はてなキーワード: 自死とは
無能ってのは生きてるだけで強く基本的人権を侵害されているんだよね。
無能だから。「人間未満」だってわかってるから。人権剥奪してほしいって思ってる。僕は人間にはふさわしくありません。猿として扱ってくださいって思ってる。
それなのに人間様は「お前も人間だ」って言って聞かないし、抑圧を平気でしてくる。
そうしないと彼らの作ってきたものが壊れちゃうんだよね。人権ってそういうもの。誰にでも等しく保証されてるなんてキレイ事言っちゃうからふさわしくない人には暴力になっちゃう。
危険な人権をもってして僕に枷を嵌めて人間だ人間だ自殺は良くない自殺は良くないと責め立てる。死ねないから安心してよ。能無しなんだから。
いじめている人は、自分が理由なく命を奪われる可能性を何千倍、何万倍にも上げている。そのことに、気づいていないのだろうか。
いじめている側に。
この世の中で、我々が人に科すことができる最大の刑は、死刑しかない。もし、人が死を覚悟した場合、死をコストとして払うのも厭わないと決意した場合、私達は、その人が決意した行動を、押しとどめることはできない。
そして、いじめが、人に自死を決意させる行動であることは、これまでも何度も明らかになっている。
では、自死をすることを決めたいじめられている人が、いじめる側の存在を、滅しようとした場合。死を賭して、いじめた人間に仕返ししようとした場合。いじめられた側は、いじめた側と、正々堂々戦う必要は一切ない。
この瞬間、いじめた側の人間の命は、理由なく奪われる危機にさらされる。
いじめる側は、常に不意打ちを受ける可能性がある。
寝ている時、目を閉じている時、後ろを向いている時。いきなり、あなたの喉笛に、ナイフが突き立てられる可能性が、あなたが何気なく手を伸ばした飲み物に毒物が仕込まれている可能性を、どこまでも否定できなくなる。
誰かをいじめた以上、一瞬たりとも、安穏としていることはできないはずなのだ。いじめたのに、身の危険を感じず生きているのは、単に、はてしなく無能か、鈍感なだけに過ぎない。いじめた以上、自分が理由なく命を落とす危険が、果てしなく、何倍にも高まっている。
しかも、いじめた人間が殺されて、その理由が「いじめ」にあった事実が明らかになった場合。いじめを理由に殺した人間が重い罪に問われるとは限らず、逆に、殺されたあなたこそが、名誉回復の機会すらなく、未来永劫、悪人として記憶され続けることもありえるのだ。
いじめとは、他人の面前で、その人の誇りを汚すこと。いじめで得られるものは、退屈をしのぐ程度の、昏い喜びでしか無いだろう。
それは、自分が理由なく命を奪われる可能性を何千倍にもあげてまで、獲得する価値がある喜びだろうか。
まだ、間に合うかもしれない。全存在をかけて、謝れば、許してくれるかもしれない。ただ、許してくれないかもしれない。いじめる側がしたことは、それぐらい罪深い。だが、一刻も早く謝ることが、あなたの命が救われる可能性を上げる、唯一の方法だ。
いじめた人間が無事でいられるのは、いじめられた側に寛容さがある、その一点だけ。そこに甘えているだけだ。
翻って、いじめられている人。
自分を害することも、自分を害した人間に仕返しをすることもなくその場をやり過ごした人。
それは、大変な偉業だ。
「いじめっれましたが、一切仕返しもしませんでしたし、絶望して自分や周囲を害することもしませんでした。」履歴書に書いたっていい、誇るべき寛容さだ。
そして、いじめている側と、戦ったりなんかしなくていい。いじめなんてことをするくだらない人間は、正面から相手する価値もない。
単に、やりすごせばいい。
いじめに対して傷つく必要も、やり返す必要もない、と気づいているあなたの寛容さこそ、最も尊い価値がある。理由なく降りかかった不幸を、黙って耐えているあなたのお陰で、いびつかもしれない平和は保たれている。いびつでも、価値ある平和だ。
幼い頃父親が自死について婉曲に語っていたのも妙にくっきり覚えている。
でも、結局、鬱病からはなんとか逃げ切れたし、いろいろありながらもなんとか生きている。
つらいことからは逃げ切ろうよ。
度々思っていたし、
というか、世の人みなそうだと思ってた。
死にたいと思いながら生きるのが、
三年前、父を自死で亡くした。
ああ、やっぱり、と思った。
わたしは死にたくない。
わたしが死んだら、家族とか、友達とか、恋人とか、みんなきっとショックを受けるし。
わたしは死にたくないんだよ。
でも、そんな思いとはうらはらに、今日も希死念慮がわたしをおそう。
ストレスやプレッシャーが増えると、希死念慮もいっそう強くなる。
最近、仕事の辛さうなぎ登り。それにともない希死念慮もうなぎ登り。
辛いことから逃げちゃだめだ、とは思う。
でも、自分を生かすために、逃げてもいいんじゃないか、とも思う。
自分を生かすために、
辛いことから逃げて逃げて逃げまくって、逃げきりで人生を終えること、できるかな。
はじめて言葉にした。
わたしが、死にたいって思ってるなんて、
それでいい。
守るものが出来て、一層がんばったらうつ病、というケースが増えている。
いきなり首切り、という極端なケースもあるが、多少の見舞金や退職金など、無職になればあっという間に消えてしまう。
伴侶として、親として、社会の責任を果たしている人間なら、当然だ。
そして、カネがなくなった時に、最悪なのが一家心中だ。
ならばどうするか。
酷い死を迎えたくなければ、安らかな死に方を自分で選ぼう。
穀潰しは死ぬが、配偶者や子供は、男社会で辛い人生を歩むだろう。
しかし、メンヘルになる前に入っていれば、自死することで、穀潰しが死ぬ上に、遺族に十分なカネが入る。
その額は、メンヘルにならずにまともな人間として定年まで勤めあげたと想定される、数千万だ。
伴侶も子も、泣くだろう。だが、すぐに感謝する。
カネを残さず死んだら、恨みこそすれ、感謝など無い。むしろ、忌まわしき存在として、彼女らが死ぬまで呪われるだろう。
そんなわけで、新年度、生きていく辛さに直面した若人は、何も考えず、上限いっぱいの生命保険に入りなさい。
それがあなたを救うであろう。
※冒頭のお詫びとお断り:検索対策のために、略字を多用することになりました。読みづらくて申し訳ありません。
お勧めいただいた『R』、読了しました。小説を読むこと自体が、わたしには滅多にないことなので、読み出し当初は困惑しつつも、広大な小説世界に潜り浸るという新鮮な体験を楽しむことができました。作者NAの文体も、読み慣れてチューニングが合うようになると、とても心地よく感じました。そんな読書の幸いを少しだけ、感謝を込めて共有させていただけたらと、拙い感想をお届けいたします。ご笑覧いただければ嬉しいです。(わたしには本当に文才がないので、つぶやきの投稿のように、思いついた順番で書き散らかしまうことを、どうかご容赦ください。いわゆる「感想文」を期待されませんように…。)
『R』のなかに見出した、タイトルとなった人物RRと、修史を完成させたSS、そしておそらく、作者であるNAの、幾重にも折り重なった宿命との葛藤が、深く胸に響きました。読書中は熱い臨場感をもって読み進めていたのが、いま、こうして彼らについて語ろうとすると、静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ちになるのは、なぜだかわかりません。書きながら、自分の感情を文字にして確認してみたいと思います。
RRが、内に抱えた矛盾を少しずつ自覚し、揺れていく様は、わたし自身も覚えがあり、とても身につまされました。B帝に誤解され、国に残した愛する老母も妻も子供も弟も、みな殺されてしまう。RRは、大いに怒り、忠誠を誓ったはずの国とのつながりを見失う。思い返せば、これまでR家の忠誠に国は報いてくれたことがあったかと疑い、むしろ辱しめを受けただけだと失望する。そして、首を取って戻るという目的を喪失したものの、よく似た身の上で、誰にも認められなくとも、国への愛情と忠誠を抱き続けたSBに、尊敬の念と敗北感を抱く…。
家族を殺された怒りの大きさのあまり、B帝に誤解させたであろう同姓のR将軍の「存在」を怒りの矛先として、即座に彼を殺害したRR。けれど、B帝の誤解の原因が本当にそうであるか、定かでないはず。B帝と同様に、RR自らの誤解の可能性が、R将軍の命を奪い、彼を愛した皇太后を悲しませたかもしれないことに思いは至らなかった。ただ怒りに身を震わせて、衝動的に行動してしまった。おそらくは、B帝がRRの裏切りだと誤解して、衝動的に一族皆殺しを命じたように。
たしかに、身分の違いによる命の重さの違いを当然とする価値観が、受け入れられていた時代だったかもしれません。それゆえ、別の場面では、砂漠の中、戦局が厳しく、少しでも確実に部隊を生き延びさせるために、RR自ら、部隊に男装して混じっていた妻たちを殺害する命令を、冷静に下したこともあった。同様に、愛する妻を殺された部下は、敵に寝返って、RRの部隊の勝機を完全に奪った…。
RRは、自分がされて苦しんだことを、他人に対して無自覚にしてきたということ。それゆえ、RRが直面した苦しみの本質は、因果応報で自業自得というメカニズム、…などでは「決して」ないと、わたしは思います。そもそも、RRの行動は、彼なりに状況に応じて最善と思われる選択をした結果でした。作者も、そんなRRを「悪」として描いてはいません(むしろ、宿命との格闘を活き活きと描写する姿勢には、愛情を感じます)。状況に追い立てられ、もがきながら生き延びてきた選択の愚かさを、もしも誰かが(分析好きのわたし自身が)指摘するなら、それは一生懸命さに対する揚げ足取りにすぎず、そもそも人間はそういう愚かな存在だし、渦中にあったら、わたしもそうしたはずだと(ましてや、さらに低きに流れていた可能性のほうが大きいと)、反論せずにはいられません。
SBと邂逅後のRRは、自らの抱える矛盾や二面性に気がついて、苦しみを深めます。B帝の死後、かつて望んだように、国から彼が認められ招聘が掛かるのですが、それを断る弱々しい(元気のない)声のRRが印象的です。RRは、ここでもまた無自覚で、言葉を結んでいないものの、自らを通じて、人間存在の内にある矛盾や二面性に、また国(人間社会)の内にある矛盾や二面性に直面して、途方に暮れているのではないかと、わたしには感じられました。さらにいえば、SBのように国への想いを貫ける強さも持ち合わせず、そのSBを羨望する弱い自分を恥ずかしく思うRRは、それゆえ人間の矛盾と二面性を丸ごと生きているのでしょう。RRの覚悟が悲壮であるとすれば、そのような自分に気づきつつも、両極に引き裂かれてどちらへも動けない苦しさゆえと感じました。正しい道はあまりに険しくて進めず、かといって居直ってダークサイドに落ちることもできないと自覚した以上、どっちつかずのまま生きながらえます(B帝の死後、7年目に没)。おそらくはRRも、自殺による幕引きを自らに封じた一人でした(文中では、現地での恩義や家族などのつながりをRRはあげていますが、対して、RRの祖父は、親のいない孫を残して、義憤から自死を選んでいます)。
ところで、RRは、自らとSBとを「隔てる根本的なもの」に直面し、自らへの「暗い懐疑」を自覚するに至るのですが、SSとの関係もまた非常に興味深いです。
SSは、RRの名誉を守ろうとしてB帝らに反駁し、結果、死よりも恥ずかしむべき宮刑を受けます。ところが、このことを伝え聞いたRRは、自らの沈む絶望が深く、SSに対して何の特別な感情も抱きません(し、そのようなクールなRRの反応を、SSは伝聞することもありません:そこに作者NAの優しさを感じます)。対してRRは、B帝のため国のために信義を尽くそうとするも、相手から誤解され、罰せられて一族が殺されたことを知り、大いに絶望して反転します。しかし、自らが、為を思って働いた相手に無碍にされることが、どれほど当人を傷つけうるかに、思い至りません(し、それも尤もだと説明を書き添える作者NAには、RRへの深い愛情を感じます)。
そんなSSですが、42歳にしてようやく父の遺言を継ぎ、修史の編纂に取り組むことが叶います。現代の人々に知らせるために記録するにとどまらず、人間の叡智として後世へ伝え残すための歴史、なにより自分自身が書き残したい歴史には、「人間についての探求」が不可欠だと考え、「述べる」と「作る」との違いを熟考する。しかし、真摯に取り組めば取り組むほど、歴史上の人物と自分自身とが渾然一体となるような文章、まるで描き出す歴史上の人物の中に自分が生きているような表現、憑依し憑依される活き活きとした文体が流れ出る。そうした箇所を削除すれば、たちまち修史はいくつもの死人に関する記録に成り下がる。削った字句を戻して、ようやく歴史上の人物たちが「安心してそれぞれの場所に」落ち着くように思われる。
このSSの創作風景に、作者NA自身の創作風景を重ねて見るのは、自然でしょう。わたしは、NAについてほとんど何も知らないけれど、この『R』やその他の彼の短編小説なども、歴史書を下敷きにして創作されたと(文庫巻末の解説に)目にしました。憑依し憑依される関係性のなかで、自らの書く小説の中に(のみ)活き活きとした自由を感じられたのは、SSだけでなく、NAもそうであったと想像します。
先を急ぐ前に、もうひとつSSについて。時代的・文化的な特徴と思われますが、宮刑を受けて「男」でなくなった自分の身体は、「完全な悪」に落ちたと苦しみます。心の傷は癒えても、醜悪な身体は、死ぬまで自分を苦しめる。それは、自分という存在そのものが、悪である証しであり、生きる限り続く恥辱だ、と。これが、「盲目的な獣」としての苦しみの段階です。(が、作者NAの有名な短編『S』では、狼へと変身して初めて思い至った気づきを、数日で通り過ぎてしまうあたり、作者NAが、SSに託した気持ちの大きさを思います。)
その後、SSは、我が身に降りかかった苦悩・人生への懐疑とは別の、意義を疑えない「畢生の事業」である修史に「無意識の関心」が向いており、それゆえ自ら死を選ぶことができないでいるとハッキリと自覚します。ここから、「より意識的な・人間」としての苦しみが始まります。この、獣から人間への飛躍が、とても深いことに感嘆しました!
「獣」と書いていますが、つまりは世俗の社会的価値観のなかで「盲目的に」生きている段階のことです。ここでは、「身体=身」と「心」という対比が支配しています(「身/心」という二元論で捉えられています)。舞台となった漢の時代的・文化的な特徴として、名誉や忠誠といった「心」を守り通すためには、人々は死を恐れず、むしろ喜んで「身体」を自ら差し出します。SSも、死刑を恐れてはいませんでした。しかし、醜悪な「身体」となったSSは、その恥辱から「心」を解放すべく死を願うも、それを押しとどめるものの存在を予感します。自宅に戻ると、それは父に託された修史編纂の完成であることを理解します。自らに刻み込まれた「宿命的な因縁」として、「肉体的な」仕事とのつながりを放棄できないことに改めて気づかされます。ここから、「より意識的な・人間の苦しみ」へと飛躍するわけです。
ところで、世俗の社会的価値観(=知覚や意識)は、SSの「心」=「我」と、「身体=身」とを形成してきたものです。しかし、託された使命への自覚は、既存の価値観にとって、おめおめと生き恥をさらすような人生を続けることを求めます。SSの抱く既存の価値観(=知覚や意識)にとっては、耐え難く、非情な要請です。そのため、「知覚も意識も」持たない、修史編纂のための「機械」に過ぎないと、(既存の価値観=知覚や意識で)自分を定義しなければ、自らに言い聞かせなければ、生き続けられなかったのだろうと思います。SSがSSであるという意識の土台となる「心」=「我」も、そのために捧げる「身体=身」も、当時の社会的解釈の上に成立してきました。この解釈にいつまでも安住できたら、まだSSの苦悩は浅かったかもしれません。「宿命的な因縁」、すなわち、いにしえから脈々と受け継がれて自分に生命(魂)を与えた血統のように、時代を超越した「肉体的な」つながり=使命(魂)への自覚は、SSに当然視してきた当時の社会的解釈に安住し続けることからの飛躍を求めたわけですから。「心/身」という二元論を越えて、使命を抱く「魂=肉体」として自らの存在そのものを捉え直すことは、当時の社会的解釈から、漢の時代的・文化的制約から、身を引き剥がすことでもあります。それは、昭和の時代から当時を見つめる、超越的な作者NAの視点でもあります。
ここで描かれたSSの姿は、作者NAの解釈したSSの苦悩であり、おそらくは、昭和の現実を生きて苦悩したNA自身の苦悩の姿であるのかと思います。作者NAもまた、病床のなか不遇のなかで「心」も「身体」も傷つきつつ、作家として生きる使命によって、自らの小説の中に「魂=肉体」を解き放したのかなと思いました。(ちなみに、「魂」という単語は、作者NAは使っていません。でも、明らかに、「身体」=「身」と、「肉体」というのを使い分けています。その差を強調するために、わたしが勝手に補ってみました。)
そういうわけで、困難な戦場を生き延び、また自らに暗く懐疑するRRも、自らの信じる正義を貫き、恥辱に苦悩しながら使命に生きるSSも、その抱えた宿命の重さにも関わらず、活き活きと自由に躍動する姿には、作者NAが重ねられているのだと思います。NAにとって、小説を書くことというのは、憑依し憑依されてその世界を生きることなのだろうと感じました。事実、『R』のなかで、RRとSSの二人について「だけ」、歴史上の人物としての事実の描写だけでなく、その場にあって思い感じたこと、彼らの知覚と意識まで作者は思い描き、詳細に語っています。(わたしは、新潮文庫を購入したのですが、その文末の解説に、『R』はRRとSSとSBの三人の物語だと紹介されていて、そりゃちょっと違くないか?と違和感を覚えました。それもあって、今回の読書では、基本的に予備知識なく、勝手に読んでいます。)
だからこそ、冒頭に書いたような「静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ち」を抱いてしまうのかなと思います。RRやSSが抱えた宿命の重さも悲壮な覚悟も、作り物としてのフィクションではなく、また単に歴史を題材にした半分史実・半分フィクションといったものでもなく、作者NAが抱えたであろう実体験を(ノンフィクション、と片仮名で書くには軽すぎる経験を)、わたしはそこに感じたからだと思います。
作品は、読者の能力に応じて・読者がそこから読み取れるものしか、読むことができないのだろうと思います。(それゆえ、例えば同じ聖書であっても、子供が、若者が、大人が、死を前にした老人が、それぞれが自分に必要なものを、そこから読み取ることができるのだと思います。) だから、わたしが読むことができた『R』は、私の興味・関心に限定された、豊穣な作品全体のごくごく小さな断片に過ぎないと自覚しています。きっと、H.H.さんからしてみれば、幼い読み方だと笑ってしまわれるような感想だったかもしれません。それでも、この作品に出会えて、とても嬉しいです。作品を作ることに込める覚悟のようなものを、改めて考えるキッカケをもらえました。ありがとうございます。
最後に、『R』を読みながら、H.H.さんがそこに読み取ったであろう痕跡をいくつか感じました(例えば、存在することが悪であること、それでも書写機械として生きる覚悟をしたSSの中に)。そんな大切な小説を、紹介してくださって、本当にありがとうございます。とても光栄です。でも、もしかしたら上述した私の感想は、そんなH.H.さんの想いを、まるで現国の試験問題に答えるかのように切り刻み、分析し、曲解した失礼なものと映ったかもしれません。もし、不快な気持ちにさせてしまいましたら、本当に申し訳ありません。(あなたの真摯さに敬服するファンとしては、自分の正直で素直な感想を真摯に伝えるべきで、あなたのご機嫌を取るために媚びを売るような接し方こそ失礼なのでは、と勝手に考えてしまいました。決して、あなたを否定するものではありませんこと、ご理解ください。)
自分について思索する道を、Kさん=H.H.さんに教え導いてもらえたように感じています。あなたの魂=肉体の存在に、感謝します。(勝手なファンの願いであり、余計なお世話かと思いますが、だからこそ、どうかご無理をされず、くれぐれも心と身体を大切にしてください。) あなたの幸いを心からお祈りしています。
h_s
母は自死してしまっていたが、先日、たった一人のきょうだいまで亡くした。
育ちあがったゆえ
正直、安堵した思いがある。
してもらった記憶もなかった。
わたしたちは、祖母に育ててもらったようなものであった。
くわしくは省くが母を死においやってしまった
数年、くるしんでいた。
わたしは選択しなければならなかった。
後者を選んだところ
一般常識のある人たちとかかわることは
なんとスムーズにいろいろなことがすすむのかという
カルチャーショックなど受けながらも
わたしは母の死後なんとか生きていたところなのであるが
妹まで亡くしてしまった。
これには肩を落とさざるを得ない。
発達障害だろうと思える人を父にもっている以上
友人だった人をふくめると7人を自殺で亡くした。
つまり先月は二人同時に亡くした。
いや無理やり慣れざるをえないというのもあるが
仕事も家族も抱えているので今回ばかりは精神科に一目散にかかり
メジャートランキライザーと睡眠薬を処方されなんとか49日までしのいだ。
むかしの人は49日とはよくいったものだ。
愛が足らなくて死んだんだ、と私に怒鳴るのだった。
愛の渇望感ときたら、わたしも10代のころはひどいものだった。
問題のある親たちの場合、子供に愛情をわかりやすいかたちでかけてやることができない。
妹は亡くなった時、
携えていた。
入っていた。
私ももっと妹に愛をかけてやれたらと
ホームに滑り込んでくる快速急行に走り幅跳びのようにぴょんと飛び込んだという妹のはいていたスニーカー
血のついて摩耗したスニーカーを抱きしめながら泣いた。
お婆さんを助けたせいだ。俺は今わの際にそう思った。俺は佐々木誠也26歳。情けないことに、こうして自死を選ぶ。それもこれも、あのお婆さんのせいだ。
あれは俺が大学4年だった頃。就活中。100社以上エントリーシートを送って、やっと最終面接にこぎつけた企業の面接日。俺は時間に余裕を持って家を出て、面接会場に向かう道すがらだった。横断歩道で信号待ちをしていたら、隣に立っていた見ず知らずのお婆さんが倒れた。周囲に人はおらず、俺がやるしかなかった。俺は類まれな危機管理能力を発揮して即座に救急車を呼び、救急車を待っている間にも息と脈を測り、気動を確保し人工呼吸をし、救急車の音が聞こえるや、救急隊員をお婆さんの所に誘導して倒れた時の様子を説明しながら隊員と一緒に救急車に乗り込んだ。
お婆さんは一命をとりとめたが、気がついたら面接には大遅刻。物語だったら助けたお婆さんの親族が面接官でって展開になるわけだが、現実は非情だった。どんなに説明しても時間に遅れるなど社会人失格と、取り合ってもらえなかった。
そのまま就活は全滅。飲食店でフリーターをやりながら就職浪人をしてみたが、既卒をまともに採用してくれる所なんてなかった。フリーターの仕事はどぎつくて、休みなく働かされた。大学時代から付き合っていた彼女との時間も取れなくなり、愛想を尽かされて振られた。2年でうつ病になり働けなくなった。
うつの治療をしながら、起死回生をかけて、ネットで海外の珍しい品物を見つけて輸入して売る輸入業を始めた。だが、俺にはセンスが無かったのだろう。4年頑張ったが鳴かず飛ばずで廃業した。
別に俺の事業の失敗のせいではないだろうが、時を同じくして両親が相次いで他界した。気がつけば俺が持っているのは、事業の失敗で作った借金だけとなった。フリーターの給料じゃ、何十年とかかっても返せないだろう。悲しむ人も居ない。俺は先の見えない人生に絶望して自殺することにした。
本当に、ほとほとろくな事のない人生だった。だがそれもこれで終わりだ。熱いため息を一つついて、俺は意識を失った。
* * *
目が覚めると病院のベットの上だった。失敗したらしい。失敗だらけの人生、俺は自殺すらまともにできないのか。硫化水素を使ったのが悪かった。医者が言うには、アパートの隣人が異臭に気づいて通報したらしい。俺は無意味に命を永らえた。自殺未遂をしたというのに、見舞い客一人来ない命を。
しかしながら、ベットの上でぼうっと過ごすうち、あれほど自分を苦しめていた重苦しい感情がすっかり無くなっていることに気がついた。健康保険もなく入院なんてして、また借金が増えると思っても、なんてことはない。一度死んだ命、あるだけ得さ。生まれ代わったような気分だった。やっぱりどうにもならなかったら、また自殺すればいいんだ。それまで気楽に生きていこうじゃないか。
『それ』に気づいたのは看護婦が食事を持ってきた時だった。
「小指、どうしたんですか?」
「えっ?」
「小指ですよ、小指。そういうの、流行ってるんですか?」
なんのつもりか、若い看護婦は自分の小指に赤い毛糸を蝶々結びに結びつけていた。ずいぶん長い。糸の先を目で追うと、病室の外まで伸びている。仕事に支障はないのだろうか?
「私の小指が、どうしたんですか?」
だが、看護婦は不審な顔をしている。俺の正気を疑っている顔だ。
「だから、小指の毛糸ですよ。ほら、看護婦さんの左手に……あれ?」
やはり看護婦の小指には赤い毛糸が結びついている。だが、それだけじゃない。その毛糸は、今やってきた医者の小指とつながっていた。どういうつもりなのだろうか。
すると若い男女はお互いに顔を見合わせた。
「患者さんの前で、よせよ……」
二人とも、ちょっと照れているようだ。目と目で通じあって、やたら幸せそうである。しかし、若い医者は訝しげに、
「でも、なぜそれを?」
「それ、とは?」
「確かに私達は婚約しますが……別に、言いふらしているわけじゃないんだけどな……」
お前か? 私じゃないわよ。なんて目の前でイチャコラするカップルの小指の間には、確かに赤い毛糸が結びついている。しかし二人がそうと気づいている様子はない。
これは、一体何なんだ……?
* * *
今のご時世生きがい論は腐るほど目にして陳腐化されているが、死にがい論は淘汰されつつあるのではないか。
検証はしないが最近の私を含めた若い人々は、ある程度生きがいはあるが死にがいがないという状態なのではないか。
ハンターハンターが終わるまで死ねない、とかごちうさ二期が終わるまで死ねないと冗談で言うがその人間たちはいまも平気で生きている。
近代的主体たち、つまり大人たいは定職に付き家族を守るなどという役割を見つけた主体は主体像が確立され死にがいをそこに見出す。
失業、離婚などそれを一度手にし失ってしまった彼らはそれらの消失により自死へとむかう。
死にがいは消失したのだろうか。
はたまた、イスラム国家を見ているとジハード、つまり死にがいが確実に存在している社会である。
彼ら若者たちは死にがいを求め異国に旅立つ。
句点が嫌いということであるがこの文章は決して十分に句点を排除したものとはなっていないことに留意すべきであって多くの方がブコメ等で指摘している通り句点の代替として改行が文の終焉を示しておりそこには目に見えないもののあたかも句点は存在するかのように句点なるものというべきかもしれない“それ”は間違いなく各行末にあるのだからただそれを消したのみで見ないふりをしているに過ぎず本来の意味での句点を嫌悪したものの態度とは言い難いのという指摘には首肯せざるをえないのではないかといったことを考えたときにまた途切れさせることのない文章ということを考えたときにはこういった文体にならざるをえないのであって元記事が「句点を打つということはその文章の流れに死を与えるものと同意」というのであればその記事はなにも打たれずただ野垂れ死んでいるだけであって言わば自死とも言える惨めな姿を晒しているだけだという現状を把握したときにまずはむしろ句点を打つところから始めよと逆説的な思いすら浮かびつつあえて何か言うべきことがあるとすればそういうことつまり諦めて句点を打ちなさい。(473文字句点含む)
でも、昨日の会見の最後までグダグダで、事件を通じてCDBのうっかりさんの見苦しさが際立ったと思う。
この業界に限らないけど、病的なほど男のハンドリングが上手くて、
実力を伴わないまま出世するのがいる。オボちゃんも典型的なその一人だな。
こういうのに引っかかったCDBのハイクラスの研究者の方々をリストアップしてちゃんと記憶しておくことは大切だと思う。
女子医大の戦艦?ハーバードのバカ茶?あいつらはただの香具師だ。業績も論外なレベル。
そういったことは嘘つきを見抜くためには役立たないという当たり前の事実を以下のリストと併せて憶えておきたい。
(ちなみにCDBは解体された、と言われているけど、未だに英語名称はCDBのままな)
(1)T市 元センター長
その後も断固たる処置をせず、責任も全くとれず、マネジメント能力が皆無であることが露見。
研究バカをマネジメント職に就けるのはやっぱまずいね(山中さんも今相当ヤバいよな)。
(2)故S井 副センター長
ノーベル賞はさすがに無理だったと思うな。リアルに撫でられて陥落。
自死を選んだから二人の交際の一番ヤバいところの詳細は外に流出しなくてよかったね。
でもオボちゃんを信じると決めて、その捏造を最後まで擁護して、CDBを崩壊させたという事実は忘れてはいけない。
素晴らしく優秀な弟子達がいるのは不幸中の幸い。バイバイ、ケビン。
(3)N羽 チームリーダー
業績十分。基礎生物学者としての実績の積み重ねは山中さんよりも分厚い。そんな彼でも猫撫で声でこれまた陥落。
「脇で見てた限りでは本当にSTAPできてた」みたいなコメントを周囲にしてたから本当に信じてたんだろうね。
でも撤回されたSTAPプロトコルの責任著者になってしまったのはお人好しの結果だろうけど軽率すぎるね。
再現実験もけりがついたから、CDBから脱走するために出していた某大学の教授選もこれで進むね。
(4)W山 元チームリーダー
彼は特殊だよね。研究者というよりはテクニシャン。ただしものすごくレベルの高いテクニシャン。
この手のサイコパス女をはじけなかったのは人を見る目がなかったと言うことと、
優秀な人を集めるのにいつも苦労してた焦りのコンボだろうね。
侵入させてしまい、のさばらせてしまい、全てのきっかけを作ってしまった責任は非常に大きい。
Spermeggの掲示板でSTAPについて嬉しそうなコメントをしていたのが今となっては懐かしい。
(5)N川 元副センター長
本件で近い分野の研究者の間では最も評判の悪かった一人。
彼だけは猫撫で声に関係なく、能力の足りない研究者のサポートに生き甲斐を感じていた、自ら進んでなったサポーター。
CDBらしさを作った一人だけど、らしさとは研究倫理の欠如がコインの裏側にあった。
ご自身にもオボちゃんの採用責任があるのに自分のウェブサイト(AASJ)で擁護コメントを連発し、見当外れなマスコミ批判にいそしんでいた。
現在執筆中という本件に関わるマスコミ批判本を出す前に。STAP論文で謝辞を述べられるほどサポートしてしまった我が身を振り返って頂きたい。
N川さんと同じくオボちゃん採用時の副センター長。こちらは再現実験チームに着任してから猫撫で声にやられてた。
おまけに元々変な正義感が強いので批判されているオボちゃんを擁護するという反骨精神を発揮して周囲を引かせてた。
失言大魔王として有名だけど昨日のあの会見のラスト発言のひどさは特筆に値するよな。
関係ないけど記者会見ではちゃんとズボンのチャックをしめてて感心した。人間まだ成長できるんだな、って。
どうか反省して余生を過ごして下さい。
以上です。どうか皆さんよいお年を。
あああ
前提として、誰が悪いという問題ではない。事象に良いも悪いもない。善悪を決めるのは立場と概念である。
うつ病は、患者もそうだが、その患者を引き取った家族にも多大なストレスとなる。特に患者が一度独立し、その後うつ病にかかり失職し、実家で引き取る事になった場合などは顕著であると思われる。
家族と患者の間でまず必要になるのは、両者の間で”うつ病についての”コミュニケーションを再構築する事である。家族は強力な共同体だが、それは生活の上での話であり、病気とは別だ。生活はツーカーでいけても病気となれば話は変わってくる。この両者を混同し病気についてのコミュニケーションを疎かにすると、両者の間に溝が生じ、最終的に相互不信の状態に陥る。家族の側から見ると「何を考えているのか分からない」「どう動いているのか分からない」、患者の側から見ると「どうせあいつらは自分の事など分からないし、分かろうとする気もない」となる。著者は実際そうなりかけている(と思っているのは著者だけの可能性もある。この場合は一方的な不信となるが、この状態が良いはずなどない)ので、以下に「あの時こうしていれば」と感じた事を書く。
1.病気についての知識を共有する。
患者は、家族がどこまで自分の病気を理解しているのか不安を持つ可能性がある。患者を含めた家族全体が、病気についてどのように理解しているのかを共有することは重要だと考える。可能であれば、患者の主治医などから、患者を交えて、その病気がどのようなものであるかのレクチャーを受ける。この時点であわてて本やネット上の記事を読んで知識をつけることはお勧めできない。重要なのは共通した認識を持つことなので、情報源は統一することが望ましい。仮に患者にとって最も大きい権威が主治医で、主治医と本の主張に食い違いがあった場合、患者は主治医の意見を信じるかも知れない。家族は本の主張を信じ、患者は主治医の主張を信じる事になると、ここにリスクが発生する。かと言って本を読むなという事ではない。後述。
2.患者の病識について共有する。
患者には自覚症状と、非自覚症状が現れる。著者の場合は、一時期ひどく怒りっぽくなっていたそうだ。そんな自覚はないのだが。一方、自覚症状として死にたいという気持ちが常につきまとっている。数年前に突発的に襲われ、その時は何とかやり過ごせたものの、以後延々とくすぶっている状況である。当然ながら家族には話していない。自殺のための道具一式を買い集めていつでも実行できるようにしている事も家族は知らない。書き出してみるとそこそこ危険な状態かもしらん。このリスクは、患者の病識を家族間で共有することで軽減することができる。(1)をクリアしていると、患者としても自分の状態を話しやすくなる――「家族は病気についてどこまで分かっているのか?」と疑問を抱えている状態よりは。理想は日常会話の中で患者側から「最近はこんな感じ」と言えるようになる事である。ここを誤ると患者はウソをつくようになる。
3.主治医と接点を持つ。
治療を医者と患者だけの中で完結させてしまうと、家族からは現状が見えにくくなる。また、患者と医者のやりとりもルーチンワーク化する可能性がある。毎回である必要はないが、数回に1度は患者に同伴し、どのようなやりとりの中で治療が行われているかを知ることは有益だと思う。患者の前で言いたくない事が出てくるかも知れないので、その場合の相談先(患者の診察日時とずらして主治医に会えばいいのか?あるいは別の相談先が用意されているか?)を確認し、患者にも伝えておく。患者に予告なく主治医に会いに行き、後になって「先生に会ってきたんだけど」という行為は、特に日頃から全く診察の同伴をしていない場合、患者にダメージを与える可能性がある。
うつ病患者に「がんばれ」は禁句とされるが、「がんばれ」の音の組み合わせがNGワードなのではない。文脈の問題である。上記をクリアすることで、患者に接する際のアウトラインくらいは見えることを願う。この希望的観測を前提とすれば、わざわざ項目を設けて書く必要もないんですけどね‥‥。ともあれ、無駄な所に気を遣って家族側が無意味にストレスを溜める状況をある程度は軽減できるかも知れない。できるといいなあ。
この記事もそうだが、結局のところ重視するべきは、著者の名前と肩書きしか見えない本でも、もっともらしく書かれているネットの文章でもなく、直接顔を見て会話をする人間である(その人間に治療を任せられるか否か、という所まで含めて)。ある問題に対して多角的にアプローチすることは有益だと思うので、本などを読んで疑問に思った事はどんどん主治医にぶつけていいと思う。(1)で本に待ったをかけたのは、情報が固着している本などでは状況に合わせた柔軟な対応が不可能だからである。「本を読んでだいたい分かったし、先生に会っても話す事とかないし、病院は患者だけで行ってもらえばいい」と思考が進むと、患者は自分の病気に関心がないと受け止める可能性がある。
以下は実際に著者が経験したトラブルである。ほぼ愚痴に近いかも知れない。
a)快方へ向かったフリをする
患者は「いきなり転がり込んできた厄介者」であることも「今後の人生設計を破壊した」ことも「大きなストレス源」であることも、百も承知している。したがって「早く良くなって欲しい」という家族側の希望も十分に分かっている。病気についてのコミュニケーションが十分でない場合、表面的に良くなってきた様子を見た家族が「最近は調子がいいみたいね?」と言う。上記の事柄を察している患者は「良くなってきている」と言う。言った以上、家族の前では無理をして元気なフリをする。しばらく経って、家族が「そろそろ社会復帰を考えてもいいんじゃない?」と言う。上の方でも触れたが、実際は自殺衝動から次の24時間をどうやり過ごすかの状態で社会復帰と言われても困る。溝は深まる。
b)金銭トラブル
患者は金遣いが荒くなる場合がある。クレジットカードは注意を要する。積み立てていた患者名義の貯金を知らない間に使ってしまっているかも知れない。例えば年金や健康保険料などを一度患者に渡して支払いをさせる場合は使い込みの危険がある。著者の場合は到底支払い能力を超えた大きな買い物ではなく、「このくらいなら何とかやりくりできるかも知れない」の小さな買い物が積み重なり、結局一度預かりで国へ納めるはずの年金を使い込んでいる。訳あって一時的に著者の管理となった生活費なども使い込みが発生している。当然バレる。
原因は判断力の低下である。「何とかやりくりできるかも知れない」の目測を誤る。対策の一例では資金の凍結、上限枠を設定したクレジットカードへの交換、あたりか。
資金の凍結は将来起こるトラブルを未然に防止することが期待できるが、「自分の金を無理矢理取られた」と思われないように、十分な事前準備が必要だろう。何せ相手はうつ病患者である。物事を悪い方へ、悪い方へと考える。著者が実家へ引き取られた時に資金の凍結をさせられた場合をシミュレートしてみたが、なかなか反応が想像できない。
で、著者が直面しているのは(b)の問題で、この背景に(1)から(4)の問題が存在する。ひとつひとつは容易に修正可能なように見える。しかし積み重なると難しい。大事故は小さな原因の連鎖で起こるパターンの縮小版である。判断力の低下と説明しても、家族が病気に対する知識をどれだけ得ているかの共有がされていないので「そんなの理由になるか」と一蹴される可能性がある。金額的な問題は今の家庭の経済状況で十分にリカバー可能な額なのだが、今後の資金ぐりや信用の問題などを考えると全く先が見えない。何をやっているんだか。かくしてここしばらく著者を悩ませていた自死が大きくのしかかってくる。大事故は小さな原因の積み重ねで‥‥
安定剤を飲みつつ現実逃避と気を紛らわせるためにこんな文章を書いている訳だが、これが遺言とならない事を祈るばかりである。明日病院いてきます。って明日祝日じゃん‥‥
そのため遺族は裁判を起こした。
約4900万円の損害賠償の支払いを命じる判決を出した。(弁護費用等は別途支払い)
http://media.wix.com/ugd/8b6c85_39db33de09bf4124aca387a6c7c037ba.pdf
自殺していない被害者に対しても、約4900万円に近い額での賠償請求権が
東電にあることになる。
まあどんなに低くても、2500万円を下回ることはないのではないか。
いま東電は、100万円で納得してくれだとか、最大限出しても200の万円が限度だとか、
そんな小銭の交渉で被害者を納得させようとしているようだ。
だが、そんな小額で納得することなど、
ならばそれに相応するだけのものを、
なにをみんな、責任をとったとか重圧に押しつぶされたとか言ってるんだ。むかしからある、単純なストーリーなんじゃないのか。
笹井先生ほどの名声と実力があれば、今回のような捏造案件に責任著者として連座していたとしても、今後の将来が真っ暗というわけではない。そもそも笹井先生の件は、ノバルティス問題ほど深刻ではない。患者さんに直接の危害があったり、国の保険医療のお金を削ったことで間接的に健康を害してすらいない。仮説を取り下げればそれで終わりの話だ。知性のある人達にそのように遇されることはわかっていたはずだ。
古くは中山恒明や和田寿郎が、倫理的問題を起こした後、請われて東京女子医大の教授になった。最近では東大捏造事件や京都府立医大捏造事件で責任をとった教授たちも、その後の人生を努力されていると伝わっている。日本社会は失敗した人間に復活を許さない、と言うけれど、現実には、ここまで優秀な人間たちの場合、普通かそれよりましな人生を生きていくことは許されている。それまでの人生では、多少なりとも患者さんや病院、大学や国家、時には人類に貢献してきたのだから、それくらいはいいだろう。個人として見るなら、家族の為を思えばそれで十分だ。子供を愛しているならそれでよいはずだ。
頭のいい人間が、それがわかっていないはずがない。その道を選ぶなら、すなわち、家族とともに生きるなら、批判と罵声を浴びようと小保方氏を切り捨てれば、それでよかった。海外に活路を求めるというのも、小保方氏では不可能だが、笹井先生ならおそらく可能だった。自分は、小保方にだまされた、責任著者としての責任は痛感する、だが捏造の実行者を完全に監視することは難しい。これからはこういった捏造者を見極める管理体制についても追求したい。などとのたまいながら。
でも、それができなかったんでしょう。他のすべてを捨ててでも、小保方さんを守りたかったんでしょう。恋していたんでしょう、小保方さんに。週刊誌が書くようなドロドロしたものではなく、プラトニックなものだったのだろうと、直感としては思う。
だが、守るだけならそれはできる。すべての批判を一身に背負いながら、世界を敵に回してでも恋人とともにあればいい。
笹井先生が耐えられなかったのは、自ら、あるいはCDBの名声が傷つくことなんかではなく、世界で一番大切な彼女が罵声を浴び、辱めを受けていること。しかしながら、それらが自らがこれまで人生を投じてきた科学という世界から見ると全く妥当な批判に基づくものであることだったという、自らのアイデンティティをゆるがす矛盾にあったのではないかと思う。止揚できなかったんだね。
笹井先生は科学の世界で生きてきた人だ。だが、彼はその時恋をしていたのだ。
自らの科学的信念と、恋する気持ちとの板挟みになって進退を極まったのだ。どちらかを選ぶことはできなかったのだ。
だとするなら、男としては本望なのだと思う。
ただ、もう少し時間がたてば、異なった結論に至ることもあっただろうに。
「男は男を、女は女を好きになるのがふつう」
男と女の関係なんて信じられない。世界を「逆転」させた映画が全米で話題 http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20140730/E1406650835497.html
現在、日本語字幕付き版が8/1までスターチャンネルのwebサイトで限定公開されている。以下あらすじ、及び結末に触れるため、未見の方は取り急ぎ見てみてほしい。
この作品では「全世界の標準が同性愛者である」「異性愛者は異端として迫害される」といった世界を描き出し、
つまり既存の価値観をただ単純に逆転することによって同性愛者へ進行形で行われている差別の残酷さを浮き彫りにしている。
同じつくりをした作品としては最近ではアバター然り、第9地区然り。
主にSF映画にありがちな、最初から”価値観の逆転”を前提とした舞台設定のもとに広げられる、
異端である『異性愛者(=ブリーダー)』の少女・アシュリーは作中で、周りと異なり異性を愛してしまう自分に気が付く。
ふとした一言からそれが周囲に知られることになり、彼女はクラスメイトにとって侮蔑の対象と変わる。友を失い、得かけていたパートナーから拒絶され、
親族の理解も得られない。周囲すべてが自分を認めないことに耐え切れず自死を選ぶ。
作中にむごたらしく描かれる差別・暴力行為。迫害といっていいそれらは、すべて現実の同性愛者自身の体験を元にしたものだという。
作品の大半を占めるそれらは具体的に、執拗に描かれる。からかいと嘲笑。止まない蹴り。メール、ネットを利用した侮辱、名誉の棄損。
そのすべてがアシュリーの視点に切り取られ、悪と偏見に満ちた不快なものとして視聴者に与えられる。
彼女は誰からも理解されることなくその命を散らす。「異性愛者は地獄に落ちる」と神に明言されながら。
昨晩妹とこれを見て、浮かんだ疑問はふたり共通していた。
それは「ここまで惨たらしく暴力を描くのならば、そもそも同性愛者・異性愛者を逆転する意味がどこにもない」というものだ。
たとえば作中世界が異性愛者が大多数というこの世界と地続きのものであり、アシュリーが異端としての同性愛者であったとしても、
リアリティが付加された暴力に基づく「差別はいけない」という強烈なメッセージを与えられるところまで、
更にいえば、余分な設定がなくなることでプラスになる効果も当然生まれる。
たとえば映画中、男女が言葉を交わすシーンが幾つか登場する。当然彼らはアシュリーを異端視する側、つまり同性愛者である。
観賞中、彼らの会話が発生するたび「こいつらはどういう関係なんだ?」「それはタブーなんじゃないのか?」と幾度も首をひねってしまった。
アシュリーが異性と手を繋いでいたことがもとで差別を行っていたある女のキャラクターが、アシュリーを捕まえるべく共に駆けだすシーンなども同様だ。
ではなぜ、わざわざこのような設定を使ってまで世界を置き換える必要があったのか。
話題性か? それもあるだろう。突飛な設定は当然大きな観賞動機に成りうる。この設定の上でどのような物語を展開するのだろうか?と。
だが「同性愛者が当然の世界で、異性愛者となった少女」という設定を聞けば、「ああ、同性愛者への差別を見せたいんだな」とすぐに気付いてしまうはずだ。
ゆえにそれは強い動機とは成り得ない。
では何のための世界かといえば、何のことはない。攻撃のためだ。
作品中、暴力は極めて陰惨に、かつ念入りに描かれる。ほぼすべてのシーンがアシュリーへの迫害であるのだから、それは当然のことだ。
ここまであからさまに不条理な痛みを伝え、かつ死をもって閉じることで物語を「年若き美少女の悲劇」として完成することで生まれるメッセージ性とは何かといえば、
「お前たちはこれだけひどいことをしている」
「お前たちの不理解がわたしたちを苦しめる」
いまここにある現実に対する、問いを投げかけることのない一方的な罵倒。
映画の中、それによって苦しめられていたのはほかでもないアシュリーではないか?
確かにこの映画は、「STOP!同性愛者差別!」といった、何の実情も伴わない、くだらないフレーズの印刷された、
男同士、女同士が手を繋ぎ抱き合うポスターよりも数万倍も意義のある作品だ。
だがこうした喚起映像が「ただしい」のだとすれば、その最終的なかたちは、
視聴者の顔をモデリングした俳優が理由もない暴力に絶え間なく晒され続ける映像を見せ続けるものになるはずだ。
確かにおぞましいインパクトを残すことだろう。見た者の考えも変わるかもしれない。が、そこに相互理解が生まれることは決してないはずだ。
それは互いの喉元に刃物を押しつけ合うことと何の違いがあるんだ?
しゃべり場だっけか…
TBSの特番で筑紫哲也あたりを連れてきてやってたような気もするが…、いやしゃべり場に筑紫が呼ばれたのか?…
どうでもいいなそんなこと。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.open.sh/entry/20140728/1406552151
こういうの、題材的にも別の意味でも本文を読む気はないのだけど、
ようは「人殺しをさせないようにするための」Qなわけじゃん。
でアンサーする人はっていうと、
将来人殺しになってしまいそうな人(自死含む)を目の前にして、
田舎のお母さんが悲しんでるぞつって泣き崩れるシーンかなんかの見過ぎだって。
たかが説得ごときにあまり夢を見るなよ。特に一刻一秒を争うリアルタイム説得。
で、色々な答えが出てきてさ、その答えの穴を突く人が出てくるの。
一見多様なようで大体一様な人たちが答えの穴を突くわけ。
これさ、殺人なうってときに「でも~じゃん、やっぱ人殺してもいいよね…ブスッッ」って答えの穴を突くと同時に相手の横っ腹ぶっ刺すとかなら自分わかるのよ。
でもそうでない人がさあ、こうじゃん!やっぱ人殺し悪くないかも…な感じなのを見てさ、
お前人を殺したくなったときとか誰かに殺させたいときになってから、そんときになってから、論理の穴探せよって思うわけ。
お前そんな人を殺したいの?って思うわけ。
なんか自分わりと納得かもーっていい感じの答え見つけたら、それでいいじゃん。
「いやもしかしたら、もしかしたら、人殺しは悪くないかも、もしかしたらもしかしたら…。」
なんで万人が納得できる答えとがあると思って探求してるのかな。
冒頭の番組で「なぜ人を殺したらダメなの?」って少年だか少女だかがぼそっと言ったときさ、
場内がざわついたのよ。
みんな「え…?」って。
「やばい…、こいつに殺される…逃げなきゃ…」って。
教養って何だろう
http://anond.hatelabo.jp/20140704205502
インターネット暇人どものおかげで教養の様々な側面を覗けた。大変参考になった一方で、当然いくつか疑問が湧いてくる。以下はその疑問について。(なお、私は小説も思想書も哲学書もまったく読まない)
【教養があると自由になれる】
gingger4 教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること (参考)家庭環境と読書の習慣のこと/図書館となら、できること http://bit.ly/KWHFw2
showgotch 皆俺流教養論を語るんだけれど微妙にずれててワロタ。歴史的に教養は自由になるための学問なんだけど同時に貴族の学問でもあったためオペラや歌舞伎を楽しむ素地として連帯の道具でもあったわけだ。ハイパーメリト
seachikin 狭い世界に生きてると視野が狭くなるからせめていろんな情報を集めて他にもいろんな世界があるということを知るってことが教養だと思ってる。んで私は本は読むけど教養はあんまりない。
tyshu 全然読書をしなかった自分が、思い立って1年に100冊読書するってのをやってみたことがあったけど、知識と知識がリンクする様な、世界の広がりを感じたのが印象深かったなと。読書はその時だけで今は…
sardine11 ナボコフ流に言うなら良き読者とは芸術的気質と科学的気質が結合した人。つまり客観的な世界に対する主観的認識を多様化させ心を打ち震わせる経験をする、それが読書そして教養の意味。娯楽と知識の境目に教養がある
a22222111544 この世界で起きていることの大部分を「ひとまずは」愛と理性で把握するために必要な古典的知識の体系と、あとはそこにアクセスするための言語能力だと思います。本来的な意味での教養を持っている人はごく少数。
bell_chime_ring238 教養は世の中で起きることを解釈する下地かな。本当にすごい人は、何気ない話題でも全然違う次元で考えてるし、こちらも自分の知らない世界に行けてしまう。体感できれば、教養が人格を作るって理解できるよ
p_shirokuma 己の世界観・娑婆観の構成素子のなかで、事後的に確認できるものの総体が、しばしば教養と言われているような気がする。
exterminator 必ずしも読書量ではない。世界を体系化して見るため/自分を少しでも自由にするためのもの。環境とか文化資産()どうこうより上より下を見て人の足引っ張るような人が多いとこにいると身に付けるのが難しくなる。
なるほど、教養があると自由を獲得できるのか。通時的にも(リベラルアーツ云々)共時的にももっともらしい主張だ。私もそのような側面があるとは思う。ただし、これにも疑問が残る。
疑問を述べる前に、自由とは何だろう。ここでは、他のものから拘束・支配を受けずに自分自身の意志に従って行為できる状態、としておく。そして、自由には経済的自由と精神的自由の2つがある、ということにしておく。
経済的自由については、いくつかの専門分野について十分に学習すれば達成できそうではある。逆に、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながらいくら深く広くたくさん行ったところで達成できそうになさそうである(それだけ文学/思想/哲学/芸術に精通していれば少なくとも批評家などにはなれそうではあるが、彼らの年収の最頻値を知らないので、それが経済的自由を獲得できる程度のものなのかについては保留する)。
精神的自由については、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながら深く広くたくさん行っていれば獲得できるのであろうか。いくつかの専門分野について学習をしていくだけでは達成できないものなのだろうか。学習する専門分野を十分に増やしていっても、あるいは専門分野ごとの理解を十分に深めていっても達成できないものなのだろうか?
また、経済的自由なくして精神的自由はありうるのだろうか?フレデリック・ダグラスは生涯奴隷のままで精神的自由を獲得できたであろうか?
フレデリック・ダグラスについて
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-377.html
【締め】
まぁ、お前らの思うところを書いてけや。
なお、他の疑問については分割する。インターネット暇人どもは長いエントリーを読むのに苦痛を覚えるからな。開発をやる人間の口を借りれば、きっと、このエントリーに限らずそもそも増田なんかにはユーザーが何分も滞在する価値なんてねー、と宣うに違いない。まったくである。
50代前半男性、既婚、妻は無職。子供複数あり全員成人済み。持ち家(住宅ローンの塊)、教育ローン等負債いろいろ。犬複数匹。
気持ちが塞ぐ。何をする気も起こらない。ため息ばかりが出る。生きていくためにしなければならないこと全てに、すべき意味を見い出せない。
妻が自分を大切に考えていないことが主な理由。夫婦仲はそう悪くないと思っていたのに。妻は自分を汚物と感じている。同じベッドで寝ることを拒否されて1ヶ月。居間に寝袋で寝ている。別に自分が不貞なわけでもない。清廉潔白に働き子育てをし続け、加齢した結果、いびきがうるさい、臭い、ベッドが狭いと散々に言われ続け、自分が身を引くしか現状方法が見当たらない。
去年銀婚式を迎えた。円満な夫婦関係を築くべく、自分は精一杯努力をしてきたつもり。費用もずいぶんかかっている。生活費を圧迫するぐらい、服だ化粧品だアクセサリーだと、欲しがるもの
を買い与えてきた。旅行もいろいろ考えて、あちこちに連れて行った。子供が出かける時は、夫婦2人で外食することも極力増やした。金を渡したり、物を買ってやったり、贅沢な食事をする時
だけ、一瞬少し嬉しそうな素振りをする。そしてすぐに普段の不満そうな姿に戻る。
妻は、家が狭い古い汚いと不満を言う。車が旧型でポンコツだと不満を言う。生活費が足りないと不満を言う。犬の世話がどれほど大変な作業かを不満混じりに訴える。腰が痛い、歯の調子が悪
いという。仕事を早めに切り上げて、夕食の支度を手伝う。食事後の後片付けをすべて請け負う。腰が痛いときはマッサージをする。休みの日には掃除機をかける。こっちが家事をしているとき
に、妻はスマホでゲームをしている。ネットで服や化粧品をみている。他人のブログをみて、羨ましがっている。漫然とテレビをみている。そのすべてが少しずつ積り積もって自分を蝕んでいる。
こっちの気持ちを聞いてもらおうと試みたことも数知れず、でももう諦めた。妻は自分の主張のみを繰り返し、こっちの気持ちをわかってもらおうとする行為自体に機嫌を損ねる。自分の意思伝
達能力の限界が低いのも原因だが、この歳になってわかってもらおうと努める気力がない。
デパスをとりあえず1錠飲んだ。不安な気持ちは多少和らいだが、なんの解決にもなっていない。すべてから逃避していたい。引きこもりたいが、現状では引きこもる場所がない。家にも、無論仕事場にも。心の平安を得ることは、この世にいては不可能だ。
犬と触れ合っている時だけ、心が暖かくなる。が、所詮は妻の犬。
10年近く前に欝を発症し、半年休職した。今も月イチペースで通院している。だいぶ良くなった気になっていたが、このザマ。仕事にもやり甲斐を見いだせない。稼ぎはそう悪くないが、働い
ていて充実感に乏しい。やりようはあるのだろうが、自分の能力不足で限界を感じている。出世もない。そう悪くないはずの稼ぎが、ローンの返済やカードの支払い、その他生活にかかる費用でどんどん支払われ、すぐ底を着いてしまうのが虚しい。カードの支払いのためにカードローンを少しずつ借りないとやっていけないことがここ数年続いているのだが、それが積り積もって結構な額に膨れ上がってしまっている。