いじめている人は、自分が理由なく命を奪われる可能性を何千倍、何万倍にも上げている。そのことに、気づいていないのだろうか。
いじめている側に。
この世の中で、我々が人に科すことができる最大の刑は、死刑しかない。もし、人が死を覚悟した場合、死をコストとして払うのも厭わないと決意した場合、私達は、その人が決意した行動を、押しとどめることはできない。
そして、いじめが、人に自死を決意させる行動であることは、これまでも何度も明らかになっている。
では、自死をすることを決めたいじめられている人が、いじめる側の存在を、滅しようとした場合。死を賭して、いじめた人間に仕返ししようとした場合。いじめられた側は、いじめた側と、正々堂々戦う必要は一切ない。
この瞬間、いじめた側の人間の命は、理由なく奪われる危機にさらされる。
いじめる側は、常に不意打ちを受ける可能性がある。
寝ている時、目を閉じている時、後ろを向いている時。いきなり、あなたの喉笛に、ナイフが突き立てられる可能性が、あなたが何気なく手を伸ばした飲み物に毒物が仕込まれている可能性を、どこまでも否定できなくなる。
誰かをいじめた以上、一瞬たりとも、安穏としていることはできないはずなのだ。いじめたのに、身の危険を感じず生きているのは、単に、はてしなく無能か、鈍感なだけに過ぎない。いじめた以上、自分が理由なく命を落とす危険が、果てしなく、何倍にも高まっている。
しかも、いじめた人間が殺されて、その理由が「いじめ」にあった事実が明らかになった場合。いじめを理由に殺した人間が重い罪に問われるとは限らず、逆に、殺されたあなたこそが、名誉回復の機会すらなく、未来永劫、悪人として記憶され続けることもありえるのだ。
いじめとは、他人の面前で、その人の誇りを汚すこと。いじめで得られるものは、退屈をしのぐ程度の、昏い喜びでしか無いだろう。
それは、自分が理由なく命を奪われる可能性を何千倍にもあげてまで、獲得する価値がある喜びだろうか。
まだ、間に合うかもしれない。全存在をかけて、謝れば、許してくれるかもしれない。ただ、許してくれないかもしれない。いじめる側がしたことは、それぐらい罪深い。だが、一刻も早く謝ることが、あなたの命が救われる可能性を上げる、唯一の方法だ。
いじめた人間が無事でいられるのは、いじめられた側に寛容さがある、その一点だけ。そこに甘えているだけだ。
翻って、いじめられている人。
自分を害することも、自分を害した人間に仕返しをすることもなくその場をやり過ごした人。
それは、大変な偉業だ。
「いじめっれましたが、一切仕返しもしませんでしたし、絶望して自分や周囲を害することもしませんでした。」履歴書に書いたっていい、誇るべき寛容さだ。
そして、いじめている側と、戦ったりなんかしなくていい。いじめなんてことをするくだらない人間は、正面から相手する価値もない。
単に、やりすごせばいい。
いじめに対して傷つく必要も、やり返す必要もない、と気づいているあなたの寛容さこそ、最も尊い価値がある。理由なく降りかかった不幸を、黙って耐えているあなたのお陰で、いびつかもしれない平和は保たれている。いびつでも、価値ある平和だ。
学校側としてはさイジメは放置して置いた方が特なんだよな 滅多に自殺なんてされないわけで クラスが40人だとして39人のいじめっ子と1人の被害者 被害者1人を守るためにクレームをバ...