はてなキーワード: 原理主義とは
もうこれから先、一生、死ぬまで、彼女どころか女友達すら出来ないのではないか。と思う。
何故なら俺は現在27歳まで童貞であり、ウェーイ系男子でもないし、高収入系男子でもないからだ。
例えばウェーイ系男子ならば、学生時代、厳密に言うと大学時代に培ったサークルスキル(あげぽよトーク力)を社会人対応型へチューンナップすることで、ある程度の年齢までは穴ゲットに事欠かないのだろう。
あるいは、高収入系男子は完璧超人タイプもしくはガリ勉三さんタイプのどちらかに別れるにせよ、
いずれにせよ絶対的な『金』の力によって女を屈服させることは容易であろう。
対して俺はどうか。
見た目:しょっぱいおっさん、中身:真面目が取り柄のつまらんおっさん、年収:雀の涙。
これで喰いつく物好きな女がいるだろうか?
いやもしかしたらいるのかも知れない。
けれど、その女が俺の好みのタイプで現在フリーで尚且つ俺と出会う可能性はどれくらいあるのだろうか?
可愛いくてしっかりしていて愛想が良い。
何かいける気がした。
けれど、やっぱりというか何というか、彼氏持ちだった。
そうなのだ。この年で出会うそれなりにクオリティの高い女性はもれなく予約済なのだ。
もうそれは絶対の理のごとく。
つまり、
①まず俺の好みで
②更にフリーで
ということを俺は主張したい。
俺はもう27年なんだよ。
6年前に初めて出来た彼女(現状最後の彼女)が別れ際言い放った言葉を教えてやろうか?
「人としては好きだけど、男としては違った」
だぜ?
つまり、実質27年、俺は女性に男として好かれた経験がないのだ。
そんなんでどうやって希望を持てと?
会う女性のほとんどが彼氏持ちで、たまにフリーな女はどこかしらおかしいし(見た目も中身も)、
俺は俺でやっぱりどこかおかしくて、女性からするとどうしても受け入れがたい何かを持っているのかななんてことを
考えながら、否定しながら、それでも、次こそはなんて根拠の無いポジティブさを発揮しながらも
そんな駄目な自分に酔いしれることで何とか今日まで生きてきたけど、
自分に酔いしれている俺みたいな野郎はやっぱりとことん気色悪いなと気付き始めてしまって
自分の心の置所を見失ってしまっているようなそんな今日このごろだから
もういっそ全部投げ出してしまおうかと思うこと自体も単に駄目な自分に酔っているだけであって
結論としては、悔しいけど行動原理主義者の言うとおり、とにかく出会いの場に顔を出すしかないと思う。
何度もろくでもない目に遭いながら。周りの奴らは別にそこまで惨めな思いをしなくても割と普通に恋人くらい出来た(運転免許証を手に入れるくらいの難易度で)
俺は人よりどっかおかしくて、普通にしてたら彼女どころか女友達すら出来ないような人望しかなくて、そういう人格の保有者だけれども
そんなクソキモ中年かまってちゃんでも愛せるよという奇特な女性を探す極めて困難な旅に繰り出すしかないという圧倒的絶望感を胸に抱きつつ、
もう少しだけ生きるんじゃよ。
フード左翼は「有機万歳」「遺伝子組み換えNo」「地産地消」「スローフード」で、
一方「フード右翼」はジャンクフード大好き、コンビニ弁当・ファーストフード大好き、
概念提唱者は「フード右翼/左翼は、リアルな政治志向の右翼/左翼に連動する」と考えてる。
「フード右翼は資本主義的・自由主義的」で、「フード左翼は自由主義の限界を主張」。
しかし今の日本の「右翼/左翼」に当て嵌めると、かなりおかしなことになる、と自分は思う
今の日本の右翼、特にネトウヨは、TPPに懐疑的だし、「中国の農作物は農薬まみれ」とディスる。
一方でネトウヨは、福島農産物を忌避するフード左翼を「放射脳ガー」と揶揄する。
となると、「メガ盛り大好き、激辛ジャンクフード大好き、遺伝子組み換え無問題」で、
かつ「中国農産物でも別にいいじゃん」と言う自分は、真正フード右翼だなあ
政府がフード右翼・左翼のどちらを「好ましい」と思っているか、実は省庁で分かれてる。
経済産業省はフード右翼主義。一方で国内農家保護が省是の農水省はフード左翼。
で、厚生労働省は多分フード左翼と思われる。(フード右翼の蔓延を許せば、成人病が増大するから)
自民党は元々はフード左翼政党。農家票目当て。→TPPの為にフード右翼政党へ変質
→しかし安倍氏の「お友達」はアメリカすら敵に回すのも厭わない排外主義者。再びフード左翼化?
(安倍のお友達って、「アメリカ食料メジャーの陰謀ガー」とか平気で口にしてそう)
湾岸タワマン居住の「空中移動族」な女性は、原理主義的なフード左翼は少ないイメージがある。
「合理的なら、外食中食冷食を多用する」フードリアリストなイメージ
「フード左翼は一種の道楽で、金と時間がある東京南西部の有閑マダムしかできない」説。
あの辺の有閑マダムは、自らのフード左翼ぶりを互いに「自慢」「競争」してる気がする。
だから極端に走りがちで、行き着く先はマクロビかホメオパシー。下手に金と時間があるから始末に負えない
東京南西部の有閑マダムにとって、「フード左翼」はステイタスシンボルなんだろうなあ。
科学は「あるべき」論を欲しない。それが求めるのはただ「である」の集大成であって、科学が科学者に「あるべき」姿を望んだことなぞ金輪際ない。「あるべき」姿を求める行為は常に人と社会の関わりの間でのみ起こりうる現象であり、すなわちそれを求めるのは科学でなくて社会なのであるからして、まるで科学そのものの原理として、「あるべき」姿のごとき、ともすれば宗教のタブー・律法のようなものが存在するかのような議論は、極めて非科学的と断ずる他ない。
ノバルティス社の臨床試験データ偽装は何が問題だったのか。言うまでもなく、効果の不確かな薬品をそうでないと偽って売り出そうとした商業的な詐欺の片棒をかついだことであり、すなわち社会的行為としての罪であって、決して科学として「あるべき」姿を犯したからでも、タブーを破って神の怒りを買ったからでもない。科学はいついかなるときもその「あるべき」姿を自ら求めることはなく、従って「あるべき」ように見える科学のあり方に反したことそのものが罪になることなどあり得ない。
論文の剽窃もまた、何故か当たり前の様に科学そのもののルールに反した行為のように語られているが、実際のところそれの何が問題であるのかと言うと、単に労働市場の競争原理にもとる行為であるからに他ならない。誰が誰を剽窃し功績を偽ろうと、それは科学の「である」ことの積み重ねそのものには何の直接的な影響もないし、それを利用するものにとって、正しい知識が誰から得られたものであるのかを気にする意味はない。ただ、金銭や名誉という社会的なインセンティブが人間としての科学者に間接的な影響をもたらすのみである。
不思議な現象は、科学哲学の立場からこれらの「あるべき」論を押しつける風潮のあることである。しかし、科学哲学は科学がどう「である」かを論じるものであって、科学がどうで「あるべき」かを論じるものではない。哲学に出来るのは、それが「科学と呼べるのかどうか」を「哲学の外」(主に科学の現場)から持って来た観察を元にすりあわせることだけであって、「哲学の中」で決まった「あるべき」論を元に「これは科学」「これは科学でない」と勝手に現場の事象を振り分ける様になってしまっては、宗教原理をもとにありとあらゆる森羅万象を解釈する妄信と何ら変わらなくなってしまう。
科学論文の不正、捏造が批判されるべきでないなどとは言わない。言うはずがない。しかし、このように本当のところ何が問題であるのかは社会的行為として誰が誰に罪を負うのかを個別の事例として見なければはっきりとは言いがたいものであって、それが「科学」であるが故に「いかなる瑕疵も許されない」、「たった一つの不正が信頼を揺るがす」などとヒステリックに騒ぐのは、ナイーブと言うか原理主義的と言うか、非常に危うい日本人の知的状況を浮き彫りにするだけのものに見える。科学をもって「信頼を損ねる」などと、信じるか信じないかの問題にしようとしてしまう勢力を前にして、「科学も所詮現代の宗教」とシニカルに眺めていれば良い状況とは、自分にはとても思えない。
理想主義的な、ある意味で原理主義的な科学観に支配されたナイーブな文系諸子(意外なことに、他分野の理系の方々にもいるようであるが)には想像もつかないことかも知れないが、理系という世界には、未だに共有不可能な個人の資質に依存した「職人肌」の世界が存在する。
宇宙やら地球やら、読んで字のごとく天地開闢から存在する”自然界”を観察して研究するだけが自然科学ではない。”自然界”には今まで存在しなかったモノを「作ってナンボ」の世界があるのだ。
誰も成功させたことのない難しい外科手術に果敢に挑んで成功させるスーパードクター、デバイスやソフトウェアを生み出し世界を革新的に変えてしまうスーパーハッカー、複雑な現象を説明するシンプルな物理法則をある日突然思いついてしまう理論物理学者。本当の意味での科学の”前進”は、地道な積み重ねもさることながら、こういう人たちの仕事があってこそのものである。
昨年のノーベル賞を受賞したヒッグス粒子の逸話をもう忘れてしまっただろうか。ヒッグス博士だけではない。ノーベル賞を受賞するような実績と言うものはおしなべてこの種の、天才の”奇想天外な思いつき”、”職人的な仕事”の賜物である。
無論「作ってナンボ」はなんでもかんでも思いつきで作ればそれで良いというわけではない。作った”モノ”が訳に立たねばならぬ。具体的に言えば、その”モノ”を叩き台にして、実用、研究、下世話な話では商売が将来的に渡って発展するかどうかにその評価はかかっている。
叩き台になるのは”モノ”である。もちろん知識の共有には言語化は欠かせない。しかし、結局使える”モノ”がなければ、論文だけいくら取り繕っても役には立たないし、逆に”モノ”さえあるなら、論文などと言うものはオマケの説明書のごときものにすぎない……それが、「作ってナンボ」の世界である。
原理原則で言えば、論文の誠実な執筆、厳密な論理によった世界観の構築は科学を支えるひとつの柱である。しかしながら、「”モノ”があるんだから、理屈がどうであろうとあるものはあるんだよ」と言う楽観的な自然体もまた、”自然”科学という理念の欠かせない骨子なのである。
その点で言って、現在のところSTAP細胞に関連して「将来的な展望」を本当の意味で否定するような話は、今のところ何も出ていない。もちろん”モノ”自体がやはり使えない代物である可能性は0ではないが、「論文が」「コピペが」などと言うような議論はまさに薮の周りを叩いているだけに過ぎない。
現在本当の意味で冷静に事態を見守っている人々の大半は、このような科学と言うものの素朴な実態を知っている。かといって「論文なんか屁の突っ張り」などと言うのもいささか乱暴に過ぎるので、今はあまり声も上げずに温和な進展を期待している。これこそが、実はナイーブな文系(一部理系)諸子の読めていない科学界の空気の実態である。
「ハッカーと画家」のポール・グレアムはハッカーに論文を書かせることの愚を語った。ついこの間(今さら、何故か)ネットの文系知識人界隈で流行っていた様に見えるこの著者のメッセージは、残念ながら、読者には伝わっていなかったようだ。
しかも「護憲」とは名ばかりで、自分たちの立場を守るためであればどんなデタラメでも平気で並べたてるじゃん。
護憲派ってのは改憲を議論すること自体違憲だとかそんな無茶まで主張するんですよ。
あるいは、内閣がその下部組織の決定を覆して憲法解釈を変えるのは立憲主義の否定だとまでいうんですよ。
それじゃなんのために改憲規定があるのかと。最高裁って何のためにあるのかと。あるいは、一票の格差は例えば現在は衆院2倍、参院5倍までは容認されているけれどこれは甘すぎた、というような解釈変更も立憲主義の否定なのかと。それこそ芦部憲法どころか小学校の教科書読めばわかることだろうに。
欧州や英連邦諸国では当たり前の「君主を元首と規定」することを民主主義の否定だというような連中が、別のところでは都合良く「大御心は護憲であるぞ」と皇族の政治利用をするくらい、今更なんだっていうんですか。
連中は最初からクズなんですよ。色んな宗教の原理主義者が経典を自分の都合の良いところだけつまみ食いしてるのと同じような憲法原理主義者なんですよ。
面白い話だな。
キレたのもキレられたのも経験あり。
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自分は36だけど
その話聞いててそれくらいでキレる?って思った。
まあ表情とか日頃の関係とかで変わるとは思うけどね。
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個人的には先輩後輩とか、あと年で目上目下って縦社会原理主義って好きじゃねーんだよな。
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終身雇用制もなくなって年上が後輩年下が先輩とかもあるわけじゃん?
あと年上だから結果を出せるとも限らんし、結果を出した人間が次も結果を出せるとも限らない。
あ、念の為に言っておくと年下だから結果を出せるとは言ってないよ。経験がモノを言うこともあるしね。
そういう身分的なものを作っちゃうと、図に乗るし、図に乗って下の意見は聞かない、もしくは意見を言うなどけしからん、とかその組織にとっても害悪なんだよな。
昔ならターゲットも現代みたいに複雑じゃなかったし終身雇用っていう信頼できる背景があった。しかし今はないし違う。
合ってないんだよ。
どっちが上下っていうのが仕事上必要なら年齢じゃなくて役職で決めればいい。
それでも奴隷じゃないんだから上なら何言ってもいい下なら何言ってもいいなんてのはナシ。もちろん年齢の上下でも。
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だから敬語に関しても「丁寧語」だけ残って、尊敬語謙譲語はなくなっていいと思う。
言いたい人は言えばいいけど、強制や押し付けはやめろと思う。
「丁寧語」を残した方がいいと思うのは、初対面では丁寧語を使うのがいいと思うから。
でも「丁寧語」ですら100年200年って経てばいらなくなるかもしれない。
http://www.youtube.com/watch?v=N8UC1RjSvMg
【三荻祥】報道されない名護市長選の実態[桜H26/2/12]
上動画を見た。見る前から大体、内容がどんなものか予想がついていたのだけれど、まあ「やっぱり」って感じ。要約すると:
1)名護市長選は、辺野古移設問題が「反日メディア」やサヨクの操作によって、戦争賛成か反対かにすり替えられた。
2)住民の七割は辺野古移設に賛成だと思われるのに、賛成派は反対派からの嫌がらせ等に苦しめられている。
3)マスメディアでは、辺野古移設反対という住民意思が反映されたと報道しているが、それは正しくない。
といったもの。
問題点を列挙しておく。
1)「反日メディア」とか「サヨク」って言葉を使ってそこで思考停止するのはやめよう。そうやってレッテル貼りをして対話の機会を逃しているのは自分たちじゃないのか。
2)今回の選挙戦が辺野古移設賛成/反対を問うものであったことは火を見るよりも明らかな事実だ。三荻祥氏の話には、それに対する客観的な反論根拠がない。住民全員から話を聞くくらいのルポ精神を持たずして安易に沖縄を代表するな、と言いたい。
3)もし「七割が賛成」であるならば、賛成派が反対派から「村八分」にされるわけがない。それは力学的に間違っているでしょう。そこを説得的に述べなければならない。
4)七割を超える投票率をほこった名護市長選において「選挙に民意がただしく反映されていない」と考えるならば、五割以下の投票率であった都知事選についてはどう考えるのか。田母神票もまたデマゴーグ票ではないのか?(違うと言うでしょうが、名護市長選を説明するときと同じ姿勢をもって接してください。あるいはその二つを説明する原理に齟齬がないようにしてください。無理でしょうけど)
上の諸論点が解決されない限り、私はご都合主義的だと思うし、あるいはダブルスタンダードを持った言説である、と思っている。「動画を見る前から大体の内容の予想がついてて、それを裏切らなかった」って最初に言ったけど、それってご都合主義的だからなんだよね。ようは、沖縄という現実を見ずに、国防や保守思想という空想と戯れているわけ。私たちは正しく思考するためには、現実主義的思考をつらぬかなければならない。自分たちにとって都合の悪い事実から目を背けて、逆に自分たちにとって都合の良い事実ばかりを強調するご都合主義的思考には注意をしなければならない。「現実を見る」ということは自分の思考が不意に裏切られる経験、つまり思いもよらなかったような新たな発見をするという経験ではなかろうか。そうした精神のないところには、私は頑迷な原理主義者や空想家の姿を見出さずにはいられないのである。
田母神氏は都知事選を終えて会見を開いた。田母神氏は「保守運動をこれからも盛り上げていきたいと思っている」と締めくくっていた。それを承けて、記者から「それはどのような保守政党になるのですか」と問われて、次のように答えている。
「日本の政治家はね親中派、中国派の政治家がいっぱいいますよね。それに対して保守派と言われる政治家がいる。でも、この保守派の大半というのはアメリカ派なんですね。アメリカの言う通りにしなきゃいかん、と。だから日本の政治状況は中国派とアメリカ派が喧嘩しているような政治状況なんですよね。で、日本には日本派の政治家なんてほとんどいないんですよ。で、よその国を見ればね、アメリカの政治家ってみんなアメリカ派なんですよ。イギリスはイギリス派、フランスはフランス派です。つまり、日本だけ日本派の政治家が大変少ない、という状況だと私は思うんですね。だから、日本派のたくさん集まった政党が出来ないと、日本を取り戻すことは出来ないと私は思いますね。」(http://www.youtube.com/watch?v=LwEMM349-SQ 45:00付近の発言)
もちろんこの記者会見の場は、「日本派」とは具体的にどのようなものであるのか、を打ち出す場所ではないので、こんな大雑把な説明になっているのは致し方ないとして、それでもなお「日本派」が一体何を指し示すのかサッパリ分からなかった。いや、感覚的に言わんとしていることは分かるんですよ。でもでもね、右翼にせよ左翼にせよ、「日本という国がよくなってほしい、日本国民が幸せになってほしい」という動機から行動しているんじゃないのか、って思うんですよ。そういう意味では政治家には基本的に日本派しかいないし、その日本派がどのようなものであるのかを解釈する点において異なっているんじゃないの、ってね。「あいつは親中派で日本のことを考えていない」なんて意見を聞くことは往々にしてあるけど「おまえが考える"日本"のことはかんがえてねーよ」っていう話に過ぎない。例えばですけど、アメリカと融和的である政治家はたしかにいますけど、それって段階論でしょ? つまり、究極的な理念においては肯定できなくとも、現時点においては仕方ない、と容認するような、ね。米軍基地を保守派が認めているのもそうじゃないか! もし田母神が親米じゃなくて「日本派」であるならば、米軍基地を日本から全て追い払わなければならない。「普天間基地移設問題」について石破がよくやるような偽善的態度、つまり「沖縄の皆様には本当に申し訳ないと思っているけれど…」なんていう、気色悪い芝居は一切やめて米軍基地を一掃してほしいね。三島由紀夫だって自決する際の檄文で「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」と言ってるよ。もし原理主義的な日本派が存在するならば、喫緊の課題である米軍基地問題を対処せよ、と私は声を大にして言いたい。(http://www.youtube.com/watch?v=ZgyRYLkGFVU こういう"親米派"と独善的人間がいる限りはね。この動画で話している人物は、「戦後レジームの脱却」をあらわすどころか、沖縄返還前への逆戻りを進んでいるぞ、と怒りを込めて言おう。 http://www.youtube.com/watch?v=7bi5ZZrG62g こっちの動画では「選挙に民意が反映されていない」等と言っている。投票率77%だよ、なに言ってんの、こいつ。沖縄を馬鹿にするんじゃない。 http://www.youtube.com/watch?v=4lwpRSMvL6Y ここでは水島氏が一人の漁師から話を聞いて、彼にあたかも名護市民の”ホンネ”を代表させようと、プロパガンダを企んでいるけれども、実際の選挙結果を見ると、いかに”偏向報道”であるのかがうかがえる。「日本派」はこういう不逞な輩を一掃するところから始めなければならない)
☆
それからもう一つ。「戦後レジーム」を脱却して、「真の日本」を取り戻そうという試みはじつによろしい。じゃあ、「真の日本」って何? そもそも「日本」が「真の日本」であった時代ってあるの? 具体的に何時代? あのね、そういったことを言うためにはやっぱり歴史を勉強しなければいけない。竹田ナントカみたいなトンデモはやめてくれよ。神武天皇が実在したかどうかなんていうバカみたいなハナシは聞きたくないんだよ。それは純粋に歴史的学問としては興味深いが(竹田が興味深いわけじゃないよ。念のため。)、今の日本を考える上では少なくとも参考になるものは少ないね。歴史を論じるならば、むしろ江戸時代とは何であったのか、明治と江戸の間にいかなる断絶/連続があったのか、っていうのを「日本派」の人びとには考えていただきたい。「日本派」の人びとは、日中戦争や第二次世界大戦を(陰謀論的に)語ることは大好きだ。で、それを説明するために、だいたい明治以降の歴史を考察するのはだいたい常道といってもよかろう(http://www.ganbare-nippon.net/official.html 例えば、この綱領を見ても明らかである)。でも、「明治」っていう時世自体そもそも薩長という田舎者にでっち上げられた「捏造品」だったことを忘れはいまいか? それに、江戸生まれの知識人達の身につけていた教養のたいていは、和文よりも、唐山仕立ての「漢籍」なわけですよ。ようは、きみたちの嫌いなシナこそが絶対的だったわけ。田母神氏がフランスの話を引き合いにだしていたから、ちょっとフランス語の事情から言ってみると、「歴史histoire」という言葉は同時に「物語histoire」でもある。お察しの通り、「ストーリーstory」という言葉も歴史historyからきている。「真の日本」っていう歴史的問題は、つまりストーリーの問題でもあるわけ。「天皇」だってストーリーの問題でしょ? で、ストーリーっていうのは、小説家や歴史家なら当然知っているように、始点と終点がすごく重要なんですよ。例えばフランス革命だってロベルピエール処刑を終点とした一定のストーリーをもとに語られることが多いけど、ナポレオンの時世までをフランス革命の物語として考えたら、少なくとも、ロベスピエールの立ち位置っていうのは少ならず変化する。「真のフランス革命」を探究しようとしたって、じつはそう簡単に出てくるものじゃないし、歴史をストーリー抜きに語ることの困難さっていうことは歴史家が身に染みて分かっていることだ。私は「真の日本」にも同じ問題を感じるよ。もしね、もしだよ? 「日本派」の人びとが、自分たちの語るストーリーだけが真実だって言い出したら? うん、それはカルトと呼ばれるもののはじまりです。だからね、私はカルトになんてなってほしくないわけですよ。「真の日本」なんてそう簡単に見つかるものではないんですよ。それは江戸時代の複雑な歴史をちょっと知っていれば分かるはずなんですよ。だから、戦後レジームとか、そういうカルト的言動は慎んで、とりあえず江戸時代に沈静して、マトモな日本人になってほしいな、と思うわけです。
☆
追記。ちなみに、「日本派」の原理性をここでは言いたかったのだけれども、そうした右派原理主義をおしすすめると結局左派原理主義ともつながってくる、ということを確認しておく必要がある。どっちも現実を見ずに理想に邁進してしまうから当然だよね。だから、アナーキズムとファシズムには融和性もあるのだし、石原莞爾みたいな人を一人考えてもそれは分かるでしょう。あるいは、三島だってそう。でもこの話は長くなるのでまた今度。
追記その2。「中国派とアメリカ派」っていうのは、行動原理の奥底に、「中国に利するように」等の陰謀をその人が持っている、と田母神氏は考えている、ということだろう。いわゆる「田母神論文」もそうだったけれども、思考法が基本的に「陰謀」に帰着するという単細胞ぶりには、思想が右であれ左であれ、注意しなければいけないと思う。「陰謀」で全て片づけてしまうと事象の繊細なニュアンスを捉え損ねるからだ。「チャンネル桜」では、サヨクという言葉で全ての悪を表象しているわけだけれども、こういうマニ教的二元論によって自らが思考停止しているということに気がつかなくては、ネトウヨ=新右翼のコミュニティを脱して「民意」を掴むまでにはほど遠いと言わざるを得ない。これは戦術上そうなのだ。
なるほど、いいかもね。
で、その政策を実行する人はどうやって選ぶんかね。
権力を行使する人物に、誰を選ぶかでこの国はすぐ地獄に変わるかもよ。
誰でもいいんか?エジプトを見てみ。
剛力彩芽がビブリア古書堂の事件手帖の主演をしたとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分はそこまで原作ファンでなかった。だからなにも行動にでなかった。次に剛力彩芽はプリキュア劇場版に出演した。自分はさらに不安を感じたが、TV版でなかったから何も行動にでなかった。
それから剛力彩芽は子供向けアニメ、深夜アニメにまでどんどん出演し、自分はそのたびにいつも不安を感じましたが、それでもなお行動にでることはなかった。それから剛力彩芽はプリキュアTV版にレギュラー出演した。自分はプリキュアTV版原理主義者であった。だからたって行動にでたが、そのときはすでにおそかった。
リンクはる気力すらない。
議論に疲れた。
それでいて議論した気でいるみたい。若いってすごいよ。
もうアラサーには無理ぽ。ゴールしちゃってもいいよね?
あいつなに甘ったれたこと言ってんの?童貞のクソガキがwwwwww
頭でっかちで原理主義で経験不足な中学生をどげんかせんといかんwwwwww.
んーーーー
まかせた!!俺はもう家に着く!
>私は遊びやらで快楽を求めてる延長で子供出来ちゃった的な流れで生産されていくプロセスに狂気を感じているわけ。
この一文からしてにじみ出る雰囲気がすごい。SK-Ⅱ使いすぎて気が狂った桃井かおりかと思ったわ。
子供って、気持ちいいSEXした結果できちゃったーってもんじゃねえよボケ。
ライフプランに沿って作らないと子供の人生に責任持て無いでしょ。
周りの女友達だと、29歳で結婚→31歳で出産(第一子)→35歳で出産(第二子)っていう流れが多い。
4歳差あると幼稚園やら受験やらの間隔がちょうどいいからね。こういうこと考えて作るわけ。
>どういう思考で子供つくろうなんて考えてるのやら。
4.人生って何のためにあるのか考えた結果、家族のためだという結論に至った。(俺個人ね)
夫婦で話し合い、子供を作っても大丈夫な貯蓄をしマンションを購入し周囲の幼稚園の状況等を調べてから作った。
気持ちいい!できちゃった!うもうZe!みたいなことはありえないわ。
>なにも素晴らしくないし、どいつもこいつもセックスの延長で生まれたわけ。
なんだお前がセックスに拒否感があるだけか。セックスが汚いものだ(なぜなら快楽を伴うから)っていう原理主義的な
考え方が気持ち悪い。お前ぜったい女子割礼とかすんなよ!!
子供のせいにしたら子供可愛そうだわ。お前の人生がひどいってだけで周りを恨むなよ。
>子孫繁栄でもなんでもいいけど生まれたくなかった側はどうなんですかね。勝手に生み出されて親に好きなようにさせられて。
>生まれた結果はもう既に殺人と同じように取り返しの付かないことなんだと思ったわけです。おわり。
お前個人の話を一般化すんじゃねえよボケ。全ての子供が生まれたくなかったといえるわけ無いだろう。だって俺生まれてよかったもん。
それに生まれる=殺人 そのこころは、取り返しがつかないからです。ってねずっちが助走をつけて殴るレベルの論理だぞ。。。
取り返しがつかなかったら殺人と同じなのか? じゃぁミルクをこぼしたのも殺人と一緒だな。っておかしいだろwwww
わかったのは、お前が自分の生まれに強い恨みを持っていてそれをこじらせてセックス=悪だと思っててなぜか他人の出産にまで目をつけた
ってことだ。
はてな村の住人は分析や論理を重んじる。重んじ過ぎている、とすら言える。
先日、昔投稿していた小説サイトを久しぶりに覗いて、過去の自分の作品を読んでみたのだが、技術の如何はさておき、小説としては今はてなで書いている自分の文章よりはるかに面白い。
当時は自分の小説がそんなに面白いものだとは考えていなかった。プロの書くものにはかなわないと思っていた。
歴史ものを書くときには史料にしっかりとあたるように心がけていたが、それ以外のジャンルを書くときには、感性の赴くまま、理性のたがを外すようにして、心の隙間から生まれ出てくるものをそのまま創作物にしている感覚だった。
それは謎を謎のままとして楽しんだり、不可解なものごとに理由を付けず、ただ気味の悪いものとしてそのまま恐れるような感覚を文章にしていたといっていい。
それに比べて最近の自分が書いている文章は、論理的で分析的かもしれないが無味乾燥だ。なぜこんなに心が乾いてしまっているのだろう。
2chやはてなで論争を繰り返し、理論武装するようになってからこうなってしまったように思う。
謎や不可解なものの裏側にある秘密を暴いて、構造を明確にしてゆくと、圧倒的なものに触れたときに生まれた表現への初期衝動は薄れていく。「セックスなんて所詮脳が生み出す電気信号のやりとりに過ぎない。脳の特定部位に電極を突き刺せば同等の快楽は得られる」などという、大脳生理学にかぶれた輩の物言いにも似た事態だ。
とはいえ、その物言いは、事実無根だと切り捨てられないのがもどかしい。たしかにセックスのときに人間が感じている感覚は、脳の反応を見ればただパルスが適当な部位にはしっているだけのことだろう。いや、そうではないのだ、といくら強弁したところで、科学的な根拠は提示できない。ネットの言い回しを使えば「ソースはない」ということになる。
学研の「ムー」という、オカルトの有名雑誌がある。どう読んでもネタとしか思えない。だがしかしひょっとしたら事実かもしれない。そんな虚実の入り混じった面白さを楽しむことが、かつての日本の言論状況では可能だった。しかし、はてな村以降の世界では、虚実の虚には完膚なきまでに論破され、挙句、あんな曖昧な雑誌はなくなってしまえばよい、という科学原理主義者の物言いが正当化される。
別に私もあんな雑誌がなくなっても日常生活に不都合はありはしない。しかし、日常を彩るエッセンスのひとつとして、タバコやコーヒーのように、害を知りつつもほどほどに付き合い、楽しむことが出来るものとして存在していてもいいのではないか、と思うだけだ。
都市伝説のひとつも存在しない、川口浩探検隊のような種類のエンターテインメントがまったくない世の中が、今よりも素晴らしいといえるのだろうか。
サブカルチャーの中で描かれる妖精や精霊は認めるのに、一方で、その源流たるアニミズム的な発想はくだらないオカルトとしてバッサリ切リ捨てるような状況には、矛盾したものを感じなくもない。
散漫になった。まとめると、創作に感動をもたらすのはうさんくさい「隙間」だ。隙間なくびっしりと埋められた世界からは、感動するものは出てこない。逆に言えば、感動は理由づけした時点で死に絶える。批評は重要だが、創作物には作者すら理性的には踏み込めない部分があり、そこは尊重する必要がある。
目に見えない可能性を潰して回っていると、人類の世界を見る目は皮相的な、浅いものになっていくばかりだ。何もファンタジーに限らない。全部理論的に何一つ矛盾なく説明できるSFは突飛さがなくつまらない科学読み物になってしまうし、予測不能の事態が起こらない歴史ものは教科書を読んでいるようであくびが出る。
この文章にも反論はあるだろう。論破しようとすればいくらでも出来るだろう。理屈と膏薬はどこへでもつくのだから。しかしひとつだけたしかなことは、隅から隅まですべてを認識し、理解し、分析しようとする態度は、感性を殺す。仕事のときならそれもいいだろう。仕事は感性と関係がない。しかし仕事と離れた場所で、つまりはてなブックマークや匿名ダイアリーで、仕事のように論理的な態度を崩さずにいることは、不健康だ。もっとはてな村は気楽になったほうがいい。クリエイティブな空間としてはてな村が再生されることを望む。
何であれ、拡散したものを元に戻すことはできない、特に文化の世界では。「覆水盆に返らず」だ。
乱暴な(ただのレスリングでしかない)「柔道」をやる外国人選手を見ると、多くの日本のマスコミ・識者・日本人たちは「こんなの柔道じゃない!柔道をやるなら、(もちろん日本人になる必要はないが)ちゃんと柔道の精神を理解・尊重したうえでやれ!」と不快に思いますね。しかし、だからといって「柔道やるなら日本人になれ!」と言っていることにはならない。
これと同じことです。
申し訳ないが、私は彼らが柔道をやることを特に不快には感じない。柔道を一旦外に持ち出したからには、彼らがそれをどのように解釈しようが自由だ。文化とはそういうものなのだから。
ゴータマ・シッダールタが、もし今の「仏教」や「寺」を見たら卒倒するかもしれないし、イエス・キリストがバチカンの司教たちを見たら「神の庭を汚す者どもが!」と怒り狂うかもしれない。そもそも「クリスマス」が始まったのは、イエスが死んで何百年も経ってからの話である。…だが、それは、それらがことごとく「偽物」でありそこに捧げられた全ての人の思いは全て「偽り」であるということを意味するのだろうか? そう考えるのが妥当であろうか? 私はそうは思わない。それは余りに狭量なものの考え方だと思う。
正当、正統にこだわる、いわば原理主義的なものの考え方は、物事が混乱する時期により確からしい指針を求める意味から人々にもてはやされるものではあるが、ある物事の出発点に「より純粋な原理を確立する」という発想が強く強くあったというのでない限り、結局のところ出発点の思いとはずれたものとならざるを得ない。原理主義は、しばしばその意に反して、「原理」とは異なるものに変質する。
たとえ石景山遊園地がどれほど見苦しく見えようが、親に連れられてそこで遊んで楽しかった子どもの思い出を否定する権利が誰にあるのだろう?
「あなたの遊んだ遊園地は偽物なのですよ!だってそれはディズニーに版権があるのですからね!!なんて見苦しい思い出なのかしら?1」
文化とは、今生きているもので、今を生きている人間のものである。生きている人間に本物も偽物もありはしない。まあ、この島国の人間が、自分たちのもたない、世界のどこかにある「ホンモノ」幻想を追い求めることで、千数百年間自国文化発展のモチベーションとしてきたことも事実であるし、その歴史を否定するつもりもないのではあるが。
弟「あんちゃん、何言ってんだよ」
弟「俺の好きなアスカは式波じゃなくて惣流。TV版と旧劇しか認めない」
『風立ちぬ』で堀越二郎の中の人を務めた中年男を口汚く罵り始める弟。
新劇は気に食わないようだ。
ユダヤ・キリスト教のネタ元を延々と説明された。弟にとってエヴァはバイブルなのだろう。
弟「設定がイデオンとクリソツなんだよ。特撮から借用したシーンも多々あってさぁ……」
1995年生まれ(早生まれ)の弟は、自分が生まれる前に製作された膨大なヲタアーカイブを一つひとつ観たという。
意外だったのは、ストーリーの矛盾点を指摘しても弟が怒らなかったことだ。
弟曰く、『ストーリーなんて犬に食わせておけばいい』らしい。
『風呂敷の畳み方は3つ。ちゃんと畳む。放置。引きちぎる』というヒゲもじゃ庵野の言葉を引き合いに出し、映像作品としてパンチが効いているのがエヴァの良いところだと弟は力説する。
そんな弟は、まどマギを『よくできた作品』と評していた。『ちゃんと伏線回収して、綺麗にまとまっているけど、幾分お行儀が良すぎて物足りない』と、謎の上メセで宣う。
下見て思った。
http://mizchi.hatenablog.com/entry/2013/09/25/190313
知識が離散して蓄積されてない気がする。
シングルページスタイルのJavaScriptWebアプリケーションのアーキテクチャ
JavaScriptMVCライブラリを利用するよ!
とりあえず今回は、乱立する名称候補たちを紹介
HTML5って言いたいだけのJavaScrtipt使ったスマホのアプリフレームワークとかも呼ばれたり。
HTML5とか言われる前にJavaScriptアプリケーションやるとこれになってた。
アーキテクチャとしては、もっとも正解の名前なのだが、NET系界隈でしかきかん。
ASP.NET MVC Single Page Applicationは、キー要素がかなり詰まってて、参考になる。
このあたりのやろうとしてる奴は一度触っておくが吉
JavaScriptMVCライブラリ、AMD等の依存モジュール管理とか
英語ソースだと結構ポピュラーな感じの名前だが、指針的な匂いでアプリケーションとは言わない感も。
日本でも一時期、大規模Javascript開発とか言われてたが、Bakcbone.jsって名前に変わった。
Node.jsと被るために、このアーキテクチャの説明にはあんまり使われない。
動物本の、
「ステートフルJavaScript MVCアーキテクチャに基づくWebアプリケーションの状態管理 」
原題は、「JavaScript Web Applications」
これだけで、どのぐらい困ったか分かる感じ。
ちなみに、JavascriptMVCアーキテクチャの解説本としてはありなので読むが吉
といっても、10年ぐらい前からXHRとHTMLとDOMでほげるのは
実はあんまり変わってない。
Java界隈から出したかっただけ。oracleが呼んでた気がする。
Struts死んだけど、JSFでやるの?JSF無理筋だから違うフレームワーク作るの。
JSFみたいな抽象化使い始めると、コボルみたいにJava世界に閉じそうだけど大丈夫なの?
このあたりのライブラリ使えば、簡単にこのスタイルのアプリ作れると思ってるでしょ?
ライブラリの名称なのだが、背負ってるものは、大体この界隈全て
だけど、使えば、この界隈のアプリが簡単に作れるかというと、そうでもない。
そういうことはあるかもしれんけど
その例に関してはあんたがおかしいと思う。
そんな簡単な話でもないし、暖かい話でもないだろ
いや、俺は同性愛者でも中絶支持派でもないし、キリスト教信者でもない。大半のブコメ民も違うと思うけど
現に思いっきり現在進行形で同性愛者やら中絶排除を法制化しようとしてるのがカトリックだろ?
別に法王がコメント出したから世界は良くなるのか。そういう話でもない
それを法王コメントやら解釈をいくら言っても、原理主義的に聖書信じてる連中の意見は変わらんだろ
そもそもキリスト教の中心は聖書なんだから。そこ否定するのはそもそもキリスト教の否定に繋がる
無論、原理主義者じゃない限り、聖書を一字一句生活と対応させてる奴なんていないけど
罪に関する思想なんて聖書のメインだし、そう簡単に変わるとはとても思えない
また新たな対立の火種になるなんて見えてるじゃん。
現法王は聖書と現実の乖離から欧米で信者が減ってることを憂慮してそういう発言だしたんだろうけど
結局政治バランスの話、宗教と人権思想のすり合わせであって、正義の執行でもなんでもなかろう。
手放しで喜ぶような話か?
そもそも、聖書の文言否定して、現実に人権守って行こうとしたら
キリスト教、というか大半の宗教なんて消滅する流れしかないでしょ。
そもそも、法で迫害されてるロシアとかの同性愛者がこの話聞いたとして、「新ローマ法王の優しさはすばらしい!」ってなってスタンディングオベーションか?
そうなるべきなのか?そうならなきゃおかしい?
「でも、今まで散々迫害しやがった連中の親玉だろ?」って複雑な思いがする奴も居るでしょ。
いや知らんけど、少なくとも居てもいいし、おかしくはない。
まあ、あんたがこれで暖かい気持ちになったらそれはそれで良しだし
もちろんこれ聞いて世界の新たな一歩を喜ぶマイノリティも世界には大勢いるんだろうけど
苦虫噛み潰したような思いをする奴だっている
それは「異常」なのか?
うんざりするような話?
そもそも「正しさ」なんてそこまで確たるものなのか?
まあ正しさなんて存在しないとか、倫理は無意味だとか、そんなこというつもりはないけど
少なくとも暫定的で近似的な話なわけじゃん。
そもそも同性愛者を罪だとしてきたものってバリバリその「正しさ」じゃん。
いろんな価値観が衝突して、その中で政治力とか人間の良心とかいろんな要素が組み合わさってなんとか合意にいたるものでしょ。
世界が「よい方向」に向かってるとき、、それを認めない連中は異常者なのか?
全会一致で可決しなきゃおかしい?
疑う奴が居るのもあざ笑う奴が居るのも嘆く奴が居るのも反対する奴が居るのも反対する奴を攻撃する奴が居るのも当然だろ
どうもあんたの方が偏狭で恐ろしく感じる。
http://anond.hatelabo.jp/20130826094522
近所にこの言葉が好きで
判断もこのタイプの人がいて
1・そもそも「歴史に学ぶ」をどう実践すれば「先入観判断しまくり」になるのか。
増田の隣人はその言葉の吹聴が好きかもしれないがその言葉を実践していると言えないようだ。
従ってその人の程度を見て言葉の価値を判断するのは適当でない。
2・「近所にこういう奴が1人いるからこの言葉が好きな人間はこういう奴だ」という増田の判断は
もう1つは経験を過大に評価する傾向を持つこと。
(つまり経験したことについて偏見を抱える、初めて会った黒人が嫌な奴なら「黒人はクズ」と断じるようになる)
■そもそもビスマルクはそんなこと言ってない
勝手に思い込むな
気づかないうちに学び実行しているだろう。
その「他人の失敗」の壮大な積み重ねが歴史であって
「他人の失敗」を文字通りの目の前で見て取れるレベルの他人の失敗として直訳すると
ビスマルクの発言は小さいスケールのノウハウやtipsレベル、
つまりはてなホッテントリのお仕事ライフハックレベルのことになってしまう。
そんなしょっぱい発言だったら現代まで残らない。
歴史から学んだ政治と軍事の原則通りに鉄と血によるドイツ統一を成し遂げたが
強硬派や原理主義ではなくいろんな思想や勢力と妥協して手を組める思考の自由さもあった。
彼の政敵は理想主義的ドイツ統一を掲げるだけで、しかもそれに固執し現実性を欠いたので敗れた。
近年半可通の馬鹿が「ビスマルクは他人の失敗から学べと言ったんだ!」なんて喚くのが散見されるが
発言の趣旨は「歴史からエッセンスを抽出せよ」「グランドデザイン・戦略を持て」ということである。
ただ、言葉を正しく理解してもなお、歴史から適切なエッセンスを抽出できるかは個人の才覚や器量や教養による面が大きい。