はてなキーワード: 矯正とは
日本人が風呂に入るときに、手拭を持つてすぐ風呂の中に入つて、中でごしごしこするというような習慣などは、私どもは自分は風呂の中に手拭を持つて入つて、手拭でごしごしこすつたというようなことはないが、そういうことを一つ矯正して日本人のこういう悪習を直したいと思うことが随分ある。殊に宿屋などにおきまして、一緒に混浴しておりますときには特にそれを感じますが、併し自分は風呂の中で手拭を使わんから、お前も使うなということは、のどまで出ておつてもいえない。こういうことが常に私は多くあつたのでありますが、そういうことも一つ厚生委員の皆さんにおかせられましても、同感であらうと思いますから、なんらかの方法によつて、こういうことも宣傳をして、日本國民はただ風呂の中では身体を暖めるだけで、洗うのはその外で洗う、そうして又中に入るというようなことにでもすると、非常に私は衞生思想の発展だと思つておるのであります。
日本で育てば全員そこそこ女性蔑視に育ってるから、過剰に自己卑下しなくて良いよ。日本の女の成長とは自己卑下せずに自信を持つこと、日本の男の成長とは自分を客観視して無根拠な自信を省みて他者を敬うようになることだから。
もちろん貴方が素敵な人物になることは大事ではあるんだが、相手に良く思われることと同じくらいマトモな人間を見抜けるようになることも大事だよ
日本男なんて自分を客観視できない幼稚でキモいのが大半だから、ブス男であればブス男であるほど、自分を棚上げしてアイドルと女の顔面を比較してるよ。
良い子だけど顔がなあ〜抜けねえなあ〜とか言って。
日本男の半分は短絡的で女の抱き心地と勃つかヤれるか楽しめるかしか考えてないから。
深く考えるだけ無駄。特に口数少ないコミュ障はバカの癖にプライドも高くてどう頑張っても育ちが悪いので矯正不可能
おすすめは対話ができる性格の良い素直な賢い子を探すことですね。そういう子は話し合ってるうちに女性を女としてだけではなく人間として観れるので。
そうだな…ただ美容整形まわりは歯とか霞むレベルの魔境(セラミック矯正周辺はその影響くさい気もする)なのが前提だから、そこと比べると何でもオッケーになっちゃう気がして分けて考えたくなっちゃいますわ
ちょっと調べただけでも、マトモそうな歯医者でもやたらいろんな派閥があって色んな見解が飛び交ってる上に、マトモじゃないとこだと歯全部破壊しますみたいな治療法でも平然と跋扈しててビビった。
以下はその一部なんだけど、細かいとこでは書ききれない内容もいっぱいあってマジで困る。歯科矯正してる人ってどうやって選んだんだ?
要は『歯を動かすために歯を抜くか抜かないか』という内容なんだけど、この選択が歯医者ごとに違いすぎて引く。結論から言うと、マトモな歯医者でやればどっちでも間違いって訳ではないらしい*1。逆にマトモじゃない歯医者だと非抜歯でいけたはずの健康な歯を無駄に抜かれたり、無理やり非抜歯で並べて前歯て歯茎が後退して歯の健康が損なわれたりするらしい。
ただ調べた限り、『絶対非抜歯!』とか『非抜歯とかあり得ん!』とかいう極端な思想を持ってない限り、どの歯医者でもそれなりによくカウンセリングしてくれて最善を尽くしてくれるらしいので(?)めちゃくちゃ心配しすぎる項目でもないのかも。
(でも冷静に考えると抜いたり抜かなかったりの判断が、自分の症状からじゃなくて矯正歯科ガチャで出てきた歯医者の好みによって大幅に左右されるの草すぎでしょ)
*1 このへんの経緯についてはこの動画がわかりやすかった(ただ投稿者は非抜歯矯正研究の専門書を書いている人なのでそこのバイアスは意識されたい)
前述のものほどわかりやすい違いがあるわけではないが、なんか流派みたいなのがいっぱいある。
上記以外にも
相反してなくてもそもそもインビザライン等の未承認マウスピースをはじめ、インプラントでの牽引とかコルチコトミーとかMSEとかMFTとか...etcは各医者でカバーしてたりしてなかったりして、全然同じ視点から比較できなかったりする。
なんというかこう……ある程度統一的な見解とか……ないんですかね……???
素人にも判断できる基準を見つけようにも、例えばあるvTuberのMSE矯正体験記とかみてると上顎にボルトで打ち込んだ矯正器具が想定外に外れたのに滅茶苦茶雑な対応をされてたり、最新の器具を使える技術があるからといってマトモな医師とは限らんらしい。ムズすぎでしょ。
調べてて一番ビビったのが『セラミック矯正』。名前だけ聞くと「目立ちにくくてつよい矯正器具なのかな」程度にしか思ってなかったが
『ずらしたい歯を全部削って細い支柱だけみたいな形にしてその上に陶器のかぶせものをつけて見た目上の位置を移動させる』
とかいう方法らしい。言葉だとイメージしづらいが実際の施工写真はこんな感じ。これもう半分成れ果てだろ.......。
整えるとかいうレベルを超えて歯を削りまくるので早々に歯や歯茎がダメになるリスクが高まったり、10年くらいでかぶせものの寿命が来るのでその時また削る必要が出たりするらしい。
こんなデメリットだらけの手法が生き生きと普及してるのには当然理由があって、とにかく「早い」からみたい。
確かに、見た目が超重要な芸能人とかは時間と引き換えに、文字通り命を削ってでも得なければいけないものもあるだろうからしゃーないんだろうけど、GoogleMapの評価とか見てるとセラミック矯正メインの歯科に数百件の嬉々とした★5レビューがついたりしてて、とりあえずビビる。
某美容外科の紹介動画ではもちろんそんなリスクの話は出てこないし、明らかにそんなシビアな視線に晒されてない人もポンポンやってるんじゃないかと思うと、完全なお節介でしかないんだけど、なんというか辛くね?という感想を禁じえなかった。
とか、煽りめに書いたけど正直困り果ててるってわけでもなくて、まあそれなりに良さそうなとこを沢山まわって良さそうなとこを選べば最悪の事態にはならんやろ、という楽観的な気持ちでいる。
とはいえ『なんで100万払って一生引きずるガチャ引かされなあかんねん』という怒りの気持ちはまあまああるので、歯科医療に関わる人間は全員猛省しろどうにか改善していってほしいなと切実に思った。
実際、現状周れた矯正歯科だけでも『よくある狭い感じなんで上下2本ずつ抜くのが最善っぽい』『特殊なんで上の歯1本の非対称な抜歯が最善っぽい』『拡大・後方牽引して非抜歯で行くのが最善っぽい』(精密検査前で確定ではないので"ぽい"と表現)と意見が分かれまくっており、端的に言ってなんじゃこの業界という気持ちも強まっている。
いいアドバイスあれば教えてほしい。たのむ。
スペック紹介。
顔は下の上〜中の中。人によっては可愛いってたまに言ってくれる人が現れるぐらい。
婚活というか恋人探しを始めた理由は、このままじゃまじで一生独身なんじゃないかと思い始めたから。
大学の時は長く付き合ってる彼氏がいたけど高学年の時に別れた。就職して環境変わったら自然と新しく彼氏できるだろ、くらいの安直な気持ちでいたら職場の人間がほとんど恋人いる人ばっかりで少し焦った。あと女の子結構みんな可愛くて自分が特別目立ったり人気出たりすることは無いだろうという事もすぐ悟った。
当然職場で彼氏は出来ず、仕事以外の出会いもないので彼氏を作るには能動的な動きが必要だと考え始めた。そこで仕事少し慣れてきたかなくらいの時期にまずはマッチングアプリを始めてみた。
というより上から目線の意見で本当に申し訳ないけど、「だからアプリやってんだろうな…」みたいな男の子ばっかりで、正直自分が今まで好きになってきた様な所謂"普通の男の子"みたいな人が全然いなかった。
顔がかっこいい子は結構いて、でもそういう子は彼女作る気無かったり、職が安定してなかったり、日本語がちょっと危ういとか…そんな感じ。イケメン高学歴もたまにいるけどそういう人とは本当に美女じゃないとマッチしない。
Twitterとかでも散々言われてるけど、現代ではイケメン〜フツメンは美女と付き合うから、美女じゃない女は付き合えもしないフツメン以上を求めて、その下のちょっと癖ある男の子とか顔があんまりカッコ良くない人を好きになれないっていうのをすごい実感した。
自分だってアプリに頼らないと誰かに好かれたり告られたりアプローチされたりするイベント起きないし、自分の女としてのレベルって男の子だとこういう辺りなんだ…って自覚した。
そんな中でも自分の好み寄りの顔でまあまあ学歴高くて年収も良い人を1人選んで、一応付き合った。半年くらい付き合ってたけど、その人もやっぱり癖がある人で、そんなもん歴代彼女に矯正されておけよって部分が多かった。(すみません伝わってください…)てか、そういう部分があるから今まで長く彼女と続いた事無いんだろうな…みたいな。
その人との別れを契機にアプリじゃ結局自分が求めてるものは得られないと分かった。
ので、今度はもう少しガチで踏み込もうと思いライトな結婚相談所へ入会することにした。
結婚相談所
わたしが入ったところはマッチングアプリの堅いバージョンみたいな感じ。月15000円。男の人はもう少し高いのかも。入会して専用サイトで顔つきまたは顔なしプロフィールのみ、とかをずらーっと見て簡単なスペック見れて気になったらメッセージ送るみたいな。時々イベントとかも開催してくれて参加したければ別費用払って参加。担任みたいな人がついてくれてたまに1対1のお見合い話も持ってきてくれる時もある。
そこで感じたのはやっぱり圧倒的な顔面レベルの低さだった。サイトでプロフィールずらーっと見てても惹かれる顔はあんまいない。
イベント参加した時に、参加女性はこ綺麗な感じで比較的ペラペラ喋れるお姉さんが多かったけど、男性はうーんって感じのコミュ障ばっかり。
唯一の希望(?)が、わたしは結構学歴と年収を重視するタイプだったので顔なしプロフィールでええやんって思える人もまあまあいたことだった。
活動1ヶ月くらいで、3歳上の有名国立大卒の堅い仕事についてる人と会う事になって、顔もまあまあ好み寄り、話も全然できない訳じゃない、誠実そうな人だったので2回目のデートも行く事にした。でもやっぱりときめいたりきゅんきゅんしたり、そういうのは無い。雄っぽさが無い。その日の夜に電話で交際を申し込まれて、なんとなく保留にしてしまった。このスペックで、自分にすでにベタ惚れしてくれてる人を断ったら勿体無いんじゃないかと思った。
保留にしたまま3回か4回会ってるけど、会うたびに変な歩き方とか、ヨレヨレのポロシャツとかなんでそんな大きい鞄持ってくるの?とかペタっとした髪型とかわたしに気遣いしすぎるとことか、LINEがおじさん臭いとことか新しい発見が目についてちょっとイラッとしちゃう。
それでもこの人と結婚したら多分一生わたしのこと好きで居てくれるだろうし太っても老けても気にしなそうだし何でも言う事聞いてくれそうだし、
童貞っぽいから元カノの影に怯えてヘラッて泣くこともなさそうだし浮気絶対しないだろうし、
いろいろ自由に生きていけそうだなって思ってる。
だから多分この人と結婚する。男として色気感じたりした事ないし好きじゃないけど。ぼちぼち交際OKだそうかなあ…という感じです。
多分自分のスペックでは今後の人生において、かっこよくておしゃれでセクシーで話が面白くて、みたいな男の子とはもう付き合えないから。
妥協というか諦めというか。
イケメン男性医師と結婚することを学生時代は夢見てたけど、現実ちゃんと見れてきてます。
研修医終わる時点で恋人いないと結構本気で女医さんは独身コースになるっぽいので、早い段階で行動して自分のスペック理解できてよかったなと思ってます。
以上です。誤字脱字ありましたら申し訳ありません。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これは、男性の方が不安や心配事が少なく、お節介な干渉もされず自由に生きやすいというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから、自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
しばしば指摘される中高年男性の自分語りの下手さや、困りごとをうまく伝えられずかんしゃくを起こす傾向などは、彼らが自分の苦痛や不安を認識する能力を社会に破壊されているからでしょう。まして適切な言語化などできるわけがありません。
他にも色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。(道端は許されないと思うならハイキングや海釣りや森林浴を想定してください)
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから加害者である男と戦えるもんね」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。
この論法は「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、男性のセルフケア能力の低さは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって成長しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男同士で友人を作っても、それは楽しさや得意分野を分かち合うには向いていますが、弱みを見せ合い癒し合うことには向いていません。「今日はパーっと遊んで嫌なことは忘れちまおうぜ」のような会話がその典型です。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿げやすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性が被害者になる方が多いですが)」「腕力が強くて制止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、フェミニズムと弱者男性論は真っ向から対立しています。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
今までも男性差別については、男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは女から男への悲惨なセクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、男性差別の根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」という扱いは、信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係や恋愛や経済やジェンダーロール面の困難や、弱者男性の存在自体が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されている点に、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われることや、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」の一種ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。
男女平等に近づけることには合意されるとしても、男性も女性くらいに保護する方向と、女性も男性くらいに放任する方向では、目指すものは大きく変わるでしょう。
細かな調整が必要な問題ですから、今はまだ最終要求を問われてジャッジを受けるほど議論が深まっていません。
あくまで私の主観的な意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っているので、保護よりも放任、安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています。
人間に限らず生物が「男性的な物、強そうな物、醜い物」へ抱く警戒と嫌悪は途方もなく根深いので、男性もケアされる男女平等の実現可能性は絶望的であり、女性も雑に扱われる男女平等の方がまだ実現可能性があるだろうという予想のせいでもあります。
本エントリの書き方だと皆が保護される平等を求めているように見えるかもしれませんが、私個人はそれが実現しそうにないと絶望しているので、皆が放任される平等を目指した方がマシだと感じている、ということです。この絶望感をぬぐえるならぬぐっていただきたい。お前にサン(son)は救えるか!
【追記】
母親と妻、そして「女をあてがえ論」についても書きました。
『男性が母と妻にだけ弱さを晒そうとするのは、皆に原因があります(anond:20220909191646)』
たまーに聞かれるんだよね。これ。
結婚して10年以上経っても子供がいないから疑問に思われるのは仕方ない。
一言で言うなら「親の子育てを見てこりゃ無理だ、こんなのやりたくないって思った」…これに尽きる。
私は一般的なサラリーマン家庭に生まれた昭和末期生まれの一人っ子。
妊娠中に口蓋裂で生まれることがわかり、地獄の授乳と整形がスタート。
歯の矯正は保険が効かないものも多くめちゃめちゃ医療費がかかる。口腔外科に百万単位で課金する。
更にアトピー性皮膚炎を発症。成人になっても治らず現在デュピクセントでなんとか生存しているレベル。皮膚科に延々と課金する人生になる。
加えて鼠径ヘルニア及び脊柱側弯症を発症。整形外科のお世話になる。
こんな弱っちい人間を社会人にするにはそれなりに学歴をつけてやらねばという親の思いやりで幼児教室に入れられる。虚弱体質なのでスパルタにならない程度の教育を施すためSAPIXほどではないが塾に課金して大学まで通わせる。
幼児期はミルクが飲めないのでチューブを喉の奥に突っ込んで飲ませる。なかなか体重が増えず疲れ果ててノイローゼになる。その当時の母親の手記を読んだことがある。
几帳面に授乳量などをかいてあるのだが「つらい、死にたい、なんでこんな子を授かったのか」と言う愚痴が定期的に現れていた。
手術をして口でご飯を食べられるようになっても母親の苦労は続く。
勉強は英語は中学まで教えていたし、病気のケアも甲斐甲斐しく薬を塗ったり通院に付き添ったりした。
塾の送り迎えも毎日で、学校帰りに塾の道具を持って最寄り駅まで来ていた。
高校生くらいになると自分で塾に通うようになりようやく手は離れてきたが、その頃の母親はもう50歳だった。
ここまで父親がほぼ出てこないが、父親は湯水のように金を使う私の医療費と教育費を稼ぐために銀行員として朝から晩まで働いていた。
あまりに家にいないので父親に何かをしてもらったエピソードは語れない。ただ、お金はたくさんかけてもらったのだろう。毎年夏休みには海外旅行に連れて行ってもらったので。
こんなに手と金をかけてもらって育ったので、母親がこなした山のようなタスクを見ると「何これこんな仕事やりたくない」となるのだ。
私は私の母親のようなタスクをこなす自信は全くない。よって子育てというタスクは自分には全く無理なものだと判断したので、「親の子育てを見てこりゃ無理だ、こんなのやりたくないって思った」という答えにたどり着くんだ。
という自分語りでした。おわり。
例えば、「左手は穢れているから、右利きに矯正する」という教義の宗教、「世界平和統一右利き連合」があったとして。
しかし「宗教の外」つまり宗教に関わってないすべての人に対して右利き矯正を始めたらどうなるだろうか?
とある県に議員を送り込み「県民右利き条例」を作ろうとする行為をあなたは許せるか?
その県に信者を大量に住まわせ、「条例制定の住民投票」で有利になるよう仕向ける行為は許せるか?
条例制定のためにその他の議員に合法的な献金を行って言う事をきかせようとしたらあなたは許せるか?
コンサルタント企業を作り新人研修のアウトソーシング業を始め、条例制定前から新入社員に対して「右利き矯正」を始めたりしたら、あなたは許せるか?
女に詳しいなんてキメー!!キャッキャッ
ていう感覚は中学生時代くらいに培われるんだろうから、その時代に教育なり矯正しないと大人になっても、女に詳しいなんてキメー!!ていう成人男性が出来上がってしまうと思うと深刻だ
懲役もそろそろアプデして良い気がすると思ってググってみたけど
『刑罰には、「罪を犯せばこんな苦しい目に遭う」と国民を威嚇し、犯行を思いとどまらせる機能(一次予防)と、受刑者本人に反省の意識を芽生えさせ、二度と犯罪をおかす気にさせない目的(二次予防)とが あります。刑罰は本質的に苦痛であるとしても、次のような制限があります。
1 人の人格を否定するような無残なものではあってはならない。(憲法 36 条 拷問及び残虐刑の禁止)
2 懲役を受ける人にとって将来役立つような矯正処遇でなければならない。』引用元 https://library.city.tokyo-nakano.lg.jp/lib/files/higashipath201210.pdf
と出てきて!?!!となった
そりゃ憲法で拷問おっけ〜なんてするのはアレとしても、加害者が被害者に対して人格を否定するような無残なことをしていたとしても…なんていうか結果としてそれなりに加害者が守られる立場になってしまうの納得できんというか…なぜ…なんかもっとこう…どうにかならんのか…
25歳女。大学卒業と共に上京し、一年と経たないうちに付き合った男が転がり込んできてはや2年以上たつ。
その間に私は2回ほど転職し、現在手取り22〜25万ぐらいのところに腰を落ち着けている。
そこから私の個人経費として奨学金や矯正のローンで約5万、食費4万、女として生きる費用2万、その他医療費や交通費交際費に3万
残った数万円は貯金している
私が無職の時は10万ほど家計に入れてもらったし、彼氏が無職の時は私が全額助けていた(後程お互い返済した)
食費が別れているのは毎日ほぼ夜勤の彼氏と在宅の私の生活が合わないためである
自分のためならするが、彼氏のための料理はその分の食費計算など負担もかかるし皿洗いも増えるためあまり気が進まない。
作っても次の日の私の昼ごはんになることが多い。
それまでにローンは払い終えているのとボーナス含めて100万以上は貯金できているはずなので、東京にアクセスしやすく家賃も安くて広い部屋に引越したい
結婚は全く考えていない。彼氏のことは好きだが、引越しできたら別れてもいい。
このまま慎ましく生きていきたらいいと思っているが、30歳までには手取り30万になれていたらもっと生活に余裕が出るのでそれを目指している
・発達障害やアスペルガーは人間の新しい形式であるということを周知する。
・近年の「発達障害」という概念の広まりは発達障害者を救うものではなく、社会における差別やレッテル張りを加速させるものにしかなっていなかった。
・診断がつくようになり本人の困りに説明が付く、のではなく、社会による忌避の手段に「あいつは発達障害だから、アスペだから」というレッテル張りが追加された。
・発達障害と言う用語を、特に「障害」を、別の意味に取り換えることを議論する。(現状、この記事では以後も発達障害としておく)
・定型発達と言う用語については、「定型」妄想障害とすること。自分達の生活やコミュニケーションの方法が常に正常であるという広範な傲慢さは妄想の上にしか成り立っていないので。(以後、定型妄想障害とする。これは我々を取り巻く社会とほぼ≒であろう。)
・運動の先例として、CP者による「青い芝の会」による運動は大いに参考になる。無論、全てを教条的に引き継いだり無批判で参考にするものでは無いが、障害当事者の抵抗活動として大いに研究に値する物である。
・手足の自由が利かないCP者にとって、バス闘争は体一つで示せる、かつ命がけの抵抗活動だった。発達障害者は社会に浸透し定型妄想障害者の一方的なコミュニケーションバイアス、矯正、同一化に歯向かっていくことが同様の手段となるだろう。
・実力の抵抗も究極的に排除しない。発達障害手帳の効力が低く、交渉も拒まれるなら、役所のロビーを占拠しマスコミを呼び込みプロテストするなど。
・発達障害者、アスペルガー、境界知能者らは、定型妄想障害者の社会に盛んに乗り込むこと。何か特別な意気込みは不要。即ち、学校・職場・恋愛関係などあらゆる場所で発達障害者として社会に同化しないコミュニケーションを行う。
・発達障害者は、定型妄想障害者の支配する職場や学校などにおいて「挨拶や謝罪の形式といった社会的マナーや文化が備わってない」などと攻撃されてきた。では、定型妄想障害者の「正しい社会的マナーや文化」はどこから来たのか?
・今まで現れてきた色々な文化もマナーも、「新しく」「発達し」作られた瞬間が存在する。にも関わらず、現代の発達障害者らのコミュニケーションのみが問題視され、矯正対象とされるのは差別である。(そもそも、近代以前の社会では社会の一部領域を発達障害者が担っていた)
・一方で我々は科学などを否定することはない。我々はポルポトやルイセンコではないので、科学的手法を排除する必要はない。あくまで「科学」を自身の妄想に利用してきた社会を攻撃する。黒人が、白人の作った武器で植民地政府に抵抗するのと変わらない。
・医療機関などにおける発達障害の認定を、より明確な基準に置き換える。また、グレーゾーンや、引きこもり等潜在的な人々に対する救済策を講じさせる。
・投薬治療に疑問を持つ。社会に順応させられる手段としての投薬を拒否する。治療されるべきは定型妄想障害の社会であるという前提を持つ。
・障害者のみがコンサータやストラテラなどを飲まされるのではなく、水道や給食などに混ぜ込んで定型妄想障害にも平等に投与し、その異様な効力を自覚させる、などの手法も考えられる。
・社会への同化を目的とした「自助グループ」を拒否する。発達障害と見なされる児童への「療育」を拒否する。定型妄想障害社会への、「教育」による同化を拒否する。
・これらは現代の「インディアン寄宿舎」である。発達障害による文化(その創造)を一方的に奪う方策である。これを指摘する研究や書物は、ほとんどない。
・就職活動などにおいて受けさせられる「性格診断キット」「性格テスト」などに関し、近年では明確に発達障害者らを選別・排除する意向を隠さないものも存在する。これらを廃止させる。
・男女を問わず「カサンドラ症候群」などという定型妄想障害者の詐病を徹底的に糾弾すること。発達障害者とのコミュニケーションにのみ「症候群」を発生させるのは傲慢な差別であるということを周知させる。
・フェミニズムやあるいはマッチョイズムといった物は、当運動では関係しない。また運動に取り込むべきではない。これらは発達障害者を敵と見なしてきたものである。
・前述の「青い芝の会」で例えるならば、フェミニズム運動は優性運動に加担し障害者をまさに先天的に排除しようとしていた。現代ではフェミニズムは定型妄想障害に加担している。
・このマニフェストが究極的に目指すところは、定型妄想障害者の社会を発達障害者が完全に塗り替えることである(前述したが、発達障害という言葉はその時には別の言葉に変わっているだろう)。
・硬直化した社会は消滅し、発達障害者によるイノベーションが日々行われる。コミュニケーションの形式は軛から放たれ、自然な発達と自身の自由な表現、他者との健全な切磋琢磨が初めて実現する。
・政党政治は消滅する。早期にインターネット回線による直接民主制政治に切り替えられる。
・海外にも発達障害の抵抗を伝播させる。(定型妄想障害に捉われている確率が低い、各国の障害者団体や先住民社会との連帯などが考えられる。)
これは自分の心境の整理のために書くものであって、誰かに読ませるためのものではないことをあらかじめ記載しておく。
男の子の遊びが好きで、運動が嫌いだから外遊びこそしなかったけれど休み時間は女子よりは男子とつるんでいた。
家族から「女の子なんだから」「いつか将来彼氏ができたとき」「その服かわいいね」と言われるたび違和感があった。
それで、「性同一性障害」と――少なくとも当時はそう教えられた――呼ばれる概念を知ったのが小学校5年生の秋頃。性同一性障害という単語を知って数日後に、突然自分がそれに当てはまることに気が付いた。
気付いたときは混乱した。今まで自分は女として分類されていたし、身体が女なんだからそれを疑いようがなかった。だから赤いランドセルを大事にしていたし、シナモロールの筆箱を黙って使っていたし、将来の夢は幼稚園の先生だった。体育の着替えも使用するトイレも、女子たちと一緒でも何も思わなかった。
今なら自分の持ち物は親が買ってきたものなんだから選択の自由なんてはなから無かったと言えるし、小学生の言う将来の夢なんて知っている職業から無理やり捻りだしているに過ぎないとわかるし、身体が女なら周囲の人間や自分自身の安全のために女子更衣室や女子トイレを利用するほかないことぐらいは当然理解できるのだが、小学生の自分は「男か、女か」という固定概念に囚われ、自分の在り方が大いに矛盾したもののように感じられた。
その日学校から自宅に帰ってきて、初めてうちの母に「俺」という一人称を使ってみたいと言った。母は怒り狂った。そんなはしたない言動をしていいわけがないだろう、痛々しい。女の子なんだから俺なんて言葉を使っちゃいけません。テンプレみたいな行動だった。
母はパソコンで「俺っていう一人称使う女イタいよね」みたいなスレのまとめまで引っ張り出してきて、「ね?みんな気持ち悪がってるからやめなさい」と言い出した。「中二病乙って感じ」「マジで気持ち悪い」「(暗黒微笑)とか使ってそう」みたいなレスならまだよかったが、中には「僕っ娘かわいい彼女にしたい」とか「ぶち犯して女であることを理解させたい」のような性的な物まで混ざっていた。多分母も頭に血が昇っていて内容まで細かく精査する余裕はなかったのだろうが、だとしても小学生に読ませる内容ではない。まして自分の性別の違和感に気づき、勇気を出して親に打ち明けた小学生に読ませる内容では絶対にない。……と今なら反論できるだろう。繰り返すようだが当時小学生である。心理的に非常にショックを受けたが、それを言語化できない。
母も修羅場だったんだろうなと思う。私が早めの中二病を発症して、このまま矯正しなければどんどん品性の無い振る舞いを覚えるようになるのではと危惧したのだろう。こちらの心理を勝手に決めつけて行動さえしなければ正しい教育方針だったんじゃないだろうか。結果的に大惨事が起きてるけど。この出来事は親への信頼を損なった思い出として大いに心に残り、このことを父親に言えたのは今年の7月に入ってからだ。
それから中学校・高校と、友人の前では男として行動し、先生や家族の前では女として行動する生活が続いた。当然友達はいなかったが、そもそも友達と一緒に遊ぶよりは一人で過ごす方が好きだったので大した問題は無かった。精々中学校で変わった奴認定されてひそひそ陰口を叩かれたぐらいだ。それなりの偏差値の高校に行けば止まった。
今通っている大学では、自分の身に降りかかるありとあらゆる出来事にある程度妥協ができるようになったつもりなので女として過ごしている。就職したら準備が整い次第すぐ母親から離れて、私生活では男として過ごすつもりだ(就職活動を女としてやってしまったので就職先ではどうなるかわからないが……)。
まあ妥協できたつもりになっているのはあくまで「つもり」でしかないので、未だに自分の性別がどちらかわからなくなるし、女として振る舞いたくなる時も稀にある。だけど基本的に私の性別は男で、身体の性別が重要になる場面以外では男として扱われたい。いちいち説明するのもめんどくさいので、身なりを変えられるようになるまでは女として過ごしているだけだ。
結局何が言いたいのかわからなくなってしまった。誰かに読ませるための文章でないことは冒頭に記述した通りだが、こんな怪文書を最後まで読んでくれた根気のある人に強いて何か伝えるとするなら、何も言わず普通に接すること以上の配慮はないということだ。個人的な意見だが、性的マイノリティに対して特別な配慮が必要なわけではないのだ。ただ、こっちがどんな一人称を使っても、どんな服を着ていても、突っ込まず昨日までと同じように普通に話してほしいだけ。内心でどう思っていようが、面と向かって馬鹿にされない限りはこちらも気にしない。「その服おかしくね?」とか「何その喋り方」なんていう問いは、自分で自分自身に向けて散々発しているのだ。今更他人に問われたくない。