はてなキーワード: 自死とは
50代前半男性、既婚、妻は無職。子供複数あり全員成人済み。持ち家(住宅ローンの塊)、教育ローン等負債いろいろ。犬複数匹。
気持ちが塞ぐ。何をする気も起こらない。ため息ばかりが出る。生きていくためにしなければならないこと全てに、すべき意味を見い出せない。
妻が自分を大切に考えていないことが主な理由。夫婦仲はそう悪くないと思っていたのに。妻は自分を汚物と感じている。同じベッドで寝ることを拒否されて1ヶ月。居間に寝袋で寝ている。別に自分が不貞なわけでもない。清廉潔白に働き子育てをし続け、加齢した結果、いびきがうるさい、臭い、ベッドが狭いと散々に言われ続け、自分が身を引くしか現状方法が見当たらない。
去年銀婚式を迎えた。円満な夫婦関係を築くべく、自分は精一杯努力をしてきたつもり。費用もずいぶんかかっている。生活費を圧迫するぐらい、服だ化粧品だアクセサリーだと、欲しがるもの
を買い与えてきた。旅行もいろいろ考えて、あちこちに連れて行った。子供が出かける時は、夫婦2人で外食することも極力増やした。金を渡したり、物を買ってやったり、贅沢な食事をする時
だけ、一瞬少し嬉しそうな素振りをする。そしてすぐに普段の不満そうな姿に戻る。
妻は、家が狭い古い汚いと不満を言う。車が旧型でポンコツだと不満を言う。生活費が足りないと不満を言う。犬の世話がどれほど大変な作業かを不満混じりに訴える。腰が痛い、歯の調子が悪
いという。仕事を早めに切り上げて、夕食の支度を手伝う。食事後の後片付けをすべて請け負う。腰が痛いときはマッサージをする。休みの日には掃除機をかける。こっちが家事をしているとき
に、妻はスマホでゲームをしている。ネットで服や化粧品をみている。他人のブログをみて、羨ましがっている。漫然とテレビをみている。そのすべてが少しずつ積り積もって自分を蝕んでいる。
こっちの気持ちを聞いてもらおうと試みたことも数知れず、でももう諦めた。妻は自分の主張のみを繰り返し、こっちの気持ちをわかってもらおうとする行為自体に機嫌を損ねる。自分の意思伝
達能力の限界が低いのも原因だが、この歳になってわかってもらおうと努める気力がない。
デパスをとりあえず1錠飲んだ。不安な気持ちは多少和らいだが、なんの解決にもなっていない。すべてから逃避していたい。引きこもりたいが、現状では引きこもる場所がない。家にも、無論仕事場にも。心の平安を得ることは、この世にいては不可能だ。
犬と触れ合っている時だけ、心が暖かくなる。が、所詮は妻の犬。
10年近く前に欝を発症し、半年休職した。今も月イチペースで通院している。だいぶ良くなった気になっていたが、このザマ。仕事にもやり甲斐を見いだせない。稼ぎはそう悪くないが、働い
ていて充実感に乏しい。やりようはあるのだろうが、自分の能力不足で限界を感じている。出世もない。そう悪くないはずの稼ぎが、ローンの返済やカードの支払い、その他生活にかかる費用でどんどん支払われ、すぐ底を着いてしまうのが虚しい。カードの支払いのためにカードローンを少しずつ借りないとやっていけないことがここ数年続いているのだが、それが積り積もって結構な額に膨れ上がってしまっている。
♯今日は4回目の命日。虚無感は未だになくなりません。
平成23年5月22日、午前8時30分(推定死亡時刻)、あの子は逝った。
2人と猫2匹で同棲していた分譲物件でタオルをドアノブにかけた非定型の首吊りによる縊死だった。
前日に喧嘩をした。予感はあった。
しかし、その前にサイズを測っておらず、違ったベッドマットを持ってきてしまい、
どうしよ~と彼女に報告した事。
要領が悪いと指摘され、いじける僕にあの子はキレた。
最後まで最低な人だったね。飼ってる猫2匹連れて1晩でいいからこの家出て行って。さよなら」
僕の中で、ベッドマットを交換してあげる事が好意で、
その好意は結果が伴っていないため、また押し付けがましいものを提案してきたのに、結果が失敗していた。
と、いうやり取りが面倒で面倒で仕方がないみたい。
僕は誠意のない謝罪を繰り返すばかりで、あの子の心を動かす事はできなかった。
僕は一泊分の簡単な荷物をまとめ、翌日に戻ってくるつもりで家を出た。
だけど、出掛けの「さよなら」がとても気がかって、
車をなかなか発車させることができなかった。
その後、実家に戻り、1晩を明け、朝一で彼女と住んでいる家に向かった。
家や携帯はかけてもやはりでない。
家の覗き穴から見るも、部屋の様子は伺えない。
よかった生きている。
僕は安心してその日予定されていた自治会の行事、マンション前の草むしりに参加した。
▼あの子が逝ってしまい、中身が入っていない器を見つけた時の話。
11時頃に草むしりを終え、帰宅し、彼女に精一杯謝って誠意を伝えよう。
意気揚々と家のドアを開けた。
距離は遠いが、明らかにあの子が不自然な体制でドアに寄りかかっているのが見えた。
見た瞬間にすべてを悟った。
2年経った今でもずっと脳裏どころか、記憶のとっても浅い所に焼き付いている。
ショックだった。これほど衝撃的な場面に僕は出くわしたことはない。
首吊りの縊死といっても、キャベツ太郎の景品で送られてきた景品ハンドタオルをロープのように使って首に巻きつけ、ドアノブでしばっているだけ。
ちょっと暴れたらすぐ取れるじゃん。こんなの。
でも、足掻いた形跡はない。彼女の中身が入っていない器は、口は半開きで眼の部分は半開きで、眼球はすでに乾いていた。
飼っている猫2匹があの子に寄り添って寝ている。
それまでは日常的な光景だったのに、この瞬間だけはあまりにも非日常的な光景すぎた。
そばには流れっぱなしのiPod。今も曲が流れている。
また、そばの椅子の上にはdocomoからの請求書に殴り書きしたような番号が書かれていた。
それはあの子が持っていたメインバンクの口座番号と暗証番号だった。
ここからは気が動転していたので、思い出せることを書くが、
「呼吸はありますか」
「脈ははかれますか」
「心臓マッサージを隊員が駆けつけるまで続けてください。」
あの子があの子であったなら、何も考えずに言われたことをやっていただろう。
でも、もうあの子は逝ってしまい、ここにいるのはあの子の器なだけなんだ。
足には縊死でなくなった方の特徴の斑ができていて、手もギュッとこぶしを握っていて開かない。
死後硬直まで起きている。
生きている人間ならば、押すと跳ね返りがあり、多少の息の返りがわかるはず。
彼女は穴のあいた風船のように押せばしぼむ、押せばしぼむの繰り返しだった。
まったく入っていく気配はない。
と、いうか口の中が乾きすぎている。
もう、誰がどう見てもあの子は器だけ残して中身がどこかへ飛んでいってしまったんだ。
救急隊員が到着し、人工呼吸を代わってもらい、その光景を見つめながら僕は天を仰いだ。
まだその辺にいるのか?いるのなら最後に話したい。
そんな馬鹿げた事を考えていた。
救急隊員があの子をストレッチャーに乗せ、マンションを出る時も心臓マッサージをした。
野次馬(失礼な言い方かもしれません)が集まっていました。
あの子に白い布が体にかぶせられていたのですが、顔はそのまま出ていた状態でした。
僕はあの子はもう、死んでしまっていて、そんな死に顔を野次馬に見せたくない、との一心で
白い布を顔までずらしました。
しかし、救急隊員は「まだあきらめちゃだめです!」とか感情論で
白い布を体にずらし、再び彼女の顔はあらわになった。
中には小さい子供や、親しくしていただいた近所の住人がいたので、
彼らはあの子を助けるつもりでいてくれた事には感謝しています。
しかし、どう見てもあの子はもう、あの子が入っていた器だったんです。
もう2年以上経って、もうすぐ3年目を迎えるのか。
そんな気は全然しないな。
命日が怖い。3周忌の予定も立てれる自信がない。
あの日以来、いっぱい泣いたけれど、四十九日を境に泣くのをやめた。
でも、本気で笑う日は少ない。
すべてあの子がいたら、の仮定でしか話を考えられなくなってしまっている。
だけど、こんな悲嘆すること言いながら、
都合いいよね。
嫁さんには大方の話はしたけれど、こんな詳細までは話していません。
でも、気落ちした私を心底支えてくれました。
大切な人が命を断つ。
あまりにも彼女の入った器を見つけたときのショックが大きすぎて、
いろいろな自死遺族の会に参加させてもらったけれども、
皆さんこもごもにケースが違う。
似たようなケースの人なんているようでいないと思っている。
また、社会に出ると毎日のように人身事故、自殺のニュースが目に入ってきます。
その遺族の方達に自分と同じような感情を持っている人はいるのだろうか。
自分の価値観が大きく崩れて、自分も首吊りで死ぬことが一番最良の方法なんではないかと
感じてきてしまっている。
後を追いたいわけじゃない。疲れたんだ。
あの子に会いたいけど、もう二度とあの子に会えないのはわかっている。
でも、少しでも、あの子が逝くその時にどんな感情だったかを知りたい。
少しでも死にたくないという気持ち、があったのか。
きっとなかったんだろうなとは思う。
hideさんが亡くなった方法もあの子と似たようなものでしたが、
それを真似したわけではなさそうです。
とりわけYOSHIKIさんが好きだったから、あの子に一度会わせてあげたかったな。
実行の際にはオムツも履いていましたし。
それほどまでに死に執着していたのか。
話代わって、死後の世界なんて、本当にないと思っている。
昔は怖い話系のシリーズを読むと、怖くて一人でトイレも行けない僕だったけれど、
あの子が逝ってから、その類への恐怖というか、関心が一切消えた。
人の死というのは、電気のスイッチと同じで、OFFになると消える。
今にも起きてきそうなほど、綺麗だったけれど、
何より、火葬場での変わり果てた姿を見たとき、あの子はもう、あの子の器すらも失ったんだと確信した。
あの子に会えるならどんな形であれ、出てきてほしいけれど、
僕の夢にも一度も出てこない。
そんなあの子が例えば幽霊とかで出てくる要素がなくなってしまった。
事情を知らない火葬場の人から「とてもお強い綺麗なお骨です。どこかを病んでいたようには思えません」と、
あの子の器だったものの骨壷を持ったときの違和感が今でも手に残っている。
しかし、そんな僕だからこそ、葬儀に至るまでの間、本当に僕の周りに迷惑をかけた。
僕の両親・友達・近所の親しい方々が心配し、泊り込みで支えてくれた。
葬儀屋の方々も感謝してもしつくせないくらい、落ち込んでいる僕を支えてくれた。
あの時の恩を返そうと、今では笑顔を作って「僕は大丈夫。幸せに過ごしている」を見せている。
葬儀の際はその遠い親戚から相続はどうするんだと搔き立てられました。
これまで大変お世話になりました。
と、言われました。
正直、あまりに辛い出来事から逃れたいが為に、すべてその遠い親戚に渡したかったのですが、
遺言書の通りにするのが一番だ、という周りの方の勧めであの子のすべてを僕が相続しました。
そのすべて、には今僕が住んでいる分譲マンション並びに預金口座も含まれています。
また、その中にはあの子が僕と出会う前にあった出来事のすべてを遺しています。
これまで育った経緯の写真。
その中でも一番心に響くのが、幼少の頃のあの子の親に大切そうに抱きかかえられている写真、
何も捨てられません。
また、この遺産を見るにあたり、ますます自分があの子を殺してしまったんだ、という気持ちが強くなりました。
今の妻に、もしこの遺産を見つかったならどう説明すればいいかもわかりません。
再度似たようなことを書きますが、世の中、毎日のように自殺のニュースを目にします。
見る分にはいいんです。社会は広いし、いろいろな人がいますから。
身の回りの日常会話の中でも「○○さんが自殺したの知ってる?」なんて話題を振られたりする。
でも、今はこんな会話を自分に振られると、一気にあの子の事がフラッシュバックして、
いてもたってもいられなくなる。
でも、社会とはそういうものなのかもしれないけれど、死こういった会話をする事がとても辛い。
けれど、その社会から逃れた生活をすることなんか出来ないし、仕方ない事なのかな。
ドアを開けて一目でわかったあの子の変わり果てた姿。
その直前までは生活音を聞いていて、生きていたであろうあの子の物音。
皆、こういう感じなのかな。
だとしたら、少しホッとする。
(追記 1/18)
多くの方に読んでいただいたようで、ありがとうございます。
あの子の事を書くにあたり、自己陶酔は確かにしているかもしれません。
僕がきっかけではなく、あの子はいずれ死を決めていただろう、とも心のどこかで思ってはいます。
でも、思うところは僕が殺してしまったに変わりありません。
しかし、時は最良の薬なのですね。
この文はあの子が逝った翌月あたりにEvernoteに書き殴っていたものに
そんな事ばかりしか書いていませんでした。
それは自分の希望であって、多くのコメントでいただいているように、
結婚し、子供を授かり、育てている以上、妻と子に人生を捧げるつもりで生きます。
上記では死んでしまいたい旨、書いてしまいましたが訂正します。
僕が一番わかっていたはずの事を忘れていました。
あの子の納骨が終わった日の夜、
15年前に付き合っていた人から10年ぶりくらいで連絡があり、それが今の妻になります。
地震発生後しばらく電話をかけていたのですが、繋がらず、心配していました。
妻曰く、当時はバタバタとしていて自分の着信に気づいたのですが、後でかけよう、と
思ったタイミングが約4ヵ月後、あの子の納骨の日だったらしいのです。
また、あの子とは話し合いの下、結婚も考えていて子作りもしておりました。
期間にすると約3年くらい。
あの子とは付き合いが長かった為、次のステップへの良いきっかけになると思っていました。
しかし、あまりにできなかった事から、あの子は産婦人科で不妊の検査、
自分の精子が極端に少なく、子供は望めないかもしれない。と、いう話をされていた。
とりあえず、僕は僕を捨て、あの子になったつもりで精一杯、死ぬまでこの世を生きてみせます。
ありがとうございました。
例えばスーファミのFFみたいな、古典的なRPGの戦闘シーンを作っていて、「勇者がモンスターを攻撃する」。
勇者.attack(モンスター);
という設計だったとする。
これに「モンスターが毒を受けて、自死する」という挙動を追加するケースを考える。
毒.attack(モンスター);
やや複雑な変更になりそうだが、勇者の攻撃とのタイミングの差で、
のようになるとしよう。
まず、インターフェイス"攻撃者"をつくって、「勇者」、「毒」をその実装とする。加えて...
斬撃後に死んでいた場合(*) 、納刀する
攻撃前に既に死んでいた場合、攻撃できないようにする
この設計変更によって、
が、
の4パターンに増えた(※ただし最後のパターンに関しては今回特に修正の必要はなかった)
攻撃者がひとつ増えるごとに、これらの分岐は倍、倍に増えていく怖れがある。
あらたに攻撃者を追加すると、既存の攻撃者を変更しなければならない。
この変更によって、全体の時間的な流れがよくわからなくなった。
等々の分岐が並ぶことになる。この分かりにくさは単にStateパターンを導入しただけでは本質的には改善しないだろう。
MVCにおけるモデル、は振る舞いを持ったデータだ。モデルが状態変化したとき、イベントが発生する。
しかしその状態変化が別のモデルの状態変化のタイミングに影響をうけるとき、モデルの設計はとても複雑になり、読みにくくなってしまう。
モデルで発生するイベントが多く、複雑になるほど、ビューとの関連は密になる。
このような複雑さをプログラマが支配するのは、とても大変だ。
みなさんも体験したことがないだろうか、GUIで「ホニャララしているときにホゲホゲするとバグる」みたいな挙動を。
すると、上部に表示される「更新時刻」の表示位置がおかしくなる。
RPGの設計は、たとえば下記のように記述できるDSLを導入すると、劇的に改善する。
タイミング:毒 ⇒ 死ぬ ⇒ 斬撃 の順なら、納刀する タイミング:毒 ⇒ 斬撃 ⇒ 死ぬ の順なら、変色した血が飛び散る
オブジェクト指向ではこれはStateパターンとStrategyパターンを組み合わせることで実現できる。
でも、このような設計にすると、勇者やモンスターのモデルオブジェクトの責任は極端に少なくなってしまう。
加えてオブジェクト間のやりとりの複雑さがDSLに押し込められるので、オブジェクトの主体性も殆ど無くなってしまい、
うん、ただのデータでいいや。
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(*) 攻撃時に相手の状態を問い合わせるのが醜い。これを避けるには、モンスターが毒で死んだ時に勇者にイベントを通知して、勇者を”戦意喪失”状態に変化させる手がある。
この国でも日々たくさんの人が死んでいる。老衰や病院で死ぬなどというばかりではなく、事故死や災害死や自死もたくさんある。そして、日々死んでいるにもかかわらず、暮らしていても、せいぜい、葬儀場や霊柩車や救急車を見かけるくらいのもので、おそらく多くの人は、死体や、ましてや、死体の山なんて、予期せず見たことはないのだろう。
ちなみに、私とて死体の山は見たことがないが、公園で首つり遺体を見かけたことはある。それと、ついでに言えば、親は殺されたし。
いまでも世界中では餓死も凍死も殺人も日常茶飯事だ。ところがこの国では、死というのはおよそ隠蔽されているし、なかなか見かけない(ようにされている)。もともとは、死を見かけることは日常茶飯事だったからこそ、死を隠蔽しようとしてきたのだろうに。
世界中では、自分や家族が死にかねない状況になったからこそ他人を殺す者がたくさんいる。刺すか刺されるかという状況で、刺す方にまわるのだ。
それに比べれば、この国はいささか滑稽で、また、異様だと思える。他人を誹謗中傷したり、いじめたりする者がたくさんいる。そしてときに、それが原因で被害者が自死したりもする。
死というものと本気で向き合っていたならば、こうも安易に他人を誹謗中傷したりすることができるのだろうか。
さらに言えば、インターネット上であれなんであれ、「ヴァーチャル」ではなく、社会の一部だ。その表社会の一部で、見ず知らずの他人に対して誹謗中傷を浴びせかける者がいるが、はたしてどういうことなのだろうか。
きっとおそらく、加害者の方も精神的に困窮しているのでしょう。たとえ肉体や食欲などが満たされていたとしても。
最近はやたらと「保守」だの「愛国心」だのと言う人がいて、そういう社会風潮にもされている。けれども、この国では毎年何万もの人が自死している。「死にたければ死ねばいい」と言う者がいるが、多くの場合は、その人が生きられない状況にしたのは社会の方だ。つまり、みなが、生きづらい社会にしているから、追い詰められた者から順に死んでいく。崖からこぼれおちるように。いわば殺人だ。このような実情で、なにが愛国なのか、道徳なのか、そんなことをなんで言えるのか、私にはわけがわからない。
高齢化が進んでいるから、これからはますます死が増えていくだろう。単に老衰やら癌やらで死ぬばかりではなくて、生活困窮で餓死や凍死や自死をする人がますます増えていくだろう。例えば、金銭的に介護を受けられなくなった人が死んでしまうことも、増えていくのだろう。
みなが本気で死と向き合っていたならば、はたして、浮ついた言動は取れるのだろうか。
学生時代から五年以上つきあった相手と三ヶ月前に別れた。三ヶ月間ほとんどプライベートでは誰とも会うことなく職場以外に出かけず家で缶ビールを一人で飲んですぐ寝る生活を続けていた。相手とは交友関係が重複していて、そうなってしまうと共通の友人とは誰とも会う気がなくなってしまった。もう会えないと言われた時から、ずるずると自死の機会を先延ばしにしていた。毎日、早朝に目覚めるのに身体が硬くこわばって、動き出すのに時間がかかる日がしばらく続いた。
久しぶりに人と飲みに行く事になった。
一ヶ月だけ同じ職場で働く事になった歳の近い部下に打ち上げに行きたいと言われた。殆ど我々二人きりで仕事をしていて、他の人間を連れて行くという感じではなかった。優秀だが嫌みなところが全くなく、万人に好感を与える容姿をしていた。人手が少なくて困っていたときにずいぶん助けてもらったし、ひたすら褒めてのばした。人あたりがあまりにもよいため上司にも受けがよく、職場に来たばかりで縁もゆかりもない内輪のゴルフコンペに誘われていたほどだった。
他の人間なら何の気なしに必ずするような、学生時代のサークルの話や地元の話を自分からは全くしてこないところが好ましかった。あとで複数の別の部下から、テニスでインターハイまで行った選手で大学時代も活躍していたという事を聞いた。こちらからその話をしても、照れて笑うだけで何も話が広がらなかった。そもそもこちらがそんな話に興味がないという事をわかっているかのようだった。よく話を聞くと知り合いではないものの前の恋人の大学の後輩にあたる立場だった。つきあっていた当時の、特に学生時代でお金もなかった頃の事を懐かしく話しているうちに打ち解けてきていた。
部下からFacebookにフレンド申請が来た。同い年の配偶者との仲睦まじいツーショットや同僚との飲み会での写真が並んでいた。新婚旅行に南の島に行ったという写真もごく最近更新されていた。そのときは全く気づかなかった。職場で指輪もしていて、最初から既婚者と知っていたので油断していたら、飲みに行った店でビール3杯目を飲んだところで手を握られた。酒で浮いた手の甲の静脈をひたすら性的な意図をもってなぞられたが、なぜか下腹部が急に痛くなり、それどころではなくなった。顔をしかめながら会計をしたら全額払うつもりが割り勘にされてしまった。その日は銀座で飲んでいて、東京駅まで歩くと言うと、ついて来て「手繋いでもいいですか」と聞かれた。「だめ」と言ったのに手をとられてそのまま駅まで歩いた。「どうして誰ともつき合わないんですか」と言われたときに、腹痛はピークに達した。「もてないから」と答えたような気がする。タクシーで病院へ行こうと思い、「地下鉄だから」と言ってJRの改札まで送った。「また飲みたいです」と念を押されて別れたあと、八重洲の公衆トイレで胃の中のものを全部吐くと、すっかり楽になってしまったが、タクシーで家に帰った。
タクシーに乗っている最中、こんな風にして前の恋人は誰かに奪われたんだろうかという事を考えていた。
三ヶ月間セックスをしていなかったので、とにかく部下とセックスをしたくてたまらなくなった。次に誘われたら、そのとき腹痛が襲わなければ、セックスをしない自信がなかった。
あるSSRI(平たく言うと抗鬱薬)が認可されたばかりの時、丁度病んでいて処方された。
当時は「欝っぽい」程度の症状で、今考えればそんな薬飲まなくて全然よかったと思うが、ちょっと病んでる俺、に陶酔していた所もあるんだろう。
その薬を1錠飲み、しばらくした時、当時4階に住んでいたのだが「飛び降りたい」という衝動が抑えきれなくなり「これはヤバい」と布団にくるまってガタガタ怖くて震えた記憶がある。
ここで気になったのは「死にたい」ではなく「飛び降りたい」という気持ちしかなかった事だ。
さらには「死」に対しては「しにてえ」程度の冗談レベルでしか考えていなかった事もある。
あれは本当奇怪な経験だった。
そして飛び降りにて自死・精神科通院歴あり的な話を聞くたびに、それは死にたかったのだろうか、或いは、 なんて考えてしまう。
自殺はいけないことだという。目の前で誰かが自殺しようとしていたら止めようとする。それが友人や親類など知った人ならなおさらだ。
でも例えば、その人が「仕事もうまくいかない、お金もない、この先自分の力では生きていけない、頑張っていく気力もない、だから死ぬ」と言った場合、それでも止められるだろうか。たとえばその人が「死ぬのをやめればあなたが養ってくれるのか?」と言い出したらどうするか。それでも自殺を止めて、その人のその先の人生に責任を持てるだろうか。
そう考えると、人が死ぬのを押しとどめるのはとても無責任なことのように思えてくる。死なれるのは嫌。迷惑だ。場合によっては悲しい。でもその人の面倒は見きれない。自分でやれ。たいていの人はそういう考えだろうし、それは間違いではない。どうしようもない。でもやっぱり無責任だ。
そう考えて、それでもなお、自殺する人を説得できるだろうか。
ソースは残るかもしれないし後世に作品として残るかもしれないけど、
現世に対してなのはお金の問題。生命を維持できるかという問題。
お金にならないなくて生活できないなら自死を考えようかということ。
もう他の職も考えてないし、
小さいころからの原動力だった理想のゲーム制作を成し遂げたらもう終わりで良いかと思ってる。
活動資金が入ったら続けるよ。
自分はもっと若い世代だけど、同じようにゲーム作りに興味を持ち、
自作しては、完成が遅れて時代的に陳腐になってしまい、そのまま廃棄を繰り返してた。
ゲーム会社に就職もしたけど中心になる1割の人物になれず、残り9割の物量担当。
物量担当の多くは安くて、無知で弱者ゆえ従順で、ゲーム特有の特殊な仕様も早く覚える若い人材に入れ替えられる。
陳腐化した技術と一緒に古くなった人をどんどん使い捨てていく。
私はすっかりゲーム業界における旬は過ぎてしまったが、人間としての人生はまだまだ長い。
これからじっくり頑張って1本完成させて世に自分の存在価値を問おうと思う。
働いているとき言い分けにしていた、忙しいから自主制作に手が出せないというのも今はもう使えないしね。
その後は私も自死を考えなくてはならないと思ってる。
聞いたことがない若輩者だが、
話を楽しく聞かせてもらいました。
自死はやめてください。
重いよ、死なないで。
年相応の熟練した技術を、作るために磨いたはずなのに
磨いても磨いても肝心の作りたいものが見えないって苦しい状況を
ずっと続けてこられたのではないですか?
その結果、今どん底にあるのだろうけど、
Unityがちょっとしたゲームにはうざ過ぎると言った貴方だ。
確かな技術はそこにあるはず。
私は知ってるからその辺は何も言えないけど、
でもただただ技術が必要とされる案件は転がってる……オフショアの進撃がやばいけど。
就職活動は、その社風に合う/合わないという要素が大きな影響を持っている。と私は考えている。
大学ごとに枠を持っている会社は、特に重視していると聞きますし、たしかに社風もありますね。
比較的新興の、がんがん新規開拓をやっているようなメーカーはことごとく落とされて、
逆に、伝統だの歴史だのがあって、ニッチトップのB2B企業はあっさりと内々定を貰えた。
本人が気づかずに落ち続けていたなら、そりゃ辛いですよね。
保守と新興では企業キャラも求める人材も正反対。そのマッチングも大切ですよね。
実は、自分はあなたとは全く逆で、完全に叩き上げです。1社目は地元の小さな会社(同族経営ブラック)に就職しました。
小さな会社でしたが、個人成績で成功体験が得られたので、自信を糧に転職して3社目で上場企業に辿りつきました。
ところが、そこでは仕事を丸投げすることが善とされていて「こうして食品偽装も起こるんだな」と落胆したのと
自分が大きな組織に向いていなかったと悟り、また小回りの利く小さな会社へと移りました。
自分で言うのもアレですが、策略的な考え方を持っていたことと、メンタルが強かったのは大きいと思います。
あと、自分には選ぶ権利がなかった…という切羽詰まった事情も、このルートを開拓せざるを得ない理由のひとつでした。
今ではもう、そんなガッツはありませんが、その頃は競争意識とハングリー精神がありました。
こうしたルートは、自死を選ぶ就活生にとっては邪道であり無き道とされているんでしょうね。
そうですね。採りたいと思える人がいたら、枠も増えると思います。
その「良い人」が多人数いたら比較検討になってしまいますが…。
あなたと話していて気づいたんですが、この問題の背景には、世代間のコミュニケーション不足もありそうですね。
以前、西原理恵子さんがいじめられっ子に「図太く生きよう」と伝えていましたが、体験談から知恵を学ぶ経験も減ってる気がします。
自分の頃は戦後復興や成金がそうでしたが、線路を脱線した苦労体験は、今じゃDQN扱いされて追いやられているようです。
「就活乗り越える=一生安泰」ではないし、正規ルートが必ずしも正しくない。
今生きてるやつはまた明日も生きてる。とりあえず寿命まではな。それだけのこと。
生なんか、惰性だよ。自分の意志の力で心臓動かそうとして動かして生きてる奴でもいれば別だけど
だいたい、この瞬間だけでも何十億もウジャウジャ生きてる人間の生なんてもんに、
あとさ、
人生を辞めたい。この命に終わりを与えたい。と。
すると君は言う。
その「君」とやらの言うこと聞かなきゃいけない理由は何?
ほんとに死にたきゃ誰が何言おうがとっとと死ねばいいだろ。
いやいや、心の歪みとか将来の犯罪者率とかそういうんじゃなくて。
むしろ病んじゃうのは圧倒的に被害者。いじめられっことかいじめっことかなんかソフトな言い方はたくさんありますけど加害者と被害者ですよ。
加害者は別に歪んでないんですよ。世間的に肯定されるのは、なんだかんだ言ってあっち側の人たちじゃないかな。
だってね、偶然なの全部。いじめが蔓延るのは悲しいかな必然としても、加害者と被害者の境目ってほんと曖昧。
男子事情はちょっと分からないけど、女子なんて立場逆転は一日あれば済みます。
容姿が整ってて目立つ子と仲が良かったとか、からかわれる原因を持っていたとか、全部たまたま。
誰が決めたわけでもないの。自分で選んだわけでもないの。
偶然自分がその歳でそういう人間になっていて、偶然そのクラスや職場に入って、色々な要因が重なって発症した暴力の被害者になっただけ。
悪いとか悪くないとかの話じゃないんですよ最早。
「いじめられる方にも原因はある」とかドヤ顔して言ってる場合じゃないって。原因と責任は違うって。
で、集団にしこたま迫害された人間がどうなるかっていうと、人間が怖くなります。自分自身も含めて。
心因的な病気になったり引き篭もる反応のが正常だと思う。健全かどうかはさておきね。
自殺もね。見えないし、将来。自分以外の人間は全部自分を笑ってる貶めてる蔑んでるとか思うし。
身体ばっか大きくなって、親は信頼できないけど大事だから負担はかけたくないし、てゆーかもう起きるの無理、みたいな。
夜になって目を閉じるたびこのまま目覚めなかったらいーのになって。
自殺は後処理があるから嫌だな、存在そのもの消してくれないかな、とか。
そこで屋上とか昇っちゃったらもうね。首吊り縄とかふざけて作ったはずなのに、あれって。
一瞬じゃね?痛いのは。今までの方がよっぽど痛かったよなって。思っちゃったらたぶんもうだめ。
周りに相談があったら、とか学校側の対応は、とかそんな話じゃないんだよ。
「そうなるしかなかった」の。死んでみようかな、って考えちゃった瞬間から。
自殺だの自死だのこれまたソフトな名称出ちゃってますけど、いってみれば殺人ですからねアレ。
殺人者だよ殺人者。憎しみだけで呼吸するの。もう酸素なんて届いてないから。
今回の本題は、この憎しみが自分ではなく加害者に向けられた場合。
ようやっと話題になってきましたけど、報道番組観るたびいつも不思議だったのね。
加害者が被害者になる可能性もあるんですよって教えないのかなって。
憎しみとか恨みがあるわけですよ、人を殺すほどの。被害者がターゲットを偶然自分に選んだだけの話。
考えないの?
例えば小学校で熾烈な虐めにあったとする。どんどんエスカレートしていって、中学に上がるころには不登校。
高校通信行ってみたはいいけどモチベーション全然上がらないから勉強できないしそもそもコミュニケーションってなに?
親の定年なんてあっという間で、もしかしたら揃って事故死とか病気あって多額の医療費、も可能性はある。
で、なんやかんや一人ぼっち。食費なんてとっくに尽きたし光熱費もろくに払えないから寒い暗闇で包まる。
なんでこんなことに。どうしてだ。いつからだ。原因はどこだ。誰だ。
失うものは何も無いって気付かれたらそこで終わり。個人情報の溢れかえった現代で加害者のお勤め先なんて簡単に調べられちゃう。
もしかしたら自宅も分かっちゃうかも。加害者になる人は想像力が欠如してるので、そのまま成長してたら付近の写真とかバンバン掲載。
見渡せば母の遺した包丁が。指を切ってみる。血は流れる。
相手の血を見てからでも死ぬのは遅くない。汚い靴を履いて何ヶ月かぶりに外に出る。
極端な例ですけど、こういう話があっても何もおかしくはない。
悲しい事件はなくしたいよね、ひとつでも多くね。
「普通」に生きてるから「普通」から外れたものに対しては「何でこれができないの?」とくる
「どうして結婚しないの?」
「どうして整形しないの?」
「まだフリーター続けてるの?」
「まだ内定貰えないの?」
「どうしてこんな簡単な問題を解けないの?」
「ダイエットしないの?」
「まだ子どもいないの?」
「どうして病院行かないの?」
「どうして治らないの?」
「どうして増毛しないの?」
「どうして流行遅れの服着てるの?」
「どうして車の免許持たないの?」
「普通」のことが出来ないと「努力不足」「能力不足」と容赦無く見下されるし、「普通」の人達の見下しに耐えられなくなった人は
通常「普通」に見える人でも「普通でない」ところは一個や二個持っているものだけど、自分よりパーフェクトに「普通」を維持できている人に言われると言い返せる言葉が無くて息を飲み込む
そのパーフェクトな「普通」を維持する為にどれほどの「能力」や「努力」がいるのか知っているだけに
「普通」という能力でその人と比べて「劣っている」増田が言い返せることは何も無い
「劣っている者は見下され潰されても仕方ないんだろうか?」きっとそうなんだろうな
「劣っている」事はそれだけで優れている人に不快感と迷惑をかける うわぁぁぁ 生まれてきてごめんなさい 生きていてごめんなさい
存在自体がごめんなさい(なんちゃって、代わりに「優越感」与えてあげてるんだから生きていてもいいよね?生きているだけで周囲に迷惑をかけていると罪を感じるような若さはとうの昔に喪った。代わりにふてぶてしさが産声をあげた)
暗黙の内に人が心に隠し持つ喜びに饗されるってことなんだろう 悪気無く発する言葉の裏側に秘められた愉悦を言われた側はゲスパー
言った側の楽しさもゲスパー
増田もそうだ
努力してももっと「普通」という能力について優れている人に見下されるのは仕方ない
これが「原罪」か
とそこまで今朝自分より優れた人に同調圧力を受けて心乱れながら増田書いていてやっと気づいたことがある
ネットの炎上で自分より社会的な地位が高い人のアラを探して引き落とそうとする人々の事だ
「普通」という能力で劣る事を見下され続け、しかも努力しても世間的に認められる「普通」の能力のレベルに達せない
、心魂込める物や大事な人を持っていないネットに追いやられた人達が見下した人にリベンジする方法って他人のアラを探して立場を貶める他
無いんだという事を
ネット以外の社会では見下され続けた人々の苦しみ痛み悩みは「負け犬の泣き言」ということで黙殺されがちだから
何でこんな簡単なループに今まで気づかなかったかな どうしてネットは中傷で満ち溢れているから他人を汚い言葉をつぶやく人たちは