに返答します。

安くなってない

ちゃんとしたものお金を掛けれた。という印象です。ロウソクや線香一つとっても、ケチるだけケチ姿勢が見えてしまい、なんの信用もできませんでした。5000円のランチ頼んだら、業務スーパーパウチスパゲティが出てきた感じです。

あのまま乗っかった場合に、普及不要請求をされそうだったのが一番の不安でした。

かに160万は安くないと思います。(実際は来場者増えてもう少しかかりました。)満足度は5,000円出して、ちゃんホテルバイキング食べれたぐらいの気分です。


ほんとか嘘が分からんけど、


消されるの怖いので、反社記述だけ消しておきます。にしてもこんなこと匿名ダイアリーじゃなきゃかけない。

フルーツ1万円です!←オプションだし断れよ。


向こうは百戦錬磨でフル武装営業モード。こっちは虚弱状態からスタートして意思だけで戦わなければいけない状況。

正直オプションを断ることだけに、体力と意思力を必要します。途中から、やり取り自体不毛だったので、さっさとやり過ごしてキャンセルできないか相談するモードに入ってました。

当日に葬儀会社まで決めてしまうのも良くなかった。という考えもあるので、決めるのはなくなった翌日でも良かったんじゃないかなと、後から思い返します。ドライアイス代が+1日で、+10,000円ほどかかりますが、4日後でも、最初から問題ないです。葬儀場が相手ないなら、1日ずらすとかでも良いくらい。


先に住職さん

おっしゃるとおりです。次からそうします。

看護師さん最強

ほんとうに何から何まで、助けてもらいました。

看取ってくださったのが、緩和ケアを専門にやっている町医者さんだったので、看護師さんも経験豊富でした。(決して、年配の方ではないのですが)

冷たい対応されると、余計に辛いだろうなと思い返してありがたい限りです。

営業病人をさがして来る。

可能性としてはありえます上記の通り、緩和ケアは車で訪問診療してますので、尾行すれば。なんの証拠もありませんが。

古めの住宅団地なので、営業さんがかなり訪問してまわっているそうです。

焼けば何でも良い。

そのとおりですね。自分も、亡くなった父もそういう考え方です。

ただ、亡くなった人のためではなく、亡くなった人の家族・友人・知人・親族に向けてやるという感じでしょうか。息子としては、親がどんな生き方をしてきたのか知る数少ない機会だったので、ちゃんとやってよかったです。

2020-01-05

初詣行った?

初詣行った?って言うやつに神社宗教じゃない人はなんていうべきだろうね?

「人多いから嫌だ」って言っとけばオーケー

それとも家の仏壇で済ませた。とか?

2020-01-01

宗教正月

周りの人たちや世間の人たちは、旅行へ行くとか帰省するとか友達と会うとか遊びにくとか寝正月だとか、いろいろ楽しいらしい。

自分も同じように扱われがちで、この正月はどう過ごしたのかと問われるわけだが、自分はどうも答えにくい。

というのも、宗教行事に追われるからだ。三が日もそれ以降も説法なり懇談なりあって行かなければならない。

自分から信仰を望んでいるかどうかは別だ。そうするしか生きられない世界境遇)もあるということだ(自分が進行を望んでいないとは言っていない))

信仰があるとか言いにくい。世間一般に知られた立派なもの自分の通っているものが立派でないとは言っていない)ならいざ知らず、名称を挙げたところで疑問符しかかばないだろうし。

どんなところか?仏教ではない、神道っぽい、新興宗教といえばそうなんだが…

宗教というと、地下鉄テロを起こしたクソ団体や、勧誘にいそしみ金を巻き上げる詐欺集団が出てきて、世間からイメージは悪い。

そんな中とても言い出せない。

とにかく、自分は忙しいんだよ…

遊んでるお前らとは違うんだ…(自分も遊びたいんだよ!!!!)

ところで、宗教気持ち悪がる人たち、君たちは初詣に行かないのか?葬式に出たとき焼香はしないのか?仏壇に手を合わせないのか?墓に線香をあげないのか?法事で坊さんに拝んでもらわないのか?受験でお参りに行くのは一体何なんだ?

宗教気持ち悪がるなら、それらを全部検証してからにしてくれ。

2019-12-23

anond:20191223223656

悟りを開き、彫刻刀がブームに。仏師顔負けの「推し彫刻

仏壇に飾るもよし、ねこの遊び相手にするもよし、

床の間、玄関リビング……。民芸風の木の香りロハスエコ

憎い友人が死んだことを半年遅れで知った。

ただの、フィクションの⻑駄文です。

⻑い⻑い文になってしまった。



1ヶ月ほど前、私の男友達からメッセージが来た。

Facebookの、アイツの投稿なんだけど」

と文に続いて画像が送られてくる。

Facebook投稿の、スクリーンショットだ。

だいぶ彼も慌てていたのだろう。

ブラウザのタブに、xvideoの名が残っているのに気づかずに私に送ってきたのが微笑ましい。

Facebook投稿は、もう1年近く会っていない私の友人、しおり(仮名)のものだった。

彼女の母を名乗る者から投稿は、淡々とした文で訃報を綴る。

しおり半年前、突然の病気で急死したこと

心の整理がつかず連絡が遅れてしまたこと。

そして、墓参りなどは心遣いのみで良いこと。

かに淡々と、けれど詮索を拒否する文面がそこにあった。

LINEに「Facebook見てなかったから気づかなかった」と返信をした。

とはいえ彼女のフォ ローをやめていた私はFacebookを見たとしても気づけなかっただろう。

返信をしてからすぐに、彼から電話がかかってきた。

彼の重い声色と対比するように、私の声はうわずって震えていた。

その震えが、まるで泣きそうな声であるかのように演じながら私は密かに、笑みを浮かべてい た。

本当は大笑いしたかったのだ。

憎い憎い、彼女の死が、心の底からしかったのだ。

私と亡くなった彼女と、そして連絡をとった彼が出会ったのは、数年前のことだった。

当時私たちは二十歳を過ぎたばかりの頃合いで、バイト仲間として付き合ううちに3人でつる むことが多くなっていた。

そういう、他愛もないよくある関係の三人だった。

そして若かったから、それが恋愛感情を伴う三角関係に移ろうのも自然な流れだった。

彼に片思いをする私たちと、その間でのらりくらりと気付いてるのか気付いてないのか分から ないようなふりで友人関係を保とうとする彼。

そういう微妙バランスで成り立つ私たちは、バイト先の閉店と共に徐々に疎遠になった。

そしてそこから二年越しで私たちはまた出会う。バイト先の同窓会だ。

私は彼女完璧無視されながら、「三人で話していた」。

まるで三人で喋っているかのような雰囲気で、私は彼女へ話を振っているのに、自然な流れで 私は彼女から完璧無視されていた。

理系大学に入り直すの、と彼女が言った時だけ私のことを見てニヤッと笑ったのを覚えてい る。

大学中退した私への、当て付けであるのは確かだった。(それにダメージを受けるかはとも かくとして)

ただの恋敵からマウンティングまで始めた彼女を見て、私は小さく、死ねばいいのにと呟い た。

その願いは数年後に叶うとも知らずに。

その同窓会から私と彼はまたつるむようになり、彼から彼女の近況を時折聞くような日々が続いた。

大学へ入るまでにメンタル的に崩してしまい、入学後もそれを引きずったままであること。

食事も取れず、かなり痩せてしまたこと。

そういう、彼女が不幸な話を聞くたびに、心の中で喝采をあげたいような朗らかな気持ちと、 悲劇シンデレラを演じて興味を引こうとする彼女のやり口の汚さに辟易する気持ちの二つが 入り混じる。

実際彼は、彼女のことを心配していたし。

私はこのまま拒食症になり骨だけの姿になってしまえと思っていた。 もちろんこれも今は叶っている。

彼女の肉は燃え、今は墓の下で骨だけになり壺に押し込められている。

そうして、今回の訃報に至る。

彼は、ここまで来てもずっと私たち三人は良い友達関係であると信じ、私だけに電話をして、 私だけに彼女の死への思いを吐露してきたのだ。

勝った、と思った。

私の心は汚いな、と諫める自分もいたがそれ以上に、祝祭の最中のように心躍る自分の方が強 かった。

わたしは、人の死を、よろこぶひとになってしまった。

後日、私たちは二人だけで、彼女の家へ向かった。 彼が遺族と連絡をとり、仏壇に線香をあげさせてもらうことになったのだ。

多分私は、あの日の、駅から彼女の家までの会話と景色を一生忘れない。 その日は雲が多いけれど晴れていた。 雲の中で光が複雑に揺らめいていて、それはまるで世界の全てが、私の仄暗い歓びを肯定する かのように綺麗だった。

から離れた彼女の家まで歩く最中、彼は謝りながら、隠し事を打ち明けてきた。

バイト先が閉店した頃、三人で会うことがほぼ無かったあの時期、実は三ヶ月だけ、あいつと付き合ってたんだよね、と。

彼女が生きてたら、私はその場で自殺したくなるほどの衝撃を受けていただろう。

けれど、今の私には、むしろファンファーレのような爽やかさを伴う言葉に聞こえた。

穏やかな顔で私は嘘をついた。

「知ってたよ?あの子、たまに私に相談してくれてたから」

割とあの子悩んでたよー?なんて、軽口を装い私は更に話を聞き出そうとする。

何だ知ってたのか、とホッとする彼は気を緩めて色々と話してくれた。

どうしても彼女恋愛対象として見れず、ぎこちない付き合いだったこと。

どうしても身体関係を結べなかったこと。

最後喧嘩別れしたこと

そのどれもが、私にとっては甘美な言葉たちだった。

これで彼女が生きてたら、この過去の付き合いが再度交際に至る伏線として機能してしまうこ とに怯えていただろう。

そして彼女への殺意が行き場をなくして私の中でいつまでも燻っていたのだと思う。

けれど、彼女は死んでいる。

からこそ私は安心して、彼女が、彼からきちんとお前は付き合うに値しない存在であると言 い渡され死んでいった事実を喜ぶことができる。

そして、その喜びを表すかのように、世界は輝いているように見えた。

草木はいつもよりもその葉の濃さを増し、空は雲を煌めかせているのだった。

彼女には未来がないこと。

それが私の、高揚感を煽る一番のポイントだった。

あんなに学歴や彼との距離感マウントをとっていた彼女が、今やただの骨となったことに私 は今までの人生で得たことのない種類の喜びを得ていた。

もう彼女には何もない。

あんなに心を崩すほどに勉学に励んでいたのも無駄になった。

入った大学キャリアを活かした輝かしい未来なんてもう彼女にはない。

そして、彼のこれから先の人生を眺めることも、彼女にはもう出来ない。

何よりもそれが嬉しい。

彼女の家は、ドラマに出てくるような、「いいところ」の家だった。

リビングには薔薇ドライフラワーが飾られ、テーブルにはレースクロスが敷かれていた。

そして、彼女仏壇を置くために、一室を使っていた。

仏壇とき大仰なと毒づいてしまいそうになった。

演技で涙も出るもんだな、と私は仏壇に手を合わせながら自分自身に感心した。

くっ、くっ、と声が出るのは、昂るからだ。

悲しみにではなく、喜びに、であることは隠せたと思う。

仏壇に手を合わせる彼の面持ちは神妙そうで、私が感情を露わにしているからこそ自分我慢 しよう、という気概を感じ取れた。

男子からこそ、気を張らねばという彼のいじらしさがどうにも可愛くて、ああ、やはり私は 彼のことが好きなんだな、と改めて思ってしまった。

リビングへと移り彼女の母と思い出話などをしながらふわりと伺う。

「本当に明るくて(空気が読めないだけ)楽しそうに笑顔を(彼にだけ)見せる子で...だからこそ急な話で驚いてしまって...病気とのことでしたが...」

彼女の母と、私は目で訴え合う。

それを聞くのか?という母親の目と、

死因を教えて楽しませろという私の目。

たった一秒にも満たない僅かな時間で、私はやはりこの女はあいつのなのだと感じてしまっ た。

あの、喰えない女を産んだ女だ。

「...脳浮腫、でして。...だから、本当に急な死で私も、本当にショックでした」

浮腫、というワード以外は一切出さないという意思を読み取り私は、彼と共にいるこの瞬間 を汚さぬように詮索をやめた。

ハッキリとしない死因で、私を楽しませるにはパンチが足りなかった。

けれどその最後は安ら かなものでは無かったであろうことを窺えたことは一つの収穫だ。

彼女の家を早々にお暇し、私たちはまたひたすらに駅を目指し歩く。

話すことも尽きたような振りで彼の話を空返事で返しながら私はGoogle検索で脳浮腫を延々と 調べていた。

浮腫。とっさに、本来の死因を隠すために出たワードにしては具体的であり、嘘のようにも思えなかった。

けれども、脳浮腫医学知識のない私が検索で調べた結果を読解する限り、直接的な死因であるようにも思えない。

浮腫とは脳に水分が溜まり脳が圧迫されている状態を指す言葉である

それを死因として挙げるのは、やや話が飛んでいるように見える。

たとえば、交通事故で全身強打し、内臓破裂で死亡した、というのを、内臓破裂で死んだ、と 表現するような感覚である

そう、私には、母親はとっさに嘘をつけなかったため、「脳浮腫に至るきっかけ」を伏せると いう形で娘を守ったのではないかと、そう感じた。

そして私は、一つの結論に至り、また悦に浸る。

まだ何も知らない、違和感に気付いてもいない彼の横顔を見ながら、私は、彼女の今際の際に 想いを馳せて、うっとりとするのであった。

浮腫に至るきっかけでありなおかつFacebookの文や母の言葉にあるように急死に繋がるよう な死因はくも膜下出血などが挙げられる。

可能性はこちらの方が高そうだ。

突然、死に至る病としては説得力がある。

けれども、そうだとしたら、母親は病名を伏せる必要があるのだろうか? くも膜下出血で亡くなった、という話なら、伏せる必要なんて何もない。

から、私は、もう一つの、限りなく低い可能性の方に賭けている。

浮腫は、多くは脳出血が原因で起きるものであるくも膜下出血などのように身体の内部か ら急にエラーを起こし脳浮腫に至る場合もある。だが外傷により脳出血が起きた結果でも脳浮腫はできる。

そして、私はふと思い出すのだ。

彼女大学入学からメンタルが不調になり、夏頃にはアルバイトすらもやめてしまうほどに 追い詰められていたということを。

そして、親が必死で隠す死因と言ったら、一つだろう。

もちろん七割は、私の願望なのであるが。

帰り道は雲も晴れ、傾いた日差しが強く、どこまでも世界は煌めいているような気になってし まうほどだった。

その煌めきの中に、彼も共にいる。

なんと幸福時間なんだろうと、心の底から思った。

この煌めきを、彼女はもう永遠に味わえない。

その事実もまた、光の儚さを強調するように感じられてまた私の中で歓びが増えていく。

から、いいのだ。

彼の口から、今の彼女との結婚プランの話が出てきたとしても。

彼女が白無垢を着たがって、お金がかかりそう、なんてのろけをされたって。

この世界の美しさの中では、何もかもが許せそうな、そんな気がしたのだ。

から、その今の彼女名前を、今回死んだ彼女仮名に使うくらいのお茶目さは、私だって 許してくれてもいいだろう。

来年の今頃、彼は式を挙げる。

彼の姿が和服になるのかタキシードになるのかは知らないが、彼の最高の笑顔を私は目に焼き 付けることになるんだろう。

それは、恐ろしく悲しく、残酷なことのように思える。けれども私は耐えられる。あの女が、 もうこの世に居なく、そしてあの子は、幸せそうな彼の姿をもう見ることなんてできないのだ と、そう思うだけで痛みに耐えることができるような気がする。

そして、もうひとつ彼女の死の瞬間を想像するだけで、心が昂り、苦を感じなくなるように 思えた。

彼女は、どのように死んだのだろう。

微妙な高さからコンクリートに叩きつけられるも、脳をぶちまけることなく、脳浮腫という形 で苦しんで死んだのだろうか?

それとも、首に索条痕を残し、その細い骨をパキャリと砕いて亡くなったのだろうか。

ただの私の願望である、 「自殺の上で付随して脳浮腫が出来た」という死因を想像しては、愉快な気持ちが止まらずに 居られない。

けれど、メンタルが追い詰められていた人が亡くなり、その死因を遺族がぼかすとしたら、自 殺しかないんじゃないだろうか。

首吊り飛び降りなどの脳への外傷が出来そうな死に方をした上でなら、脳浮腫も出来るだろ う。

ああ、彼女は、世界絶望しながら自分の手で命を落としていて欲しいな、と心からそう思 う。

今までの努力が全て無駄になった上、 彼から彼女として見れないという烙印を押されたまま、絶望最中彼女には死んでいってもらえたらどんなに愉快だろう。

そんな想像をしては、私は笑みを浮かべる。

私の恋心はどこから崩れてしまったのだろう。

駅に着き、ひとしきりのろけを聴き終わったところで私たちは別れることにした。 白無垢のために頑張ってお金貯めなよ、なんて笑ってあげた。

からは、ニコニコと笑いながら答えが返ってきた。

「式の時は、俺の白ネクタイ貸してやるよ」と。

来年の今ごろ、私は、礼服姿に、彼が過去に使ったネクタイを纏い彼の人生最高の瞬間を見届 けることになりそうだ。

それは、幸せことなのだ、きっと。

そう言い聞かせながらも、私は、結婚という幸せ人生を歩んでいく彼の姿を見なくて済む、 死んだあの子を少しだけ羨ましく思う。

死んだら死んだで、それもまた幸せなのかもしれないな、という感情も湧きでてしまい、私は 慌ててその思考に蓋をする。

やっぱりこの世は美しいが、生き地獄だ。

その生き地獄よりも下層の、死の世界へと消えていった彼女を蔑むことでしか、今の私は心を保てない。

この歓びや哀しみやそのほかの色々なものがないまぜになった心持ちに、何かの決着がつくの はまだまだ当分先のことなのだとは思う。

ただ一つの結論として言えることはある。


こんな恋愛、二度とできないし、もうしたくない。

anond:20191223112918

仏壇を叩き売っても」でええやろ

2019-12-08

ホームレスセリかけられる

まず、風呂に入らないレベルではない。髪の毛が伸びたのが固まっている。徹夜続きで風呂に1週間以上も入らない友人を白い目で見ていたが上には上がいる事を思い知らさせる。

そんなホームレス大勢の男が取り囲む。1年前なので覚えてないがホリエモン風やら唐澤貴洋風やらいかにもネットベンチャーな男どもであった。

司会者風の男が声を掛けると値段の言い合いが始まり最終的には高い値段を言ったベンチャーマンが買い取るようだ。

ニコニコ笑うベンチャーマンやら悔しそうに舌打ちマン、「もっと金用意しろよ!金だよ!」と携帯で部下に怒鳴り散らす叱責マン、そして他のベンチャーマンどもが解散すると車にジタバタホームレスを数人の黒服マグロ漁のようにヤグザ溜め込む。

「何やってるんですか?あんたら?」

わず口を挟むも

「うっせーな!」

あんたに関係ないだろ!」

言い訳すらしない大人事実やら社会人の世知辛が青二才のガキに突っかかった。

「おい若いのお、綺麗事だけじゃ飯食えんでぇ!」

ニコニコマンが高価葉巻を吸ってるかと思ったら仏壇に使う線香をタバコのように吸っていた。金持ちのする事はようわからん

2019-11-29

純血のスーパー創価人3(3世学会員)側の主張

2世学会員の話が増田知恵袋に出てくると大体熱心なタイプの話ばかりで、こういう熱心な人たちばっかりだと誤解されたくないし被害被ってるので、悲しき2、3世側の話も聞いてほしい。

自分は3世。父方母方ともに祖父母が入信していて、2世の親同士が創価大学出会い結婚したという超筋金入りのサラブレッドだ。

小さい頃から月一の座談会地域学会員の集まり)、少年部(小学生の集まり)、新年に行われる勤行会みたいなイベントものをごくごく当然のものとして受け入れてきた。

そして小学1年生の頃、半ば強引に創価学園に入ることを母親約束されて、中学受験をして創価中学に入った。ついに純血のスーパー創価人3の誕生だ。ジジババは大喜び。

学校では

記念日的なものの日に式典(バカ長い卒業式みたいなの)を行う

部活の昼休み集団で勤行する(仏壇に向かって唱えるやつ)

図書館に置いてある高校卒業アルバム石原さとみがいる

・たまに信仰してる超大物(海外ハリウッド俳優サッカー選手)がくる

ことがあったけどそれ以外は普通だった。

生徒のタイプはまちまちだが、本部職員の子供や学会役職のついてる人の子よろしく、入信している芸能人の子供など、ただ創価学園に入れたい!というパンピーの親とは別の創価的なハイクラスタの子供が結構いた。

聖教新聞学生鞄に入ってるとか、大白蓮華学会機関誌みたいなやつ)昼休みに読んでるようなガッチガチなのもいたが、そうでもないやつとの割合が半々くらい。

なので入ったらゴリゴリ信者になるというような場所ではなかった。特に何の違和感もなく学生生活を送っていた。

けれど、高校生になってアルバイトをするようになり「得体の知れない何かの一部」というレッテルはられる経験したことで考え方がガラッと変わった。

アルバイト入りたてのコミュニケーションの一部で、「高校どこなの?」と聞かれ「創価高校です」と答えた時に明らかに怪訝な顔をされた。

相手人間なので、コミュニケーションを著しく変えることはなかったが、自分にとっては忘れられない体験だった。

自分ネットで調べたりしてたので体外的にどう思われてるかは知ってた。選挙電話やばいとか入信勧誘されるとか。

でもそういう得体の知れないものという目線まさか自分に向くとは思ってなかった。たまたま親がそうだっただけで、自分自身は何もしてないのだから

でも知らない人にとっては「創価」という言葉を聞くだけで「うわっ」となってしまものなんだなということをしっかりと認識したタイミングだった。

イメージだけでラベリングされてしまう何かを背負っているというのがとても苦痛に感じた。

就活結婚いろんなものに響いてくる。親族には悪いけど、そんなに信仰してるわけでもないのに、嫌な思いをし続ける必要がなぜあるのかと。

このままエスカレーター式に大学まで創価に行ってしまったら、本当に全部創価になってしまうことに危機感を感じ、普通私立大学にいった。

創価大学に行かなかったことでジジババは露骨に悲しんだが親も何も言わなくなり、そもそも学会員と接する機会がほぼなくなったので、気負いすることもなくなった。

けれどもこれから結婚とかの話が出てくるとめちゃくちゃ話はややこしくなるのが目に見えていて辛い。


今いる彼女も、知り合いたてでfacebook見た時に友達創価高校だらけで舌巻いたらしい。最近自分気持ちを知ってくれているので創価いじりしてくるくらいにはフランクになったが、「お父さんに行ったら絶対やばい」と言っている。


彼女には辞めてと言われるが、親からしたら「別に何も強制してないのにわざわざ辞めるの?」という感じらしい。

こちらとしては相手迷惑かかるくらいなら辞めても全く構わないけど、自分側の親族とこじれるのも好ましくない。結婚とかを考え始める歳になるとこんなに辛くなるとは思わなかった。

こういう創価家系に生まれたけど、信仰してない、してないのに創価ってだけで辛い思いをしている人は本当に沢山いる。

けどそういう人はそもそも隠したがるので、web上にも出てこない。だから全国の創価好き、創価を愛する者たち、創価を憎む者たち、全ての創価関係者に伝われっ!

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父のすきなものきんつば

今日何買ってこようか。

仏壇ちょっと電飾してて

エレクトリカルパレードみたいになってる。

明日おでんを食べに行きます

友達と山歩き。

紅葉の綺麗なの間にあうかな。

教会クッキーもたのしみ。

2019-11-19

目が覚めると君が隣で寝ていて

ここ最近そんなことは無かったので、僕はとてもうれしい気持ちになって君の寝顔をニヤニヤ見つめていた。

そんなニヤけた顔に気付いた君は不機嫌そうな笑顔を僕に返してくれた。

その表情には食事インスタント食品に頼りすぎだとか、掃除機をかける頻度が低すぎだとか、NにYoutube見せすぎだとか

諸々の不満が含まれていた気がするけれど、緩んだ口元を見るになんだかんだ元気にやってる僕とNを見て安心してくれていたのかな。

僕が改めて目覚めると君の姿は当然無くて、いつものようにNが頭と足を逆さに大の字でグースカやっていた。

それから君がもういないことを再認識して僕は枕カバーがズブ濡れになる程涙を流してしまったけれど、雲一つない秋晴れの空が

Nのおねしょシーツともどもよく乾かしてくれそうだ。

はてさてもうすぐ君の命日だけれど今年もお墓参りは行かないよ。

僕の心は今でも毎日時間毎分毎秒「君」で満たされていて

墓や仏壇で君を想う時間日常を切り離すなんて僕にはできそうも無いから。

2019-11-11

苗字を変えたくない

結婚が近くなってから知った事なのだが、実家本家だった

大した苗字でもない

クラスに1人ぐらいはいるかな?と言う名字

苗字人口ランキングでは30位以内には入っている

私は女姉妹の長女だ

男の兄弟はいない

父方の性を名乗っている

父方には、父以外姉妹しかおらず、私か妹が名前を継がないと無くなるだろう

特に婿養子を取れなんて言われたこともなく育ってきた

でも、急に今になって本家だったんだよってしみじみと言われて、動揺してる

実家仏壇を見ると先祖代々の写真が飾っており、実家には先祖から受け継がれていると言う刀や書物がある

親には「この書物とか刀はお前が貰え」と言われたけど、苗字を継ぐ可能性もほぼ無いのに貰っていいんだろうか?

墓はどうするのかと聞いたら「家名は消してお前が貰え」と言ってきた

ホントどうしたら良いんだろうと頭を抱えている

親戚(父の姉妹)は、苗字は違えど、相続や墓問題で争った人達

誰も苗字を継ぐ人が居ないとなると、また争うだろう

あ〜苗字って、こんなに面倒だったとは思わなかったわ

2019-11-09

anond:20191109023944

おじいちゃん、いつも仏壇に向かってブツブツ言ってるね。

もうこんな時間から休んだほうが良いですよ!

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