はてなキーワード: 貴族とは
もう増田ご本人は見ていらっしゃらないかもしれないが、私なりに寄り添って、こんな風に考えてみたらいいんじゃないか、と思ったことを書く。読みにくくてすまん。
トラバとブクマを見たが、9割5分はまともに文章を読んでなくて、結局KKOの書いた文章はエンタメとして消費されるんだなとわかった。
ここにあなたのつまずきがあると思う。
人の話や文章をちゃんと理解する(そしてそれに見合った返答をする)、というのは、実はとても難しくて、たぶん世の中の半分以上の人間にはできない。
増田はたまたまそれが何の苦もなくできる。そしてできる人には、あまりにも自然にできてしまうせいで、できない人がいるということが理解できない。〈誰だって頑張れば理解できるはず〉だから、〈理解しないのはやる気がないからだ〉と思ってしまう。そして〈なぜやる気を出さないのだろう、なぜ俺の話をちゃんと聞いてくれないのだろう〉→〈俺が「キモくて金のないおっさん」だから、見下されていて、消費対象のエンタメだと思われているんだ〉、と思っている。
まったくの勘違いだ。彼らはやる気がなくて読んでいないのではなくて、やる気を出しても読めないのだ。
仮にあなたが「若くてきれいな女性」だとしても、相手があなたの話をちゃんと理解し適切な応答をしてくれるようになるわけではない。無意味にあなたをちやほやと取りかこみ、「わかるー、ほんとむかつくよね!(←全くわかってない)」とか「大変だったね笑そういうときはこうするといいよ笑」とかいうトンチンカンな応答をするやつが増えるだけだ。
ちょっと世間を見ていればわかると思うが、「相談なんてしていない」のに「少し深い話になるとやたらとこちらの言うことを否定してくる」おじさんやおばさんに、若い女性も毎日遭遇している。〈相談されたから解決策を考えてやったら「共感してほしかっただけなのに」とかいわれた、これだから女はw〉みたいな話も日常的にエンタメとして消費されている。つまり増田はほぼ若くてきれいな女性そのものだよ! やったね!
自転車に乗るみたいなものだ。増田は自分が自転車に乗れて、乗れない人がいるなんて想像もできないから、自転車を運転できない人を見て〈まともに乗れよ〉と怒っている。これがどのくらい無意味な行いかはわかるだろう。
あなたは〈みゆさんみたいな人は貴族で、自分は貧民なんだと思っていた〉というが、この表現は劣等コンプレックスを刺激して冷静な対処の邪魔になるので、ちょっと視点をずらして逆に考えたらどうだろう。つまり、少数派にしか許されない特殊なマナーが身に染み付いているあなたが「貴族」で、みゆさんや我々トラバ・ブクマカのほうが庶民なのだ。
だからといって、〈よしじゃあ庶民を馬鹿にしていればいいんだな〉という話でもない。「貴族」といっても別に権力があるわけではないから、正面から殴りにいったらむしろ数の力ですぐに負ける(日本学術会議はこのへんを勘違いしている)。そして道徳的にも、貴族のマナーが無条件で優れているわけではない。「武士の商法」という言葉があるけれど、自分のマナーが正しいことを疑わず、従わないほうが悪いとばかりに庶民のあいだでもそれを押し通すのは、滑稽な所業だ。
さてでは、貴族のあなたが心穏やかに過ごせるようになるには、どんな方向があるだろうか。パッと思いつくのは次の三つだ。
1庶民を丁寧に教育し、マナーを社会的に浸透させる(啓蒙家コース)
2庶民社会のルールに順応し、そのなかで栄達を図る(資本家コース)
3おつきあいはできるだけ貴族同士に限定し、無作法な人には近づかない(社交界コース)
おすすめは3だ。別にそこまで極端に交流を狭める必要もないと思う。普通に生きていると案外、貴族は貴族同士、庶民は庶民同士で集まる。「普段縁のない層」に絡みにいくから摩擦が増える。みゆさんじゃなくて、「別の人に相談した」というその別の人に話を聞いてもらったほうがいいんじゃないか。庶民の恐ろしさを知った今なら貴族の貴重さも身にしみて相手を大事にし、一層深い関係を築けるかもしれない。
自分の信じるマナーが社会全体に受け入れられるという1のゴールはとても素敵で選びたくなるだろうけど、過程がマジで大変だ。もしこれができるようなら明らかに教職が天職なので、さっさとその方面に再就職すべきである。少なくとも、人々が〈やる気がない〉のではなく〈自転車に乗れない〉のだと気づいていなかった増田には難しそうだ。
以下はここまで以上に説明が難しい部分で、フィーリングに頼って話を進める。読んでも非論理的なでたらめにしか思えないかもしれないので、適当に流してもらっていい(「論理」と「合理」が曖昧に使われているのもその一環と許してほしい)。
ここまで「まともに」つまり合理的に読んだり話したりすることの難しさについて述べてきた。けれども人間が非論理的なのは必ずしも悪いことではない。生き物が不合理なエゴを抱えるのは当然で、合理的論理的に考えたら生きる意味はなくなってしまう。その意味で、〈正面から反論せず「それが普通だ」と不合理に押しつける〉のは、人間なら避けられないことといってよい。貴族仲間というのは、不合理な領域が自分と一致しているので苛々しない相手に過ぎない、ともいえる。
問題はむしろ、論理的な人間が往々にして、自分の中の不合理な部分まで論理的だと思い込み押しつけてしまうことだ。2(資本家コース)は不合理な政治的手法に順応するということなのだけど、とくに庶民に対する劣等コンプレックス(軽蔑もしばしば劣等感の反転である)が強い場合、〈実際には不合理なルールを利用しているのに、次第に自分は論理の力でみなを啓蒙しているかのように思いこむ〉機制が働きやすい。インターネットを見れば、中途半端に論理的だったために自分の正しさに凝り固まったイデオローグと化し、敵を感情論と指弾することの不合理な喜びに支配されている右翼や左翼やフェミニストや表現の自由戦士の実例には事欠かない。
このルートに入ると論争のイライラ感に依存するようになって、マジで「世間話をする」みたいなささやかな幸福に支えられて生きていく邪魔になる。なので、自分のなかの不合理な部分は不合理と認めて、適当に愛撫しながら生きたほうがよい。
https://anond.hatelabo.jp/20201024152554
上記の反応エントリがあったので追記で答えます。書いたのが増田なのか別の人なのかわからないのがちょっとやりにくいけど。
あとあらかじめ注意。「多少突っ込んだコメントになると」「あなたたち」等と言われているから、もしかしたらこのエントリ以外にもいくつか念頭に置いているコメントがあるのかもしれない。でも私は私自身の意見の説明しかできません。そこはご容赦を。
ごめん、前提が共有できていなかったみたいだ。ちゃんと読んでもらえば分かると思うけど、前者を擁護しているわけではない(余談部分までいくとまたちょっと別だが)し、読み手についても、ましてや増田について「悪い」とは言っていないよ。
当為(「べき」)と事実(「である」)の区別、って聞いたことないだろうか。私は事実認識「文を読めない人が多い」を確認しただけだ。当為については述べていない。
うん、だからそれは当為認識〈あれこれ論じることができなくてはならない〉なんだよね。で、〈あれこれ論じることができる人は少ない、あれこれ論じるのは非常に困難である〉、これは事実認識。当為によって事実は変わらない。
ここで重要なのは、当為の実現を諦めろっていってるわけじゃないってこと。むしろ当為を将来的に実現するためにこそ、偏りない眼で現状を、そして現実がどういう法則で動いているのかを、正確に認識することが必要だ、という話。
たとえば〈この水は氷になるべきである〉という当為認識があるとしよう。ここで、水を前にただ「氷になるべきなんだからならなきゃおかしい」「なっていないのは誰かが悪いに違いない」とか考えててもしょうがない。そもそも水は氷になるのか、なるとしたらどんな条件下で氷にすることが可能なのか、当為とは無関係に物理法則がどういうルール「である」かを知らなければならない。最終的に、〈この水はこれこれの限られた条件下でのみ氷になる〉という事実認識が把握される。この事実認識を踏まえてはじめて、私たちは技術を用いてその条件を実現し、水を氷にすることができる。
たとえば「沖縄の基地負担は減らすべきである」という当為認識だけがあって、基地とそれを巡る政治的力学についての事実認識がなかったために、ひどい混乱が起こった例はご存知でしょう。
「でもお前の提案した3(社交界コース)は当為を諦めてるじゃないか!」といわれるかもしれない。それは、もともと増田が設定している当為=ゴールが〈万人が言語交流できるだけの知性をもつべきである〉ではなくて、〈増田は幸せになるべきである〉だと判断していたからだ。後者の当為はちゃんと追求している。
前者も当為から外せない場合、1(啓蒙家コース)にあたる。「1は難しい」とは言ったけどそれも事実認識を述べただけで、「1は選ぶべきではない、3を選ぶべき、3を選べなかったのは悪い奴」とは言っていない。なので、1をとりたいならどうぞ。
たぶんあなたは、悲しいことが起こるのはどちらかが「間違ってる」「悪い」からだ、と考えてしまっているんだと思う。そして、「責任のある」「悪い」方が変わる「べきだ」、と思ったんだと思う。だから、私が主に相手を変えない手法を提案しているのを見ただけで、「増田が悪いんだと結論づけ」ていると誤読してしまったのではないか。でも、これは単に、〈相手を変えるよりも自分の選択を変える方がはるかに労が少ない〉という理由から提案したものにすぎない。
と言わざるを得ない。
実は「自転車に乗れない」と書いたところ、最初は「因数分解ができない」という例も考えていたんだよね。学校で授業を受けても因数分解ができない人、文章がまともに読めない人、あるいは一度できたはずなのにしばらくしたら忘れちゃう人、たくさんいるでしょ。恥ずかしながら私も、理科や家庭科で習ったこと、すっかり忘れちゃったなぁ。当為と事実の区別も学校で習うような気がしてたけど、これは私の記憶違いかな。
もちろん私の事実認識自体に反論することはありうる(「事実認識」であって「事実」とまではいっていない)。それならそれでいいです。
それは多分誰も反対しないと思うw
また長く雑ですまん。
Q.
なぜ「期待しすぎ」たのか。
A.
「KKO」や「おじさんLINE」など、ネット上で中年男は嫌われ嘲笑される風潮がある。女性にモテず無職の自分はその「駄目なおっさん」に分類されているという意識に囚われていた。
そんな意識に囚われていたため、自分を貧民に、逆に若くてきれいな彼女を貴族的に捉えていたから。
この見解に納得できないのは同じKKOとしてそういう風潮は存在しないと思っているから?
あるいはあっても自己劣等感の原因にはならず、女性を見上げるような価値観を作るとは思えないから?
この話、「なにが無職中年男を期待に至らしめたのか」がナゾの根源だと思うんだけど、そこにはあんまり皆んな関心ないんだな。男女逆だったらブコメは、「女性を追い詰めた環境は改善しなくちゃならない」ってなりそうなもんなのに。
この度はてなーを一網打尽にし大漁旗を掲げるに至った無職中年男さんになんだかシンパシーを感じたので、まともな返事を出来ない自称リベラルのみんなに代わって、あなたが感じた問題を整理してみたいと思うよ😀
そう、経緯はどうあれあなたが「他人から言葉をかけられ唖然とした」ことは事実であり、これを否定されるいわれは一切ないよ😀
下ネタや下心を匂わせるようなことは一度も言わなかった。
自分の話す内容の客観視を心掛けて気遣いができるのは素晴らしいと思うよ😀(あくまで主観なので本当に正確なところはわからないが)
私は今まで、みゆさんのような若くてきれいな女性は貴族で、自分は貧民であるかのように思っていた。(中略)私は劣等感など感じることはなかったのだ。
そう、外見がいくらきれいで立派な人でもみんな、万人に対して完璧な回答をできるわけではないよ😀 今まで欠けていた学びを得られてよかったね😀
万人に対して完璧な回答ができることを"中身"と呼んでしまうのはいささか人間へのハードルが高いかも😀
あなたも含め、たいていの人間は自覚していないだけでしょっちゅう不用意な発言をして人を傷つけているよ😀
またここでの「若くてきれいな女性」という表現は反発を生みやすいかもね😀
男の性として女性に目が行きがちで、それを中心とした思考になっていたのは仕方ないけれど、みゆさんとの体験からもう少し一般化して性別の区分けを省いたほうが「女性全体を貶められたように感じる人たち」や「男性全体が意図的に排除されたように感じる人たち」からの不用意な反発を生まなくて済むよ😀
これ自体はとてもいい試みだと感じるよ😀 ただそれ以降に問題があるよ😀
ただあなたは自分が求めた「客観的な視点」から出た言葉を一度も受け入れることなく否定しているよ😀
共感と肯定のみが欲しいならはじめにそういうオプションをつけるべきだったね😀
共感と肯定のコミュニケーションはネットでは叩かれがちだけど、人間の心を維持するうえでとても大事な要素だし、何も恥ずかしがることはないよ😀
先に述べたように、客観的に見た結果少なからずその意図をもって発言した可能性が高いと思うよ😀
ゆみさんが「社会生活送れてなさそう」という言葉が人を傷つけてしまうかもしれない、と判断できなかったのは確かにゆみさんの落ち度だね😀
でも、ゆみさんが病気で無職なあなたが社会復帰できるような道筋を真摯に考え、自分の経験からアドバイスしてくれた、ということは事実だと思うから、そこにもう少し目を向けていけるといいね😀
え? えーと……。確かに出歩いている距離は人それぞれだ。でも複数の人がいる中で一番長く出歩いたのが私だなんて、確率的にほとんどあり得ない。
確かに、ここでゆみさんが提示したやり取りは少し高度なものになってしまっているかも😀
ゆみさんが伝えたいのは「体力がなくても工場労働できるよ」ということであって、あなたが重視する「自分の定量的な体力はお年寄りより有意に低い」という仮説への反論ではないよ😀
あなたの言う通り「ほかの人は歩いた距離が少ないのかも」という仮説は少し無理があって、もっといい例を思いつかなかったのはみゆさんの落ち度だけれど、すぐに良いたとえが浮かばないことってみんなあるよね😀
だからあなたがすべきだったことは、ゆみさんのことばを文字通りの"自分の仮説への反例"とは受け取らず、「なんか励ましてくれてるんだな」とおおまかに考えることだったんだよ😀
こう説明するとかなり高度なやり取りに見えるかもしれないけど、意外と多くの人がこなしてしまっているよ😀 不文律はクソだけど、多少は適応できたほうが便利かもね😀
そんなこと言ってないのに~~~
なんで年代で態度が変わるんだろう? って言ってるのに~
上記の応用編だね😀
ゆみさんはあなたの「なぜ若い女性は話しかけてくれないんだろう?」ということばを「なぜ女性の年代によって自分に接する態度が変わるのか」という問いのみではなく、「若い女性に話しかけてほしい」という主張としても受け取っているよ😀
一見不要なエスパーにみえるかもしれないけれど、ここには主に2つの原因が考えられるよ😀
1つ目に、こういった表現が反語としてとてもポピュラーなものということが挙げられるよ😀
「なぜ若い女性は話しかけてくれないんだろう?(話しかけてくれてもいいのに)」という具合だね😀漢文を習っている気分になるね😀
2つ目に、「男は若い女に話しかけてもらいたい」という社会的通説が一般的なものとして浸透してしまっている現状があるよ😀
悪く言えば完全に偏見だけれど、人間はおおよそこうした偏りを頼りに生きているから仕方ない面も大きいよ😀 よく「ヒューリスティクス」と呼ばれているものだね😀
1つ目の原因を2つ目が後押しして、ゆみさんは不用意にあなたの胸をえぐってしまったのかも😀 悲劇やね😀
だから
という主張は正しくもあるけれど、同時にあなたも自分の言っていることが正確に伝わっていない(=受け手にとって解釈の揺れが大きい)可能性があることもよく織り込んで会話に挑めるといいね😀
実際、ゆみさんのこの会話は非難でもないしそんなに深い勘違いでもないよくあるもののように見えるから、「女の子から話しかけて欲しいなんて都合いいこと思ってないよ~(冗談っぽい口調)」と返しておくのがよかったね😀
つまり
ということではなくて、単に病気で無職なあなたに社会復帰してほしい、ということを伝えたい意図しかないよ😀
でも、あなたの主張のすべてに的確な返事ができないこともあって、それは世の中のほとんどすべての人間に当てはまるよ😀
ブクマカやトラバはこうした流れをひとまとめにして「それが普通だ」と言っているよ😀 伝わるわけがないね😀 ブクマカもまた、あなたと同じコミュ障なんだ😀
9割5分はまともに文章を読んでなくて
当たり前だ😀
これはあなたがKKOだからではなく、元来ネットがそういうものだからだよ😀 ましてやはてななんかに「まともに文章を読む」ことを要求してしまった時点であなたの落ち度といえるね😀
どちらも極端な表現で事実ではないし、劣等感を感じる必要はないと言い切れるけど、ほんのりその傾向はある、ということがわかっていただけるとうれしいよ😀
ゆみさんはたぶん人並み以上にあなたに対して良く接することができているし、逆にその良い結果に対して増田に不満をぶちまけるまでに至ってしまったあなたはちょっとしたコミュ障、ということになるね😀
無職中年男が若くてきれいな女性に失望した話を読んで、書かれていることよりも何が書かれていないかの方が興味深いと思った。
非モテの中年男が若くてきれいな女性から唖然とする言葉をかけられたという話です。ヤラせてくれなかった、という話ではありません。
「ヤラせてくれなかった、という話ではありません」とわざわざ強調しているのは注目に値する。増田にとっては自分が若い女性の言葉に真剣に傷ついたということが重要で、そこに性欲があったと認めるのはみっともないことなのだろう。
中年男が若くて美しい女性と関係を持とうと必死になって失敗するという話はそれなりにありふれたものだし、みっともないことではあるが、一回り下の年齢の女性の言葉に真剣に傷つくことの方がみっともないことだと考える人もそれなりにいるのではないだろうか。
魅力的な異性に性欲を感じるのは当たり前のことで、相手に物理的・精神的に害を与えないかぎり罪ではない。増田が自分の性欲をみっともないものだと考えているのだとしたら、それは不幸なことだと思う。
私は中年の独身男である。女性にはまるで縁がない。数年前にうつ病を患い、無職となった。
精神疾患を持つ人に共通する悩みだと思うが、誰かに苦しみや悩みを聞いてもらいたくても、聞いてくれるような人はなかなかいない。
老化、結婚、恋愛、病気、仕事、増田が苦しんでいる理由が最初の一文に列挙されている。「30代」や「40代」ではなく「中年」と書いていること、うつ病になった経緯、無職になる前についていた職種などが書かれていないことなど、全体的にぼかされていて、増田がこれらについて詳しく語るのに抵抗を感じていることもわかる。
家族や友人がいるのかいないのか、いるのだとすればなぜ苦しみや悩みを聞いてもらえないのか、いないのだとすればなぜそのような状況になったのか、これも曖昧にされている。
そこで私はレンタル彼女を利用することにした。お金を払って、若くてきれいな女性と一緒に食事などをしながら話を聞いてもらう。おさわりは一切ない。そういう人たちは会話がうまそうだし、私もうれしいし、普段縁のない層の人と話すことで客観的な視点が得られそうだと思った。
恋愛相談ならともかく、仕事や病気について客観的なアドバイスをもらうためにレンタル彼女を利用するというのはかなり不自然である。ふつうなら、若くてきれいな女性と一緒に過ごすことで気が晴れると思った、などと書くところだろう。ここでも増田は自分の性欲や恋愛へのあこがれを無理に押さえつけているように感じるし、そうだとすればそれは不幸なことだと思う。
利用してみたところ、顔はきれいなのに無愛想だったり全然喋らない人がわりといた。かなりきれいな人から「クソ安い服」という言葉が出たときは、えー……そんな言葉使っちゃうんだ、と思った(まだ20歳くらいだったからだと思うが) 。そういう人は避けていい人を探した。このとき顔を基準に選んだことは正直に告白する。そうしないと絞り込むのが大変だったというのもある。
そのうち、みゆ (仮名)さんと出会った。20代半ばで、人目を引くかわいい顔立ちだ。ホスピタリティーといおうか、愛想が良くて笑顔を見せるし、積極的に話題を振ってくれるし、仕草も丁寧で、謙虚で優しそうだった。この人なら話を聞いてくれそうだと思った。
レンタル彼女のようなサービスを利用するときに顔を基準に選ぶのはなにもおかしいことではない。「そうしないと絞り込むのが大変だったというのもある」なんて言い訳も必要ない。
「この人なら話を聞いてくれそうだと思った」という増田は相手に真剣に好意を寄せたのだろう。好意を寄せられる相手ができて、その相手と定期的に会話できる機会があるという事実は、増田の精神衛生にかなり良い影響があったのではないかと想像する。
みゆさんを指名し、自分の病気のことと無職であることは早々に話した。みゆさんは驚いた様子で、50歳から人気職に就いた人の話などをして励ましてくれた。
自分の話ばかりだと愚痴を聞かせているようになってしまうので、みゆさんの話も聞いたり世間話をしたりするよう心がけた。みゆさんがそういうのを好きそうではなかったので、下ネタや下心を匂わせるようなことは一度も言わなかった。飽きさせないよう行く場所は変えたし、食事も奢った。
客として自分の話だけ聞かせてすっきりするというのもレンタル彼女の利用法として問題ないように思われるが、増田は相手とお互いに思いやれる対等な関係になりたかったのだろう。
「お金があまりないので、数ヶ月に1度のペースで指名した」というのは、金があればもっと頻繁に会いたかったということである。相手にとって、数か月に一度しか会わない自分は大勢いる客の一人にすぎないということを増田が認識していなかったはずがないと思う。相手が自分以外の客にも「レンタル」されていることを増田がどう思っていたのか、会えない期間の数か月を増田はどう過ごしていたのか、「おおむね、いい感じ」の裏にはそれなりの大きさの苦しみがあったのではないだろうか。
例として挙げられている発言はどれも些末なものだが、増田にとっては重大事なのだということはわかる。相手にとっては数か月に一度、数時間くらいしか会わない相手なのだが、増田にとっては何か月も焦がれるように思い続けていた相手なのだ。人生経験も浅く、増田と実際に過ごした時間も長くなく、増田は大勢いる客の一人に過ぎない、そういう相手に自分の気持を正確に理解してほしい、不用意な言葉で傷ついた自分に共感してほしい、そう思う増田は傍から見れば不合理なのだが、増田本人の思いは切実なものだろうと想像する。恋愛感情というのはそういうものだろう。
どの発言も、みゆさんに悪気はないのはわかっている。会話の技術が足りなかったのだ。私だって会話はうまくないし、みゆさんと同じ20代の頃だったら今より知識も技術も少ない。たくさん失敗をした。
ただ、無愛想な人やがさつな人に言われるならわかるのだが、数人の中から選んだみゆさんのような、きれいで優しく他人を思いやっていそうな人がこんなことを言うことに驚いた。外見は立派なのに、中身は普通だったんだと思い知った。
私は今まで、みゆさんのような若くてきれいな女性は貴族で、自分は貧民であるかのように思っていた。「KKO」や「おじさんLINE」など、ネット上で中年男は嫌われ嘲笑される風潮がある。女性にモテず無職の自分はその「駄目なおっさん」に分類されているという意識に囚われていた。
街中で若くてきれいな女性を見かけると、彼女らは流行に敏感で人々の注目を集め人づき合いが得意で交友関係が広く時代の先端をいく陽向の存在であり、それに対し自分は人づき合いが苦手で時代に取り残され誰にも注目されず何の価値もない日陰者で、彼女らの視界にも止まらない澱んだ空気のような存在に感じていた。
しかしみゆさんと話してみて、外見はいくらきれいで立派でも、中身は至って普通なんだと気づいた。私は劣等感など感じることはなかったのだ。
なぜ「若くてイケメンの男」ではなく「若くてきれいな女性」だけが増田にとって問題になっているのかといえば、それはやはり性欲や恋愛への憧れがあるからだろう。性欲や恋愛への憧れが満たされないことについて苦しむことも、仕事や病気について悩むことも、人として何もおかしいことではない。これらの悩みや苦しみがごちゃ混ぜになって「若くてきれいな女性」を絶対的な存在だと考えてしまったことで増田の苦しみはさらに強まったのではないだろうか。「駄目なおっさん」を断罪する神のような存在だと思っていた「若くてきれいな女性」も人間なのだと増田が理解したことを喜ばしく思う。
トラバとブクマを見たが、9割5分はまともに文章を読んでなくて、結局KKOの書いた文章はエンタメとして消費されるんだなとわかった。
みゆさんの発言の何が問題かは本文に書いてあるのに、「それが普通だ」と書くだけで正面から反論しているものは一つもない。
カウンセラーと連呼されているが、病状を説明しているだけで、病気についての相談はしていない。就職などの社会的なことについても「どの仕事に就けばいいか」なんて相談はしておらず、世間話として話しているだけだ。
増田がするべきなのは、相手の発言を何度も反芻して相手に落ち度があると確認し続けることではない。相手に悪意がなかったとしても、増田の気持が傷ついたのは事実だろうし、そのこと自体を否定する権利は誰にもない。しかし、理由のないことに理由を探そうとしても苦しみが深まるばかりで、それは増田に良い結果をもたらしはしないだろうと思う。相手にとって増田は数か月に一度しか会わない何人もいる客の一人にすぎず、発言は人生経験も浅い若い女性があまり考えずにしたものにすぎないのだから、深く考え続けるのは無意味だ。
増田が向き合うべきなのは、自分から相手への思いの深さと相手から自分への思いの深さが同じではないこと、その根底にある自分の性欲や恋愛への憧れから目を逸らさないこと、それらを仕事や病気の悩みとはわけて考えられるようになることだろう。
そのように考え方を変えるためにカウンセラーを利用することは有益だと考えられる。カウンセラーは増田の恋愛や仕事の問題を解決するためのアドバイスをしたりはしない。増田がカウンセラーに自分の悩みや苦しみや気持ちを言葉にして語ることで、増田が自分の気持をより整理して考えられるようになることが第一の効果である。その点で、今回のように自分の思ったことを文章にして投稿することはカウンセラーに話すのと同じような効果がある。カウンセラーを利用すれば、無意識に語るのを避けている部分について語ることを促したり、認知の歪みを指摘したりして増田が気持ちの整理をすることを積極的に助けてくれるだろうが、それに抵抗があるなら、今後も、同じように公開するのでもいいし、公開しない自分のためだけの文章を書くのでもいいから(「筆記療法」とか「ロールレタリング」とかで調べてほしい)、自分の気持を言葉にする作業を続けることで気持ちが楽になってくるのではないかと思う。
当時から片鱗はあったにせよ、マルモリとかでかわいがってた存在がいざ圧倒的知性を持ってあらゆる面で自分を超えてくると、自分に牙を剥かれた感じがする。
シャニマスの幽谷霧子も大体こんな具合で心配性アイドルとしてかわいがってたら医学部模試B判で牙を向いてきた。
それでも環境やら遺伝子やらの理由をつけて呪詛を吐けば自己防衛できる。
幽谷霧子はGRADというライブイベントに出場するけど、控室で足を怪我してGRADを棄権せざるを得なくなったアイドルから直接呪詛をぶつけられて
自分が本当にGRAD出場にふさわしいのか真剣に考え始めるのでしんどい。
自分は30代後半の男で中規模ベンチャー企業勤務の管理職なんだが、最近になって自分の働く会社が女性差別をしていることに気付いた。
以前は自社のことを人材に垣根を設けない良い会社だと思っていたし、社員の男女比率も3:7くらいとむしろ女性の方が多く、女性が活躍している職場だと思っていた。
というか女性差別ってイコールでセクハラかパワハラのことで、それこそ怒鳴ったり触ったりといった、静と動でいえば「動の世界」の話って程度の認識だった。
マネージャーっていうのは普通の会社でいう「部長」に相当するような役職で、自分で言うのもなんだけどけっこう偉い。
だから「経営会議」と呼ばれる、会社にとって重要な会議にも呼ばれるようになったんだが、いざ出席してよくよく見渡したら周りにいるのが自分を含めて見事に全員おっさんだった。
昔から「経営会議」の存在は知ってたし、誰が出席者かなんてわかっていたのに
いざ自分が出席して当事者意識を持つまで、比率についてなんて考えたこともなかった。
だからその時はじめて、この会社の意思決定に女性は1ミリも参加していないとわかった。
一応言っておくと、うちの会社に女性のマネージャーがいないってわけじゃない。でも「経営会議」には出席していない。
彼女らは「広報」とか「人事」のマネージャーなのだけど、その部署はいずれも1~3人くらいの小さいチームで、それぞれに裁量は与えられていない。
そのため「それぞれのチームで一番重要な人」が便宜上マネージャーと呼ばれているだけで、「女性にも役職与えてますよ」っていう対外的なポーズにしか過ぎなかった。
今となっては「うちの会社は女性マネージャーも活躍してるからね!」なんて大企業の友達に自慢していたのが恥ずかしくて仕方ない。
それからというもの、ずっとこの違和感が自分の心の中で広がり続けている。
いくつか気づけたことはあったので例を少し書いてく。
これは言っちゃ悪いけど、中世の「貴族に対して農民が多い」ってのとまったく同じ状況だ。
むしろ少数のおっさん達が、出世させる気のない存在、つまり「愛玩労働者」としての若い女性を採用している。
愛玩労働者に求められるのは業務遂行能力と愛嬌と、良い感じに働いた後に転職してくれることだけだ。
ちなみに男性が採用された場合は「厳しく鍛える前提のサンドバッグ新卒枠」か「幹部候補の中途枠」のどちらかになる。
たまに「女性は堅実に仕事をするけど、圧倒的な結果が出せないから出世ができない。良くも悪くも保守的なのかねぇ」みたいな主張をするおっさんもいるけど因果関係が逆だ。
女性を出世させる気が無いから「大きな仕事」を任せない。そのせいで「圧倒的な結果」とは無縁の存在になる。
彼女らはスキルアップしないのではなく、させてもらえないのだ。
それだけならまだしも、たとえ大きな仕事を任せてうまくいっても、その功績を認めない場合も多い。
「あいつはよく頑張った!」とか言って、月例の優秀賞とかを贈呈する。商品は大体amazonギフト券かガラス素材でできたトロフィーだ。
男性なら昇進か昇給のところ、女性はアマギフ3000円。報酬の還元率が違いすぎる。
上記のようなことをかんがみると、自分が昇進した理由って単純に「自分が男性だったから」というだけなんだと思う。
昇進当時は自分の実力がやっと認められたんだと思って喜んでいたけど、今は素直に喜べない。なんならちょっと気が重い。
お客さんのことを真摯に考えて、日々業務にあたっていた女性メンバーからしたら、自分って後から来たくせに性別ボーナスで昇進の可能性が高い、嫌な存在だったんだろうな。
これは最近一番衝撃的だったんだけど、
総務経理マネージャーが「バックオフィス業務の手伝いしてくれる人欲しいけど、社員雇うほどじゃないし、派遣は高いし、出産終わって暇してる元バリキャリママを安めの時給で雇えねーかな」
ってぼやいてた次の週に「働くママを応援!積極採用」って見出しの求人募集を出しててドン引きした。
他にも例を挙げればきりがないけど、
安心感なんてほんとは感じちゃいけないのだろうけど、それでも自分が今と全く同じ仕事能力をもった女性だったとしたら、
はたして今と同じ地位、給料でいられるのだろうかと考えてしまう。
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2日ぶりにはてなを覗いたら、自分が書いたエントリに色々な反響が付いていてびっくりしました。
本当にありがとうございます。
https://togetter.com/li/1605085
のコメント欄より
また誤字脱字が明らかな場合はそれを補った
箱のなかの海 @kawa_machi
”他者の権利を侵害すべきでない”という一般的な道徳観を動物まで広げるなら、ヴィーガンのような主張になるのは自然なことではある。
人と動物は違うと言うなら、その線引きをどこに置くかの明示は必要だけど、論理的に妥当な基準を出すのはかなり難しいよ。
自分はリバタリアニズムの消極的自由から肉食を正当化できるか悩んだことがある。
今のところ子供(→契約の主体になりえない存在)に対する パターナリズム的対応を援用して考えてるけど、お肉を食べたいがために無理してないと聞かれたらちょっと困る部分も無いとは言えない。
お肉美味しいから食べるけど。
「倫理判断は普遍化可能である」「遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」「動物も人間と同じように苦しむ」「認知能力や契約能力等、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)」「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」、これらの組み合わせから容易に「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける。 (Wikipedia 動物の権利)
他者を食べることを倫理的に正当化するには、これらの前提のどれかを弱める必要がある。
ヴィーガンの多くは「植物も動物や人間と同じように苦しむ」を弱めて、植物を食べているように思うし、 自分は「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」を弱めて肉を食べている。
kusorip @kusorip2
人権は人の作った道具に過ぎないので、人が快適に過ごすために如何様にも定義変更可能なんだが 勝手に都合よく定義を狭めて理論ぽく仕立ててるだけでガキの屁理屈止まりなんだよなぁ
箱のなかの海 @kawa_machi
人が作った道具であり、適宜変更ができると言うのはそのとおりなんだけど、その快適に過ごすべき”人”って何なのかという話。
人と動物の違いは何を基準にどこで線引きすべきか? 遺伝情報? 認知判断能力? 苦痛を感じる能力? YHWHがそう定めた?
他者に危害を加えることを正当化するのってちゃんと考えるとホント難しいよ。
誤: 人と動物の違いは
スリーS @Super_S_Shoborn
箱のなかの海 @kawa_machi
危険性を保証し合うと言うのは、法律(してはいけないこと)の概念をを持つという理解で良いですか?
そうなると、ある種の知的障害者や1, 2歳までの子供は人間ではないので殺していいことになりますがそれで良いですか?
逆に、ルールの概念を持てる動物(例えば、ある程度以上の哺乳類はそうでしょう)は”人間”なので殺してはいけないことになりますね。
スリーS @Super_S_Shoborn
知的障害者だろうが幼児だろうが、その家族が報復しうるし、その境遇に陥るかもしれない人間が次は我が身次は我が子と考えて排除しうるので、危険性は保障されてますので問題ありません
危険性が保障されてるから、危険だからやってはいけないという簡単なロジックです
大ざっぱに言ってしまいますと、全ての人間は任意の人間から危険性を保障されているので、その危険性が保障された人間を安全に取り扱う為に人権に沿う必要があります。言い換えれば、人権は人間を安全に取り扱う規範だと言っています
箱のなかの海 @kawa_machi
なるほど。しかし、「危険だからやってはいけない」は「危険でないならやってもいい」に繫がりますよね。
例えば、家族がいないまたは家族が報復しないことを約束して譲る場合はどうでしょうか。悲しいことですが、親から虐待を受けている子供や障害者など、可能性は十分考えられると思いますが。
食用の豚は殺されていますが、だからといってペットとして豚を飼っている飼い主(保護者)が「次は自分の豚が殺されるかも」とは考えないでしょう。
親が自分の子供を殺す(故意または未必の故意)場合も報復の危険は無いので問題なくなりますね。
パチンコ中に車の中に放置されて亡くなった子供がいたとして、その親が近くに暮らしていたとしても、「自分や自分の家族が殺されるかも」とは思わないでしょうし。
危険性を保障されているという言葉の定義がよくわかりませんので、もう少し詳しく説明ください。
周囲の人が次は自分と思って排除してくる危険→そう思わないような場合は?
また、 「人権は人間を取扱うためのものである。人間とは人権で取り扱われるものであ(動物はそうではない)」 はトートロジーです。何を基準に人権で取り扱われる”人間”を決めるのか?と問うています。
スリーS @Super_S_Shoborn
家族が居ない、または見捨てられた等の天涯孤独者は天涯孤独者同士危険性を保障し合っています。では天涯孤独の乳児はどうか。普通の子供でも親が死ぬ等で天涯孤独になります。親の危険性の保障から外れえる子供を守るために「危険でないならやってもいい」という人間を排除するでしょう。
親からも見捨てられ誰も報復せず次は我が身我が子だと考えて誰も排除してくれない子供はどうか。子供にそういう危険性がないことを調べる必要がありますが、それを調べることもまた危険であるのでやってはいけまん(続く)
『家族が報復する危険→報復しない、できない場合は? 周囲の人が次は自分と思って排除してくる危険→そう思わないような場合は?』
確かに必ずしも家族や同じ境遇の人が報復や排除をしてくれる訳ではありません。そのような危険性が保障されない人間が潜在しています。彼らは自身に危険性が無いと判断されることは死刑宣告にも等しい。従って危険性を判断するような人間を排除するでしょう。つまり危険性がないことを調べる事自体、危険でやってはいけないことなのです
さながら、危険性が保障されない人間が危険性を保障された人間に擬態するように。山に生えるキノコが可食か毒か見分けがつかず、見分けることも危険であるならば、山に生えるキノコは全て毒と判断して食べてはいけないと判断するように
箱のなかの海 @kawa_machi
なるほど。 ある程度以上の知能を持つ動物も、自分や自分の家族、群れを傷つける他者を排除しようとしますが、それらの動物は危険性を保障しあっていないのでしょうか。
人間がそれらの動物を傷つけた時に報復の危険性を感じないのは単に人間がそれらの動物より強いからですが。
動物の(勝手な?)代弁者である動物愛護団体などからの報復の危険性を感じないうちは動物には”権利”がなく、彼らが強大な力を有した段階で”権利”が生じるとなりそうです。
それは、過去に王侯貴族が下々の者の人権を決めていた時代と何が違うのでしょうか?
実際のところ、権利は力の獲得とともに増えてきたという歴史はそのとおりではあるものの、
少なくとも理念上は、
力の有無や数の大小ではなく、一人ひとりが等しい人権を有しているというのが現代では概ね合意であるはずです。
動物には力がないから人間にとって危険性がなく、だから動物を傷つけても良いという”危険性の論理”はこの合意に反しますし、弱者やマイノリティへの攻撃に容易に繋がりかねないのではないでしょうか?
スリーS @Super_S_Shoborn
医療食料問わず動物資源は人間の生命線であるので、その使用禁止は生存手段の放棄であり自殺行為です。また、人間から動物資源という生存手段の剥奪はその人間から排除対象となるので、これもまた自殺行為。二重の意味で危険な行為なので動物に権利を与えてはいけません。
全ての人間は任意の人間から危険性を保障されている(自分はそう主張している)ので、弱者やマイノリティへの攻撃に容易に繋がりません。
動物も報復しますが、人間にとって大した危険ではなく、それ一頭を銃等の動物では認識出来ない武器で殺せば再報復されません。人間が危険なのは動物と異なり火や毒、自動車銃火器等の過剰な攻撃力を持っているからです。毒を使う動物はいますが、それを報復には使いません。『過剰な攻撃力』を持ち、かつそれを『報復等に使用する』生物はただ一種、ヒトのみです。故に人間にとって人間が特別です。他に該当する動物が居るのでしょうか?
箱のなかの海 @kawa_machi
2点教えてください。
1. 過激な動物保護団体は多く居て、その中には銃火器などで武装しているものも有りますよね。 単に危険性の大小なら、下手な人間のマイノリティよりもよほどある種の動物のほうが危険性を保障されている(報復の可能性が高い)と思いますがいかがでしょう。
2. 本当にすべての人間同士で危険性を保障しあっているのでしょうか。 例えば、ウイグルの人々が中国共産党の上層部に報復できるとは思えないのですが。 仮に米国を動かして、米中戦争が起きたとして中国が勝った場合は?
端的に言うと、 「どうしていじめはダメなの」という問に対して、 「先生に怒られるから」と答えられてるような感覚があります。
スリーS @Super_S_Shoborn
1. 危険性の保障を代行・専門化・強化した警察・司法という組織の方が基本的に有能です。
2.国家という組織は人間が運用すれども人間そのものではありません。人権は『人間が』人間を安全に取り扱う規範ですので、国家対個人では基本的に機能しません。中国みたいに強い国家にとって人間は脅威ではないので、中国は人権を守る必要がありません。では何故人権を守る国家があるかというと、国家が比較的弱いか国民が運用している国民主権国家だからですね
箱のなかの海 @kawa_machi
1. 確かに、警察、司法のほうが優秀です。しかし、危険性で問題になるのはどちらが大きな力を持っているかではなく、ある閾値以上の力を持っているかでしょう。
戦車や戦闘機よりマシンガンの方が弱いですが、普通の人にとってはどちらも脅威です。
2. 人権とは、単に人間であるということに基づく普遍的権利。「対国家権力」または「革命権」から由来している。ブルジョア革命(資本主義革命)によって確立された権利であり、「近代憲法の不可欠の原理」とされる。 人権は人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利であり(略) Wikipedia 人権
えっと、その人権の定義は少なくとも一般的に受け入れられている定義ではないですよ。 対国家、つまり自分より強い相手に対するものです。
箱のなかの海 @kawa_machi
人と動物との違いはなにか?という問いに対して、
1. 傷つけた時に報復される危険があるのが”人”で危険がないのが”動物”
2. この危険とは殴る、噛むなどではなく、銃火器などの過剰な武力を指す
3. 報復するのは傷つけられた本人ではなく、それを見た他人でも良い
という基準が出されました。
それに対して、
1.例えばクジラを傷つけた相手に銃火器を用いて報復すると宣言する愛護団体が存在したら、クジラは”人”の基準を満足しますよね?
2.銃火器などを苦にしない強い個人や団体(国家)は、弱い立場のホモ・サピエンスを傷つけても倫理的に問題ないとなりませんか?
スリーS @Super_S_Shoborn
警察・司法の方が基本優秀なので、過激な動物保護団体はテロリスト認定して取り締まってその保障を無効化してますね。
銃火器などを苦にしない強い個人(超科学異星人だろうがスーパーマンだろうが)や団体(国家)が弱い立場のホモ・サピエンスを傷つけても、その個人や団体(国家)にとっては問題ありません。同じように強い力である台風が我々の人権を慮ってくれるんです?
箱のなかの海 @kawa_machi
なるほど。そこまで力を信奉し、強者は何をやってもいいとお考えならそれはそれで筋が通っていると思います。
願わくば、その考えが弱い立場に向かないように、また貴方が強者に蹂躙されませんように。 どちらにしても、中国には住まないほうがいいと思いますよ。
攻め方と守り方は非対称で、普通は攻め方が大幅有利です。本当に取り締まりが完璧にできるなら、アメリカは911を受けずにすみました。
スリーS @Super_S_Shoborn
自分はスーパーマンでも独裁者でもないことを知ってますし、立場が弱かろうが強かろうが人間にちょっかい掛けて好き好んで危険を被ろうだなんて思ってないのでご心配なく。
それに『安全』というのはリスクゼロという完璧を表す言葉ではありません。人間を対象に限らず、危険性を小さくする為に安全な取り扱いを行っていますが、自動車を安全運転してたって事故は起きます。警察を信用しないのは自由ですが、警察という抑止力がなければもっと被害を受けていたのは想像に難くないでしょう
箱のなかの海 @kawa_machi
警察がなければもっと被害を受けていた と 警察があっても被害を受ける危険がある は矛盾しませんよ。
報復される危険があるなら(実際に日本では太地町が有名ですし、海外ではもっと大きなテロも起きています)、あなたの基準ではそれは”人”であり、傷つけるべきではないのでは?
スリーS @Super_S_Shoborn
報復や排除による危険性を無制限に正当化するのもまた危険です。極端なことを言ってしまえば『貴方の周りの空気を保護する。吸えば貴方に対して報復する』ということも殺人の正当化に悪用されてしまいますね。従って人間への危険性が最小になるように線引きする必要があります。今の所設定されているベターな線引きはヒト及びヒトに所有される(動物含む)物ですね。
その線引きに動物まで含めてしまうと、動物資源によって生存している人間及び今後そうなるかもしれない人間(つまり万人)は生存手段を奪われた形になります。鯨も飢饉時は立派な食料です。狩猟には継続的な経験が必要ですので、飢饉時だけは鯨を殺していいと言われても狩猟出来ずに餓死ですPermalink | 記事への反応(1) | 10:35
非モテ論見てると、男女どちらがより辛いかとか、自分はどんなに努力し尽くしていてもう手がないかとかを主張するぐらいしか慰めがないと言うのは、ネオリベが自称弱者に説教しすぎたことの副作用なんだろうなと思うよ。
自分がどんなに辛いか説明すればするほど「じゃあこうしたらいい」「あれは試したのか」「それぐらいの努力はしてから嘆けよ」「アフリカの恵まれない子ども」と四方八方から飛んでくる世の中はたしかにうんざりだわな。
孤独とは、「自分の苦しみを理解する人がいないこと」だと思うが、そういう意味では皆孤独なんだよね。皆それぞれ地獄を抱えていて、真に理解し合うことは不可能なんだから。
でも、ある程度の理解は可能で、だから自らの不幸について言葉にするのは少なからず重要だよな。にしても、自分の不幸を語るにあたって、他人の不幸を踏みにじるような真似をすれば叩かれるのは当たり前だ。ここは多様性のインターネッツなんだから。
悲劇のヒロイン(orヒーロー)が主人公なのは、悲劇の他人なんか誰も好きじゃないからだよ。不幸に浸ってる他人とかうざいだけだ。
孤独の解消は同性同士の友情で〜、とあるがまあ同性が同じなのは性別だけだから役に立つはずはないわな。たぶん孤独の解消に必要なのは、同じ苦しみを持つ相手だよ。つまり非モテは非モテ同士の閉じたコミュニティを作って自分達がいかに不幸かを語らえばいいんだよ。
そこで自分たちがいかに不幸か、抑圧されているか、不当な扱いを受けているか嘆いて、社会や異性を憎めば……解決するんかな。閉じたコミュニティでこれをやってるのがまさに白くてもちもちな例の和菓子先生率いるそこら辺だと理解してるけど、どうなんですかね。孤独は解消されましたか?先生は救いになれましたか?
アメリカで同じことをやってるコミュニティもあるね。(某先生は同じつったら怒るけどね、思想として共通するところはかなり多いと思いますね)彼らはインセルつって、クソみたいな無差別殺人とかテロとかを起こしてるけど。ありゃ救われてんのかね。気になりますね。
男性非モテ同士のコミュニティが悲しみではなく、憎しみを共有するようになるのはなんでだろうね。わかり手と名乗ってたわからずやの自称狂人も同じこと言ってた(そして彼も其方側に行ったね)。そうじゃないコミュティもあるが、少数だもんね。彼らは救われてんのかね。
ただひたすら単純に、自らの悲しい気持ちを嘆くことが現代では許されないのかもね。あらゆる不幸に対して解決策が用意されちゃうから。それが解決策になるかは別として。「幸福になれないとは努力が足りないからだ」と言われちゃ、自分の不幸は自己責任、努力不足だもんな。
そういう意味で、「ぴえん」は画期的だと思ったよ。ぴえんに嘆き以上の意味はないからな。余計な憎しみが付随してない。例えるなら平安貴族的だよね。解決とか思想とか、そういった下らないものに囚われず、純粋に感情だけを詠みあげる。まさに共感ツールだよね。平安貴族なんか、庶民が餓死してても「貴方の夢が見れない ぴえん🥺」だからな。現代と違って「あなたよりもっと不幸な人もいるんですよ!」とか説教しにくる他人がいないから許されてるよな。如何なる批判も、「でもこれが風流ですから〜」で済むしな。
ぴえんはそこが似てるよな。「ぴえん」に説教かましに行くのは無粋だ。そういう和歌的なミームとして定着してるよな。
非モテには、そういう、ぴえん的な悲嘆が必要なんじゃないかな。思想じゃなくて、役に立てられない解決策じゃなくて、ただ純粋に悲嘆に浸ること、これは結構いいものだと思うよ。モテモテハーレムアニメだけじゃなくて、自分に似た誰かの話を探せればいいね。増田文学にももっと非モテの話が必要だと思うよ。くだらない思想を垂れ流すよりよっぽど有益だと思う。共感の有益さを、もっと理解すべきなんだよな。
リベラルの非モテ論には肉体的視点が足りない、と言ってる増田もいたけど、まあたとえそうだとしてどうしようもねえからな。本能的欲望だから満たせるようにしましょうね〜つって、女をあてがうとか不可能だ。せいぜい結婚して子供を育てられるだけの時間とお金が必要だよねっていう、当たり前の結論しか出ない。
肉体的欲望はさておき、解決はさておき、孤独は孤独としてあると思うんだよな。そしてそれを解消するのは共感だ。ぴえんは救いだと俺は思う。
顔立ちは気に入らないけど面白かった。3期が楽しみ。
ただ気になるところがある。
ラインハルト軍が反乱貴族を追って確か要塞攻略する場面だったと思う。
反乱貴族とテレビ電話してるとき、「姉弟揃って皇帝に媚びるんだな(大意)」と煽られたラインハルトが激怒して作戦を変更した。
それを見た部下同士が「ラインハルト様も『感情に支配される人間』なのですね」と話していた。(感情に、のところにアクセントがついているのでこういう意味になる)これが納得いかない。
これが「ラインハルト様も感情に支配される『人間』なのですね」(人間にのところにアクセントがつく)なら理解できた。
ラインハルトを深く慕っていた部下が思わぬ一面を見て等身大の人間であることを実感するのは納得がいく。
また、「ラインハルト様“は”『感情に支配される人間』なのですね」も冷たすぎて話が違ってくるがわかる。無様な姿を見て急に醒めたんだろう。
だが「ラインハルト様も『感情に支配される人間』なのですね」だと「世の中には感情に支配されるタイプの人間と支配されないタイプの人間がいて、前者の方がずっと数が多いor部下の知る別の誰かも前者だったが後者も存在する」「ラインハルト様は後者ではないかと思っていたが実は前者だった」という意味になる。
だが部下は感情に支配されるタイプとされないタイプの話などしておらず、ラインハルトを感情に支配されない人間だと思っていた描写もない(確か)
あの名前忘れたけど黒髪の参謀が感情に支配されないタイプであると見せたかったのかもしれないがそれならもっとわかりやすくしてほしい。